2015年12月25日金曜日

腹の映画3本

1.ピーター・グリーナウェイ『建築家の腹』(1987年)
ブライアン・デネヒーが好き、見事な腹。



2.テリー・ジョーンズ『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』(1983年)
食べ過ぎで腹が破裂する。


3.ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』(1973年)
リーガンの腹にHELP MEという文字が浮かび上がる。


2015年12月24日木曜日

ビリー・ワイルダー『お熱い夜をあなたに』

1972年、舞台はフランスだが(スタジオ・セットらしいが)、台詞はすべて英語。

花街、といっても飾り窓形式ではなく、街娼として売春婦がたむろしている通りに、ジャック・レモンが演じる新人の警官が配属される。

この通りでは、売春婦が稼いだ金をヒモが受け取り、酒を飲み、博打をしたり、警察に賄賂をして金がまわっていた。

純情であるジャック・レモンは、法律通りに取り締まりをし、客のなかには上司がいたこともあって、警察をすぐに首になってしまう。

そんな彼が売春婦たちのなかで気を引かれた女性がおり、それがシャーリー・マクレーン演じるイルマである。

イルマにもヒモがいたが、ジャック・レモンが張り倒し、その位置を取って代わる。

しかし、嫉妬心や倫理観から、愛する女性を売春で稼がせ、その金を受け取るという行為が我慢がならなくなる。

そこで、自分とイルマだけで金がまわる奇策を考えだすのだが・・・

アメリカだと、日本でもそうだが、売春窟というと組織が介在してくるものだが、この映画のフランスでは、売春婦とヒモとの個人契約といった形になっているのが面白い。

フランスが舞台になっている必然性がある。

またヒモになるのも、ある意味騎士道的な精神と能力が必要であり、イルマのヒモとの喧嘩に勝つことで、他のヒモたちにも認められ、一目置かれるようになる。

シャーリー・マクレーンをはじめていいと感じた、色っぽいというよりあだっぽい。



2015年12月21日月曜日

ペドロ・アルモドバル『ボルベール』

アルモドバル作品で私が見るのは三作目、『ボルベール』(2006年)を見てはじめていいな、と思った。

ペネロペ・クルスがどうも顔立ちとかたたずまいが好きではないので、大好きとまではいかないのだけれど。

話は叔母の葬式から始まり、働かない夫と娘がいるペネロペ・クロス一家へと移り、夫が血はつながっていないとはいえ、娘を襲い、はずみで娘が刺し殺してしまう、と急展開する。

そのことを告げられた母親(ペネロペ・クロス)が死体をどう処分するかといった話になると思いきや、大林宣彦の『異人たちとの夏』みたいな映画となるがそれも違っている。

フェリーニも飽きることなく「女の都」を描いたが、自身の投影であろうマストロヤンニ的な人物が必ず登場し、男性の欲望(懲罰を含めて)を離れることはなかった。

『ボルベール』にはそうした男性の欲望は欠けている。

欲望がないから罪も罰もない。

映画の後半で、ペネロペ・クロスと母親との間にあったわだかまり、隔絶の理由が語られ、それは驚きでもあれば、陳腐なものでもあるのだが、珍しいのはそれが映画をどんな方向に動かすでもなく、淡々と受け入れられることにある。

ここにある「女の都」は何事も包み込むだけのまったく無道徳な世界であり、先頃亡くなった野坂昭如の『骨餓身峠死人葛』の世界と似ている。




2015年12月19日土曜日

七へ八へへをこき井手の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ

『万載狂歌集』から大田南畝の狂歌を三首。

   はるのはじめに
くれ竹の世の人なみに松たてゝやぶれ障子を春は来にけり

   放屁百首歌の中に款冬
七へ八へへをこき井手の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ

   述懐
いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は

「七へ八へ」は『後拾遺和歌集』、雑五、中務卿兼明親王、 小倉の家に住んでいたとき、雨が降った日、蓑を借りにきた人があったので、山吹の枝を折って渡した。その心を問われて返事に曰く、といった詞書きがついて、
七重八重はなは咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき
とあるのからきている。

太田道灌でも似たエピソードが語られる。

『道灌』という落語のネタもある。

八五郎と隠居、自分の長屋に帰った八五郎と尋ねてきた男、と登場人物が少ないためか、前座噺とされている。

隠居に太田道灌のエピソードを聞いた八五郎は、山吹を渡した娘と同じことをしてみたいが(『青菜』などと同じく、真似をしようとして失敗する噺である)、尋ねてきた男は提灯が借りたいので、蓑を貸して欲しいわけではない。そこで八五郎が思い描いていたシナリオが崩れてしまって・・・

先代の小さんと、立川談志が演じたのも聞いたような気がするが。

「款冬」は「かんとう」とも読むが、山吹の異名で、「やまぶき」と読むことが多い。

井手は京都にある地名で、山吹の名所として知られていた。

現在でも山吹は井手町の花に指定されている。

この狂歌は談志の素噺、『蜀山人』でも引かれていたような気がするが、ちょっとCDがすぐにはでてこない。


2015年12月18日金曜日

テクノロジーと夢

人の一生は夢であるということを根本的に論破することはできない、といわれる。

目覚めたとしても、それが夢でない保証などなにもないからだ。

世界の有機的なサイクルと一致している動物にとっては、死は生の連続の一環でしかないように思われる。

歴史の、夢想の堆積は、現実と夢とを分離すると同時に、両者の混同を含むものでもあった。

洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。(アドルノ『美の理論』大久保健治訳)

歴史と夢想の堆積は、 あらゆる可能性を探り続け、テクノロジーをそうした可能性のひとつのあらわれにしてしまう。

もちろんそこには「質的飛躍」があるのだが、その飛躍が夢と現実を飛び越すほどのものなのかは疑問だ。

2015年12月17日木曜日

地下鉄とクルトゥー

北村龍平の『ミッドナイト・ミート・トレイン』(2008年)は見たとばかり思っていたが、見たのは『0:34』の方だった。

北村龍平は『VERSUS』を見て、いい印象を持っていなかったので、レンタル店で見ても素通りしたのかもしれない。

今回も終りで、監督の名がクレジットされて、はじめて北村龍平作品だと知った。

クライブ・バーガーの原作は読んでいたが、あまりに前のことなので内容はすっかり忘れていた。

終盤にいたって、やっぱりクルトゥー神話的な展開になるのか、と多分にがっかりする。


2015年12月16日水曜日

鈴木清順『俺たちの血が許さない』

鈴木清順の『俺たちの血が許さない』(1964年)を見る。

小林旭と高橋英樹が兄弟役といういまから考えると夢のようなキャスト。

二人の兄弟がまだ幼いころに、やくざであった父親が殺されて、しっかり者の兄(小林旭)とおっちょこちょいだが天真爛漫な弟(高橋英樹)へと成長し、やくざの争いに巻き込まれる。

50年以上前の映画で、まだ鈴木清順特有のカットの繋ぎや場面の様式化は表立っていない。

障子の左右で開け閉めするところや、豪雨のなか車のなかで兄弟が話し合う場面などに片鱗がうかがわれる。

とにかく驚くほどモダンな映画である。

それは日活特有の無国籍映画とも異なっていて、非常に抽象的な空間で事が運んでいく。

僅かに差し込まれる街の姿で、昭和であることがようやく確認できる程度だ。

映画内映像で、カラーのなかモノクロのフィルムが小林旭の足跡を辿るのだが、『リング』以降の映画内映像の無気味さを見事に表現している。

また、葬式帰りの小林旭が、清めの塩をもらうまで、母親と弟しかいない空間に兄の声だけが響き渡る演出が素晴らしい。

あえて分類すればやくざ映画ということになるのだろうが、仁義などそもそもまったく存在しないから仁義なき戦いも起きることはない。

兄弟の父親を殺した人物が昔気質のやくざものとして現れるが(黒一色の刺青が印象的)、その男にしても、抗争で父親を殺したわけではなく、金で頼まれて殺しただけなのである。

また、実録ものでいえば若頭にあたる小林旭が最後に命を狙われることになるが、それも抗争や親分の自己保身のためではなく、スパイとして付けた女と彼が愛し合ってしまったというほとんど理由にもならない理由のためなのである。

実はボスである男もその女を好きだったというような後付けにもならないようなことがほのめかされてはいるが、まるっきり説得力はない。

やくざ映画をまったく骨抜きにし、要素だけをとりだして、抽象的な空間でつなげてみせるというかいな力は尋常なものではない。








2015年12月15日火曜日

グラン・トリノとキャデラック

評判は異常に高いが『グラン・トリノ』はイーストウッド監督作品のなかでは、私のなかではそれほど高い位置を占めない。

なんといっても『許されざる者』であり、続いて『ホワイトハンター ブラックハート』、『ガントレット』、『ペイルライダー』、『ハートブレイク・リッジ』などとなる。

『グラン・トリノ』と同じく車の名が題名になっているからというわけでもないが、久しぶりにバディ・ヴァン・ホーンの『ピンク・キャデラック』(1989年)を見る。

『ダーティファイター』の系列の映画だと記憶していたが、イーストウッドが柄にもない様々な変装などをして、コメディ色が強いのは間違いないので、その系列であることは間違いないが、敵役がネオ・ナチのような軍事マニアたちで、イーストウッド出演作にしては珍しく、陰惨な印象を受ける。

『ダーティファイター』の敵役であるバイク軍団は、最終的にはちょっと間抜けで、愛嬌があったが、この作品にはそれがない。

さすがにキャデラックとグラン・トリノでは車としての風格が違うことだし・・・

2015年12月14日月曜日

貫禄とスペインの夜

ペドロ・アルモドバルの『抱擁のかけら』(2009年)を見る。

アルモドバルを見るのは2本目だが、あまり物語の語り方がうまくないのではないかと思う。

話の基本は狂気の愛を加味してあるが、ごく典型的な三角関係の物語で、過去、つまり本筋の話の前に3~40分の前置きがあるが、特に必要性は感じられない。

多分に好みの問題でもあるが、運命の女がペネロペ・クルスというのもあまり説得力がなく、デートリッヒでもスタンウィックでも、クラウディア・カルディナ―レでも、京マチ子ほどでなくともいいが、もうちょっと貫禄が欲しい。

フェリーニにしろ、ダリオ・アルジェントにしろ、ソレンティーノにしろ、イタリアの夜は非常に好きなのだが、スペインの夜のシーンがあまり魅力的でないのも期待外れに終わった。

2015年12月13日日曜日

アメリカ刑事ドラマのセレブもの

アメリカの刑事ドラマには、サブジャンルとして、セレブものがある。

古くは『刑事コロンボ』、いまでいうと『メンタリスト』が当てはまる。

バディ・ヴァン・ホーンの『ダーティ・ハリー5』(1988年)もそのなかに加えていいだろう。

1から5まで、シリーズものというと大作化していくのが多いのに、どれもみなこぢんまりした映画に収まっているのはさすがイーストウッド。

いま見ると、小ネタが多く詰まってもいる。

ホラー映画の監督を演じているのがリーアム・ニーソンだったり、TVキャスター役のパトリシア・クラークソンはソンドラ・ロックそっくりで、好みが一貫してるなあ、とか、女性の映画批評家が惨殺されるのは、イーストウッド映画に悪口ばかり描いていたポーリン・ケイルに当てつけたのだろうし、爆薬を仕掛けたリモコン・カートのカーチェイスの場面はいまだったらドローン相手ということになるのだろう。



2015年12月12日土曜日

ナノ・テクノロジーと想像力

スティーヴン・ソマーズの『G.I.ジョー』(2009年)を見ていて、途中で一度見ていることに気がついた。

アメ・コミはもともとさほど興味がないこともあって、どれがどれやらごちゃごちゃになっており、バッドマンは多分映画化されたものはすべて見ていると思うが、それでも、ジョーカー、だとかツー・フェイスだとか、怪人たちが、どんな順番であらわれるのか、とか、協力したりするのかと細かいことになるとまるでわからない。

この映画では、これもまた名前はよく聞くが、具体的にどんなものなのかよくわからないナノ・テクノロジーの兵器が登場して、エッフェル塔を倒すのだが、もちろんそんな兵器が将来可能になるのかどうか全然わからないが、都市にしろ、インターネットにしろ、想像力が働く方向にテクノロジーが発展していくことは確かであって、絵空事とはいえないのが無気味なところである。

2015年12月11日金曜日

蹴りと無意識

酒の飲めない平岡正明が、仲間たちと旅行に行った際、つい一杯飲んでしまい、既に極真空手に通っていた頃で、突然目をさますやいなや、奇声をあげて目にとまった人物に蹴りを入れたことを恥じ入る文章をどこかで書いていた。

酔態が恥ずかしかったわけではなく、作家だけに手と意識とは直結していることを感じるが、蹴りというのは無意識の占める部分が多く、稽古でも蹴りを繰り出すことに抵抗感があったのに、こともあろうに慣れぬ酒を飲んだとはいえ、日頃の訓練では躊躇していた蹴りをいの一番に繰りだして、いわば無意識を無防備に晒したことを恥じたのだった。

もっとも横山一洋の『ハイキック・エンジェルズ』(2014年)となると、少なくともヒロインの一人は蹴りが中心なのは、題名が示しているとおりで、ドラマはむちゃくちゃだし、売りのアクションも『チョコレート・ファイター』などと比較すると残念な仕上がりだが、それほど酷評したくないのは、なにがしたいのかはっきりわかるし、目的がわかるから、それにどれだけの労力と資金が必要なのかまではわからないが、より目的に近づいた姿も想像できるからで、なにがしたいのかさっぱりわからない超大作などよりはずっといい。

2015年12月10日木曜日

現実暴露と詩的なもの

『ニューヨーカー』や『タイムズ文芸付録』のようなアメリカやイギリス(多分ヨーロッパ中でそうなのだろうが)のちょっと洒落た雑誌には必ず詩が載っている。

日本の新聞にも俳句と短歌が載っているが、読者からの投稿によるもので、プロの俳人や歌人が必ず掲載されるスペースが与えられているのかどうか、よく知らない。

文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。

とアドルノは書いたが、言い換えれば文学と詩的なものが同じ土俵の上にあることを意味している。

そうでなければ、ベケットが詩的なものを台無しにすることもないはずだからである。

ベケットをモダニストとして扱うなら、日本にモダニズムは存在したのだろうか。



2015年12月9日水曜日

ビリー・ワイルダー『お熱い夜をあなたに』

ビリー・ワイルダーの『お熱い夜をあなたに』(1972年)を見る。

ジャック・レモン演じるアメリカの大物実業家は父親が、イタリアのイスキア島(ヴェスヴィオス火山の近くらしい)で交通事故にあって死んだと聞いて、やってくる。

彼は父親がイギリス人婦人とそこで毎夏を過ごしていたという秘密を知る。

同じ事故で死んだそのイギリス婦人の娘もまた母親の死を聞いて駆けつけてくる。

彼女は二人が毎夏そこで逢い引きをしていたことも知っており、悪いことだとも思っていない。

息子の方は不道徳だと怒り、身に染みついた効率主義から、イタリア人の怠惰に憤り、いらいらしてばかりいるのだが、やがて、彼女の魅力に惹かれるようになり・・・

異文化コミュニケーションにまつわるコメディーで、効率第一で、ピューリタニズムに凝り固まったアメリカ人と、ロマンティックなものを無条件に受け入れてしまうイギリス人、怠け者で小ずるいところもあるが、基本的にはおおらかで、細かいことは気にしないイタリア人、と類型的なのはコメディーの常道である。

