2015年11月20日金曜日

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とイーストウッド

セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)を見る。確か、公開時かそのちょっと後に名画座で見て、ずっと再見したいと思っていたのがようやく見られた。例によって記憶があやふやで、アヘンを吸って、ベッドに横たわったデ・ニーロからはじまり、少年時代にさかのぼって、再びベッドの上に行きついて終わったと思っていたが、全然違っていて、少年時代はほぼ時間順に進むが、その後は初老時と青年期を行ったり来たりする。一応マフィア映画といえるだろうが(『ゴッドファーザー』よりも前の時代が舞台になっている)、抗争やのし上がっていく過程はほとんど描かれることはない。少年期からずっと行動を共にしていた者の友情と呵責の念がオペラのように演じられていく。『続夕日のガンマン』ではオルゴール付きの懐中時計が、最後の決闘で、止まりそうで止まらない緊張感の持続を見事につくりだしていたが、この映画の冒頭の電話の音も、いまの監督だったらとても絶えられないような持続感で、うっとりするような効果を上げている。

クリント・イーストウッドがなにかのインタビューで、『アメリカ』の話は最初に自分のところにきたといっていた。スケジュールが合わずに、結局デ・ニーロになったのだが(もちろん、デ・ニーロでもなんの問題もないが)、イーストウッドが演じていたらどんな映画になったのか、想像するとわくわくする。イーストウッドは妙な役者で、ガンマン、刑事を除くと、自分を律する力が強いのか、ホワイト・トラッシュまではいかないが、どちらかといえば下層に属する人物ばかり演じてきた。もちろん、映画監督役、スパイ役といった例外はあるものの、中流の普通の家庭人やWASPなどを演じることはなかった。マフィアも演じたことはないはずで、ある種のパラレル映画として、想像してみるとひどく楽しい。



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