2018年7月31日火曜日

さかさまにうてばのぼれどすむ空にたまりもあへず落つるこきの子 細井翁


前書き「みづから画ける羽子のこのうへに」

羽子板でうつのはムクロジの核に羽をつけたもので、「きの子」は木の子で、羽はついているが、空にとどまることはできないということか。

こぼれさいわい

・「こぼれさいはひ」とはなにをいうか。むかし女の子が三人一つ枕で寝ていた。姉が自分の上に富士山が転がり落ちた夢を見たというので、人をやって夢判断をさせた。それは富んだ男が旦那になる吉夢だと祝うので、次の娘はあれほど大きい富士の山が姉一人の身だけで収まるわけはない、両方に寝ていたものにも落ちたことだろうと喜んでいたら、果たして三人ともめでたく富貴の男を得た。そこからこの言葉はできた。

2018年7月30日月曜日

喜劇のために










 芸の達成は、作品の発生と同等の現象だと考えてよいのだろうか。単なる言葉の連なりがどこかで詩や小説になり、或はどこかで笑いや涙を、つまりは感動を伴った余剰の意味を生みだす作品になる、そうした変化と芸の達成は同じものなのだろうか。大根役者の芝居が名優と同じ台詞を語っていながら、なんの感動ももたらさないように、内容としては同じでありながら、感動をもたらす作品と退屈でたまらぬ作品があり得る。外国文学の翻訳のことを考えればわかりやすいはずだ。Iを「僕」と訳すか、「俺」と訳すか、或は「私」と訳すか、いずれかによって感動の質は変わるだろう。例えば、レイモンド・チャンドラーのフリップ・マーロウが自分のことを「わて」と言ったなら、『長いお別れ』はよほど変な印象をもたらす作品へと変わるだろう。

 単なる言葉の羅列と文学との相違が、我々の住まう意味の網の目に関わっていることは確かである。日常的に、ルーチンに消費される意味とは異なる何らかの新たな意味の布置があらわれたときに、我々は作品の誕生を感じ取る。そうした布置の変化が最も明瞭なのが悲劇と喜劇である。

 身体的に言えば、横隔膜の震えが笑いであるように、意味の引き攣れが笑いを生みだすと言ってもいいかもしれない。数ある落語のなかでも最も奇天烈なものの一つに「あたま山」がある。

 けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。

 この噺のもとになったのは安永二年の『口拍子』にある次のような小咄である。

         神田にお玉が池といふ有り。誠はあたまの池なり。昔、この辺に住みける人の親父のあたまに池ができて、鮒や金魚が大ぶん住んで珍しいことゆへ、遠近より群衆をなして見に来る。息子、外聞かた/\気の毒なれば、見物の来ぬやうにしたいと思ふ折ふし「私は山の手から承り及んで、親父様のあたまの池を拝見に参りました」息子「遠方からせつかくお出なされましたが、親父様、世上の沙汰を気の毒に思はれまして、夜前、あたまの池へ身をなげられました」 (武藤禎夫編『江戸小咄辞典』)

 お玉が池というのは、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。

 つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。

 『江戸小咄辞典』の「鑑賞」によれば、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。

 良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。

 もっとも、この挿話は落語の「あたま山」や引用した小咄の類話としてあげられているもう一つの話の方により大きな割合で取り入れられている。

 そちらの話(同じく安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」)では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答えた。

 『口拍子』のものとは異なり、落語の「あたま山」と「梅の木」には木を引き抜いた跡に池ができるというくだりがあり、『徒然草』とのより近しい類縁性を示している。また、自分の頭の池に身を投げる方法も説かれている。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。

 川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、彦六の八代目林家正蔵(いまのこぶ平の正蔵ではなく、前の木久蔵である林家木久扇がよく真似をする方の正蔵)だけだったそうだ。

 そういえば、話自体にはなじみのある「あたま山」だが、落語として聞いた覚えがわたしにはない。それはともかく、正蔵も自分の頭に身を投げる方法について次のように説明していたという。