邦題が重すぎて損をしている。

原題のAvanti!はイタリア語で、ホテルでノックがあったときの、「お入り」くらいの意味だから、「お入り」ではさすがにちょっと題として不安定なので、「どうぞ、お入り」くらいでいいのではないかしら。

イギリス人の役は実際にイギリス人女優であるジュリエット・ミルズが演じていて、豊満で、ダイエットのためにカウンセラーに通っているという設定だが、ちょうどいい肉づきで、好み。

フィルモグラフィーを見たら、イタリアン・ホラー『デアボリカ』に主演していて、うわっ、『デアボリカ』にでてるじゃないか、と思ったが、見たことは確かなのだが、内容がまったく思い出せない。



2015年12月8日火曜日

価値の転倒と混沌

フロイトは声と超自我を結びつけた。

超自我とは自我を監視し、間違った方向に行かないように命じる。

道徳的な法、倫理などがそれで、良心の声という慣用句にそのことがあらわされている。

道徳的な法や倫理は意味をもつ象徴であるから、当然その反対の意味も暗黙のうちに含まれている。

汝、殺すなかれ、は汝、殺せ、と薄い膜で隔てられているにすぎない。

価値の転倒は重要なことだが、価値の混沌は恐ろしい。

安部首相が述べた無意味な三本の矢からヘイト・スピーチまで、みられるのは混沌である。

グローバリゼーションという言葉が使われはじめて、もうかなりの年月がたつが、これほど無意味に使われている言葉もない。

グローバルといっても地球単位で考えているものはほとんどなく、たかだか「先進国」の経済の問題がいわれているに過ぎない。

かつて、ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』で、インドの貧困を解決するには(現在でいえば、南半球の貧困ということになろう)、アメリカが(現在でいえば、いわゆる「先進国」ということになろう)その富を無償譲渡すればいいと言った。

これこそまさに価値の転倒であり、グローバルな思考である。



2015年12月7日月曜日

食わず嫌い

食わず嫌いの監督がいる。

私の場合、たとえばウディ・アレンで、もっとも完全な食わず嫌いというわけではなく、『アニー・ホール』だけは公開時に見ているから、多少は口にしているのだが、それ以来なんとなく敬遠してみていなかったのだが、数年前に20本くらいまとめてみて、嫌いではないが、大好きな映画はないという状態にとどまっている。

スパイク・リーもまたそうで、こちらは少しも口にせずに過ごしてきたが、最近10本くらい見て、やはり嫌いではないが、大好きな映画もないという状態にある。

アルモドバルもそうした監督の一人で、なんとなく騒々しい子犬が吠えるような映画であるような気がして、敬遠していた。

そんなアルモドバルの『私が、生きる肌』(2011年)を見た。

勝手な思い込みとは違い、特に騒々しい映画ではない。

人工皮膚の権威が主人公なので、安部公房の『他人の顔』のような話かな、と思ったらそんなことはなく、その医者が自宅の一室に美女を監禁しているところから映画は始まる。

そこから過去にさかのぼり、恐怖症で人前に出られない娘をレイプした犯人に対する復讐劇へと転じ、医者を演じているのがアントニオ・バンデラスだものやはりそういう方向へ行くわな、などと思っていると、倒錯的な愛の物語となり、それで完結すると思いきや・・・

嫌いとまではいかないが、多様なテーマを盛りこみすぎて、消化不良になっているようで、判断保留。

2015年12月6日日曜日

地獄の釜が煮え立つ感じ

アマゾン・プライムで、古澤健の『アナザー Another』(2011年)を見る。

最初は『学校の怪談』のような話だが、中盤から『ファイナル・デスティネーション』のような展開になる。

ヒロイン役の橋本愛は、『あまちゃん』のときも思ったが、かわいいのかそうでもないのか、よくわからないぶれた感じが妙に印象に残る。

しかしそれよりも、久しぶりに銀粉蝶を見られたのが嬉しかった。

若いころに『ブリキの自発団』の舞台を見ているので、銀粉蝶といえばいまでも私のなかでは『ブリキの自発団』の銀粉蝶である。

李礼仙は状況劇場の李礼仙であり、若くして亡くなってしまったが、深浦加奈子は第三エロチカの深浦加奈子である。

森繁久弥も勘三郎(まだ勘九郎だったが)も藤山寛美の舞台も見ているが、それほど強烈な印象を残していないのは、テントや小劇場の閉塞感のなかでぐつぐつ煮え立つような感覚が大劇場では味わえないものだからだろう。

2015年12月5日土曜日

平賀源内、『放屁論』、水木しげる

平賀源内の『放屁論』を読んでいて思い起こすのは落梧の『あくび指南』で、放屁を見世物にするのもバカバカしいが、あくびを習うのもバカバカしい。

しかし、バカバカしさにおいては落梧の方がいささか勝っているようだ。

『放屁論』では両国橋のたもとで、幟を立て、様々な屁をこき分ける見世物を見たある男が腹を立て、品川、というから女郎屋なのだろう、ある女が客の前でおならをしてしまい、恥じのあまり自害しようとするのを仲間や客が必死になだめたという例を引き、屁などは自宅でひそかにするものなのに、公然と見世物にして恥じないとは何事か、と憤るのだが、源内の意見を代弁するかのような男がそれに反論し、世の中に下品なものは数あるが、一等下品であると思われる糞尿でさえ、畑の肥やしになり、人々の役に立っているが、屁だけはなんの役にも立たない無用の長物、そのとことん役に立たないものをいっぱしの見世物にまでしたのだから、立派なものではないか、無用なものが芸にまでなるのだから、有用なものをとことん工夫できる者があるなら、世の中はずっとよくなるだろう、と文明論にまで踏み込むことでいささかバカバカしさを損なっているのだが、そこまで話を大きくするバカバカしさは十分魅力的なので、いい勝負ではある。

そういえば、荻上チキのラジオ『Session-22』で、水木しげるの追悼番組をしたとき、ゲストの呉智房が話していたが、水木しげるは「屁を二尺した」(三尺だったかな)というような表現をしていたそうだ。

『放屁論』後編の「跋」では、屁の音には三種類あり、プッとなるのが一番品があって形が丸く、ブウとなるのが次にきて、形は米びつのようであり、スーとすかすのが一番下品で、細長く少し平たい、とある。

水木しげるにも江戸の風が吹いていたのだろう。


2015年12月4日金曜日

貧弱な記憶力のありがたさ

マイケル・マンの『ヒート』(1995年)を見る。

公開時に見て、実に久しぶりに見直したので、おそらくは『スカーフェイス』などとごっちゃになってしまっているのか、マフィア対警察ものだと記憶していた。

あに図らんや、恐ろしく頭の冴えた強盗団(デ・ニーロやヴァル・キルマーなど)とロサンゼルス警察を指揮するアル・パチーノとの対決を描いたものだった。

記憶力が貧弱なのはありがたいもので、ほぼ三時間に及ぼうとする映画の中盤になっても、どんな展開になるのかまったく思い出せなかったので、初見のように楽しむことができた。

ところで、いつも重宝に使わせてもらっているので、文句をいう筋合いでもないが、データベースのallcinema日本版の解説ではこの映画が随分批判的に「解説」されている。

批判的なのは結構だし、すべての映画を一人が見ているとは考えられないから、おそらく数十人、数百人が関わっているのだろうが、せめて頭文字でも、数字でもなんでもいいから、どの映画について誰が書いているのかわかるようにしてもらいたい。

ほとんどの映画の「解説」は、あらすじを述べるようなものばかりなので、たまに批判的な「解説」に出くわすと、よほどつまらない映画なのかと思ってしまう。



2015年12月3日木曜日

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』!!!

レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』(2012年)を見る。

初見、傑作。

『ポーラX』はまだ見られないでいるが、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』と見て、まったく個人的な趣味の問題だが、趣味だから変えようはないわけで、あまりに恋愛的な要素が強いのに辟易していて、昔ながらのハリウッド映画のように、仲間意識を持っていた二人が、あるいは対立し合っていた二人が、最後に愛情を確認して終わるタイプの映画が大好きなためか(ホークスやヒッチコックやアステア=ロジャースの映画のように)、愛となるとThe Endの文字が浮かんで、愛し合う二人を描かれると、まだ終わらないのかとついつい思ってしまう私にとって、要するにカラックスは苦手だったのだが、まさにこんな映画を撮ってもらいたかったとついつい興奮したのが『ホーリー・モーターズ』だった。

豪邸から出勤するらしい男(カラックスの映画では常連のドニ・ラヴァン)が白いリムジンに乗り込み、今日の予定は、などと聞きながら、メイクをはじめる。

そして、その都度メイクを変えながら、物乞いになったり、ハイド氏のような凶暴なふるまいに及び、さてまた殺人者になったりする。

なんの予備知識も持たず見たので、最初はなにが語られているのかわからないのだが、一時間も過ぎるあたりになると、この映画が、たとえばデヴィッド・リンチの映画のように、不可解な謎をめぐって進行するものではないことに気づきはじめる。

ある種監督が不在であるフェリーニの『81/2』のような映画なのだ。

ついでにいえば、ロカルノ映画祭でのカラックスへの公開インタビュー(観客からの質疑応答を含む)も見て、いかにも取っつきが悪そうで、質問にも、誠実なあまり、期待されるような答えを一切返さない姿を見て、その人物も大好きになってしまった。



2015年12月2日水曜日

エクソシスト、西鶴、ホラー

『エクソシスト』で、公開時にはカットされたシーンに、少々おかしくなってきたリンダ・ブレアーが、ブリッジをしたままの姿で素早く駆け寄ってくる場面がある。現在では長尺版で見ることができるが、やや唐突で誇張された表現だったためにカットされたのかどうか、詳しいことは知らないが、はじめて長尺版を見たときには、もっとも怖い場面の一つとして印象に残っているのは、あるいは後に日本のホラー映画でそのヴァリエーションを様々に見せつけられたからかもしれない。ある意味、先駆的な表現だったわけで、カットしたのがよかったのか悪かったのかいまだによくわからないでいる。

ところで西鶴の『諸国咄』巻一に「見せぬ所は女大工」という一篇がある。御所の奥向きともなると、大工といえども男を入れるにははばかられるところが多く、女の大工が呼ばれ、寝間である座敷をすべて打ち壊すように命じられた。まだ普請したての座敷で、不審に思ってその理由を尋ねると、天上に、色の黒いおたふくのような顔をした四つ手の女が這いまわるという。そこで、様々な物を打ち外してみたが、特に変わったところはない。残ったのは叡山からもらったお札をはった板だけである。下ろしてみると、かたことと動いている。驚いて、板を一枚ずつはがしてみると、七枚下に長さ九寸ほどの守宮が、胴のあたりを釘で打たれて、紙ほどの薄さになってまだ生きて動いている。燃やしてしまうと、それ以後おかしなことは起きなくなった。守宮が起こした怪異としてしまうと、理に落ちた感もあるが、翻って考えると、守宮でさえこんな恐ろしい怪異をもたらすなら、なにが怪異の原因であってもおかしくないことにもなる。



2015年12月1日火曜日

鋼の明朗さ

中平康の『黒い賭博師 悪魔の左手』(1966年)を見る。アマゾン・プライムで見られる。日本に大きな映画会社が五社あったときのことに限っていえば、一番多く見ているのが東映で、相当な差を開けて大映、松竹、東宝となり、日活は鈴木清順を除けば一番なじみのない映画会社である。石原裕次郎の映画さえ、多分まともに見たのは1,2本ではないかと思う。無国籍映画とはよくいったもので、この映画も、四人まで妻が持てるのだからイスラム教の国らしいが、大泉滉が国王を演じているが、実権を握っているのは「教授」と呼ばれる二谷英明で、日本をギャンブルの市場にする上で邪魔な存在である凄腕のギャンブラー小林旭をたたきのめそうと、その手腕をコンピューターで解析し、選りすぐりの三人のギャンブラーを送り込む。まあ、もちろん、その企ては失敗に終わるのだが、おかしいのは「黒い」といい、「悪魔の」と二度にわたって念押ししているにもかかわらず、黒くも、悪魔っぽくもない鋼のような明朗さを保っている小林旭の存在感である。

2015年11月30日月曜日

『ミッション』、ブレヒト、母

ローランド・ジョフィ『ミッション』(1986年)を見る。予備知識をまったく持たないで見たので、冒頭の流れから、デ・ニーロが宣教師なのか(ジェズイット派だから、十八世紀くらいの話なのだろうと見当をつけ)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『グッドフェローズ』とマフィアものを続けてみていたので、なんかあまり似合わないな、と思いながら見ていたら、奴隷商人として颯爽と登場し、おおこれはヘルツォークの『コブラ・ヴェルデ』のような映画なのかと期待をしたら、ヘルツォークのような妙な監督がそういるはずもなく、愛人を寝取られたデ・ニーロが実の弟を殺してしまい、罪の意識から宣教使に転身し、南米の奥地に住む住人たちをポルトガルの侵略から守ろうとする映画に転身してしまった。弟を殺してしまったことに罪の意識をおぼえるのを疑うものではないが、それをきっかけに回心する、というのはちょっと邪なものを感じる。実際そうした人物がいたときに、というより映画として邪というか、ジャングルのなかに教会を建てることもまた帝国主義に荷担しているという批判がなさ過ぎる。

ブレヒトの『母』を久しぶりに再読。ゴーリキーの作品がもとになっているが、ブレヒトにとっては母というのは特異な位置を占めている。もともと政治には無関心で、息子が面倒なことに関わるのをいやがっており、息子の政治活動に特に影響を受けたようでもないのだが、ほんの少し背中を押されたほどのきっかけによって、みるみるラディカルになっていく姿は、愛情によってすべてを包みこみ、すべてを消化してしまう母性の力とは対照的に、肺腑をどこまでも切り分けて、なんのために働いているのか突き詰めないではいられないような批判的な力において際だっている。

