2015年6月29日月曜日

『骨と酸漿』という本がでました

 風の花冠文庫から『骨と酸漿~文学と映画とに関する104章~』という本が出ました。文庫の大きさ、354ページで、文学(主として小説)と映画についての短いエッセイが104編収められています。ISBN番号はありますが、部数が少ないので、アマゾンなどには出品していません。ご希望の方はメール・フォームでご連絡ください。定価1500円+送料一冊分215円となります。

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 目次は次のようなものです。

序の壱 澁澤龍彦『玩物草紙』(1979年)
序の弐 幸田露伴『運命』(1919年)

  1.解放された世界
      火星人と車輪――H・G・ウェルズ『宇宙戦争』(1898年)
      ヒト型未確認物体――チャールズ・F・ライスナー『キートンの蒸気船』(1928年)

  2.モダン・タイムス
      荒野の爽快感――アルフレッド・ジャリ『超男性』(1901年)
      その笑い――チャップリン『街の灯』(1931年)

  3.御冗談デショ
      彫刻と二種類の動き――リルケ『ロダン』(1902年)
      スープの香り――レオ・マッケリー『我が輩はカモである』(1933年)

  4.愛の博物誌
      スタイルと生理――レミ・ド・グールモン『スタイル』(1902年)
      オーケストラとしての身体――ジョージ・スティーヴンス『有頂天時代』(1936年)

  5.照葉狂言
      夢から身を守る法――泉鏡花『春昼』(1906年)
      夢としての映画――清水宏『有りがたうさん』(1936年)

  6.真面目が肝心
      浅薄と自覚――オスカー・ワイルド『獄中記』(1906年)
      辛辣な理想主義――フランク・キャプラ『オペラハット』(1936年)

  7.特急二十世紀
      ある種の性格の類型――ハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』(1912年)
      速度の愛――ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)

  8.カリグラム
      視差と時差の世界――アポリネール『月の王』(1916年)
      椅子からずり落ちるには――プレストン・スタージェス『パームビーチ・ストーリー』(1942年)

  9.ある戦いの記録
      とんとん落ちとしての解釈――カフカ『学会への報告』(1917年)
      甘草と涙――ジョージ・キューカー『アダム氏とマダム』(1949年)

  10.望みなき捜索
      はかなさとノスタルジア――アーネスト・ダウスン『詩文集』(1919年)
      遅すぎた成長――ジョセフ・H・ルイス『拳銃魔』(1949年)

  11.野良犬
      晴朗なる穀潰し――武林無想庵『ピルロニストのように』(1920年)
      侍という身分――黒澤明『七人の侍』(1954年)

  12.疑惑の影
      ロボットと神聖冒瀆――カレル・チャペック『ロボット』(1920年)
      ケ・セラ・セラ――ヒッチコック『知りすぎていた男』(1956年)

  13.甘い生活
      痙攣としての逸話――アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1928,63年)
      祝祭の種子――フェデリコ・フェリーニ『82/1』(1963年)

  14.永久運動
      イグニッションとしての女性――ルイ・アラゴン『イレーヌ』(1928年)
      寓意を拒む物――ミクロシュ・ヤンチョー『密告の砦』(1965年)

  15.パッション
      腿の内側と内側――江戸川乱歩『押絵と旅する男』(1929年)
      愛に代わるもの――ジャン=リュック・ゴダール『ウイークエンド』(1967年)

  16.白蟻
      比例と無限記号――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1934年)
      あまりに硬すぎるしなり――ストローブ=ユイレ『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1968年)

  17.六道遊行
      精神の成功と失敗――石川淳『佳人』(1935年)
      神に対する会話の勝利――エリック・ロメール『モード家の一夜』(1968年)

  18.快楽の漸進的横滑り
      手の祭壇――大手拓次『詩集』(1936~41年) 
      コンポジションとシークエンス――アラン・ロブ=グリエ『エデン、その後』(1970年)

  19.あめりか物語
      箱の中身――永井荷風『濹東綺譚』(1936年)
      希有な典型――ドン・シーゲル『ダーティハリー』(1971年)

  20.自由の幻想
      ボルヘス『「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール』(1939年)
      映画の秘かな愉しみ――ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)

  21.冷房装置の悪夢
      事実と笑い――ヘンリー・ミラー『南回帰線』(1939年)
      突然変異の栽培者――フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドフーァザー』(1972~90年)

  22.フレンチ・コネクション
      魂を吸うカメラ――ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(1940年)
      悪魔が映画をつくった――ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』(1973年)

  23.呪われた部分
      理解しがたい単純性――ジョルジュ・バタイユ 『マダム・エドワルダ』(1941年)
      暴力と鎮魂――深作欣二『仁義なき戦い』(1973年)

  24.末期の眼
      芸としての勝負――川端康成『名人』(1942年)
      カメラと精神――シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン』(1975年)