 「そうだねェ、お前わからなけりゃァ、絵解きをして聞かしてやるがね、あのねェ女の方が紐なんぞを縫ってることがあるだろう」 「へえへえへえ」 「最初縫うときにァ、針目を上にして、ね?チクチクチクチク、いま運針というがねェ、針をこう運んでるだろう」 「へえへえへえ、へえ、そうですねェ」 「縫い上がるとどうするィ?物差しをあてがって、ひとつこう、ひっくり返すだろう、な?そうすると、細紐がこう出来上がるねェ」 「へえへえへえ」 「あれとおんなしだァな」 「どういうわけでおんなしですゥ?」 「困ったねェ、お前わからないかい?――」 「わかりませんねェ」 「だからさァ、かりにね、頭の、池だねェ、頭に池があるとする」 「へえへえへえ」 「これをお前、人間がめくれめくれていきゃァみんな入っちまう」

 人間を裏返すという発想は「梅の木」と同じである。ちなみに、アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことが頭池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。

 しかし、この解釈はわたしには疑問だった。「あたま山」の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。

 喜劇というジャンルの定義は定めがたい。アリストファネス、シェイクスピアから、ワイルド、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、モンティ・パイソン、森繁久彌の社長シリーズや『男はつらいよ』まで包含するような定義がいったい可能なのだろうか。

 アレンカ・ジュパンチッチは『仲間どうし』という喜劇論で、真の喜劇と偽物の喜劇とを区別している。ジュパンチッチには『リアルの倫理』というカントとラカンについての、またニーチェについての著作があり、おおよそカント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン、ジジェクといった思想圏内にいる人物である。その喜劇論の出発点はヘーゲルの喜劇論にある。

 ヘーゲルによれば、叙事詩、悲劇、喜劇は宗教と同じく、精神の偉大な達成である。というのも、いずれにおいても、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものが扱われているからである。叙事詩では、吟遊詩人たちによって神々や英雄たちの行為が物語られる。悲劇では、運命や死といった普遍的、絶対的なものが上演され、表現される。

 ジュパンチッチが言うには、ヘーゲルの喜劇論の特異な点は、ヘーゲルが、喜劇においても普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものとのつながりを手放さなかったことにある。

 ごく通俗的な喜劇観に従えば、喜劇こそは、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものからは抜け落ちてしまう日常の細部がそうした大問題に対して反旗を翻し、それらを切り崩して勝利を収めるものだということになろう。ところが、ヘーゲルは、ちょうど悲劇の演者が必然や運命という巨大な力のごく小さな一部であるように、喜劇における日常の具体的な細部は普遍、本質、絶対を切り崩す否定という絶対的な力が顕現したものであり、この否定こそが喜劇の生みだす普遍であり、本質であり、絶対だと言うのだ。

         喜劇は普遍の土台を切り崩すものではなく、普遍(自ら)の具体への反転である。それは普遍に対する異議申し立てではなく、普遍そのものの具体的な労働或は作業なのだ。或は、これを一言で言えば、喜劇とは作業中の普遍である。この普遍は活動している存在として表象(再現)されているのではなく、まさにいま働いている。(アレンカ・ジュパンチッチ『仲間どおし』)

 これだけでは具体的にどういうことが言われているのか定かではないが、真の喜劇と偽物の喜劇との区別の仕方を見ると、朧気な視界が徐々に晴れていくことになろう。

 アレンカ・ジュパンチッチが言う偽りの喜劇とは、おかしみをすべて「人間の弱さ」に回収するものである。例えば、王様、貴族、裁判官、宗教家など象徴的な権威をもつ者たちが愚かしい姿をさらす。彼らは我々と同じように、いびきをかき、おならをし、足を滑らせて転び、欲望に負ける。喜劇にはよくあるシチュエーションである。

 偽りの喜劇は、このシチュエーションをどれだけ偉そうに振る舞い、地位や権威のある人物であっても、所詮は我々と同じ人間なのだ、と説明しようとする。それは、いかにも現実暴露的で、反権力的なラディカルな姿勢に見える。普遍的なもの、象徴的なものを具体性、人間すべてが従わねばならない物理的法則に引きずり下ろしているようだ。

 しかし、この具体性なるものは、普遍性対具体性という非常に抽象的な図式のなかでの具体性でしかない。王様など権威者の愚かさは普遍的な人間性に回収された上で笑われ、彼らの権威は無傷のままに残り、尊敬の対象であり続ける。つまり、いかに権威のある者でも我々と同じ人間に過ぎないという見方は、同じ人間であるのにどうして王様や貴族は象徴的な権威を身につけるにいたるかという反対の方向性を隠蔽してしまう。

