2014年5月31日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』28

烏賊は夷の國の占形  重五

 秦王が東方へ旅行したとき、数を数える竹を入れる袋を海に落とし、それが化して魚となる、ゆえに烏賊はその形がその袋のようだということを『西陽雑俎』から引きだして、古解は事々しく解釈したが、ここでは関係がない。

 曲齋は、白いのは人の骨かと取り上げるのは衆生を哀れむ僧であり、この僧一行禅師のように易に優れていたので、日本であれば鹿の骨で占い、中国であれば亀の甲を焼き、烏賊の甲なら夷狄の占いにいいだろう、と無駄なことに手を汚してしまったとうち捨てたさまだといい、何丸は、流罪の人が、知らぬ浜辺に出てぶらぶらしていると、何か小さな白いものがあり、人の骨か何かと心細く思って取り上げてみれば、骨ではなく烏賊の甲だった、それを幸いに我が身の落ち着き先を占ってみよう、秦王の袋が化してなった烏賊なのだから、夷の占いにはあつらえ向きだと占いをするさまだといっている。僧や流人などとそうまで深く解釈するのはやりすぎである。僧を一行のように易に優れたものとし、流人を段成式のように博学だとするのも強引だと言える。

 大阪の升六は、骨が累々と積み重なった古戦場で行き悩む人が行き先を占おうと、どこか疑わしいものを取り上げてみると烏賊の甲で、夷の占いとなればいまの用には立たない、さて何をもって占おうかと思いあぐねた様子、と解釈するのはいよいよおかしく、象をかたどって漆桶をつくるようなものである。

 この句はただ前句のしらしらと砕けたものを、夷の占いに用いた烏賊の甲だというまでのことである。夷の占いにはいいだろうとあざけったわけでも、夷の占いをしようと欲したのでもなく、そのまま穏当に解釈すべきである。さて烏賊の甲を胡国の占いに用いたかいまだ詳しくは知らない。占いのたぐいはそのやり方は甚だ多いので、専門の本を詳しく調べれば、烏賊の甲を占いに用いることもあるかもしれないが、そうしたことがあってもなくてもそれを追究する必要はない。

 延宝の『次韵』、天和の『虚栗』以来、芭蕉は刻苦して旧来の俳諧に落ち着くことを避けたとはいえ、貞享のころの『冬の日』は、後の『猿蓑』『炭俵』のようになるまではいたらず、宗因、松意の風、守武、宗鑑の香の残った所もままあった。第二巻の「雨こゆる浅香の田螺ほり植ゑて」、第五巻の「泥の上に尾を曳く鯉を拾得て」という句などは、いずれも『冬の日』より前の、「第一第二の弦はぢよき/\として牛蒡をきざむ」、「さゝげたり二月中旬初茄子」、「此梅に牛も初音と啼きつべし」といったたぐいのものである。梅に鶯のところを牛と戯れ、二月中旬に瓜をすすむとあるのを初茄子に転じ、「第一第二の弦は索々として秋風松を払って疎韵落つ」とある索々を牛蒡を刻む音のじょきじょきとしたのは、みな古い俳諧の体からでた。泥に尾を曳くは『荘子』に出典があり、亀のことなのを、鯉と続け、浅香の沼には花がつみと『古今集』以来誰でも思っているのを、田螺と続けて驚かす。

 これらの滑稽、俳言、俳意、いずれも人を笑わせ、新たな感情を生じさせる。俳は歪に通じ、正論ではない言説がすなわち俳諧である。亀の甲羅、鹿の骨はそれぞれ中国と日本の占いに用いるが、烏賊の甲を焼くのが夷の占いだとする、これもまた古俳諧の系統をひいた滑稽であり、前句が物々しく「人の骨か何」といったのを、烏賊の甲だと応酬し、しかも焼け残りの細片だとしたことにこの句のおかしみがある。易に長じているわけでも、博学なわけでもなく、これただ俳諧であるのみであり、古風の俳諧である。

2014年5月30日金曜日

ブラッドリー『論理学』36

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§10.しかしながら、まず、定義をしておかなければならない。我々が使ってきた語句は、故意に曖昧なものだった。我々は、究極的な主語である実在、知覚の対象を、移ろいゆくあらわれと同一のものと考えるべきだろうか。それはあり得ないこと、そうした見方では諸事実について考えることはできないことを我々は見ることになろう。ここでは、この間違いに反対するための予備的議論をしよう。

 時間の系列にあらわれる主語、我々が観念を述語として帰する所の主語は実在でなければならない。もし実在であるなら、それは形容詞的なものではないに違いない。反対に、自律的で個的なものでなければならない。しかし、個別の現象、つかのまのあらわれは個的なものではなく、それゆえ我々が判断で使用する主語ではない。

2014年5月29日木曜日

・・・羞恥心、いひかへればいろけである。・・・――久保田万太郎の俳句

 『鬣』第38号の掲載された。

 久保田万太郎は、もっぱら東京下町の情緒を描き続けた作家だと言われる。たしかに、それは間違いではない。だが、彼を典型的なマイナー・ポエットとみなし、アーネスト・ダウスンを評したオルダス・ハックスレーにならって、「彼はたった一つの感情しか表現できず、たった一つの調べしか知らなかった。しかし、その限界に彼の強みがある。というのも、メランコリーばかりを常に歌い続けることで、最終的に彼は小さいが独特の完成に到達したからである。そして、完成というのは、たとえそれが小さく限定されたものであっても、常に詩人の地位を保証し、読み捨てられることはなくなる」(「九十年代の幽霊」)と言い切ることにはためらいを感じる。ひとつの調べしか知らない地方詩人というよりは、先鋭的な、ある意味実験的とも言えるようなモダンな作家だと思われるのである。それにはいくつかの理由がある。

 第一に、万太郎は、テーマは限られていたにしても、活動の幅の広さということで言えば、近代の文学者のなかで文句なく上位を占める。小説、戯曲、エッセイ、俳句を書いたばかりではない。岸田国士、岩田豊雄とともに文学座を創立し、演出も手がけた。樋口一葉、泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎の小説を舞台用に脚色した。慶応大学で教師もしたし、落語家たちと親しく交わり、影響力をもっていた。いとう句会などでは宗匠として場を宰領した。

 第二に、小説や戯曲の舞台こそ東京だが、万太郎は東京という都市そのものを対象にしたことはほとんどなかった。永井荷風の随筆や日記を片手に東京をめぐるようなことは万太郎の作品ではちょっと考えにくい。木下杢太郎や永井荷風に特徴的なのは、東京がある種見立ての対象となっていることにある。彼らは自分が生きていた東京の姿に、あるいはパリの姿を、あるいは江戸の姿を透かし見た。こうした操作を経ることで、異化効果を施された東京が鮮やかな姿で浮かびあがることとなる。

  万太郎にとって東京とは、その登場人物たちが生活する場ではあるが、他の都市、他の時代の姿を発掘する対象ではなかった。というのも、東京とは万太郎がものを書きはじめたときには、既にして失われて取り戻せないものと感じられていたからである。久保田万太郎は明治二十二年に浅草に生まれたが、とかく現在の我々がアナクロニズムに落ち込みやすいのは、浅草というと、第二次世界大戦前後の、エノケンとロッパの、軽演劇の、六区の、立錐の余地もない活気にあふれた浅草を思い浮かべてしまうが、久保田万太郎にとってそうした浅草は、既に生まれ育った環境が破壊され尽くした後の浅草であったことである。彼が自分にとっての浅草と言うとき指しているのは、関東大震災以前の浅草である。

      わたくしは東京で生れた。
     が、東京でも、わたくしの生れたのは……そして育つたのは……浅草である。
     といつたら、あなたはすぐに、雷門をおもひ、仲見世をおもひ、浅草公園をおもふだらう。……その浅草公園にまだ、玉乗だの、娘手踊だの、かつぽれだの、改良剣舞だの、そしてまれに活動写真だのゝ見世物が軒をならべてゐた時分である。十二階の下に、歯医者の松井源水が、居合抜をしたり、独楽をまはしてみせたりしてゐた時分である。池の縁の撃剣の道場が、法螺の貝をふき、太鼓を叩いて客をあつめてゐた時分である。伝法印の塀のそとに大きな溝があり、その溝にむかつて、矢場とよばれた揚弓店のうす暗く一トかたまりになつてゐた時分である。(「Waffle」)

 「ぼくは、嘗て、ぼくの一生は“挿話”の連続だといつたことがあるが、これも君にはわかつてもらへると思ふ。むかしから……うそをいへばものごごろついて以来、ぼくの身辺に起つたいろいろの出来事の、一つとしてそれがぼくの一生をつらぬいてゐない……といふことが、年をとるにしたがつて、だんだんぼくにはツきりして来たわけだ。そして、それが、いつそ不思議におもへて仕方がなくなつて来たのだ。……磯によせて来る波がしづかにふくれ上つては、そのまま寂しくくづれてしまふ。……あれだ」(「さもあればあれ」))と述懐する万太郎にとって、この失われた世界を精力的に再構成することを自分の仕事とはしなかった。正確に言えば、万太郎にとっては、東京ではなく、東京人が、更に言えばその心性が最大のテーマだったのである。木下杢太郎が、まさに雷門の大提灯こそが東京人の心性を象徴するという趣旨の面白い文章を書いているので引用しておこう。

