2014年11月30日日曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』13

      現在の職業的精神病質

 資本主義、金融、個人主義、自由放任主義、自由市場、民間企業など様々に呼ばれる精神病質が存在し、その強い競争的な性格は、会社と独占権(カルテル化)の成長、それに対応し、公務員の昇進の基礎となる(「やり手」であることは資格にならない)縁者びいきと年功序列の増加で、次第に、気づかぬうちに崩壊し始めている。その精神病質の力は、恐らく、プロスポーツといまはなき「新時代」に咲き誇った成功の文学に最もよくあらわれている。セールスの割当制度はここで重要な役割を占めており、生産におけるベルトコンベアーに対応する分配の技法を示している――そして、「機敏さ」、「押しの強さ」、「突進力」を保ち続けることが主要な美徳である。恐らく、この精神病質が最も精妙に、最も効果的に拡大されたのは、この刺激のもと、最初の頃にあった節約と僅かな収入という物々交換的な組み合わせが、新たな浪費と高収入という消費の組み合わせの前に崩れ去ったことにあろう。ヴェブレンが指摘するように、成功の機会は失敗の機会でもあるのだが、成功だけが大きく強調された。つまらない学者を除けば、誰でもこうした信念の言い換えに気づかずにはおれないのだが、我々はこの精神病質に向う推進力を正当化するかもしれない。

 大都市とは異なる農村の精神病質も存在するはずだが、今日では、人口と財政とが集中した場で決定される経済政策を黙認しなければならないことで、粗悪なものとなり、少なくとも弱まってしまった。税、利息、換金作物などが、かつては農民を特徴づけていた物々交換的心性を非実際的なものとした。彼らはいまでは消費経済のなかで、最も弱く、影響力の少ない、周縁的な存在に過ぎない。

 労働者の精神病質とは区別される投資家や融資者の精神病質もあると思える。それは具体的な物理的性質、手工業的機械的操作に縛られるものではない――予測、期待、未来のようなおぼろげなもの、価値のような形而上学的混乱をもたらすものを扱い、グラフ、統計、指標、収穫高、表といった面目を新たにした占星術を得るのである。いかなる詩人も、投資家の精神病質から想像力を発する夢想家や幻視家の現実概念ほど精妙で空想に充ちたものをもたなかった。商品の移動を副次的なものと見なし、取り引きが記録された書類にのみ実質を見いだすかのように、クレジットと利率の上部構造が基本的なものと考えられる。実際の物理的資産はほとんど解釈されるべきしるしでしかない。鉄道は、その軌道、動力、車庫、修理工場、労働力によって判断されるのではなく、資本構造のデータとして受け取られる。それは何百マイル、何千マイルもの長さに伸びている――だが、現実としてではなく、見込みに則ってのことなのである。この精神病質が思い描くところでは、世界の生産、配分、消費の問題は、大都市のエレベーターで秘密の会議室に集り、信用(クレジット)の問題について頭を悩ませる五、六人によって決められているとごく自然に考えられている。ここでは、かつて盛んに用いられた深く宗教的な摂理という概念が、奇妙な空気の精であるかのようにその精神性は無傷のまま、世俗化されているように思われる。

 しばしばこうした人々は物質主義者と呼ばれるが、物質主義者という非難ほど的外れなものはない。どちらも競争に巻き込まれてはいるが、資本主義国のプロレタリアートの精神病質が投資家の精神病質とできる限り明確に区別されるべきだとするなら、その相違は、まさしくプロレタリアートがその目的や快楽においてより物質主義によく当てはまるという事実に置くべきだと私は思う。というのも、彼らの想像力のパターンは経済体制の直接的な物理的側面から生じているだろうからである。彼らが産出するのは明確で使用できる物である。融資家の精神的な楽しみを欠いている彼らは、将来を見込んで買い込んだりため込み(資本財)、それらの見込みをもとに更なる見込みで買い込んだりため込んだりして満足を得ることはできない。物質主義的である彼らは、見込みということを理解できないだろう。使用できる商品によって保証された見込みにしか喜びを見いだせないだろう。

 犯罪的な精神病質について言うなら、主要な四つのグループを挙げられよう。第一に、ルンペン、浮浪者、任を解かれた専門家、金を無心して回る芸術家など。現在、彼らは新たな仲間、技術革新がもたらした失業者と混じり合うことによって変化している。組織的な政治腐敗に含まれるグループもいる。最もよい状態であれば、そこでは、正直さが接ぎ木され、組織だったえこひいき、仲間同士での信頼、言葉上の約束への良心的な忠実さ(書面にすると非合法になってしまう契約も含まれる)といった幾分困惑させられる道徳性が見いだされる。それは、警察の干渉を受けないことを示す「保護」という言葉の逆説的な使われ方のもとになっている。厳格なギャングの道徳に基づく、公正で高度な共同性を発達させねばならない暴力集団が存在する。彼らの規範はその生業が命ずるところに従い明確かつ直接的に形成されているので、ある意味で、最も道徳的な市民集団だと言えるかもしれない。

 第四のグループは、合法的な事業を通じて掠り取り、削り取る。大会社の重役や役員が株主、消費者、労働者を犠牲にして会社から利益を奪い取るという横暴なやり方である。もしこれらのグループを一つのものと考えることができるなら、何百万人もの人間が犯罪的な精神病質、ひそかなごまかし、社会的シニシズム、精神病質に必要な人間性の改善への憎しみに寄与しているに違いない。

2014年11月29日土曜日

ブラッドリー『論理学』98

 §74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一のものではないのである。現前とは我々と実際の実在との接合である。存在する事実として感覚知覚の要素を受け入れることはある種の接触ではあるが、唯一の接触法ではない。

 仮言的判断には、実在は与えられているという意味がある。というのも、我々は諸要素の関わりのうちに現前を感じ、実在にその性質を帰するからである。現前から我々は要素を取り上げ、それを事実として受けとるわけではないにもかかわらず、仮言的判断は最終的には直接の現前に依存しなければならない。実在の財物を保持できるのはその総合だけで(§50)、その総合の基盤となる知覚において我々は実在と直接に接する。この接触が分析判断の支えとなるものより直接的であるかどうか問おうとは思わない。しかし、いずれにしろ、より真であるとは言うことができる。真理とは究極的な実在において真であるものだからである。超感覚的な究極的性質について主張できることは多くないが、いずれにせよ、その主張は間違っていないように思える。他方、感覚の分析判断について定言的に主張されることは真ではない。それが主張する概念内容は我々の知る限り実在ではない。この意味において、個的な判断に希望は残されていない。

2014年11月28日金曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻13

忍ぶ間の業とて雛を作り居る 野水

 忍ぶ間は言葉遣いが少し不確かだが、潜み忍び入る間である。雛はひな遊びの雛である。どんな理由があったのかわからないが、都を出て片里に潜み住んでいる者が、することもないので雛をつくって生業としている。前句の紅買いに出たというのを、雛をつくるために絹などを染めようと少しの紅を買うために田舎の商店に行くものが小山越の道にかかっているところと見なしての句である。これでほととぎすを聞くことにも余情の移りがあり、転じかたにも非常に興がある。

2014年11月27日木曜日

2014年11月26日水曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』12

  第三章 職業的精神病質

      関心の本性

 もしバッタがしゃべれるとしたら、「オーストラリアスズメのつがいの習性」について学問的かつ上手に話されるより、「バッタを食べる鳥」の話により興味を抱くだろうことは想像に難くない。関心という要素は、コミュニケーションの働きで大きな部分を占めている。例えば、もし誰かが自分にとって重大な契機となったことを非常に明快かつ端的に語ったとしても、聞き手が彼の言うことにほとんど関心を示さないなら、望んだようなコミュニケーションは取れない。哲学者が歯痛に悩まされているなら、数学的シンボリズムよりは歯科学に興味を抱くことになろう。論じられている事柄がなんらかの点で聞き手の関心を引き起こさないなら、コミュニケーションは満足したものとはなり得ない。こうした助けがなければ、訴えかけの手続きはすべて――わかりやすさ、簡潔さ、説得力、構成、柔軟性、など随意に続く――無駄になる。若い恋人同士や雇用者と被雇用者の間で交わされるこの上なく退屈な誓いの言葉であっても、長年の努力と労力の結果がこの無味乾燥な言葉にあらわれていると思えば、生き生きしたものとなるかもしれない。我々は人の関心と関わることによってその人物に関心を抱く。

 しかしながら、これだけ言えば、問題は非常に微妙であることが理解されよう。南北戦争以前のアメリカの黒人は、奴隷制に非常に関心をもっていたにちがいないが、その問題が特に言及された黒人霊歌を私は一つも知らない。ゆゆしい経済的問題に取りまかれているのも関わらず、現代の労働者はプロレタリア文学よりは社交界を舞台にしたドラマや冒険小説に関心をもち、プロレタリア文学の方は時間的に自由な好意的改革家や事務員や銀行家に主として読まれている。なにかがある人間の関心であっても、将来においても関心であり続ける保証は何もない。戦争の原因を理解することは人々にとって甚だしく関心をひく事柄であるはずである――しかし、そうした問題に関心をもたせることは非常に困難である。現状に不満足な者は、その不満足の分析よりも、けばけばしい物語や事実をありのままに伝える新聞により容易に関心を抱くだろう。なぜ自分が強いのかに関心をもたない乱暴者も、懸賞試合となれば夢中になろう。一日の仕事に疲れ切り、明日までは仕事のことなど考えまいと決めたセールスマンでも、映画に行き、登場人物が自分の仕事に理想的な金、工夫、社会生活を体現しているのを愉しく見ることだろう。この意味では、自分の仕事の理想、理想的な不安、理想的な希望、ものを売るのに必要な理想的な方法を体現している人物を見ているのだから、仕事からすこしも離れていない。