2015年11月29日日曜日

『超高速!参勤交代』と北野武の企画

本木克英『超高速!参勤交代』(2014年)をみる。冒頭の殿様と家来たちや農民たちの会話を聞くだけで、うんざりしてしまうのはもうすでに私のセンスが古いのかもしれない。時代劇を見る楽しみの一つは、現在の我々とはまったく異なる生活様式を感じることにあるのだが、もはやそんなことを気にするものはいないのだろうし、家来が、会社の上司と部下ではあるまいし、主人に向かってあんなにざっかけない言葉をかけるのは、あり得ないはなしだと思うが、サイトなどで評価が高いのを見ると、やはり気にする方がどうかしているのかとも思うが、『るろうに剣心』ほどでたらめだと却って気にならないのだから、もっとも『るろうに剣心』はアクションが中心だし、時代も明治に変わり、大きく価値観が様々なところで変わった時期だから、ルーズでも気にならないのかもしれない。話は、藩の金山を狙う老中が、参勤交代で地元に帰ったばかりの藩に四日で再び江戸にのぼることを命じ、殿様を中心に藩のものが一体となって武士の意地を見せるというものだ。

この話で思い出すのが、相当むかし、ビートたけしが、『ソナチネ』以後くらいのことだろうか、テレビとかラジオで、次回作の企画として、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせを聞いた、豊臣秀吉のいわゆる「中国大返し」、走りながらそれこそ武器も防具も脱ぎ捨てていく疾走感をさながら映画のように面白く語っていたことを思い出して、あの企画はどうなったのかと、妙な記憶がだ繰り出されて、よほどそちらの方が気が引かれる。

2015年11月28日土曜日

『キッズ・リターン』と群像劇

北野武の『キッズ・リターン』(1996年)を見る。高校の仲のよい同級生の二人が、といっても、ダブっているのか、金子賢の方が先輩らしい、一方がヤクザの世界に、一報がボクシングの世界に入り、それぞれ頭角をあらわすのだが、ヤクザに入った金子賢の方は兄貴分に裏切られ、というか殺された親分(石橋凌)と兄貴分(寺島薦)との微妙な関係をよく理解しておらず、うまく立ち回るだけの悪賢さももっていなかったのだが、ボクシングで力を付けた安藤政信の方は、いかにも小悪魔的なモロ師岡演じる先輩に、アルコール、食事などを勧められ、節制できずに、試合に敗れてしまうのだが、もともとこの人物は、『3-4X10月』の柳ユーレイのように、自分の確固たる意志があるのかどうかわからないような存在なのだ。今回見直して気づいたのは、それまでの映画が破滅的なものばかりだったので、はじめて北野武が未来に開かれた映画をつくったというようなことは公開当時も言われたと思うが、『アウトレイジ』で試みたように、あるいはそれ以上にうまく群像劇に仕上がっていることだった。喫茶店の娘を思って通い続ける同級生とか、関係的には二人ほど濃くはない不良仲間たちや、『アウトレイジ』だとあり方はそれぞれだがいずれも死へ向かっていることだけは変わらないようなところがあったが、この映画では様々な未来が示されており、しかもそのどれもがなんの結果ももたらしていないという意味で、まさしく苦しくもあり、恐怖も感じれば歓喜が待ち受けているかもしれない未来というものの手触りを示している。


2015年11月27日金曜日

失われたたしなみ

『トランスポータ』の2と3を見る。2は1と同じくルイ・レテリエ監督で、やや大味になっており、子供とかその母親との淡い愛情とか、子供にウィルスが注射され、その解毒剤が必要だとか、余計で、話を停滞させるような要素が多い。もっとも、それも監督が変わった3に較べれば随分とましな方で、3はとにかくアクション場面のカット割りが多くていらいらする。ダンスが始まるや、演出を止め、ほとんどカメラが固定になるアステア=ロジャースの映画を見て、ちょっとはたしなみというものを知りなさい、と思うが、ジェイソン・ステイサムがそんな無演出に絶えられるだけのアクション俳優かといわれると、というかジャッキー・チェン以後にそんな俳優がいるのかと言われると自信がなくなるのだが。

2015年11月26日木曜日

原節子と加藤治子

原節子が亡くなった。95歳だというから大往生だといっていいだろう。とにかく立派な顔の女優さんという印象で、嫌いではなかったが、小津安二郎の映画はあまり得意ではなく、黒澤映画の文芸ものもなあ、という感じなので、映画として大好きなものはない。「永遠の処女」などといわれているが、およそ性的なもの、母性的なものを感じたことが一切ない。「処女」というのは通常性的なものに触れる寸前の感受性の微妙な震えのようなものを感じさせるものだから、「処女」性を感じたこともまったくない。小津映画などで、子供を相手にするときに、柳田国男の「妹の力」を借りて林達夫が提示した「姉の力」を感じないではなかった。とにかく、五十年以上も鎌倉に住んでいることはわかっていながら、一切マスコミの前に姿をあらわすことがなかったのだから、よほど自らを律する力が強かったのだろう。それがあの立派な顔にあらわれていて、気軽に好きとはいえない強靱さをもっているが、嫌いではない。

先頃亡くなって、原節子よりもより多く眼にする機会があったのが加藤治子で、もちろん会ったことも直接眼にしたこともないが好きだった(なにしろ原節子は私が生まれる前に引退していたのだからしょうがない)。テレビのインタビューで(はっきりしないが、「徹子の部屋」だったか)、一人暮らしの近況を聞かれて、「一人で生きて、一人で死んでいくの」と答えていたのだが、その答え方が、女優的な自意識がまったく感じられず、事実をありのままに述べただけ、という姿勢で、ますます好きになった。ただ、残念なのは主戦場である、舞台での演技を結局見られなかったことで、テレビはともかく、映画で印象に残っているものもない。フィルモグラフィーを見ると、私の好きな映画では鈴木清順の『カポネ大いに泣く』に出演しているのだが、これまた残念なことに印象に残っていない。

2015年11月25日水曜日

追憶と記憶の襞をつなげても映りだすのはモンタージュのない壁

マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』(1990年)を見る。どうもおかしな話なのだが、『グッドフェローズ』を去年だったか、おととしだったか、見直したいと思って見たところ、おぼえていた感じよりも平坦で、狂騒的なリズムがなく、ちょっとがっかりしたのだが、いま思い返してみると、その映画にはデ・ニーロが出演していなかったような気がする。私はよくも悪くも作家主義の影響を受けているので、監督を間違えるわけはないような気がする。しかしレイ・リオッタは出ていたような気がする。なによりストーリーは今回見ておぼえていたとおりのものだった。しかしまた、あれほど強烈な存在感を出しているジョー・ペシの印象もあまりなかったような気がする。

というのも、今回見直した映画の印象はまさに初めて見たときの印象そのもので、面白かっただけに、その去年だかおとどしだかに見た映画がなんだったのか、割り切れぬ思いが残る。



2015年11月24日火曜日

『サブウェイ』はどんな内容の映画であったかすでに不確かだが・・・

ルイ・レテリエ『トランスポーター』(2002年)を見る。リュック・ベッソンは『サブウェイ』(1984年)や『フィフス・エレメント』(1997年)の監督としての意識の方が大きく、特に『サブウェイ』は当時好きだったイザベル・アジャーニが出ていたし、かなり気に入っていたと思うのだが、何しろ当時一回見ただけなので、あまり自分の評価基準に自信が持てない。ただ次にみた『グラン・ブルー』にがっかりしたことはおぼえているので、少なくとも嫌いなジャンルの映画ではなかったと思われる。

そんなわけで、精力的に製作を始めたリュック・ベッソンについては、特に関心を持つこともなく、アクション映画といえば、アメリカか香港に限ると思っていた。そんなわけで、この映画もアマゾン・プライムで無料で見られるので、たまたま見たに過ぎないのだが、コリー・ユンの力も大きいのだろうが、ジャッキー・チェン的なアクションの精神がしっかりと継承されている。周囲にあるものをとりあえず小道具として使う、というのはアメリカの大味はアクションには見られないもので、アクションのたびに何らかの工夫が凝らされているのは感心した。特に油だらけのアクションから、しっかりした安定を得るくだりなどは秀逸で、ジェイソン・ステイサムと警部とのバディ感もアメリカにはないもので、楽しかった。



2015年11月23日月曜日

北野武、ヤクザ、刑事

北野武の『ソナチネ』(1993年)を見る。6,7度目くらい。北野武とヤクザの親和性が明らかになった作品だといえるだろう。『3ー4X10月』でも鮮烈なヤクザ役で登場していたが、やはりこの映画の主人公は柳ユーレイで、魅力的な脇役でしかなかった。ヤクザと同じく刑事役も印象的だが、ヤクザも刑事も大して変わらないことは、深作欣二の『県警対組織暴力』を見ればわかる。

だが、北野武的な死への願望を満足させるためには、刑事だと何らかの要素がつけ加えられねばならない。ヤクザなら、少なくとも映画的にいって、任侠もの以来常に死への回路が開かれていて、そこにいたる過程こそ実録ものがで大きく変わったとはいえ、基本的にヤクザの行為というのは死を前提にしたものだった(少なくとも映画の世界では)。そうした意味では、生産とは自ら関わることのない武士の末裔といえるかもしれない。

ところが、刑事となると役人であり、組織の一員である以上、破滅願望だけでは事が運ばない。体よく止めさせられるのが落ちだ。また、死への願望が自殺願望とも異なることがやっかいである。自殺というのは任意に映画を終わらせてしまうという意味で、非映画的な行為であるからだ(自殺志望者が街中をさまよい歩くだけの映画、ドリュ・ラ・ロシェルが原作のルイ・マルの唯一秀作だと思う『鬼火』のような映画もあるが)。したがって、『その男、凶暴につき』では妹との、『HANAーBI』では妻との愛情が死へと方向付ける要素となっている。

死への願望とは最短距離で点と点をつなごうとする映画的な意志でもある。浜辺で遊んでいるだけの場面にも過不足がないのが(『菊次郎の夏』ではちょっと長く感じる)素晴らしい。

2015年11月22日日曜日

屠殺場とブレヒト

ブレヒトの『屠殺場の聖なるヨハンナ』を読む。ヨハンナはキリスト教系の組織の一員として、貧しいものや労働者を助けようと活動するが、ダンテの地獄巡りのように、労働者や家畜を飼育するもの、仲買人、企業のボスなどのところなどをまわるが、その善意は疑えないものの、言い換えれば善意しかないので、次々に裏切られ、絶望のうちに命を落す。残った同志たちは、既に資本家と協力する体制ができており、死んだヨハンナを聖人に祭り上げることによって、いわば彼女を骨までしゃぶり尽くす。それが皮肉でも風刺でもないのは、現実の姿を描いているからである。それにしても、いい題名だな、とはかねがね思っていた。

2015年11月21日土曜日

『デス・ルーム』と日本発信

『デス・ルーム』(2006年)を見る。数人の男女がある部屋に閉じ込められる、というとすっかり陳腐なものになってしまったシチュエーション・スリラーかと思うが、もっと伝統的な『デカメロン』や百物語の系譜をひいたオムニバス映画である。一応ホラーとエロが共通している。
ケン・ラッセルのものは(『クライム・オブ・パッション』とか好きだったなあ、見返すのがちょっと怖いけど)、豊胸手術を受けた女性の胸が独自の生命をもつ、いわば身体なき器官もの。
ショーン・S・カニンガムのは日本が舞台で、地獄に引き込まれた奥さんを旦那が引き戻しに行く。杉本彩がなぜかちょい役で女性警官として出演している。
モンテ・ヘルマンのは、若いころに親しく映画に共通の夢を持っていた友人が恋人を残して去った真相を知る。
ジョン・ゲイターのは、寄生虫とともに受胎し、一体化して生まれた女性の話。

三人の制作者のうち細谷佳史、吉川優子と二人が日本人で、この監督の顔ぶれはなにか妙に日本発信が納得されるものだ。おそらく、二人とも年代的にも私と近いのではないかと思う。内容は、まあ、飛び抜けて印象に残るようなものはないが、別につまらないわけではない。

2015年11月20日金曜日

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とイーストウッド

セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)を見る。確か、公開時かそのちょっと後に名画座で見て、ずっと再見したいと思っていたのがようやく見られた。例によって記憶があやふやで、アヘンを吸って、ベッドに横たわったデ・ニーロからはじまり、少年時代にさかのぼって、再びベッドの上に行きついて終わったと思っていたが、全然違っていて、少年時代はほぼ時間順に進むが、その後は初老時と青年期を行ったり来たりする。一応マフィア映画といえるだろうが(『ゴッドファーザー』よりも前の時代が舞台になっている)、抗争やのし上がっていく過程はほとんど描かれることはない。少年期からずっと行動を共にしていた者の友情と呵責の念がオペラのように演じられていく。『続夕日のガンマン』ではオルゴール付きの懐中時計が、最後の決闘で、止まりそうで止まらない緊張感の持続を見事につくりだしていたが、この映画の冒頭の電話の音も、いまの監督だったらとても絶えられないような持続感で、うっとりするような効果を上げている。

クリント・イーストウッドがなにかのインタビューで、『アメリカ』の話は最初に自分のところにきたといっていた。スケジュールが合わずに、結局デ・ニーロになったのだが(もちろん、デ・ニーロでもなんの問題もないが)、イーストウッドが演じていたらどんな映画になったのか、想像するとわくわくする。イーストウッドは妙な役者で、ガンマン、刑事を除くと、自分を律する力が強いのか、ホワイト・トラッシュまではいかないが、どちらかといえば下層に属する人物ばかり演じてきた。もちろん、映画監督役、スパイ役といった例外はあるものの、中流の普通の家庭人やWASPなどを演じることはなかった。マフィアも演じたことはないはずで、ある種のパラレル映画として、想像してみるとひどく楽しい。



2015年11月19日木曜日

稲垣足穂とラブレー

稲垣足穂がラブレーのことを、「いかにも坊主上りの医者らしい、悪達者なポルノグラフィーの作者で、ほとんど卑猥文学である。」(「卑猥文学」にスカトロジーとルビが振ってある)とこき下ろしているのを読んで、ちょっと意外な感じもしたが、よく考えると至極もっともでもある。ラブレーには「君寵、師弟、腕股を裂く盟約」といった先鋭化した「優美さ」がない。足穂はあれほどA感覚やうんこのことを書きながら、排泄物そのものには関心をいだかなかった。いわばそれを上回ることが要求されるがゆえに、優美さも先鋭化されざるを得なかったのだ。よく言えばカーニヴァル的な、悪くいえば開ききった肛門などは関心の他のものでしかなかった。



2015年11月18日水曜日

稲垣足穂とA感覚

山口義高の『アルカナ』(2013年)を見る。大量殺人の現場に少女がいて、世界には分身があらわれるという現象が続々と起っており、警察にはお宮係という部署があり、本体を殺して自分たちの世界を造りあげようとしている分身たちがいるようであり、主人公の刑事はその少女にすぐに過剰な思い入れをするようであり、あまりにいろいろなことが詰め込まれすぎている。ここ数十年の日本映画の悪弊だが、主人公がやけにヒロイックになるのも馬鹿馬鹿しい。生を賭けるというのはただでさえ難しい演技、役者の生身がむき出しになることなのだから、若い俳優にそんなことを要求すること自体が間違っている。