     江戸人は他界を考ふる程執念深くない。もつと淡泊で気がきいてゐる。其洒落な性情は薄気味の悪いものを滑稽化する。
     誰でも浅草に来て、あのベラボオに大きい提灯に魂消ないものは無いだらう。あれこそ江戸(東京)人の心の象徴だ。之を一番初め構案した男はどういふ積りだつたか、固より分らないが、兎に角これも信心の結晶と見てよからう。断食、百度詣りは余りに面倒くさい。彼等の信仰を表はすにはこの昴大な提灯が尤も適してゐる。生の迷執、死の恐怖、之あるによつて彼等はもとより仏前に相集まる。同時にこの児戯に類する企図の前に、並に、やがてそを顧みて哄笑一番する底の滑稽味に於て、彼等はまた一致したのだらう。
     提灯の外には、また素ばらしく大きなお供餅が飾られている。
     奈良の大仏も、諸寺の仁王も大きいには違いないが、恁んなに馬鹿々々しい誇大は、江戸の寺の大提灯を外にしては蓋し鮮ない。(「浅草観世音」)

 淡泊でありながら、洒落と信心を大提灯という形にする質実さを具えており、控えめや折り目正しさという都会人に特有の襞をそなえた心性を描こうとしたのが久保田万太郎の作品である。

 第三に、言葉の問題がある。失われた東京の姿や風俗を描くのではなく、心性を描くとは、畢竟するところ、言葉を洗練させていくしかない。それもそのはずで、描写するべき外的な対象などなにもないからである。その結果、ある意味西欧近代の文学にも似た、言葉による自律した世界があらわれる。

 確かに万太郎の作品は、東京下町の言葉がもとにはなっているが、戸板康二は「下町を世界にとった小説、戯曲の中で、ぬきさしならぬ必然性を持っているように見える特殊語のすべてに、実感があったかどうかは疑わしい」とし、「 欧文風の『そこにいる自分自身を見出した』が、万太郎の好んだひとつの文体だったのと同じように、古い東京語を、文章の資材として、かなり客観視しながら利用してもいたのではないか」(『久保田万太郎』)と書いている。

 また、戸板康二のような演劇人ばかりではなく、石川淳、河上徹太郎、吉田健一、三島由紀夫など西欧近代の魅力と毒を身にしみて感じてきた文学者たちが久保田万太郎のよき理解者であったことは、彼らが万太郎と言葉の関係、彫心鏤骨ともいえる言葉の彫琢と造形によって自律的な世界が立ちあがることに敏感に反応したのだと思われる。代表として三島由紀夫の言葉をあげよう。

     劇作家としての氏は、しかし、ほかの西洋風を看板にした劇作家よりも、はるかに西洋くさい、といふのが、私のかねてから抱いてゐた意見である。知的教養の上の西洋風よりも、氏の頑固な個性の守り方、スタイルの操守は、一見古くさいものに見えながら、実はもつとも西洋風なものであり、そこに氏の深く秘されたハイカラの真面目があつた。それは日本の近代文学者の多くが、西洋に学びながら、西洋から取り逃がしてゐた本質的な要素であつたと思はれる。日本の戯曲は、文体を失つて久しいが、明治以来の戯曲で、真に文体を持つ劇作家は、正直のところ、森鷗外と久保田氏の他に、私は知らぬのである。(「久保田万太郎氏を悼む」)

 女優で演出家の長岡輝子は文学座の初期のメンバーであり、それ以前にはフランスに留学もし、海外の作品を多く演出しているが、文学座を創設した三人のなかでは久保田万太郎の戯曲にもっとも感銘を受けたという。彼の芝居を見て連想されるのはシュニッツラーで、どちらの台詞も現在では維持できるような俳優がいないと生前のインタビューで応えていた。これもまた、舞台装置や設定に頼ることのできない言葉による自律した世界だけがあったことを意味していよう。

 私が久保田万太郎で連想するのは、むしろジャン・コクトーのような人物である。多彩な活動も共通しているし、詩を書こうが散文を書こうが絵を描こうが、あるいは映画を撮ろうが、どれにもはっきりとコクトーの刻印が押されているように、小説でも戯曲でも俳句でも筆跡でも久保田万太郎が書いたものには彼の刻印が押されている。要は二人とも根っからのレトリシャンなのだ。東京の下町などというくくりよりも万太郎の個性の方がよほど際立っている。そのことがもっとも明瞭にあらわれているのが万太郎の俳句だと言える。もはや特別に東京なり下町なりが歌われることもなく、久保田万太郎という地の上に言葉だけが浮かびあがっているような風情である。

 徳川夢声の『夢声戦争日記』にはしばしば万太郎が登場する。彼らはいとう句会の仲間でもあり、気のあった友人でもあったことがその筆致から窺われる。たとえば、二人でさんざん酒を飲んだ明くる日の昭和十七年の六月二十二日の記述では、玄関を出て行く万太郎の後姿が「何か寂しそうであった」と夢声は思う。あとで家人に聞くと、万太郎は寝る前に「俺はサビしいよ」と幾度も繰り返したという。「私は、何んと思ったものか、宗匠の布袋様然たる臍のあたりを、ピシャピシャと叩いたそうだ」というのが夢声の対応だった。

 また、戸板康二によると、「格好がつかない」という独りごとが、万太郎の口癖のひとつであり、「人と会っている時羽織の紐を無意識に結んだりほどいたりした。みんな、ひと見知りのはげしい、ある意味では孤独な万太郎の習慣で、気心の知れない仲間に、ひとりだけあずけられた形になるのは、おそらくたまらないことであったろう」と推測している。

 悲しみや怒りや喜びといった原色の感情ではなく、羞恥心や寂しさや恰好のつかなさといった現実との微妙な齟齬感が万太郎の俳句の基調をなしている。そうした情調が満ち満ちているので、ちょうど大雪の降った朝、すべての音を雪が吸収して街が静けさに覆われるように、万太郎の句では生な感情や喧噪は情調のなかに吸いとられて、静かな空間を形づくるのである。

 『夢声戦争日記』の同じ日、飲んだ明くる日の朝のエピソードを最後に紹介しよう。「どういういきさつで、ここへ泊まることになったんです?」と万太郎は不思議そうな顔をしている。朝飯を出すと、キチンと坐り直す。「オラクニナサイ」と夢声が声をかけると、
「いえ、あたしは育ちがいいから、食事は坐ります」
と言って笑った。




久保田万太郎三十句

神田川祭の中をながれけり          『草の丈』
竹馬やいろはにほへとちり/゛\に
春麻布永坂布屋(ぬのや)太兵衛かな
おもひでの町のだんだら日除かな
にじますもやまめもこひも夜の秋
種彦の死んでこのかた猫の恋
冴ゆる夜のこゝろの底にふるゝもの
いふこともあとさきになる寒さかな
風呂敷の結びめかたき夜寒かな
日向(ひなた)ぼっこ日向がいやになりにけり   『流寓抄』
懐手あたまを刈つて来たばかり
波を追ふ波いそがしき二月かな
杢太郎いま亡き五月来りけり
節分やたま/\とほる寄席のまえ
たゝむかとおもへばひらく扇かな
人柄(ひとがら)と藝と一つの袷かな
読初や露伴全集はや五巻
ゆく春や日和のたゝむ水の皺
雛あられ両手にうけてこぼしけり
古暦水はくらきを流れけり
泣き虫の杉村春子春の雪
弁末の煮ものゝ味の夜長かな
どぜうやの大きな猪口や夏祭         『流寓抄以後』
数珠下げていよ/\美女の寒さかな
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
鮟鱇もわが身の業(ごふ)も煮ゆるかな
ものゝ芽のわきたつごときひかりかな
女囚房雪の鏡をかけつらね       『季題別全俳句集』
春の夜や駅にとゞきし忘れもの
一めんのきらめく露となりにけり

2014年5月28日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』27

しら/\と砕けし人の骨か何  杜國

 しら/\は白々である。骨か何かがあると疑って、前句の冬枯れ分けてひとり唐苣の立ったあたりに、何かわからぬが白いものが砕け散っているのを遠くから眺めただけで、別に深い意味があるわけではない。砕けた貝殻、細かな木片などが白々と畑の土混じりに見えることはよくあることである。それを巧みに汲みとって、砕けしといい、白々といい、骨か何といって、冬枯れの凄まじきありさまを見せたのが面白いと評すべきだろう。あるいはまた、冬枯れのもの凄まじいときには、なにを見ても、疑い惑うような寂しさがあって、後ろをつい振り向いてしまうようなときがあることをいったのが面白いと評すべきか。いずれにしても、前句との関わり、粘り着いてもおらずかけ離れてもおらずいい。

2014年5月27日火曜日

ブラッドリー『論理学』35

第一巻判断第二章判断の仮言的定言的形式から。

 §9.しかし、判断は、前の章で見たように、観念に限られるものでもなく、決してその総合に存するわけでもない。二つの観念が必要だというのはまったくの錯覚であり、二つ揃うまで判断を待つようでは我々は判断などまったくできなくなるだろう。繋辞が必要だというのもまったくの迷信である。判断は繋辞がなくとも、一つの観念しかなくとも存在することができる。

 最も単純な判断では、ある観念が知覚に与えられたものを指し示すものとされ、その性質の一つと同一とされる。その観念が主語としてあらわれる必要はなく、主語であったとしても、我々は文法上のあらわれと事実とを区別しなければならない。実際の主語であり、観念内容の本当の実体は現前する実在である。後に見るように、「これ」、「ここ」、「いま」が主語となるときには、知覚にあらわれる現実の事実が真の主語であり、これらの語句は真の主語に我々の注意を向ける役目をする。しかし、このことについては後の章に譲ろう。既に我々が認め、これからも確かめていこうとしているのは、あらゆる判断は現前のうちにあらわれる実在の属性として観念内容を述語とする、ということである。