 ジョン・デューイの「職業的精神病質」という概念が、この関心の二次的な側面を最もよく特徴づけていると思われる。大雑把に言えば、この言葉は、歴史的な意味における社会環境は社会の生産方法と同義語であるというマルクス主義の説に対応している。デューイ教授は、ある種族の生計の手段は、特殊な思考パターンをもたらし、思考とは行動の一側面なので、そのパターンは生産と配分において部族を助けると示している。経済的パターンに答えるものとして生まれたこの特殊な強調を、彼は部族の職業的精神病質と呼ぶ。一度この精神病質が食物を得るパターン(生存の問題としてそれが主要であることは確かである)として権威によって確立されると、それは部族文化の他の側面にまで持ち込まれることになる。

 例えば、狩りによって生計を立てている部族では、結婚の習慣でも狩りのパターンが見られ、男性と女性との関係は狩人と獲物との関係に顕著な類似性があることが予想される。女性は儀式的に捕えられるだろう。また、狩りの非常に問題のある部分、突然の予期せぬ出来事に常に備えていなければならないことは、新しさに文化的強調をもたらすかもしれない――彼のあげている例では、戦争をしているオーストラリアの部族では、互いに最も新しい歌を聴き合うことで恩赦が与えられる。部族の生計に役立つ思考パターンを強調することで、精神病質はある種の創造的な性格をもつようになり、他の行動や形象に向いたときにも、似たようなパターンをもつ作品を形づくることになろう。更なる補強証拠として、それとは対照的な、生産体系の基礎として周期的に回帰するもの、季節に関する伝承、天文学的な固定性などをごく自然に強調し、伝統を重んじる農耕文化の芸術や考え方を挙げることもできる。そして、今日では、一時的流行にとらわれやすく、競争的な資本主義によって生みだされた新奇なものを常に求める我々の精神病質があってこそ、経済的社会的先行きに顕著な不安定さとうまくつきあっていくことができるのだろう。

 芸術家は主として、職業的精神病質を派生的な側面で扱う。それを形象の新たな領域に投影する。狩猟の精神病質が新たなものを重んじるなら、芸術家は、新しさの経験を思わせるようなあらゆる技巧を発見することで、自分の芸術を社会化するだろう。逆に、自然の周期的な運動に忠実に、生産の段取りを決める枠組みを奉じている農耕的精神病質のなかで働いている芸術家は、部族の創設に付き従った吟唱詩人の神秘的な詩句に立ち返り、常に生気を与え続けることで、自分の堅実な伝統主義を公的に印象づけることになるかもしれない。

 もちろん、原始的な社会でさえ、完全な職業的同質性があるわけではない。少なくとも常に、生産パターンとの関係が部族全体とは異なる特権階級が認められる。しかし、一般的には、芸術家は職業的精神病質が浸透したパターンのなかで、外部の材料を一般的な部族の装備で扱うと言える。彼は自分の特殊な経済システムに有用で適した習慣パターンを助長するような知的想像的上部構造を打ち立て操作する。その種の作品を授かることで、人々は強調点、識別、姿勢などを発展させる。特殊な好み、嫌悪、恐れ、希望、気遣い、理想化などが前面に出てくる。それは小さな火薬樽のようなもので、芸術家は爆発させようとするものの導火線に火をつけようとする。彼は論争の種になるようなもの(つまり、職業的精神病質の関心を呼び起こすもの)を扱うときに最も幸福である――そして、集団が同じように反応を見せる限り、その作品は普遍的な訴えかけの機会をもつことになる。

 現在では、精神病質の相違を探ることが正当化されるほど互いに異なった生活のあり方を含む多様な職業的分類が想像できる。こうした生存様式のパターンは互いに排除し合っている。重なりあうところでは、混合的な精神病質を生みだしている。だが、二三の顕著な職業的特徴が認められ、それらは恐らくは平行した精神病質をもっている。(ちなみに、デューイ教授は、「精神病質」を精神医学的な意味で使っているのではないことは留意しておく方がいいだろう。それは単に精神の明白な特徴を示している。)

2014年11月25日火曜日

ブラッドリー『論理学』97

 §73.「それは反省の産物に過ぎない。我々にあらわれる通りのものを事実ととって満足すれば、それを感じたままにしておけば、我々は失望することはない。過去からの宙に浮いた糸によって支えられることもないし、幻影的要素の途絶えることのない関係の消え去りゆく網の目のうちに滅ぶこともない。感覚にあらわれる実在はそれ以上のものではないのである。それは自律しており、個的で完全、絶対的にして定言的である」と言われるかもしれない。ここではこの発言を論駁しようとは思わない。我々は所与が知的な改変なしに与えられたのか、我々に観察し見ることのできるものは我々が既に干渉したものではないのかについて答えるよう求められているわけではない。ここでそうした問題を取り上げる理由はない。また我々は有能な形而上学者よろしく、理性に心酔し、感情を軽侮しているのでもない。失意の感情が感覚の真理に対する反抗の先頭に立つと論じることにためらいを感じるものでもない。ずるがしこい頭に最初のいぶかりの声を上げるのは悩ましい心だった。

 お望みなら、我々が感じる通りの実在が真なのだと言ってもいい。しかし、もしそうなら、すべての判断は間違いであり、あなたの単称判断は眠りにつくだろう。我々のいまの目的ではあなたの主張を認めてもいいが、それが我々への異議として申し立てられているなら、質問を返したい。それがどうしたというのか。そう言っているのは誰なのか。こうした非難をできるほど誰が反省という罪から自由であると自負しているのか。言ったことの結果を考えないような人間は確かにいる。拙劣な分析と独りよがりの形而上学が詰まった本を書く作家もいる。「経験」に情熱を燃やす思想家が自分の一面的な理論に自負をもち、感覚される事実への忠誠心がそれを未消化な反省の結果と区別できなくしていることもある。

 現在我々に仮定され、形而上学が論じるだろうことは、現象とは最終的に我々が考えざるを得ないものであり、我々の思考の最後の結果は真であるか、そこで我々がすべての真を手に入れるかということである。実在にとって確かな根拠となるのは反省の始まりではなく終りである。我々の心はそれ以上のことを決することはできない。実在についての我々の思考は、分析判断のレベルにとどまっている限り批判に耐えられないだろう。我々が信じずにおれないのは、後の、よりよい反省の結果、少なくともこの判断は真でないことが確証されることにある。現象の系列の全体や部分を実在の性質と主張することは間違った主張である。

2014年11月24日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻12

紅花買道にほとゝとぎす聞く 荷兮

 双六を打って遊んだ人の本業が紅花買いだと前人が解したのは、解し得て妙である。ただし繭買い穀籾買いなどの風情はいささか知っているが紅花買いの様子を知らず、思うに、紅花を摘み貯めたものをそのまま買うこともあり、また、紅花を搗いて乾し、捏ねて餅のようにした紅餅を買う場合もあり、また精製した「かたべに」を買うこともあるだろうか。

 しかしここでは花または餅を買い集めるものを思うべきで、餅よりは花を、農業の片手間につくる家々から買い集めて、餅または「かたべに」に製するものに渡す商いと解したい。紅を製するのは専門家の仕事であるが、紅花を作り植えるのは誰にでもできることだからである。出羽の最上、山形、伊賀、摂津、筑後、伊予はみな紅花をだすと聞くが、それ以外の地でも、少しの紅花を作ることは所々にあるだろう。二月に種をまけば五月に花を開く。暁の露がまだ乾かないうちに花を摘むことを習慣にしているが、それは露が乾いた後に摘むと紅の色に力がなくなるからである。花は一度摘めば再び咲き、幾度も摘んで咲かなくなって終わりになる。花を摘んでから固紅を製するまでのことは、『機折彙編』、『六部耕種法』その他に出ている。

 この句は、露の降りた暁に、紅花を摘む里の農婦などを訪ね巡って、摘んだ花を買おうとする道筋でほととぎすが雲間に鳴くのを聞いている様子である。前句の朝月夜に付けたことは間違いなく、紅花を買う道としたのは作者の一働きである。

