ヒッチコックの『ハリーの災難』は、ハリーという男の死体が発見され、自分が殺したと思い込んだ複数の人間が、死体をあちらこちらに隠そうとする顛末を描いた映画である。
ヒッチコック映画のなかでももっとも好きな一本なのだが、確かヒッチコック自身も語っていたように、イギリス流のユーモア、あるいはイギリス風の言いまわしのややこしさ(understatement)、よい悪いをはっきり言わずに、悪くないというような、もしくはキートンに通じるようなデットパンの、死体があるのに、まあどうしましょうと日常的な対応で済ませようとする、そうした感覚が発露したものだと思っていた。
ところが、レスリー・ブリルによれば、『ハリーの災難』のおかしさは、そうした不調和な対応にあるのではなく(つまり、死体があるのに、日常の延長でそれに対応しようとする)、暎がから完全に破壊的なものを排除しているところにある。映画のなかの誰も実際的な苦痛を受けたり、その原因になったりはしない。またそうした脅威にさらされさえしない。この映画の喜劇的な要素とは、結局のところ、再生というテーマの強迫観念的なまでの反覆にあるのだという。時間や死が人を傷つける力をもたないなら、恐れるべきなにがあろう。
それに死体は最終的には、小さな田舎町を一組のカップルを中心に結びつける。そうした意味で、『ハリーの災難』はヒッチコックの映画のなかでも、ロマンス(ノースロップ・フライの分類によるところの)として完成したものだということになる。
説得力はある議論だが、シニカルなイギリス流ユーモアだという旧来の考え方を捨てるまでにはいたらないか。むしろ、ユーモア感覚が、この映画をロマンス的なものにした方が効果的だと考えた、という方が実情に合っているように思う。
ヒッチコック映画のなかでももっとも好きな一本なのだが、確かヒッチコック自身も語っていたように、イギリス流のユーモア、あるいはイギリス風の言いまわしのややこしさ(understatement)、よい悪いをはっきり言わずに、悪くないというような、もしくはキートンに通じるようなデットパンの、死体があるのに、まあどうしましょうと日常的な対応で済ませようとする、そうした感覚が発露したものだと思っていた。
ところが、レスリー・ブリルによれば、『ハリーの災難』のおかしさは、そうした不調和な対応にあるのではなく(つまり、死体があるのに、日常の延長でそれに対応しようとする)、暎がから完全に破壊的なものを排除しているところにある。映画のなかの誰も実際的な苦痛を受けたり、その原因になったりはしない。またそうした脅威にさらされさえしない。この映画の喜劇的な要素とは、結局のところ、再生というテーマの強迫観念的なまでの反覆にあるのだという。時間や死が人を傷つける力をもたないなら、恐れるべきなにがあろう。
それに死体は最終的には、小さな田舎町を一組のカップルを中心に結びつける。そうした意味で、『ハリーの災難』はヒッチコックの映画のなかでも、ロマンス(ノースロップ・フライの分類によるところの)として完成したものだということになる。
説得力はある議論だが、シニカルなイギリス流ユーモアだという旧来の考え方を捨てるまでにはいたらないか。むしろ、ユーモア感覚が、この映画をロマンス的なものにした方が効果的だと考えた、という方が実情に合っているように思う。
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