 この観点から我々は議論に戻らなければならない。この基礎に立ち、我々が見てきた様々な判断を新たに調べ、その意味とさらには正当性を尋ねてみなければならない。定言判断を探求する上でのいくつかの難点は、既に消え去った。しかし、恐らくは手強いものが待ちかまえているに違いない。そして、もし我々が、あらゆる真理は最終的には実在に関して真なるものである、という結論にたどり着いたなら、その教義を不完全な形で主張しているのだと思わなくてもいいに違いあるまい。

2014年5月25日日曜日

混沌と理性――ノート13

 キリスト教の楽園観念には山が存在しない、ということをモース・ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』で読んで、ちょっと不意を突かれたように感じた。完璧な形態とは球であって、山はその完璧さを乱すものでしかない。人間の身体との比較で類推すると、山は地球の皺と考えられる。皺は衰えであり、老化であり、衰え老化するものは死すべきものであるから、完璧である楽園には存在しないというわけである。

 それゆえ、山は醜く、人間の罪のしるしでもある。山が宗教的な畏怖をもって、崇高な美しさをもつものと受け取られるようになったのは、ようやく十七世紀の終りころのことだという。このことから思いおこされるのは、『荘子』の第七、応帝王篇の最後にある次のようなエピソードである。

   南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を混沌(こんとん)という。
     あるとき儵と忽とが、混沌のすむ土地で出会ったことがある。主人役の混沌は、このふたりをたいへん手厚くもてなした。感激した儵と忽とは、混沌の厚意に報いようとして相談した。
    「人間の身体にはみな七つの穴があって、これで、見たり、聞いたり、食ったり、息をしたりしている。ところが、混沌だけにはこれがない。ひとつ、穴をあけてあげてはどうだろうか」
     そこでふたりは、毎日一つずつ、混沌の身体に穴をあけていったが、七日目になると混沌は死んでしまった。(森三樹三郎訳)

 儵と忽は、ともにすばやい、たちまちの意味で、「機敏で利口なもの、または早合点をするものの意が寓されているのであろう」と注釈されている。森三樹三郎の解説にある通り、混沌とは自然の象徴であろう。穴を開けるという行為は自然の文明化であり、儒教を暗に揶揄しているとも考えられる。もちろん、西王母が住んでいるとされる崑崙などに見られるように、中国では山は神的なものだったが、平滑な表面に傷があることが過ちや罪の結果であることは共通している。

 ところで、混沌と道はどんな関係にあるのだろうか。「ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである。庸とは用の意味であり、自然の作用ということである。自然の作用とは、すべてを通じて一である道のはたらきである。すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得することにほかならない。この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである」(第二 斉物論篇)などといった文章を読むと、道と自然とはほぼ同じものであり、それゆえ混沌とも同じものであるとも考えられる。だが、すべての根源である道が南北の帝にはさまれた三人目の帝であるに過ぎず、七つの穴を開けられたくらいで死んでしまうのも奇妙な話である。

 混沌は第十二 天地篇にも登場する。孔子の弟子の子貢が、旅先の南方の楚の国から帰る途次、畑仕事をしているひとりの老人に出会う。老人は井戸のなかに入って瓶に水を汲み、畑に注ぐことを繰りかえしている。子貢は水を汲むのに機械を用いることを勧める。老人は、機械に頼ると、機械に頼る心が生じ、自然なままの純白の美しさが失われると反駁し、子貢が孔子の弟子であることを知ると、つまらない教えを棄て去らねば道に近づくことはできぬ、と一喝する。

 茫然自失となった子貢は魯の国に帰ると、老人のことを孔子に話した。孔子は、その老人が少しばかり混沌氏の術を生かじりした程度の人間だと見破る。そして、「もし真に混沌氏の術を学びとって、一点のくもりもない澄みきった心のままに素の境地にはいり、いっさいの人為をすてて朴の状態にかえり、自然のままの性や心を自分の身にいだいたまま、世俗の世界に遊ぶものがあったとしたら、お前はもっとびっくりしたにちがいない」と語る。もとより、孔子が実際こうしたことを言ったのかどうかは疑わしいが、機械や儒教的な礼学を嫌ってあえてそれを避ける時点で人為的なものが混じり、自然からは離れてしまうということだろう。

 道を世界の根本原理だとすると、中央の帝であり、叡智の持ち主であるらしい混沌とは、道を体現した人物を寓したものだと言えるかもしれない。そのため死ぬこともありうるわけである。しかしながら、儵と忽が開けた七つの穴が目、耳、鼻、口を、つまりは人間性や文明をあらわしており、それらが混沌を死に至らしめたとしても、道家の思想は人間性や文明を排除し、始原的なカオスに立ち戻ろうとするわけではない、と『初期タオイズムの神話と意味』のN・J・ジラルドーは述べている。

  道が永遠に「死滅して」は「生成する」連続的創造の観点からすると、タオイストの目標とは最終的な結末として原初の状態に立ち帰ること、世界の創造以前にあった無時間的な無のなかで消滅してしまうことにあるのではない。むしろ、道のあり方に共感するタオイストたちは、カオスやコスモスどちらかに結末があることを拒否しなければならない。真の生を生きるには、物事の自然なあり方、絶え間なく循環するカオスと世界の再創造との相互作用に従わねばならない。カオスは世界の根源であり、根底でもある。しかし、より重要なのは、人間の生の充実とは、カオスとコスモス、無と存在を同時に奉じ、原初と回帰との永続的な円環を生きることにしかない。文化的英雄である忽と儵の失敗とは、堯や舜と同じく、カオス、自然、あるいは原始的文化が文明によって永遠に取って代りうると信じたこと、あるいは、コスモスが周期的に戻ってくるカオスに常に依存しているわけではないと信じたことにある。別の言い方をすれば、タオイストの見地から見た儒教の罪とは、生を永遠の回帰ととらえる神話的ヴィジョンをより歴史的な、漸進的な文化の発達という概念に取って代えたところにある。

 だが、カオスとコスモスの永劫回帰というこの考え方は、神話的祖型や神聖なものへの周期的な回帰と近代になって顕著なものとなった歴史主義とを対峙させるエリアーデ的な考え方が色濃くあらわれているのと、カオスとコスモスとが共存する調和的な生を理想とするところなど、やや優等生的だと思われなくもない。

 道家思想をある意味エコロジカルな平衡を目指すものと見なすよりは、道とは表象も言語化も不可能な不気味でリアルな実質であり、石川淳が書いているように「仙人にもいろいろあつて、張道陵は邪法の魔を降し、東方朔は漢王の宮に遊び、許宣平は南山の奥に隠れ、林霊素は宋朝の政を扶け、左元放は梟雄曹操を翻弄し、彭祖は女房を四十九人取りかへるなど、地上に於ける出没ぶりは多様」(「張柏端」)であり、その多様な人間のなかにはこうしたリアルな実質に触れる者がいるのだと、また多様な自然のなかには「玄牝の門」のようにそんな実質が剥きだしになった裂け目があるのだと考えた方が世界はより驚異に満ちたものとなるように思える。


 ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』は、「十九世紀におけるアイデンティティの探求」と副題がついている。十八世紀は啓蒙主義の、理性の時代であり、極端に言えば、神なしでも理性があればやっていける、より穏やかには、理性の対象となるものの拡がりは、神の創造の広がりと最終的には一致するのだとも考えられるようになった。

 しかし、道徳の問題については困難な諸問題が噴出したと言っていい。教会の権威に頼らない以上、自ら道徳的行為ばかりでなくその根拠をも示さねばならない。たとえば、自然が神の創造したものであり、それに倣うのが正しい道なら、天変地異が人間の営みなど吹き飛ばしてしまうように、力をもった人間が弱者をなぎ倒して構わないというようなサドの登場人物の論理も生まれてくる。

 いくつかの解決策が提示された、とペッカムは言う。第一に、宇宙的保守主義とでもいうべき立場がある。社会は自然の産物であり、社会が定め制定する慣習もまた自然なものである。であから、殺人を犯すのは悪いことであり、殺人者を絞首刑にするのは正しい。道徳の仕事とは、現にある通りの慣習に我々を順応させることにある。この立場の弱さは、慣習や法の首尾一貫した構造を具えているような社会などなく、多様な社会が多様な慣習をもっていることにある。

 第二の解決策は、もっとも頻繁にあらわれるものを平常だとし、平常なものが自然であり、自然なものが善なのだとする。もっとも共通の慣習、合意が善である。しかし、ここにも弱点がある。ある時代、ある社会において統計的にもっとも頻繁にあらわれるものが、別の時代や地域では異常なものであるかもしれない。泥棒の村では正直者こそ異常となる。