 では、真の喜劇とはなんであろうか。

        我が儘な貴族についての真の喜劇は、実質的に次のような型に従うべきである。自分が真に、本来的に貴族だと信じている貴族が、まさしくその信念において普通の愚かな人間だということだ。別の言葉で言えば、貴族に関する真の喜劇は、この概念の普遍的な側面そのものが人間性、肉体、主体を生みだすという具合に処理されるべきである。ここでは、身体は魂の欠かすことのできない基盤ではない。それぞれの内にある確固たる信念こそが魂を可能な限り肉体的なものとする地点なのだ。人間的弱さという水たまりのなかに幾度となく落ちる貴族の具体的な身体は、単にぬかるみに横たわる経験的な身体ではなく、より以上に、貴族である自分、自らの「貴族性」への信頼である。この「貴族性」が普遍そのものの精髄として喜劇によって生みだされる真の喜劇の対象である。(『仲間はいり』)

 つまり、道徳的、倫理的規範とも成るべき存在が喜劇のなかで笑われるとき、そこで笑われているのは我々と同じ次元にまで引きずり下ろされた「人間」ではなく、人間が体現する道徳的、倫理的規範である。人間の弱さは物理法則に従わねばならぬことにではなく、道徳的倫理的規範にあらわれる。喜劇の観客は、理想となるべき存在(王、貴族などの権威者)が権威をもつことにおいて愚かなのを見て、理想との同一化と脱同一化のあいだをさまようことになる。

 ジュパンチッチのこうした議論は、チャップリンの『独裁者』やマルクス兄弟の『我輩はカモである』などを思い浮かべれば容易に理解されるだろう。独裁者は一人の人間として滑稽なのではない。一介の街の床屋が入れ替わりうるような、グルーチョのナンセンスな言葉が戦争へと通じるような独裁者という権威、役割、地位そのものが滑稽なものとして笑われているのだ。

 チャップリン、キートン、ロイド、ロスコー・アーバックルなどのサイレント映画を見れば、警官は警官である、金持ちは金持ちである、店の主人は店の主人である信念のもとに肉体化されている。その一方、人は投げられて宙を行き交い、殴られてはバネ仕掛けのように起き上がり、ハンマーに打ち据えられ銃で撃たれても動き続ける非人間的な物理的耐性を備えている。つまり、人間は所詮人間でしかない、というのが喜劇が教えてくれる知恵だという見解とは反対に、喜劇の人物は常に人間性から逸脱しようとするのだ。こうした、人間性と非人間性、普遍と個、抽象と具体が衝突して、しかもその衝突がどちらか一方に解消されないところに真の喜劇がある。

 真の喜劇がはらむこうした内在的矛盾を、ジュパンチッチはメビウスの輪に例えている。巨大なメビウスの輪に立っていると想定しよう。我々はいま立っている場所とは別次元の裏面があると思っており、実際にどの場所に立とうが裏面は存在する。人間性の裏に非人間性が、普遍の裏に個が、抽象の裏に具体があるかのように。だが、ずっと歩いていけば、最初にいた場所のまさしく裏面にたどり着くはずだ。同じように、人間性がいつの間にか非人間性に、普遍が個に、抽象が具体へ、そしてその逆の方向へと運動を続けるのが喜劇の魅力である。

 使われている言葉、対象となる作品こそまったく違うが、ジュパンチッチの喜劇論は幸田露伴の笑いについての説に近いところがある。

 明治三十年代の露伴は、明治二十年代のように矢継ぎ早に小説を発表することがなくなり、むしろ小説から徐々に遠ざかりつつあった。露伴最後の長編小説『天うつ波』は、日露戦争という国家の一大事のなか、「比較的に脂粉の気甚だ多き文字」を書き連ねることへの忸怩たる思い、兄の郡司成忠がロシア軍の捕虜になる事件、及びそれに関連した様々な風聞(郡司の生活の拠点であった占守島の人々が虐殺されたという噂もあり、郡司自身の生死も当初は不明だった)などいくつかの理由により中断し、結局その後完成することがなかった。

 『一国の首都』のような都市論や随筆など小説以外の文章が多くなり、尾崎紅葉とともに紅露と称された小説家の露伴が終わり、明治四十年代以降から始まる『頼朝』『平将門』『蒲生氏郷』といった史伝、『努力論』『修省論』などといった修養書を書くにいたる露伴が準備されていた時期だと言える。