2014年11月23日日曜日

ジョルジュ・ロートネル『ソフィー・マルソー\恋にくちづけ』のチラシ

1984年のフランス映画。

ソフィー・マルソーは好きだったけど、でているから見に行くほどでもなかったから、見てないなあ(多分)。




2014年11月22日土曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』11

      動機は諸状況を速記したものである

 連合によるつながり、刺激と反応のもと考えるとき、動機についてなにを言えるだろうか。現実の生の経験が実験室の実験のように単純ではなく、夕食のベルのような明白な場合は滅多にない非常に複雑な解釈がなされると理解されたとき、人間の動機づけに関する内観的、道徳的用語法にこの事実を示す何かが期待されないわけがあろうか。単純な条件のもとにある法則を発見することは、それ自体は高度に複雑な条件においても同じようにその法則が働いていることの証拠にはならない。しかしながら、向きを変えるか痕跡として残っているか、なんらかの形でその働きの証拠を探すことは正当化される。

 さて、所謂意識現象と呼ばれるものが何であれ、それがなんらかの葛藤から生じることは一般的に同意されている。かくしてそれは、慎重な選択という単純な意識状態から、あらゆる事実とその結果を秤にかける優柔不断、何か重要な側面が軽視されていて、そこから良心が危機にさらされるのではないかと恐れる周到で念入りなものにまで及ぶ。意識の特徴は、同様に、動機についての関心、動機の選択で我々が考慮に入れねばならない感情でもある。

 こうした事実はすべて、動機についての我々が内省する言葉は、相矛盾し争い合うある種典型的な刺激のパターンを大雑把に速記的に記述していることを示していないだろうか。例えば、我々が義務という動機づけのもとある行為を行なうと言うとき、一般的には、ある種の反応を求めるある種の刺激が、別の反応を求めるある種の刺激と結びついているという複雑な刺激-状況を示している。我々が愛とは矛盾する義務によって行動するのは、直接的な満足は少ないが(我々は仕事を放り出して駆け落ちはしない)、怒った両親や非難がましい隣人の好意を得ておいた方が、最終的にはより満足を得ることができると判断するためである。刺激に従順に反応し、快の性格をもつ連鎖(駆け落ちという考え)が、同じく刺激への柔順な反応だが不快な性格(「人はなんと言うだろう」)をもつ連鎖と争う――そして、最終的に止まることに決めたなら、その動機は、義務から行動したことになろう。このような場合、義務とは、刺激同士の特殊な争いのパターンを認識する以外のことではなく、そのパターンとは自分が属するグループで頻繁に繰り返された経験のパターンであり、命令に従うとはそのパターンをあらわす特有の言葉である。

 或いはまた、ある男が、「怪しいから後戻りした」と告げたとする。つまり、怪しさが彼の動機だった。しかし、怪しさは全体として調和しているわけではないしるし、意味、刺激の複雑な集合を指す言葉である。混合の具合は概ね次のようになろう。危険のしるし(「こいつには何か不吉な感じがする」)。安心させようとするしるし(「しかし、ここで強盗しようとするものはいないだろう」)。社会的しるし(「何もないのに騒ぎ立てて物笑いにはなりたくないが、何か落としたふりをして道を後戻りすることはできる」)、等々。「怪しい」という言葉によって、彼は状況そのものに言い及ぶ――そして、同じような刺激のパターンがあらわれる度に、彼は変わることなく怪しさに動機づけられたと言うことだろう。ちなみに、我々は状況を一般的な意味の図式と関連づけて特徴づけるので、状況の速記法としての動機が我々の定位一般にいかに関わり割り当てられているかは明らかである。そして、なぜ『デイリー・ワーカー』が、恐ろしい動機を政治家たちに割り当て、ブルジョアジーを変わることなく憤激させ続けるかが理解される。

 動機に関する言葉が、事実、状況に関する言葉であるなら、我々は犬にさえ動機づけの「言葉」を観察できる――というのも、犬のよくある身振りには、多様な状況パターンについての認識を見て取れるからである。主人に挨拶する身振り、通りすがりの見知らぬ人間に対するもの、ぶたれると脅かされたときの、小屋に戻りなさいと言われたときの、新鮮な臭いに出くわしたときの、等々である。言うなれば、犬は二十から三十の典型的な、繰り返しあらわれる状況についての語彙をもっており、それらについては我々もすぐにわかるようになる。田舎の毛づやのいい若いテリアは、唯一の冒険が店までの散歩であり、舗装された道路で育ち、太り、甘やかされ、食べ過ぎの街のプードルとは相当に異なった動機の語彙をもっている。

 このように動機を考察すると、なぜ動機づけに関するかくも多くの敵対する理論がここ数世紀の間に急激に増加し、その当座専門家の集団やある階級の人間に流通するにいたったのか説明することができよう。我々は人々の行動を際限のない多様な理論で説明してきた。民俗学、地理学、社会学、生理学、歴史学、内分泌学、経済学、解剖学、神秘学、病理学、等々。なぜ人々はそうするのかを語ることに特別の関心を払った特殊な芸術形式が隆盛を極めさえしたが――心理学的、科学的小説――それは恐らくは動機づけが極度にあやふやな性格をもった問題となったからであろう。そうした芸術は人の振る舞いについて情報を与え、そのスタイルはますます詩的でも読者本意でもなくなり、ますます注解と説明に限定されている。

 偉大なる劇の時代には、観客はなぜ登場人物がそう行動するのか知っていた。登場人物こそ苦境に陥っているが、観客は彼らの行動を見て、しゃべるのを聞くだけで、動機については当然のことと見なしていた。しかし、我々はこうした初期の劇の動機についてさえ混乱するようになっている――それゆえ、動機づけが特定の主題となる芸術形式が発達したのである。この事実は我々の不安定性が増していることを示していよう。高度に安定した時代には、生のおきまりのパターンも高度に安定化されており、複雑な刺激の組み合わせは標準化され、動機は固定していたからである。そうした文化的に統合された時代には、人間が自分の動機について嘘をつくことはあり得たが、自分の動機がわからないといった疑いは考えられない。

 我々の解釈によれば、動機について語るのは、単に、その人間が置かれた状況にある相反する刺激の特殊なパターンや組み合わせを名づけることなので、そうした姿勢も正当化される。しかし、著しく不安定な時代、大きく変わりやすい対立のある時代には、典型的な刺激のパターンが集団全体、或いはその過半数に及ぶことさえ起こりにくい。それゆえ、刺激の組み合わせの多くは名づけられないままだろう(少なくとも、最も深い意味における命名、つまり、動機として確実なものとなり、動機を指す言葉として普遍化されることはない)。とはいえ、テクノロジーの進歩が政治的、社会的、経済的、美学的、道徳的定位を歪ませ、社会の必要が根本的に異なってしまった現在のような有為転変の時代には、動機づけに関するすべての問題が再び流動化すると予想されないだろうか。

 我々の放浪生活、年ごとに逆転する経済的身分、戦時下における国家体制の大変動、好景気の平和、大不況、職業習慣の広範囲にわたる多様化、いまから五年先でさえ世界がどうなり我々がそれにどう対応しているか全くわからない予測のつかなさ、田舎ででもなければ完全になくなってしまった「この父にしてこの子あり」的な傾向――こうしたすべての要因は、比較的安定した時期には高度に社会化普遍化されていた性格とは反対に、典型的な、或いは頻発する刺激のパターンを個人化するものである。こうした状況は、そのまま動機の問題にあらわれるだろう。

 実際、この点に関しては、内省的心理学への攻撃がことにアメリカでは一般的であったことが注目に値する。アメリカとはまさしく、頭のなかをのぞき込めば、不変の、安定した、繰り返される経験の豊かな蓄積が止められておらず、見いだされるのは、さほど高度でも複雑でもない、新しい冷蔵庫を買う誘惑だとか、失業の恐れだとか、煙草の銘柄についての関心などの数少ない単純な刺激があるばかりの場所である。かくして、動機の内省的な探求は、完全な空虚さを露わにする危険がある。こうした「文化」だからこそ、教育とは豊かな可能性の蓄えから洞察を引きだしてくることではなく、経験したことを空っぽの器にくみ出すことだと理論づけた行動主義的な心理学が興り、定着できたのではなかろうか。

 恐らく、最も徹底的に、諸状況としての動機を論じる傾向を体現しているのは、ウィリアム・マーストンとその同僚たちの『統合心理学』であろう。彼らは行為の根本的な衝動として、栄養、性、出産を仮定する。我々の様々な社会的行動は、直接的間接的にこれらの衝動を満足させるものと解釈される。衝動は派生物をもっている。餓えという衝動は商業的な野心に転化されうるし、性的衝動は社会の繁栄への関心として表現され、出産の衝動は芸術に変わりうる、等々。「反応単位」としてある四つの動機づけは、盲従、支配、誘い、従順である。盲従は、意志に反して、自分よりも勝っていると思われる力に従うことである。(牢獄の囚人は盲従する。)支配は、ものを思い通りにしようとする。(子供は棒から手を放させようとすると抵抗する。)誘いは、セールス、広告、宣伝、お世辞、嘆願のような甘言によって達成される。(「うまく教育すれば、幼児期の早い時期に子供は、ものは支配し、人間や動物は誘導しなければならないことを学ぶ。」)従順と誘因との関係は、盲従と支配との関係に等しい。幸せな恋人は支配に盲従するのではなく、誘いかけに従順である。顧客はセールスマンの誘いかけに従う。(「動物や人間にある自発的な、素朴な、模倣的な行動は従順さによって動機づけられているように思われる。以前の本能に関する理論は、通常、模倣を基本的本能の一つに数え上げていた。更に、全体としての行動が支配や盲従によって制御されうるとしても、模倣的行動にはすべて従順さが含まれていなければならないと思われる。」)しかし、もちろん、判断のほとんどの場合において、単純な「反応単位」があらわれることは滅多にない。衝動やその派生物や四種の典型的反応同士が衝突し合う複雑な状況に行き当たるやいなや、動機と感情に関する我々の用語は、刺激-反応の状況を、ベンサムが確立したいと願った「道徳の算術」と同じくらい複雑なものとしてしまう。この著者たちは、通常動機の名で語られている数多くの複雑な状況をためらいがちに分析している。また、刺激にある相争う性質のため、その争いへの反応から生じるものとして、意識を神経医学的に説明している。

