2017年10月31日火曜日

オルダス・ハックリレー「((エッセイについて)」

1920年に書かれた。

 どうした一連の文学的ノートでもっと大きな問題を扱わずに、文学的ノートに関する文学的ノートのようなもので始めたのだろうか。この問題には多くの楽しい考察や心理学的なものが含まれている。歴史もあり、奇妙でおかしなこともある。一言で言えば、文学ノートとして知られる文学の特殊な形には最適な主題である。

 行動的な人間は、金儲けや戦争をしたり、他人に害を及ぼしたりするが、哲学者は純粋な抽象に携わり、我々文学者の頭を占めているのは、些細な見当違いのものとなろう。金をもたらすわけでもなく、永遠なる真理の新しい要素をあらわにするわけでもない。それでは文学の無駄話になんの良いところがあるのだろうか。金を生みだすものと心理を探るものとが予期せぬ共同して、我々の方を向き脅迫めいた態度でなんの良いところがあるんだと問いかけてきたらどうだろうか。

 実際、何があろう。適切な道徳的、合理的正当化を与えるのが困難な仕事はほかにも数多くある。しかし、文学的ゴシップは少なくとも正当化があって、高尚なものではないにしろ、心を占め、楽しませることで満足する。心を占めること、忙しいという心地よい感覚は――それは常に我々が求めているのものであって、それというのも倦怠がつきまとって離れない恐怖だからだ。少なくとも、我々は退屈するという不安を免れねばならず、余暇を満たすものをなにかで埋めなければならない。しかし同時に、我々には自らに飽き飽きする意図はない。秘かで無気力な自己保存は、合理的で些細な拘束のなかに熱意を閉じ込めてしまうが、必然的に精神的な冒険へも向かう。かくして、我々は余暇に高度な数学や哲学の本を読みふけるに違いない。宇宙の問題を解決しようとすることで頭はいっぱいになる。しかし、ああ!抽象的に考えるようとすることの苦悶、長く連続して精神を集中しておくことの苦痛よ!怠惰を戒めていたものが、ほどほどに緩和するように促される。そして、最終的に、我々は切手を収集したり、愛書家になったり、古いものを探したり、文学に好奇心を抱くようになる。ここで我々は退屈に対する解毒剤を見いだし、疲れもなしに忙しさだけを感じる。

 好奇心をそそる文学的情報に埋まることほど楽しく、興奮することがあるだろうか。余暇と、おいしく味わう好みと、そこそこに働く記憶が必要とされるすべてである。思考や集中はまったく必要ない。そしてさらなる満足がある。我々の読書は単なる楽しみではなく、教育的なものでもある。なにかを学んでいるのだと都合よく思い込み、激しい仕事をして研究にのめり込んでいるつもりでいる。『文学の楽しみ』の『憂鬱の解剖』についてやサー・E・T・クックの『文学的気晴らし』などは確かにそうである。仕事と学ぶこと・・・ロード・パルマーソンの古典からの唯一の引用を、女性と仮定されるアキレスという名の者が、もっとも平坦な英語で、数多くの楽しい、不必要な事実を書いたことを知っている。

 いつの時代にも、切手収集の精神的等価物は文化の主要な部分としてあった。バートンのすばらしい天才がボルドー図書館を不滅の本に入れかえていたとき、すばらしい叙事詩を書けたものはいなかったが、世界が賛辞を送った奇妙で曖昧模糊とした文学的ノートを書いた学者はいた。サルマシウスがもっとも偉大な天才という評判を受けていたとき、彼はオロシウスの注釈を書いていたが、それは書くと言うことが発明されて以来のあらゆる作家たちの馬鹿げた情報からできたものだった。離婚についての二、三の小冊子しか書かず、無難な黄金期ラテン語の引用を少々行なっただけのミルトンについては僅かなノートしか残されておらず、生意気な学生として捉えられている。文学に心を転じたものには幸福な時代だった。過去の本の骨董品を好んで集めるだけで、科学と哲学の立派な評判を得ることができた。それらの主題が考慮に値しない惨めなものになると、文学者は素直に文学だけを扱いそれ以外のものに関わらなくなった。他の人間に困難で実りの少ない抽象的に考えることを任せるようになった。我々の仕事と喜びは、ポンス従姉妹のように、豊富で小さな心の博物館をブラブラし、傑作を面白半分にあるいは敬意を込めて注釈しながら、古い逸話を磨きあげ、無数の小事実を棚に収めている。もし我々が蒐集家の役割を勤勉に辛抱強く行なうなら、最後には学者という評価を得ることになろう。喜ばしく、尊敬に値する評判ではなかろうか!同じ評価に達するためには、科学者なら我々が決してしなくてすむような汗と苦悶が必要となるだろう。

 文学的好奇心の真の味わい手となるためには、あらゆる人間的事象の歴史にひそむ奇妙なことどもの穏やかな香りを嗅ぎとることのできる鼻と味覚がなければならない。さらに、事実そのものに対する敬意がなければならない。「ここでネルソンは倒れた」「エリザベス女王この寝台で寝ていた」こうした記述に冷淡であり、理論を支持するため、あるいは拒絶する限りにおいて事実に興味をもつつむじ曲がりの人間はよい文学者になることは決してないだろう。馬鹿げた、些細な、無用な事実であればあるほど、心を配り大事にするべきなのだ。そうしたもののために、もっともよく選択されるのが文学ノートである。

 事実そのもの、具体的で確固とした小さな事実はいかなる可能性を考えても理論的な目的には役立つことはない――ペンはどのようにしてその魅力を描き説明するか?次のような文章を読んだときの文学的心に窺われる風変わりな心情を誰が分析できようか?

 「1676年か5年ごろ、ニューゲート通りを歩いていると(語り手は楽しい思い出を語るジョン・オーブリーである)「ゴールデン・ブラスの露店の、細工師の店でヴェネチア・ダーヴィの半像があるのを見つけた。私は完璧にそれをおぼえているが、それは火災(ヴェネチアの「豪華で荘厳な建造物」を破壊した大火災で、半身像はその燃え残りだった)から引きだされたものだが、私以外には気づくものもなく、それ以後通りで見かけることもなくなった。それは溶かされてしまった。そうした好奇心は失われ、こんなことを書く暇な人間もいなくなってしまうだろう!」

2017年10月30日月曜日

オルダス・ハックスレー「九十年代の幽霊(アーネスト・ダウソンの詩と散文。アーサー・シモンズの序文付き)」



 1919年10月に発表された。「九十年」とは1890年代のこと。

 かつては、おそらくはいまも、ある種のお茶には「四十年前のかぐわしいブレンドが思い起されます」と宣伝されていたものだ。「世界文学ライブラリー」のこの小巻にも同じようにかぐわしい、より最近の調合が思い起される――三十年が過ぎ去った文学的な酒や麻薬である(九十年代をお茶の生産と較べても侮辱にはならないだろうが)。我々は「このうえなく柔軟な皮の」入口を通り過ぎるように感じ――出版社のやり方は時代特有の異国風の色合いがあるようだが――ダウソンの『成功者の日記』の主人公とともが「いつでも秋である」都市ブリュージュを再訪し、「サン・ソウヴェールを散策し、薄暗くほこりっぽい通りをさまよい、やがて高い祭壇に腰を掛けるとむっとするような香の香りで空気は重くなり、回顧に耽る」ように感じる。すべてのページに我々はかつては強かった香の幽霊を呼吸し、回顧に耽ることは次のような詩を読むときに涙を催させる。

        君の完璧な口にある赤い石榴よ!
        私の唇の果実はそれを味わい死ぬことだろう
        香る南風が苦悶を抑えつける
        ここ、君の庭においては
       
        ひとつの長い接吻で君の活き活きした唇は死を収穫し
        君の眼は私の死を見取り休らう
        私にとって生がこれほど甘美なことがあろうか
        君の胸ですみやかに死ぬことをおいて?
       
        それがかなわぬなら、愛のために、親愛なるものよ!
        沈黙を守り、我々が横たわっていると夢みよう
        赤い口と口がからみ合い、つねに
        南風の調べが聞えている。

気の抜けた香と回顧、我々はそれをシモンズ氏の魅力的な序文にも呼吸する。「それ以前に、彼と会ったという漠然とした印象があったが、たしかに夜だったと思うが、どこで会ったかは忘れてしまった。そのときにも、その外見や振る舞いに哀愁を帯びた魅力、ある種キーツのような顔、非道徳的なキーツのような顔に、奇妙なのは見事に洗練された作法と、なにか荒廃したものが見てとれた。・・・私は時折気分転換に彼に会うことを好んだが、コーヒーやお茶より強いものは飲まなかった。オックスフォードで彼が好んだ酔いはハシシュによるものだったと私は信じている。後に彼はそれが幻視的な感覚の手の込んだ実験というよりも、よりたやすく忘却に通じることを感じて諦めた。おそらくは常に、多少意識的に、少なくとも常に真面目に、新たな感覚を探求しており、私の友人は彼にとって最上の感覚は情熱と心のこもった崇拝の対象であることを見てとっていた・・・」我々は「なにかしら」、「少々の」「繊細な」「無限に」などといった一節を無限に引用し続けることができるが、それらは不在によって最後に目立ってくるものである。この本にあるすべて、シモンズ氏の序文、ダウソンの詩、ダウソンの散文は、一緒になって忘れられたかぐわしいブレンドの香気を思い起させる。実際、そんな具合なので、批評家のように質問に答える代わりに、物事のはかなさの感傷に浸りきってしまう危険がある。どんな正当性によってダウソンの詩が世界文学のなかに加えられるのだろうか?しかし、多分、このシリーズをあまり真剣に受け取るべきではなく、世界の最良の作家としてエレン・ケラー、オスカー・ワイルド、ロード・ダンセイニ、ウッドロウ・ウィルソンが含まれているのだ。我々の疑問をより穏当なものに変えよう。二十五年の後に、世界が異なったむしろ彼に敵意のある文学的流行に支配されているときに、ダウソンの詩は十分に生気をもち、出版社が再版する価値があるのだろうか。

 ダウスンはマイナーな詩人だった――本人なら「無限に」マイナーだと言ったかもしれない。彼はたった一つの感情しか表現できず、たった一つの調べしか知らなかった。しかし、その限界に彼の強みがある。というのも、メランコリーばかりを常に歌い続けることで、最終的に彼は小さいが独特の完成に到達したからである。そして、完成というのは、たとえそれが小さく限定されたものであっても、常に詩人の地位を保証し、読み捨てられることはなくなる。

 ダウスンはヴェルレーヌ流派のセンチメンタリストであり、英国におけるノスタルジアの使徒である。彼は悲しみを郷愁にまで洗練させた――自ら知ることのない家郷へ焦がれる病いである。それはノスタルジアに対するノスタルジアであり、確かな対象をもつ切望に対する切望である。彼が一風変わった服で飾り立てた美は、その人工的な装飾ではかなさを強調している。彼は、苦痛がある種の痛ましさまで、愛がちょっとした熱気になるまで、あらゆる感覚や感情を薄め蒸発させた。

 芸術には様々な方法で感情の表現ができる。民謡のように単純で直接的なものもあれば、直接的で身体的に影響を与える原初的な感情が知的で精神的意味合いを豊かにさせ、交響曲の複雑さになることもある。他の芸術作品を引き合いにだしたり、習熟した技法の変化を告げるデカダンス的なものもある。ダウソンは交響曲も民謡も書けなかった。彼は自発的な生やそれを送るための心的能力を持っていなかった。彼は感傷的な悲哀を高度に複雑な形式で、連想豊かに表現した。フランスの宮廷の洗練され人工的な生が旧体制の最後の日にも完璧にまがい物のメランコリーを見せたように、連想も形式の複雑さも感傷的な効果に付け加えられるだけだった。結局のところ、次のように書くことになんの達成もない

        私は多くを忘れてしまった、シナラよ!風とともに去ってしまった
        玉座にはあふれんばかりの薔薇また薔薇が投げつけられる
        君の心から青ざめた失われた百合を取り出すために踊りながら
        しかし私はわびしく、古い情熱に病んでいる
        そう、いつでも、踊りが長いものだから
        私はシナラよ!君に忠実だ、私なりの流儀で
       
イメージや隠喩は古く、技術も古く、すべてが非常に人工的である。だが、詩は心を動かす。ダウソンは自分の人工的な感情に完璧な表現を見いだした。純粋な沈黙の主音域から傷心の不調和を通じて、手の込んだ「死への墜落」を発見した――すべてが無に終わり、無しかない。

 非存在の主題変奏は精神が望み、必要とする――身体的に疲労し、精神が物憂いとき、それが感傷性の真の親であり、ヴェルレーヌのノスタルジアはあまりに微妙に立ちこめており、ラフォルグは知的であまり真価が認められておらず、死へ墜落するダウソンは、、そのゆったりと整えられたリズム、いかなる重要な意味づけもなく落ちついている彼だけが詩人にふさわしい。我々は感傷性に襲われて苦しむことがある。同種療法の一環として次に寝るときにはダウソンの詩を用意しよう。

2017年10月22日日曜日

オルダス・ハックスレー「プルースト:十八世紀的方法」



 1919年8月に発表された。

 我々がプルースト氏の作品をその質において「十八世紀的」だというとき、それが磁器のような上品さ、ばかげていながら美しい形式をもっている(実際にもっているのだが)ので、おそらくは誤った推論ではあろうが、歴史のうえでもっとも文明化された時期に割り当てたい気持ちがするのである。十八世紀の可憐な形式主義は、ほとんどが我々自身の発明によるものである。我々の心に存在する過去は、おおむね満足を得るための神話で、各世代特有に必要とするプロパガンダや満足のために創造され、また再創造される。ロマン主義者たちは十八世紀を道徳と知的堕落の時代とみた。我々はそれをまったく異なって描いている。貴重ですばらしいFetes Galantesやマラルメの精巧で不首尾に終わったPrincesse a jalouser le destin d'une Hebeが具体化したものだとする者もある。神秘主義、大言壮語、感傷性、熱烈な道徳を打ち据える杖を求め、最良の啓蒙と完全な合理性の時代として提示する者もいる。ロマン主義も含めて、おそらくどの見方にも真理の要素はあるだろう。しかし、我々が関わっているのは過去一般における神話の契機ではなく、「スワン家の方へ」や「花咲く乙女たちの陰に」が質において「十八世紀的」だというときになにが意味されているかという問題である。

