平賀源内の『放屁論』を読んでいて思い起こすのは落梧の『あくび指南』で、放屁を見世物にするのもバカバカしいが、あくびを習うのもバカバカしい。
しかし、バカバカしさにおいては落梧の方がいささか勝っているようだ。
『放屁論』では両国橋のたもとで、幟を立て、様々な屁をこき分ける見世物を見たある男が腹を立て、品川、というから女郎屋なのだろう、ある女が客の前でおならをしてしまい、恥じのあまり自害しようとするのを仲間や客が必死になだめたという例を引き、屁などは自宅でひそかにするものなのに、公然と見世物にして恥じないとは何事か、と憤るのだが、源内の意見を代弁するかのような男がそれに反論し、世の中に下品なものは数あるが、一等下品であると思われる糞尿でさえ、畑の肥やしになり、人々の役に立っているが、屁だけはなんの役にも立たない無用の長物、そのとことん役に立たないものをいっぱしの見世物にまでしたのだから、立派なものではないか、無用なものが芸にまでなるのだから、有用なものをとことん工夫できる者があるなら、世の中はずっとよくなるだろう、と文明論にまで踏み込むことでいささかバカバカしさを損なっているのだが、そこまで話を大きくするバカバカしさは十分魅力的なので、いい勝負ではある。
そういえば、荻上チキのラジオ『Session-22』で、水木しげるの追悼番組をしたとき、ゲストの呉智房が話していたが、水木しげるは「屁を二尺した」(三尺だったかな)というような表現をしていたそうだ。
『放屁論』後編の「跋」では、屁の音には三種類あり、プッとなるのが一番品があって形が丸く、ブウとなるのが次にきて、形は米びつのようであり、スーとすかすのが一番下品で、細長く少し平たい、とある。
水木しげるにも江戸の風が吹いていたのだろう。
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