2014年2月28日金曜日

幸堂得知の一句

 「鬣」第31号に掲載された。

散る花の中にも一本さくらかな    幸堂得知


                        
 幸堂得知は万延元年(1860年)江戸下谷車坂町に生まれ、大正二年(1913年)根岸に没している。劇評家として活躍した人で、江戸芝居についてもっとも詳しい人物の一人として知られていた。饗庭篁村、森田思軒、須藤南翠、幸田露伴らが参加した「根岸派」と呼ばれるグループの最年長だった。饗庭篁村のほぼ一回り、幸田露伴のほぼ二回り年長である。根岸派は文学者の集まりではあったが、尾崎紅葉の硯友社のように文学的運動を組織するわけではなかった。「彼等を一党一派と団結させたのは、文学上の主張でも主義でもない、むしろ酒であった。詩酒徴遂の遊楽であつた。彼等は文壇の覇権を心配する大友の黒主の寄合ひではなしに、世俗を白眼視する清談の酒徒のまどひであつたのである」と柳田泉は書いている(『幸田露伴』)。

 幸堂得知の文章をまとめて読んだことはない。根岸派の行事に二日旅行と称するものがあった。一泊二日の旅の間、御前と三太夫を決め、御前の命ずる無理難題を会計を預かる三太夫が機転を利かして取りさばき、客人たち(つまり、御前と三太夫以外の者たち)を満足させるという遊びだ。彼らが群馬県松井田に旅したときのことが、その参加者がリレー式に道中の様子を語った『草鞋記程』にあらわれている。同じく、墨堤を一日歩く遊覧の記事が『足ならし』としてまとめられており、この二編にある短い文章でしか幸堂得知のことは知らない。今回あげた句も露伴の「得知子の俳句」(明治三十年)という五行ばかりのごく短い文章で知ったもので、得知の句が何らかの形でまとめられているのかどうかさえわたしにはわからなかった。『草鞋記程』には「煙たつ浅間も白し冬隣」「月と寐たむかし語りや枯芒」の二句があり、また、新潮社の『日本文学大辞典』によると、齋藤緑雨が「幾ら食ふものか捨てゝおけ雀の子」という得知の句を「太つ腹な句だと褒めた」とあって、これがわたしの知る得知の句のすべてである。

 露伴の文章には、得知が「先代夜雪庵門下の逸才にして、句ぶりおのづから一家をなせり」とあるが、この夜雪庵とは明治二十年代まで生きた四世ではなく三世のことなのだろうか。夜雪庵の句も捜してみたのだが、わたしの手持ちの本ではまるっきり歯が立たない。露伴はこの句を直接本人から聞いたらしく、「其後、人の花の句得たりなどいふごとに、耳を傾けて聞けど、これに勝りたりと予が思ふ句をば今に得ぬなり。めでたき句なるかな」と簡潔に評しているが、期せずして緑雨の評言と符節を合わせていると言えよう。これほど短い詩形にもかかわらず、文の柄が(人柄とは言うまい)あらわれるのが俳句の不思議なところである。結局わたしが俳句に求めるのはこうしためでたさが自然ににじみでるような柄の大きさでしかないのである。

2014年2月27日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』12

影法の暁寒く火を焚きて     芭蕉

 影法はいまでいう影法師で、略語ではない。何々坊というのはすべて人に擬していう言葉で、しわい(しみったれ)なのをしわん坊、けちなのをけちん坊、取られるものを取られん坊、取るものを取りん坊または取ろ坊、かたゐ(乞食)をかったゐ坊というのと同様である。 法は当て字で坊と同じで、影法は影坊であり、影法師の師の文字は添えることで生じたもので、孤独の「独り坊」を「ひとりぼっち」というときの「ち」のようなものである。貞享、元禄のころは、影法とも影法師とも言ったもので、いまのあり方で昔を疑ってはいけない。

 一句は葬儀の場に籠もった人が悲嘆で身も細るほどの暁に、衣服も薄く胸が氷りそうな夜明けのあり様をあらわして、すさまじく哀れな様子をよく言い取っている。旧註で、墓守の翁だというのはよくない、なき主に忠義の厚いものか、母親に孝行の思いが中々去らない子供であろう。前句とのかかりはいわなくとも理解すべきである。「消えぬ」という語に縁を引いて影法といったなどというのは間違いである。情景を描いて情があり、情を述べて景色があり、影法は明けようとする空に薄れて、卒塔婆は夜が遠くなっていくうちに白々と浮かびあがる、嘘寒く凍りつきそうな状況を見てとるべきである。肌を粟立たしめる一句であり、連句としては涙を誘う。詩は解釈するのではなく味わわねばならない。非人であるという旧解はとりがたい。

2014年2月26日水曜日

究境頂と銀幕少年王――ノート7

 『鬣』第31号に掲載された。

 かくして、第三エロチカの公演によって状況劇場以外の劇団への門が開かれたわけだが、第三エロチカは状況劇場のようにわたしの鍾愛する劇団にはならなかった。というのも、『新宿八犬伝』第一部第二部は文句なしに面白かったが、それ以降の『ニッポン・ウォーズ』や『ラスト・フランケン
シュタイン』などはなにか歯車が噛み合わない感じで、結局その後を追いかけるのをやめてしまったからである。もっとも後で述べるように、深浦加奈子との縁がこれで切れたわけではなかった(第三エロチカでいえば、もう一人、香取早月が贔屓だった。狐のような顔をしたボーイッシュな女優で、迫力のある表情で言いたいことだけ言ってしまうと、舞台の脇で膝をかかえて座っているような役柄が多かったように思う。その姿には、なにか、衆人環視のなかでの寂寥感のようなものが漂っていた)。

 この集中的に芝居に通った時期に心底熱狂した劇団は別にあった。一つは山川三太主宰の究境頂である。金閣寺の三層を究境頂と言うが、特に関係はないようだ。まったく知らなかったこの劇団を見にいったのは、チラシに山川三太と種村季弘との対談が載っていたからだった。本来、究境頂は状況劇場と同じくテント芝居だったが、わたしはテントでの公演は一度しか見ていない。とい
うのも、この劇団はまもなく解散してしまったからである。結局わたしが見たのは、テント、高円寺のスタジオでの二回にとどまる(究境頂のヒロイン鳳九が、他の二つの劇団の女優と集まって行なった三人芝居を加えると三回になるが)。テントで見たのは『空飛ぶ鍛冶屋』という芝居で、場所はよくおぼえていないが、なんでも駅から相当歩いたような気がする。周辺には何もないのっぱらのような場所に銀色のテントが立っていた。花園神社のような喧噪と隣り合わせの場所ではなかったから、朧気になった記憶で思い返してみると、夢のなかの出来事か、水木しげるの漫画にでも入り込んでいたかのような気分になる。芝居の内容もまた朧気だが、安部公房の『友達』のように、見知らぬ他人がずかずかと家庭のなかに入り込むところから始まったと思う。それがどういう具合にか、錬金術的な創世の神話に結びつくのだ。ヒロインの鳳九がまた魅力的で、女性にこんな形容もないものだが、貫禄のある偉丈夫さながらだった。イタリアの女優、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレを思い起こして貰えばいいだろうか。創世の神話といっても、決して堅苦しい難解な芝居ではなく、芝居を見てこのときほど笑ったことはなかった。このことは実は大変なことで、それというのも、この公演、観客が十人ほどしかいなかったからだ(やはり辺鄙な場所が障害となっていたのだろう――都内であったのは確かなのだが)。役者と観客が互いを意識せざるを得ないこのような状況で笑いが絶えないというのは、満員の劇場をわきかえらせるのより、より容易なことだとは言えまい。二回の公演しか見られなかったことが思い出を美化しているかもしれないが、とにかく究境頂は状況劇場以後始めてのぼせ上がった劇団だったのである。

 しかし、究境頂は、テント芝居であること、卑俗な現実が創世の神話と結びつく展開など、第三エロチカと同じく、多かれ少なかれ状況劇場からの流れにあった劇団だった。当時熱狂したもう一つの劇団こそ、状況劇場的な作劇を相対化する視点をわたしに与えてくれた。そして、これ以後、この劇団の与えてくれた方向にわたしの好みも移っていく。それが内田栄一が主宰する銀幕少年王である。内田栄一でもっともよく知られているのは、脚本家としての彼であろう。藤田敏八の『バージンブルース』『妹』『スローなブギにしてくれ』『海燕ジョーの奇跡』、若松孝二の『水のないプール』『スクラップストーリー ある愛の物語』、神代辰巳の『赤い帽子の女』、根岸吉太郎の『永遠の1/2』などが彼の脚本(及び共同脚本)である。もともとは「新日本文学」に入会し、小説家として出発したらしい。安部公房のもとにいたということをどこかで本人が書いていたのを読んだ記憶がある。わたしが読んだ小説は(題名は忘れてしまったが)、なんでも中年の男がナンパした少女と部屋のなかでごろごろしている、といった感じのものだった。藤田敏八の映画を思わせるもので、当時わたしが内田栄一についてもっていた印象は、軟派な硬派というものだった。とりわけ硬派の部分が突出しているのが劇団主宰者としての内田栄一だった。1967年の公演『ゴキブリの作り方』は花田清輝に激賞されたというが、その後コンスタントに演劇に関わっていたのかどうかわたしは知らない。

 銀幕少年王の芝居がどのようなものであったか伝えるのは難しい。まず、状況劇場のように、かけがえのない役者の存在を前提に成立するような芝居ではなかった。役者は公演ごとに代わっていった。池袋の文芸座ル・ピリエでの公演では田口トモロヲが出演していて、さしたる必然性もなしに服を脱いで、腰蓑の間から性器が見え隠れしていたのをおぼえているが、それは当時彼がボー
カルをしていたパンクバンドばちかぶりを聞いていたから記憶に残っているに過ぎない。舞台装置も大げさなものはほとんどなかった。ある意味象徴的なことだと思うが、あれほど熱狂していたというのにわたしは一つも公演名が思い出せないのだ。基本的なパターンは決まっていて、短いスケッチ風の芝居と、さあなんと言ったらいいか、リズミックな音楽にのせてなされるごく単純な動作の持続が交互に繰り返されるのである。たとえばその場で駆け足をしながら、隊列をなして、その編成を変えていく、といった誰にでもできる動作で、ここにも役者の特異性をあてにしない姿勢が一貫している。後で触れることになるかと思うが、関西の劇団維新派の芝居に近いと言えるかもしれない。維新派の主催者である松本雄吉も経歴が長いから、あるいはどこかで擦れ違って影響を与えあったというようなことがあるかもしれないが、よくわからない。しかし、維新派は巨大な舞台装置を組み立てることが芝居の一環となっており、その点では両劇団は正反対である。内田栄一には『生理空間』という身体論であり、演劇論でもある著作があるが、まさしく彼の芝居は単純な動作の持続によって人間が無名の生理へと還元されていくのである。