 プルースト氏は今日我々が当てはめる二つの意味で「十八世紀的」である。彼の風習喜劇は、非常に精巧に、社交的、あるいは「社会」生活の魅惑的な無益さを扱っている。ウェルズ氏はヘンリー・ジェイムズを部屋じゅうをエンドウ豆を追いかけるカバに喩えた。それに比例すればプルースト氏は恐竜のようなもので、『失われた時を求めて』の最初の二巻では、既に単調できっちりした小さな文字で千二百ページを埋めているのだから、アリスならば挿絵や会話がないことに不満を述べただろう。そして、失われたときが最終的に「見いだされる」にはまだ三巻が続くのである。この恐竜は体重が重いだけではなく、知性の重みもあって、サンジェルマン郊外の社交界のなかや上流ブルジョアや花柳界の周辺にほんの小さなエンドウ豆を追い求める。

 しかし、主題のこのうえなく洗練された軽薄さ――当時の厳格な芸術界においてこうした主題を本格的な芸術家が本格的に扱うことにどんな喜びがあったろう!――だけがプルースト氏の作品の「十八世紀的」な性質ではない。彼は別の意味でも「十八世紀的」である――自分なりのやり方で啓蒙され、非常に知的である。もし彼の方法を検証してみるなら、我々はそれが非常に発展し、手の込んだものになっているが、十八世紀の方法と根本的には同じであることを見いだすだろう。

 フランス小説の歴史の第二巻で、セインツベリー氏は「心理学的リアリズムは心理学的現実と異なることは、明敏な者にもそれを認め、あるいは理解するのに二世代かかった」と言っている。心理学的リアリズムと対立する心理学的現実は、十八世紀が性格描写において目指したものだった。その分析の良質の部分にはなにか並外れて満足させ説得力をもつものがある。アルフィエーリの自己肖像のしっかりした輪郭と正確さ、ベンジャミン・コンスタンの『アドルフ』の繊細でありながら簡潔で無駄のない描写は讃仰の眼で考えられている。彼らは雑多なものからの抽象、混乱した心理学の諸事実よりも一般的にすることで効果を生みだす。「この二世代の明敏な者」は、ごちゃ混ぜの事実をそれらが実際に観察できるかのように正確に記録することに専心していた。彼らにとって、心理学的リアリズムは実在ではあるが粗野な事実の抽象や蒸留よりも真実に近いように思われた。しかし、セインツベリー氏が示唆しているように、芸術的な真実と性格の説得力は、他の方法によっても到達することができた。現代の心理学に関わる発明と発達は、我々の先祖たちがほとんど無視できると思ったような思考、情動、感覚の細かな積み重ねから重要で興味深いものを見いだした。彼らはその背後にある現実をみることに主たる興味を抱いていたので、現象についてあれこれ主張することはなかった。彼らは主人公の感覚や思考の束の間の願望についての細かな事実を記録しなかった。彼らは混沌とした心理学的生を合理化し、一般化して性格に統一した。ジェイムズ・ジョイス氏が『アドルフ』と同じ主題の本をいつか書くことは十分考えられる。彼はコンスタンの明確な輪郭をもった主人公の代わりに、多彩な色で感覚、記憶、欲望、思考、感情などを描き、煮え立ったそれらを一貫した性格にすることは我々の想像力に残しておくだろう。『アドルフ』か『ユリシーズ』か――どちらが真実なのだろうか?どちらもそうであり、どちらもそうではないとも想像される。どちらも、それぞれの仕方で、人間の魂の見方を、現実の異なった顔をあらわしている。

 プルースト氏は、その方法においてより古い時代に属している。彼はありのままで未消化な心理学を諦めていない。彼は資料を合理化し、蒸留し、消化できるようにし、読者が呑みこみやすいように美しく明瞭なものとする。プルースト氏は、現在の我々なら不安になるぐらいに、生と性格を権威をもって教育的に、一般化して消化の過程まで面倒をみる。ここに、文学的な会話の才をもつド・ノルポア氏の性格について、アフォリズムの標本になるものがある。

        私の母は、彼がかくも形式張っていながら忙しなく、多くを要求しながらも友好的であり、そうした人間に通例のように「とはいえ」ということを決して理解しないことに驚いていたが、常に「なぜなら」ということも理解しないのであって、老人そのままに常に自分の年齢に驚き、田舎のいとこが驚いて報告したように、途方もないまでに単純な王である彼は、同じ慣習の体系があるからこそかくも多くの社交的要求にこたえ、手紙には几帳面に返事を出し、どこにでも行き、我々と会えば友好的であった。

尊敬すべき一節だが、プルースト氏の奇妙な機知と知恵に染められた一般化は、ほとんどどのページにも見いだされる。

 プルースト氏を読むことは、ほとんど計り知れない量の時間を必要とする――我々のほとんどにとっては、残念ながら!さくことができないほどのものだ。というのも、彼はゆっくり、非常にゆっくりと進み、このうえなく小さなものにまですりつぶすからだ。最初の巻である「スワン家のほうへ」で、我々は子供時代の主人公と彼をとりまく家族を紹介される。そして、驚くほどあでやかで、機知のある社交界の研究の過程で、スワンのことを聞かされる――競馬クラブのスワンは上流社会で成功を収め――知的でなかば世俗的なオデットと結婚する。第二巻で、主人公は青年になる。スワンの若い娘に対する彼の少年らしい情熱は、成長消滅し、後の部分は海辺で出会い、あるいは一瞥した「花咲く娘たち」の一群へと消散してしまう。因習的で小説的なものはなにも生じない。数多くの登場人物が舞台をよぎる。田舎や海の温泉場に連れて行かれる。それがすべてだが、我々はプルースト氏の明瞭で知的な材料の扱い方、分析と機知の鋭さと徹底的なところ、とりわけ美に対する眼識とそれを貴重なしかし真に独創的で美しいスタイルで表現した力に夢中になって読みふける。

 プルースト氏は自分自身に確信をもち、偉大な伝統的様式を見事に発展させて精巧さを確保している限り、現代文学のもっとも興味深い現象である。我々は「ゲルマントのほうへ」、「ソドムとゴモラ」の二つの部分、大部の作品を完成させる「見いだされたとき」の出現を楽しみに待っている。我々はそれらをすべて買うだろうが、おそらく出版されたときには読む時間がないだろうから、七十から八十歳の静穏で余暇のある老年までそのままにしておき、暖かな太陽のなかか、心地よい火のそばで坐って読めば、『失われた時を求めて』で幸福な年を過ごせることだろう。

2017年10月21日土曜日

イメージと技術--ヴェンダース『666号室』(1982年)

 ドゴール空港へ通じるハイウェイの傍らに、樹齢百五十年を経た樹木が立っている。『666号室』はこの樹木を捉えたショットから始まる。ちょうど盆栽の松のような形をしているが、樹木にそれ以上カメラが寄ることはないので、正確なところはわからない。空港に通じる道の傍らにあることから、パリへ来たのだという印象を与えるものだと語られる。後にもう一度この樹木が現われるが、それはこのドキュメンタリーに登場する、友人でもあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが同じ年、37歳の若さで死んでしまったことへの追悼の意が込められているのだろう。

 この映画はカンヌ映画祭に集まった映画監督たちに、映画の未来について問いを投げかけることで成り立っている。登場するのは、ヴェンダースを含めて十七人の監督だが、私がその映画を見たことがある監督だけをあげれば、ゴダール、ポール・モリセイ、モンテ・ヘルマン、ファスビンダー、ヘルツォーク、ロバート・クレイマー、スティーブン・スピルバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ユズマス・ギュネイなどである。それぞれの監督がホテルの一室に入り、十分間の時間を与えられる。カメラは置きっ放し、部屋には誰も残っていない。画面中央に椅子があり、その右手後方にテレビが流しっぱなしになり、左手には小さなテーブルに録音テープが置かれ、出演者が自分で始まりと終りを決める。

 映画の未来について問うということには、ある種の危機感があり、それは映画のテーマであったものが、テレビに乗っ取られていることからきている。さらに即時性についてはテレビの方に分がある。80年代にはビデオも普及し始め、映画をテレビの画面で見ることが容易になった。考えてみれば当然のことなのだが、改めてはっとしたのはテレビより映画の方がずっと長い歴史をもっていることである。ほとんどテレビを見ることがなく、パソコンの画面で映画を見ることの方が多いためにちょっとしたアナクロニズムに陥っていたのだが、私などは白黒テレビをぎりぎり経験した最後の世代になるのかもしれない。幼いころには既に家の中心となるテレビは、カラーテレビになっていたと思うのだが、十代のなかばくらいまで、自室に白黒テレビがあったはずだから、特に白黒の画面に違和感なく育った。しかし、もはやテレビが生活の中心になることはなく、要するにモニターさえあればいい。

 いわゆる放送局がCMを流しつつ、放映するテレビはもはや映画の危機感を喚起するほどの力はないが、ネット配信による放送のことを考えると、映画の危機はいまでも、というよりかつてないほど高まっているのかもしれない。Netflixやアマゾンによって独自に制作される作品は、漠然としたものとしてあった映画とテレビの主題の違い、放送コードや予算の相違によって自ずから生じる棲み分けを無効にしてしまった。その一方撮影機器が格段に進歩したことによって、編集ソフトを用いることによって、一人でも映画が撮れるようになった。アメリカの大作はコミックの映画化によって、限りなく連続ドラマに近くなり、ネット配信にはデヴィッド・フィンチャーやウディ・アレンのような映画人も参加している。数多くのドラマを見ることができ、一日一本見たところで、追いつかないほどの映画が定額で配信されているが、そこにはヨーロッパ映画や中東や日本を除くアジアの映画はほとんど含まれていない。楽しいことは楽しいのだが、ブロイラーのように餌を無理矢理食べさせられているようにも感じるのも確かなのだ。


 この映画に出演している監督たちも、僅かな時間でこんな大きな問題に答えられるはずもないが、ゴダールが映画やテレビというよりイメージのことを考えていること、アントニオーニがビデオであろうがなんであろうが、新しい技術を取り入れるつもりだといっていることが印象に残った。ドゥルーズはホークスやヒッチコックなどハリウッドによって洗練された映画を運動―イメージと捉え、ネオ・リアリスモやヌーヴェルバーグによって開拓された新たなイメージのあり方を時間―イメージとして描きだしたが、新たなイメージもあり方が存在しうるかがおそらくは問題なのだろう。

2017年10月16日月曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)8



 『水滸伝』の(冒頭ちょっと)もこれが最後。

 魯智深は『水滸伝』のなかで私がもっとも愛する登場人物である。

 それにしても、きたないなあ。


初編 巻之六

○魯智深大いに五台山を騒がす

 魯智深は泥酔して騒ぎを起こしてから、三四ヶ月は寺内を出なかったが、二月のある日、いかにも長閑な日であったので、足に任せて山門を出て、五台山の風景を眺め、その見事さに見入っていると、麓の方からかんかんと響く音が風に乗って手に取るように聞こえてきたので、僧坊に戻って僅かの金を懐にし、音を頼りにして山を下っていくと、そこには五六百軒の家が建ち並ぶ街があり、肉屋、野菜屋、酒屋、うどん屋もあった。

 魯智深は街の様子を見て、ここに酒屋があることを知っていたら、酒桶を奪うこともなかったろうし、長い間禁酒することもなかったろうになどとぶつぶつ言いながら、悪い癖が再びわき起こり、ちょっと酒でも引っかけるか、とうろうろしていると、例のかんかんと響く音が近くなり、見てみると鍛冶屋であった。

 隣には旅籠屋の看板が出ている。

 魯智深は鍛冶屋に入り、店の者に「ここにはよい鋼はあるか」と尋ねると、槌をふるっていた者は始めて魯智深を見て、顎のあたりに生え始めた髭が針のように突き立ち、いかにも猛々しい様子なので、怪しくもあり怖くもあり、「まず入ってお休みください、鋼をなににお使いで」と問うた。

 智深は「禅杖と戒刀を打って貰いたいのだが、どうだ、よい鋼はあるか」と言うので、職人は「幸い上等の鋼が入っております、その禅杖と戒刀の長さと重さはどのように致しましょうか」と問い、魯智深は「戒刀は普通の長さでよい、ただし禅杖は重さ百斤は欲しいところだ」と答えたが、職人は笑って「それではあまりに重すぎで動かすことができますまい、いにしえの関羽の青竜刀も八十二斤だったと聞いております」と言いも終わらぬうちに、魯智深はいらだって「俺がなんで関羽に劣ることがある、彼も同じ人間ではないか、無駄なことは言わぬがいい」と言い張るので、職人はまた「お任せくだされば、四五十斤の重さで打ちましょう、それでも相当に重いものです」と返したが、魯智深は頭を振り、「俺は百斤にしたいところだが、お前がそこまで言うなら関羽の偃月刀に倣って八十二斤で打て」と言えば職人はさらに返して、「禅杖のあまり重いのは使い勝手が悪いものです、その中間を取って六十二斤で打ちましょう、ただしもし動かすことができなくても私を責めないでください」と言うので、魯智深はようやく納得し、「それでは六十二斤で打ってくれ、二品でいくらになる」、「掛け値なしで五両いただきます」と答えた。

 魯智深は「値切るつもりはもとよりない、とにかくよい鋼で打ってくれ、意に適ったものなら別に褒美をやろう」と言って懐中から金を出して渡し、上機嫌で「酒を買ってお前と呑もうと思うがどうだ」と言えば、職人は「ご覧のように生業にいとまのない身ですから、ご相伴にはあずかれません」と固辞するので、魯智深も強いては勧めず、店を出て、二三十歩も行かないところに、酒玉をさげ幟を立てた店がある。

