北野武の『ソナチネ』(1993年)を見る。6,7度目くらい。北野武とヤクザの親和性が明らかになった作品だといえるだろう。『3ー4X10月』でも鮮烈なヤクザ役で登場していたが、やはりこの映画の主人公は柳ユーレイで、魅力的な脇役でしかなかった。ヤクザと同じく刑事役も印象的だが、ヤクザも刑事も大して変わらないことは、深作欣二の『県警対組織暴力』を見ればわかる。
だが、北野武的な死への願望を満足させるためには、刑事だと何らかの要素がつけ加えられねばならない。ヤクザなら、少なくとも映画的にいって、任侠もの以来常に死への回路が開かれていて、そこにいたる過程こそ実録ものがで大きく変わったとはいえ、基本的にヤクザの行為というのは死を前提にしたものだった(少なくとも映画の世界では)。そうした意味では、生産とは自ら関わることのない武士の末裔といえるかもしれない。
ところが、刑事となると役人であり、組織の一員である以上、破滅願望だけでは事が運ばない。体よく止めさせられるのが落ちだ。また、死への願望が自殺願望とも異なることがやっかいである。自殺というのは任意に映画を終わらせてしまうという意味で、非映画的な行為であるからだ(自殺志望者が街中をさまよい歩くだけの映画、ドリュ・ラ・ロシェルが原作のルイ・マルの唯一秀作だと思う『鬼火』のような映画もあるが)。したがって、『その男、凶暴につき』では妹との、『HANAーBI』では妻との愛情が死へと方向付ける要素となっている。
死への願望とは最短距離で点と点をつなごうとする映画的な意志でもある。浜辺で遊んでいるだけの場面にも過不足がないのが(『菊次郎の夏』ではちょっと長く感じる)素晴らしい。
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