  25.フール・フォア・ラブ
      ボルヘス的翻訳――吉川幸次郎『洛中書簡』(1946年)
      砂漠の女――ロバート・アルトマン『三人の女』(1977年)

  26.フェノミナ
      イノチガケの違い――坂口安吾『二流の人』(1947年)
      不思議の国――ダリオ・アルジェント『サスペリア』(1977年)

  27.末枯
        ・・・・・・――久保田万太郎『好学社版全集』(1947~9年)
      彼らはどんなところでも歩きまわるだろう--ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(1978年)

  28.凸凹道
      ドームとしての風景――内田百閒『阿呆列車』(1952年)
      芋づるとの格闘――テリー・ジョーンズ『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)

  29.肉体の門
      二つの境界線の間――ピエール・ド・マンディアルグ『大理石』(1953年)
      死者の王国――鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)

  30.けんかえれじい
      悪人が好む詩――花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
      通底器――鈴木清順『陽炎座』(1981年)

  31.緑のアリが夢みるところ
      亡霊はここにいる――ジャン・ポーラン『ブラック』(1958年)
      見者のオペラ――ヴェルナー・ヘルツォーク『フィッツカラルド』(1982年)

  32.完全な真空
      機械仕掛けのトラウマ――スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』(1961年)
      御伽草子――テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988年)

  33.偶然
      ずぼらという拠点――古今亭志ん生『びんぼう自慢』(1964年)
      日常と取り返しのつかぬもの――クシシュトフ・キェシロフスキ『デカローグ』(1988-9年)

  34.人生の日曜日
      夢と歴史――レーモン・クノー『青い花』(1965年)
      倫理的、あまりに倫理的な――クリント・イーストウッド『許されざる者』(1992年)

  35.愛の渇き
      亡霊たちの終末――アンナ・カヴァン『氷』(1967年)
      夜と雨――石井隆『ヌードの夜』(1993年)

  36.真夜中のマリア
      花を咲かせる甘美さ――野坂昭如『骨餓身峠死人葛』(1969年)
      日常的な奇跡――ハロルド・ライミス『恋はデジャ・ブ』(1993年)

  37.ソナチネ
      魔法使いの弟子――齋藤磯雄『ピモダン館』(1970年)
      くだらなさについて――北野武『みんな~やってるか!』(1994年)

  38.砂の上の植物群
      女性器というテーマ――吉行淳之介『暗室』(1970年)
      枠のある世界――デヴィッド・フィンチャー『セブン』(1995年)

  39.時計仕掛けのオレンジ
      否認と排除――吉田健一『東京の昔』(1974年)
      二度めの正直――スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)

  40.水中都市
      主人公が積極的につくりだす迷宮――安部公房『密会』(1977年)
      清冽と澱み――大島渚『御法度』(1999年)

  41.アカルイミライ
      いいかげんな世界――平岡正明『タモリだよ!』(1981年)
      消え去らないための根拠――黒沢清『大いなる幻影』(1999年)

  42.時は乱れて
      もうひとつの悪夢――フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(1981年)
      解消できない困惑について――スティーブン・スピルバーグ『A.I.』(2001年)

  43.挟み撃ち
      珍妙さという本領――後藤明生『壁の中』(1986年)
      ダンスのないダンス映画――アッバス・キアロスタミ『10話』(2002年)

  44.黒い風琴
      エッセイと随筆――富士川英郎『茶前酒後』(1989年)
      それはまた別の話――ダルデンヌ兄弟『息子のまなざし』(2002年) 

  45.流れる
      存在の強さ――幸田文『木』(1992年)
      ノスタルジアの電車――侯孝賢『珈琲時光』(2003年)

  46.天使のたまご
      言った言葉が・・・・・・--三木のり平『のり平のパーッといきましょう(1999年)』
      中華的シュルレアリスム――押井守『イノセンス』(2004年)

  47.コズモポリス
      存在と気配――藤沢周『さだめ』(2000年)
      悪夢と幻覚――デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』(2006年)

  48.コックサッカーブルース
      もろく根拠のない快楽の強さ――村上龍『半島を出よ』(2005年)
      映画の外にあるフィルム――クエンティン・タランティーノ『デス・プルーフ』(2007年)

  49.インターステラ―
      建設のための拡散――阿部和重『ピストルズ』(2010年)
      現実という模様――クリストフォー・ノーラン『インセプション』(2010年)

  50. 美女と犯罪
      果てしなきベスト・テン――山田宏一『映画 果てしなきベスト・テン』(2013年)
      イタリアの倦怠――パオロ・ソレンティーノ『グレート・ビューティー/追憶のローマ』(2013年)

結の壱 幸田露伴『幻談』(1938年)
結の弐 澁澤龍彦『唐草物語』(1981年)