 智深はそれを見て、暖簾をかき分けつつっと入り、座る間もなく卓を叩いて、「酒を持ってこい」と呼べば、主人が出迎えて「五台山のお坊さんとお見受けします、この店は元手も寺から借り受けて生業を致しておりますが、かねて長老様からのお達しで、寺内のお坊さんに酒を売れば、元手を取り上げられ、店も追い出されてしまいます、なのでお坊さんにはお売りできません」と言うので、魯智深は「それはそうでもあろうが、ちょっとでいいから呑ませてくれ、ここで呑んだとは誰にも言わないから」と再三頼みこむのだが、主人は一切受け付けないので、「頑固な親父だな、どっかで思う存分呑んでからとっくり言い聞かせてやろう」と呟いてまださほど歩かぬうちにまた一軒の酒屋を見つけ、すぐに入り「酒を」と頼むが、その店の主人も長老の法度がありますので、と売ってくれない。

 仕方なく魯智深はそこを出て、四五軒の酒場をまわったが、どこも同じである。

 そこで魯智深ははかりごとを企て、町外れの桃の花が咲き乱れた門に酒玉を吊した家に入り、小さな窓の側の床几に座ると、「行脚の僧だが、長い道のりで喉が渇いてしまった、酒を持ってきてくれ」と言った。

 ここの主人は百姓も兼ねていると見えて、いぶかしげな男を出迎えて「五台山のお坊さんでしたら、お酒を売ることはできませんが」というのを聞き終わるまでもなく「遠方から来た者だ、五台山の僧ではない、早く酒を持ってこい」、主人がよくよく魯智深を見てみると、その様子や話し方がいつも見ている五台山の僧とは全然違っているので、少しも疑わずに「どのくらいお持ちしましょう」、魯智深は「どのくらいもなにもない、どんどん持ってこい」、やがて十本ほどのお銚子を持ってきたので、それを呑みながら、「肉があるなら持ってきてくれ」、「先ほどまで牛肉がちょっとございましたが、みな売れてしまいました、野菜が少しありますから持ってきましょうか」と主人は言うが、魯智深の鼻は肉の香りをかぎつけ辿ってみると、土間の片隅の鍋のなかに犬を煮ていた。

 魯智深は元の席に戻り、「いい肉があるのに、なんでないというのか」、主人は微笑んで、「出家の方なので、犬はお召し上がりにならぬと思っていました、よろしければお持ちします」と答えた。

 魯智深はうなずいて「金のことは心配するな、先に払っておいてやる」と懐中の金を渡すと、主人はそれを受け取り、よく煮た片身の犬に、にんにくを添えて持ってきたので、魯智深は大いに喜び、犬の肉を引き裂き、にんにくと一緒にほおばりながら、続けざまに十本の銚子を空にした。

 主人は呆れ果てた顔で、見ていると魯智深は「もう一桶酒を持ってこい」というので、主人はいよいよ呆れて、酒を持ってくると、魯智深はすぐにそれを空にして、食い残した犬の足を懐にし、「余った金は明日また来るからその分だ」と門から駆けだしたので、主人は口をあんぐり開けて答えることもできない。

 魯智深は五台山を駆け上り、やがて休息所に着いたので一休みしていると、酒によって眠っていたものがぐんぐん沸いてくるようなので、それに身をゆだねて身体を起こし、しばらく身体を動かしてないので体力が衰えているようだ、ちょっと力試しをしてみるかと、亭の柱に腰を入れて当たってみると、たちまち木の裂ける音が響き渡り、柱は中程から折れて庇が地面にめり込んだ。

 寺の門番はその音を聞いて、なんの音かと見下ろしてみると、魯智深がひょろひょろと山を登ってくる。

 二人の門番は驚いて、門のかんぬきを下ろし、隙間から覗いてみると、魯智深が拳を挙げて鼓のように門を叩き、「開けろ、開けろ」と叫んだが、門番は答えなかった。

 魯智深は身をよじり、左に金剛像が立っているのを見て、「そこの大男、俺を手伝って門を叩こうともせず、拳を振り上げて威しても、お前のことなどちっとも怖くはないぞ、相手になってやる」と台の上に躍り上がり、葱を抜くようにその頭を引っこ抜き、腿のあたりをてやっと叩けば、塗料がすべてはげ落ちた。

 門番はこの光景を見て慌てふためき、とにかく長老に知らせようと急いで駆けだしたが、魯智深は今度は右手に立つ仁王を見つけ、「俺を見て大口開けて笑ったな、ただではすまぬぞ」と罵りながら足のあたりを殴りつけると、地面が震えるような響きを上げて仁王は台から転げ落ち、魯智深はからからと笑った。

 二人の門番はこの有様を長老に申し上げたが、長老は「騒ぎを起こして彼を怒らせてはならぬ、早く戻れ」と命じたときには既に、首坐、監寺、都寺といった役につく僧たちがみな方丈に集まって、「彼奴は今日もまた酔っ払い、休息所と山門の金剛像を壊してしまいました、どうすればいいでしょう」と異口同音に訴えたが、長老は「昔から天子様でさえ、酔っ払いには関わらないようになさる、まして私のような老僧がどうすることもできまい、休息所も金剛像も超員外になおさせればよい、下手に関わるとどんなことになるか先日のことを思いだすがよい」とおっしゃるので、僧たちもどうすることもならず、門番を呼び、とにかく門を開けるな、と命じた。

 魯智深はしばらく門前に立っていたが、門が一向に開かないので、いらいらが募り、「この馬鹿坊主ども、入れないつもりなら山門を焼き払ってくれるぞ」と息巻いているので、僧たちはびっくりして、再び門番を呼び、「入れなかったらなにをしでかすかわからない、とにかく門を開いて様子を見ておれ」と命じたので、門番は恐る恐るかんぬきを引き抜き、飛ぶように身を隠し、僧たちも遠くから見ていると、魯智深はかんぬきを抜く音を聞いて一押しに門を開けると力が余って地面に倒れ込んだが、すぐ身を起こして僧堂へ駆けいったので、座禅をしていた僧たちは驚いて顔を伏せていた。

 魯智深はいつも寝るところに着くと、喉をごろごろいわせながらあちらこちらに吐き散らし、その耐えがたい臭気に僧たちは目を閉じ鼻を覆い、ともに吐き出すかに見えた。

 魯智深は吐くだけ吐くと、着物の帯を解くのももどかしくずたずたに破り捨て、懐から犬の足が落ちた。

 魯智深はそれに気づいてからからと笑い、「吐くだけ吐いたら少し腹が減った」といいながら拾い、食い始めたので、僧たちは見ていられなくなって、顔を袖に押し当ててそろりそろりと逃げだそうとしたが、魯智深は手近の僧を引き留め、「お前もちょっと食うがいい」と戯れて、犬の肉を口に押し当ててきたので、僧は袖でしっかりと口を覆い、命に賭けて食うまいとしているので、別の僧の口に押し当てて「食え、食え」と責め立てて、防ぎきれないと床から飛び降りようとしても、むんずと捕まれていてふりほどけず、僧たちが四五人走り寄って、謝り宥め賺すと、魯智深は肉を放り投げ、栄螺の如き拳で剃り上げた僧たちの頭をぽこぽこと殴りつければ、道内の僧たちは右に左に逃げ惑い、隠れようとするのを逃すまじと追いかけてくる。

  都寺、監寺たちは長老には告げずに、手に手に棒を持ち、鉢巻きを巻いた執事の僧たち、大工、人夫、玄関番、籠かきなど二百人あまりを寄せ集め、問答無用で捕らえようとする。

  魯智深はこれを見て怒り心頭に発し、武器になるものもないので、仏前にある机の脚二本を引っこ抜き、まっしぐらに躍りでた。

  頭上に火焔が湧き上がり、口からは雷がほとばしる有様である。

  まさに矢が当たり崖を駆け抜ける虎、槍をつけて谷を飛び越える狼であり、東を向いては西を打ち、南を向いては北を打つ、その勢いは燦然と輝くようで、抵抗しても無駄なこと、あっという間もなく十数人が傷ついた。

  魯智深は荒れたぎるままに法堂近くまで進んだが、ふと見ると長老がおいでになり、「智深、無礼は控えよ、お前たちも手を動かすな」とみなを制したので、みな退き身を隠したので、魯智深も机の脚を投げ捨てて、「長老様、お裁きをお願いいたします」と申し上げたが、そのとき酒は七八分は醒めてしまった。

  長老は魯智深を近くに招き、「お前はどうしてこの老僧を幾度となく苦しめるのだ、先にも酒に酔って良からぬ行いがあったと、超員外に知らせたところ、書簡が来て言葉を尽くして僧たちに詫びて寄こしたので、大目に見ておいたが、また酔っ払って休息所や山門の仁王を壊すだけでなく、寺の者まで傷つけた、その罪は大きいぞ、この五台山は文殊菩薩の道場であり、千百年清浄を保ってきた霊地である、どうしてお前のような汚れた者を置いておくことができよう、お前をどこにやるか算段するから、ついてきなさい」と仰せになり、魯智深を方丈に伴い、傷ついた者を介抱させ、次の日、長老は首座と相談し、まずは超員外にことの次第を伝えると、員外はびっくりして、休息所と仁王は私がすぐに修復いたします、魯智深のことは長老の裁きにお任せし、寺の法度に従います、と返事を寄こしたので、長老は侍者の僧を呼んで、墨染めの着物、一足の草鞋、十両の金を用意させ、魯智深を呼びだして、それらを賜り、「お前は二度も霊山で騒ぎを起こし、仏法を蔑ろにした、その罪は大きいが、施主である超員外の面目を潰すことも本意ではないので、お前にわし自らの手紙を贈り、受け入れてくれるところを算段した、お前のことを一晩中考えて、四句の偈を説き示すので、死ぬまでその言葉を忘れず、後の戒めとなさい」とおっしゃったので、魯智深はかしこまって深くその慈悲を感じ取り、「是非その偈をお説きください」と申し上げた。

  まさにこの長老、透徹した眼をもちながら人を憐れむこと深く、道に通じ知恵に富んで、未来を見通して過つことがない。

  魯智深が禅杖をもって天下の英雄豪傑と戦い、怒りをもって戒刀をひとたび抜けば世の悪者逆臣を斬り殺し、その名は三千里に広がり、悟りを江南において得ること、長老の視界のうちにあった。

2017年10月11日水曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)7



初編 巻之五

○超員外、文殊院での宿願を果たす

 魯達は鴈門院の街中で、思いがけず呼びかけられ、振り向いてその人物を見ると、渭州で金を与え、その艱難を救い、故郷に帰してやった金老人だった。

 金老人は魯達の袖を引いて物陰に引っ張り込み、声を低くして「提轄殿、いかに肝が太いからといって、世間を嘗めすぎておりまするぞ、いまあちらこちらに触れ状がまわり、一千貫の賞金がついてあなた様を捕らえようとしています、あなた様の年格好が触れ状には細かく記されています、私が見つけなければたちまち役人に捕らえられるところでしたぞ」と懇ろに物語れば、魯達は「お前たち親子を旅立たせて、すぐに状元橋に行き、怒りにまかせて三発ほど殴ったら鄭屠の奴め、死んでしまった、それから半月ほど逃げてここに着いたのだ、お前はなんで東京へは帰らずにここにいるのだ」と問うと、金老人は「私たち親子は、提轄様のお陰をもちまして東京に帰ろうとしていましたが、ふと東の街道にはきっと追っ手が来るに違いない、数日は道を変えていこうと思いまして北へ向かいましたところ、途中で古い友人に出会いまして、その者が言いますには、代州鴈門県で商いをしているが、東京にもまして繁盛しておりますとやら、一緒に来ないかと誘いを受けるままに、東京に帰ることを止め、親子してここに来てしばらくは友人の世話になっていましたが、それからすぐに娘翠蓮が超員外という大変な金持ちの側室となり、寵愛が深く我々親子に屋敷を与え、衣食を始め何から何まで揃えてくれました、それもこれもみな提轄様の大恩によるものだと娘も日頃申しておりましたところ、その超員外も槍や棒の武術を好み、義を重んじ、信を守る丈夫でありましたから、あなた様のことを伝え聞いて、深く感じ入り、遠く離れて会えないことを残念に思われていました、とりあえず我が家にご案内いたします、まずはゆっくりと休息されて、それからゆっくりとこれからのことを相談いたしましょう」と魯達を伴って三町ばかり行くと早くも門に着いた。

 金老人は御簾をあげ、「娘よ、どこにいる、大恩人がいらしたぞ、早くお出迎えなさい」と呼びかければ、翠蓮が急いで出てきて、魯達を一目見ると、身を伏して拝み、「提轄様のご恩は一時なりとも忘れはしませんが、遠く隔たってしまいお会いできなことを残念に思っていましたところ、今日はどんな風が吹いてここにおいでになりましたか、まずはお上がりください」と誘う娘の姿は、半月前にはやつれきっていたのが、金の簪が黒髪に映え、緑の着物が白い肌を巧みに内に籠め、唇は咲き出した桃や桜の花のように薄紅に染まり、手は土から出た春の竹の子のようにたおやかに伸び、顔は三月の花を匂わせ、眉は初春の柳を描いて、垂れ込めた雲が晴れて月が現われたようであった。

 翠蓮は魯達を楼上へと誘い、旅のつらさを慰めていたが、魯達はすぐにお暇しようと、座を立とうとするのを金老人は引き留めて、「提轄様はどうして我々親子によそよそしくなされるか、せめて今日一日は打ち解けてお話しいたしましょう」と言いながら、女中に命じて火を焚かせ水を汲ませ、自らは酒食の準備をして盛り付けをし、杯を上げて魯達に勧め、親子して身を伏して「先頃まで泥のなかの魚のように、身を置く宿もなかったのに、思いがけずこのように安らかに過ごすことができるのはみなあなた様のお陰です、ここに来てからも提轄様の名をお札に記し、毎晩感謝の祈りを欠かしたことはありません、そのお方が目の前にいらっしゃるのですから嬉しさに耐えきれぬのです、快く杯をお受けください」と親子のもてなしが心の籠もったものだったので、魯達もその志の篤さを感じ、足を崩して酒を口にするころには日もやや西に傾いていた。