同じように最初から最後までお化けのたぐいが出てくるのが稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(名字はサンモトと読む)だが、大傑作。いってしまえばキングの『スタンド・バイ・ミー』のような話ではあるのだが、通過儀礼ととってはまったく面白くない。一月にわたる物語でありながら、それはある種の双曲線が互いに近づいてくる持続の時間であるに過ぎず、その二つの曲線がもっとも近づいたときに、少年が最後に発する一言が特権的な瞬間となっている。

稲垣足穂のA感覚に関する文章は、読むと納得するのだが、いまでも不思議なのはどの程度実践的なものなのかということである。アナルの感覚は、無底で、原初的で、根源的なものであり、宇宙へとひらかれている。ペニスやヴァギナはアナルの派生物でしかなく、ちっとも本質的なものを含まない。と、理屈はわかるのだが・・・こうした疑問は足穂文学の愛好者にも共通したものであるらしく、三島由紀夫が澁澤龍彦と対談したときにも、そうした疑問が話題に上がっていたし、野坂昭如が足穂と対談したときにも、しつこく実践面はどうなっているのか聞いていたように記憶している。実際、性的嗜好については驚くほど平凡な自分には、エネマグラでも使って開発にでも努めれば、新しい世界が広がるのかどうかいつまでも疑問なままなのだ。


2015年11月17日火曜日

埴谷雄高と存在

埴谷雄高の『虚空』『闇のなかの黒い馬』を読む。寺田透が「僕にはどうも埴谷さんのいう『存在』がよく分からない。」といったのに対し、澁澤龍彦が、埴谷雄高のこういった言葉というのは詩的イメージとして捉えるべきで、厳密な概念規定をしていったら、その作品は空気を抜かれたようにぺちゃんこになってしまうだろう、といった意味のことをいっていたが、私もまったくそう思う。

たとえば、『闇のなかの黒い馬』のなかの一篇、「神の白い顔」には次のような一節がある。

眼を開ければつねに眼前にあるところの日頃見慣れたさまざまな存在のかたちではなく、まぎれもない存在そのものを、いわば誰からも忘れられた無気味な薄暗い無人の小部屋でも覗くように、たとえ一瞬の数千分の一の僅かな時間にせよ、背後から窺い眺めたいとひそかに思いつづけていたのであった。

いかにも埴谷雄高風の文章だが、西欧の形而上学者にとって存在はあくまで存在であり、存在と無のことは考えたとしても、存在の背後に回るなど思いもよらないことだろう。そして概念規定をしたとしても、存在の背後にはやはり存在があるだけなのだ。

戦後文学の代表者のように考えられているが、『死霊』や短編を読んでいると、埴谷雄高は存在や闇をテーマとしたマイナー・ポエットと考えるといちばんふさわしい。もちろん、マイナー・ポエットといっても貶下的な意味はなく、ハックスリーがかつて詩人のダウスンについていったように、守備範囲こそ狭いが、純度は高いという意味である。

また、金魚、蛇、尺取り虫といったような小動物に対する言及も特徴的である。ジュネのように退化した存在と同化することによって、忘我的な陶酔を得るというのではなく、といってカフカのようにこの上なく無意味なわけでもなく、小動物の意識に夢想が広がっていくのがまた埴谷雄行的で、その存在と密着した意識のあり方を通して、幾度でも存在という主題を経巡る。



2015年11月16日月曜日

北野武と涙

北野武『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)を見る。何度見ても最後で泣いてしまう。叙情的なものは嫌いではないが、センチメンタルなものは大嫌いで(もっとも、もっとも好きな音楽家のひとりであるセロニアス・モンクのレパートリーのなかで、いちばん好きなのは本人の作曲ではないI'm getting sentimental over youなのだが)、北野武というと暴力描写を連想してしまうが、叙情性が背中合せに隣り合っていることを忘れてはいけないと思う。

ところで、泣いてしまった映画を一生懸命思いだそうとしてみたのだが、一本も思いだせなかった。もっとも、蓮実重彦やライムスターの宇太丸のように、映画的教養はないから、映画的無意識が呼応してさめざめと泣くようなことはないのだが、それにしても、泣いたことがないはずはない。『攻殻機動隊』のテレビ・シリーズで、タチコマが『僕らはみんな生きている』を合唱しながら、自らを犠牲にするところではいつも泣いてしまうが、そういえば、ジブリでいちばん好きな『千と千尋の神隠し』ではほろりときたが、泣くまでいったかどうか。まったく思いだせないところを見ると、割とつまらぬ映画で泣いているのかもしれないが、自慢にもならないが号泣した記憶はまったくない。



2015年11月15日日曜日

『セレブと種』とメッセージ

スパイク・リー『セレブの種』(2004年)を見る。主人公のジャックは、バイオ・テクノロジーの企業で、エイズの新薬を担当しているが、新薬の開発に携わり、親しい間柄でもあった博士の自殺によって、不正が行われていることを知り、それを告発したために仕事を失うことになる。収入源をなくした彼は、元恋人であり、結婚まで考えていた彼女(彼女はバイセクシャルであり、女性と浮気しているところを発見して別れた)のすすめにより、レスビアン相手に精子を提供する仕事をするようになる。ただ、精子バンクと違うのは、実際に彼女たちとベットをともにし、セックスして受胎させることにあった。もちろんそうなると、好きなときに好みのタイプだけを相手にするわけにはいかないわけで・・・まあ、一種の艶笑コメディーで、最後に申し訳のように、ウォーターゲート事件が関係してくるのだが、うまく機能しているかというと、そうでもない。やはり、スパイク・リーはメッセージを声高に主張することには向いていないように思うのだが。

2015年11月14日土曜日

アメリカ版『ザ・キリング』第3シリーズと女性刑事

アメリカ版『ザ・キリング』の第3シリーズを見る。前にも描いたが、アメリカ版は、デンマークのドラマのリメークなのだが、デンマークの元の方は1シーズンごとに一応完結していたのだが、アメリカ版ではデンマークで第1シーズンにあたる内容が2シーズンにまで引き延ばされている。デンマークのものを見てから1年はたっていないと思うのだが、内容をほとんど忘れてしまっていて2.3シーズンがそれぞれどんな内容だか思い出せない。ただアメリカ版では早くも1シーズンの半ばから事件と政治との関係がなくなってしまうが、デンマークのではシリーズが深まるにつれて政治ととの関わりが深まっていく。デンマークの『ザ・キリング』の制作者は、女性の政治家がちょっとしたきっかけから首相となり、一時代を築く、という『ボルゲン』という政治ドラマもつくっているので(デンマーク版『ホワイト・ハウス』といえないこともないが、ずっとダークで渋い)、政治に対する関心も高いのだろう。アメリカで政治が絡むと陰謀と手段を選ばない非情さのようなことがある種ルーチンになっていて、犯罪から社会から政治まですべてひっくるめた『WIRE』のような傑作もあるが、むしろ陳腐になることを恐れたのかもしれない。

しかし、デンマーク版の女刑事を演じたソフィー・グローベールにしろ、アメリカ版のミレイユ・イーノスにしろ、知性があってタフで、魅力的な演者がちゃんとそろっているなあ。日本でリメイクするとしたら、と思うと、選ばれるだろう女優の面々が浮かんできて、げっそりする。 



2015年11月13日金曜日

『3-4X10月』と小沼勝

北野武の『3-4X10月』(1990年)を見る。草野球のチームをつくっているような街の兄ちゃんの一人(柳ユーレイ、この映画では小野昌彦という名前でクレジットされる)が、やくざとちょっとしたいさかいを起こしてしまい、以前その組におり、いまはスナックのマスターをしている男(ガタルカナル・タカ、この映画では本名の井口薫仁の名でクレジットされている)が取りなしてくれようとするのだが、逆に袋叩きにあう。街の兄ちゃんとその仲間の一人(ダンカン、飯塚実という本名でクレジットされている)は拳銃を手に入れようと沖縄に渡るが、そこには組の厄介者として屑扱いされているビートたけしと渡嘉敷勝男の兄弟分がいて・・・柳ユーレイが、ぼーっとしているように見えるが、実は短気でなにをするかわからない人物を好演していて、また、途中で姿を消してしまうがガダルカナル・タカがなんともいえぬ色気があり、沖縄ではデビューしたての豊川悦司が組長を演じ、砂浜での野球は、『ソナチネ』での無為で幸福な時間を準備しているのだから、冒頭と結末をつなぎ合わせて夢落ちと解釈してしまうのはかえってつまらぬことで、便所に屈んであれだけ鮮明なことを見られるのなら、見者だとする方がよほど正確だろう。

朝テレビを見ていたら、柄本佑が出ていて、小沼勝がロマンポルノ以外の映画を撮っていたことをはじめて知った。機会があれば見てみたいが、近くにレンタル店はなし、そもそもレンタルに出ているかどうか。『NAGISA』だったろうか、アマゾンの中古でやけに高い値段が付いているが。

2015年11月12日木曜日

『クロッカーズ』と和泉式部

スパイク・リー『クロッカーズ』(1995年)を見る。クロッカーはちょろまかす者くらいの意味だろうか。麻薬の売人が殺されるが、自首してきたのは、誰に聞いても評判のいい人物だった。ハーヴェイ・カイテル演じる刑事は疑問をいだき・・・内容はシリアスだが、冒頭と最後に流れるメロウな音楽といい、決定的な場面のスパイク・リー的な演出といい、寓話的な雰囲気であり、よくも悪くもむき出しなリアルな感じはしない。

「物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる」は和泉式部の和歌で、ろくに短歌など知らない私でさえ知っている(空では言えないけれど)。しかし、「奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ」というきふねの明神の返しがあったという物語になっていたことは知らなかった。『古今著門集』などに出ているらしい。
思いついたので一首、
親王のおわさぬ御代で吐く玉は朱色に染まる海岸線に満ち
親王は高丘親王のこと。澁澤龍彦の『高丘親王航海記』から取りなしたわけです。



2015年11月11日水曜日

映画を見た回数とカカオ

北野武『その男、凶暴につき』(1989年)を見る。8度目か9度目だと思うのだが、はっきりしない。蓮実重彦がよく、もう200回以上は見た~、とか書いていたように思うが、修辞的な文なのか、実際に数えているのかよくわからない。自分のことに関しては、ジャッキー・チェンの初期の映画だとか『ターミネーター』とか、などは、テレビでごちゃごちゃと何回も見ているので、はっきりしない。どちらかといえば、見ていない映画の方がはっきりしていて、スタローンの『ロッキー』は一本も見ていない。ボクシングは好きな方なのに、そういえば『ランボー』も最新のやつは見たがそれ以前のものは見ていないので、スタローンを、別に嫌いではないので、無意識のうちに敬遠していたのかもしれない。自覚的に最も多く見た映画は、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』、フリードキンの『エクソシスト』、ロメロの『ゾンビ』、ダリオ・アルジェント『サスペリア』がそれでも2,30回で、50回は超えないと思う。そういえば、山城新伍はジョン・フォードの『荒野の決闘』を毎日見ていたと言っていたと思うから、そう考えると、数十回など簡単なことだろう。

数年前に買ったカカオが出てきて、粋がってカカオだけで食べられるのじゃないかと思って買ったのだが、甘いココアかミルクでもあればともかく、さすがに食べて食べられないことはないがそれだけではおやつにもならず、放って置いたのが出てきたので、でてきたといっても冷蔵庫からで、そこにあることに久しぶりに気づいたに過ぎないのだが、安い板チョコを買ってきて、湯煎して7:3位に混ぜ合わせるとまあおいしいが、湯煎に使ったボウルは食器洗剤でもなかなか落ちず、さすがにチョコというのは油っこいもので、いかにもカロリーが高そうだ。

2015年11月10日火曜日

スパイク・リーと千原ジュニア

スパイク・リーの『インサイド・マン』(2006年)を見る。2度目。内容はまったく違うし、政治的主張もおそらく全然異なるのだろうが、スパイク・リーのスタイルはウディ・アレンを思い起こさせる。ほとんど、あるコミュニティから出ないの映画が多いことも共通しているし、これは私に限ってのことなのかもしれないが、どれもある程度は面白いのだが、興奮するようなできの映画はどちらの監督からも見ていない。この映画も、デンゼル・ワシントンの刑事と白昼から立てこもる銀行強盗との頭脳戦で、ついでにジョディ・フォスターまで出ているのだから、もうちょっとわくわくさせてくれてもよさそうなものだが、基本的に、これもアレンと同様、あまり活劇の人ではないのだな。

いかにもいかがわしい四、五人の者たちが、千原ジュニアをボーカルにして下北沢で、ジャズ・クラブをするのだと相談している夢を見る。抜けたいのだがなぜか言い出せない。せめて他にもボーカルを増やすことを提案するが、すぐに却下される。せめて昼間は喫茶店として開店しようというのだが、彼らはジュニアのボーカルだけで勝負するのだといって聞かない。

2015年11月9日月曜日

『クライモリデッド・パーティー』と相模川

デクラン・オブライエン之『クライモリ デッド・パーティ』(2012年)を見る。シリーズ5作目。五作目にいたって、とうとう一作目のいいところがすべてなくなり、セックスをする馬鹿が死ぬというパターンが繰り返され、頭を使って怪物たちと張りあおうとするものはいなくなり、ただくだらないスラッシャー映画となった。

『学海日録』によれば、「馬入川、古名相模川」とあり、泳げるような所があるのかどうかは知らないが、水遊びの経験はある相模川が古名であるところを知る。

2015年11月8日日曜日

『ザ・キリング』第2シリーズと『死霊』

デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・ビギニング』(2011年)を見る。シリーズ第4作。もはや森などはでていないが、原題はWrong Turnで、そもそも森と関係がないのだから仕方がない。4作のなかで一番の駄作。ミュータントたちが集められたサナトリウムで牢を破って自由になった怪物たちが迷い込んできた学生たちと対決するというものだが、対決が始まるまでに40分以上かかるというもっさりさと、戦闘シーンの工夫ならともかく、必要もない間延びしたサスペンスや、妙なヒューマニズムが振り回されるのも噴飯物で、最終的に殺されてしまうとしても、気が利かない。病院はともかく、雪原などはよほど演出の手腕を必要とされるから、舞台選びからして失敗している。

『ザ・キリング』アメリカ版の第2シリーズを見終わる。一つの事件で2シーズンはさすがに長すぎる。これだけ長いと誰が犯人であっても、驚けない。最も最後に流される犠牲者のプライベート・フィルムには少しほろりとしたが。