 あり得る誤解を避けるために言っておけば、銀幕少年王の芝居は、モダン・アートに特有なコンセプチュアルなものではなかった。後に、絶対演劇宣言と題してまさにコンセプチュアルな演劇ばかりを集めた催しがあったが、箱を右から左へ移すような単純な行為の繰り返し自体は両者に共通するが、こうした演劇にはまったく劇的興奮をおぼえなかった。内田栄一の芝居が人間がなにか訳のわからぬものに変貌するさまを見せてくれるのに対し(キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の前半部分、新兵に対するしごきの場面で、汚い言葉に乗せて繰り返されるランニングが若者を何ものかに変貌させるように)、それらの演劇ではどこまでいっても概念によって動かされる人間は概念によって動かされる人間のままなのだ。

 その他印象に残った劇団を思いつくままにあげてみよう。劇団鳥獣戯画は歌舞伎ミュージカルと称して『桜姫東文章』などをミュージカル仕立てにして公演していた。美空ひばりが主演する歌謡映画の雰囲気で、和製ミュージカルの変な臭みがなかった。歌舞伎にインスパイアーされた劇団としては花組芝居もあったが、わたしは鳥獣戯画の方が断然好きだった。坂手洋二の燐光群は政治
と性や変革と情念の、山崎哲の転位・21は日常から犯罪へと向かう回路を示してくれた。女性ばかりの劇団青い鳥がこの頃話題になっていて、数回見に行ったが、おしゃれではあったが劇的なるものはさほど感じなかった。どうも男性だけの劇団や女性だけの劇団には性的葛藤がない分、劇的緊張の水位が一段階低くなるように感じるのが常であった。

 鴻上尚史の第三舞台は一度見に行って、野田秀樹の夢の遊眠社はテレビで一度だけ見て大嫌いになった。それ以来全く見ていないので、批判のしようもないが、例えて言うなら、ライブハウスにジャズを聴きに行ったら、クロスオーバーが演奏されていたようなものだった。もちろん、クロスオーバーをジャズと称して演奏する者にも、それなりの言い分や理屈があるだろう。いずれにせよ、わたしがジャズあるいは芝居に求めるものと彼らが与えてくれるものがあまりにかけ離れていたので、彼らの芝居および彼らとともに語られるような劇団にはそれ以後足を踏み入れることはなかった。

 土方巽は間に合わなかったが、多かれ少なかれ彼から発している舞踏も幾つか見た。誰であったか名前は失念したが、舞踏家が十メートルくらいの距離を一時間ほどかけて移動する舞台があって、こういうのは他人の行を見せられているようでそれほど感興がわかなかった。山海塾もわたしには禁欲的かつ審美的すぎた。もともと微細な動きを緊張感をもって見守り続けることがわたしはあまり好きではないらしい。その点、麿赤児の大駱駝艦や大駱駝艦から分かれた白虎社(山海塾も大駱駝艦から派生したのだが)は楽しかった。特にこの両集団の場合、くだらないことをするときほど身体があるべき場所にぴったり収まるのが見事だった(かつて『タモリ倶楽部』で麿赤児が登場する体操のコーナーがあったが、ばかばかしい文句に乗せて動く身体の正確さには毎回驚かさ
れた)。モダン・ダンスはさほど見ていないが、ロバート・ウィルソン(音楽フィリップ・グラス)の『浜辺のアインシュタイン』やフランクフルト・バレエ団を率いたウィリアム・フォーサイスの公演などを覚えている。ダンスやバレーと舞踏は対照的で、跳躍による上方への志向においてダンスやバレーが際立っているのに対し、舞踏は地を抉るかのような動きにおいて優れていた(勝新太郎演ずる座頭市の、独楽のように地を這いずる殺陣を思い返してもらってもいいだろう)。

 さて、頻繁に芝居に通っていた時期が二、三年だったことが確かなのは、劇場から遠ざかったきっかけがはっきりしているからである。少々面倒くさい病気にかかり、半年ほど入院したことが芝居から距離をとる原因となった。もともとどちらかというと閉所恐怖症の気味があり、人混みが苦手であったから、いったん熱が冷めてしまうと、もうもとの勢いを取り戻せなくなってしまったのだ。しかし、病気のあともいくつかの劇団に出会い、かつての熱気を取り戻せそうなきっかけは幾度かあった。そうした劇団をアトランダムにあげてみよう。

 まず、維新派がある。先ほど述べたように、維新派は舞台装置を組み立てることが芝居の大きな要素であり、新橋の空き地に巨大なセットが建てられていた。1991年の『少年街』である。維新派は自分たちの芝居をジャンジャン☆オペラ(ジャンジャンというのは大阪新世界のジャンジャン横丁からきているらしい)と呼んでおり、銀幕少年王同様、芝居の部分と大阪弁で掛け詞や語呂合わせを大量に含んだ短い言葉の積み重ねを踊りながら歌う部分に分かれている。踊りも言葉と同じように、アクロバティックなものではなく、短く簡単な動作の積み重ねによって成り立っていた。舞台はノスタルジックな未来とでも言うべき空間で、そこで顔を白く塗った少年少女たちが壮大な仕掛けのなかを歌い踊る姿にわたしは圧倒された。すっかり興奮して、劇中音楽のカセットを買って帰ったのだが、肝心の歌が入っていないのにはがっかりした。それでも、数日間音楽とリズミックな歌の調子が取り憑いたように離れなかった。

 興奮した芝居、熱狂した芝居、楽しんだ芝居と芝居の経験も様々だが、わけがわからないということで群を抜いていたのは東京乾電池のチェーホフ劇だった。面白かったかと言われると言葉に窮するが、それではつまらないかというとそうも言えない、ただただ困惑のなかに放置される体の芝居だったのだ。神西清の訳した脚本を、柄本明、ベンガル、綾田俊樹、角替和枝といった乾電池
の役者たちがまったく感情を交えないフラットな台詞回しで述べ立てる。アドリブなども一切なく、蛭子能収が人が真面目なことをしているとおかしくなってくる癖がでて、同意を求めるように周りの役者に笑いかけるのだが、誰一人として応じる者がないので、曖昧な表情のなかに笑いを紛らわすことが幾度か繰り返された。チェーホフに現代性を盛り込もうとするような特別な演出もなく(演出は柄本明)、早口の台詞だけが滔々と流れていくような芝居だった。とにかく不思議な時間だったと言うしかない。もっともこうした「実験」は一時的なものであったらしく、最近、劇団創立三十周年の「劇団東京乾電池祭り」の演目シェイクスピアの『夏の夜の夢』、小津安二郎の『長屋紳士録』をDVDで見る機会があったが、それなりに人情もあり、デフォルメによるおかしさもあり、こういってはなんだが、ごく普通に面白い芝居になっていた。

 平田オリザの青年団を最初に見たときも、心を奪われた。1991年の『S高原から』をこまばアゴラ劇場という小さな小屋で見た。確かサナトリウムが舞台で、特になんということもない話を交わす。役者と観客の間に想定される第四の壁の扱いにおいて特異で、あたかも役者は観客が存在しないかのように振る舞い(お尻を向け続けることもある)、台詞は順々に受け渡されるものではなく、重なり合う。ロバート・アルトマンの映画のように複数の会話が同時に進行することもある。「静かな演劇」などと形容されることもある青年団だが、見ていて実にスリリングだった。

 松本修を中心にしたMODEはこれまであげた劇団のなかでもっともソフィストケイトされた劇団だと言えるかもしれない。小道具などの舞台装置も、衣装も、音楽もシックでおしゃれだった。単に歩くことでさえ、この上なく楽しい演劇的行為になることを教えてくれたのがMODEだった。必ず演目のどこかで、役者たちが一列になって、そう、ちょうどスキップのようにアクセントをつけた歩き方で舞台を経めぐるのだが、それを見ただけでわたしは幸福感に満たされたものだった。この劇団に第三エロチカを退団して参加していたのが有薗芳記と深浦加奈子で、ここでの深浦加奈子は実にチャーミングでかつエレガントだった。大きく弧を描いて再び深浦加奈子に戻ったことでわたしの芝居の話もおしまいにする。