 そこに二三十人の棒をひっさげた者たちを引き連れた男が、馬に乗ってまっしぐらにやってきて、「あそこにいる強盗を捕まえよ」と命じつければ、魯達はこれは自分のことだと思い、立ち上がり飛び降りて、打ち散らしてやろうとするのを、金老人が慌てて押しとどめ、「私がまず参りまして、事情を説明してきますので、しばらくこのままお待ちください」というが早く一人楼上から走り降りて、その役人らしい人間になにやら囁くと、馬上の人はたちまちからからとうち笑い、部下たちに命じると、みな心得て元来た道を帰っていった。

 その役人らしい者は馬から下りて屋敷に入ったので、金老人は魯達を楼上から呼び迎えて、二人を対面させると、その役人は魯達を見ると、身を翻して再拝し「義士提轄殿、私の礼を受けてくだされ」というので、魯達は怪しんで、金老人に「この人物は何ものなのか、見知ったものではないはずだが、なぜ丁寧に挨拶なさるのかな」と問えば、金老人は「この方が娘翠蓮をかわいがってくださる超員外様です、部下たちを引き連れてきたのは、娘が提轄殿と楼上で酒を飲んでらしたので、部下の一人が通ったときに見とがめたのでしょう、員外様に告げたので、密夫ではないかと疑われて、逃がさないために大勢を引き連れて自らおいでになったのですが、私が秘かに提轄殿であることをお知らせしたので、部下たちを返し一人で入ってらっしゃったのです」とことの成り行きを示したので、魯達は間違いであったか、とようやく安心した。

 超員外は再び魯達を楼上へ誘い、酒宴を設けて様々にもてなし、ひたすら嘆賞して、「私はいつも魯達殿が豪傑であることを聞いて、慕っておりましたが、図らずもお目にかかることができ、まことに幸せです」と言うので、魯達は微笑んで「私は御覧のようにむくつけき男で、既に死に値する罪を犯しました、それなのに員外殿は見捨てることなく、対面を許されたこと、却って私が幸せとするところです」と答えて、鄭屠を殴り殺した顛末をもれなく物語れば、超員外はますます感激し、互いに兵法を語り、十分酒を飲んで、その夜は各々休んだ。

 次の日、朝食を済まし、超員外は魯達に向かって「ここは身を隠すには適した場所ではありません、私の本宅はここから十里離れた七宝村にあります、今日から提轄殿をそちらに匿おうと思うのですがどうでしょうか」と言うので、魯達は大いに喜び「よきようにお計らいください」と頼んだので、超員外は村に使いを走らせ、二頭の馬を牽いてこさせて、一頭には魯達を乗せ、一頭には自らが乗って、下僕に魯達の荷物を担がせ、真昼頃に旅立ち、七宝村に帰ることとなり、金親子は門の前にたたずんで、二人が遠ざかるのを見ていた。

 こうして超員外は魯達を伴って帰り、酒食をもってもてなし、七日あまりも過ごしたころ、二人が書院で語り合っていると、金老人が慌てた様子で来て、「先日私が提轄様を楼上に誘い、酒を勧めておりましたおり、員外様が大勢を率いて捕らえようとしながら、訳もなく彼らを帰してしまったとなにやらよからぬ噂が立ちまして、昨日三四人の役人が近くを聞き回り、詮議が厳しいようです、もしことが発覚してしまったらどうしましょう」と声をひそめて告げるので、魯達は「ならば私が一刻も早く逃げるしかあるまい」と答えたが、超員外がしばらく思案して、「いま提轄殿を放り出してしまっては私の面目が立たず、志を無にしてしまう、また留めておいても却ってそれが災難になることもあり得る、そこで考えたのですが、提轄殿がこの難を避け、万に一つも過つことがないはかりごとがあります、しかし、提轄殿はきっと同意されないでしょう」と言うので、魯達は聞くまでもなく「私はここで死んで当然の身です、もし難を逃れ、身を置くところができるとあらば、なんで同意しないことがあるでしょう、どうぞお話しください」とひたすら頼むので、超員外は嬉しげな顔をして「ここから三十里ばかり離れたところに五台山という山があります、その山頂に文殊院なる寺があり、元々文殊菩薩の道場で、寺には七百人ばかりの僧がおります、その長である智真長老と私とは莫逆の友であり、そもそも私の先祖が多くの金銭を寺に納めており、我が家は第一の施主であります、そこで私は年来誰かを出家させ、文殊院の僧侶にしようと思って、かねてから出家させる人間を探しておりましたが、まだ納得のいく人物を得ることができないので、この宿願を遂げておりません、もし提轄殿が髪を落して和尚となることを引き受けていただければ、一切の手続きは私が致します、このはかりごとを承知してもらえますか」と問うので、魯達は、ここを逃げ延びたとしても、頼りにするところがあるわけではない、とにかく員外殿の言う通りにして、後腐れなく世を送ることにしようか、と思って「そこまで員外殿の恵みを被るのならば我が身の幸いです、剃髪のこと、もとより願うところです」と答えたので、員外は深く喜び、夜をかけて衣服を縫わせ、礼物、支度金などを用意して、次の日の朝早く、魯達を伴って車に乗り、五台山に赴いた。

 麓まで来て、魯達が山を仰ぎ見ると、雲が山頂を覆い、山の側面では影を落とし、花が春風に舞って清らかな香りを運んでいた。

 まことに結構な風景で、玄妙なものだった。

 二両の車が山の半ばまで至り、超員外が人を使いに立てさせると、都寺、監寺の老僧が来て、山門の外にある休憩所に誘うので、超員外と魯達は車から出て、そこで休んでいた。

 智真長老は、第一の旦那である超員外が来たと聞き及んで、首座や侍者などの僧を召し連れて、自ら山門の外に出迎え、「ご遠来のわけはいかなるものでございましょう」と問うので、超員外は魯達とともに恭しく礼を述べ、「今日は一寸したお願い事があって、お寺に参上しました」と言うので、「それでは方丈の方へおいでなさい」と丁寧に導かれ、魯達は員外の後について文珠寺を見てみると、山門は頂から遙かにそびえ、仏殿は雲に溶け込み、鐘楼は月に連なり、経堂は雲霧のなかに立っている。

 いくつかの僧寮は霞を収め、七層の宝塔は空にそびえ立っている。

 まさに塵外の大寺、清浄の霊地というところだった。

 智真長老は超員外を方丈に案内し、客座を勧めたが、魯達はなんの遠慮もなく上座にどんと腰を下ろした。

 員外は慌てて魯達の耳に口を寄せ、「ここで出家するというのに、何で長老と対座して無礼な振る舞いをするのですか」と囁くと、魯達は「慣れないものだから気づきませんで」と員外の傍らに座った。

 監寺、都守、知客、維那、侍者、書記などの僧が定式に則って並び、員外の下僕たちが礼物を運び込み、面前に置いた。

 長老はこれらの品々を見て、員外に向かい「施主殿はどういうわけでこれほど多くの礼物をお贈りくださるので」と宣えば、超員外は身を起こし、膝を進めて「私にはもともとひとつの宿願がありました、一人を剃髪させてお寺の僧侶としようと思い、準備を調えていたのです、いまだその人物を得ることができなかったので黙っていましたが、幸いに従兄弟に魯達という者があり、この人間は武士の生い立ちですが、この世の無常、人間の艱苦をはかなみ、ひたすら俗世を捨てて出家することを願っております、望むべくば、長老の慈愛によって、彼を僧としてもらえれば、いっさいの準備は私がいたします、長老がおとり立てくだされば、この上ない幸いです」と言うと、長老は「これは不思議な因縁じゃ、たやすいこと、たやすいこと、まず茶を用意なさい」と命じれば、二人の稚児が茶を献げ両人に勧めたが、香気馥郁としてよいお茶であった。

 長老は首座を呼んで、魯達の剃髪のことを相談し、また監寺、都寺に斎を準備せよと命じた。

 そのとき僧たちが立って話し合ったのは、「あの人物は全く出家するようなものには見えない、まなざしは僧というよりは賊徒のようで、ぼうぼうに生えた髪と髭は獣、特に虎のようだ、とにかく長老を諫めて、とどめようと思うので、知客(客の相手をする僧)は向こうにいって客人たちの相手をしていなさい」というので、知客は心得て、超員外と魯達を客殿に招き、しばらく世間話をしていた。

 その間に僧たちが等しく長老に「あの出家しようとする人物を見ると、姿は醜悪であり、顔は凶暴で恐ろしい者です、あのような人物を剃度すると、近い将来に山門の災いになりましょう、よくよくご思案ください」と諫めたが、長老は「彼は門徒である超員外の従兄弟なのだから、姿形が醜いからといって断れるものではない、しばらく疑うことを止めるがいい、私がまず彼の将来を垣間見てみよう」と宣って、香を焚き、口に呪文を唱えて定に入り込むとしばらくして戻ってきて、僧たちに向かい「彼を剃度することを止めてはならない、かの人は天罡星に応じ、心根は剛直な者だ、いまは不幸かもしれないが、先々却って清浄の身となる、その仏果を得ることにおいては、おぬしたちの及ぶところではない、私の言葉をよく覚えていて、それぞれ思い当たる時を待っていなさい」と説いたが、僧たちはそれを本当とは思わず、「長老の贔屓だ」とささやきあった。

 長老は超員外たちを再び方丈に招き入れ、斎食を準備してもてなし、員外は食後、僧鞋、僧衣、僧帽、袈裟、拝具などを買わせ、一両日で用意がすべて整った。

 そこで智真長老は、吉日を選び、鐘を鳴らせ、鼓を打たせて、法堂のなかに僧たちを集めたところ、五六百人の僧たちが整然と袈裟をかけ、すべて法座のもとに来て合掌礼拝し、東西に別れて並んだ。

 施主の超員外は、銀子と奉納する香を取り出して法座の前で再拝した。

 仏への報告も終わり、二人の稚児が魯達を法座に導き、維那の僧が魯達の帽子を脱がせ、頭髪を九つの房にわけ、理髪人が一周まわってすべて剃り終わり、次に髭を剃ろうとすると、魯達は恨めしげに振り返り、「ちょっとくらいは残しておいてくれよ」と呟いたので、みなは口を押さえて笑った。

 長老は法坐の上にあって、「寸草留めず、六根清浄、汝のために剃り終わりて、争競を免得せん」と高らかに偈をのたまわり一喝すれば、理髪人は剃刀で髪髭残さず剃り落とした。

 首座は出家の証となる札をもって法坐の前に奉り、法名を賜ることを請うと、長老は札を取り、「霊光一点、値千金にあたり、仏法広大、名を智深と賜う」と再び偈によって法名を与えたので、魯達は魯智深と呼ばれることになった。

 長老は書記を呼んで、札にこの名を記させ、魯智深に授け、法衣と袈裟を与えると、智深はそれを着て監寺に導かれて法坐へと進み、長老は手でその頭をなで回し、「一には三宝に帰依すべし、二には仏法に帰奉すべし、三には師友に帰敬すべし、これが仏に帰依するための三つの教えである、次に五戒は、一に殺生をするなかれ、二に盗みをするなかれ、三に淫らなことをするなかれ、四に酒を飲むなかれ、五に嘘を言うなかれ、である」と説き示されたが、魯智深は禅宗の受け答えの仕方を知らないので、「私には覚えられません」と答えたので、みなは笑った。

 儀式が終わったので、超員外は僧たちを雲堂に招いて、香を焚き、斉食を準備し、位のある僧たちには上質の礼物を贈り、監寺は魯智深を僧たちに引き合わせた上で、僧堂の後ろにある林の選仏場に住まわせた。

 超員外は宿願を成就したことを喜び、次の日長老に別れを告げ、戻っていったが、長老は僧たちを率いてそれを見送った。

 員外は別れる際に長老に向かい「魯智深は愚直な人物なので、いつか礼儀を欠き、誤りを犯すことがあるかもしれませんが、私の顔に免じて許してやってください、また、皆さんも慈愛をもって許してやってください」とひたすら頼んだが、長老は「員外殿、ご心配は無用になされい、愚僧がゆっくりと教え導き、経を習わせ、座禅も追々させるようにしましょう」と宣った。

 員外は魯達を松の木陰に招いて「貴殿はもはや昨日までの貴殿ではないのですから、自ら戒め顧みて、短気だけは起こさないでください、もしそんなことがあれば、再び会うことはできなくなりましょう、衣服などは時節ごとにこちらからお送りしますから、心配せずに修行に専念してください」と言い聞かせ、再びみなに別れを告げて、車に乗って帰っていったので、長老も僧たちを率いて、寺内へと戻っていった。

 魯智深は超員外と別れてから、選仏場の座禅をするところで、自由気ままに居眠りしているので、同宿の僧たちは忌々しく思い、智深を揺り動かし「出家した者は、座禅して智を学ぶことが務めだ、だらしなく寝ている奴があるか、起きろ起きろ」と眼をさまさせ、魯智深はようやく首を起こしたが、「俺には俺で考えがある、お前たちには関係なかろう」と怒りだすので、僧たちは「ほっとけ」と言い合ったが、智深は悪口でも言われたと思ったのか腕まくりして、「なにか文句があるか、いつでも相手になるぞ」と言って再び寝転んでしまったので、僧たちはあきれて答えもできなかった。

 次の日、二人の僧が魯智深が無礼であることを長老にお知らせしようと、まず首座の老僧にことの顛末を語ったが、老僧は「長老がかねておっしゃるには、かの者は後々お前たちにはとても及ばない悟りを得ること間違いがないという、贔屓かとも思うが智深のことについて責めては御意に反することになる、とにかく怒りを鎮めて、したいようにさせとくがいい」と諭され、僧たちもそれ以後は彼に関わらないようになった。

