2016年3月24日木曜日

男と女とチェーンソー

 キャロル・J・クローバーの本に、『男と女とチェーンソー』というスプラッターやスラッシャー映画を論じた本がある。1992年の出版で、英米の女性批評家に支配的なフェミニズム的な映画批評から出発している人なのだろうが、往々その種の批評にありがちな硬直した姿勢をとることはない人で、スラッシャー映画などと聞くと男根主義的だと自動的に反応してしまうのと無縁なところが嬉しい。

 だいぶ前に読んでいたが、積み重ねた本が崩れてたまたま手にとってぱらぱらとめくっていると印をつけている部分があって、やはり面白いので、紹介してみる。

 議論の土台になっているのは翻訳がでているトマス・ラカーの『セックスの発明――性差の観念史と解剖学のアポリア』である。

 ラカーによると、我々が一般的に理解している性差、つまり「二つの性」、「二つの肉体」があり、男性と女性が対立し、根本的に異なったものであるという考え(ジェンダーではなく生物学的な性のことである)は、比較的最近、ほぼ近代に入ってからのものだという。

 医学、言語、絵画、物語などの様々な事例から判断すると、前近代においては性は単一の生殖/再生産のシステムが外部にあらわれるか、内部にあらわれるかの違いであり、形と働きにおいて本質的に同じである。

 男性がペニスを、女性がヴァギナをもっているのではなく、単一の性のあらわれ方が違っているだけだ。つまり、ペニスとヴァギナは同一の器官であり、一方が外に引っ張られ、他方が内側にたぐり込まれているに過ぎない。

 もちろん、そのあらわれ方には優劣があり、男性が単一の性の本来のあるべき姿とされ、女性は裏返されたペニスをもつ不完全なものとされたが、性差という概念はなく、程度の異なる単一の性があったのである。

 ところで、狼男、吸血鬼、アンデッド、憑きものなどの物語はもともとそうした単一の性という考えが支配的な時代にその源をもっている。つまり、ホラーというのは単一の性というテーマ群の貯蔵庫なのだ。

 そうしたクラシックなホラーから発展変化したモダン・ホラーもまたそうであって、一見、男性的な視線によって女性が陵辱されるそれこそ男根主義的な原理に従っているかに思われるが、また実際そうした単純な原理によって見世物化しているホラー映画も多いのだが、大量に生産され消費されてきたスプラッターやスラッシャー映画のなかで浮かび上がってくるのは、男性と女性という性差が流動化し、単一の性が支配している世界なのだ。

 そうした映画では、男性も女性も見境なく殺されるし、殺人鬼が性的な欲望をもって犠牲者を選ぶこともない。そもそも殺人鬼は『サイコ』から『十三日の金曜日』まで、両性具有的な存在である。ジャンルの初期において、最後に生き残るのは女性であるのが定番だったが、その女性は恋人とセックスをすることもなく、いわばもっとも男性的な女性、もっといえばモンスターともっとも近しいものだったのである。




2016年3月20日日曜日

一月二十一日

一月二十一日

雨。

雨支度をして浜松を出る。舞坂から舟で浜名湖を渡る。荒井で鰻を食べるが、うまくない。汐見坂を上り、白須賀、二川を過ぎて吉田で宿をとる。

スティーヴン・ポリアコフはFriends and Crocodilesで近い過去を扱っている。80年代、90年代がイギリスもまたバブル期だったことは変わらないようだ。80年代のはじめには、まだ60年代、70年代を引きずったようなヒッピー的な成功者もいた。主人公の男はアイデアはあふれるほどあって、未来を予見する能力もあったが、予見できるような、現在の延長線上にあるような未来にはさして関心を持てず、パーティーばかりの日々を送っていた。
そんな男が女性秘書を雇う。彼女は、賢く、男のアイデアに未来があることを感じたが、それを実行に移すつもりのない彼と別れてしまう。そして彼のアイデアをもとに、大企業の重要なポストにつくようになるが、バブルの崩壊とともにどん底に突き落とされる。一方男性の方は、財産はすべて失い、社会的に見ると零落しているのだが、ある種のコミューンをつくって、特に落胆する様子もなく暮らしている。幾度もけんか別れした二人が、といっても女性の方が我慢ができなくなって縁を切ってしまうのだが。そんな二人がパートナーとして互いを確認するまでのはなしで、『ナターシャの歌に』(wowowで放送されたらしい)はより現代に近く、21世紀になろうとするころで、父と娘の話に変わっているが、ある和解と、それが社会的ステイタスと一致しないことは共通している。