2015年6月28日日曜日

6月28日 プラットホーム



 ジャ・ジャンクーの『スリ』や『プラットフォーム』はどちらも群像劇で、主人公といっては語弊があるが、間違いなく中心的で、監督の心情を投影しているとおぼしいワン・ホンウェイは大泉洋そっくりで、特に『プラットフォーム』では劇団に関係し、歌まで歌っているのだから、栗とドングリくらいには似ている。

 『プラットフォーム』は1980年代の中国を描いており、多義的な題名である。映画中で幾度か繰り返されるプラットフォームの歌もあるが、変わっていく時代のなかでどさ回りのようなことをしなければならなくなった登場人物たちが通過していく駅のプラットフォームもあるだろうし(もっとも、駅そのものを描いた場面はさほどない)、コンピューターのプラットフォームというときのように、OS的な中国の基本的部分を示してもいるのだろう。プラットフォームとはまた演台のように一段高いところを意味するが、すべてがその高さに至らなければ意味がない礎となるべき第一歩でもある。

 昔の日本がたどった道をいまの中国が経験している、とはよく言われることだが、私は非常に懐疑的だ。中国の広さがうまく想像できないためもある。日本くらい狭いと東京と京都で歴史は転回し、雰囲気・空気が形成され、監視の目もある程度行き渡る。せいぜい二極しかないから、時代・風潮がころころ変わるのはここ十年を見てもわかるとおり。一方中国は、もちろん王朝の変化はそれなりにあったが、本当の変革というのは漢民族が中央を追われた元のときと、毛沢東による共産主義革命にしかなかったのではないか。いくつものプラトーが形成され、それが幾千にもなったときには、すでにそれはプラトーではなく、新たな地表なのだ。

 どさ回りといえば、もう何年前に読んだか覚えてもいない横光利一の『時間』を読み返した。どさ回りの連中が旅の途中、無一文のまま団長に置き去りにされるという話だった。吉田健一のほぼ直系の先輩だから、飲み食いや酒を飲んでいるあいだにも時間はたっていき、そうした時間を意識しているあいだにも時間はたっており、そうした循環のうちに倦怠に陥ることもあるといったような小説の片鱗でもうかがえるかと思ったが、言い方は悪いがもっと泥臭い普通の小説だった。

 とここまで書いて、ジャ・ジャンクーの映画は『プラットホーム』という表記だと気づいた。駅にあるのはホームだが、platformの略で、和製英語なのかしら。

2015年6月27日土曜日

6月27日 アンブレイカブル



 フロアーの床にはいつまでたっても慣れないもので、もっともすでに十年以上フロアーの部屋に暮らしているのだが、ひとによっては汚いというものもあるかもしれない乱雑な、その実どんぶり勘定ほどには計算をし尽くした細々したものが配置されて、言い方を変えれば足の踏み場がなくなっていたので、なにか割れるものを踏みつけて危ないということはあっても、床で滑ることはほとんどなかった。

 ところが先日、見渡すかぎりのフロアーのなかで、しかも細いパイプの脚が四本ついただけの簡易椅子に、そのまま座れば問題はなかったのだろうが、無意識に悟りを求めているわけでもないだろうが、片方の脚を折りたたんで、半跏思惟像の形を取って、隙があれば天上天下唯我独尊とでも言い放ってやろうと思っている私は、いつものように堅く狭い椅子の上に折りたたんだ脚をのせて座ろうとした瞬間、摩擦係数の計算をするまでもなく、傾いた椅子にかかる荷重は垂直に床の上で安定するよりは傾きをさらに傾かせるべく働いて、唯我独尊というよりは転んでも一人。

 とはいえ、敬虔な心情が自己放下としてあらわれたのか、重力のなかにも神仏は宿り、転んだとはいうもののその過程は内村航平の演技の如く、床に寝そべった姿も転がったというよりは着地姿に似ていた。

 こんなことを思いだしたのも、数日前、人工的な切り通しが、逆方向から行くとだらだらと登り坂になっているのがはっきりとするが、下りのときには、快適さのみが勝って、下りが続く加速度を考慮に入れないことよりも快適さの方が勝って、後から振り返ると敬虔さよりも快楽が勝った結果が覿面にあらわれ、縁石にぶつかると、それこそ何十年かぶりに自転車でひっくり返った。にもかかわらず、敬虔さより快楽が勝っていたにもかかわらず、擦り傷ひとつなく、「魂が揺れるんです」となにかの映画のキャッチコピーにあったように思うが、「脳が揺れるんです」とは感じたものの、脳しんとうにも及ばず、これが快楽の結果だとすれば、神仏の加護などいうも愚かなこと、映画としてはさして面白くはなかったものの、ついでにいえばどんどん評判を落とし、残酷なものだと思いながらも、実際に作品を見ると、まあ、しょうがないかな、と思わないでもないナイト・シャマランの『アンブレイカブル』を思い返し、どんな高さから落ち、なににぶつかろうが、生き残るだろうと、つい、邪な思いに誘われる。