 つけ加えて私が強調するのは、刺激そのものの性格である。刺激は絶対的な意味をもってはいない。拷問による死を示すしるしであっても、安楽を愛する懐疑論者と殉教には永遠の報酬が約束されているという世界観をもつ苦行者とではその定位において全く異なった意味をもつ。いかなる状況であっても、その性格は、それを判断する解釈の枠組みから生じる。そして、客観的状況を評価する異なったやり方は、主観的には、動機の差異として表現される。

 動機は紛れもなく言語的な産物なので、動機の問題はコミュニケーションの問題に向うことになる。我々は自分が生まれ落ちた文化的グループ特有の言葉によって状況のパターンを識別する。言語的産物としての精神は、ある種の関係を意味深いものとして選別する諸概念(言語的にかたどられた)によって成り立っている。他のグループは、別の関係を意味深いものとして選択するかもしれない。こうした関係は現実ではなく、現実の解釈である――従って、異なった解釈の枠組みは、現実はなにかについて異なった結論を導きだすだろう。

 他にもかかわらず起きることもあれば、他のために起こることもあり、他に関係なく起きることもある。もし我々がすべてを知ったなら、恐らくにもかかわらず関係なくは排除することとなろう――しかし、限定された解釈の図式はすべてこれら三種のカテゴリーをどう分けるかに主たる相違がある。例えば、自然主義者なら、Aはその邪悪さには関係なく事故で傷ついたというかもしれない――超自然主義者なら、Aの邪悪さのために事故は起こったと言うだろう。解釈の転換は、我々が出来事をためににもかかわらず関係なくにグループ分けする異なった方法から生じる。

 こうした解釈の転換は、異なった関係性に注意を向けるので、それぞれ現実について全く異なった絵を描く。我々は、自分が生まれ落ちた特殊な言語的織物に従いある種の関係を選び出すことを学び、その言語的織物を使って私的に他の諸関係を定式化するかもしれない。その場合、我々は新たな用語を発明するか、古い言葉を新たなやり方で適用するかして、我々の特殊な付加や変更が古い織物と合っていることを示すために、自分たちの集団の言語的装置を操作して、自らの立場を社会化しようと試みる。我々は新たな関係を意味深いものだと指摘しようとする――状況を異なった風に解釈する。主観的な領域では、新たな動機を発明する。古い動機と新しい動機のどちらも言語的に構築されており、言語はコミュニケーションの媒体であるので、定位から始まったこの議論は、動機づけを通じ、コミュニケーションに進むこととなる。第一部の残りは、コミュニケーションを扱うこととなろう。

2014年11月21日金曜日

ブラッドリー『論理学』96

 §72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あまりに微妙な雰囲気のなかに溶け込んでしまうので、無視すべきではある。しかし、私はこの区別を撤回したくはない。これは思考のあるレベルにおいては適正である。論理的探求の通常の目的にとっては、総合的および分析的な個々の判断は定言的であり、ある意味普遍的判断に対立すると捉えた方が便利であろう。

 しかし、論理学の諸原理に更に踏み込み、判断のクラスがそれぞれどのように関連しているかを考えざるを得なくなったとき、上述のような疑問を掲げないとしたら、我々が間違っているのは確かである。我々が区別の基盤をもっていると知っただけでは十分ではない。それが真の基盤であるか尋ねなければならない。それは区別する地点以上のものではないか。それはまた事実ではないのか。概念内容を照らしだす現前の光は、我々がそれを写し取ったときにもその真実性を保証するのだろうか。現前する現象、現象の系列は実際の実在であろうか。そして、いずれの問いの答えも否定的であることを我々は見てきた。感覚に与えられたものを判断においてとらえることができたとしても、我々は失望するだろう。それは自律的ではなく、それゆえ非実在であり、実在はそれを現象の無限の過程において越え、それと共に消え去ってしまう。(言うならば)知覚においてあらわれる実在は、現象でも現象の系列でもない。

2014年11月20日木曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻11

朝月夜双六打の旅寝して 杜國

 『万葉集』巻一、「藤原宮から寧楽の宮へ遷都せられたときの歌、(上略)あをによし、奈良のみやこの、佐保川に、いゆき至りて、我が寝たる、衣の上ゆ、朝づく夜、さやかに見れば、(下略)」、同巻九、「鳴く鹿を詠んだ歌、(上略)朝づく夜、明けまくをしみ(下略)」。いずれも有明月である。

 双六打ちはそれをなりわいとしているのではなく、ただ双六を打つひとである。双六打つひとが止められずに、我が家に帰るのを忘れ、月が残る暁になってしまったのを、面白く朝づく夜といい、旅寝といったので、わざと旅寝と断ったのに滑稽があり、また前句の坊にも利かせてある。二、三里離れた友の家を訪ね、はじめは泊まる気もなかったのに、互いに好む遊びに我を忘れて、帰ろうとするとすでに夜明けが近く、思わぬ泊まりをすること、誰にもあることである。そこを巧みに句につくり、信楽の坊という街道のせわしい宿でもないところに付けたのは、実にふさわしい。長閑な坊の主人の人品もよく、また双六板なども備わっているよい家のさまが見える。

 さてここでは、前句の蕎麦さえ青しをまた新蕎麦もなくてととるべきである。双六も負け込み、好物の蕎麦もご馳走になれないのかと、気の抜けた朝の顔、目に見える心地がして面白い。双六を打つことこの頃の句に多い。なかばは小博打として、大いに世に行われたのだろう。

2014年11月19日水曜日

ラリー・サヴァドヴ『カタストロフ』のチラシ

1977年のアメリカ映画。

見たはずだが、トラウマ的印象を残していないところを見ると、それほどたいしたものでもなかったのだろう。



2014年11月18日火曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』10

      より大きな全体の一部である動機についての更なる考察

 要約しよう。動機づけの概要が変化する限り、行動の動機とするものにも変化が予想される。動機はテーブルのように人が見に行ける固定した事物ではない。それは解釈に関わり、当然、全体としての世界観のなかに位置づけられる。精神分析が扱う合理化の過程は、彼らが考えるような場に集中しなかった。それは、人はなにをすべきか、いかに自分の価値を証明するか、どんな根拠でよい扱いが期待されるか、よい扱いとは何か、などに関する判断の全体に位置づけられた。ある人間が自分の振る舞いを説明する際にもちだす少数の動機は、このより大きな定位の断片的な部分でしかない。

 かつて形而上学者はその著作を第一原理で始め、それは宇宙構造一般を扱わねばならなかった。そこから、歴史と心理学、善と美、彼ら独自の人類学の法則を引きだすことに進んだ。それに続く思想家たちは、我々の形成する宇宙の観念に及ぼす人類学的な影響に注目し、宇宙から人間へという進行を逆転した。純粋に人間的な過程の研究から始め、宇宙観を心理学的、生理学的、民俗学的、歴史的な反応として解釈したのである。宇宙から始め、人間に降りてく代わりに、人間から始め宇宙に向けて進む。

 新たな方法は形而上学的議論に大きな柔軟性を与えたが、いかにある世界観が人類学的な根をもっているにしても、それに伴う内観心理学(そして、常識の言葉、自問自答や自己探求で発見されるもの)はより大きな全体の一部でしかないという事実を覆い隠す役にも立った。制度、習慣、暮らし方を含む一般的で確立された定位の体制に関する限り、動機の心理学は単なる国家内国家のようなものであろう。生のあらゆる目的が子孫の繁栄に向けられた定位や合理化では、飢えた人間がその憤りや悲しみを食物への欲望ではなく、未来の子孫が危険にさらされているという恐れに向けるのも道理のあることだろう。

 我々が精神分析的な強調の仕方に反対するのは、彼らはある人間が餓えという動機を利他的な動機と診断するのを自己欺瞞的な合理化として非難しがちなのだが、どんな動機もより大きな、全体としての人間の目的に関する暗黙の、或いはあからさまな合理化の一部に過ぎないからである。例えば、本来のフロイト的動機の図式は、西欧社会に既に確立されていた強い性的-ブルジョア的定位に従属し、想像力と現実との広く行きわたった常識的区別を加えたものでしかなかった。その用語法は、時代に特有のロマン主義的、科学的姿勢に多くを負っている。