たたShooting the Pastの無数の家族写真のように、本来価値がないものが魔術的な作用をし始める対象がないだけに弱い。

2016年3月14日月曜日

一月十七日

一月十七日

晴れ。

林氏の話によると、舘山寺が本州でも随一の景勝地だという。また、天龍川の東岸を小龍、西岸を大龍と呼んでいるが、それは間違いで、昔は二つの流れがあり、いま残っているのが大天龍だという。小天龍の方はもう別の名に変わってしまった。また、本州には天狗が多いという。浜松、天龍川、今浦で時々天狗を見かけることがあるという。
天龍川を渡る。建武のとき、新田中将が賊と戦い、敗れてここに到り、橋を作って渡ったところという。浜松で泊まる。


マリオ・バーヴァの『知りすぎた少女』(1963年)をみる。ホラーではなく、ダリオ・アルジェントの『サスペリア2』に直結するようなミステリー映画(ちなみに、『サスペリア2』は『サスペリア』以前に撮られた映画であり、内容的に特に関連はなく、ホラーでもない)。もう少し残虐になるとスラッシャー映画になる手前でとどまっているのが、そういえばいまとなってはあまり見ないタイプである。アメリカからローマにきた女が殺人を目撃する。しかし、痕跡はなくなっており誰からも信用されない。女はローマに着く飛行機のなかで、麻薬を密輸した男に、麻薬がはいっていると思われるたばこを勧められている。従って映画の全体が幻覚である可能性も残している。

2016年3月13日日曜日

一月十六日

一月十六日

晴れ。

朝早く金谷を発ち、日坂嶺に登る。月が木立に残り、人影が悄然とした様である。曲折のある山道で、道が折れるたびに休息する。菊川に着くとようやく明るくなる。承久の乱で中納言宗行が北条氏に殺されたところである。小夜中山で夜泣石を見る。石面に南無阿弥の字が彫られている。空海が書いたというが信じがたい。掛川、袋井、細谷村を過ぎ、右の山に高天神城の跡がある。沙川橋を渡る。水が涸れて石があらわである。中泉で泊まる。


スティーヴン・ポリアコフの『ロスト・プリンス』(2003年)を見る。BBCのドラマで、2回、計3時間。1905年に生まれ、1919年に死んだイギリスのジョン王子のドラマ。自閉症の気があり、てんかんの発作も起こしたので、公の場に出ることはほとんどなかった。ロシアで革命が起き、騒然としたときであったこともあるが、すぐ上の兄との仲はよかったが、親の愛情は少なく、乳母とともにほとんどの時間を過ごした。2000年頃から悲劇的な存在として照明が当たるようになったらしく、このドラマもそうしたトレンドに乗ったものか、或いはこのドラマがそうしたトレンドを作ったのかははっきりしない。決して悪くはないが、ポリアコフの持ち味が生かされているとは感じられなかった。

2016年3月6日日曜日

一月十五日

一月十五日

晴れ。

江尻を出るとすぐに稚児橋がある。馬を引いてくるものがある。鞍を紅と緑の絹で飾っている。三保の神社に行くのだという。印内、姥原をへて右に梶原山がある。梶原景時が討たれたところである。草薙村、吉田、栗原、長沼、狐崎を経て府中につく。浅間神社を横目に見ながら立ち寄りはしない。安倍川を渡る。手越村、鞠子、元宿、矢沢と過ぎ、宇都谷を越える。左右が山で道が険しい。岡部で食事をとる。馬場信房が築いた田中城を望みながら、細島、道悦を過ぎる。大井川を渡り、金谷で泊まる。

