2015年4月7日火曜日

萩原朔太郎と複数性


吉川幸次郎が儒学や杜甫についての大学者なのはいうまでもないが、学問の厳しさを感じることはあっても、批評の鋭さを感じることはなかった。

ところが「萩原朔太郎ーもの、寝台、陸橋ー」という10ページにも満たないような短い文章は、どんな朔太郎論よりも説得力のあるものだった。とはいえ、それほど朔太郎論を読んでいるわけではないので、この短文はとっくに問題にされているかもしれないし、異なった視点から同じような結論を引きだしている人もいるのかもしれない。

とにかく、吉川幸次郎によれば、朔太郎は常に複数を求める。複数を支えるのは抽象である。たとえば、詩「竹」にある「もの」は多くの詩人の場合のように象徴ではなく、抽象である。複数の世界の重さに堪えるものとして「寝台」があった。

象徴ではなく観念が求められたから、朔太郎は自然には興味をもたなかった。

陸橋を渡つて行かう
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで(「蝶を夢む」ー陸橋−」)
陸橋の下にあるのは自然ではない、もつれ合う複数の軌道である。

桑原武夫が、京都の竜安寺に詩人を案内したとき、これらのコンクリートの塊は、どのように合成したのかと問われて、困惑したという。

2015年4月1日水曜日

ヒッチコックの『ハリーの災難』とロマンス


ヒッチコックの『ハリーの災難』は、ハリーという男の死体が発見され、自分が殺したと思い込んだ複数の人間が、死体をあちらこちらに隠そうとする顛末を描いた映画である。

ヒッチコック映画のなかでももっとも好きな一本なのだが、確かヒッチコック自身も語っていたように、イギリス流のユーモア、あるいはイギリス風の言いまわしのややこしさ(understatement)、よい悪いをはっきり言わずに、悪くないというような、もしくはキートンに通じるようなデットパンの、死体があるのに、まあどうしましょうと日常的な対応で済ませようとする、そうした感覚が発露したものだと思っていた。

ところが、レスリー・ブリルによれば、『ハリーの災難』のおかしさは、そうした不調和な対応にあるのではなく(つまり、死体があるのに、日常の延長でそれに対応しようとする)、暎がから完全に破壊的なものを排除しているところにある。映画のなかの誰も実際的な苦痛を受けたり、その原因になったりはしない。またそうした脅威にさらされさえしない。この映画の喜劇的な要素とは、結局のところ、再生というテーマの強迫観念的なまでの反覆にあるのだという。時間や死が人を傷つける力をもたないなら、恐れるべきなにがあろう。

それに死体は最終的には、小さな田舎町を一組のカップルを中心に結びつける。そうした意味で、『ハリーの災難』はヒッチコックの映画のなかでも、ロマンス(ノースロップ・フライの分類によるところの)として完成したものだということになる。

説得力はある議論だが、シニカルなイギリス流ユーモアだという旧来の考え方を捨てるまでにはいたらないか。むしろ、ユーモア感覚が、この映画をロマンス的なものにした方が効果的だと考えた、という方が実情に合っているように思う。