 第三の解決策は、支配的なものではあるが、もっとも危険なものでもあって、自然に等級をつけようとする。悪そのものは存在しない。だが、よりよい行動というものはある。知性や知識を用いれば、自然の法則によりよく適合した行動が理解される。人間は社会的な動物なので、殺人よりはひとを大切にすることの方が自然である。人間の無知につけ込み、無知のままにとどめておこうとする専制的な支配よりは、社会的な調和のなかで生きる方が自然である。教育が人の悪い部分をすべて解決する。つまり、人間は完璧になりうる。しかし、完璧になるには、その妨げとなるものを破壊しなければならない。目的が善であり自然なら、その目的に達するための手段ももちろん善である。フランス貴族が完璧な社会をつくりあげるのに邪魔なら、皆殺しにすればいい。こうした解決策に従うなら、どれだけの厳格さをも振るえるし、揺らぐこのない正当性という幻想にいつまでもとらえられている。

 どの解決策も満足するに足りない。また、理性によって世界を解釈していこうとするより限定された哲学的な合理主義にしても、世界の事象に合理的な根拠などななく、根拠と思っているのはこれまでもそうだったから次もそうであろうと思う信念でしかないことをあらわしたヒュームの懐疑主義にまで至ってしまった。その結果、人間は神にも理性にも頼り切れない混迷のなかに入りこんでいく。

 吉田健一などの史観によれば、十八世紀は理性の偉大な世紀であり、十九世紀はヨーロッパが自分の姿を見失い、衰弱に陥っていた。十九世紀末にいたって、ニーチェやワイルドの登場によってようやく西欧はおよそ一世紀にわたる衰弱から立ち直るというのだが、当然のことながら、衰弱になるにもそれなりの理由はあったのである。

2014年5月24日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』26

冬枯わけてひとり唐苣  野水

 冬枯れは冬になって野のもの田のものが枯れたことをいう。唐苣は?菜で、生で食べることも煮て食べることもあるが、葉をとるとすぐにまた生えてきて、四季いつでも新鮮なものを得られるので、不断草という俗称がある。

 一句の意味は冬枯れを分けてひとり唐苣を採るとも解釈され、また、冬枯れ分けてひとり唐苣の存するとも解釈される。曲齋は「苣摘む人を見て、茶人とはひどい物好きだ、ありもせぬ苣をたずねて雨も厭わないと噂するようだ」と解釈しているが行き過ぎた感がある。前句は詩客、この句は茶人ではあまりにうるさすぎる。またありもせぬ苣をたずねるというのも心得がたい。苣は山野自生のものだけではなく、田圃に種をまくものなので、あるかないかは自明であり、初茸や松茸を採るのとは異なっている。

 ここはただ、唐苣と言い放った語気の強弱を考えて、唐苣が主であるか客であるかを考えるべきである。人が一人で冬枯れを分けるのか、苣だけがひとつ冬枯れを分けて立っているのか。語の理解からいえば、どちらも通ずるが、気味合いからいえば、ひとり苣の冬枯れに分けてあるとする方が優れているだろう。

 杜甫に序文も長い「種萵苣」という長篇があり、萵苣を植えたのに萵苣は生えず、播いてもいない野が茂ったのを嘆いたものがある。これを俳諧にして、反対に、野草などが冬枯れで見えなくなり、不断草だけがあるのをいったものか。唐詩とこの句に関係があるかどうかはわからない、ただこのことを知って句を味わえばより面白い。前句、前々句、前々前句、人事に関することが甚だ多く、ここで時雨に冬枯れの取り合わせ、冬の日の景物だけを純粋に出すのも、目先が変わっていい。

2014年5月23日金曜日

ブラッドリー『論理学』34

 第一巻判断第二章判断の仮言的定言的形式から。

 §8.しかし、もし判断が二つの観念を結びつけることにあるなら、我々はこうした場所に逃げ込めない。この点を明瞭に理解すべきである。観念は普遍的なものであり、それによってなにを言おうとしぼんやりと意味しているにしても、我々が実際に表現し主張に成功しているのは、まったく個的なものではない。感覚の分析判断をとってみよう。我々に与えられる事実は一つしかないもので、唯一無比である。しかし、我々の用語はすべて一般的で、述べられた真理は他の多くの事例に当てはめることができる。「私は歯が痛い」では、私も歯痛も一般的なものである。現実の歯痛は他のいかなる歯痛とも異なっており、現実の私はまさしくこの歯痛を感じている私自身である。しかし、私が主張している真理は、異なった私の異なった歯痛すべてについて真であるし、これからもそうであろう。いや、「私は歯が痛い」というのは、他人の歯痛でも同じように真実で、「そんなことはない、私こそ歯が痛い」と言われることもあり得る。元々の発言に「この」、「ここ」、「いま」などをつけ加えても無駄なことで、というのも、それらはみな普遍的なものだからである。その意味が無数の例に敷衍され用いられるシンボルである。

 かくして、判断はある種のものについてはそれがなんであっても真となろう。しかし、もしそうなら、それは実在についての真とはなり得ない。というのも、実在は唯一無比のもので、一つの事実であって、ある種のものではないからである。「あの枝は折れている」、しかし折れている枝は他にも沢山ある、「この道はロンドンに通じている」、そうした道は何百とある。「明日は満月だろう」はどの明日かを知らせてくれない。将来にわたって、次の日が満月になる日には常に真である。こうして、現実の事実について言明することにことごとく失敗しており、我々は代わりに別のなにかを言明している。すべてにおいて真実であるものは、この一つを表現しない。主張は永久に形容詞に固着していて、実体には到達しない。支えのない形容詞は宙に浮いている。その現実とのつながりは仮定されたものであって、肯定されるものではない。判断が観念に制限される限り、事実への参照は言外の意味にとどまっている。それは肯定判断の外側で仮定されており、判断は我々が隠されていた条件によって性質づけするまでは厳密には真ではない。そのままでは、単称命題としても間違っているし、厳密な普遍としても誤っている(以下§62参照)。

2014年5月22日木曜日

火星人と車輪――H・G・ウェルズ『宇宙戦争』



『宇宙戦争』の原題はThe War of the Worldsで、散文的に訳すなら「異なる世界のあいだの戦争」とでもなろう。この原題はよく考えられたもので、というのも、戦争といいながら、この小説は襲来した火星人と地球人とが存亡を賭けて戦うという内容ではないからである。火星人が操作する家よりも背が高く、三脚台の上に大きな機械の胴体を乗せた装置は、熱線ですべてをなぎ倒し、あらゆる生物を殺す気体を発散する散弾を撃ちながら前進する。軍隊はかろうじてその一機を破壊するが、それ以後はほとんどなすすべもなく戦いを放棄している。結局、この戦いがある結末を迎えるのは、火星人と地球人の戦いに見えたものが火星と地球という世界間の戦いに帰着することによるのである。

スピルバーグの『宇宙戦争』は、舞台がイギリスからアメリカに移っていること、主人公が知識人ではなく労働者であること、離婚しており、二人の子供のよい父親となれていないことなど細かい相違はもちろんあるが、思いのほか原作に忠実な映画化である。最初は紳士的に見えるが、徐々に異常性をあらわにしていく人物をティム・ロビンスが演じていたが、あの人物像も、異常事態を前に精神をおかしくしていく副牧師、地下に潜ってレジスタンスするのだと言葉では勇ましいが実行力に欠ける砲兵という原作に出てくる二人の人物を合わせたものである。

公開当時、主人公のトム・クルーズが子供たちに反抗されながら格好悪く逃げまわってばかりいること(最後にはきっちり娘を救いだすのだが)、戦いが奇想天外な策略によって、思いもかけぬ発見によって勝利に導かれるようなすっきりした結末を迎えないことに不満を漏らす者も多かったと思うが、そうした地味さは原作と共通している。しかし、この地味さがウェルズの作品を色あせないものにしている。一個人を主人公にすることで、宇宙からの来襲が地球の政治や軍事力のありかたといった通俗的な問題に矮小化されることなく、「人間の視野の拡大」を明確に浮かびあがらせるものとなっているからだ。

また、この作品によってタコ型の火星人像が定着したと言われるが(実際、主人公と話し、その形状を聞いたある男が「タコだな」と言葉にする)、その描写を読むとそれほど単純ではない。灰色の熊ぐらいの大きさで、頭にあたる部位はまんまるで、鼻の孔はない。この頭あるいは胴体の後ろはぴんと張った太鼓の皮のようになっており、それが耳であるらしい。尖った上唇をしたV字型の口の下に顎はなく、口からはよだれを垂らしており、ゴルゴンの蛇のように群生する十六本の触手が八本ずつの束になって、大きな目には異常に強い輝きがあるといった細部は、容易にタコに収拾されないような「いかにも活力があり、強烈で、非人間的で、ちぐはぐで、醜怪」(井上勇訳)な異生物の姿を提示しており、紋切り型の嫌悪を催させる異物としたたかに一線を画している。特に物語に関係するわけではないが、火星人が持ちこんだ機械のなかに、人間のもっとも大きな発明のひとつである車輪がないといった指摘などは宇宙という未知の世界に奥行きを与えるものとなっている。

2014年5月21日水曜日

ブラッドリー『論理学』33

第一巻判断第二章判断の仮言的定言的形式から。

§7.しかしながら、この結論は容易に持ちこたえることができない。というのも、もし真理がそのようなものであったら、あらゆる真理は偽と大して変わらないものとなってしまうだろう。我々は定言的判断をそう簡単にあきらめることはできない、というのは、もしそれが失われると、全てが失敗してしまうからである。探求を続け、どこにも定言判断は見いだされないのだろうか、という疑問を持ち続けることにしよう。見いだすことができるようにも思える。普遍的判断は、個別的な実体ではなく、形容詞のつながりについて言うために、仮言的なものだった。しかし、単称判断では事態は異なるだろう。定言的に肯定する主語が個的なものであるか、個的なものの集合であるとき、その真理は事実を表現する。ここには単なる形容詞や仮定は存在しない。