マリオ・バーヴァの『血塗られた墓標』(1960年)、『ブラック・サバス』(1963年)をみる。
『血塗られた墓標』はゴーゴリの原作。モノクロ。100年程前、魔女狩りで火あぶりにされたものがよみがえり、子孫に復讐を果たす。ぼんやり見ていたせいか、魔女狩りにあったのが冤罪なのか、根拠があるものなのかいまひとつはっきりしない。ある種の吸血鬼となってよみがえるのだが、恨みが凝ってそんな存在になったとも、もともとそうした存在であったともどちらともとれる。
『ブラック・サバス』はオムニバスである。1.独り暮らしの女性のところに、どこかから見られているかのように、こちらの行動を指摘するいたずら電話がかかってくる。昔つきあっていたが、いまでは刑務所に入っている男が脱走したらしい。怖くなった女はその男性を巡って絶交したらしい女友達のところに電話をかけるが・・・2.ロシアの田舎を通りかかった男が、村に伝わる吸血鬼との戦いに巻き込まれる。3.降霊術を盛んに行っていた老婆が死んだ、と知らされた女が、老婆がはめていた指輪を盗んでしまう。すると死んだはずの老婆の姿が至る所にあらわれ・・・

『ブラック・サバス』はカラーで、2本目が古典的ホラー、1と3がモダン・ホラーといっていいものになっている。伝説的民話的ではなく、因果関係のつじつまを合わせることにもさして気にしていない。

2016年3月3日木曜日

一月十四日

一月十四日。

曇り。

早々に原を立つ。去年、ロシア人、プチャーチンというものが台風に流されてここまできたという。しばらく行くと、右に浮島が原がある。山が遠望されることからそう名づけられたのだろうが、雲に覆われている。浮島は佐々木四郎と梶原源太が馬を争ったところである。さらに行くと吉原に至り、平家が水鳥に驚いた富士沼はこの近くだという。富士川を渡る。市場では富士の形をした石を売っている。むろん自然のものではない。中郷、新坂を過ぎると、山が海に転じる。松が馬の鬣のように並んでいる。蒲原、由井を過ぎると田子の浦である。倉沢で昼食に鮑を食べる。雲が晴れ始め、富士がようやく半分程姿をあらわす。峠は崖つたいで、下がすぐ海である。峠を越えると沖津である。右に清見寺がある。鱸島、相染川をへて江尻で宿す。

スティーヴン・ポリアコフのShooting the Pastを見る。BBCのドラマで、3話で約3時間。Perfect Strangerでも写真が重要な要素になっていたが、この作品では主要なテーマになっている。イギリスの田舎で膨大な写真のコレクションをもつ女性(リンゼイ・ダンカンが美しい)が経済的に破綻する。もっとも彼女自身はそれほど切迫しているとは知らず、共同で管理している男性が対応していたようだ。彼はエキセントリックだが、膨大なコレクションを唯一完全に把握している人間でもある。
ビジネス・スクールをつくるというアメリカ人が、押しかけてきて、立ち退きを迫る。マン・レイなどのいわゆる「芸術的な」写真はまとめて買い取るが、それ以外の誰が撮ったのかもわからないようなスナップ写真などは、ばらばらに売り払って処分するという。コレクションに携わっている者たちは、それが散逸することに耐えられない。話し合いの上、一週間の猶予が与えられる。ちょうどクリスマス・シーズンである。彼らは何百万枚もの写真を引き受けてくれるところを見つけられるだろうか。
ロラン・バルトがいっているように、写真には人を突き刺すところがあることを非常に説得力を持って描いている。またしても非常に上質なドラマで、アメリカのテレビ・ドラマはせき立てられるようだが、イギリスのドラマはゆったりとした呼吸を取り戻してくれる。