2014年2月24日月曜日

ブラッドリー『論理学』13

 第一巻判断、第一章判断の一般的性質の続き。

II.§13.判断についての誤った理論は自然に二つの種類に分けられ、一つは主語、述語、繋辞に対する迷信によって理論が損われるもので、他方は別の欠点による。二番目のものを最初に取り上げよう。 
 (i)判断は観念と感覚の連合でも観念や諸観念の勢いや強さでもない。これまで経てきたことを考えるなら、こうした考え方を詳細に調べる必要はない。彼らが語る観念は心的な出来事だが、判断は、既に見てきたように意味に関わる普遍的な観念内容であり、心的な事実でないのは確かである。我々にあるのが現象の関係、感覚と隣接あるいは結びついた心的イメージだけなら、どんな主張も否定も真や偽ももつことはできない。我々にあるのはそこにある、なにものもあらわさない現実だけであり、それは存在はしてもとなる可能性はない。 
 我々は「連合」についての一般的な議論を先取りはせず(第二巻第二部第一章)、この学派がもつ普遍についての途方もない考え方に移ろう。すぐにその結論にたどり着くだろう。特殊なイメージという意味での観念があり、それはある仕方で感覚に結合し縛りつけられている。例えば、私は色のついた点々の感覚をもつ。動き、堅さ、重さのイメージがそうした感覚によって「呼びだされ」、それに結びつき一体となる。これは我々がある難点を呈示するまでは非常にうまくいっているように思える。一個のオレンジは我々に視覚的感覚を与え、我々はそれにいま述べたようなイメージをつけ加える。しかし、そのそれぞれのイメージは堅固な個物であり、他のあらゆるものを排除した関係によって性質づけられている。単にそれらの事実の束を連合するなら、誰がそれを一つの事実として認めるのだろうか。その内容を混合し、存在のことは無視して、それぞれの性質の一部をとり、それを対象に移すのだとしたら、その過程をなんと呼ぼうが勝手だが、それが連合ではないことは確かである。(以下、第二巻を見よ。) 
 観念がどのようにか感覚に結びついていると仮定したとしても、判断は、真や偽はどこにあるのだろうか。オレンジは私の感覚や想像の前にある。私の心にはそれは存在し、それで終りである。あるいは「シーザーは腹を立てるだろう」と言ったとする。シーザーはここでは知覚であり、それが性質づけられて「シーザーの立腹」となる。しかし、このイメージは単にそう存在するものであり、なにをあらわすわけではなく、なにも意味することができない。 
 まず「観念」が一つの事実として自律し、感覚の事実と心的な関係をもっていると仮定してみよう。二つの現象は、頭痛が三段論法と共存できるように共存している。しかし、そうした心的な結合は主張というには程遠い。ここに肯定は存在しない。肯定すべきなにがあるだろうか。二つの事実の関係を肯定するのだろうか。しかし、それは与えられたものであり、肯定するにしても否定するにしても意味がないだろう。一方の事実が他方の事実の賓辞となるのだろうか。それはまったく理解できないように思える。端的に言って、感覚と観念の双方が事実ならば、我々はなんの肯定も見いだせないばかりでなく、肯定すべきなにがあるのかさえ解らないだろう。 
 次に、(連合そのものはあきらめることとし)「観念」そのものは姿を消し、その不完全な内容が感覚のなかに溶け込んでいるのだと仮定してみよう。この場合、混合によって生みだされた全体は私の心に単体のあらわれとしてやってくる。しかし、どこに肯定が、真や偽があるのだろうか。ありのままのあらわれのうちにあるとは言うことができない。我々はこのあらわれと他のなにものかの関係のうちのどこかにそれを見いださねばならない。その関係が判断が指し示すものとなろう。しかし、いまのところは、その何ものかも判断が指し示すものも存在しない。我々が最初にもつのは変更されていない感覚、次に変更された感覚である。 
 先に進む唯一の道は、まず、「観念」が自律し、その内容と区別されると仮定する。次に、その両者が感覚と区別されると仮定することにある。すると、我々は感覚とイメージという二つの事実と、それ以外にイメージとは異なる内容をもつことになる。こうして我々は判断が可能になる条件にたどり着くことになるが、この条件への到達は連合によっては説明できない。またそれ以上の段階を考えることもできない。イメージから感覚への内容の移動と感覚の主語としての性質づけがあるが、そのどちらも説明することができないだろう。つけ加えるなら、どんな判断においても感覚を主語として役立てることは不可能である(以下の第二章を見よ)。最後に、私の行為が結びつけ、結びつけられる意識とは我々が考えているような心理学とは両立しない事実なのである。要約すれば、イメージの内容を変更されたあらわれのうちに溶け込ませることは判断に向けての一歩ではあるが、連合を離れることになる非常に大きな一歩でもある。心的現象の結合や統一は判断でないばかりでなく、その初歩的な基礎としても役に立たないだろう。



2014年2月23日日曜日

『サイト&サウンド』の2007年映画ベスト10

1.クリスティアン・ムンジウ『4ヶ月、3週と2日』



2.デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』



3.デヴィッド・フィンチャー『ゾディアック』



4.トッド・ヘインズ『アイム・ノット・ゼア』



フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』



6.Carlos Reygadas, Silent Light

7.アンドリュー・ドミニク『ジェシー・ジェームズの暗殺』



アピチャッポン・ウィーラセタクン、Syndromes and a Century

コーエン兄弟『ノー・カントリー』



デヴィッド・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』



 見たことがあるのは、『4ヶ月、3週と2日』、『インランド・エンパイア』、『ゾディアック』、『善き人のためのソナタ』、『ノー・カントリー』、『イースタン・プロミス』。

 『インランド・エンパイア』はいまのところ生涯の何本かに入っているので思い入れがある。
 『4ヶ月、3周と2日』は期待していなかったが、面白かった。
 『ゾディアック』は十年位見返していないので、また見てみたい。後半ちょっとだれた気がするが。
 『イースタン・プロミス』も見返したい。好きな監督なのになぜか内容があまり思い出せない。

2014年2月22日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』11

消えぬ卒塔婆にすご/\と泣く     荷兮

 消えぬ卒塔婆を、卒塔婆の文字がいまだに消えないと解釈するのは、何丸があげた一書の解で、現実として読んでいる。

 鶯笠が解して、失った子供の面影が眼に残って、死んだのも本当とは思われず、もしかしたら夢ではないか、夢ならば眼前にある卒塔婆も消え失せるだろうに、消えないのは本当に死んだので夢ではなかったのだと母親の深い愛情をあらわしている、といっているのは、虚構として読んでいる。

 虚構として解釈すべきか、現実として解釈すべきか、曲齋は虚構に傾き、何丸は虚実は聞く人に任せると言った。鶯笠の解も面白いが、現実と解して、卒塔婆の文字がなお鮮やかに、何々童子とか何々孩子とあるのに、我が子は消えて無く、その対照が目に痛く胸に応えて泣くのだというのもないことではない。夢かと思ったら現実だったのを悲しむというのは、深読みしすぎである。前句の「偽りのつらき」を、この世はすべて仮のもので現実ではなく、夢幻のようだと、子を失って偽の世を悲しむことに見るのは、一致した解釈で、異論はない。子供を亡くして乳房が張ることのむなしさに悲しむ女のことを詠んでいる。

2014年2月21日金曜日

スタイルと生理――レミ・ド・グールモン

 『鬣』第31号に掲載された。

澁澤龍彦はスタイル偏重を公言し、「極度に人工的な」スタイルさえあれば、思想の当否や人間が描かれているかどうかなどは取るに足らない問題だと言って憚らなかった。ここで、スタイルというのは、単なる文体よりも広い概念を示す。

「極度に人工的」であるとは、日常生活とは隔絶された異なった秩序をもつ世界をつくりあげることであり、一つの世界を構築するには一貫した方向性と持続が必要となる。健康に気をつかった毎日の養生のように抑制による自己管理が中心になることではなく、積極的な造形意志に関わる問題なので、その内容はともかく身を律していく倫理的な姿勢が要求されよう。それかあらぬか、あれだけ「不道徳な」ことを生涯書き続けた澁澤龍彦だったが、自堕落なデカダンには鼻も引っかけなかった。

ところで、レミ・ド・グールモンのスタイルについての考え方はおよそ正反対の方向を向いていると言っていい。グールモンは、マラルメやヴェルレーヌのおよそ一回り下、ヴァレリーのおよそ一回り上の世代に属し、「象徴主義のサント=ブーブ」と呼ばれ、象徴主義運動を擁護した。象徴主義をマラルメとヴァレリーという系図のもとで捉えると、この二人の自意識の化け物が文を最高度に意識的なものたらしめようとしたのに対し、グールモンがスタイルを意識よりもむしろ無意識に近い場所に位置づけたのは興味深い。

グールモンによれば、人間の心的な活動のサイクルは次のような段階を経て進むと考えられる。まず始めに感覚がイメージに変化する。次に、イメージが観念に変わる。次に、観念が感情になる。最後に、感情が行動になって終わる。

そして、作家には二つの主要なタイプがある。明確なイメージを具体的に描くことのできる視覚的なタイプと、出来事がもたらす感情だけを捉え、出来事のそのものは抽象的にしか描くことのできない感情的なタイプである。

視覚的な作家、つまり、感覚とイメージを鮮明にもたらすことのできるものだけが真の芸術家と認められる。範とすべきは余計な観念によって出来事が歪められることのないホメロスの文章であり、もっぱら感情に訴えかけようとするユーゴーは非難される。哲学者で言えば、抽象的な精神にすべてが呑み込まれていくヘーゲルではなく、その思想を具体的なイメージで提示することのできたニーチェが称揚される。

といって、だからといって、我々はこうした模範を手本にすることはできない。なぜなら、感覚とイメージが観念を経ることなくスタイルにあらわれるとは、つまりスタイルと生理とが直結しているということであって、スタイルの問題とは生理学の問題に移り、意識的、理性的に処理できるような事柄ではなくなり、せいぜい我々にできることといっては、様々な経験を積むことによって感覚の領域を拡げることくらいしかないからである。

人は自分自身をスタイルによってあらわすことはない。その形式は脳の構造によって決定されており、そこから扱うべき事実を受け取るのである。

2014年2月20日木曜日

ブラッドリー『論理学』12

 第一巻判断 第一章判断の一般的性質の続き。

 §12.次に、この誤りの別の側面(ii)判断においては一つの観念が主語であり、判断はもう一つの観念をこれに差し向けるものだという教義に移ろう。次の章でこの考え方は完全に捨て去られるが、それを先取りするものとして、ここでは二つの点に注意しておこう。(a)「狼が羊を食べる」という発言は、私がそれを肯定しようが否定しようが、疑おうが尋ねようが、その関係は同一である。それゆえ、判断の特異性は判断とは離れたところに存在するものに見いだされはしないだろう。特異性は主張された内容と単に示唆された内容との差異に見いだされるだろう。そこで、あらゆる判断において、一つの観念がその主張の主語だというのが正しいなら、この教義は本質的というには余りに間口が広すぎ、おそらくは見当違いなものとなろう。(b)(後に見るように)この教義は間違ってもいる。「BがAに続く」、「AとBが共存する」、「AはBの南にある」これらの例において教義を守ることができるのは、事実を無視することだけである。AかBを主語とし、残りを述語とするのは不自然である。「魂は存在する」、あるいは「海竜は存在する」、あるいは「ここにはなにもない」といった存在が直接に主張されたり否定されたりする場合も、この理論の難点が浮かびあがるのが見られる。 
 後は、あらゆる判断において、観念内容を主張する一つの主語が存在する、とだけいっておこう。しかし、もちろん、この主語はその内容に属したり、その内部にあったりすることはできない、というのも、その場合、主語はそれ自身に帰した観念となってしまうだろう。我々は後に、主語とは、結局の所、観念ではなく、常に実在なのだということを見ることになろう。このことをもって、我々はこの章の前半を終り、先に進まねばならない。判断の一般的な概念からある種の誤った考え方の批判にすすむのだが、網羅的というには程遠く、ある点においてはより十分な証明を後の章の議論に譲らなければならない。

