2013年10月11日金曜日

彫刻と二種類の動き――リルケ

『鬣』10号に掲載された。





人間をかたどった彫刻の目的が、そのモデルに似ることにあるなら、彫刻は常に現実に敗れ続けるしかないだろう。絵画のように、三次元のものを二次元に変換する手順を経ないだけに、彫刻はある人物のプロポーションを完全に写し取ることができるが、その完全さが物と生命との差を一層残酷に浮かび上がらせる。

だが、ケネス・クラークが指摘するように、既に古代ギリシャの裸体像のときから、問題はモデルの肉体を正確に写し取ることではなく、ある理念を表現すること、その理念にもとづいて肉体を再構成することにあった。

人間の身体についての理想的な美の規範が形成されるが、それは身体全域における各部分の比例であって、例えば女性の裸体像の場合、二つの乳房の間の距離と、低い位置の乳房から臍、臍から腿の付け根までの距離が同じであるべきだとされた。こうした比例の美をまざまざとあらわすためには姿勢が大切であり、ギリシャの彫刻は皆堂々と誇らかに立っている。

リルケの描くロダンはギリシャ以来の彫刻概念を徹底的に破壊する。ロダンの最大の発見は面である。面とは、つまり、身体を覆うどこまででも分割できる無数の表面で、そのどの面においても内からと外からの無数の力が交錯している。したがって、どれかの面が他の面に比較してより重要なわけではない。ギリシャの彫刻でのように、理想的な比率に奉仕するそれ自体では重要でない面などは存在しないし、身体全体を統御する理念などはないから理想美をあらわにする適切な姿勢があるのでもない。

では、この彫刻はなにを目指すのか。リルケは二つの動きを区別する。一つは終わりのない、平衡に落ち着くことのない、物の限界を越えようとする動きである。我々の日常を占めているのはこの種の動きであるが、彫刻にとって本質的なものではない。

もう一つは、必ずもとの場所に還り、平衡を取り戻し、自分だけに専念する動きで、不動のうちに立っている彫刻がロダンが行ったような探求を経たものであるならそのうちに蔵しているはずのものである。この動きはそのどれをもおろそかにするべきではない無数にある面の無限に多様な力をひと鑿ごとに物に封じ込めていくことによって得るしかない。彫刻家が芸術家というよりはむしろ職人の相貌をおびるのは、全体のためにいまなにをするかが決定されるのではなく、個々の面において闘い続けねばならないからである。そして、個々の面だけがあって、身体という全体がない彫刻は人体を彫りつけながらも人間に似ないなにか不可思議な生命の塊を産み出すかもしれない。

    誰もまだ美を作った者はありません。ひとはただ、時として私たちのもとにとどまろうとするのに対して、したしい、もしくは崇高な境遇──神壇、果実、また焔を──を作り得るだけなのです。(高安国世訳)