 これらの判断は三つの大きなクラスに分けられる。この区別は以後非常に重要性をもつこととなろう。(i)第一に、私がいま知覚し、感じているもの、あるいはその部分についての判断である。「私は歯が痛い」、「狼がいる」、「あの枝が折れている」。これらにおいて我々は単に与えられたものを分析しているに過ぎないので、これを感覚の分析判断と呼ぶことができる。(ii)それから、感覚の総合判断があり、いまここで直接に知覚してるのではない時間空間内の事実や事物の性質について言われる。「この道はロンドンに通じている」、「昨日は雨だった」、「明日は満月だろう」。これらは与えられたものを観念的構築を通じて敷衍しており、後に見るように、すべて推論を含んでいるので、総合的である。(iii)三番目のクラスは、時間においては決して感覚されない出来事を扱うものである。「神は霊である」、「魂は実体である」。我々はこうした判断の正当性を好きなように考えることができるし、それを形而上学の問題として認めるのを拒否することもしないこともできる。しかし、論理学においては、確かに、それはある場所を占めているに違いない。

2014年5月20日火曜日

幸田露伴『七部集評釈』25

笠脱いで無理にも濡るゝ北時雨  荷兮

 前句で清水を訪ねた人の風狂の様子をあらわしている。宗祇の句に「世にふるもさらに時雨のやどり哉」というのがある。「無理にも」は「濡れでも」でも済む。騒がしい客に雅に対応することから、遺跡に古句のい香りを味わって、降ってくる時雨に天を仰ぐのが非常に面白い。ただしこの句はさしてよいとも思われず、芝居めいている。

2014年5月18日日曜日

ブラッドリー『論理学』32

 第一章判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §6.より一般的な考察でも、恐らく我々はこの結果を早めることにしかならない。我々の外部にある事実は、我々のなかに真理という形で通る、あるいは忠実な鏡に自分の姿を映し出すという常識的な考えは、最も単純な考察によって揺さぶられ、混乱させられる。否定的な判断で主張されている事実とはなんだろうか。あらゆる否定において私は事物の世界に実在の対応物を見つけださねばならないのだろうか。論理的な否定において事実に対応するようなものがなにかあるだろうか。仮言的判断をもう一度考えてみよう。もしなにかがあれば、それからそれ以外のなにかが続き、そのどちらも存在しなくなる、この発言は間違いだろうか。事実があってもなくても真実だと思われるが、もしそうなら、この発言が主張することのできる事実とはなんだろうか。選言的判断もまた我々を混乱させる。「Aはbまたはcである」というのは真か偽に間違いないが、いったいどうしてある事実が「bまたはc」というおかしな曖昧さで存在することがあろうか。我々の「または」に答える具体性を見いだすことはほとんど不可能であろう。

 こうした難問があまりに技術的で、無理に探し出してこられたものに思われるなら、より明瞭な例を取り上げてみよう。我々は過去や未来のことを気ままに話しているが、それは実在として存在しているのだろうか。あるいは、ごく一般的な定言的肯定判断「動物は死すべきものである」を取り上げてもいい。はじめは現実に密着しているように思われる。事実の接合が観念の接合とまったく同一であるように思われる。しかし、経験は、もし観念が形容詞的なものなら、この場合ではあり得ない、と我々に警告を発するだろう。納得できなければ、続けてみることにしよう。存在する動物は実在するものなので、「動物」は恐らく事実に対応しているように思われる。しかし、「動物は死すべきものである」で、我々が語っているのは存在している動物だけだろうか。我々はこれ以後生まれる動物も確実に死ぬということを言おうとしているのではないだろうか。実在の事物の完全な収集は、もちろん、実在の事物そのものと同数の事実であるが、未来の個体となると困難が生じる。それは別としても、一般的に、心のなかで完全な収集をすることもほとんど不可能である。「動物であればみな死ぬ」というのは、もしなにかが動物であれば、そのときそれは死すべきものである、ということを意味している。この肯定判断は実は仮定に関するもので、事実についてのものではなかったのである。

 普遍的判断において、判断が表現する形容詞の総合が現実の存在に見いだされることは我々がしばしば見てとることである。しかし、判断はそう言いはしない。それは単に我々自身の個人的な推測である。それは部分的には事例の性質からくるものであり、部分的には我々の悪しき論理学の伝統からくる。判断において結びつけられた形容詞は、存在する事物の形容詞ととることができるために、我々は自然にそれが当然のことだと思ってしまう。第二に、主語について「すべて」とつけ加えることは常に曖昧さを生じさせる。我々は普遍的なものを「すべての動物」という具合に書き、それをもって現実のそれぞれの動物、あるいは存在する動物の総計を意味させている。しかし、これは「ABCはそれぞれ死すべきものである」以上に普遍的な判断というわけではなかろう。そして、我々はそうしたことを意味しているのではない。「すべての動物」と言うときに、集合のことを考えているにしても、我々は一瞬でそれを完全に想像することは決してできない。我々はまた、「これ以外に動物がいるとしても、それもまた死すべきものである」ということを言おうとしている。普遍的判断において、我々は決して「すべて」を言い尽くすことはできない。我々が意味しているのは「そのうちのどれか」、「どれであれ」、「いつであれ」ということである。しかし、それらには「もし」が含まれている。

 簡単な観察によってもっと簡単にこのことを見て取れる。もし現実の存在に関する主張がなされているなら、判断は存在と食い違うときに間違うこととなろう。だがそれはあり得ない。あらゆる動物が死に絶えたときには、死すべきものというのは誤った性質づけとなり、動物が再び存在するようになるとそれが再び真となる、というのでは運任せの主張だということになろう。こうした事例は存在するし、そこにはどんな疑いもあり得ない。「この土地に侵入したものは罰せられる」というのは、約束事であると同時に予言であることもある。しかし、それは予言しようとしているのではないし、誰も侵入するものがいなくとも、発言は真でありうる。「あらゆる三角形には二直角分の内角の和がある」というのは、もし三角形が存在しなくとも、滅多に偽になることはなかろう。もしこれが奇妙に思われるなら、シリアゴンの場合を取り上げてみよう。いまこの瞬間に誰もシリアゴンのことを考えなかったら、シリアゴンに関する発言は真であることをやめるだろうか。そんなことは言えないにしても、ではシリアゴンはどこに存在するのだろうか。確かに、いまこの瞬間に実際の存在として呈示できないような観念を結びつけた科学的命題が存在するに違いない。しかし、それらを生みだす科学が存在しないからといって、判断がそのこと自体で非実在で間違ったものだと主張できるだろうか。
 かくして、普遍的判断は常に仮言的である。それは「あるものが与えられればそのときこうなる」ということ以上のことは言わない。真理は事実に関する言明をすることができない。

2014年5月17日土曜日

盤の上にはビショップばかり――俳句

星月夜オゾンパイプの噛みあとに

無感覚の底にひろがる蒼い空

井戸替えや万の虫を標本す

赤とんぼきのうの今日にとどこおり

彼岸過ぎ嵯峨三智子のいるパチンコ屋

秋の夜の蜘蛛の巣による眼の設計

エレベーターで見るマネキンの閉曲線

ビル風やモンローふうの傾斜角

2014年5月16日金曜日

ブラッドリー『論理学』31

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §5.こうしたことが現実を構成するいくつかの点である。真理はその一つをももっていない。それは観念の世界に存在する。観念は、我々が見てきたように、単なるシンボルである。一般的であり形容詞的で、実体でも個的でもない。その本質は意味のなかにあり、その存在を越えている。観念とはその存在を無視し、その内容を削減した事実である。現実から切り取られた事実内容の一部に過ぎず、なにか別のものを指し示すのに用いられる。観念は実在ではあり得ない。

 もし判断が二つの観念の総合なら、真理とは非実在物の接合に存することになる。金は黄色である、と私が言うとき、確かにある事実が私の頭には浮んでいる。しかし、普遍的な金や普遍的な黄色性は実在ではなく、他方、私が実際にもっている黄色や金のイメージは、心的な事実として実際に存在しているにもかかわらず、不運にもそれは、私がなにかについて言おうとしているような事実ではない。既に見たように(第一章)、私は、金のイメージは私の心のなかで他の黄色のイメージと心的に結びついている、と言おうとしているのではない。私の心的な事実とはまったく別に、金一般はある種の色をもっている、ということを言っているのである。私は心的事実のある部分を取り除き、残った形容詞的部分をつなぎ合わせ、それを総合的な真理と呼んでいる。

 しかし、現実は形容詞のつながりではなく、そのようにあらわすこともできない。その本質は実体的で個的である。しかし、我々は形容詞をあやつりそれを普遍と一緒にすることで、自律的で個的な性格にたどり着くことができるだろうか。もしできなければ、事実はどのような真理においても直接には与えられないことになる。定言的な真理は存在し得ない。だが、形容詞は実体に依存しているので、実体は含意されている。そこで、真理は事実を間接的に指し示すことになろう。真理における形容詞的なものは現実を前提としており、この意味であらゆる判断は仮定に基づいていることとなる。判断とはすべて仮言的であり、直接に扱っているのは非実在だと告白することとなろう。

