2015年11月18日水曜日

稲垣足穂とA感覚

山口義高の『アルカナ』(2013年)を見る。大量殺人の現場に少女がいて、世界には分身があらわれるという現象が続々と起っており、警察にはお宮係という部署があり、本体を殺して自分たちの世界を造りあげようとしている分身たちがいるようであり、主人公の刑事はその少女にすぐに過剰な思い入れをするようであり、あまりにいろいろなことが詰め込まれすぎている。ここ数十年の日本映画の悪弊だが、主人公がやけにヒロイックになるのも馬鹿馬鹿しい。生を賭けるというのはただでさえ難しい演技、役者の生身がむき出しになることなのだから、若い俳優にそんなことを要求すること自体が間違っている。

同じように最初から最後までお化けのたぐいが出てくるのが稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(名字はサンモトと読む)だが、大傑作。いってしまえばキングの『スタンド・バイ・ミー』のような話ではあるのだが、通過儀礼ととってはまったく面白くない。一月にわたる物語でありながら、それはある種の双曲線が互いに近づいてくる持続の時間であるに過ぎず、その二つの曲線がもっとも近づいたときに、少年が最後に発する一言が特権的な瞬間となっている。

稲垣足穂のA感覚に関する文章は、読むと納得するのだが、いまでも不思議なのはどの程度実践的なものなのかということである。アナルの感覚は、無底で、原初的で、根源的なものであり、宇宙へとひらかれている。ペニスやヴァギナはアナルの派生物でしかなく、ちっとも本質的なものを含まない。と、理屈はわかるのだが・・・こうした疑問は足穂文学の愛好者にも共通したものであるらしく、三島由紀夫が澁澤龍彦と対談したときにも、そうした疑問が話題に上がっていたし、野坂昭如が足穂と対談したときにも、しつこく実践面はどうなっているのか聞いていたように記憶している。実際、性的嗜好については驚くほど平凡な自分には、エネマグラでも使って開発にでも努めれば、新しい世界が広がるのかどうかいつまでも疑問なままなのだ。


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