 この時期を特徴づける要素の一つは、笑いへの関心である。『春の山』(明治三十三年)、『笑話』(明治三十八年)などで小咄を収集する一方、明治三十六年には『狂言全集』を校訂している。もともと露伴の短編には、「新学士」のように流麗な語り口で軽く落とすコント風のものから、「毒朱唇」のような哲学的諷刺、ほぼ落語の台本とも言える「貧乏」、江戸戯作の伝統を受けた「艶魔伝」にいたるまで、笑いの要素に欠けるわけではない。

 しかし、『吾輩は猫である』の夏目漱石の笑いを機知の産物とし、齋藤緑雨のパロディや文体模写を相手の肺腑を抉るアイロニーだとすると、露伴の笑いはだいぶん様相が異なり、ユーモアが主調になっていると言えようか。

 フロイトによれば、機知や滑稽とは異なる「なにかしら堂々としたところ、なにかしら魂を昂揚させるようなところ」がユーモアにはある。それは「明らかに自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹ということから発している。この場合、自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)と言っている。

 実際、露伴の文章は、漱石や緑雨のように、思いもかけなかったもの同士を結びつけるパンチ・ラインで反射的痙攣的な直接的笑いを引き起こしはしない。むしろ高揚した堂々とした気分にさせるものだ。それは漱石にも緑雨にも感じられないことである。

 狂言全集を校訂し、笑い話を熱心に集めていたころの露伴の笑いについての考えは、明治三十六年に東京帝国大学でなされた講演を原稿にした「滑稽談」という文章にあらわされている。

 そこで露伴は『竹取物語』にまでさかのぼり、日本の滑稽の歴史を一望している。『竹取物語』に続くものとして、狂言、『鴉鷺合戦物語』、江戸時代に入り『醒酔笑』、西鶴の『名残の友』、『鹿の子餅』、『軽口御前男』といった笑い話集があり、黄表紙、落語、川柳、狂歌へと続く。

 だが、このように、日本の笑いの歴史をたどった露伴がたどり着いた結論は、「併し我が邦の滑稽の文学はまだどうも立派なものを有つて居らぬのです。日本の滑稽作者に誰を推したら好いのですか、誰も無いではありませんか」というしごく厳しいものとなる。なぜなら、駄洒落や地口や謎をもっぱらとしており、江戸文芸に明らかなように、表面的な戯れに終始しているからである。

 それでは、「立派なる滑稽の文学」とはなんだろうか。ここで、露伴特有の、機知ともアイロニーとも異なる笑いの性格が明らかになる。

         立派な涙は何であるかと云ふと、詰り感情の深い渓の美しい水です。立派な怒と云ふのは何であるかといふと、道義の念の燃え上る壮(さかん)な熱ではありませんか。さて立派な笑と云ふのはさう云ふ熱でも水でもない、さう云ふものの好い調和を得たところに咲く優麗美妙な一つの或美しい華ではありますまいか。即ち解脱の光景ではありますまいか。今日までの日本の人の間には火の働きも水の働きも弱かつたので、為に解脱の光景も立派でなかつたのではありますまいか。今後の人は中々昔の人とは違ふ、泣ッ面も怒り面も大分激しくなつてまゐらねばなりませぬ。であれば随つて笑も今までとは違つて大きな光景を現はし来らなければならぬです。それ等の事から考へますると、明治になつて既に三十何年になりますが、今までは滑稽の文学が出てまゐらないのも寧ろ当然のことであり、又幸福と云つても宜い位であるとおもひます。何故ならば若し明治以来の火や水が少い僅かな火や水であつたならば、もう疾(と)うに相調和して仕舞つて、美しい光景たる滑稽のものが出来て現はれて居る筈である。けれども未だに何等の滑稽の作も現はれて居らぬ所を見ると、是から先になつて出て来るのではないかも思ひまする。明治はまだ若いのです。まだ泣いて居るのです、怒つて居るのです。笑の文学が出るほど熟して居ないのです、是から先に段々出て来るのです。