2014年5月15日木曜日

漬物と怪物――吉田健一



『私の食物誌』という単行本は、同じ題で読売新聞に連載された原稿用紙二枚半ほどの短い文章(新たに八篇が書き加えられ、ちょうど百篇になっている)が全体のおよそ三分の二強を占めており、こここそが数多くある吉田健一の食べものエッセイのなかでも最良の部分を占めるものだと言えよう。

北は北海道から南は鹿児島まで、各地で食べた旨いものの記憶が「北海道のじゃが芋」「鹿児島の薩摩汁」といった具合に紹介されていく。しかし、各地の名産をまんべんなく網羅していくのとは違っていて、おそらくそれほど縁のない土地ということもあるのだろうが、四国と東北の食べものはほとんど言及されていない。逆に数多く取りあげられているのは、関西、石川県から新潟にかかる日本海側、中国地方の瀬戸内海周辺、北関東、そして東京である。なかで北関東は、群馬の豚、鶏、高崎のベーコン、ハムと肉とその加工品にほぼ限定されている。

関西、北陸、瀬戸内海、東京が多いのは、吉田健一がもっとも多く取りあげているのが、酢であれ、塩であれ、味噌であれ、麹であれ、野菜なり肉なり魚なりを漬けたもの(栄螺や烏賊や蟹の塩辛、ままかりや小鯛の酢漬け、真魚鰹や野菜の味噌漬け、京都の漬物や奈良漬けやべったら漬け、山葵漬けに蕨の粕漬け、等々)、そして酢漬けの変種である鮨の類(東京の握り鮨、鱒鮨、雀鮨、鯖鮨)だからである。豚の角煮、めばるの煮付け、おでん、佃煮、いいだこの煮ものなどを醤油を中心にした煮汁に熱を加えて行なう漬物ととらえるならば、百篇のなかで大きな意味での漬物が圧倒的な数を誇っている。そして、そうした技術を洗練させてきたことから関西や北陸が頻繁に取りあげられることになる。

これらの多くは味が濃いという印象をもたらしかねないが、酢や塩や味噌によって素材の味を消すのではなく、その味を一層はっきりさせるのであり、それゆえに、酢や塩や味噌の味に屈しない素材を生みだす固有の土地が重要になってくる。フランス料理や中華料理が素材にさまざまなものを付けたし、なにかしかとはわからない複雑な味を構築してくのに対し、日本料理の特性とは、素材に一手間加えることで、素材の味を一層際立たせることにあると吉田健一は考えているようだ。言うまでもないことであるが、これらはどれも白いご飯にも酒にも合うものなのである。

もうひとつのテーマがこの本にはある。それはこれらの食べものが失われていくことについての無念さである。特に東京に関してはその思いが強く、ことに大阪や京都や金沢など古い味や街並みを守っている場所に接するとそれがひときわ痛感されるらしく、「大阪のかやく飯」の一節では、ごく普通においしいものを毎日食べられる「贅沢」を外見だけは派手な「豪華」に売り渡してしまった東京に住む者を「貧民」と言い切っている。

この文章が連載されたのは昭和四十六年のことで、高度経済成長の時代が終わろうとする時期だった。実際、ここで取りあげられているもののうちでどれほどのものが吉田健一が味わったときのままで残っているのか、私には見当もつかない。それゆえ、次第に、絶滅した恐竜を語った吉田健一の別の著作『怪物』を読んでいるような気分にもなるのである。

2014年5月14日水曜日

晴朗なる穀潰し――武林無想庵



ピュロンはアレクサンドロス大王のインド遠征に同行し、裸の行者たちに出会ったことに決定的な影響を受け、自らの哲学を形成したという。その中心にある考え方は、判断の保留(エポケー)である。それ自体で美しいもの、醜いもの、正しいもの、不正なものは存在しない。それらは時代や土地によって異なる法や習慣のもとで、美しかったり醜かったり、正しかったり不正だったりするにすぎない。判断はなんら根拠のないものを権威づけることでしかなかったから、ピュロンは美醜や正不正といった価値判断は控え、何事であろうともあるがままに受け入れ、それらを篩いにかけないようにした。

判断は整序された世界をつくりあげていくことでもあるから、それを保留することは混沌と直接的に向かいあうことでもあって、それなりの心構えが必要とされる。ある航海中、船が嵐に巻き込まれ、乗客が顔色を失っていたとき、無心に餌を食べ続けていた子豚を指して、賢者はこのように心の乱されない状態(アタラクシアー)にいなければならない、と言ったが、そうした心の乱されない状態こそが判断保留を可能にするとも言える。

ピュロンは懐疑論の祖とも言われるが、後の認識論者のように、真理の不可知性を論ずるというよりは、生の様態と関わる限りにおいての懐疑だけが問題になっているように思える。「ピルロニストのように」を書いた武林無想庵の場合はどうなのだろうか。

法や習慣の産物にすぎない社会的価値に対する懐疑には事欠かない。だが、それは心の平安どころか、心に終わることのない駆動をもたらすのだ。彼の生活はと言えば、鵠沼の旅館に陣取り、特に原稿を書くこともなく朝から酒を飲み、人妻との逢瀬を繰り返すものの駆け落ちにまでは踏み込まず、旅館の女中や同宿している女の小説家やその友だちをからかうようなどうでもよい会話を繰り返すだけの低回に終始している。

そんな有害無益な自分を無想庵は「穀潰し」と称するのだが、それにいじけるわけでもない。むしろ、そこから懐疑による運動が始まるのである。たしかに自分は社会になにももたらしているわけではないからいわゆる穀潰しに違いない。だがそれは社会を標準としたときの話だ。自己を標準としたとき、宇宙のものすべては私が生存を享楽するために存在しているのであるから、私は享楽したいだけ享楽して死ねばいいだけのことになる。こんな背反した結論が出るのも、もともと仮設の中心などない宇宙に無理に中心を置いた結果である。しかし、そうした仮設なしでは考えることはできない。だが、人は考えるために生きているのではない。どんな仮設も信じない理由がある、と結論こそはピュロンに似るが、無想庵はそこに安泰することはできず、低回した生活のなかでいくどでも穀潰しだという思いに立ち返るのだが、なぜかいつも明朗さを失わないのである。

切羽詰まった状態で東京行きの列車に乗っても、乗り合わせた美女をじろじろと観察して細君か妾か推測し、東京へ出たって用などないのだといいながら、銀座の天金という天麩羅屋に入ると、腹のすいたときには天麩羅に限る、と尻尾までムシャムシャと一匹平らげ、この店は「社会主義の行われる世が来たら、さしずめ天麩羅のスペシアリテを代表する一般市民の食堂となって、このままに残り得る家だ」と思いながら二匹目を食べ、「天麩羅と蒲焼と弥助とを考えないで、又鮪のさしみと海苔と佃煮とを考えないで、東京市民に社会革命を実現しようと企てる位愚な事はない。凡ゆる東京のプロレタリヤが、挙って好む食物をば悉く、一般大衆の手に収用して国有化して了う事から始めなければならない。食物から衣服だ。衣服から住宅だ。一切の衣食住を大衆の手に」といったことを思いながら三匹目を食べるのである。

2014年5月13日火曜日

ブラッドリー『論理学』30

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §4.現実と真理との対象比較は、疑いなく、究極的な原理を含むものである。事実とはなにかを探求することは、同時に形而上学への旅路につくことであり、その終着点にはすぐに着けるものではない。いま現在の目的のためには、我々は常識からさほど遠くないレベルで問題に答えねばならない。一般的な見解で、多分我々の多くが同意するのは次のようなことだろう。

 現実とは、あらわれにおいて、あるいは直感的知識によって知られるものである。我々が感情や知覚において出会うものである。また、それは空間と時間において生じる出来事の系列にあらわれる。それはまた、我々の意志に抵抗をする。事物は、ある種の力、強制力をふるい、必然性をあらわすときに実在する。簡単に言うと、行動し、自律した存在である。この二つの特徴はつながっているように思われる。空間や時間、あるいは両者の系列を変えることによらない限り我々は行動について知ることがない。恐らく、行動なしにあらわれるものは存在しないだろう。そして、誰でもが申し立てることのできる最も単純な考えを言葉にすると、実在は自律した存在である、となる。別の言い方をすると、実在は個的なものである、となる。

 こうした観念を体系的に考察するのが形而上学の仕事である。ここではそれをひとまず預け、一般的な誤解を指摘するに留めよう。「実在は個的なものである」というのは、実在が抽象的な単一物であるとか、単なる一個物であることを意味すると考えるのは誤りである。内的な多数性は個的であることを排除しないし、ましてや他のものを排除する関係に立つ自律した事物であることを排除しない。この意味において、形而上学は、一個物が自律した存在から最もかけ離れたものであることを証明できる。個的なものは、単なる個物からは遠く、その内的な多数性とは対照的に、真の普遍である(第六章参照)。これは逆説ではない。我々は実在をある瞬間、ある場所を越えて存在するものとして語り、信じることに慣れている。そうした実在は、異なったとき場所でも同じままにあらわれる同一性と言えよう。それゆえ、真の普遍と言えよう*



2014年5月11日日曜日

いやみと味――久保田万太郎


落語には大まかに言って二つの流れがある。ひとつは芸術的完成を求めていく落語であり、もうひとつはうまさよりは面白さが目立つような落語である。

一方を代表するのが桂文楽や桂三木助だとすれば、他方には古今亭志ん生や三遊亭圓歌、三遊亭金馬から落語そのものをばらばらに壊してしまった林家三平がいる。

落語の世界では、というのは、演者や観客や評論家までを含めていうのだが、芸術的完成の方が価値として上だと考えられていた。芸術(あるいは文学といった方がいいかもしれない)によって笑いを抑圧する構図があり、そうした構図を徹底的に批判したのが立川談志のような人だった。そして、そうした価値観をつくりだした人物として槍玉にあげられるのが安藤鶴夫であり、ときに久保田万太郎の名が付け加わることもある。