 正義が世界観において中枢となる語であるとき、人は正義のために生を投げださないなどとどうして言えよう。実際、その僅か数音節のために人は向こう見ずな行動ができる。また、未来の子孫の繁栄が人間行動の基本的な動機となるような文明を仮定し想像することをとんでもないと考える読者がいたとしたら、その正反対の事例、祖先崇拝が盛んだったころの中国を考えればいいので、そこでは、行動の心理学的な動機、犠牲、努力、規律、非難、称賛の根拠は祖先の威厳を維持することに基づいていた。自分の幸福は死者たちの幸福に含まれているから、死者のために行動した。我々はそれを回りくどい因果関係の体系であり、目的と手段との関係についての疑わしい理論だと言えるかもしれないが、今日の人間が自分の行動を仕事が欲しいためだと説明しているのが、実は仕事がもたらす金銭と、金銭がもたらす物品を欲しているのと自己欺瞞の点では変わらない。

 こうした誤りの偏狭さが最も明らかになるのは、現代の精神分析家の亜流が、聖アウグスティヌスのような強烈で際だった神学者の根に隠れた性的動機を解釈し始めるような場合である。アウグスティヌスが生き、書いていた時代の動機づけが、せいぜいそれら動機全体の一部分である僅かな性的衝動のために無条件に捨て去られる。

 どんな権限で、性的なことが彼の動機の本質だと言えるのだろうか。非性的な関心は、性的関心を象徴化したものと解釈できる――しかし、同じく、性的関心は、非性的関心を象徴化したとも考えられる。つまり、性的な事柄が大きな重要性をもっているから、思考パターンが性的思考のパターンを顕著に示すことになる。聖アウグスティヌスの強く宗教的に定位された社会とは対照的な我々の強く性的に定位された社会以外では、どちらが真の動機で、どちらが象徴的な附加物だと言えるだろうか。

 古代中国に関しても、その祖先崇拝が完全に間違った手段選択の例だとは言えない。それは物品の獲得や安定化に非常に役立つ社会的実践を活気づけ、それによって社会的に有効な姿勢をも活気づけた。その規範に順応することで有形無形の公益とともに、好意による報酬を受けた。

 恐らく、違った表現でより明瞭な確証を提示することで、この観点を述べてみるべきだろう。従って、同じ一般的問題を扱っていると思われるI.A.リチャーズの『孟子の精神論』から引用する。
 「我々は長いあいだそうであるかのように語ってきたゆえに、恐らくは、そのように考え、感じ、意志しており、言語と伝統が異なった心の働きを公言していたなら、我々の心は別の動き方をしただろうというのは可能な考え方である。これは居心地の悪い示唆であり、我々が常々従っている結論以上の帰結をもたらし、一般的な心理学理論を変化させるだろう。大地のみならず、心の土台をも崩れ去る危険を感じるだろう。・・・こうしたすべてが孟子に関わっており、孟子の考察は認知の理論を欠いた心理学を通じてなされる。しかし、認知、知識の概念は、「反応に基づく」心理学の最も危なっかしい部分なのである。行動主義者にとっては、明らかに、「いかにという知識」が「何かについての知識」に取って代わる。激しく行動主義者に反対する者でさえ、しばしば覚知を行動の前提条件ではなく、大半が無意識的な本能的衝動の抵抗点で生じる副次的な結果として扱う。全体的に言って、西洋の心理学は、一世代前よりも、真剣に認知を論じることなしに心を考えようとしている。異なった社会と言語が異なった心的働きを発達させると考えるのは、より容易なことのように私には思われる。・・・孟子とその後継者における理論的関心の欠如は、相違が最も明らかな部分である。しかし、そうした相違の概略を示すのにさえ、我々は共通の座標――例えば「関心」――を含む言語を使用せざるを得ない。我々が比較に用いている基本的な仮定に関しては、明らかに我々の懐疑にも限界があるにちがいない。我々のなし得る疑問は、通常すべての精神に共通だと考えられていた様態の幾つかが孟子が扱った精神には欠けているのではないか、ということに止まる。」

 多分、リチャーズの大胆な考察は、いかに精神が働くかについて一般に受け入れられている考え方が、精神をそのように働かせることを可能にするのだと要約される。それは、単に合理化に含まれる動機を問うことを越えたところに問題を移すように思われる。自分の仮定を擁護するために、彼は、心理学の問題に対する古代中国の哲学者孟子の倫理的なアプローチと、現代科学者たちの臨床的なアプローチとの顕著な相違を露わにしている。私自身の論点は、彼の考える可能性の範囲に比較すると、のろのろと進んでいるようにしか思えない。私が言おうとしているのは、単に、動機の用語法ははぐらかしでも自己欺瞞でもなく、目的、方便、「よき生」などに関する一般的な定位に適合するよう形づくられるのだということにある。

2014年11月17日月曜日

ブラッドリー『論理学』95

 §71.かくして、分析判断はすべて虚偽であるか条件づけられている。「条件づけられているというのは疑わしい言葉だ。結局のところ、それは仮言とは同じではない。事物は仮定によって条件づけられもするし、事実によって条件づけられもする。ここには『もし』と『なぜなら』の間の相違がある。ある発言が別の発言の真実の結果真であるなら、両者は共に定言的である」と言われるかもしれない。この区別の重要性は私も認めるし、それについては後で考えなければならない(第七章§10)。しかし、いまの議論との関わりではそれを否定する。

 この異議は次のような主張に基づいている。「現象の系列において、すべての要素がそれぞれ残りの自分以外の要素と関係しているにしても、判断は定言的であることができる。自分以外の要素は、判断に組み込むことはできず、結局それがなんであるか知ることができないし、思考のなかにあらわすことはできないが、にもかかわらずそれは事実である。そうであるなら、発言は真である。というのも、それは「もし」ではなく「なぜなら」に基づいており、それはまだ知られていないにしろ、実在であるからである。分析判断の相対性、形容詞的で依存的な性格を認めたとしても、何とかなり、定言的なままだろう。」

 しかし、この主張を認めることは不可能である。決して実現化されない「なぜなら」、心にあらわすことのできない事実について反対するつもりはない。私の異議はより致命的である。いまの場合、一つもなぜならなど存在しないし、事実も存在しないのである。

 我々は鎖によってしっかりと固定され、安全が保たれているか知りたいと願う。我々がすべきことはなんであろうか。しばしば言われるのは、「我々を固定するこの環はしっかりしている、次の環にしっかりとつながっているし、それも次の環と固く結びついているように見える。ある程度の距離から向こうは見ることができないが、我々の知る限りしっかりと結びついている」ということではないだろうか。実際的な人間ならばまず「鎖の最後の環はどこにあるだろうか。それがしっかり固定されていることを確認してから環のつながりを確かめよう」と言うだろう。しかし、鎖というのは新しい環にいくごとに更に新しい環につながっている。そして、どれだけ遡ってみても、すべてがそれに依存しているような最終的な環に近づくわけではない。現象の系列は相互に関係しあっており、それだけで絶対的なものとなることは決してあり得ない。その存在は自身を越えたものと関係しており、そうでなければ存在することをやめてしまうだろう。最終的な事実、最後の環は単に我々の知ることのできない事物というのではなく、実在ではあり得ない事実である。我々の鎖はその本性上、支えをもつことができない。その本質は、最終的には固定を排する。我々はそれが宙に支えもなくかかっていることを恐れるどころか、そうあらねばならないことを知るのである。終端に支えがないのであれば、残りにも支えはない。それゆえ、我々の条件づけられた真理は、単に条件なのである。それは公然と事実ではないものに依存し、定言的に真なのではない。自律したものではなく、仮定から生じている。あるいは、恐らくは更に悪い結果、何ものにも支えがなく、すべてが一緒に崩壊するという運命を待っているかもしれないのである。

2014年11月16日日曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻10

蕎麦さへ青し信楽の坊 野水

 しがらきは近江国甲賀郡にある信楽谷であり、聖武天皇のとき、紫香楽(しがらき)の宮、つまり甲賀の宮をつくったところである。天平十五年信楽寺を作り、大仏鋳造を発願し、後にその志を大和の奈良に遂げられた。宮があり寺があるので、信楽野を内裡野または寺野という。黄瀬村、長野村などはみな信楽のなかである。いわゆる信楽茶を産し、また信楽焼の茶壺その他を産出するので有名である。

 貞享の頃に坊などあるとは思えないが、寺野のなかの民家であるから、坊といったのだろう。坊という語によって、自ずからただの農家ではなく、旅の宿であることは明らかである。播州有馬温泉の旅館は普通の宿と異なるところはないが、寺坊であった昔に因んでいまも何々屋とはいわず、何々坊と称するので、信楽にも当時は坊といった旅館もあるいはあったのかもしれない。

 蕎麦は七十五日で熟し、夏のものを夏蕎麦、秋のを秋蕎麦という。ここでは秋蕎麦であることはいうまでもない。ただ蕎麦といえば秋のものをいい、本来その季節のものだからである。信濃の産を上等とすることは知られているが、近江の桃井、伊吹山などの産もまたすぐれたものとして有名である。信楽も同じ近江であり山村であるので、当時は蕎麦がよいといわれたのだろうか。

