ジャ・ジャンクーの『スリ』や『プラットフォーム』はどちらも群像劇で、主人公といっては語弊があるが、間違いなく中心的で、監督の心情を投影しているとおぼしいワン・ホンウェイは大泉洋そっくりで、特に『プラットフォーム』では劇団に関係し、歌まで歌っているのだから、栗とドングリくらいには似ている。
『プラットフォーム』は1980年代の中国を描いており、多義的な題名である。映画中で幾度か繰り返されるプラットフォームの歌もあるが、変わっていく時代のなかでどさ回りのようなことをしなければならなくなった登場人物たちが通過していく駅のプラットフォームもあるだろうし(もっとも、駅そのものを描いた場面はさほどない)、コンピューターのプラットフォームというときのように、OS的な中国の基本的部分を示してもいるのだろう。プラットフォームとはまた演台のように一段高いところを意味するが、すべてがその高さに至らなければ意味がない礎となるべき第一歩でもある。
昔の日本がたどった道をいまの中国が経験している、とはよく言われることだが、私は非常に懐疑的だ。中国の広さがうまく想像できないためもある。日本くらい狭いと東京と京都で歴史は転回し、雰囲気・空気が形成され、監視の目もある程度行き渡る。せいぜい二極しかないから、時代・風潮がころころ変わるのはここ十年を見てもわかるとおり。一方中国は、もちろん王朝の変化はそれなりにあったが、本当の変革というのは漢民族が中央を追われた元のときと、毛沢東による共産主義革命にしかなかったのではないか。いくつものプラトーが形成され、それが幾千にもなったときには、すでにそれはプラトーではなく、新たな地表なのだ。
どさ回りといえば、もう何年前に読んだか覚えてもいない横光利一の『時間』を読み返した。どさ回りの連中が旅の途中、無一文のまま団長に置き去りにされるという話だった。吉田健一のほぼ直系の先輩だから、飲み食いや酒を飲んでいるあいだにも時間はたっていき、そうした時間を意識しているあいだにも時間はたっており、そうした循環のうちに倦怠に陥ることもあるといったような小説の片鱗でもうかがえるかと思ったが、言い方は悪いがもっと泥臭い普通の小説だった。
とここまで書いて、ジャ・ジャンクーの映画は『プラットホーム』という表記だと気づいた。駅にあるのはホームだが、platformの略で、和製英語なのかしら。
0 件のコメント:
コメントを投稿