 魯智深は誰も何も言わなくなったので、いよいよ気ままに、晩になれば手足を伸ばして雷のようないびきをかいて熟睡し、目をさますと急いで飛び起きて、仏殿の後ろで大小便を垂れ流すさま、あまりに見るに堪えないので、ある日侍僧が長老に「智深は無礼千万であり、出家の身のふるまいではありません、このままにしておけばこの霊場を汚すことになります」と訴えたが、長老は機嫌を損じたように「お前のいうことは間違っておる、彼はまだこの場所に慣れていないのだから、自ずから改めるのを待ち、少しくらいの間違いは員外殿の顔に免じて許してやるがよい」とおっしゃるので、侍僧はぶつぶつぼやきながら退いた。

 こうして魯智深は五台山で四五ヶ月を過ごし、冬に入ろうとする頃のうららかな天気の折に、びんろう染めの着物に紺の帯を締め、靴を履き替えて、大股に山門を出て、足に任せてどんどん行くと、山のなかばにある休息所に着いたので、杖に顎をついてつらつら思うに、昔は酒と肉を好み、毎日欠かさなかったが、員外の言葉に従って出家してから、酒も肉も口にしていない、それに最近は員外から贈ってくるものもないので、食い物らしい食い物も口にせず、大小便を垂れ流すばかり、筋肉も落ち、骨も細くなってしまったようだ、この景色を見ながら、酒がないことが恨めしい、と思っていると、桶を担ぎ、柄杓を持った男が「九里山は項羽と劉邦が戦ったところ、子供は古い刀を拾う、項羽が死んだ烏江には風が吹き、波しぶきは虞姫が項羽に別れを告げるよう」と歌いながら山を登ってきて、休息所で桶を下ろして休んでいるので、魯智深は男を呼び「桶のなかはなんだ」と聞くと、「うまい酒です」と答える。

 魯智深は酒と聞いて、口のなかにたちまちよだれが湧き上がり、「桶ごと買うから早くもってこい」と言ったが、男はこれを聞いて呆れかえり「和尚さん、冗談を言っては困ります、酒を持ってきたのは大工、人夫、門番、籠かきなどに売るためです、和尚さんたちに酒を売ることは禁じられています、もしそれを破れば、たちどころに長老の咎めを受け、元手を取り上げられ、家も追い出されてしまいます、元々私はこの寺から金を預かって元手とし、寺の借家住まいですので、あなたに売っては生活が成り立ちませぬ、軽々しく冗談を言ってもらっては困ります」と売る気配がない。

 魯智深はこれを聞いて、「金輪際売る気はないか」と問えば、男は聞く耳も持たず「いいえ、殺されても売りは致しませぬ」と答えるばかりなので、智深はまた「別にお前を殺そうというのではない、酒が飲みたいだけだ、早く持ってこい」と言いつのるので、男は関わりにならぬ方がいいと思って、桶を担いで走り去ろうとしたが、智深は長い肘を伸ばして男をひっつかみ、ちょんと蹴り上げると男は地面にどうと倒れ、にわかに起き上がることができない。

 魯智深はしてやったりと笑って、二桶の酒を担ぐと元の場所に戻り、柄杓ですくって息もつかずに一桶を飲み干し、男を見やって「明日寺に金を取りに来い、損はさせんぞ」と言うと、男はようやく起き上がり、眉をひそめて腰をさすり、もし長老がこのことをお知りになったらどんな罰を受けるかわからないと不安ばかりで、また魯智深の剛胆さにも恐れをなして、ろくに返事もならず、残った酒を二桶に分け、「酒代は結構です、ただこのことを誰にも話さないでください」とだけ言って桶を担ぎ、柄杓を握って飛ぶように走り去っていった。

 魯智深はその後ろ姿を見てからからと笑い、一時間ほどその場にいたが、やがて酔いに任せて松林のなかを徘徊していると、酔いが全身に回って足下もおぼつかなくなり、着物を脱ぐと袖を腰に結び、背中の花の刺青をあらわにして山を登る姿は、頭は重いが足は軽く、眼と顔は紅に染まり、前後左右に揺れ、向かい風にあう鶴、または手足をぱたぱたさせながら陸に上がる亀のようであった。

 天を仰いでは天人を罵り、地面を踏みしめて地獄の門番を捕らえようとしているかのよう。

 まさにその姿は裸の魔王であり、火を放ち人を殺す花和尚そのものである。

 ときに二人の門番はこれを見て大いに驚き、割れ竹をひっさげて走り出て遮り留め、「仏の弟子として五戒を破り酔っ払って帰るとは何事だ、お前も張り紙は見ておろう、和尚が戒律を破り酒を飲めば、四十打ちすえたのち寺を追い出すこと、酔った僧を寺内に入れたとあっては我々もまた十度打ちすえられることになる、罰は勘弁してやるからどこなりと行くがいい」と息も荒く言い渡した。

 魯智深は、和尚になってまだ身も浅く、またもともとの性分を改めてもいなかったために、乱暴に遮られて大いに怒り、眼をかっと見開き、「お前ら俺を打つというのか、打ってみろ、止められるものなら止めてみよ」と叫びながら、ひょろひょろと進みでれば、門番もその勢いに恐れをなして、一人は監寺に報告に行き、一人は割れ竹をもって入れまいとしたが、魯智深は咆哮一声、拳一打ちで門番を打ち倒し、寺内へ入っていった。

 監寺は知らせを聞いて、大工や人夫など二三十人を集め、各々白木の棒をもって西の廊下から駆けだした。

 智深はこれを遠くに見て、再び雷のような咆哮を上げ、大手を広げて迫っていくと、みなは彼が元は軍官であることを知らなかったのだが、目の当たりにする勢いにたちまち怯み、慌てふためいて蔵の裏に逃れ、格子を盾にして近づけまいとうろたえ騒いでいたが、魯智深は格子をいともたやすく蹴破り、棒を奪って打ち散らせば、みなは抵抗するまでもなく頭を抱えて逃げだし、長老に告げたので、長老はすぐに侍者を数人引き連れて現われ、「智深、無礼であるぞ」と叱りつけると、魯智深は酔っているとはいえ長老の姿を認め、棒を投げ捨てて跪き、「智深、今日は少々酒を飲みましたが、乱暴をするつもりなどなく、みなが私を罵り、打とうとするので、やむなく騒動を起こしてしまったこと、お察しください」と申し上げると、長老は「とにかく今日のところは怒りを鎮め、下がって休むがよい、言い分があるのなら明日ゆっくり聞くこととしよう」とのたまわったが、魯智深はなおも「長老のおいでがなかったら、坊主らことごとく打ち殺してくれようものを」と繰り返し同じことを言っているので、長老は侍者を呼んで魯智深をいつもの寝所に連れて行かせると、智深は高鼾で寝てしまった。

 多くの僧たちは長老を囲み、「我々は再々智深を出家させるべきではないとお諫めいたしましたが、果たしてこんな有様です、もしあの野良猫同然の悪僧を置いておけば、ますます法規が乱れます、早く追いだしてみなの心を安らかにしてくださいますよう」と等しく苦々しげに訴えたが、長老は「以前も申したが、あの者はいまは騒ぎを起こすだけだが、後には必ず悟りを得るものである、明日呼びつけてきつく戒めておくから、とにかく超員外の顔を立てて今度のことは許してやりなさい」とのたまわって、尋常な思い入れではないので、僧たちは呆れ、醒めた面もちで散っていった。

 次の日朝食が終わると、長老は侍者に言って魯智深を呼びつけた。

 侍者は魯智深のところに行ったが、まだ眠っているので、しばらく起きるのを待っていると、突然起き上がり慌ただしく着物を引っかけ、僧堂を飛びだしたので、侍者は驚いてなにをするつもりだろうとそっと後をつけると、仏殿の後ろで糞をした。

 侍者は鼻を覆いつつ笑いをこらえ、手を洗うのを待って、長老の命を告げ、連れて行くと、長老は智深を近くに招き、「お前は武士の出ではあるが、超員外殿によって出家の身となり、わしもまた三帰五戒の教えを授け、殺生するべからず、盗むべからず、淫らなことをするべからず、酒を飲むべからず、嘘を言うべからず、と示した、この五戒は僧にとっては常識である、しかるにお前は酒を飲んで泥酔し、門番を打ち倒し、咆哮を上げ、格子を踏み破って人夫たちを殴りつけるとはどうしたことだ」と静かに問い詰められ、智深は頭を地につけ、「以後気をつけることにいたします」と申し上げた。

 長老はその姿を見て、「さもありなん、お前は出家である、超員外殿の頼みでなければ、五戒を破ったかどで、お前を追い出し、二度と寺にはおかなかったろう、これからは自ら慎み戒めて、今回のようなことがないようにせよ」と説き、また彼の愚直さが哀れでもあったので、斉食を満腹になるまで食わせ、一層言葉を和らげて教え諭し、着物と靴とを授けて僧堂に帰した。

 酒を飲んでも、喜びを尽くしてはいけない。

 酒はよく事をなし、よくことを破る、とも言われている。

 肝っ玉の小さい者でも酒を飲むと大胆になる、まして大丈夫ともなればどうであろう。

 魯智深は五戒を破らずにすむであろうか、それは次の巻でお伝えしよう。

2017年10月9日月曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)6



○魯提轄、拳をもって鎮関西を打つ

 九紋龍史進は少華山を出て、関西の渭州を目指したが、険しい山を越え、岐路に迷い、夜は荒涼とした林を宿にして月を眺め、昼は切り立った谷を渡って夕暮れの影を背負い、霜に身を横たえ、雨のなか休んで、およそ半月かけて渭州に着き、この近くに経略府があり、師匠の王進がそこにいると思うと嬉しさにたまらなくなり、その日のうちに城下に到着し、街のなかをさまよっていると、一軒の茶店が道の入り口にあった。

 史進がこの茶店の端に腰掛けると、主人が迎えて、「お客様はなにになされますか」と問うた。

 史進が「泡茶をくれ」と言うと、主人が茶をもってきたので、史進は茶をすすりながら、「経略の役所はどこにある」と問うと、「この向かいにあるのがそうです」と答えた。

 「それなら、その役所に東京八十万禁軍教頭の王進という方がいるのを知っているか。」

 主人はしばらく考えて、「この役所には教頭が非常に多いので、三四人王氏を名乗る方がいますが、どの方が王進であるかはわかりません」と語る折しも、一人の大男が大股に歩いてきて、茶店の椅子にどんと座った。

 史進がこの人物を見ると、軍官らしく、顔はまん丸で、耳は分厚く、鼻筋が通り、口は四角く、顎のあたりに髭がぼうぼうと生え、身の丈は二メートルは越え、腰回りも一メートルはあったろう。

 この人ここに来て茶を飲むとき、史進に向かい、「客人、教頭のことを尋ねるなら、この提轄に聞き給え、よく存じておる」というので、史進は急いで身を起こし、礼を述べれば、かの人物も史進が相貌堂々として好漢であるのを見て、会釈しつつ互いに席を勧め合った。

 史進は「率爾ではありますが、お名前をお聞かせ願いますか」と言えば、かの人物は答えて、「我はこの経略府の提轄を勤めております、姓は魯、名は達といいます、魯提轄とも呼ばれています、貴公はどこの御方で、名はなんとおっしゃる」と言うので、史進はますますへりくだり、「私は華州華陰県の者で、姓は史、名は進といいます。私には一人の師匠がおります、もとは東京八十万禁軍教頭の王進という御方です、いまはここの経略府におられるということなので、尋ねて参りました、どこにお住まいかお教え願いますか」と丁寧に尋ねると、魯達はそれを聞いて、「貴公は史家村の九紋龍史進ではないか」というので、史進は拝伏して「私がその九紋龍です」と言い終わりもしないうちに、魯達も急いで礼羲を返し、「名を聞くは面を見るにしかず、面を見るは名を聞くより勝れりとはいうが、貴公が尋ねる王教頭とは、東京で大尉高俅に憎まれた王進のことではないか」、史進はうなずいて、「おっしゃるようにその王進のことです、どうなされていますか、お教えください」と請い求めたが、魯提轄がいうには、「私もかねて王進の名は聞いているが、彼は延安府の鎮守である老公経略相公のところにいると聞く、この地は渭州であり、若殿経略相公の守っている州だ、貴公は聞き間違えて、訪ねてきたと見える、どれだけ探しても王教頭はここにはいない」、史進もようやく気がついて、ひたすら後悔した。

 魯達は史進が途方に暮れているのを見て、「貴公、長い旅でお疲れだろう、向こうで一杯やろう」と手を取って伴い、茶店を出るときに顔を向けて「金は明日持参するぞ」と言えば、主人は「提轄様がお飲みになった茶くらいよろしゅうございます」と答えるのを聞きながら、両人が四五十歩も来たところに人が大勢集まって大騒ぎになっているので、史進はなにがあったのかと人混みをかき分けて見てみると、囲みのなかに一人の男がいて、棒を使って膏薬を売っている。