なんと三十年以上の時間を隔てて埴谷雄高の『死霊』を読み返した。もっとも、河出書房新社版の著作集で読んだので、3章までである。未定稿まで含めると9章まであるようだから、半分も読んでいないことになるが(三十年以上前、確か5章までは一冊の本、次に6章が薄い本で出版されてそこまでは読んだような気がする)、普通に面白かった。一部で影響を与えたとされている小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などよりはずっと読みやすい文章で、エンターテイメントとして楽しめる。運河が張り巡らされたあの陰鬱な町は、どこかに実際的なモデルとなった街があるのだろうか。続けて『不合理ゆえに吾信ず』という断章形式の本も読み返すが、こちらは一節も胸に響くところがなかった。とりあえず残りの『死霊』とその他の文章も読んでみなければ、そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』くらいは読み返しておこうと思うのも、こちらも20年以上前に読んだきりで、しかも何一つ内容を覚えていないからで、文庫本で3巻もあって、読むのにかかった時間を考えれば、多少はなにか覚えていてもいいはずだが、きれいさっぱり晴天に曇りがない如く、何一つ覚えていない。



2015年11月7日土曜日

『クライモリ デッド・リターン』と可楽の句

デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・リターン』(2009年)を見る。シリーズ第3弾。2作目の後退からはやや持ち直したが、1作目には届かない。収監された凶悪犯たちが、搬送中に襲われて、といったシチュエーションはよいが、囚人同士で争い合ったり、途中で金が見つかりそれをどう運ぶかといったようなことがすべてなくてもがな、である。何作目になってもある程度の水準を保っている『呪怨』などが例外的なのか。

安藤鶴夫が紹介している七代目可楽の句に
山寺は雀も浴びる甘茶哉
片耳は蟋蟀に貸す枕かな
がある。特に「山寺」の句はいい句だなあ。『鬣』という同人誌で俳句を百句以上はつくったが、ついぞこうした句を得ることはできなかった。そこで一句、
やるせなや甍にかかる雲の裾
お粗末。

2015年11月6日金曜日

『クライモリ デッドエンド』と七代目可楽

ジョー・リンチ『クライモリ デッドエンド』(2007年)、シリーズの2作目を見る。第1作目が快作だったのに引き替え、クレバーな者たちが怪物たちと戦うというフォーマットがデフォルトになっておらず、セックス・シーンからの殺しや怪物たちの家庭団欒の様子まででてきて、まったく無駄なシーンが多い。サバイバル・ショーの演出からフリークスたちが紛れ込み、という展開もまだるっこしく、見る価値のない駄作とまではいわないが、前作のロブ・シュミットの才能がよくわかった。

私は落梧は音だけで十分だと思っており、DVDとCDがあったらCDを聞く方を断然選ぶが、安藤鶴夫の「七代目・可楽」(『寄席の人びと』所収)での可楽が『妾馬』を演じるところを読むと、無性に可楽の高座姿が見たくなった。この文章はとにかく愛情にあふれていて、不遇でもあれば幸せでもあった可楽の姿がとにかく泣かせる。可楽を聞いたのは立川談志が選んだ『夢の寄席』でだけなので、こんなに可楽に愛情を注いだ安藤鶴夫の悪口ばかり言うもんじゃないじゃないか、と思うが、ボタンの掛け違い、今更なにを・・・ということもあろうから、二人とも死んでしまった現在なにを言うこともないことだが。



2015年11月5日木曜日

『クライモリ』と『ザ・キリング』

ロブ・シュミットの『クライモリ』(2003年)は、いまは亡きウェス・クレイヴンの『ヒルズ・ハブ・アイズ』のようなミュータントものスラッシャー映画だが、なかなか面白かった。なにより、登場人物がはじめからクレバーで、馬鹿な男女がペッティングの途中で殺されるといった余計な部分がないところもよかった。最後まで生き残る人間も、『スクリーム』以後ということを感じさせる。

アメリカのテレビ・シリーズ『ザ・キリング』を第2シーズンの途中まで見る。もともとの原作となったデンマークのシリーズも見ているが、そちらが1シリーズごとに一応一つの事件が完結するのとは異なり、アメリカのは最初に起きる少女の殺人を第2シリーズまで引き延ばしている。主人公役の女刑事はアメリカのも悪くないが(デンマークのはちょっと吹石一恵に似ていて、アメリカの第1シーズンの終わりころにゲスト出演した)、売春宿を兼ねたカジノなどが出てきて、ちょっと『ツインピークス』のようになっている。



2015年11月4日水曜日

安藤鶴夫と談志

五代目柳家小さんの『出来心』『千早振る』『御慶』、ジョン・バルビローリ指揮、フィルハーモニック交響楽団のマーラー『交響曲第六番』

安藤鶴夫の『落語の魅力』『わたしの寄席』を読む。立川談志や川戸貞吉から目の敵のように書かれていたので、なんとなく敬遠していた。もっとも、『落梧鑑賞』はそれよりずっと前に読んでいたが、CDはおろか、テープさえ使えないような状況で、こうした労作の持つ意味が十分わかっていなかった。実を言うと、ボードレールやリラダンの翻訳で知られる齋藤磯雄と大学時代からの親しい友人だと知って、これは又聞きの評価だけで判断してすますだけの人物のはずがないと思ったのだ。

『わたしの寄席』では、小ゑんといっていた頃の談志がまっとうに評価されている。

 四月の第二回に“蜘蛛かご”をやった柳家小ゑんには舌を巻いた。小さんの弟子である。小さんという学校もいいが、素質がよくって素晴らしい才能がある。本人に歳を聞いたら「いつも二十三といってんですがね」という、ほんとうは二十だそうだ。ほんとの歳をいうと馬鹿にされるから嘘をつくという。十六で小さんに弟子入りをした日に、小三治という名をくれといった。小さんの前名の、真打の名である。小さんもこれにはちょっとどぎもを抜かれたそうだが、そんなふてぶてしいところがある。

落語を江戸の風を感じさせることにある、といった晩年の談志ならば、意見がかみ合わないこともないと思うのだが。



2015年11月3日火曜日

『三人旅』と『汚れた血』

柳家小さん(立川談志の師匠であった方の)『三人旅』をCDで聞き、『万金丹』の途中でうとうとする。名人の話を聞いていると、とろとろとよいここちになるというからそういうことにしておく。

レオス・カラックスの『汚れた血』(1986年)を見る。初公開のときには劇場で見た。AIDSを連想させる愛のないセックスによって蔓延するウィルスの支配する近未来が舞台で、その特効薬を盗み出そうという話なのだが、こうした舞台設定は物語の本筋とほとんど関係がない。初めて見たときにも感じたことだが、非常にすぐれた監督であることはわかるが、その恋愛至上主義には鼻白む。エリック・ロメールのように意地の悪い感じが出ているとまた違うのだが、ここまでひたむきだと辟易する。せっかくの設定なのだから、ロメロの『クレージーズ』のようになってくれないと、といってはほとんど言いがかりのようなものだが。



2015年9月8日火曜日

仮象と実在

前ソクラテス派の哲学者は、世界を構成しているのが水や原子だとした。しかし、それは世界をあらわれ、あるいは現象と実在との二層に分けることになる。我々が世界として知覚するものには、実際には水の姿をしているわけでも、分子構造が感じ取れるわけでもない。つまり、いま見ている世界は仮象であり、その奥底には本当の実在がある。

パルメニデスのように、一者から世界ができているとすると、水や原子とは異なり、具体的なイメージをつかめないものであるから、一者そのものを説明しなければならなくなり、無限後退に陥る危険もある。

また、ある種の転換が行われ、仮象という言葉があらわしているように、知覚によって容易に変化してしまうものがいわゆる現象であり、知覚(各人間によって異なり病気や薬物などによっても容易に変化する)によって影響を受けないものが実在だとされる。しかし、実際には、知覚によって影響を受けない、変化しないものが実在だというのは何を根拠にしているわけでもない。それは、美であるとか正義、あるいは神といったものを永続的に変化しないものとせざるを得ない要請から生まれたものでしかない。

同時に、知覚よりも理性が上位におかれるということもある。というのも、知覚は単に変化を見て取るだけのことであり、そこに法則を読み取るのは理性であるからだ。そして、理性は三段論法のような論理に従い、やはり永続的で変化しないものに仕えるものだとされた。つまり、宗教、科学、形而上学と、それに対になった神、法則、実在が知覚、変化、仮象を抑圧するのが西欧思想の歴史なのだといえる。

スピノザは現象と実在の二元性を廃棄して、世界そのものが神のあらわれであり、知覚の対象は神という全体性の変容なのだとした。言い換えれば、世界は二つの見方ができる。一方ではごく日常的な知覚の絶え間のない変化とみることもできるし、より神秘主義的に(スピノザ本人はそれほど神秘主義的ではないが)あらゆるものを神の顕現とみることもできる。つまり、神という要素が残っていることで、存在論的に二層であった世界が一元化されたものの、認識論的に二層に分かれたともいえる。


自然を前にしてある種の荘厳さを訴える詩は枚挙にいとまがないが、その荘厳さを神とも永遠とも結びつけないことが可能なのだろうか。

2015年8月16日日曜日

はっとする瞬間

 デヴィッド・ブラッドリーの『マンドラの狂人たち』というアメリカ映画を見る。1960年代前半の作品だが、モノクロである。首だけになったヒトラーがまだ生きていて、性懲りもなく、新たに開発された毒ガスを使って、世界の滅亡をはかろうとする。

 なんの面白みもない映画だったが、不思議なことにモノクロだと、キッチュなものが本物らしく見えるふとした瞬間がある。特に、車などの滑らかな光沢が出てくると、ルビッチ的、フェリーニ的にも思われ、ここで監督が替わってくれたら、と思うがもちろんそんなことにはならない。

 もともとが複製芸術の、しかもなんでもない場面なので、アウラの残り香ということはないだろうが、骨董でいう時代がつく感じともまた違っていて、対照的に思い起こすのは日夏耿之介が編集した雑誌『奢灞都』のことである。もちろん日夏耿之介の趣味で統一されているから、一定の水準には達しており、内容的に嫌いなはずもないのだが、はっとする瞬間がないのだ。

2015年8月12日水曜日

何か物足りない――カート・ヴォネガット『母なる夜』


第二次世界大戦中、ドイツで放送活動に携わる一方、放送を通じてアメリカに情報を送り、いわばスパイとして働いていた男の、戦争が終わってからの悲喜劇。

悲劇というのは、彼がアメリカのために働いていたことは、三人しか知らず(一人は死亡している)、アメリカやイスラエルからは裏切りものとしていつでも追い回される危険があるからだ。

喜劇というのは、ヴォネガット特有のことだが、また彼に影響を受けた村上春樹にも特徴的なことだが、深刻な内容がごく軽いタッチで描かれているからだ。深刻なことを軽いタッチで描くことには食傷気味である。

ダンディズムはいまでも惹かれるから奇妙なのだが、このポーズというのは、ダンディズムとも吉行淳之介的なデタッチメントとも異なっていて、ユーモアとも微妙に違い、どちらかといえばスノビズムという言葉に一番近いように思う。

2015年8月11日火曜日

ラジオ・デイズ――ロバート・アルトマン『ボウイ&キーチ』(1974年)


ギャング映画のサブジャンルとでもいえるものに、銀行強盗映画がある。やくざ映画のサブジャンルにチンピラ映画があるようなものだが、銀行強盗映画が男女の破滅的な愛に向かっていくのに対し、チンピラ映画は同じく破滅的といっても、ホモ・エロティックな雰囲気が濃厚である。
その点で、やくざ映画のサブジャンルであるとともに、任侠映画の再解釈ともいえるかもしれない。銀行強盗映画は、ギャング映画のサブジャンルであるとともに、恋愛映画の再解釈ともいえるかもしれない。
恋愛映画が苦手な私は、『拳銃魔』などの例外はあるものの、銀行強盗映画も苦手なのだが、アルトマンがべたべたした恋愛を描くはずもないので、『ボウイ&キーチ』(1974年)には特に叙情的な部分はない。原作者がエドワード・ロビンソンで、ニコラス・レイの『夜の人々』と同じ、つまり、リメイクになるわけだが、恥ずかしいことにレイの方は見ていないので、どんな相違があるのかはわからない。しかし、題名だけから判断すると、レイの映画はよりフィルム・ノワール的であるようで、アルトマンの映画ではほとんど常に日の光が差している。
そして、なによりも、これもまた常に背景に流れているラジオが印象深く、ウディ・アレンの『ラジオ・デイズ』のようにノスタルジックでもなく、むしろラジオの音声という地、層が一枚加わった世界像を提示しているかのようだ。

2015年7月17日金曜日

幻惑的な直喩――円地文子『小町変相』


 『大言海』によれば「すげむ」とは、「年、老イテ、口、歪ム。又、歯、疎ナリ。」とあり、滅多にみない言葉であるが、案の定、用例としてあげられているのは、円地文子もまた現代語訳した『源氏物語』からだけである。しかし、辞書を引く前から、なにかおどろおどろしい雰囲気は漂っている。

 麗子の微かなすげみをみせた唇から毒々しい言葉が吐き出される時、曖昧な窪みをただよわせた頬のあたりには濃いなまめきが滲んだ。 夏彦の肌が縮んだ。その鮫立ちの一つ一つに麗子の吐く濃い息吹がふきつけられているようであった。 「夏彦さん」 たぐり寄せるように麗子の手が夏彦の肩にのびた。 「夏彦さん、あなた、私をお母さんに勝たせてくれる?私をもう一度女にしてくれる?私、あなたのなかのお父さんにもう一度逢いたいのよ」 夏彦はふるえていた。肌の粟立ちが頬までのぼって来て、口の中で歯がかちかち触れた。 「寒い!」 と彼は言って、麗子の絹漉し豆腐のように軟らかい手を払いのけた。しかし手は彼の力ない拒絶をおしのけて、まるでところてんのようにするすると滑り落ちながら、彼の肩に胸にまつわりついて来た。『小町変相』

 老いているから歪んでいるのか、歪みが老いを垣間見させるのか、腐りかけのものがもつデカダンスがにじみでている。

 しかし、それよりも感心したのは、豆腐とところてんの直喩である。もともと直喩というのはさして重要視されない。現代作家では私の気づく限り、安部公房や村上春樹は意識的で工夫をしているが、それ以外は思いつかない。

 そもそも隠喩と比較して直喩が軽視されがちなのはいまに始まったわけではなく、既にアリストテレスは、隠喩よりも長くなるし、隠喩のように「~は~である」という新たな観点を引き入れるわけではないので、それ以上精神を喚起することがないゆえに、より関心を引くことがないとしている。