2014年2月18日火曜日

投句5

 「鬣」第30号に一部掲載された。

今朝の罪麦茶の底の薄い澱

初春や夢の続きで石を割り

冬の日や死のない島の卵とじ

昨日明日貫く今日の如きもの

夜の底隔世遺伝の森の夢

凶宅に福助の首闇に揺れ

腰巻きのほどける波におぼれる日

渦巻きの階段をくだる春の夜

2014年2月16日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』10

偽のつらしと乳を絞りすて     重五

 一句の意味は、乳児がいる女がどんな理由によるのかその子はいまは自分の手もとにはなく、朝夕に張る乳房をどうすることもできず、無駄に乳を絞り捨てて、これも人の情けが自分には届かないためだとつれなさを悲しみ歎く様子で、その様子は自ずから明らかである。

 前句とのかかりは、曲齋によると、嫉む人のために偽られて、身におぼえのない疑いをうけて子供を取り上げられ、張った乳房を絞るたびに、子を思い自分の身を思い、偽った人間を恨むのだという。偽りとは、自分と男の間を嫉む者が、偽りをつくりだし、讒言をなしたと解釈したのである。

 何丸が引用した一書の解では、窃かに囲われた妾などが、間違った疑いをうけて髪を切られ、その上幼児まで引き離された女のおもかげが見えるという。妾というところが曲齋の解釈よりくわしいが、間違った疑いということでは、人の讒言を入れて、詐術をもって追いだしたと見なしている。二つの解釈はあたっているかもしれない。しかし、前句の「髪はやす間を忍ぶ身の程」というのを、女にしたのはいいが、偽りというのを讒言した者の悪巧みとするのは面白くない。

 「つらし」という言葉に気をつけるべきだ。讒言した者のために髪を切られ子供を奪われたなら、「いつはりの憎し」とでもあるべきだろう。つらしというのは、人の自分に対する情けがなく、自分で自分を悲しむもので、恨み憎むとは少々異なっている。前句の「髪はやす間の身を忍ぶべき」ものを女と見立てるのは問題ないが、忍び妻でもなく、妻でもなく、忍び妻や妻が間違った疑いをうけて髪を切られるほどならば、子を引き離し取り上げられることは少なく、子と一緒に捨てられてしまうだろう。古い解釈の情理のおぼつかいことを見るべきである。

 ためしに別の解釈をしてみれば、これは立派な家の美しい下女などであろう。身辺のことをさせている下女の美しいのを、いつ頃からか手をつけて、包み隠すこともできなくなり、主人も妻の手前、世間の評判などを思って困り切っているところで、妻がそれを知って大いに妬み憤って、子供は主人の種であるから引き取って自分が育てよう、女は自分を侮って主の男を奪う憎らしい奴だと、無理矢理髪を切って罪を罪を贖わし、追い放つことなど珍しくはない。心が優しい妻なら、髪を切らすまではしないだろうが、自分に子がなくて他の女に子ができたときなどは、主の力が強かった世にあっては、主人の妾などになって後々自分の地位を危うくするのではないかという怖れと怒りから、世間にも顔向けできず、男の思いも断ち切ってしまおうと、罪を責め、髪を切らせるようなこともないことはなかった。

 男は女と契るときには、どうこうと行く末を請け合って約束するが、こうなっては自ずから遠ざかるものなので、こんな目に遭った女の悲しさはどんなものだったろうか。前句の「髪はやす間を忍ぶ身のほど」にある女をこう見立てて、「偽のつらしと乳を絞りすて」と付けた。「偽のつらし」は、つまり男の偽りのつらさである。はじめは身を慎み、分を守っていたが、主の威信と情にほだされて拒みきれずこうなったのに、それもいまは偽りとなって、できた子にも離れて乳を絞る味気なさにあわれがある。「偽のつらし」は、讒言をした人を憎むのではなく男を憎むのであることを、よくよく語気を考えて悟らねばならない。私にしても強いて異を立てて人に逆らっているわけではない。

2014年2月14日金曜日

1985年頃の演劇と深浦加奈子――ノート6

 「鬣」第30号に掲載された。

 前号佐藤清美さんの「芝居はお好き?」を読んで、わたしも芝居のことについて書いておきたくなった。といっても、二十年以上前のことだから、これからの観劇の助けになることはほとんどないだろう。もともと見たものの感想などをまめに書いておくたちではないので、当時の記録はない。日付と見た演目だけを記したノート、また、半券なども残してあると思うのだが見つからない。あやふやな記憶だけが頼りなので、間違いがあるかもしれないことをお断りしておく。

 実は、佐藤さんの文章を読む前に、当時のことを思い起こさせる二つのことがあった。

 一つは、映像でEGO-WRAPPIN'の中納良恵が歌っているのを見たことである。彼女の姿はわたしが見てきた芝居のヒロインを髣髴させた。当時の劇団でヒロインを張るということは、場を支配する力が必要とされた。あるいは、同じ感じを椎名林檎が歌う姿から受けてもよかったかもしれない。だが、椎名林檎は(もっと先輩でいえば戸川純)たぶんにつくられたキャラクターで場を支配している。わたしが思い起こす「場の支配」とは、無理矢理にその場の空気をねじ伏せる力強さである。

 この力が発揮されるにあたっては、劇場の問題も大きかったと思う。わたしが観た芝居のほとんどは、座席番号などなかった。例外は下北沢の本多劇場と渋谷のパルコ劇場、それに新宿の紀伊國屋ホール(西口にある旧館の)くらいだったろうか。現在と違うのは、中劇場がいまあげたくらいしかなかったし、そうした場所で公演するのはよほど成功した劇団に限られていた。一劇団である劇団☆新感線がコマ劇場の舞台に立つといったことは二十数年前には考えられなかった。わたしがもっぱら通ったのは下北沢のザ・スズナリ、アートシアター・新宿、名前は忘れてしまったが高円寺、中野、吉祥寺などにある小さな小屋だった。

 二時間前に整理券をもらい、三十分前に並んで入るというのが一般的だった。それゆえ、場所の確保が芝居を見る前の重要な準備になる。前の方が好きなので、なるたけ若い番号をもらうようにしていた。定員などあってないようなもので、わたしは客を詰めこむ手際のよさを劇団の良否の一つの指針としていたほどだ。そんな小さな場所だからこそ力ずくでねじ伏せることが可能であったし、また必要とされたのである。

 母親の仕事の関係で、一年に数回大劇場のチケットが手に入り、帝国劇場、新橋演舞場などの芝居を見る機会もあった。藤山寛美が生きていたころの松竹新喜劇、大地真央の『マイ・フェア・レディー』、中村勘九郎(いまの勘三郎)[註:この文章を書いた当時はまだ亡くなっていなかった]と柄本明と藤山直美が競演した舞台、森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』くらいがいま思いだせるところだが、小さな劇場での役者たちの力業に魅了されていたわたしは、大きな空間での役者のあり方、マイク越しの彼らの声などになじめず、だいたいは必ずついているお弁当とビール、それに小さな小屋では考えられないふかふかの椅子にすっかり安らかな気持ちになって眠ってしまうのだった。いい意味でも悪い意味でも大劇場の芝居にはルーズさがあって、定番を見る安心感が役者と観客に共有されていたように思う。いまでも印象に残っているのは、森繁久彌の『赤ひげ』で、息子役は竹脇無我だった。息子は長崎で最新の医学を学んで帰ってくる。そして、旧弊なやり方を守っている父親である森繁久彌の赤ひげ先生とことあるごとに衝突する。しかし、いつしか息子は父親の仕事を認め信服するようになる。わたしはこの芝居を見ていて、眠るのも忘れて狐につままれたような気分になった。わたしにはこの息子が父親の仕事を認める理由がさっぱりわからなかったのだ。黒澤明の映画版(こちらでは父親が三船敏郎で、息子が加山雄三)がどうなっていたかよく覚えてないし、芝居の細部を覚えているわけでもないのだが、とにかく、転機となるようなさしたる出来事もないまま、さっきまで少しも父親を認めていなかった息子が次の瞬間には恐れ入っており、不条理劇でも観ているようだった。それでも観客の間から驚きの声があがることもなかったので、葛藤は解消されるべきだというルーズな原則が演出・俳優と観客との間に共有されていたと考えるよりない。

 当時のことを思い起こさせたもう一つの出来事は、深浦加奈子の死の知らせである。その前に、わたしが芝居にのめり込むきっかけとなったことを書いておこう。

 わたしのなかで芝居に通うというモーターが回り始めたきっかけははっきりしていて、状況劇場を観たことである。新宿の花園神社に設置された赤テントで『新・二都物語』(作品リストによると一九八二年のことになる)を見た。楽日の前日に見たのだが、あまりに興奮したので、次の日の楽日にもう一度行った。この芝居のラストは、いかにも状況劇場らしく、饒舌な言葉と強烈な情念で凝縮され煮つまるだけ煮つまったものを一挙に解放するかのように屋台崩しによって舞台の背景が崩れ落ち、その向こうに夜の新宿が広がるのだった。楽日では、そのラスト・シーンで何らかの不手際があったらしく、屋台崩しがうまくいかなかった。舞台裏で飛びかう怒号を聞いて芝居というものの臨場感を感じそれもまた嬉しかったものである。後になって、根津甚八や小林薫が出ていたころの状況劇場が見られなかったことに歯噛みをしたものだったが、この時期の状況劇場も、李礼仙はもちろん、不破万作、六平直政、金守珍、佐野史郎などが揃っていたのだから豪勢なものだった(実は佐野史郎の印象はあまり残っていないのだが)。俳優としての唐十郎の魅力も大きなもので、ここはわたしなどより澁澤龍彦の言葉を引いておこう。

