2015年11月8日日曜日

『ザ・キリング』第2シリーズと『死霊』

デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・ビギニング』(2011年)を見る。シリーズ第4作。もはや森などはでていないが、原題はWrong Turnで、そもそも森と関係がないのだから仕方がない。4作のなかで一番の駄作。ミュータントたちが集められたサナトリウムで牢を破って自由になった怪物たちが迷い込んできた学生たちと対決するというものだが、対決が始まるまでに40分以上かかるというもっさりさと、戦闘シーンの工夫ならともかく、必要もない間延びしたサスペンスや、妙なヒューマニズムが振り回されるのも噴飯物で、最終的に殺されてしまうとしても、気が利かない。病院はともかく、雪原などはよほど演出の手腕を必要とされるから、舞台選びからして失敗している。

『ザ・キリング』アメリカ版の第2シリーズを見終わる。一つの事件で2シーズンはさすがに長すぎる。これだけ長いと誰が犯人であっても、驚けない。最も最後に流される犠牲者のプライベート・フィルムには少しほろりとしたが。

なんと三十年以上の時間を隔てて埴谷雄高の『死霊』を読み返した。もっとも、河出書房新社版の著作集で読んだので、3章までである。未定稿まで含めると9章まであるようだから、半分も読んでいないことになるが(三十年以上前、確か5章までは一冊の本、次に6章が薄い本で出版されてそこまでは読んだような気がする)、普通に面白かった。一部で影響を与えたとされている小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などよりはずっと読みやすい文章で、エンターテイメントとして楽しめる。運河が張り巡らされたあの陰鬱な町は、どこかに実際的なモデルとなった街があるのだろうか。続けて『不合理ゆえに吾信ず』という断章形式の本も読み返すが、こちらは一節も胸に響くところがなかった。とりあえず残りの『死霊』とその他の文章も読んでみなければ、そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』くらいは読み返しておこうと思うのも、こちらも20年以上前に読んだきりで、しかも何一つ内容を覚えていないからで、文庫本で3巻もあって、読むのにかかった時間を考えれば、多少はなにか覚えていてもいいはずだが、きれいさっぱり晴天に曇りがない如く、何一つ覚えていない。



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