 だが、むしろいま、より困難なのだといえるのは印象的な直喩だろう。凡庸な直喩はエンターテイメント作品のように雰囲気を醸成し、文の累積のなかで消費されていけばすむが、「文学的」あるいは「詩的」であることを目指して直喩に向かうことは、よほど鈍感か、自覚的であるしかない。

 円地文子の文章は、困難な行程を見事に乗りこなしている。というのも、手が絹漉し豆腐だという隠喩であったなら、あまりに容易に崩れてしまう豆腐と身体のなかでももっとも器用でしなやかな手を並置することは、さほど印象的だとは思われなかっただろう。つまり、この比喩を輝かせているのは、手が豆腐やところてんのようであっても、決して実際には豆腐やところてんではないという点であり、直喩の「のように」という言葉こそが胆となっている点にあるのだ。

2015年7月14日火曜日

超自我と声



 声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。

 発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。

 自分が視覚的な人間なのか聴覚的な人間なのか、よくわからない。もともと人間関係については記憶力に欠けたところがあって、大学時代の同級生さえあまりおぼえていないのだが、場所にまつわる記憶は鮮明で、夏をよく過ごした街などは歩く速度で端から端まで追体験できる気がする。こうした記憶はもちろん、視覚的なものだといえるだろう。

 しかし、親しい友人や亡くなった人物のことを思い返すと、顔はぼやけ、むしろ声だけがよみがってくる。もともと、子供のころにテレビがないほどの旧世代ではないが、ラジオで育ったことは確かで、特にTBSの『一慶・美雄の夜はともだち』は大好きで、なかでも渥美清のローマンス劇場、夜のミステリーは印象的で、夜のミステリーはいまではほとんど放送されなくなってしまったラジオ・ドラマで、『世にも奇妙な物語』やそのもともとをいえばアメリカの『トワイライト・ゾーン』に連なるような、推理もののミステリーではない、後に「奇妙な味」といわれることになるようなもので、鈴木清順なども原作者として名を連ねていた。

 『オールナイト・ニッポン』の黄金期にはもちろん夢中になったが、情けないことに大体が寝落ちしてしまい、最後まで聴いたのは数えるほどしかない。

 フロイトの超自我は、自我に対して道徳や倫理を要求し、しかもそれは一般的な道徳観と必ずしも一致するとは限らない。そしてまた自我に対する支配力を楽しみはじめる。ヒッチコックの『サイコ』などはその典型的な例であろう。

 だが、私自身には超自我が声と重なるという実感はさほどない。命令することもされることも嫌いだし、怒鳴り声や、そもそも大声自体が好きではなく、幸運なことに強圧的な声と命令とが重なることがなかったこともあるかもしれない。入院したときに幻覚をみたことがあるが、幻聴はいまだに経験したことがない。

鈴木清順『夢二』


 鈴木清順の大正ロマン三部作といわれるもののなかで、『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』は何回見たかわからないが、『夢二』はそれほどではなく、それでも5,6回は見ているだろうか。今回改めて見直してみて、もちろん十分面白いものではあるが、前二作には至らないと改めて感じた。

 ひとつにはあまり開放感がない。室内のシーンが多く、外にでても、金沢の山中であるので、密閉感がある。それゆえ運動感がない。『ツィゴイネルワイゼン』の原田芳雄や藤田敏八は常に歩いていたし、『陽炎座』の松田優作も必死の形相で歩きまわったものだが、夢二役の沢田研二はどちらかといえば寝ころがっているだけなのだ。『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花のいくつかの作品が組み合わされていたが(脚本は三作とも田中陽三)、『夢二』には原作といえるものがあるのか、実生活のどの程度の挿話が取られているのか、ロケーションや伊藤晴雨の元モデル、稲村御舟といった人物が実際に関わりをもったのか、夢二そのものにはさほど興味がない私にはよくわからない。

 俳優が毬谷友子にしろ宮崎萬純にしろ、沢田研二にしろ坂東玉三郎にしろ、軽やかすぎる。清順的登場人物といえば、『ツィゴイネルワイゼン』でいえば藤田敏八、『陽炎座』でいえば中村嘉葎雄、そしてなんといっても大友柳太郎といった存在自体が画面にわだかまるような人物がもっとも魅力的なのだが、『夢二』にはそうした人物が登場しない。ちょうど核となるオブジェ、イメージが『ツィゴイネルワイゼン』の骨、『陽炎座』の酸漿であるのに対し、紙風船というふわふわした情緒的なものなのも残念。

 広田玲央名は『陽炎座』でいえば加賀まりこの役割なのだが、いかんせん貫禄が不足している。もっとも大きな漬物樽につけられる場面は面白かった。

2015年7月11日土曜日

モンテ・ヘルマン『断絶』



 何十年かぶりにようやくモンテ・ヘルマンの『断絶』を見返すことができた。

 1971年の映画で、公開当時にみたとは到底思えないので、大学生のころにビデオでもみたか、あるいはテレビでみたようなこともあるかもしれない。おぼろげに印象に残っていたのは面白かったということとロード・ムーヴィーであることと、道路にたたずむ男の姿だけだった。更には、邦題に引きずられたのか、中年男と若者との「断絶」の話だということくらいだった。

 しかしなによりもまず、『断絶』は車の映画である。不思議なことに、子供のころはミニカーを集め、襖には車のシールを貼りまくり、道路を走っている車の車種をすべて言い当て、スーパーカーの展示会には幕張まで行ったにもかかわらず、いま記憶に残っているのは形状が明らかに異なるランボルギーニ・カウンタックくらいなのだ。免許を取らなかったことがあるかもしれないが、その理由ははっきりしていて、暇さえあれば酒を飲んでいた私は、運転することなどないと思っていた。いまはまったく酒を飲んでいないので、免許くらい取っておけばよかったな、と思わないでもないが、もともと余り注意深くないので、免許があったなら、とっくにこの世にいなくなっていたかもしれない。

 そのためばかりでもないだろうが、車についての映画、特にバート・レイノルズが主演していたような映画群についてはぽっかり穴があいている。それゆえ、印象に残っている車についての映画といっては、ウォルター・ヒル『ザ・ドライバー』、タランティーノ『デス・プルーフ』、レフン『ドライヴ』くらいである。

 『断絶』の主人公たちはレースを続けながら、アメリカ大陸を横切っていく。レースといっても、ヨーロッパ風のドライビング・テクニックが大いに必要とされるような曲折に富んだものではなく、スピード勝負の直線コースである。ときどきテレビなどで見て、なにが面白いのかと思ったものだが、古い車種を改造して、どれだけ抵抗をなくし、車体に見合ったエンジンを載せるかと考えはじめると、この映画の主人公がそうであるように、どれだけストイックになってもなりすぎることはない。

 彼らがそうして転戦しているうちに、若い女と中年男が加わることになるが、恋や深い愛情に発展することもなく別れていく。敷かし、それを「断絶」といってしまっては映画を不必要に深刻めかすことになり、むしろ日常にあるのはそうした小さな擦れちがい、触れあいであり、もちろんそれは映画の主題とはならないと思われてきたので、映画史的な「断絶」はあるかもしれないが、そうした日常を描くことが珍しくなくなった今日からみれば、単純にとても面白い映画である。

2015年7月4日土曜日

非連続的な音楽



 部屋中のものをひっくり返す事情があって、しばらく目にしてなかった本もあったが、よく聞いていたCDがでてきた方が嬉しかった。というのも、よく聞いていたものが大事なので、専用のケースに入れていたところが、そのケース自体が引越したときに奥まったところに置かれてしまったために、引っ張り出す機会がなかったのだ。デレク・ベイリー、セシル・テイラー、ジェリ・アレン、ジェイムス・ニュートン、アンドリュー・ヒルなどといったフリー、あるいはポスト・フリート呼ばれるアヴァンギャルドなジャズがでてきた。

 そもそもジャンルでいうとジャズがもっとも好き、というか最も長い時間聴いていられる音楽なのだが、ビック・バンドやビ・バップもたまに聞くといいが、しばらく聴いているとどこかじれったくなってきて、混沌としたフリーにたどりついてほっとする始末なのだが、あえて理屈をつけてみると、フリー、あるいはいつでもフリーへと転化するポスト・フリーでは、テーマこそみられることもあるが、他の音楽では大体においてみられる終わりに向けての勾配がほとんどない。つまりはどこで終わってもいい音楽であり、形容矛盾とも思われるような非連続的な音楽なのである。AACM(Association for the Advancement of Creative Musicians) 出身であるトランペッター、レオ・スミスは次のようにいっている(印象に残ったので書き抜いていたのだが、どこから引用したのかわからなくなってしまった)。

 私の作品は多面-即興である――最初の音は展開していくものであるとともに既にしてクライマックスである。私は点から点に移動することはない。なぜなら各点は既に出発することのうちに含まれているからだ。

 ベルグソンは純粋持続の好例として音楽をあげたが、非連続な点としての音楽がここにはある。もちろん、非連続な点だけでいいというなら素人のでたらめと何の変わりもなく、創造的な瞬間の連続というほとんど無謀とも思えることが要求されており、そうはいってもフリー・ジャズの多くが退屈なものにとどまっているのは、いかにこの要求が無謀であるかの傍証でもあるだろうが、それだけにそうした無謀さを成功させる人物には頭が下がる。



 ぼんやりと伊東四朗と羽田美智子が主演の『おかしな刑事』をみていたら、落語の『王子の狐』が話を引っぱる大きな要素となっていて、狐信仰や民俗へと拡がっていくのだが、おかしいなあ、何回聴いても筋のよくわからない、落語家が内職をする話で、民俗学的なこととは関係がないはずだがなあ、と思って確認すると、案の定、私は『今戸の狐』と勘違いしていた。

2015年7月1日水曜日

衝撃の展開




 映画のネタバレについては最近非常に過敏な状況で、私などはあまりに過敏すぎると思われる。いくら内容について詳しく語られようが、私などさして気にならないのだが、しかし考えてみると、自分の好きな監督や楽しみにしている作品となると、やや話は異なっていて、気になっている作品だから、聞きたくなってしまうもので、おおむね聞いたからといってどうということもないのだが、紹介番組でも宣伝文句にもよく使われる衝撃のラストというのだけは勘弁してもらいたい。衝撃のラスト(あるいは展開)ということが最上のネタバレなのではないか。最近の例でいえばデヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』がいい例で、衝撃的な展開ということがあまりに言われていたので、あまりに期待していたせいか、正直なところどこが衝撃的なのかよくわからなかった。あまりに衝撃が喧伝された結果、衝撃への期待がインフレ状態となり、現実の作品がそれに追いつかなかったのだ。もっとも、映画そのものは期待したとおり面白かった。

 アレックス・デ・ラ・イグレシアはスペイン出身の監督で、これまで一本も見たことがなかった。2008年の『オックスフォード連続殺人』は、大学の町オックスフォードを舞台に、ちなみにイギリスのグラナダ・テレビのモース警部シリーズ(コリン・デクスターの原作)もオックスフォードが舞台になっているが、高名な数学者とその学生とが連続殺人の謎を解くという内容としていえば、テレビ・ドラマとさして変わりはないのだが、最初の被害者が発見される場面、教授と自転車に乗った学生とが通りですれ違い、別の道を通って同じ家にたどり着くと、玄関で合流し、家のなかに入って死に顔をさらす老女のクローズ・アップがワン・カットでとらえられて、それは死に顔のアップから後ずさりし、そのまま階段を降りて扉が開き、街の喧騒のなかにある家をとらえるまでを同じくワン・カットでとらえているヒッチコックの『フレンジー』へのオマージュとも思われるのだが、衝撃の展開とは言わないが、ちくりと一刺しされるかのような心地よさを伴っている。

2015年6月29日月曜日

『骨と酸漿』という本がでました

 風の花冠文庫から『骨と酸漿~文学と映画とに関する104章~』という本が出ました。文庫の大きさ、354ページで、文学(主として小説)と映画についての短いエッセイが104編収められています。ISBN番号はありますが、部数が少ないので、アマゾンなどには出品していません。ご希望の方はメール・フォームでご連絡ください。定価1500円+送料一冊分215円となります。

 ジャパンネット銀行、楽天銀行、じぶん銀行、ゆうちょ銀行、JAバンクなどの振り込みに対応しています。

 目次は次のようなものです。

序の壱 澁澤龍彦『玩物草紙』(1979年)
序の弐 幸田露伴『運命』(1919年)

  1.解放された世界
      火星人と車輪――H・G・ウェルズ『宇宙戦争』(1898年)
      ヒト型未確認物体――チャールズ・F・ライスナー『キートンの蒸気船』(1928年)

  2.モダン・タイムス
      荒野の爽快感――アルフレッド・ジャリ『超男性』(1901年)
      その笑い――チャップリン『街の灯』(1931年)

  3.御冗談デショ
      彫刻と二種類の動き――リルケ『ロダン』(1902年)
      スープの香り――レオ・マッケリー『我が輩はカモである』(1933年)

  4.愛の博物誌
      スタイルと生理――レミ・ド・グールモン『スタイル』(1902年)
      オーケストラとしての身体――ジョージ・スティーヴンス『有頂天時代』(1936年)

  5.照葉狂言
      夢から身を守る法――泉鏡花『春昼』(1906年)
      夢としての映画――清水宏『有りがたうさん』(1936年)

  6.真面目が肝心
      浅薄と自覚――オスカー・ワイルド『獄中記』(1906年)
      辛辣な理想主義――フランク・キャプラ『オペラハット』(1936年)

  7.特急二十世紀
      ある種の性格の類型――ハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』(1912年)
      速度の愛――ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)

  8.カリグラム
      視差と時差の世界――アポリネール『月の王』(1916年)
      椅子からずり落ちるには――プレストン・スタージェス『パームビーチ・ストーリー』(1942年)

  9.ある戦いの記録
      とんとん落ちとしての解釈――カフカ『学会への報告』(1917年)
      甘草と涙――ジョージ・キューカー『アダム氏とマダム』(1949年)

  10.望みなき捜索
      はかなさとノスタルジア――アーネスト・ダウスン『詩文集』(1919年)
      遅すぎた成長――ジョセフ・H・ルイス『拳銃魔』(1949年)

  11.野良犬
      晴朗なる穀潰し――武林無想庵『ピルロニストのように』(1920年)
      侍という身分――黒澤明『七人の侍』(1954年)

  12.疑惑の影
      ロボットと神聖冒瀆――カレル・チャペック『ロボット』(1920年)
      ケ・セラ・セラ――ヒッチコック『知りすぎていた男』(1956年)

  13.甘い生活
      痙攣としての逸話――アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1928,63年)
      祝祭の種子――フェデリコ・フェリーニ『82/1』(1963年)

  14.永久運動
      イグニッションとしての女性――ルイ・アラゴン『イレーヌ』(1928年)
      寓意を拒む物――ミクロシュ・ヤンチョー『密告の砦』(1965年)