唐十郎の目は、さて何と言おうか、人間的感情の発散を塞きとめた、ガラスのような無機質の光を放った目なのである。思うに、「汚れちまった悲しみ」を見てしまった人間は、それ以後、こういうガラスの目で生きることを運命づけられるのであろう。唐作品に特有な、あの少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする、身をよじりたくなるようなリリシズムとロマンティシズムの衝動は、こういう目の中で結晶するのであろう。
                  「愛の南下運動を記念して・・・・」

 それ以前に見た芝居といっては安部公房スタジオ、山崎努主演のアラバールの戯曲、それに歌舞伎数回というところだったが、このときから二、三年くらいだろうか、一週間に二、三本の芝居を観ることが続いた。整理券の番号順に並ぶと、色々な劇団の劇団員がチラシを配りはじめる。多いときは二十枚くらい貰ったと思う。それとシティロードという雑誌(ぴあのような情報誌だが、どこでなにをやっているかという基本情報以外の特集や切り口が先鋭的で、そのことは映画欄の星取り表に松田政男、中野翠、宇田川幸洋、秋本鉄次といった名前が並んでいたことからもうかがえよう。この雑誌は廃刊になったが、その雰囲気はいまも出ているテレビブロスに近い。)を頼りに、毎月どの劇団が何日から何日までどこで公演をするのかをチャートにしたノートをつくり、何曜日になにを見にいくか決めてせっせと通っていた。この間、状況劇場の芝居には欠かさず通った。若手公演では作家の島田雅彦がゲストで出演していて、海パン一丁で身体をくねくねさせながら台詞を妙な調子をつけながら発していた。

 ちなみに言えば、寺山修司主宰の天井桟敷は見ずに終わった。その昔寺山修司が状況劇場の公演の際、冗談で贈った葬式用の花輪に怒った状況の劇団員が天井桟敷に殴り込みをかけたことなどもあり、ライバル・敵対関係にあるといった雰囲気がまだあった。寺山修司が死んだのが一九八三年の五月で、死の直前まで演出に携わっており、天井桟敷の最後の公演となった『レミング』のことはよくおぼえている。見もしなかったのにおぼえているというのも妙な話だが、紀伊國屋ホールで行なわれたこの芝居をその直前まで行こうかどうか迷っていたのだ。寺山のエッセイや対談は読んでいた(短歌は読んでおらず、いまでもほとんど知らない)。三島由紀夫との対談で、寺山がブリジッド・バルドーがカントの『純粋理性批判』をもっていたらエロチックだと思いませんか、と問いかけたのに対し、三島がそういう感覚はわかるが認めたくない、と答えるくだりなどおかしくていまでもおぼえている。しかし、『上海異人娼館』や『さらば箱船』などの映画は面白くなかった。静的なイメージの連続で、映画としての躍動がほとんど感じ取れなかったのだ。したがって、彼の演劇についても、少なくともあまりわたしが好きそうなタイプではないな、と思っていたのである。後に、この公演を最後に天井桟敷が解散してしまったとき、やはり見ておけばよかったと後悔したが、更にその後、天井桟敷の劇団員のほとんどが移った万有引力の芝居を見て、もし天井桟敷の芝居がこういう感じであったなら、やはり見ないでもよかった、と思った。寺山の映画と同じく、審美的かつ静的なイメージの連続で、状況劇場にあった猥雑さがノスタルジーに、汚い町の路地が砂漠や波荒れ狂う大海に直結するようなダイナミズムに欠けていたのである。

 話を深浦加奈子に戻そう。このように芝居を見始めたわたしが、行き会ったのが第三エロチカの『新宿八犬伝』で、深浦加奈子はそのヒロインだった。公演場所は今度なくなってしまう新宿コマ劇場の裏にあったアシベホールだった。確か『新・二都物語』を見てからそれほど時を隔てていなかったはずで、まだ他にどんな劇団があるかもわからないわたしは、第三エロチカのチラシにあった唐十郎の推薦の言葉を読んで見にいったのではないかと思う。

 こう書いて、念のためにネットで調べてみると、『新宿八犬伝』が一九八五年の公演であることがわかった。困った。どうも記憶が混乱している。どうやら『新・二都物語』を見て色々な劇団の芝居を次々に見始めたわけではなかったらしい。もしそうだとすると、『新宿八犬伝』を見たのはせっせと芝居に通っていた時期(それが二、三年だというのは確かだ)の終わり近くだということになるが、明らかに『新宿八犬伝』を見たのはそのはじめのころだったはずなのである。だとすると、状況劇場に夢中になったわたしは状況劇場の公演には毎回通っていたが、それが他の劇団にまで広がっていったのが約三年後だったのだろう。そして見る劇団を広げていくきっかけになったのが第三エロチカであったことも確かだ。

 いずれにしろ、第三エロチカは、饒舌さ、妄想によって現実を変革しようとする大胆かつ無謀なところ、作・演出の川村毅が役者として出演もするところなど、明らかに状況劇場の多くの因子を受け継いでいる劇団だった。そして、深浦加奈子は場を力でねじ伏せることのできるヒロインであり、しかもなお格調の高い美しさを崩さなかった。頬骨の高い顔はディートリッヒにも通じるような古典的な美しさをもっていた。状況劇場は李礼仙の存在感にもかかわらず澁澤龍彦言うところの「少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする」主題が通底することもあってか男芝居の印象が強いが、第三エロチカは川村毅、有薗芳記といった個性的な男優によってますますヒロインが際だっていく芝居だった。記憶違いにうろたえているうちに紙幅がつきてしまった。続きは次回に。

2014年2月13日木曜日

ブラッドリー『論理学』11

 第一章 判断の一般的性質の続き。

 §11.こうした判断の記述において、我々が同時に気がつく二つの点がある。読者は、我々が一つの観念、あるいは観念内容をもつ判断について語り、主語と繋辞についてはなんの言及もしていないことを認めるだろう。一方、もっとも行き渡っている教義というのは、我々は常に二つの観念をもち、その一つが主語だというものである。どちらの見方に対しても私は意見を異にせざるを得ない。第二章でこの問題を更に扱うが、ここでいくつかのことを述べておこう。 
 (i)あらゆる判断が二つの観念をもつというのは真実ではない。反対に、すべて一つしかもたないと言うことができる。我々は諸性質と諸関係の複雑な総体である観念内容を取り上げ、それからそれを分断区別し、その結果、関係をもつ異なった観念を得る。このことはまったく反論できない。しかし、反論可能であり、我々が否定するのは我々の精神の前にある全体が単純観念だということである。それは原理的に重大な誤りを含んでいる。観念間の関係はそれ自体観念である。心的事実の心的関係ではない。それはシンボルの間に存在するのではなく、シンボル化されたもののうちにある。それは意味の一部であって、存在の一部ではない。それが存在する全体は観念的であり、一つの観念である。 
 単純な例を挙げてみよう。我々は狼の観念をもち、それを一つの観念と呼ぶ。我々は狼が羊を食べているところを想像し、そこに二つ、三つ、あるいはそれ以上の観念が存在すると言う。しかし、この場面は一つの全体として与えられているのではないだろうか。恐らくそうではない。というのも、全体のなかには区別が存在し、そうしたグループ分けを我々はするものだからである。しかし、この道筋に従って進み、他の観念を含むあらゆる観念の単一性を否定するなら、狼自体も一つの観念ではなくなってしまう。それは数多くの属性の総合であり、結局の所、それ以上の区別を受けないような観念を見いだすことは我々にはできないだろう。どちらかを選ばねばならない。非常に単純で、それ以上のいかなる区別も受けないような性質の観念を除いては単純観念など存在せず、つまりは観念などまったく存在しない、と言うか、あるいは、精神が全体として受けとる内容は、どれほど大きくどれほど小さくとも、またどれだけ単純でどれだけ複雑であっても、一つの観念であり、その多様な関係はある統一のうちに包含されている、と言うかである。
 いかに複雑なものであっても、意味内容の間の関係は、心的存在の間ではいまだ関係ではないということに留意しないと、我々は常に間違った方向に行く。狼と羊がいる。狼は羊を食べるだろうか。狼は羊を食べる。我々はここで狼と羊の間に示唆され主張される関係をもつが、この関係は(こうした言葉を使うことができるなら)私の頭のなかの出来事を現実に繋ぐものではない。ここで意味されているのは、イメージの心的な連結のことではない。狼の観念が狼というイメージの全体ではなく、羊の観念が想像された羊ではないように、その総合された観念は私の想像に存在する関係ではない。私の意味がシンボル化された特殊な場面には、普遍的な観念のうちでは消え去り、考えられたり追求されたり、ましてやその存在が主張されたりはしない細部が存在する。
 同じことを繰り返すと、心像は記号であり、意味は全体の部分であり、その残りから、その存在から切り離されたものにすぎない。この観念内容においては、名詞、動詞、前置詞に応ずるように、性質と関係のグループがあり結合がある。しかし、こうした多様な要素は、それらを区分けする正当な権利はあるが、内容全体の外では妥当性を失ってしまうのである。あらゆる観念を含む一つの観念がある。どれだけ単純だろうが複雑だろうが、精神が一つのものとするならそれは一つの観念でしかない。しかし、もしそうなら、判断は二つの観念を繋ぐものだという古くからの迷信は捨て去るべきだろう。

2014年2月11日火曜日

自由の幻想――トルストイ『戦争と平和』



 「鬣」第30号に掲載された。

ルイス・ブニュエルの映画『自由の幻想』は、人が談笑する社交の場が便器の上である一方、食事は個室でとり、ビルの上から次々と人を撃ち殺す男が無罪になって褒め讃えられるといったまことに馬鹿馬鹿しいエピソードに富んでおり、嬉しいかぎりなのだが、題名となっている「自由の幻想」については、『皆殺しの天使』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』ほどには実感させてくれなかった。

