『大言海』によれば「すげむ」とは、「年、老イテ、口、歪ム。又、歯、疎ナリ。」とあり、滅多にみない言葉であるが、案の定、用例としてあげられているのは、円地文子もまた現代語訳した『源氏物語』からだけである。しかし、辞書を引く前から、なにかおどろおどろしい雰囲気は漂っている。
麗子の微かなすげみをみせた唇から毒々しい言葉が吐き出される時、曖昧な窪みをただよわせた頬のあたりには濃いなまめきが滲んだ。 夏彦の肌が縮んだ。その鮫立ちの一つ一つに麗子の吐く濃い息吹がふきつけられているようであった。 「夏彦さん」 たぐり寄せるように麗子の手が夏彦の肩にのびた。 「夏彦さん、あなた、私をお母さんに勝たせてくれる?私をもう一度女にしてくれる?私、あなたのなかのお父さんにもう一度逢いたいのよ」 夏彦はふるえていた。肌の粟立ちが頬までのぼって来て、口の中で歯がかちかち触れた。 「寒い!」 と彼は言って、麗子の絹漉し豆腐のように軟らかい手を払いのけた。しかし手は彼の力ない拒絶をおしのけて、まるでところてんのようにするすると滑り落ちながら、彼の肩に胸にまつわりついて来た。『小町変相』
老いているから歪んでいるのか、歪みが老いを垣間見させるのか、腐りかけのものがもつデカダンスがにじみでている。
しかし、それよりも感心したのは、豆腐とところてんの直喩である。もともと直喩というのはさして重要視されない。現代作家では私の気づく限り、安部公房や村上春樹は意識的で工夫をしているが、それ以外は思いつかない。
そもそも隠喩と比較して直喩が軽視されがちなのはいまに始まったわけではなく、既にアリストテレスは、隠喩よりも長くなるし、隠喩のように「~は~である」という新たな観点を引き入れるわけではないので、それ以上精神を喚起することがないゆえに、より関心を引くことがないとしている。
だが、むしろいま、より困難なのだといえるのは印象的な直喩だろう。凡庸な直喩はエンターテイメント作品のように雰囲気を醸成し、文の累積のなかで消費されていけばすむが、「文学的」あるいは「詩的」であることを目指して直喩に向かうことは、よほど鈍感か、自覚的であるしかない。
円地文子の文章は、困難な行程を見事に乗りこなしている。というのも、手が絹漉し豆腐だという隠喩であったなら、あまりに容易に崩れてしまう豆腐と身体のなかでももっとも器用でしなやかな手を並置することは、さほど印象的だとは思われなかっただろう。つまり、この比喩を輝かせているのは、手が豆腐やところてんのようであっても、決して実際には豆腐やところてんではないという点であり、直喩の「のように」という言葉こそが胆となっている点にあるのだ。
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