 「好い調和」といった一見静的な言葉にだまされてはいけない。この調和は、人間のあるがままの姿に自ずとあらわれるようなものではない。「感情の深い渓」と「道義の念の燃え上る壮んな熱」が、つまりは感情という身体的で個的なものと道義の念という普遍的で公的なものとが衝突する場なのである。悲しみや怒りが大きなものであればあるほど、その衝突によって生まれる笑いはより高らかに響き渡ることとなろう。

 「解脱」という言葉は通俗的な宗教解釈によってすっかり手垢にまみれたものになってしまっているが、そもそも、人間性が非人間性に、個が普遍に、抽象が具体に通じるようなメビウスの輪に立つことを意味しているのではないだろうか。そしてそうした反転を、狂気に陥らずに、メビウスの輪のようにある意味簡単で安定した空間として捉えること、「自我の不可侵性の貫徹」をあくまで成し遂げているところに露伴の笑いの特徴がある。

春に今朝(けさ)あふぎ〳〵とよびこみて松と竹との枝かはしませ 奧政


前書き「扇売」

新年の松飾りと扇の骨となる竹とが交叉する。

湯入り

・なんでも水に入ったものを湯入り(船底の水に浸ったもの)というのはなぜか。沖なかで(燠のなかで)だめになったということから来るか。

2018年7月29日日曜日

ことしより拍手なほらん天からのめぐみをえたる鍛冶が初夢 隣鶴

前書き「鍛冶初夢」

「なおらん」は正しく改められる、という意味か。あるいは「拍手」は大きく薄い、鍛冶には向かない手で、それがなおったということか。

ぬかる



・何ごとも油断して、対応が遅れることを「ぬかる」という。俊成卿の歌に
   せき入る〃苗代水(なはしろみづ)やこぼるらんぬかりて道の乾くまもなし

2018年7月25日水曜日

臣は水君もろともに御座船の湊に風をまつかざりせり 小鍋のみそうづ

「御座船」は貴人の乗る船。「まつ」は松と待つをかけている。

梵天瓜

・大和国から産出する「ほてん」という瓜があり、延暦寺の最澄の弟子慈覚大師、天長十年四十のとき、身体が衰弱し、視野が暗くなった。もう命が長くないことを悟り、叡山の北の谷に草庵を結び、三年のあいだ行をして終焉のときを待っていると、ある世、夢に天人があらわれた。霊薬だと与えられた。その形は瓜に似ている。半分を食した。味は蜜のようであった。人があって告げるには、梵天王の妙薬である。夢からさめると、まだ味が残っていた。やせた姿は健やかになり、暗かった視野は明るくなった。その半片を土にまくと、完全な瓜が生じたが。いまの梵天瓜(マクワウリ)がそれである。元享釈書にある。(梵天と「ほてん」をかけた。)

2018年7月23日月曜日

羽左衛門と吉田松陰ーー河上徹太郎『羽左衛門の死と変貌についての対話』






 谷崎潤一郎の『芸談』(昭和8年)に次のような一節がある。

劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。

 珠でなくとも、革製品でも、木製の家具でもある程度長い間使用した者にはわかることだが、色艶は徐々についていくものではない。ある期間磨くなり、常用するなり、手入れをするなりして、気がついたときには色艶がでている。まさしく色艶の出た瞬間というのは捉えがたいもので、常にまだ艶が足りないか、もう既に艶が出ているかである。

 しかし、「珠を磨く」という例えでは、単調な繰りかえしだけが艶を生じさせるという印象をもつ。実際、多くの芸談ではいままさに艶の出る瞬間のことは括弧に入れられ、厳しい稽古のことだけが語られる。谷崎潤一郎も述べているが、昔の稽古というのは幼児虐待と紙一重で、団十郎(十一代目)の師匠(養父)は、実家の人に向い「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐたら素晴らしい役者になるでせう」と言って、仕込みの途中で死んでしまうならそれも仕方がないという覚悟を示したという。そうした稽古の継続の結果僥倖として色艶を出せた者が名優と呼ばれるわけである。

 この神秘的な暈に包まれた芸の本質を解析しようとする試みがなかったわけではない。例えば河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』(昭和5年)などはそうした試みの一つと言えるだろう。もっとも、この一篇はプラトンの対話編を擬したもので、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラス三名による非常に抽象的な対話によって成り立っており、実在の羽左衛門とどう関わっているかについてははっきりしない。