しかし、久保田万太郎について言えば、芸術と笑いのあいだに価値判断の線が引かれてはいないように思える。たとえば、昭和二十三年、桂文楽と柳家権太楼との鼎談で、明治以降随一の名人と言われている圓喬を、上層階級の人間とのつきあいで身につけた圓朝のいやみな部分を受けついだ噺家として一蹴している。

また、柳家三語楼(初代)や三升家小勝(五代目)を口を極めて罵っているのを読むと万太郎がなにを峻拒しているのかがわかる。

三語楼については「で腹が出来てゐません。ものをみる眼があいてゐません。まんぞくにものを咀嚼する力がありません。――これを要するに、あの男には、たゞ見え透いたさかしらがあるばかりです」と言い、小勝についてはよりによって追悼文で「あの、クスグリだらけの、でたらめの、肚のない噺のどこがうまい?/あの、泥臭い、下司な芸がどうして江戸前だ?/あの、いけぞんざいな、もとのかゝつてゐない、およそ纏つた噺の出来ない名人がどこにある?」と痛罵するのだ。

つまり、上っ面の調子のよさ(いやみもそこから生じる)と存在自体から滲みでてくる「味」の相違にこそ決定的な判断基準があったのである。人工的につくりだされた味はこのうえなくいやみなものだけにそれを峻別する必要があった。

この万太郎の了見は筋が通っている。というのも、万太郎の小説や戯曲こそ、すべて味だけで成りたっているものだからだ。『末枯』には、盲目になった柳家小せん(初代)をモデルにしていると思われるせん枝という噺家が「白銅」という噺の稽古をつける場面がある。この噺は、金もないのに吉原に行きちゃっかり女郎屋にあがった男がそれを友人に語るどちらかというと馬鹿馬鹿しい話なのだが、その引けすぎの吉原の様子をせん枝はこのように語る。

「四辺はシインとして来る。音のするものは、手にとるやうに聞える、トオン、トン、トン、トンと上草履が階子を上つて行く音、犬の鳴声、金棒の音、新内の流し。――揚屋町の例の家を越して、左へ曲つた角店だ。二階障子へボンヤリ燈火が映つてゐる。」

沈黙と音、障子へ映る燈火など存在から発散される味というしかないものであり、『末枯』ひいては万太郎作品の本質を見事にあらわしている。ちなみに、この噺はほとんどする者がなく、かろうじて古今亭志ん生が演じたのを聞くことができた(「五銭の遊び」という別題になっている)。志ん生は小せんの直弟子ではなかったが、稽古場に通っていたというから、あるいは『末枯』そのままに小せんにこの噺を教わったのかもしれない。だが、もちろんというべきか、志ん生は先に引用した部分をまるっきり飛ばしている。

2014年5月10日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』24

しばし宗祇の名をつけし水  杜國

 美濃国郡上郡山田庄宮瀬川のほとりに泉があり、東野州常縁、宗祇法師に古今集の伝授を受け終わってここまで来て、和歌を詠じて別れたというところから、宗祇の清水の名がある。また白雲水ともいい、それは宗祇が白雲齋と号したからである。前句を熊坂物見の松としてこの句は付けられた。「しばし」の一語、はなはだ巧みである。一切は仮りの現実であり、大盗の松も山風に吹き折られ、詩僧の泉も田夫には忘れ去られる、それは世間の常態である。ここにある水に対し、かしこにある松を思う、山深き美濃地の風情が言外に見える。

2014年5月9日金曜日

ノスタルジアの電車――侯孝賢『珈琲時光』



苦手という距離感がある。気になる存在なのだが、いざ面と向かうと好きだと擦りよってもいけず、かといって嫌いだと突き放すこともできない。

小津安二郎の映画は苦手である。柳眉を逆立てるという形容がこれ以上ぴったりと当てはまることはないと思われる京マチ子の表情をとらえた『浮草』は大好きなのだが、概して、小津の映画を見ると、好きだと言っていいのか嫌いだと言っていいのか、曖昧な状態のなかに置き去りにされるのである。

侯孝賢も同様で、眼を見張るような部分と、眼が開けておれないような睡魔を交互に味わうのだ。更には、一青窈も苦手である。ナチュラルさを売りにしているボーカリストはどちらかといえば嫌いで、それゆえ一青窈のことも公式的にはあまり好きではないということになるのだが、いざ曲が流れている場面に行きあたると無意識のうちのその糸を引くような声に聞き入ってしまい、公式的意見を否定しなければならないような気分になり、要するに苦手なのである。

さて、小津安二郎生誕百年を記念して侯孝賢が2003年、一青窈を主演に迎えて公開したのが『珈琲時光』である。苦手な三人が一堂に会したこの映画は、しかし、胸をかきむしられるようなノスタルジアを私の内に掻きたてた。それは神田神保町の天麩羅屋「いもや」や、高円寺の古本屋「都丸書店」など、かつてよく通った場所が出てくるからばかりではない。

話らしい話があるわけではない。一青窈演じるライターの陽子は、中盤、自分が妊娠していることを親に告げるのだが、父親が誰なのか糾問されることはないし、出産に向けての不安が描かれているわけでもない。浅野忠信演じる古本屋の主人肇は、陽子に淡い気持ちを抱いているらしいのだが、二人の関係が発展することもない。どうやら陽子は台湾で生まれ、日本で教育を受けた作曲家のことを調べているらしいのだが、その進捗状態が示されることもないのである。

物語上はなにも進行しないこの映画が描いているのは、東京でひたすら電車に乗り続けることなのだ。だが、電車とはいっても、混雑と密閉感とせわしなさが充満した通学や通勤で利用される電車ではない。こうした電車では、目的地に何時までに着くことに我々は拘束されている。映画のなかの彼らが電車に乗るのは、朝でも夜でもない。映画にはまったくといっていいほど朝と夜があらわれない。

時間はいつも昼下がり、やや傾きかけたオレンジの色味のついた陽光は永遠に続くかのようであり、そのなかを電車が走るのだが、それはまさしく私の東京経験でもある。都市のなかにもぐり込むとは朝晩の表通りの雑踏で人波に押し流されるよりは、放恣な姿をさらしている都市の昼下がりのなかをぶらぶらすることで、そのいつ終わるともしれない電車の時間は、いつかあったかもしれない昼下がりの電車と容易に結びつき、ノスタルジアを掻きたてる。


2014年5月8日木曜日

ブラッドリー『論理学』29

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§3.しかし、ヘルバルトは、後で見るように、そう簡単に片付けられはしない。彼は、判断が事物に関するものだという常識的な教義を無批判に受け入れ、事物とは言葉ではないという発見に驚き、繋辞の本性についての言語学的啓示と思われていたものにひれ伏した最初の人間ではなかった。判断が事実を肯定するものであることを否定したとき、彼は十分に自分の立場を知っていた。文法上の主語にはなんの謎もなかったが、真理と観念の本性に関してはすべてが難解だった。我々が判断について反省すると、まず最初に、もちろんのこと、我々はそれを理解したと思う。それは事実に関わる、というのが我々の確信である。しかし、それはまた、観念にも関わることを我々は見る。この段階では、問題はまったく単純なように思える。我々は心のなかに観念の接合や総合をもっており、この接合は外側にある事実の同じような接合を表現しているというわけである。真理と事実とは、かくして、一緒に与えられるもので、いわば、異なった半球にある、別種の要素をもった同じものである。

 しかし、より以上の反省は、我々の確信を霧散させることになる。判断は観念の統合で、真理は判断以外の所では見いだせないことを我々は見た。それでは、観念はどのように現実と関係するのだろうか。それらは同じように思えたが、明らかにそうではないのであり、その相違は矛盾にいたる先触れとなっている。事実は個別的で、観念は普遍的である。事実は実体をもち、観念は形容詞的である。事実は自律し、観念はシンボル的である。これは、観念は事実がそうであるようには結びついていないことをあらわしていないだろうか。観念の本質は、考えれば考えるほど、現実からますます離れていくように思われる。そして、我々はなにかが真である限りにおいて、それは事実ではなく、事実である限りにおいて真ではあり得ない、という結論に直面する。同じ結論を別の形で言うこともできる。定言的判断はある事実が肯定されたり否定されたりする実在に関する主張である。しかし、判断にそうしたことができないのであれば、結局すべての判断は仮言的だということになる。それはある仮定に基づいて真なだけである。S-Pを主張するとき、私はSあるいはP、あるいはその総合が実在であることを意味しているのではない。事実における統合に関してはなにも言っていない。S-Pの真理で意味されているのは、もし私がSを仮定するならその場合私はS-Pを肯定せざるを得ない、ということである。こうした意味において、あらゆる判断は仮言的である。

 ヘルベルトのよって遂行されたこうした結論はその前提からの帰結として抗うことのできないものだと思われる。しかし、その諸前提が適正ではない。前の章で見たように、判断は諸観念の総合ではあり得ない。ここでしばらく中断をして、この誤った教義の帰結について述べたいと思う。判断が諸観念の統合なら、定言的判断は存在できない、ということを明確に見てとることは、論理学の理解にとって非常に大きな一歩である。次のセクションでは、この点を容易にわかるような形にしてみたい。