 「青し」とはすべてものがまだ成熟しきっていないことをいうので、「蕎麦さへ青し」は、なにもない山奥で、せめて薫り高い新そばでもだそうと思うのだが、それさえもまだ青くて、なにもなく寒い信楽の坊だという意味と解するものもあるが、却ってそうではない。蕎麦は古いとかすかな赤みをもち香りが乏しくなるが、新しいものは香りがよく薄く、青みを帯びたようである。信楽は茶の名所であり、しかも坊などという家になれば、客をもてなす家の誇りとして、茶の美しく青くて人の心も眼も喜ばせることはいうまでもないが、蕎麦も新しい取り立て挽き立てのものであれば、それもまたよい茶のように青いと賞味した者の言葉の綾であり、前句の露と萩に対して、ここでは蕎麦と茶をあげたのである。そうでなければ、「さへ」の言葉にはなんの働きもないことになる。

 茶のことは直接触れられてはいないが、信楽の坊に茶は自ずから含まれている。すでに、江戸にも宇治の里という家があり、また郊外にしがらきという家があって、みなその初めは茶漬け飯をだすことから付けられた名で、その茶がよいことを誇りにしていた。信楽の坊に茶のことが含まれているのは疑いようがない。茶はもとより赤くはなく、蕎麦さえ青しといって、いずれもよいという所に、前句の角力ちからを選ばれずというのを軽くあしらって転じて付けたものである。

 糸所の別当の歌のなかにあるくらぶの山も甲賀郡であり、信楽はそれに連なったところにあるので付けた、という旧解はもっともではあるが、作者の腹中の考えではそうした縁もあったのだろうが、ただ山続きのためだけでは、一句の立場がない。またまっすぐ立つ蕎麦が青くては萩とは力あらそいにならぬのを、撓んだ萩がどうして打ち合いの勝負になるものかと、信楽の坊のあたりの草を見て言葉を戦わせる様子だという曲齋の説は、どういう意味であるかも理解しがたい。青くないとしてもどうして蕎麦が萩蘆と力あらそいをすることがあろうか。また、萩もそもそもなにと打ち合いの勝負をなすというのか。信楽の野辺でも谷でもなく、坊とあるのを眼に入れないための誤解である。あるいはいう、蕎麦はそばきりではなく、河漏(ところてん風に押しだした中国の蕎麦)としての解は納得できないと。蕎麦が河漏でないのはいう通りである。だが、略して河漏をそばというのも間違いではなく、また、初鰹と断らないでも鰹を夏の季とするように、新そばと断らないでも句によって秋の季とするのも間違いではない上、青しとあることから新そばであることは明白である。蕎麦をそばというのも本来は略語であり、本当は稜立(そばた)てるものゆえに「そばむぎ」という名であって、略言、俗語をとがめ立てすると俳諧は自在を失うことが多い。

2014年11月15日土曜日

ジョン・ランディス『アニマル・ハウス』のチラシ

1978年のアメリカ映画。

ジョン・ランディスなので見たような気もするが、内容がまったくでてこないので見ていないようでもある。



2014年11月14日金曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』9

動機の戦略

 まとめるとこうなる。自分の行動をお気に入りの社会規範で説明する人間がいたとき、彼は精神分析家のあいだで生活する人間が自分の利害をリビドー、抑圧、オイディプス・コンプレックスなどだけで論じ始める場合と同じ合理化を行なっているのだと言える。これもまた、ある種の合理化、特殊な定位に属する動機群である――自分の動機をこのように謙遜して表現する率直さは、「偽善の時代」が終わる以前[終わったのか?!――1953年の追記]広く行きわたっていたうわべだけの道徳を嫌う人々の好意を得るのに役立ちさえする。

 だが、野蛮な一群の事実のもとに打ち立てる仮説は合理化以外のなにものであろうか。形而上学者と馬鹿者との相違は、定位に関しては、形而上学者が合理化されるべき事実の複雑性を数多く広く探査しているだけではないだろうか。形而上学者は、風に流されるまま合理化することに満足せず、一貫した、或いは互いに適合性のある信念によって、より厳密な検証を行なおうとする。常識はそうした厳格さに対してはのんきに構えているが、両者の相違は主として圧力の問題である。形而上学者はより強く規矩にはめようとし――通常あまりに強すぎる。科学の論理的議論は、洗練された合理化に基づいており、単なる自己欺瞞を越え、紛れもない偽善に近づいているように思える。科学者が自分の観点をできる限り読者に訴えかけ、自分たちの信念を基礎づける動機選択で見せる純然たる外向的手腕に明らかである。

 ジャン・ピアジェは、人が私的に自分の考えを追う場合と、それを他人に提示するときの相違について考察している。自分の観点を社会化しようとするときにつけ加える論理的調節について考えてみよう。議論を公にする仕事の席に着くまで考えもしなかった多くの点や考え方を、信念の根拠として即興的に提唱する場合を考えてみよう。自分の信念を一度他人に推奨し始めると、論議を始めるときには完全に無視していた考察が最も大きな重荷になることがよくある。動機づけは時代の一般的で科学的な世界観に属しているから、自分の論議を外在化、或いは非人称化することで、読者を承伏させる動機づけの体系に翻訳することになる。こうした策略を無意識裡に行えるなら、彼はそうした動機づけによってごく「自然に」考えることを学ぶことさえできる。

 いかなる説明も社会化の試みであり、社会化は戦略である。それゆえ、内省と同じように科学においても、動機の特定は訴えかけに関わる――パリサイ人的偽善と議論の科学的動機づけとの相違は、訴えかけの戦略が枠づけられる定位の及ぶ範囲の相違に止まる。

2014年11月13日木曜日

ブラッドリー『論理学』94

 §70.現前の知覚に与えられるものの一部分を実在だとすることはできないことをみてきた。更に進まねばならない。現前する内容すべてを性質づけることができたとしても、過去と未来をそこに組み込めないなら、それは再び失敗であろう。現在が過去とは独立に存在し、拡がり全体のうちの一つの断片が自律してしていて残りと何の関係ももたないとは仮定することはできない(あるいは、少なくとも私はどんな権利があってそうした仮定をするのかわからない)。判断が真であり定言的であるためには、そのなかに完全に条件が組み込まれていなければならない。ここでの条件は、所与を完全なものにするための空間と時間の全拡がりである。それは克服できない難点である。観念は感覚の諸事実を写し取ることができない、というだけではない。我々の理解には限界があり、全系列を知ることはできないし、我々の力はかくも広大な対象を捉えるには不十分だ、というだけではない。どんな精神であっても、空間と時間の完全な系列を描き出すことはできないのである。というのも、もしそれが行なわれるなら、無限には終りがあることになり、有限であると理解されるからである。それはあり得ない。単に心理学的に考えることができないだけでなく、形而上学的に不可能なのである。

2014年11月12日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻9

露萩の角力ちからを撰ばれず 芭蕉

 すもうは争い抗うことである。俊頼が好んで「すまふ」という言葉を用い、その『散木?[なべぶたに弁]歌集』に「かくばかりはげしき野辺の秋風に折れじとすまふ女郎花かな」また、「葉がくれはしばしもすまへ桜花つひには風の根にかへすかな」、また、「吾が心身にすまはれて故郷をいくたび出でゝ立ちかへるらむ」などの歌がある。

 文章の言葉では『源氏物語』紅葉賀の巻、「ぬがじとすまふを、とかく引きしろふほどに」などその例が少なからずある。『後拾遺集』秋上、慶暹、「秋風に折れじとすまふ女郎花いくたび野辺におきふしぬらむ」。

 ここでは露と萩とのすもうを、いずれが勝ちとも選びようがないとしている。表面上は『四十二のものあらそい』の角力より取り出し、内実は前句の故事に合わせて付けたという旧解は従いがたい。『四十二のものあらそい』はここでは関係なく、露と萩のあらそい、その冊子のなかには見られない。

 『大和物語』、兎原男、芽沼男の条のあと、絲所の別当その女になってよんだ歌、「かちまけも無くてやはてん君により思ひくらぶの山はこゆとも」。この歌を意図の下敷きにして、灯籠二つと前句の秋の季のものを面白く取り入れ、ここでも同じ季の景を打ち添えて作った、露萩の角力とは、情趣深く付けたものである。前句の灯籠二つを墓にかけたものと見なして、この句があると前人が解しているのもまたうなずける。ただしいずれにしても糸所の別当の歌の縁は無くてはならぬものである。句に愚かしいところがないのはいうまでもない。

2014年11月11日火曜日

ルイス・ギルバート『007 私を愛したスパイ』のチラシ

1977年のイギリス映画。
ロジャー・ムーアのジェイムズ・ボンド。
見たはずだが内容はまったくおぼえていない。



2014年11月10日月曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』8

定位における快感原則

 ある意味において、あらゆる定位には快感原則が含まれているが、それは現実原則と対立するわけではない。我々は経験を主に快不快の見込みとの関わりで特徴づける。定位は有用性の枠組みである。「最善の動機」によって自分の振る舞いを説明する人間は、通常、道徳的善が有用性と結びついていると認めねばならない。「善」と「有用性」とが結びつく手の込んだ経路のすべてをここで辿る必要はない。しかしながら、ある社会の最高の美徳がすべての人に行きわたるなら(我々自身である必要はないが)、彼らは人が快適に生きられる世界を作りあげようとするだろう。