 実在の羽左衛門について少々述べておこう。

 十五代目市村羽左衛門は明治七年に生まれ、昭和二十年に死んでいる。若い頃はその不器用さから「棒鱈役者」と呼ばれたというし、二枚目役が中心で芸域はそれほど広くなかったというから、なんでもこなす器用なタイプの役者ではなかったのだろう。

 折口信夫はその『市村羽左衛門論』(昭和22年)で、「書き進んでから、つく/″\恥を覚える。よくも知らぬが、中村加鴈治郎を中にして、前後にゐた優人たちのことなら、或は努力すれば書けるかも知れない。全く市村羽左衛門に到つては、私の観賞範囲を超えた芸格を持つた役者だつたのだ、とつく/″\思ふ。其に、此人の芸は直截明瞭な点が、すべての彼の良質を整頓する土台となつてゐたので、そこには一つは、その愛好者の情熱を牽く所があるのだ。だから彼の芸格が、私に呑みこめぬといふ訣ではない。根本からしても、彼の芸の持つ地方性が、私の観賞の他地方的な部分にどうしても這入つて来ないかと考へた」とその観賞の難しさを述懐している。

 歌舞伎についての教養のない私には、羽左衛門の東京生れの「地方性」なるものと芸域の狭さを、例えば久保田万太郎の小説や桂文楽の落語と置き換えてみれば理解しやすくなるのだが、それがどれ程の妥当性をもつかはわからない。少なくとも、折口信夫によれば、万太郎や文楽がそれぞれの分野において新たな声を産みだしたように、羽左衛門の新しさもその声にあった。

        思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作る《アクセント》――その〈せりふ〉の抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。

 また、正宗白鳥も羽左衛門には賞賛を惜しまない。三宅周太郎との「芸談義」という対談で、羽左衛門を次のように位置づけている。

 「左団次が出て、一時、昔風の歌舞伎は勢いが衰えていた。左団次が盛んな時は、歌舞伎は羽左衛門が閑却されたようだった。しかし、彼は昔のまゝでまっておったようだ。幸四郎ほども新を志していなかった。」

 左団次とは二世市川左団次(明治13~昭和15)のこと。ヨーロッパに演劇研究の旅をしたあと、小山内薫と組んで自由劇場を創立し、イプセン、ゴーリキー、メーテルリンクなど海外の作品、日本では森鷗外、吉井勇、秋田雨雀などの作品を舞台にあげた。その一方、鶴屋南北を復活させ、岡本綺堂や真山青果らと新歌舞伎をつくりあげようとした新劇と歌舞伎の垣根を越える革新的な演劇人だった。羽左衛門にはそうした改革の鋭さはなかった、というのである。

 「三木竹二さんによく聞いておったけれども、羽左衛門は、彦三郎は若いとき、竹三郎と云っていたところの、面影があるといっておりました。羽左は昔の江戸の世だったら非常に人気があった筈だ。羽左は、五代目よりもこせこせしたところがなかったし、ぼうっとしたところがあった。彦三郎の方が五代目以上の風格を持っておったそうだが、羽左は五代目に学びながら、却って、知らない彦三郎の趣きを出していたのじゃあるまいか。」

 ちなみに三木竹二は森鷗外の弟である。彦三郎というのは、羽左衛門とほぼ同時期の六世板東彦三郎(明治19~昭和13)ではなく、五世板東彦三郎(天保3~明治10)である。五代目というのは五世尾上菊五郎(弘化1~明治36)のこと。五世菊五郎は五世彦三郎の演出を継承するところが多かったという。つまり、羽左衛門は五世菊五郎に学びながら、直接には知ることのない五世彦三郎の芸を継承していたわけである。二人の意見では、羽左衛門の真面目は『近江源氏先陣館』の盛綱、『源平布引滝』の実盛など生締物(実在の人物を演じること。油で棒状に固めた生締という鬘を用いるところからこう呼ばれる)にあった。

 そして、白鳥は「実盛を見に行ったときは、年代からいっても、羽左衛門は実に歌舞伎の持つ魅力、歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力を与えていた。昔の役者のそれを彼は備えておった」と絶賛している。