あるいは、トルストイの『戦争と平和』こそ『自由の幻想』と名づけるにふさわしい作品かもしれない。というのも、トルストイの全精力は、あげて戦争における「自由の幻想」を解き明かすことにかかっているからである。

ディオゲネスは運動の不可能性を論じている者の前で動き回って見せた。同じように、「自由の幻想」を論じる者の前で、手をあげて見せることもできるだろう。自由に自分の意志で手をあげているというわけだ。だが、もしそこに障害物があったら、もし車が突然つっこんでくるようなことがあったら、もし自分の子供が誰かに連れ去られるようなことがあったら、手をあげているどころの騒ぎではなくなる。手をあげるという簡単な行為でさえ、ある程度の空間と、ある程度の安全の確保が必要である。自由とは人間にもともと与えられているのではなく、自覚的に求めないと獲得できないものなのだ。

戦争とは無数の人間が参加し、しかも物理的に掣肘しあうことによって、互いの自由を削る行為である。ナポレオンやクトゥーゾフの個々の命令が戦況を決めるのではない。エーテルのようなものを想定しよう。無数の人間がなにかしら動くことで無数の波を送りだす。ナポレオンやクトゥーゾフも比較的大きな一つの波であるに過ぎない。『戦争と平和』は、死ぬ運命にある者が死に、結婚する運命にある者同士が結婚してしまう全4部が終わると、その後の彼らの生活の一齣を描くエピローグ第1篇が続き、エピローグ第2篇の歴史についての長い考察で終わる。そこで、権力についてこんなことが言われている。

権力とは畢竟距離の問題である。その人物が現に起こっている事件に関与することが少なけれ
ば少ないほど、距離が離れていればいるほど、その事件に関して意見や、予想や、理由づけを表白する機会が多くなる。つまり、権力とは距離がもたらす相対的な自由さでしかない。そのかわり、権力者は出来事に直接に関与することはない。民衆の運動を権力が動かすというのは幻想でしかない。無数の波紋が巨大なうねりとなったとき、もはや権力者の遠くからの波紋では何ら影響を与
えることはできないのだ。トルストイは自由の幻想についての認識を天動説から地動説への転回に例えている。

さよう、われわれは自分の被支配的状態を感じない。しかし、われわれを自由なものと仮定すれば、無意味な結論に到達するが、もし外界、時間、原因に支配されているものと仮定すれば、われわれは法則に到達する。(米川正夫訳)

2014年2月10日月曜日

幸田露伴『七部集評釈』9

  髪はやす間を忍ふ身の程     芭蕉

 何丸の解釈で、『伊勢物語』の「むかし心つきて色好みなる男、長岡といふところに家つくりて居りけり、そこの隣なりける宮原にことも無き女どもの、田舎なりければ、田刈らんとて、此男のあるを見て、いみじのすき者のしわざやとて、集まりて入来ければ、此男逃げて奥にかくれければ」というくだりを引いて、米を刈ることからの続きが業平の俤に似かよっているので、髪を生やすという句で三句のわたりをあらわした、というのは、考えすぎで却って間違っている。

 唐詩には稀に隔句対といって前々句につけることがあるが、連句ではしないことである。連句の規則は、すべて前句につけて、前々句にはつけないものである。一句の意味が前々句に通じるのは、執着輪廻の嫌がられる道で、止まって進まない、行ってまた返ることをもっとも忌み嫌うことなのに、なんで殊更芭蕉が前々句の野に米を刈るの縁を引いて、業平のことを詠じだすことがあろう。

 もし『伊勢物語』を引いて解釈するなら、前句の米刈りと我庵との二句の方が物語のおもかげがあるというべきである。米刈るを長岡のあたりとみて、鶯に宿かすというのは、物語のその章のなかの歌「葎生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり」を踏まえて、鬼を鶯とし、戯言を実景として一句をなしたといえば、解釈も少しは有効に働いて、事々しく古い物語を引き合いにだした興もある。「髪はやす」の句まできて、米を刈るの句に基づき、髪を切られた業平の面影を言いだすのは愚かなことである。

 この句はもともと鶯に宿かすという句を受けたものである。安らかに前句をうけて、その言葉に則って人柄を思うと、もとは卑しくない人であったのになにかの理由があってこんな田舎に籠もっているものと見立てて、「髪はやす間を忍ふ身の程」と付けた。髪はやす間とは、前句の我庵とある庵の語の響きである。

 句の趣は業平の面影を伝えている。しかし、『伊勢物語』の業平が長岡にいたときのことではない。業平放縦でものにこだわらず、情事の過ちがあったことから兄弟らに髪を切られる伝説が昔からある。『古事談』第一に「業平朝臣□□□を盗み、(宮仕以前のこと)去ろうとするとき、兄弟達(昭宣公等)追いかけて奪い返し、、業平の髻を切る、髪が生えるまで、歌枕の地を見に行こうと関東に向かう」とある。もとどりを切られて、人と会うこともできないので、しばらく隠れている間の業平を前句の人になぞらえて、この句を付けた。髪はやす間という言葉は、「髪が生えるまで」とあるのにもとづいてその面影をみせたものである。

 ただ「冬の日」の古板には「思ふ身の程」とあって「忍ぶ」とはなっていないので、思の字のはじめの一画がないと忍の字のように見え、最後には諸本がみなその誤りをうけて忍ぶとしたと曲齋は論じている。惜しまれるのは私はまだ最初の板本を見ておらず、近刊本には忍ふとも思ふともなく「しのぶ」とあるだけなので、のちの再考を待つしかない。

 さて、思ふが真実なら、髪はやす間を身の程思ふと解釈すべきで、意味は自ずから明らかである。身の程思ふというべきなのを、思ふ身の程としたのは、句の調べなどからそうしたので、顚倒錯綜の法という。杜甫の詩の「紅稲碧梧」の一聯について、芭蕉と支考とがその法則を語り合ったということは有名であり、すべての詩歌俳句に顚倒錯綜が自在に使われているのは、調べを整えて奇抜さをだすためで、疑問に思うことはない。

 また忍ぶが本当なら、潜み忍ぶことだが、忍ぶでは身の程という語がやや浮いた感じがして、身の程といわないで、身とだけいえば足りる。髪はやす間を身の程おもうとあれば、身の程という語、いかにも響きがよくて、僧形を抜け、常の姿に返ろうとする者が身の程を思って、懺悔の念もあり、世俗のことも忘れられず、万感次々におき、それをただ十四字一句に言い取ったところになんともいえぬ面白さがある。ただ、思ふではなく忍ぶ身の程であるのか。同じこの集のなかに、「忍ぶ間の業とて雛を造り居る」という句があり、忍ぶという語の使い方が非常によく似ている。

2014年2月9日日曜日

投句4

 『鬣』第29号に一部掲載された。

ふんどしの六尺先のもの思い

あくびするも指切心中のやるせなさ

どん底でドンカクを飲む雨の夜

じゃがいもに小樽の朝のほのあかり

肛門の義眼にうつる瑠璃の梁

雪しんしん縉紳信条神真信

秋の空あまつくまなくはげ頭

真昼間に奈良茶に入れるだだちゃ豆

2014年2月8日土曜日

ブラッドリー『論理学』10

ブラッドリーの『論理学』は形而上学的論理学とでもいうもので、形式的、数学的、経験論的論理学とは一線を画している。

 §10.我々は論理的観念ということでなにを理解するべきか知ったので、以下の論述を先取りして、判断がそれをもってなにをするかについて簡単に独断的に述べてみよう。我々は、できる限り、心理学的形而上学的難点を避けなければならない。
 判断とは、(そのようなものとして認められた)観念的な内容を、判断という行為を越えたところにある実在に差し向ける行為である。これは実際よりもずっと厄介なことのように響く。

 観念的内容とは論理的観念で、定義された意味である。それはそのようなものとして認められたもので、それ自体は事実ではなく、さまよい歩く属性である。断定という行為において、我々はこの属性を現実の実在物に送りつけ、結びつける。そして、そのようにして打ち立てられた関係は、行為によってつくられたものでも、その内部や表面に貼りつけられたものでもなく、独立しそれを越えた実在である。

 例として、もう一度海竜をとるなら、我々はその観念はもつが、判断はもたない。それは存在するのか、ということから始めよう。「それが存在する」というのが事実上の真実なのか、単なる観念に過ぎないのか調べてみよう。このことから、「海竜は存在する」という判断に進むこととしよう。それを完遂するには、我々はこの上なにをするべきなのだろうか。答えはこうなる、海竜という賓辞によって現実の世界を性格づけ、その行為において、我々の行為がなくとも世界はそうした性格をもつことを認めることにある、と。判断の真理ということで我々が意味するのは、それが観念以上であり、事実であるか事実のうちにあるかである。もちろん、現実の賓辞として、観念が無制限に普遍的なのだと言おうとしているのではない。もし存在するなら、海竜はある限定された個物である。もし我々がすべての真実を知っているなら、正確にそれがいかに存在するかについて述べることができなければならない。夕方の薄闇のなかで、私がそれは四足動物だと言うなら、知覚にあらわれている現実を普遍的なもので性格づけるのだが、もちろん、現実の四足動物は四本の足と頭の他に多くの特徴を備えている。しかし、普遍的なものを主張しても、私は未知の特殊性を排除しようとしているわけではない。間違いによってある知識を無条件で絶対的だと主張したのでもない限り、部分的な無知が私の知識を誤ったものにする必然性はない。

 「三角形の内角の和は二直角に等しいか」、「疑わしい」、「肯定する」こうした例において我々は同じ観念内容を扱っている。示唆されている観念というのは、三角形の内角の和と二直角が等しいという関係である。そして、肯定や判断には、この観念が単なる観念ではなく、現実の性質なのだということが含まれている。この行為は、浮動する賓辞を世界の性質に結びつけ、同時に、それが既にそこにあったことを示している。続く個所で上述のことが明らかになることを願うが、そこで生じる形而上学的問題については議論せずに残しておかなければならない。