 その美徳は次のようなものである。勤勉さ、才能、率直さ、親切、人の助けとなる、気前のよさ、気だてのよさ、寛大さ――つまり、「平和的な」美徳である。それらは我々にとってある種威光を放つものであり、自分の身につけたいと願う。望まれるものであり、称讃されるものである。かくして、我々はそれらを自分自身にも育てようとする。個人でそうした性質を得ることは、集団において好意を得るという点でも有用であり、ベンサムは好意を「恩恵の約束」と呼んだ。いずれにしろ、なぜ心的過程を記述する専門的な用語にごく自然に道徳的言葉が使われるのか察するに十分であろう。それは状況において傑出した位置を占める――それらを自らの行為に当てはめることで、好ましい定位の図式を用いることになる。

 別の言葉で言うと、経験の記号は有用性と損害の検証(利益と危険)で定位づけられる。従って、敵を引き合いに出して自分たちの行為や考え方を称讃する場合、それは現実原則とは異なる快感原則が働いていると説明する必要はなく、現実の測定が最初から快感の検証との関わりにおいてなされているのである。現実とは、物事が我々に、或は我々のためになすことである。快適さや不快の、繁栄や危険の公算である。

 包括的な快感原則のもと性格を定義したとしても、間違っているか不十分であることは確かだろう(ベルの音を餌として条件づけられたニワトリが、罰せられるために走り寄ってくるときのように)。定位の初期において、「現実は違うにもかかわらず」同じ行動を取り続けることは、現実原則と異なる快楽原則が働いているとはまず言えない。定位の図式が認めさせてくれる現実に従っているだけである。そして、ベルが鳴る度に繰り返し罰せられるなら、快感原則そのものがそのしるしの読みを変更するよう導くだろう。

 もし人間が罰せられるにもかかわらず、間違った定位に鶏よりも長く固執し続けるなら、それは、問題そして価値と判断が互いに支え合う広大なネットワークが複雑になればなるほど、再定位の必要を見て取り、それに応じた手段を選択することがますます困難になるからである。初期のやり方で定着した権威が新たなやり方を採用する邪魔をしているのであるから、彼らは訓練された無能力の犠牲者である。また、ある行為が社会的に危険であっても個人には有利で、集団には多大な苦痛をもたらす一方個人は利益を得る愛国主義もあるという事実によって、この困難は増大する。

2014年11月8日土曜日

ブラッドリー『論理学』93

 §69.観念は感覚的知覚には適切でないこともあるが、こうした障害の他にも更なる難点がある。所与のなかにあらわれる実在はそこに限定しておくことは不可能である。外面的な境界のなかでも、その性格は空間と時間で無限の進行を生じさせる。単純なものを探し求め、我々が最終的に見いだすのは複合的で相関的なものである。外面的な境界そのものが流動的である。それは時間、空間の外部に永久に流れ込んでいく。我々の見る現実の光が限定された領域をしか照らさないことは確かである。しかし、要素の連続性、文脈の完全さがこの照らされた部分自体で実在だと我々が言うことを禁じる。内容の自身とは別のものへの関係は内的な性質の奥底にある。それは自ら自分が形容詞的であり、外部と相関的だと宣言している。それが自律的な存在をもつと主張しようとすると、その本質を破壊することになる。空間と時間は「個別化の原理」だと言われてきた。それらは相対性の原理だと言った方が真実に近いだろう。それらは実在を制限すると同時に拡大する。

 私は過去と未来が実際に与えられ、現前としてあらわれるのだと言っているのではない。それらは所与であり得ないにもかかわらず、所与はその不在によって破壊されるだろう、と言っているのである。もし実在が過去や未来とともにあるのなら、それは所与ではないだろう。過去や未来なしにあるなら、それはいつまでも不完全で、それゆえに非実在であろう。端的に言って、現前する内容はその現前と両立しない。矛盾を含み、それによれば非実在であると言うことができる。ここは素直にこれに従い、不可能な帰結によって進行する病に堪え忍んだほうがいい。

2014年11月7日金曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻8

灯籠ふたつになさけくらぶる 杜國

 前句の「娘かしづきて」を、ここではその娘に恋する男たちがかしずくとして、美しい細工灯籠を一方がその季節に贈れば、他方も同じ心、同じ誠を込めて贈って、その美しさが優劣いずれともつかないことをいっている。

 『大和物語』のむかし津の国に住む女ありけりのくだり、兎原男と芽沼男が一人の女を恋して、女も二人のどちらを選ぶか悩み煩い、女の親も困り果てて、最後に女は生田川に身を投げて死に、男二人も同じ水屑となったという古い話の面影が見える。ただし、本文には、「ものを贈ってくれば同じように贈ってきて、どちらが勝っているともいえない」、とだけあって、灯籠のことはなく、灯籠二つというのは、本文の、「どちらからも贈ってくるものを受け取りはしなかったが、様々なものをもってきた」とあるのに基づいた作者の作意である。

 灯籠はもちろん盆灯籠で、娘の母親が亡くなっていることを言外にあらわしている。娘の母を思う心を察して、男たちが灯籠を贈る優しい人柄、三方が同時に描き出されて妙を極めている。このつけ句は実に殊勝で、前句のおとなしき娘に恋するおとなしく心優しい二人の男の恋争いのさまも、すべてふさわしくあらわれて面白いので、伝えられるところによると、芭蕉もこの句には感心して、なにを頼りにこの句を作ったのかと問うと、杜國は『伽婢子』の絵から思いつきましたと答えたので、芭蕉は非常に機嫌良く、よい心がけだと褒めたという。

 『伽婢子』は寛永板瓢水子松雪の『伽婢子』と推察され、平氏の武士某の娘の幽霊が灯籠を並べている絵があるという。作者はその絵から発想して、『大和物語』の面影を形にし、本文に、「どちらの男も長い間家の門に立ってどんなことにも衷心が見えたので」とあるのに基づき、衣や簪とはしないで、屋外に掛けるものである灯籠二つと作ったのは、さすがに古い談林の俳諧の限界を見て取って、『冬の日』に新しい旗色を示した四俊の一人だというべきである。句のあり方に難がなく、情も景もよくあらわれて余韻がある。

2014年11月6日木曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』7

.. 第二章 動機

      動機はより大きな意味の枠組みの下位区分である

 AがBに非常に悪感情を抱いているのを観察する精神分析医が私だと仮定しよう。更に、Aは古風な道徳を守っており、彼のBに対する憤りは常に道徳的義憤の形を取っている。AはBが非常に卑劣なことをしたと言う。それらのことはAに個人的には関わらないが、Bがそうしたことをするのを見るといらいらするのだとAは言う。Bの振る舞いは、そんな見下げ果てた人物は見るに堪えないということ以外には、Aになんら直接に関係することはない。Bは妻と子供を虐待している。なんらかの裏取引に関与している。あれこれのことを目撃したと友人に嘘を言う。AはBのことを夢に見るほど嫌っている。例えば、Aは事務所の社員がみんな集まって、不愉快な人物は解雇すべきだと要求する夢を見る。そこだ――精神分析家として、私は最後の部分に注目する。更なる質問の結果、BがAの地位にとって侮りがたいライバルとなりそうなことを私は知る。精神分析家として私はようやく落ち着く。Aの道徳的義憤の真の動機、Bの仕事ぶりへの恐れを私は見いだした――Aがもちだす説明は、単なる合理化と見なされる。

 Aとは対照的な動機の解釈をする精神分析に疑問を抱く者にはこれはまずい例だと思われよう。Aはすべてを道徳的義憤、客観的で公平な判断によるものだと説明している――夢の細部は無意味なものとして無視すべきである。精神分析家はライバル関係自体が問題のありかを示しており、夢は、特に似たようなパターンを示す夢が他にもあるなら、ほぼ結論を示している。(ちなみに、パターンの類似を探りだすことは精神分析の象徴理論に必要とされる。夢は互いに似ていない。大きな多様性を示しており、解釈の枠組みによってそれらに共通するテーマを明らかにする必要がある。この点について特に重要なのは、転移の理論であり、それによれば、Bは彼と結びつくようななにか、帽子とか、机とか、似た走り方をした走者等々によって象徴化されうる。)我々自身が関与していない事柄についても、精神分析的な動機の理論を用いて、他人が自己欺瞞で我々を欺いていると言われがちである。それゆえ、精神分析の解釈にも様々な理論があり、互いに激しく対立し合っていることを思い起こすのもいいことである。更に、経済的精神分析とでも言うべきマルクス主義者が嘲笑をもって示すところによれば、フロイト派の言う性的合理化や個人主義的神経症は、我々の動機の「真の」中心にある経済的事実や階級闘争からの後退や逃避として解釈されることは明らかなのである。こうした定位の転換は(それぞれが異なった動機の理論をもち、それに伴う異なった自己欺瞞の理論をもつ)、ある学派の合理性は他の学派には合理化であることを示している。