2014年5月7日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』23

ぬす人のかたみの松は吹折て  芭蕉

 賊去って弓を張る、とは禅での決まり文句である。曲齋は、恨みのある賊を尋ねていったが、賊は既に去り、その住いのあたりの松でさえ風によって吹き折れており、いまは恨みのもっていきようがないので、せめてそばの松へと一矢放って心を済ますことだとしている。そこまで深入りして解さなくとも、前句の場所を、荒涼として、昔の大盗賊の名を付けられた松なども山風に吹き折れた凄まじいところとみてよかろう。熊阪長範の物見の松は、美濃国青野村一里塚あたりにあるという。前句白菊の物語は美濃信濃の境のことなので、ここに物見の松を点出してその場所を確かなものにしたというのは『大鏡』の註である。「吹折れて」となっているものもあり、そういっては語法が整わない。けれども「吹折れて」というような整わぬ語法も、芭蕉のころには人々怪しみもしなかったようなので、最古本に照らしてどれが原形かを決めるべきである。吹折りては風が吹折りてで、「風の」を略したものであり、吹折れては、「風の吹きて折れて」で、「風の」と「て」が略されている。「吹折れて」も、こうした破格な文法がその時代の行われたとするなら、強いて難ずることもない。

2014年5月6日火曜日

眼路の先には真っ赤な鳥居――俳句


 『鬣』第36号に掲載された。

亀立つや蓍と蓍のあいだから

ふたまたの大根に滲む遡及性

けうとさが乱反射する春の水

放歌高吟 弱い地霊の夜の路

コンクリの白い過程の裂け目かな

ゆうがおと人妻のある硝子棚

道行きは千年もぐらの穴なりに

時のしたたり 石産む石の落ちる音

2014年5月5日月曜日

ブラッドリー『論理学』28

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §2.より重要度の低い難点を一緒に扱うことにしよう。「四角の円は不可能である」というのは、四角の円の現実の存在を肯定しているのではないと言われる(ヘルバルトI93頁)。しかし、あらゆる場合において我々が文法上の主語の実在を肯定するのだと主張しないなら、この反対は見当違いである。そして、明らかにこれは常に我々が肯定しようとしていることではない。「幽霊は存在しない」、「この考えは幻である」といった例も同じように扱うことができる。これは最初の形式とは違うし、実在をあらわす命題をでたらめにつなぎ合わせたものでもない。しかし、あらゆる命題において、意味の分析をすると、なにか別のものの実在が肯定されたり否定されたりしているのがわかる。「空間の性質は四角と円とのつながりを排除する」、「世界には幽霊が存在する場所はない」、「私はある考えをもっているが、それが指し示す実在とはその意味とは別のものである」--こうした翻訳を最初の例に対する攻撃への予備的な答えとすることができる。次に、ヘルベルトが「ホメロスの神の怒りは恐ろしい」(I.99頁)といった言葉で責め立ててきても、我々はこうした武器に譲歩する必要はない。ホメロスにおいてはそうなのである。確かに詩は、確かにある種の想像力は、確かに夢や幻覚は、確かに我々の言葉や名称より多くのものはある種の事実なのである。こうした異なった秩序にある存在の区別というのは容易なもので、決して混同するべきではないし、自家撞着はこうした反論を熱心に行なう者の方にある。

 更に、この誤った議論が繋辞にまで及ぶと、同じ誤解が知らず知らずのうちに繰り返されるのを我々は見ることになる。我々が性質づけをするときには、判断を越えて存在し、我々の頭のなかでかあるいは外でか、(どのような形であれ)実在するものを性質づけする。こうした意味において、我々はそれは「存在する」もの以外をあらわすことはけっしてでき「ない」と言わねばならない。

2014年5月4日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』22

今ぞ恨みの矢をはなつ聲  荷兮

 矢をはなつ声は矢声というものである。引き絞って放つとき、わが国では「や」や「えいッ」といい、中国では「著」といって、力を込めあたることを期する、これを矢声という。「や」という名称もこの声からでたのだろうと古人も説いている。恨みあるものを見て矢声をかけて切って放つところをこの句はいっている。乗り物のなかの人の顔が朧ななか、刀や槍ではなく弓をだすのは、間が隔たっている様子も思われて、大変ふさわしい。

 古註がこの句を解釈して、晋の豫譲の面影があるとするのは間違っている。趙襄子が馬に乗っていたことはでているが、駕籠に乗ったことはなく、また、豫譲が剣を抜いたことはあるが、弓矢を帯びていたことはない。張良の頼みに応じて、博浪が一撃を加えた滄海君のことだというのはますます違う。鉄槌を飛ばして副車にあてた様子は、乗り物に矢を放つことと遠くはないが、簾越しに朧にも始皇の顔は見られなかったことから、強いて『史記』を引いて解釈するには及ばない。

 また、『古事談』を引いて、清和のころの信濃掾三須守廉というものが、御坂で妻白菊を猿の精に奪われ、寝覚めの里の三依道人のもとで占いをしてもらうと、たまたま妻を伴った者が烏帽子直垂で乗り物よりでたのを見て、大いに怒ってこれを射たが、三本の矢も効力はなかった、という話を引いて解釈する者もある。だが、『古事談』にはこのような話はないようであるし、甚だしく異なった本もあるのだろうか、いぶかしいことである。妻籠という地名も白菊の古事から生じたというが、確かな根拠となるものを見たことはない。また平重盛の伊勢詣でのとき、伊勢三郎義盛が忍んで射かけたことの面影があるという解釈もある。義盛が重盛を射たこと、その出処がわからない。『義経記』は義盛のことをくわしく書いてあるが、そこにもでていない。豫譲、滄海公、三須守廉、伊勢三郎、みなここに引きだしても、特にその面影とすることもなく、またその面影が確かにそうだとひとに納得させるものもない。古解はことごとく廃棄すべきである。

 一句の姿、情、何となく物語めいて、しかもこれが特定の地、特定の地、特定の書にあるかのように思われるのは、前句を機会として詩歌の幻を現出する手腕を荷兮が発揮したものである。荷兮がこうした演劇めいた趣向をたてて作句するのはその癖である。いちいちその出処を考えようとするのは、幻術師の生みだした幻に対してその本籍や姓名を問おうとするようなものであり、愚かしいこと甚だしい。荷兮に噴飯物と手を打って笑われよう。

2014年5月3日土曜日

残念な二人組――マックス・ブロート『フランツ・カフカ』



マックス・ブロートのカフカ伝は評判が悪い。カフカの諸作品に神学的な解釈を施し、あたら面白いものをかえってつまらなくしている、というのが主たる理由だろうが、それだけではない。

ブロートはカフカとの出会いを、ソクラテスに出会ったプラトンに例えているが、その対話篇にほとんど姿をあらわすことのないプラトンとは異なり、ブロートは自分をだすことにとくに躊躇を感じないらしい。そもそも、この伝記では、祖先と幼年時代を語った部分を除けば、友人となった大学時代からカフカの死に至るまで、ほとんどカフカはブロートとともにいるのである。自分の思い出のなかの、自分と同じ体験を共有したカフカだけが問題なのであって、しかもその友人としてのつきあいからは確固としたカフカ像が既に確立していたから、取材によって自分の知らない友人の側面を探ろうとする気もさほどなかったのではないかと思われる。

一九五四年の第三版(初版は一九三七年)でつけ加えられた補遺では、グスタフ・ヤノーホの『カフカとの対話』が自分の書かなかった空白の時期を埋め、「再び私はカフカがしゃべっているのを聞き、彼のキラキラ光る生き生きしたまなざしが私に注がれるのを見、カフカの静かな、痛々しい微笑を感じ、彼の叡智から衝動や感激を受けるように思われたのである」と評価しながらも、ヤノーホは「カフカに、最初の詩を見せて批評を仰ぎ、議論し、おかげで他の考え、他の情熱に身も心も捧げていたカフカを徹底的に邪魔することになったのである」と意地の悪いことを言っている。

自分のカフカ像を提示するに急なためか、二十年以上の交友記にしては印象的なエピソードが少ないのも残念な所だ。たとえば、カフカはよく時間に遅れてきたが、それはいかなる物、仕事、人間でも不当に扱ったり、見切りをつけることができなかったので、どんどん時間に追い詰められてしまうのだという観察や、カフカが「非逆説的、いやむしろ反逆説的」だという指摘などは意表を突くものなのだが、いかんせんそれを目が醒めるようなエピソードでは語ってくれないのである。

それでも、それがあるだけでこの本の存在価値があると言えるエピソードがある。それは、『審判』の第一章を友人たちの前で朗読したとき、友人たちは腹をかかえて笑い、カフカ自身もあんまり笑いすぎて先を読み進めることができなかったというものだ。

しかし、ブロートはその笑いが「ほんとに善良な、快い」ものではなかったとしながらも、それでもそこに「善良な笑いの一成分」「現世の喜び」が混入していたのだとつけ加えることであたら面白いエピソードを理に落ちたものにしている。

西洋文学には、神話的な原型とも言えるような二人組が存在する。ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、ファウストとメフィストフェレスなどがそうで、彼らはある意味お互いをグロテスクに映しだすことによって強力なモーターとなって物語を突き動かす。ブロートはグロテスクなカフカを端正に映しだすことで、原型的な二人組になることに失敗している。