2014年2月7日金曜日

喜劇と幸田露伴――ノート5

 『鬣』第29号に掲載された。

 アレンカ・ジュパンチッチが言う偽りの喜劇とは、おかしみをすべて「人間の弱さ」に回収するものである。例えば、王様、貴族、裁判官、宗教家など象徴的な権威をもつ者たちが愚かしい姿をさらす。彼らは我々と同じように、いびきをかき、おならをし、足を滑らせて転び、欲望に負ける。喜劇にはよくあるシチュエーションである。偽りの喜劇は、このシチュエーションをどれだけ偉そうに振る舞い、地位や権威のある人物であっても、所詮は我々と同じ人間なのだ、と説明しようとする。それは、いかにも現実暴露的で、反権力的なラディカルな姿勢に見える。普遍的なもの、象徴的なものを具体性、人間すべてが従わねばならない物理的法則に引きずり下ろしているようだ。しかし、この具体性なるものは、普遍性対具体性という非常に抽象的な図式のなかでの具体性でしかない。王様など権威者の愚かさは普遍的な人間性に回収された上で笑われ、彼らの権威は無傷のままに残り、尊敬の対象であり続ける。つまり、いかに権威のある者でも我々と同じ人間に過ぎないという見方は、同じ人間であるのにどうして王様や貴族は象徴的な権威を身につけるにいたるかと
いう反対の方向性を隠蔽してしまう。

 では、真の喜劇とはなんであろうか。

我が儘な貴族についての真の喜劇は、実質的に次のような型に従うべきである。自分が真に、本来的に貴族だと信じている貴族が、まさしくその信念において普通の愚かな人間だということだ。別の言葉で言えば、貴族に関する真の喜劇は、この概念の普遍的な側面そのものが人間性、肉体、主体を生みだすという具合に処理されるべきである。ここでは、身体は魂の欠かすことのできない基盤ではない。それぞれの内にある確固たる信念こそが魂を可能な限り肉体的なものとする地点なのだ。人間的弱さという水たまりのなかに幾度となく落ちる貴族の具体的な身体は、単にぬかるみに横たわる経験的な身体ではなく、より以上に、貴族である自分、自らの「貴族性」への信頼である。この「貴族性」が普遍そのものの精髄として喜劇によって生みだされる真の喜劇の対象である。(『仲間はいり』)

 つまり、道徳的、倫理的規範とも成るべき存在が喜劇のなかで笑われるとき、そこで笑われているのは我々と同じ次元にまで引きずり下ろされた「人間」ではなく、人間が体現する道徳的、倫理的規範である。人間の弱さは物理法則に従わねばならぬことにではなく、道徳的倫理的規範にあらわれる。喜劇の観客は、理想となるべき存在(王、貴族などの権威者)が権威をもつことにおいて愚かなのを見て、理想との同一化と脱同一化のあいだをさまようことになる。

 ジュパンチッチのこうした議論は、チャップリンの『独裁者』やマルクス兄弟の『我輩はカモである』などを思い浮かべれば容易に理解されるだろう。独裁者は一人の人間として滑稽なのではない。一介の街の床屋が入れ替わりうるような、グルーチョのナンセンスな言葉が戦争へと通じるような独裁者という権威、役割、地位そのものが滑稽なものとして笑われているのだ。

 チャップリン、キートン、ロイド、ロスコー・アーバックルなどのサイレント映画を見れば、警官は警官である、金持ちは金持ちである、店の主人は店の主人である信念のもとに肉体化されている。その一方、人は投げられて宙を行き交い、殴られてはバネ仕掛けのように起き上がり、ハンマーに打ち据えられ銃で撃たれても動き続ける非人間的な物理的耐性を備えている。つまり、人間は所詮人間でしかない、というのが喜劇が教えてくれる知恵だという見解とは反対に、喜劇の人物は常に人間性から逸脱しようとするのだ。こうした、人間性と非人間性、普遍と個、抽象と具体が衝突して、しかもその衝突がどちらか一方に解消されないところに真の喜劇がある。

 真の喜劇がはらむこうした内在的矛盾を、ジュパンチッチはメビウスの輪に例えている。巨大なメビウスの輪に立っていると想定しよう。我々はいま立っている場所とは別次元の裏面があると思っており、実際にどの場所に立とうが裏面は存在する。人間性の裏に非人間性が、普遍の裏に個が、抽象の裏に具体があるかのように。だが、ずっと歩いていけば、最初にいた場所のまさしく裏
面にたどり着くはずだ。同じように、人間性がいつの間にか非人間性に、普遍が個に、抽象が具体へ、そしてその逆の方向へと運動を続けるのが喜劇の魅力である。


 使われている言葉、対象となる作品こそまったく違うが、ジュパンチッチの喜劇論は幸田露伴の笑いについての説に近いところがある。

 明治三十年代の露伴は、明治二十年代のように矢継ぎ早に小説を発表することがなくなり、むしろ小説から徐々に遠ざかりつつあった。露伴最後の長編小説『天うつ波』は、日露戦争という国家に一大事のなか、「比較的に脂粉の気甚だ多き文字」を書き連ねることへの忸怩たる思い、兄の郡司成忠がロシア軍の捕虜になる事件、及びそれに関連した様々な風聞(郡司の生活の拠点であった占守島の人々が虐殺されたという噂もあり、郡司自身の生死も当初は不明だった)などいくつかの理由により中断し、結局その後完成することがなかった。『一国の首都』のような都市論や随筆など小説以外の文章が多くなり、尾崎紅葉とともに紅露と称された小説家の露伴が終わり、明治四十年代以降から始まる『頼朝』『平将門』『蒲生氏郷』といった史伝、『努力論』『修省論』などといった修養書を書くにいたる露伴が準備されていた時期だと言える。

 この時期を特徴づける要素の一つは、笑いへの関心である。『春の山』(明治三十三年)、『笑話』(明治三十八年)などで小咄を収集する一方、明治三十六年には『狂言全集』を校訂している。もともと露伴の短編には、「新学士」のように流麗な語り口で軽く落とすコント風のものから、「毒朱唇」のような哲学的諷刺、ほぼ落語の台本とも言える「貧乏」、江戸戯作の伝統を受けた「艶魔伝」にいたるまで、笑いの要素に欠けるわけではない。

 しかし、『吾輩は猫である』の夏目漱石の笑いを機知の産物とし、齋藤緑雨のパロディや文体模写を相手の肺腑を抉るアイロニーだとすると、露伴の笑いはだいぶん様相が異なり、ユーモアが主調になっていると言えようか。フロイトによれば、機知や滑稽とは異なる「なにかしら堂々としたところ、なにかしら魂を昂揚させるようなところ」がユーモアにはある。それは「明らかに自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹ということから発している。この場合、自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)と言っている。実際、露伴の文章は、漱石や緑雨のように、思いもかけなかったもの同士を結びつけるパンチ・ラインで反射的痙攣的な直接的笑いを引き起こしはしない。むしろ高揚した堂々とした気分にさせるものだ。それは漱石にも緑雨にも感じられないことである。

 狂言全集を校訂し、笑い話を熱心に集めていたころの露伴の笑いについての考えは、明治三十六年に東京帝国大学でなされた講演を原稿にした「滑稽談」という文章にあらわされている。そこで露伴は『竹取物語』にまでさかのぼり、日本の滑稽の歴史を一望している。『竹取物語』に続くものとして、狂言、『鴉鷺合戦物語』、江戸時代に入り『醒酔笑』、西鶴の『名残の友』、『鹿の子餅』、『軽口御前男』といった笑い話集があり、黄表紙、落語、川柳、狂歌へと続く。だが、このように、日本の笑いの歴史をたどった露伴がたどり着いた結論は、「併し我が邦の滑稽の文学はまだどうも立派なものを有つて居らぬのです。日本の滑稽作者に誰を推したら好いのですか、誰も無いではありませんか」というしごく厳しいものとなる。なぜなら、駄洒落や地口や謎をもっぱらとしており、江戸文芸に明らかなように、表面的な戯れに終始しているからである。

 それでは、「立派なる滑稽の文学」とはなんだろうか。ここで、露伴特有の、機知ともアイロニーとも異なる笑いの性格が明らかになる。

 立派な涙は何であるかと云ふと、詰り感情の深い渓の美しい水です。立派な怒と云ふのは何であるかといふと、道義の念の燃え上る壮(さかん)な熱ではありませんか。さて立派な笑と云ふのはさう云ふ熱でも水でもない、さう云ふものの好い調和を得たところに咲く優麗美妙な一つの或美しい華ではありますまいか。即ち解脱の光景ではありますまいか。今日までの日本の人の間には火の働きも水の働きも弱かつたので、為に解脱の光景も立派でなかつたのではありますまいか。今後の人は中々昔の人とは違ふ、泣ッ面も怒り面も大分激しくなつてまゐらねばなりませぬ。であれば随つて笑も今までとは違つて大きな光景を現はし来らなければならぬです。それ等の事から考へますると、明治になつて既に三十何年になりますが、今までは滑稽の文学が出てまゐらないのも寧ろ当然のことであり、又幸福と云つても宜い位であるとおもひます。何故ならば若し明治以来の火や水が少い僅かな火や水であつたならば、もう疾(と)うに相調和して仕舞つて、美しい光景たる滑稽のものが出来て現はれて居る筈である。けれども未だに何等の滑稽の作も現はれて居らぬ所を見ると、是から先になつて出て来るのではないかも思ひまする。明治はまだ若いのです。まだ泣いて居るのです、怒つて居るのです。笑の文学が出るほど熟して居ないのです、是から先に段々出て来るのです。

 「好い調和」といった一見静的な言葉にだまされてはいけない。この調和は、人間のあるがままの姿に自ずとあらわれるようなものではない。「感情の深い渓」と「道義の念の燃え上る壮んな熱」が、つまりは感情という身体的で個的なものと道義の念という普遍的で公的なものとが衝突する場なのである。悲しみや怒りが大きなものであればあるほど、その衝突によって生まれる笑いはより高らかに響き渡ることとなろう。