 我々の仮定したAが前フロイト的な動機の用語法で育ってきたとしよう。彼の育った社会では、行動は規定されていて、禁止のルールがあり、それに従った動機の用語法がある。なにをすべきか、すべきでないかだけでなく、行為の理由についても条件づけられている。自分の態度について説明しようとするとき、当然彼は自分の集団の言葉を用いるだろう――彼の言葉や考え方は社会的な産物でなくて何であろうか。グループによって受け入れられている動機を自分のうちに発見することは、グループの言葉を使うのと同じことである。実際、動機についての用語法はコミュニケーション一般に従属する一側面ではないだろうか。ここには現実原則と区別されるような快感原則は含まれていない。ある振る舞いをグループで使われている動機の用語で説明することは、受け入れられている尺度に問題を当てはめることで、自己欺瞞的である。自分の知っている唯一の用語法で解釈しているに過ぎない。すべきこととすべきでないこと、ほむべきことと責められるべきことを含んだ自らの定位を述べているのである。

 もちろん、義務と徳の図式が固まってから生の条件が根本的に変わってしまったとすると、定位の有用性は損なわれるかもしれない。我々の義務は、かつてのように目的に対して有用でなくなるかもしれない。もはや義務に確信がもてなくなり、結果として動機にも確信をもてなくなるかもしれない。そのときには、義務の観念がよりしっかりと状況に適合していたときよりも、新たな動機の理論に対してより開かれた姿勢を取るかもしれない。

2014年11月5日水曜日

ブラッドリー『論理学』92

 §68.分析判断はそれ自体で真なのではない。それは独立して存在することはできない。個別の現存を主張することには常にそれ以上の、主張されている断片からはこぼれ落ちる内容が仮定されていなければならない。主張されていることは、他のものがあってのみ真となる。言われている事実は残りの文脈との関わりにおいてのみ、残りの文脈があることによってのみ事実である。そうした条件がなければそれは真ではない。それゆえ、我々は実際には条件づけられた判断を手にしているのであり、それを定言的と捉えることは間違っている。定言的であって真であるとするには、判断のなかに条件を繰り込まなければならない。所与を、省略も変更も切断もない実際にあらわれる通りのものとして取り上げなければならない。それは不可能である。

2014年11月4日火曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻7

らうたげに物読む娘かしづきて 重五

 「らうたげ」は美しくかわいく、かつ猛々しくなくおとなしいことである。「物読む」は書を読むことである。静寂を喜ぶ茶人の、優雅な娘をかしずきてというだけの句である。らうたげに物読む儒者などの娘を茶人がかしずき慰めて、野辺の景色を見てみなさいと摘み草などだす様子だという旧註は大きな見当違いで、従いがたい。そこまで深入りして解する必要もない。また、娘が茶人にかしずくという旧説にも従いがたい。ここではただ野辺の蒲公英を惜しむような茶人が、ろうたげに物読む娘をかしずいて世を経ることを言っている。

 しかし、そうではなく、娘が茶人にかしずいているのだという人も多いだろう。それも一つの解釈で、通じないことはないことは私にもわかっている。だが、かしずくという語は、愛育擁護の意味合いの方が、ともにあって恭敬するという意味よりも強い。

 『源氏物語』桐壺の巻、「此君をば私物に思しかしづけ給ふこと限無し」、玉葛の巻「人に見せず限無くかしづき聞こゆるほどに」、『落窪物語』、「この君をいたはりかしづき給ふこと限無し」、これらはみな愛し育て擁護する意味である。『枕草子』、「上にさふらふ御猫は・・・いとをかしければかしづかせ給ふがはしに出たるを」、『源氏者語』若菜の巻、「あけたての猫のかしづきをして撫養ひたまふ」これらは特に、かしずくという言葉の、上より下を愛護し、有力者の守り助けることを示している。『源氏物語』東屋の巻、「帝の御かしづき娘を得たまへる君」などにいたっては後の世のご秘蔵といっているのに等しい。かしずくの用語例を知るべきである。

 世を下ると、『源氏物語』槇柱の巻の「こなたの御かしづき人ども心もとながり」などの用例をはじめにして、ゆっくりと侍従し、随仕する意味の方に移って、下より上に仕えるだけをかしずくの意味として覚えるものもあるが、「らうたげ」などという古い言葉と釣り合わせて考えるときは、その娘に父がかしずくのであって、娘が父にかしずくのではないと思われる。ろうたげにものを読むほどの娘であれば、野辺の蒲公英でさえ惜しむ父親が特に愛し、育て守ろうとするだろう。またもし娘が父にかしずくのだとしても、どちらにしてもこの句、古い絵巻を見るように麗しく興がある。

2014年11月3日月曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』6

      合理化と定位とのつながり

 合理化という言葉は、推論とは異なり、精神分析から来たようである。フロイト派が動機についての特殊な用語法を発達させるやいなや、非フロイト派の動機についての用語法を特徴づけるような言葉が必要であると感じた。かくして、教会によって育て上げられた心理学的術語によって陰に陽に訓練された人間が、教会の用語を使って自分の行動を説明しようとする一方、フロイト派は自分たちの用語法を「分析」と呼び、教会の用語法を「合理化」と呼んで差異化するのである。一般的に、ある行為を高貴な自己犠牲的言葉によって説明するときにはなにかが隠されており、フロイト派の定位はそれを利己的な動機として説明することができる。

 フロイト派の解釈によれば、真の動機はよく目立ち心地のいい美徳の装いで隠されている。契約をごまかそうとする詐欺師のように、故意に欺こうとしているわけではない。むしろ働いているのは自己欺瞞であり、過酷な現実に対して眼を閉じるために行為を合理化しているのである。体裁よく自分の行為を説明するが、フロイト派はその根っこの部分において、利害と動機が都合のいいように変えられているのを看破する。これまで教えられてきた用語で自分の行為を説明しているとき、なぜ自己欺瞞だと疑われねばならないのかは精神分析による合理化の神秘として残ることだろう。パスツールのことを聞いたこともない未開人が、病気を細菌学によって治療しようとしない自己欺瞞によって責められるようなものであろう。

 合理化の問題は、諸動機の理論である定位を越えたところにまで我々を連れて行く。パヴロフ-ワトソン-ゲシュタルト派は、一般的に、単純な反応が形成され、それが変更される条件を記述することに自ら限定している。しかし、人間は反応の範囲を拡大しようとし、計画的に定位と解釈を言語化することで反応の精度を高める。あらゆる有機体は批評家であるが、人間は言葉の力によって、批評の方法論を完璧なものにしようとする。こうした言語化には理由づけの試みも含まれており、行為の動機について考慮することも含まれている。従って、我々は次のように進む。(a)偶然の経験によって発達したある種の関係についての感覚がある。(b)この関係の感覚が我々の定位である。(c)我々の定位の多くの部分に予期が含まれ、未来への関心が手段の選択に影響を与える。(d)人間においては、予期とどんな行為が正しいのかという判断は動機の問題と密接に結びついており、なぜ人がそうしたのかを知れば、我々は彼にそして自分自身になにを予期すべきか知り、そうした予想を考慮に入れた上で決定や判断や方針を決めるのである。

2014年11月2日日曜日

ブラッドリー『論理学』91

 §67.分析判断に戻ろう。「狼がいる」と言うとき、実在する事実は、個別の環境と、感情、情動、思考において個別な条件にある内的な自己と関わる他のものとは似ていない個別の狼である。また「歯が痛い」と言うとき、事実は、ある瞬間における私の知覚と感情を伴ったある歯の個別の痛みである。問題は、私が全体の断片から判断を作り上げるとき、それを実在の述語とし、「それは<現にそうであるように>感覚の事実である」と主張する権利があるかどうかである。分析判断が<いかなる>意味でも真ではないと言おうとしているのではない。それでもって所与の事実として内容の存在を主張しようとするなら、正当とは認められないと言っている。いったいどんな原則でもって、現前する全体から好きなものを選択し、その断片を現実の性質として扱うというのだろうか。それが自律的に存在していないことは確かであって、それだけを取り出したときに、どうしてそれがこの実在の性質であり得ると知るのだろうか。感覚される現象は現にあるものでそれがすべてである。それ以下のものはきっとなにか別のものであるに違いない。真理の断片というのは、、それが全体を性質づけるものとして用いられると、完全な誤りとなるのである。

2014年11月1日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻6

茶の湯者をしむ野辺の蒲公英 正平

 蒲公英は春の菜として食べるものである。どんな侘びのものも花瓶に入れる花とするべきものではないので、料理として浸しものとして用いる。「をしむ」は馬糞掻きに汚されたためだと前人は解したが、ただ愛するの意として解するべきである。山にはまたたびの葉、たらの芽、野に坡蒲公英の葉、わすれ草の花など侘びを喜ぶ人が愛でるものである。前句の景色のなかに茶人の逍遙するのを付けたものである。洛外の春の様子がうかがわれ、自ずから片田舎と思われないのがいい。馬糞に蒲公英を付けたのではなく、かすみに遊歩を付けたのである。