  15.パッション
      腿の内側と内側――江戸川乱歩『押絵と旅する男』(1929年)
      愛に代わるもの――ジャン=リュック・ゴダール『ウイークエンド』(1967年)

  16.白蟻
      比例と無限記号――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1934年)
      あまりに硬すぎるしなり――ストローブ=ユイレ『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1968年)

  17.六道遊行
      精神の成功と失敗――石川淳『佳人』(1935年)
      神に対する会話の勝利――エリック・ロメール『モード家の一夜』(1968年)

  18.快楽の漸進的横滑り
      手の祭壇――大手拓次『詩集』(1936~41年) 
      コンポジションとシークエンス――アラン・ロブ=グリエ『エデン、その後』(1970年)

  19.あめりか物語
      箱の中身――永井荷風『濹東綺譚』(1936年)
      希有な典型――ドン・シーゲル『ダーティハリー』(1971年)

  20.自由の幻想
      ボルヘス『「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール』(1939年)
      映画の秘かな愉しみ――ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)

  21.冷房装置の悪夢
      事実と笑い――ヘンリー・ミラー『南回帰線』(1939年)
      突然変異の栽培者――フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドフーァザー』(1972~90年)

  22.フレンチ・コネクション
      魂を吸うカメラ――ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(1940年)
      悪魔が映画をつくった――ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』(1973年)

  23.呪われた部分
      理解しがたい単純性――ジョルジュ・バタイユ 『マダム・エドワルダ』(1941年)
      暴力と鎮魂――深作欣二『仁義なき戦い』(1973年)

  24.末期の眼
      芸としての勝負――川端康成『名人』(1942年)
      カメラと精神――シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン』(1975年)

  25.フール・フォア・ラブ
      ボルヘス的翻訳――吉川幸次郎『洛中書簡』(1946年)
      砂漠の女――ロバート・アルトマン『三人の女』(1977年)

  26.フェノミナ
      イノチガケの違い――坂口安吾『二流の人』(1947年)
      不思議の国――ダリオ・アルジェント『サスペリア』(1977年)

  27.末枯
        ・・・・・・――久保田万太郎『好学社版全集』(1947~9年)
      彼らはどんなところでも歩きまわるだろう--ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(1978年)

  28.凸凹道
      ドームとしての風景――内田百閒『阿呆列車』(1952年)
      芋づるとの格闘――テリー・ジョーンズ『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)

  29.肉体の門
      二つの境界線の間――ピエール・ド・マンディアルグ『大理石』(1953年)
      死者の王国――鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)

  30.けんかえれじい
      悪人が好む詩――花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
      通底器――鈴木清順『陽炎座』(1981年)

  31.緑のアリが夢みるところ
      亡霊はここにいる――ジャン・ポーラン『ブラック』(1958年)
      見者のオペラ――ヴェルナー・ヘルツォーク『フィッツカラルド』(1982年)

  32.完全な真空
      機械仕掛けのトラウマ――スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』(1961年)
      御伽草子――テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988年)

  33.偶然
      ずぼらという拠点――古今亭志ん生『びんぼう自慢』(1964年)
      日常と取り返しのつかぬもの――クシシュトフ・キェシロフスキ『デカローグ』(1988-9年)

  34.人生の日曜日
      夢と歴史――レーモン・クノー『青い花』(1965年)
      倫理的、あまりに倫理的な――クリント・イーストウッド『許されざる者』(1992年)

  35.愛の渇き
      亡霊たちの終末――アンナ・カヴァン『氷』(1967年)
      夜と雨――石井隆『ヌードの夜』(1993年)

  36.真夜中のマリア
      花を咲かせる甘美さ――野坂昭如『骨餓身峠死人葛』(1969年)
      日常的な奇跡――ハロルド・ライミス『恋はデジャ・ブ』(1993年)

  37.ソナチネ
      魔法使いの弟子――齋藤磯雄『ピモダン館』(1970年)
      くだらなさについて――北野武『みんな~やってるか!』(1994年)

  38.砂の上の植物群
      女性器というテーマ――吉行淳之介『暗室』(1970年)
      枠のある世界――デヴィッド・フィンチャー『セブン』(1995年)

  39.時計仕掛けのオレンジ
      否認と排除――吉田健一『東京の昔』(1974年)
      二度めの正直――スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)

  40.水中都市
      主人公が積極的につくりだす迷宮――安部公房『密会』(1977年)
      清冽と澱み――大島渚『御法度』(1999年)

  41.アカルイミライ
      いいかげんな世界――平岡正明『タモリだよ!』(1981年)
      消え去らないための根拠――黒沢清『大いなる幻影』(1999年)

  42.時は乱れて
      もうひとつの悪夢――フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(1981年)
      解消できない困惑について――スティーブン・スピルバーグ『A.I.』(2001年)

  43.挟み撃ち
      珍妙さという本領――後藤明生『壁の中』(1986年)
      ダンスのないダンス映画――アッバス・キアロスタミ『10話』(2002年)

  44.黒い風琴
      エッセイと随筆――富士川英郎『茶前酒後』(1989年)
      それはまた別の話――ダルデンヌ兄弟『息子のまなざし』(2002年) 

  45.流れる
      存在の強さ――幸田文『木』(1992年)
      ノスタルジアの電車――侯孝賢『珈琲時光』(2003年)

  46.天使のたまご
      言った言葉が・・・・・・--三木のり平『のり平のパーッといきましょう(1999年)』
      中華的シュルレアリスム――押井守『イノセンス』(2004年)

  47.コズモポリス
      存在と気配――藤沢周『さだめ』(2000年)
      悪夢と幻覚――デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(2006年)

  48.コックサッカーブルース
      もろく根拠のない快楽の強さ――村上龍『半島を出よ』(2005年)
      映画の外にあるフィルム――クエンティン・タランティーノ『デス・プルーフ』(2007年)

  49.インターステラ―
      建設のための拡散――阿部和重『ピストルズ』(2010年)
      現実という模様――クリストフォー・ノーラン『インセプション』(2010年)

  50. 美女と犯罪
      果てしなきベスト・テン――山田宏一『映画 果てしなきベスト・テン』(2013年)
      イタリアの倦怠――パオロ・ソレンティーノ『グレート・ビューティー/追憶のローマ』(2013年)

結の壱 幸田露伴『幻談』(1938年)
結の弐 澁澤龍彦『唐草物語』(1981年)

2015年6月28日日曜日

6月28日 プラットホーム



 ジャ・ジャンクーの『スリ』や『プラットフォーム』はどちらも群像劇で、主人公といっては語弊があるが、間違いなく中心的で、監督の心情を投影しているとおぼしいワン・ホンウェイは大泉洋そっくりで、特に『プラットフォーム』では劇団に関係し、歌まで歌っているのだから、栗とドングリくらいには似ている。

 『プラットフォーム』は1980年代の中国を描いており、多義的な題名である。映画中で幾度か繰り返されるプラットフォームの歌もあるが、変わっていく時代のなかでどさ回りのようなことをしなければならなくなった登場人物たちが通過していく駅のプラットフォームもあるだろうし(もっとも、駅そのものを描いた場面はさほどない)、コンピューターのプラットフォームというときのように、OS的な中国の基本的部分を示してもいるのだろう。プラットフォームとはまた演台のように一段高いところを意味するが、すべてがその高さに至らなければ意味がない礎となるべき第一歩でもある。

 昔の日本がたどった道をいまの中国が経験している、とはよく言われることだが、私は非常に懐疑的だ。中国の広さがうまく想像できないためもある。日本くらい狭いと東京と京都で歴史は転回し、雰囲気・空気が形成され、監視の目もある程度行き渡る。せいぜい二極しかないから、時代・風潮がころころ変わるのはここ十年を見てもわかるとおり。一方中国は、もちろん王朝の変化はそれなりにあったが、本当の変革というのは漢民族が中央を追われた元のときと、毛沢東による共産主義革命にしかなかったのではないか。いくつものプラトーが形成され、それが幾千にもなったときには、すでにそれはプラトーではなく、新たな地表なのだ。

 どさ回りといえば、もう何年前に読んだか覚えてもいない横光利一の『時間』を読み返した。どさ回りの連中が旅の途中、無一文のまま団長に置き去りにされるという話だった。吉田健一のほぼ直系の先輩だから、飲み食いや酒を飲んでいるあいだにも時間はたっていき、そうした時間を意識しているあいだにも時間はたっており、そうした循環のうちに倦怠に陥ることもあるといったような小説の片鱗でもうかがえるかと思ったが、言い方は悪いがもっと泥臭い普通の小説だった。

 とここまで書いて、ジャ・ジャンクーの映画は『プラットホーム』という表記だと気づいた。駅にあるのはホームだが、platformの略で、和製英語なのかしら。

2015年6月27日土曜日

6月27日 アンブレイカブル



 フロアーの床にはいつまでたっても慣れないもので、もっともすでに十年以上フロアーの部屋に暮らしているのだが、ひとによっては汚いというものもあるかもしれない乱雑な、その実どんぶり勘定ほどには計算をし尽くした細々したものが配置されて、言い方を変えれば足の踏み場がなくなっていたので、なにか割れるものを踏みつけて危ないということはあっても、床で滑ることはほとんどなかった。

 ところが先日、見渡すかぎりのフロアーのなかで、しかも細いパイプの脚が四本ついただけの簡易椅子に、そのまま座れば問題はなかったのだろうが、無意識に悟りを求めているわけでもないだろうが、片方の脚を折りたたんで、半跏思惟像の形を取って、隙があれば天上天下唯我独尊とでも言い放ってやろうと思っている私は、いつものように堅く狭い椅子の上に折りたたんだ脚をのせて座ろうとした瞬間、摩擦係数の計算をするまでもなく、傾いた椅子にかかる荷重は垂直に床の上で安定するよりは傾きをさらに傾かせるべく働いて、唯我独尊というよりは転んでも一人。

 とはいえ、敬虔な心情が自己放下としてあらわれたのか、重力のなかにも神仏は宿り、転んだとはいうもののその過程は内村航平の演技の如く、床に寝そべった姿も転がったというよりは着地姿に似ていた。

 こんなことを思いだしたのも、数日前、人工的な切り通しが、逆方向から行くとだらだらと登り坂になっているのがはっきりとするが、下りのときには、快適さのみが勝って、下りが続く加速度を考慮に入れないことよりも快適さの方が勝って、後から振り返ると敬虔さよりも快楽が勝った結果が覿面にあらわれ、縁石にぶつかると、それこそ何十年かぶりに自転車でひっくり返った。にもかかわらず、敬虔さより快楽が勝っていたにもかかわらず、擦り傷ひとつなく、「魂が揺れるんです」となにかの映画のキャッチコピーにあったように思うが、「脳が揺れるんです」とは感じたものの、脳しんとうにも及ばず、これが快楽の結果だとすれば、神仏の加護などいうも愚かなこと、映画としてはさして面白くはなかったものの、ついでにいえばどんどん評判を落とし、残酷なものだと思いながらも、実際に作品を見ると、まあ、しょうがないかな、と思わないでもないナイト・シャマランの『アンブレイカブル』を思い返し、どんな高さから落ち、なににぶつかろうが、生き残るだろうと、つい、邪な思いに誘われる。

2015年5月14日木曜日

三隅研次『御用牙』


1972年の東宝映画。初期の『必殺』シリーズや、『木枯らし紋次郎』『子連れ狼』などのハードボイルドと、東映のお色気時代劇の中間にあるような作品。勝新太郎演じる同心は、守れもしないことに従えるか、と毎年行われる同心規則への血判による同意をも無視するような硬骨漢である。

ところが、彼が事件を解決する方法といっては、鍵となる女性が出てくるや、犯して虜にして、情報を得ることに尽きる。もっともそのための修行も並大抵のものではなく、金冷方で男根を冷やすことからはじまり、木の棒でばんばん殴りつけ、米俵に突き刺しして鍛えるのである。

そんな逸物で浅丘夢路や渥美マリから情報を得ると、見事に事件を解決してしまうのだ。敵役は田村高広だが、同じく三隅研次の『座頭市』の天知茂とのように、清い交流があるわけではなく、はじめて会ったときが対決のときで、ひどくあっさりしている。結末部分にすらなっておらず、決着がついたあとで、特に関係のないもうひとつのエピソードが挟まって映画が終わる。

ピストン運動で、ペニスから見たとおぼしき膣の内部の映像を見せるなど、三隅研次はずいぶんと妙なことをしている。

2015年4月7日火曜日

萩原朔太郎と複数性


吉川幸次郎が儒学や杜甫についての大学者なのはいうまでもないが、学問の厳しさを感じることはあっても、批評の鋭さを感じることはなかった。

ところが「萩原朔太郎ーもの、寝台、陸橋ー」という10ページにも満たないような短い文章は、どんな朔太郎論よりも説得力のあるものだった。とはいえ、それほど朔太郎論を読んでいるわけではないので、この短文はとっくに問題にされているかもしれないし、異なった視点から同じような結論を引きだしている人もいるのかもしれない。

とにかく、吉川幸次郎によれば、朔太郎は常に複数を求める。複数を支えるのは抽象である。たとえば、詩「竹」にある「もの」は多くの詩人の場合のように象徴ではなく、抽象である。複数の世界の重さに堪えるものとして「寝台」があった。

象徴ではなく観念が求められたから、朔太郎は自然には興味をもたなかった。

陸橋を渡つて行かう
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで(「蝶を夢む」ー陸橋−」)
陸橋の下にあるのは自然ではない、もつれ合う複数の軌道である。

桑原武夫が、京都の竜安寺に詩人を案内したとき、これらのコンクリートの塊は、どのように合成したのかと問われて、困惑したという。

2015年4月1日水曜日

ヒッチコックの『ハリーの災難』とロマンス


ヒッチコックの『ハリーの災難』は、ハリーという男の死体が発見され、自分が殺したと思い込んだ複数の人間が、死体をあちらこちらに隠そうとする顛末を描いた映画である。

ヒッチコック映画のなかでももっとも好きな一本なのだが、確かヒッチコック自身も語っていたように、イギリス流のユーモア、あるいはイギリス風の言いまわしのややこしさ(understatement)、よい悪いをはっきり言わずに、悪くないというような、もしくはキートンに通じるようなデットパンの、死体があるのに、まあどうしましょうと日常的な対応で済ませようとする、そうした感覚が発露したものだと思っていた。

ところが、レスリー・ブリルによれば、『ハリーの災難』のおかしさは、そうした不調和な対応にあるのではなく(つまり、死体があるのに、日常の延長でそれに対応しようとする)、暎がから完全に破壊的なものを排除しているところにある。映画のなかの誰も実際的な苦痛を受けたり、その原因になったりはしない。またそうした脅威にさらされさえしない。この映画の喜劇的な要素とは、結局のところ、再生というテーマの強迫観念的なまでの反覆にあるのだという。時間や死が人を傷つける力をもたないなら、恐れるべきなにがあろう。