 史進がよくその男を見ると、むかし始めて武芸を学んだ師匠打虎将李忠であったので、思わず声をかけて、名前を呼んだところ、李忠も史進を見つけて大いに驚き、互いに一別以来のことを語っていると、魯達はもどかしくなって、李忠に向かい「史進と師弟のよしみがあるなら、我々と一緒に一杯やろう」と言えば、李忠は「この薬を売って、後から参ります、史進を連れて先に行っていてください」と言い終わる間にも魯達はいらだって、「とにかく一緒に来い」と言いながら、集まった人々をかき分け、「馬鹿者ども、ものが見たいなら、屁ぐらいは出してみろ、早く立ち去らねば打ちのめすぞ」と罵ると、みなその勢いに驚き恐れ、四方に散り散りになったので、魯達は李忠も伴って潘家という飲み屋に入り、三人で酒を飲み交わす折しも、隣の座敷に人がいるらしく、しきりに泣き声が聞こえるので、魯達はむっとして、側にいた店の者をひょいとつまみ上げ、二階の板の上に投げつけたので、店の者たちはこの音に驚き、急いでやってくると、魯提轄は「俺はたまたまこの店に入って酒は飲んでいるが、酒代を借りているわけではないぞ、なんで忌々しい人の泣き声を聞かせて酒興をさまさせるようなことをする、俺を侮っているのか」と声を荒げて罵ると、店の者は恐縮して「まず怒りをお納めください、なんで人を泣かせて楽しみとすることがありましょう、隣にいるのは毎日うちの二階に来て生業をする父子ですが、あなたたちがいることに気づかず、差し迫った事情のために思わず泣いてしまったのでしょう、私の顔に免じてお許しください」と訳を語れば、魯達は「それだけでは訳がわからん、その父子を呼んできて見せてみよ」といらだちは収まらないので、店の者はおそるおそる隣の座敷に行き二人を連れてきた。

 前にいるのは十七八の娘で、後ろには五六十の父親が手拭いを持って従っている。

 娘は十人並みの器量というのではないが、なにか人の情を動かす顔つきをしていて、黒髪には玉の簪を挿し、柳腰に紅の帯を締め、雪を恥ずかしがらせるほどの白い肌で、眉をひそめ涙ぐんで珠を落すばかりの姿は、なにを憂いているのか、積もりに積もったものがあふれているのだと思われた。

 娘は涙を拭いしずしずと三人の前に立ち、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶し、父親もお辞儀をしたので、魯達は「お前たちはどこの人間で、どんな理由があって泣いていたんだ」と聞けば、娘が「私たちはもともと東京のものですが、この渭州の親類を頼りにして親子三人で参ったのですが、思いがけずその親類が最近南京に引っ越したことがわかり、頼むものもなくしばらく逗留していると、母親が突然宿で亡くなり、悲しい日を送っていましたところ、鎮関西の鄭という金持ちが、どこかで私を見たのでしょう、仲立ちを立てて私を妾にすると言いくるめ、無理矢理三千貫の手形を書かせた上にそのお金も渡さず、私だけを屋敷に引き取りましたが、本妻が妬み深く三ヶ月もたたぬうちに私を追い出し、始めに身請けした店に預けて、三千貫を返せと日に幾度となく責め立てます、父は年老いてもともと臆病なものですから、言い争うこともできず、向こうは金持ちで勢いもありますから、一文も出していないお金を手形を証拠としてひたすら返せと言いつのり、事ここに至ってはどうしようもなく、幼いときに習った小唄を唄って、この店に来ては毎日僅かなお金を得て、そのほとんどを返すのにあて、僅かばかり残ったお金で父子で暮していましたが、ここ三日というものお客さんがほとんどおらず、期限のお金を返す当てもなく、どんな辱めにあうものかと浅ましさと悲しさに耐えきれず泣いてしまった声が外に漏れたようで、あなた様方に怪しまれ面目次第もございません」と言いながら小さな袖で顔を覆い、涙を滂沱と流すので、魯達はまた「お前の姓はなんという、どこの宿に泊まり、その鄭という奴はどこに住んでいるのか」と尋ねると、父親が「私たちの姓は金といい、私は次郎と申し、娘は翠蓮といいます、向かいの東門の裏にある魯家という宿におり、毎日ここに通っています、鎮関西の鄭は状元橋という橋の下で、肉屋を営んでおり、鄭屠という者ですが、鎮関西と呼ばれております」と淀みなく話せば、魯達は聞き終わって非常に腹立たしい様子で、「鎮関西の鄭なるもの、何奴かと思えば、経略府で豚を屠って世を渡る胸くそ悪い悪党じゃないか」とひたすら怒り罵り、史進、李忠を見返って、「君たち二人はここで待っていてくれ、鄭屠をぶち殺してくる」と言い終わるまでもなく走りだそうとするのを、史進、李忠は両脇から抱き留め、様々に宥めてようやく元の座につけたものの、怒りは収まらず、金親子に向かって「お前たちは安心して俺の言う通りにするがいい、旅費をやるから明日東京に帰れ」と言えば、親子は手を合わせ「もしそうしたお恵みをかけていただけますなら、私たちにとってはこの上ない恩情でございます、ですが、私たちが旅立ってしまうと、鄭は必ず店の主を責めて、金を返せと言うでしょう、それがわかっていますから主も旅立つことを許してはくれますまい」と言うので、魯達は声を励まし、「俺には俺の分別があるから、そんなことになりはしない」と言いながら懐を探って、五両の金を取り出し、卓の上に投げだし、史進に向かって「俺が今日持ち合わせているのはこれだけだ、お主金をもっているならちょっと貸してくれ、明日には必ず返すから」と言えば、史進は「お安いことです」と答えて、包みから十両を取り出し卓の上に置いた。

 魯達はまた李忠に向かい、「お主もちょっと貸してくれ」と言ったが、李忠が渋々二両を取り出すのを見て、そのけち臭さと、額が少ないのに腹を立て、二両を李忠に投げ返し、十五両を親子に与え「これでとりあえず、旅支度を調えよ、俺が明日朝一番で故郷に帰してやる、俺が一緒なら店の主も留めだてはすまい」と安心させれば、金親子は魯達を神仏のように伏し拝み、宿に戻っていき、魯達、史進、李忠もそれに続いて店を出て、史進、李忠はそれぞれの宿に帰っていった。

 金親子は思いがけず十五両を得たことを深く喜び、旅支度を調え、宿賃を残りなく清算し、次の日早く起きて朝食を食べ、魯達がくるのを待っていたが、魯達の方は前日、経略府の前の自宅に帰ったが、とにかく憤りが収まらず、夕食も取らず、夜の明けるのを待って、金親子の宿に行き、宿の者に金親子を呼んでくるよう命じると、親子は飛んできて、恩情の深さに感謝し、荷物を抱えて去ろうとしたが、店の者がそれを見て驚き、「どこに行く」と親子をしっかり抱き留めるが、魯達が脇から進み出て、「この二人に宿賃の借りでもあるのか、なんで行かせてやらない」と問うと、「宿賃は昨日残りなく清算しましたが、鄭さんのお金をまだ返し終わってないので、このまま行かせてしまってはうちに迷惑がかかります」と言うので、魯達は眼を怒らし、「鄭の金は俺が返す、それでも親子を止めるのか」と憤りを含み、店の者が恐る恐る再び口を開こうとするとき、拳で顔面を殴りつけ、二枚の歯が折れて飛びだした。

 顎を押さえた店の者からの報告を受けて、主人も驚いて出てきたが、金親子は既に街の彼方に消えていた。

 魯達は、いま自分が動けば、こいつ等きっと金たちを追いかけるだろう、しばらくここに留まって、店の者が動けないようにしておこうと思いながら、椅子に腰掛けてどこにも行く様子がないので、店の主人もその勢いに圧倒され、一言も口がきけず、空しく眺めているだけだった。

 魯達はしばらくそうしていたが、もはや追いかけても無駄だと思える時間まで居座ると、ようやく店を出て状元橋に向かっていった。

 その朝、鄭屠は門を開け放し、二つのまな板を並べ豚肉を捌きながら、店の者に指図などをしていたが、魯達が大股で入ってきたので、出迎え、「提轄様、お珍しいじゃございませんか、ご用はなんでしょう」と聞くので、魯達は「鄭屠、俺は経略相公の仰せを申し使ってきた、早く良い肉を十斤、骰子に刻んでもってこい、僅かでも脂身が入っていたらご用のお役には立たんぞ」と言いつけると、鄭屠は「承りました」と答えながら、魯達に椅子を勧め、店の者を呼んで肉を切らせようとすると、魯達は「あんなむさ苦しい奴に任せておけるか、お前自ら切らんか」といらだっているので、鄭屠は仰々しいことだなと思ったが、「仰せごもっともです、私が切りましょう」とまな板で十斤の肉を細かく刻んでいると、宿の者が手拭いをかぶり鄭屠に金親子が逃げたことを告げに来たが、魯達がいるのを見て近づくこともできず、軒下にたたずみながら遠くから眺めていた。

 鄭屠は肉を刻み終り、蓮の葉に包みながら「提轄様、店の者に持って行かせますので、どうぞ先にお行きください」というので、魯達はまた、「別の用事がある、十斤の脂身を同じく骰子状に切ってくれ、少しでも赤身が入っていたら、ご用のお役には立たんぞ」と言った。

 鄭屠は「赤身は包んで饅頭にできますが、脂身を骰子状に切ってどうしようというのです」と言えば、魯提轄は眼をかっと見開き、「相公の仰せに従ってきただけだ、なにに使うのは俺は知らぬ、さっさと切らんか」といらだっているので、鄭屠は仕方なくまた十斤の脂身を刻んで蓮の葉に包んだが、かれこれ手間取って二時間あまりたったので、宿の者は魯達が居座っているのでなかに入ることもできず、魯達は金親子が十分遠くへ去ったと思ったので、二つの包みを取り、鄭屠に向かい「まだ別の用がある、十斤の軟骨を骰子に切ってもらいたい」というので、鄭屠はいよいよあきれ果て、「提轄様、ご冗談を言ってもらっては困ります」と笑い出すので、魯達はさっと身を起こし、「俺がお前をなぶってなにが悪いか」と言い終わる間もなく、二包みの肉を鄭屠の顔に打ちつけたものだから、二十斤の骰子肉がぱらぱらと飛び散って、肉の雨が降った。

 もはや鄭屠も我慢できなくなり、爪先から頭まで怒りが駆け上り、骨切り包丁をひっさげて、まっしぐらに躍りかかってくるのを魯達は店の外で待ち受け、近隣の者、通りがかりの者大勢が囲んで見ていたが、魯達の勢いに圧倒されて、止めようとする者もなく、店の者も人々の背後に隠れてしまった。

 鄭屠は右手に刀を下げ、左手で魯達を捉えようとしたが、勢いづいた魯達はその左手を取りひしぎ、引き倒しながら胸を全力で踏みにじり、岩のような拳を挙げ鄭屠をにらみつけ「俺は老公に従い、関西五路の取り締まりをしていたが、鎮関西と称することはなかった、お前は肉屋の上に、犬にも劣る畜生なのに、なにを自慢げに鎮関西と自称する、それだけではなく、翠蓮親子を騙し三千貫の借金を負わせた天罰を思い知れ」と鼻柱を殴りつけると、鼻は歪み桶をひっくり返したかのような鮮血がほとばしり、鄭屠は苦痛に耐えられず持っていた刀を落し、魯達は再び拳を挙げて眼を殴りつければ、眼球が糸を引いて飛びだした。

 見ていた者たちは魯達の怪力にたまげて、後ずさりする。

 鄭屠は虫の息で「許してください、許してください」と繰り返していたが、魯達の怒りはなおやまず、さらにこめかみを殴りつけると、鐘を突いたような響きを上げ、鄭屠は反り返り、唇の色がたちまちのうちに変わって、魯達は懲らしめてやるだけだと思っていたが、ただの三発で死んでしまったか、死なせたとなると俺も安穏にはしておれまい、まずここを抜けだそう、と秘かに思案し、去り際に死体を見返して、「死んだ真似をしたところで誰が信じるか、また来てとっくりと話をつけてやるからな、忘れるな」と罵りながらその場を離れ、自宅に帰って服を着替え、金を懐に、細い棒だけを携えて、南門からまっしぐらに駆けだした。

 鄭屠の家族や近隣のものは、鄭屠を助け起こして様々に手を尽くしたが、半日たっても生き返らなかったので、相談して役所に訴えを出したが、それを受けた奉行は、魯達は経略府の提轄なので、自分の一存では捕らえることはできないと、車に乗り経略府に赴き、門兵に取り次げば、経略公が書院で出迎えて対面し、奉行は礼を尽くして「殿に仕えまする提轄、魯達が、理由もなく鄭屠という町民を殴り殺しました、まずはそのことを殿にご報告してどうしたらよいかうかがおうと参りました」と告げると、老公は魯達は武芸には優れているが、無骨者で、人を殺したとすれば救うこともできまい、苦々しいことだ、と思いながら「魯達は元々私の父に仕えていた経略府の軍官だ、最近私に仕えることになって少しの過ちもなかったが、人を殺したとなれば法の裁きを受けさせねばなるまい、父は遠方におられるので、後で伝えておこう」と答えたので、奉行は心得ました、と役所に戻り、捕り手を呼びつけ、逮捕状を渡して魯達を捕らえるよう命ずると、王観察という者がそれを承り、二十人あまりの捕り手とともに魯達の自宅へ向かったが、魯達は今朝逃げ去って行方がわからないと聞いたので、手分けして探させたが、既に相当の時間がたっているので、すぐに捕らえられるはずもなく、仕方なく立ち返ってこれこれでと報告すれば、奉行は触れ状を各所に廻し、魯達を捕らえれば、賞金一千貫を与えると伝え、鄭屠の家族、庄屋、家主などを呼びだして経緯を申し渡せば、家族は棺を用意し、鄭屠を葬った。

 一方魯達は、その日のうちに渭州を離れ、群れを抜けた狐、網を逃れた魚の如くに、月の光を頼りに駆け、川をさかのぼり、遠い近い、高い低いに関わりなく、出陣した馬のようにいくつかの州を抜け、どこでも構うことなく宿にした。

 餓えるものは食を選ばず、寒いものは衣服を選ばず、恐れるものは道を選ばず、貧しきものは妻を選ばず、と昔から言われているが、いまは我が身のこととなり、やがて半月が過ぎて、代州鴈門県に到着し、賑わいのある街中を通っていると、一群の人々が四つ角に立って触れ状を読んでいた。

