目覚めたとしても、それが夢でない保証などなにもないからだ。
世界の有機的なサイクルと一致している動物にとっては、死は生の連続の一環でしかないように思われる。
歴史の、夢想の堆積は、現実と夢とを分離すると同時に、両者の混同を含むものでもあった。
洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。(アドルノ『美の理論』大久保健治訳)
歴史と夢想の堆積は、 あらゆる可能性を探り続け、テクノロジーをそうした可能性のひとつのあらわれにしてしまう。
もちろんそこには「質的飛躍」があるのだが、その飛躍が夢と現実を飛び越すほどのものなのかは疑問だ。
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