それに死体は最終的には、小さな田舎町を一組のカップルを中心に結びつける。そうした意味で、『ハリーの災難』はヒッチコックの映画のなかでも、ロマンス(ノースロップ・フライの分類によるところの)として完成したものだということになる。

説得力はある議論だが、シニカルなイギリス流ユーモアだという旧来の考え方を捨てるまでにはいたらないか。むしろ、ユーモア感覚が、この映画をロマンス的なものにした方が効果的だと考えた、という方が実情に合っているように思う。

2015年3月30日月曜日

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース


フレッド・アステアの映画といえば、なによりジンジャー・ロジャースとのコンビが一番好きなのだが、不思議なことにジンジャー・ロジャースの顔が、思いだそうとすると、いつもぼやけて曖昧な靄のなかに包まれてしまうのだった。

ところが、ジェーン・フューアーの本を読んでいて、その謎がある部分解決されたように感じた。というのも、彼女によると、アステア=ロジャースの映画は、アステアとダンスとの同一化を結晶化するように働いているからだ。

この同一化には二つのしるしがあり、ひとつは、アステアの身体が意識によるコントロールを離れて、意志によることなく踊りはじめることにある。『トップ・ハット』にあるように、気がつくとアステアは踊っている。

この無意識のダンスが、踊りと生きることを同一化するとすれば、第二にあるのは、アステアにとって、ダンスと救済とが分かちがたく絡みあっていることだ。作詞家こそ異なれ、天、つまりheavenの要素がアステアのダンス映画には突出している。Cheek to Cheekでは冒頭から、ダンスと天上への旅が同じであることが歌われるし、アステアが天使的な役割をすることも多い。

こうした指摘をされると、ダンスとともに生きるのではなく、ダンスこそが生きることであり、しかも天使的存在が相手ともなれば、ジンジャーといえども、その存在感を顔にまで充実させることができなかったに違いない。

2015年3月26日木曜日

日夏耿之介監修『奢灞都』4号

大正14年9月号。
1.ルミ・ド・グウルモン「秋詞」
堀口九萬一による漢詩になぞらえた訳。
2.吉江喬松「碧緑の室」
部屋の鏡にアフロディテのように浮かび上がる女。
3.龍膽寺旻「仙人掌」
倦怠を歌った詩。
4.J・V・L・「四旬節が関る頃の話」
第一話 日のなかの黄昏。これもまたある種の倦怠の話で、昼のなかに黄昏を見る男との対話。
5.岩佐東一郎「パステル画」
四つの短い詩。
6.日夏耿之介「呉牛月に喘ぐ」
白鳥某に対する反論。
7.木本秀生「夜の舗道」
夜、友人と歩いている男。軽い落ちがある。
8.矢野目源一「玄義道士の言葉」
ジョセフ・ペラダンの言葉。
9.石上好古「几辺聚珍」
最近の出版物の紹介。
10.燕石猷「遠き唄」
詩。
11.龍膽寺旻「TURBA PHILOSOPHORUM」
錬金術の書物のこと。
12.阿古沼充郎「密語」
殿様の奥方の密会と待ち望んだ死。
13.ホフマン「黄金宝壺」
石川道雄訳。前号の続き。
14.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。前号の続き。
15.日夏耿之介「瞑林?{忄に夢]語」
真剣さと遊戯性は相反しないこと。
16.吉例編輯後記

2015年3月22日日曜日

日夏耿之介監修『奢灞都3号』

大正十三年六月号。
1.吉江喬松「白き殿堂」
3ページの宗教的小品。
2.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。前号の続き。
3.茶煙亭「暮春漫録」
海外文学の紹介。
4.J・V・L・「RONDEL」
「薔薇を悼む歌」という副題をもつ詩。
5.龍膽寺旻「小豆洗ひ」
妖怪の小豆洗いの由来談のようなもの。
6.石上好古「机辺聚珍」
日本における西欧文学の紹介が中心。
7.阿古沼充郎「黒帆」
エーゲ海にまつわる詩。
8.岩佐東一郎「宝石函」
小さな宝石箱に入った操り人形にまつわる短編。
9.木本秀生「埋葬」
墓掘り人と話す男が、埋葬されるのが自分だと悟る。
10.稲田稔「梨園贅語」
築地小劇場が上演したチェーホフの「桜の園」についての評。おおむね好意的。
11.矢野目源一「尾上の聖母像」
詩。
12.ホフマン「黄金宝壺」
前号の続き。
13.萱雨亭「花時計」
俳句五句。
「永き日や林寧(リンネ)が苑(には)の花時計」
「卯の花や逢魔が時の俄雨」
14.日夏耿之介「樹下石上」
誕生日を迎えての感懐。
15.吉例編輯後記

2015年3月21日土曜日

アナイス・ニン『小鳥たち』


フランスでは、作家がポルノグラフィーをかくことが、少なくとも二十世紀前半くらいまでは伝統のようなものになっていた。ジャン・ポーランに『O情の物語』があり、バタイユには『マダム・エドアルダ』がある。アナイス・ニンのエロティカもそうしたものかと思っていたのだが、「まえがき」によると、仲間の貧しい芸術家たちを支援する為に書き始めたのだそうだ。「文学的売春館という異様な館のマダム」だったと本人はいっている。短編集で、それぞれ簡単に触れると、

小鳥たち:女子校の前に引っ越す露出症の男。

砂丘の女:夜眠れない男がさまよい歩く。砂丘で女に出会い、二人で歩きながら性交を続ける。女はロシアの過激派がパリで絞首刑にされたとき、見知らぬ男に後ろから犯されたことを語る。

リナ:妙に厳格なところのあるリナだったが、女友達である私と私の彼の家に行き、お香の催淫作用もあって奔放に振る舞う。

二人姉妹:姉が妹の彼と寝てしまう。妹も遊びのつもりで付き合っているのだから、と軽い気でいたのだが、実は妹は本気で彼を愛しており、二人が結婚することになると生気が失われ、老女のようになってしまう。姉の方もそれ以来快感を得ることができなくなる。

シロッコ:デーカにいるときに、二人の女性を知るようになったが、他の観光客とは異なり、挨拶を交わすこともなかった。シロッコが吹くとき、風が止むまでいたら、と二人の家に上げられる。そこで一方の女性のこれまでの(性)生活が語られる。

マハ:画家がゴヤのマハに似た女性と結婚する。しかし、女は厳格なカトリックだった。やがて画家は、放恣な裸体をさらす自分が描く彼女で欲望を満たすようになる。

モデル:箱入り娘がモデルの仕事に就き、様々な画家のところをまわる。

女王:画家が語る、娼婦の精髄のような女の話。

ヒルだとランゴ:ヒルだがランゴという男性に出会い、新しいエロティックな感覚を知るようになる。

チャンチキート:チャンチキートはブラジルにいるという小さな豚のような動物で、やたらに鼻が長く、女性の両脚のあいだに鼻を突っ込む。恋人の画家に天上の漆喰の乱雑な形をたどって絵を描いてもらう。

サフラン:名家に嫁に行ったが、夫は性交を最後まで終えることができない。ところが、ある日サフランの香りが催淫効果を及ぼし、性交に成功する。

マンドラ:夫のいる女性とのレスビアン関係。

家出娘:家出娘が男二人が住むアパートに転がり込んでくる。一種の三角関係。

確かに、バタイユの形而上学的ポルノとは異なり、ちゃんと興奮できるようになっている。

2015年3月20日金曜日

ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト3』


『エクソシスト』の『ビギニング』と『ドミニオン』を続けてみたら、第一作のメリン神父の若いころのエピソードが描かれていて、メリン神父役はステラン・ステラスガルドで共通していて、しかも話がほとんど一緒なので妙なことだな、と思っていたら、案の定、ポール・シュレーダーが監督した『ドミニオン』があまりに地味すぎるので、監督がレニー・ハーリンになり撮り直したのが『ビギニング』だという、ハリウッドではよく聞く話で、しかもウィキによれば、ポール・シュレーダーも、予定されていたジョン・フランケンハイマーが死亡したために起用されたのだという(『ドミニオン』も『ビギニング』も撮影はヴィットリオ・ストラーロという豪華さ)。フランケンハイマーが撮っていたら、『フレンチ・コネクション』再びということだったのだろう。

確かに『ビギニング』の方がアクションは派手になっているが、いくらでもアクション映画があるなかで、『エクソシスト』のような日常とはちょっとずれたところに妙なアクションを練り込むという工夫がされていないために、さしたることはなかった。

そもそもジョン・ブアマンの第2作目にはじまったことだが、人類学的な要素を取り入れ、悪魔の起源をアフリカに求めるのが差別的とまではいわないが、陳腐である。もちろん『幼年期の終り』くらいまでいけばセンス・オブ・ワンダーがあるわけだが。

『エクソシスト3』は第一作で刑事で登場したジョージ・C・スコットが主人公で、第一作からは十五年がたっている。ワシントンのリーガンが住んでいた家の周辺で、猟奇的な連続殺人が起きる。捜査を進めているうちに、ある病院にたどり着き、その隔離病棟に十五年前に窓から飛びだして死んだのを自分の目で見たダミアン神父が隔離されているのを知ることになる。

『エクソシスト』は屋内、屋外ともに階段が魅力的な映画だったが、この映画では家の脇の屋外の階段が冒頭から何度もでてくるのが嬉しいところ。それに、前に前にと前進していくカメラが印象的。

2015年3月19日木曜日

阿部和重『クエーサーと13番目の柱』


ほとんど傭兵部隊のように特殊技能に優れ、組織化されたパパラッチの集団が、さる富裕な人物に雇われ、Qと呼ばれるアイドルの行動を監視し、可能なら盗撮する。Qはキングに対するクイーンであるとともに、ぎりぎり観測できるほどの遠くを大きな光を放ちながら流れ去っていく星、つまりクエーサーをも意味している。

それゆえ、Qというのは実在する女性よりは大きな象徴的意味をもつ存在であり(冒頭に登場するダイアナ妃のように)、対象となる女性が変わることもある。実際、作中で対象は変わり、ボーカロイドとヒューマノイド・ロボットと三人でユニットを組むミカが標的になる。

ところが、この傭兵集団に加入した新入りは、思考が現実化するという陳腐でもあり、文字通りに信じると恐ろしくもある信念を持った人物であり、ミカでダイアナ妃の自動車事故を再現しようとする。

いかがわしい教えを取り入れるのがあいかわらずうまい。最後の場面はまるで、『ジョジョ』第三部の最終対決のときのようなのだが、気のせいだろうか。

2015年3月18日水曜日

日夏耿之介監修『奢灞都2号』

大正十四年四月号。180ページ。
1.J・V・L・「曇れる古鏡の街」
詩。
2.矢野目源一「御公現祭式」
中世紀フランスの宗教劇。日本における神楽舞のようなものだといっている。
3.岩佐東一郎「夢を売る寺院」
前号の続き。一首の幻想譚。
4.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。途中まで。
5.山宮允「ブレイクとその時代」
題名通りの評論。
6.茶煙亭「紫煙閑話」
1ページの煙草に関する雑学。自分がパイプを吸うだけに関心を引くところも多い。
「夢を見る為に眠る必要はない。眠る為に夢を見るべきである。その手段として有効なのは阿片でもない、ハシッシュでもない、唯煙草あるのみ。」
「忠実な犬はその主人を忘れない。真の友人は一人である。まことの喫煙家は一つのパイプしか持たず、しかも日に三度以上はつめかへぬ。」
最後の箴言などは、日に三度は詰め替えないが、安物のパイプをとっかえひっかえ使っている自分には耳が痛い。
7.木本秀生「曼珠沙華」
副題「夢の喫煙者」曼珠沙華に女の頸を見る幻想。
8.ホフマン「黄金宝壺」
石川道雄訳。前号からの続き。
9.龍膽寺旻「冬眠賦」
詩。
10.日夏耿之介「随筆緊箍咒」
亡き父親のこと。
11.稲田稔「例月演劇管見」
武者小路実篤の「父と娘」を同士座が上演したのを評す。絶賛でも酷評でもなく、見るべきところもあったという程度。
12.吉例編輯後記

2015年3月17日火曜日

近松門左衛門『冥途の飛脚』


飛脚宿の養子の忠兵衛は、新町の抱え女郎梅川に惚れ込んで、水揚げしようとする田舎者のライバルがいるものだから、つい意地になって商売上の金に手をつけてしまう。それがたまたま友人の金だったものだから、義理の母親の責め言葉にもなんとか機転を利かせて救ってくれた。

ところがその友人が、その話を遊女たちの目の前で披露に及び、たまたまそれを聞きつけた忠兵衛は生まれつき頭に血の上りやすい性格、お屋敷から預かった三百両から五十両を叩き返し、残りの金で祝儀共々梅川の身請けの金にしてしまった。

もはや逃げるところまで逃げてあとは死ぬしかないと、大和は実父のところに帰るが、すでに追っ手は迫っており、お縄にかかる。

近松によくあるように、この作品も実際の事件をモデルにしたものだというが、梅川は刑死した忠兵衛に義理立てしてあとを追うこともせず、また店に出たそうだ。

実際、忠兵衛にはこれといって魅力がなく、五十両を叩き返すときには、こんなことをしても困るのはお前なのだから、やめておけ、と諫める友人の方がよほど義侠心に富んでいる。

それに、忠兵衛と梅川の深い間柄を象徴するような印象的なエピソードがないので二人の未来が切々と迫ってはこない。

2015年3月16日月曜日

ミネット・ウォルターズ『破壊者』


『女彫刻家』以来、ミネット・ウォルターズは現存するミステリー作家のなかでもっとも好きな作家のひとりである。
期待に違わず面白かったのだが、その面白さは通常のミステリーのものとは随分と違う。
『破壊者』と大仰な題名がついているが、誇大妄想狂と紙一重の、あるいは天才的な殺人者が出てくるわけでもなければ、鮮烈などんでん返しがあるわけではない。
ロンドンの西南、ドーセットのチャップマンズ入江で女の死体が発見される。
そこから連続殺人劇の幕が開くわけでもないし、別に種明かしになることでもないが、最初からの容疑者が犯人である(しかも、容疑者自体二人しかいない)。
最初にあがる二人の容疑者というのは、実際の殺人事件で当然容疑者にあがりそうな人物たちで、ミステリーなのだからそんなはずはない、といわばどちらの方向に話が流れていくのかわからない宙づりのまま結末にいたり、最後にそれらしい理屈はつくのだが、さほど説得力があるわけではなく、それよりは互いに意識し会っていた男女が無事結びつく方がより比重が大きく感じられて、宙づりの着地点としてはむしろそちらの方が正しいと思われるところが味噌である。