 それぞれ肩を触れあわし、賢い者、愚かな者、高貴な者、卑しき者が区別なく入り交じっている。

 ある者は学がなく文字が読めず、背の低いものは人の背中ばかりが見える。

 白髪の老人は杖を支えにして読み上げ、学生は筆を取りだして写している。

 魯達は近づいて札を見たが、元来無筆なので読むことができないが、人の読むのを聞いていると「渭州経略府の提轄、魯達は町人鄭屠を殺した犯人である。もしかくまう者がいれば同罪である。捕らえた者には千貫の賞金を賜るものなり。」とあるのを聞いていると、後ろから張殿、なぜここにおられるのか」と呼びかけて肩を叩く者がいる。

 この人物は何ものなのか。

 それは次の回で明らかになる。

2017年10月4日水曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)5



初編 巻之四

○史進、夜、華陰県に走る

 史進は、花陰県の知事が二人の部下とともに、多くの兵士を率いて屋敷の四面を取り囲んでいるのを見て、どうしたものかと相談すると、朱武等三人は跪いて、「若君様、あなたはもともと潔白であるのに、我々のために巻き添えにされたのですから、早く我らを縛めて引き渡してください、そうすれば巻き添えを逃れるだけではなく、褒美を受けることもできましょう」と言うと、「なにを言っている、もしお前たちがいうようにすれば、三人をなだめすかして招き寄せ、秘かに役人に訴えて、褒美を得るに等しい、それでは自分の利益のために行動したとして天下の笑いものになってしまう、いまはどうすることもできない、死ぬと決まればお前たちとともに死に、生きるとなればお前たちとともに生きることにしよう、しかし、ことを早まることは知恵が足りないことでもあるから、まずは討手の大将に会ってその人柄を見てみよう」と述べ、梯子に上がって、頭を垣の上から差しだし、「二人の方々、なにがあって夜中に私の屋敷を脅かすのですか」と呼びかければ、二人は「この期に及んでまだ抗おうとするか、狩人の李吉の訴えによってここに来た」と指さすのを見れば、月光のなかに李吉が立っているのを見て史進は大いに怒り、「おのれ李吉、血迷ったか、なんの証拠があって訴えたのだ」と声を荒げて罵ると、李吉はからからとあざ笑い、「俺も知らなかったが、さっき林で王四が落した少華山からの返事の手紙を拾って、そのままにしておく訳にもいかず、訴えたのだ、証拠がないとはいわせないぞ」と答えたので、史進は戸惑って王四を呼び、「そんなことがあったのか、さっきお前は返事はないといったが、いってることが違ってるぞ、どうなんだ」と責め問いただせば、王四ももはや隠しようがなく、「深酒を致しまして、林のなかで酔いつぶれてしまい、返事の手紙を奪われてしまいましたが、正直に言いましたら、そのままではすむまいと恐れ、返事はないと嘘をついてしまいました、どうか私の罪を許してください」と詫びているさなかに、大勢の討手が鬨の声を合わせ、勢い込んで入り込もうとしているが、もともと史進の武勇を恐れている者たちなので、及び腰で門内には攻め入ってこない。

 史進は外に向けて再び呼びかけ、「お二人に申し上げる、しばし騒ぎを鎮めて私が言うことをお聞きください、もはやことが発覚している上は、弁解する言葉もありません、そこでいま三人の頭領を縛り上げて引き渡そうと思いますので、囲みを下げてお待ちください」と高らかに叫んだ。

 二人はこれを聞いて秘かに喜び、「ならば、早く賊を縛って渡しなさい」と返事をするあいだに、史進は梯子をひらりと飛び降り、王四を呼んでただ一太刀で斬り殺し、下僕に命じて屋敷の四方に火を放たせ、朱武等三人とともに鎧を着け、刀をひっさげ、門を開いて駆けだした。

 二人は囲みを遠ざけて、史進が出てくるのを待っていたのに、案に相違して史進自ら煙のなかから切って出て、朱武、楊春は左右に従い、陳達は後ろに備え、子分と下僕たちを引き連れて、あたっては切り、東に向かえば西にいるものを殺し、その勢い破竹のようで、二人の役人が李吉を従えてたたずんでいる目の前へ、まっしぐらに撃ってかかれば、三人は恐れおののき、仕方なく迎え戦おうとしたが、史進は李吉がいると見ると、雷が頭の上に落ちるように、閃くかに見えた刀が李吉の身体を真っ二つにし、すぐに地面にくずおれた。

 二人の役人はこの様子にいよいよ恐れ、泡を食って逃げようとするところを、陳達、楊春が遮って、遂に二人を切り伏せると、知事は生きた心地がせず、馬に鞭を入れ、士卒と一緒に飛び立つように逃げ去った。

 こうして史進は、朱武、陳達、楊春と下僕、子分たちを従えて、少華山の砦に着いて一息つくと、朱武たち三人は牛を殺し馬を割いて、喜びの酒宴を設けて、各々酔いを楽しんだ。

 史進は思いがけず家を失い、少華山で数日過ごしていたが、心のなかで思うに、私は既に屋敷を失い、家財もすべて灰になってしまって、帰るところもない、とはいえここに長く留まろうとも思わない、師匠の王先生が関西の経略府にいらっしゃる、とにかく師匠を頼って行ってみよう、と思案して、ある日朱武たちに思うところを語り、別れを告げると、朱武たち三人はこれを聞いて、「そんな遠くへいらっしゃらなくとも、いまからこの砦の主となって、安らかに日々を送ってください、もし山賊に身を落すのがお嫌ならば、我々が力を合わせて屋敷を元の通りに建て直し、あなたに従って良い民になりましょう」と言ったが、史進は「お前たちの好意を無下にするわけではないが、役人を殺しているので、村に帰ることはなるまい、かといって潔白の身として、この砦の主になり、亡き父母の名まで汚すことは申し訳ない、お前たちがどんなに止めてくれようが、元来留まる身ではないのだから、明日袂を分かつことにしよう」と、朱武たちが懇ろに止めようとするのを聞かず、下僕たちはすべて少華山に残し、僅かの金を懐にし、旅姿を整えて一人山を下れば、下僕たちはひたすら主人との別れを惜しみ、朱武たち三人も子分たちを率いて、麓まで送り、涙を流して別れを惜しめば、史進も情の厚さに感じ、西の関を目指して旅立った。

2017年10月3日火曜日

滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)4



初編 巻之三

○九紋龍大いに史家村を騒がす

 九紋龍史進は、王進と別れた後も、武芸の稽古を怠ることなく、毎日気力を漲らせ、ひたすら弓を射、馬を走らせて、半年ばかりも過ごしていたが、父の大公はふとした病に治療や看病の効果もなく、最後に亡くなってしまったので、史進は非常に悲しんで、西山のほとりに埋葬し、追善その他、すべてを心を尽くして行った。

 もともと九紋龍は、農業のつとめを嫌っていたので、史大公が亡くなってからは、耕作を監督するものもなく、いたずらに月日がたって、六月中旬になった。

 ある日、史進はあまりの暑さに耐えかね、床几を麦打ち場の柳陰に持ちだして、蝉の声も騒がしいばかりで、松吹く風を待って、一人涼んでいたところ、向こうの木に隠れて屋敷のなかを覗くものがあるので、「なんだ、怪しい奴だな」と独り言をしつつ、跳ね起きて木の後ろを見ると、以前から知っている猟師の李吉なので、史進は彼を呼び止め、「お前がこそこそと屋敷を覗くのは、こちらの足下を見てのことか」と咎めると、李吉は近寄ってきて腰をかがめ、「史進さま、お疑いなされるな、ここの召使いであるチビの丘乙郎を誘って、酒でもいっぱいやろうかと来たのですが、史進さまが涼んでいるのをはばかって、彼が出てくるのを待っていたのです、無礼はお許しください」とわびたので、史進は聞いて、「それはそうでもあろう、お前はいつも我が家に狩りの獲物をもってきて売っているが、少しも損をさせたことはない、それなのに、この頃は一羽の兎さえもってこない、俺に銭がないと思い侮っているのか」と言えば、李吉が答えて、「何で私が史進さまを侮りましょう、最近は獣を獲ることがないので、もって参らぬのです」という。

 「嘘をつくな、この広い少華山に獣がいないことがあるか、いい加減なことをいいやがって」と史進が一切まともに請け合わなかったので、李吉がまたいうに、「史進さまはまだご存じありませんか、近頃あの山には三人の山賊がいて砦を構え、五百から七百の子分たちを集め、百頭以上の馬をもっています、その頭目を神機軍師朱武と呼び、第二に、跳澗虎陳達、第三に、白花蛇楊春がおり、この三人を頭目として、火を放ち、家に押し込むのですが、華陰の県守護も守ることができず、三千貫の報奨金を出し、人を集めて捕らえさせようとしています、そのために私も渡世の道を塞がれ、山に入ることもできないので、獣を獲ることもできないというわけです」と物語れば、史進はこれを聞いて、「少華山に盗人が住むという話は聞いていたが、そんなことになっているとは思わなかった、ともかくこれからも獣の肉があるときは、必ず売りに来いよ」というと、李吉は心得て帰っていった。

 このとき史進が思うに、「山賊は多くの手下を集め、県守護さえ恐れぬほどだから、やがてこの村にもきて、乱暴を働くだろう、早く奴らを防ぐ用心をするに超したことはない」と屋敷内に戻り、下僕に命じて、村の者たちを残りなく呼び集めさせ、酒を準備し、牛を殺し、待っていると、三、四百の者たちがすべて集まり、座敷に列座した。

 史進はみなに酒をつぎ、勧めて、「聞くところによると、少華山に三人の山賊が住んで、子分たちを集め、したい放題にものを盗み、傍若無人の有様だそうだ、きっと奴らは我が村へもきて、乱暴狼藉に至るだろう、そこで、みなを招いて話しておこうと思う、もし山賊が来たら、拍子木を合図とする、その折りにはそれぞれ槍、鎌、棒などをもって駆けつけて欲しい、誰かが危ない目にあったら互いにそうして救いあい、みなで村を守ることにしよう、たとえ山賊が何百人来ようと、正しく対処すれば、恐れる必要はない」と説き示せば、みなは言葉をあわせて、「わたしたちは愚かですので、とにもかくにも史進様の命に従い、拍子木が鳴ったらいち早く駆けつけることにしましょう」と請け合って、よく合図を定め、史進の屋敷を出て行った。

 史進は打ち物を用意し、門や垣を堅固に修復し、戦服を用意し、馬や刀を整えて、賊を防ぐ用意、露たりとも油断しなかった。

 そもそも少華山に砦を構える第一の頭領、神機軍師朱武は、もとは定遠の人で、両刀を使った。

 剣術の腕はそれほどではなかったが、陣のひき方にくわしく、謀略にも通じていた。

 その姿は、棕櫚の葉の道服を着て、鹿の革の冠をかぶっていた。

 まぶたは紅で鋭い目つきをし、白い顔に細い髭が垂れ、陣法は孔明に、陰謀は笵蠡に較べられた。

 第二の頭領、跳澗虎陳達はもと鄴城の人で、独特に鍛えた槍を使った。

 その姿は、力は強く声は猛々しく、生まれつき粗暴で、二メートルを越える槍を振り回すと雨あられのようだった。

 第三の頭領、白花蛇楊春は、もと蒲州解良県の人で、大薙刀を使った。

 その姿は、腰が長く、痩せてはいたが、力は強く、刀を取って敵に向かえば、花を散らすかのように敵を倒した。

 朱武、ある日陳達、楊春に語るには、「花陰県では、三千貫の報酬を出し、人を招いて我々をつかまえようとしているようだ、もし多人数で押し寄せられると、本格的な戦になる、となれば、砦に兵糧を蓄え、官軍を防ぐ用意をしなければならない、どう思う」と問えば、陳達が進み出て言うには、「兄貴の言うことは、もっともだ、いまから花陰県に押し寄せ、兵糧をもらってこよう」とこともなげに答えれば、楊春はしばらく思案して、「花陰県で糧を得るのは容易ではない、蒲城県に押し寄せる方が過ちはあるまい」と言ったが、陳達は聞き入れもせず、「蒲城県は民がすくなくて、蓄えも多くはない、花陰県は民も富んでいて、蓄えも沢山ある、それなのに大を捨てて小を取ろうとするのは納得できない」というのを、楊春は押し戻して、「花陰県を打つときは、史家村を通るが、そこにいる九紋龍史進という者は、並びなき英雄で虎よりも強いと言うぞ、彼がその村にいながら、どうして我々を好きにさせておこう、考え直すべきだ」と諫めたが、陳達は聞き入れようとしない。

 「お前は意気地のない奴だな、ただ一人の史進を恐れる位なら、数多くの官軍をどう相手にする、誰がいようと、我々は花陰県を打つべきだ」というのを、朱武はつくづく聞いて、「史進の武勇は私もだいたいのことは聞いている、花陰県に向かうことは止めて、蒲城県をおそうことにしよう」と言い終わらぬうちに、陳達は腹を立てて、「そうかそうか、両人は人の武勇を賞めて、自分の威勢をおとしめるのか、たとえ九紋龍が三つの頭をもち、六本の手をもっていたとしても、それがなんだ、俺は人なき道を行くように、史家村を打ち過ぎて、花陰県を襲ってやる」とあくまで広言を吐き散らし、座を立とうとするのを、朱武、楊春が押しとどめて、再三再四諫めたが、陳達は聞く耳を持たず、点呼し、鎧を身にまとい、馬にひらりとまたがり、百四五十人の子分たちを引き連れて、銅鑼を鳴らし鼓を打ちながら、まっしぐらに山をくだり、史家村へと走り去った。

 史進の下僕は、銅鑼鼓の音を聞きつけ、主人に注進すると、史進は下知して、拍子木を叩かせれば、東西南北、四五百人の史家の民たちが、槍や棒をひっさげ、合図に違わず走り集まり、史進の屋敷に充ち満ちた。

 史進のその日の出で立ちは、頭に平らな頭巾を戴き、身に緋縅の鎧を着て、上に青錦の陣羽織を羽織り、萌葱の靴を履き、腰に革の袋を結び、前後に鉄の胸当て、一張りの弓、一壺の矢を携え、手には三尖両刃、四竅八環の刀を持ち、燃えるような赤毛の馬にゆらりとうち乗り、手綱を取って、若い者は前に、老いた者は後に下げて、ときの声を上げて、村の北口に押し出せば、陳達も人馬を率いて既に間近く迫っていた。