 「解脱」という言葉は通俗的な宗教解釈によってすっかり手垢にまみれたものになってしまっているが、そもそも、人間性が非人間性に、個が普遍に、抽象が具体に通じるようなメビウスの輪に立つことを意味しているのではないだろうか。そしてそうした反転を、狂気に陥らずに、メビウスの輪のようにある意味簡単で安定した空間として捉えること、「自我の不可侵性の貫徹」をあくまで成し遂げているところに露伴の笑いの特徴がある。

2014年2月4日火曜日

解消できない困惑について――スティーブン・スピルバーグ『A.I.』



 『鬣』第29号に掲載された。

スピルバーグの映画は二つに分けられる。

一方に一言でその内容が説明できる映画がある。『ジョーズ』は鮫を狩る映画である。『追突』は車に追いかけられる、『未知との遭遇』は異星人と会う、『シンドラーのリスト』はナチスからユダヤ人を助ける、『プライベート・ライアン』は戦地から同国人を助け出す、『マイノリティー・リポート』は殺人犯と間違えられる話だ。

他方にあるのが数こそ少ないが一言ではその内容を言いあらわせない映画である。『太陽の帝国』や『A.I.』がそれにあたる。両者の中間にあるのが『宇宙戦争』ということになろうか。

これらの作品も一言で言おうと思えば言える。『太陽の帝国』は第二次大戦中、日本の強制収容所に捕えられたイギリスの少年の話である。しかし、一言で説明できる映画が、まさにその一言に言いあらわされる事柄に映画の面白さがかかっているのとは異なり、『太陽の帝国』は少年が強制収容所に収容されることそのもの(例えば、捕まるかもしれないスリル)に映画の焦点があるわけではない。病的で狂躁的ともいえる少年の感情のうねりが観客を不安定な足場に留め続けることにこの映画の素晴らしさがある。

同様に、『A.I.』はSF版ピノキオと言ってしまえば簡単だ。不治の病にかかった息子をもつ夫婦が、外見が人間と変わらず、しかも愛情までプログラムされたロボットを手に入れる。ところが、新たな治療法の発見によって完治した息子が戻ってくると、もてあましたロボットを捨ててしまう。愛情を失うことのないロボットは、人間にさえなれば母親の愛情を取り戻せるのだと考えて、ピノキオを人間に変えた妖精を探す旅にでて、水没した遊園地に立つ妖精像にたどり着く。その前で人間になることを望み続けるうちに時が過ぎ、訪れた氷河期のなかで人間は絶滅する。そこに異星人が訪れ、氷のなかで動きを停止していたロボットの少年を再起動し、彼の望みをかなえようとする。だが、異星人の力をもってしても、残された遺伝子の情報から人間を復元するのは一日が限度だという。ロボットの少年は、邪魔をする息子も夫もいない、母親と二人だけのこの上なく幸福な一日を過ごすのである。

このラストシーンは非常に美しいが、見ている者の困惑もひときわ大きなものとなる。そもそものはじめから、この人間の姿をしたロボット(『シックス・センス』のヘイリー・ジョエル・オズメントが演じている)に感情移入していいものなのかどうか、見ている我々にはよくわからないのだ。所謂母恋ものが感動を呼ぶのは、様々な状況の変化によって変わってもおかしくない人間の思いが、にもかかわらず貫かれることにある。しかし、この映画の場合、プログラムが作動しているに過ぎない。母親と息子が過ごす親密な時間は、プログラムされたロボットと一日しかもたない幻影との、いってみればどこにも人間的現実のない時間であって、その美しさに何を感じていいのかわからない我々の困惑こそがこの映画を他に得難いものにしている。

2014年2月3日月曜日

幸田露伴『七部集評釈』8

我庵は鶯に宿かすあたりにて     野水

 一句の意味は明らかで、解釈には及ばず、その人の風流で奥ゆかしい人であることを感じるべきである。古詩に「老僧半間雲半間」というものがある。それは山住まいの人が雲と家をともにするということで、この句は鶯に家を貸す、わびて面白いのは同じである。前句とのかかりは、野に米を刈る人をうち見ている人をつけたもので、鶯が空を飛ぶのを稲刈る人が仰ぎ見たというのではない。日のちりちりの夕方、鶯が飛んでいくというのは、農村の実景である。鶯が夕暮れの空を飛ぶのは普通のことで、その人がらは自ずから明らかである。もし「我家は鶯の寝に行くあたりにて」とあれば、山に住む神主とも感じられ、「我家は鶯の寝に来るあたりにて」であれば、湖近くの漁小屋とも感じられる。先人がこの句について、詞使いを説くのは非常にいいことである。景色のいい水辺で、和尚のような身なりをした楽隠居が、少しは物に凝った風雅な家に住んで、歌俳諧などに心を寄せる人だと思える。

2014年2月2日日曜日

投句3

 『鬣』第28号に一部掲載された。

ぬばたまの夜の舞踊の型をとり

紅羅坊名丸の語る狩りのコツ

桂頭に歩を打つ如き暑さかな

草原を筋かいにくる夏の夜

情念引力が風鈴屋敷の隠し部屋

みどりがめ浴衣の色の染め違え

与太郎にまわり道聞く夏の夜

夕顔や縄目のゆるみ裾の泥

2014年2月1日土曜日

ブラッドリー『論理学』9

 ウィリアム・ジェイムズはブラッドリーと正反対の哲学感の持ち主だが、『論理学』を読んで次のように書いている。「私は限りない興奮と刺激を受けながらブラッドリーの『論理学』を読んでいます・・・・・・イギリス哲学においてエポック・メイキングなものであることは確かです。経験論者や汎合理主義者たちも考慮すべきです。それはあらゆる伝統的な境界線を粉々にしています。」(書簡、)ルドルフ・メッツ『イギリス哲学の百年』からの引用。)

 §9.こうした事実の逆説的な影であり幽霊であるのが、我々が観念なしに判断なしというときの観念である。先に進む前に、叙述において我々は心的な事実は用いず、意味だけを使うことを簡単に示してみよう。しかしながら、この真実の完全な証明には本書全体を見てもらわなければならない。

 (i)第一に、ある判断の賓辞として使うとき、観念は私の心的状態でないことは明らかである。「クジラは哺乳類である」というのは、私の哺乳類というイメージによって現実のクジラがあらわされているのではない。というのも、そのイメージは私に属し、私の歴史における出来事だからである。私がヨブでもない限り、実際のクジラに入ることなどあり得ない。その不条理は歴然であるから、この点にとどまる必要はあるまい。もし私が、海竜の観念をもっているか、と尋ねられたら、私ははいと答える。次に、それを信じているか、海竜は存在するかと尋ねられたら、私はその違いを理解する。問題は私の心にある事実ではないのである。それが私の頭のなか以外に存在するのかどうか誰も知ろうとは思わない。ましてやそれが実際に頭のなかに存在するかなどは。それがあるというなら、疑うことはできない。つまり、判断において観念が私の心的状態だというのはでたらめだと言えよう。

 (ii)第二に、しかし、観念というのは、私の個人的な心的出来事ではないにしても、そのイメージに含まれる全内容だというのは可能ではないだろうか。我々は心的な事実、哺乳類という観念をもっている。最初に認めねばならないのは、私の世界に存在し住みついているものとしてそれを言いあらわすことはできないということである。別の可能性があるだろうか。観念は恐らくその存在とは切り離して、私の心的現象との関係から抽象されて用いられてはいるが、なにも差し引かれることなくその内容を保持しているかもしれない。私の頭のなかの「哺乳類」は単なる哺乳類ではなく、一般的な哺乳類以上の特殊性と異なった性格をまとっている。そしてそれらは、イメージとして多様なあらわれ方をするかもしれない。*このクジラのイメージが判断に用いられているのか、これが意味なのかと我々は尋ねることができる。しかし、答えは否定的なものに違いない。
 我々は赤の、悪臭の、馬の、死の観念をもっている。我々は多かれ少なかれそれらをはっきりと思い起こし、ある種の赤、不快さ、馬のイメージ、死のなんらかのあらわれが我々の前に生じる。そして、薔薇は赤か、石炭ガスは悪臭か、あの白い動物は馬か、彼が死んだというのは本当か、などと尋ねられると、そうだ、と答え、我々の観念はすべて真実であり、現実に帰せられるとする。しかし、赤の観念はロブスターから、匂いはひまし油から、馬のイメージは黒馬から、死は萎れた花からきたのかもしれない。それらの観念は真実ではないし、我々はそれを使っているのでもない。我々が実際に使っているのは、我々の精神が一般的意味として固定した内容の一部分である。

 賓辞は(様々な意味で様々な作家たちが語っているように)明確であることが望ましいが、実際にはそれが常に満足させられることはあり得ない。私はベリーには毒があると、どうしてかは知らないし、「毒がある」ということに私がこれが毒だと思ったのとは異なった特徴があるにもかかわらず、そう判断することはありうる。その悪行など知らないし、当てはまるようなイメージなどないにもかかわらず、私はABが悪人だと信じることがあり得る。私には存在するとはとても言えないような革や布だが、そうした革や布で本が綴じられていると私が確信するようなことがあるかもしれない。詳細は知らないか、あるいは忘れてしまっている。しかし、その一般的意味については絶対的に確信しており、そのように述べることがある。

 非常に重要なこの明らかな相違について多くの場を割けないことを許してもらわなければならない。我々の判断の理論そのものがその助けとなり例証ともなってくれるだろう。しかし、なおいくつか細かな例をつけ加えよう。鉄が黄色であるというのを否定するとき、私は、それは金のような黄色ではないと言うのだろうか、あるいはトパーズのような黄色ではないと、それとも、どんな類の黄色でもないというのだろうか。「それは男性か女性か子供だ」と私が言うとき、「別の可能性もある。インデアンか少女かもしれない」と言われるのは道理にあったことだろうか。彼は病気なのか、と問うとき期待しているのは、「彼はコレラなんだ」という答えではないか。「彼が去ってしまったら私は駄目になってしまう」と言っているのに、「安心したまえ、馬車に乗って彼は君のもとを去るのだから」と言ってすむだろうか。

 判断における観念は普遍的な意味である。それは移ろいゆく心像ではないし、ましてや心的出来事の全体でもあり得ない。