 史進が敵を見渡すと、跳澗虎陳達は、紅のくぼんだ頭巾をいただき、金の裏地の黒金の鎧を着て、その上に紅の陣羽織をまとい、靴には戦闘用、二メートルあまりの紐を結んで丈の高い白馬にはませて打ちまたがり、四メートルはあるかという鋼の鉾を横たえ、百五十人の子分たちを前後左右に従えて、一斉に鬨の声を上げ、両軍がひしめくなかを、二人の大将が馬を乗りだすと、陳達は馬上で身を低くし、僅かに礼儀らしきものを見せると、史進は大声で叱りつけ、「お前たちは人を殺し火を放ち、家を襲い村を脅かす盗賊だ、天の責めを受けて死すべき罪人だ、お前も耳があるなら、私の名は知っているだろうに、自ら虎の髭を引っ張りに来るとは身の程を知らぬ愚か者だな」と罵った。

 陳達はこう罵声を浴びせられても、なお言葉を和らげ、「それがしがここに来たのは他でもありません、私たちの砦に兵糧が乏しくなったので、花陰県に行って食料を借りようというのです、もしここを通してもらえますれば、草一つ動かすことなくかの県におもむき、帰りには厚くお礼を致しましょう」と言葉を低くして述べ立てたが、史進はからからとうち笑い、「我が家は代々村長を務め、こっちから出向いて捕らえようと思っていたのに、お前が自ら出向いてきたのをどうして逃がすものか、無用のことばかり言っておらずに、早く縛につけ」と言えば、陳達がまた「四海のうちはみな兄弟というではありませんか、なんで一筋の道を惜しんで、恨みあう必要がありましょう、曲げてお見逃しください」と請い求めれば、史進は頭を左右に振り、「私が許そうとしても、ただ一人納得しない者がいる、その者に問うてこの道を通れ」と言う。

 「それはどなたですか」と問うと、史進は「我が刀がお前を許すことがならぬと言っておる」と言い返すと、陳達もこれにはいよいよ大いに怒り、「言わせておけば言ってくれるものよ、負かされて後悔するなよ」と罵れば、史進もまた大いに怒り、刀を廻して打ってかかる。

 陳達も馬に鞭を入れ、鉾をひねって迎え撃ち、一進一退、上下する切っ先から火花を散らし、一対一で撃ち合った。

 一進一退する様子はまさに龍が水底に遊ぶとき、玉に戯れる風情があった。

 上下に舞う切っ先は、まさに虎が山中で飢え、食物を取りあうようだった。

 九紋龍が打ち込めば、刀は宙に飛び、跳澗虎が突けば、矛先が閃いて、撃ち合うこと数十回に及んだが、史進が偽って太刀筋が次第に乱れるかのようにあしらえば、陳達は機会を得たものと鉾を取り直し、心臓めがけて貫こうとするのを、史進は腰をひねって身をかわし、陳達の槍が宙を裂き、馬人ともに雪崩かかるところを、史進は腕を伸ばし、陳達の帯をつかんで高く差し上げ、大地にどうと投げつければ、村人たちが走り寄り、あっという間に縛り上げ、勢いに乗じて打ちかかると、陳達の子分たちは道を失い、四方八方に逃げ失せた。

 史進は逃げるものを深追いはせず、陳達を引き立てさせて屋敷に帰り、彼を柱にくくりつけ、残る二人の首領も生け捕りにした後、お上に訴え奉り、褒美にあずかることにしよう、と村人ともに酒を飲み、喜びをともにしたので、史家村の村人たちは彼の武勇を誉め、みな頼もしく思った。

 さて、少華山の砦では、朱武、楊春の二人が、陳達のことを心配して、どうしたものか、と言い合っていたが、そのとき子分たちが逃げ帰り、「陳達頭領は、お二人の諫めを聞かずに、果たして史進に生け捕りにされました」と告げ、史進の武勇、戦いの有様などを見たままに語れば、朱武、楊春は大いに驚き、「我々は始めから、陳達では史進の相手にはならないことがわかっていたので、何度も止めたのに、いうことを聞かないものだから災いを招いてしまった」と言って狼狽した。

 楊春は、「こうなっては全員引き連れ、史進と雌雄を決して陳達を奪い返すか、共に討ち死にするかのどちらかしかない、どうであろうか」と問うと、朱武は「無駄なことだ、史進の武勇は力をもっては打ち勝つことはできない、ただこれこれのはかりごとをもってすれば、救い出すことができるかもしれない」といって額を合わせて囁けば、楊春はもっともなことだと合点し、二人して山を下り、史家村を目指して急いだ。

 このとき、史進はまだ怒りが冷めやらずにいたが、村民が走り込み、「少華山の朱武、楊春が来ました」と注進したので、史進は再び馬に乗り、門外で賊たちを待ち受けていると、朱武、楊春は思っていたのと異なり、子分たちも引き連れず、ただ二人だけで歩いて史進のもとまで来て、馬の前にひざまずき、ひたすら涙を流しているので、史進は疑い惑いながら、馬から下りて「お前たち二人は、ここまで来てなにを訴えるのだ」と問うと、朱武はさらに涙を流し、「私たち三人、役人たちに責め立てられ、やもえず山に登り、山賊となったときに、もろともに誓いを立て、同じ日に生まれたわけではないが、願わくは同じ日に死のう、劉備、関羽、張飛の義心には及ばないとしても、その志は同じであるべきだ、と約束しました、それなのに、今日、陳達が我々の諫めを聞かずに虎穴に陥り、たちどころに捕まってしまいました、とても彼を救う力はないと知っておりますので、我々もまた英雄の手にかかって、潔く死のうと思い定め、二人そろって参りました」と滂沱の涙に咽んでいるので、史進はこれを聞いて、ここまで義に深い彼らをなまじいに役人に引き渡して褒美を貰ったりすれば、天下の好漢たちに笑われてしまう、昔から、虎は小さな獣は食べないという、憐れみを乞うものをむざむざ殺すのも忍びがたい、と腹の内で料簡し、「お前たちとりあえず私とともに来い」と言い、屋敷に伴い、「私も一個の男だ、お前たちの義の心を空しくするのは気が済まないので、陳達を許そうと思うがどうだ」と言えば、朱武、楊春は声を揃え、「もしそうしていただければ再生の恩を被り、喜ばしい限りですが、おそらくは若様も巻き添えにしてしまうでしょう、ただただ三人もろとも縛り上げ、役人に引き渡して、褒美を受けてください」と思いつめた様子なので、史進は心に深く感激し、「お前たちは盗人ではあるが、義の心は却って深い、そんな者たちを役人に引き渡し、褒美を乞うことは、大丈夫の恥とするところだ、二度とそんなことを言うな」と言いながら、陳達の縄を解いてやったので、三人は深く喜んで、史進を神か仏のように伏し拝むので、史進は微笑んで、「お前たち酒は飲むか」と問うと、朱武が「死ぬことさえ覚悟しておりましたところ、いただけるものがあるというのをどうして断ることがありましょう」と答えたので、史進は大いに喜んで、三人に酒を勧め、みな許して帰してやれば、朱武、陳達、楊春は始めて蘇った心地がして、史進の恩を喜び、少華山に帰った。

 かくて三人の頭領は砦に戻り、陳達と楊春はひたすら朱武のはかりごとを賞賛したが、朱武は「私はたまたま苦しいはかりごとで陳達を救い出すことができたが、九紋龍がもし義の心に優れていなければ、我々を許して帰すことはなかっただろう、誠に史進は当世の豪傑である」と褒めそやしたので、陳達、楊春も彼の義心が堅いことを感じた。

 さて十日あまりを経て、朱武等三人は、史進に命を助けられた報いをせねばなるまいと、金三十両を二人の子分にもたせ、月のない夜に紛れ、史進の家に向かわせれば、二人の子分は夜の始めに屋敷に到着し、密かに史進に対面して言うには、「三人の頭領、先に命を助けられた恩を忘れることができず、いささかなりとも礼をいたすために、僅かではありますが、これをお送りしますとのことです」と述べて、金を差し出すと、史進は思いもかけないことだ、と受け取らないので、使いの子分たちは懇ろに薦めて、「もしお受けくださらなければ、我々が立ち帰って、告げるべき言葉もありません」というので拒みがたく、それではしばらく預かっておこう、と金を納め、二人に酒を飲ませ、銀一両を渡して帰した。

 その後も、半月あまりを経て、朱武等三人は、また史進の屋敷へ、一連の大粒真珠を贈った。

 史進はこれを受けて、彼等三人が私を敬い重んじて、しばしばものを贈ってよこすのに、こちらもなにか返さねばなるまいと思い、錦の小袖三着を新たに縫わせ、三頭の羊を煮て大きな盆に盛り、誰を使いにしてこれを贈ろうかと思っていると、年来使っている王四というものがいる、気の利いた者で、伯当と呼ばれていた。

 これは唐の始めに、伯当という弁者がおり、王四がそれに似ていたからである。

 史進は使いにはこの王四がよかろうとくわしく使いの旨を命じて、他にもう一人をつけて品物を少華山の砦に贈れば、三人の頭領は深く喜んで、王四等に銀十両を与え、酒食でもてなせば、彼等は十四五杯の酒を飲み、機嫌良く山を下りた。

 こうして史進は、いったんその義を感じると、分け隔てなく朱武たち三人と交わり、ものを贈りまた貰って、日々を過ごし、既に八月になり、十五夜の月を一人で眺めても興がない、この夜には昇華山の三人の頭領を招こうと、その前の日、一封の手紙をしたため、王四を少華山に使いにやった。

 王四は命を受けて史進の手紙を差し出すと、朱武等三人は読み終えてひたすら歓び、返事を書いて王四に渡し、五両の銀を与えて、酒を散々飲ませ、もてなしがいつにもなく手厚かったので、すっかり酔っ払って山を下りているとき、この頃使いに来て時々史進の屋敷に来る子分に行き会い、この子分が王四を麓の酒屋に誘い、また十五杯の酒を勧めたので、王四はさらに酔っ払い、酒屋を出て子分と別れて史家村に帰ろうとしたのだが、山風に吹かれて一層酔いがひどくなり、千鳥足で、林を通るとき、木の株につまずいてはたと倒れて、そのまま前後を知らず眠り込んでしまった。

 そんなところに、兎を追って林の中を徘徊する狩人の李吉が行き会い、前から知り合いの王四が酔い臥しているのを見て、起こそうとすると、腰の袋から朱武等が与えた五両の銀があらわれた。

 李吉はこれを見てたちまち欲を出し、密かに探ってみると朱武等の書簡と銀とが出てきた。

 この李吉はもともと少しは字も読めたので、その書を開いて読んでみると、上書きに少華山、朱武、陳達、楊春とあって、その他のことは文武兼ね備わった文章なので、読めなかったが、かの三人の名前があることに大いに喜び、思いがけず大金にありついた、近頃お上から三千貫の賞金が出て、人を集めて三人の山賊をつかまえようとしている、そもそも俺は前日チビの丘乙郎に会おうと、史進の家を訪ねていったが、史進は盗人と俺をののしった、そのきゃつが盗人と交際しているとは、証拠を得た上は、訴えて出てやると銀と書簡を奪い取り、すぐに逃げ去ったのを、王四は夢にも知らずに、夜も十時を過ぎた頃に始めて覚め、腰の袋がなくなっている、どうしたことかとあちこち探ってみると草のなかに袋はあったが、なかには銀も書簡も見えなかった。

 王四はいよいよ当惑して、銀は失ってもあきらめはつくが、返書を失ってはいいわけがつかない、正直に言ってしまえば、若様はどれほどお怒りになることか、返事はないと偽って言い逃れるしかないな、と思案して、飛ぶように走り帰ったが、夜はもう随分更けていた。

 史進は王四の遅い帰りを見て、「何を手間取っているのだ」と問うので、王四は、「三人の頭領に酒を飲まされ、様々にもてなしをされて、放してくれません、それで心ならずも夜遅くになってしまいました、しかしそれも若様のおかげです」と言えば、「返書はないのか」と史進が聞くので、王四はまた「三人の頭領は返事を書こうとしたのですが、私がどうも酒を過ごしてしまったので、返事を賜り、道中に誤りがあってはいけません、きっと十五日に来てくださるなら、返事には及びませんと申したので、ならばよいように計らってくれ、その夜は必ず伺うからとおっしゃいました」と日頃の弁舌を振るって欺けば、史進はますます喜び、「世間でお前を伯当と称しているのももっともなことだ」と言って、ひたすら彼を褒めあげた。

 かくて仲秋の十五夜になり、史進は様々な酒を用意し、羊一頭、鶏、鵞鳥百羽を煮させて、三人を待っていると、この日は天も晴れ渡り、一輪の月が煌々と昇り、昼のように影に満ちた。

 少華山の頭領、朱武、陳達、楊春は三四人の子分を率いて、史進の屋敷に入ってきたので、史進は下僕に命じて門を固く閉ざさせ、朱武たち三人を奥の座敷に伴い、主客四人で円座して月を賞翫し、羊をとりわけ、酒を勧め、四方山話に興じていると花陰県の知事、馬上に勇ましくうち乗り、二人の将校と三四百人の士卒を率い、松明はさながらきら星のように、史進の屋敷の四面を取り囲み、異口同音に呼ばわるには、「少華山の三人の山賊ども、今夜ここに会合すると訴えによってわかっておる、自ら出て縛めを受けるか、踏み込んで生け捕りにするか、どちらか決めよ」と叫ぶ声が谺に響くほどおびただしい。

 史進は、一点の邪な思いもなく、ただ義に応じて朱武たち三人と親しく交わり、災いが身に及ぶこと、もともと、天罡地煞星がひとつに集ったことによる。

 史進と三人の頭領がいかにしてこの窮地を逃れるか、それは次の巻で。