 もっとも、正宗白鳥よりはやや年上で、歌舞伎役者に多く知り合いをもつ家に生まれ、二歳のときに始めて芝居を見物、十八歳からは劇評を、その後歌舞伎の脚本まで書くことになった岡本綺堂(白鳥は明治12年、綺堂は明治5年の生まれ)によれば、真の歌舞伎は羽左衛門の登場より遙か以前に滅びていた。

 五世尾上菊五郎、九世市川團十郎が相次いで死んだ明治三十六年がその時であった。「今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものは稍々一種の変体に属するかとも思はれる」(『明治の演劇』)と綺堂は書いている。

 岡本綺堂の「真の歌舞伎劇」とはどういったものを指すのだろうか。綺堂は菊五郎がその晩年(明治33年)勘平を演じたときのことを記している。『仮名手本忠臣蔵』四段目の裏として書かれた清元「落人」の道行の勘平である。菊五郎は五段目、六段目の勘平は数多く演じたが、道行の勘平はこのときがはじめてだった。

 楽屋の菊五郎は、「役者が五十七になつて、道行の勘平が初役といふのも可笑しいぢやありませんか。まあ、若い者の御手本に遣つて見せてゐるやうなもので、おそらく終り初物でせう」と言っていたという。そして、実際、最初で最後になったのだった。

今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせて、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。

 綺堂の言う菊五郎の「云ふに云はれない柔かみ」は、白鳥が昔の役者がもっており、羽左衛門にいたって再びあらわれたと言った「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」とさほどの変わらないようだ。どちらの役者も、各役柄に関する型の完成の上に、独特な存在の風味をもたらした。

 恐らくそれは、いま我々がテレビなどで役者の私生活の一端を知り、それを舞台上の姿に安易に結びつけることで生じるその役者の「キャラクター」とは似て非なるものに違いない。岡本綺堂が「ふつくらした柔か味のある舞台」と言い、正宗白鳥が「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」と言ったことに注意しよう。そこでは、菊五郎や羽左衛門という個人ではなく、歌舞伎そのものが光り輝いていたのである。

 大して知識のない歌舞伎の、しかも一度も眼にしたことのない役者について語ることには、手袋をはめた手で靴の上から痒いところを掻くかのようなまどろっこしさを覚えないわけにはいかない・・・と思っていたが、NHKの歌舞伎の歴史を振り返るといったたぐいの番組で、羽左衛門の姿を一度見たことがあるのを思い出した。細かいことは忘れてしまったが、殿様かいずれにしろ侍の役だったが、もちろんモノクロで、劣化がひどかったので、言葉も聞き取れなかった。

 とにかく、生身の羽左衛門のことはこれまでにして河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』に戻ることにしよう。

 ところで、この一篇を読むためには、羽左衛門がどんな役者であったか最小限の知識を仕入れておくとともに、この頃(昭和5年前後)、つまり初期の評論において、河上徹太郎がどんなことを問題にしていたかについても知っておく必要がある。

 この対話は、プラトンの対話篇を擬したというよりは、プラトンを擬したヴァレリーの対話篇を擬している。プラトンの対話篇にあるような日常会話から哲学的会話への緩やかな傾斜もないし、プラトンでしばしば登場するそれまでの議論を整理要約する人物もいない。対話というよりは、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラスの三人が共通の観念を精錬していく過程を辿ったものだと言える。それゆえ、この共通の観念をわかっていないと対話はいたずらに難解なものにとどまるだろう。

 ちなみに、河上徹太郎が恐らく生涯でただ一度アクロバティックなレトリックを駆使したこの「対話」を、吉田健一が河上の代表作の筆頭に挙げていることを申し添えておこう。

 「ここで語られてゐる運動といふものの性質、その運動が氷河の流れの形を取つて放つ光芒、又心理と物質の交錯としての持続の分析、又認識の果てに人間の精神を待つてゐる眩暈、或は要するにさうした事柄がこの文章で手で確められる感触を日本語によつて得てゐることはこれが日本語の歴史の上での事件であるとともにどこのものでもなくてどこのものでもある言葉の世界に対する寄与であることに就て疑ひの余地を残さない」(『交友録』)と吉田健一は書いている。

 この作品と対になり、それを別方向からより散文的に表現しているのが同年に書かれた『自然人と純粋人』である。そこで特徴的なのは、河上徹太郎が後にも繰りかえし論じることになる西欧の作家たち、ドストエフスキー、ジッド、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどに並んで「忠臣蔵六段目」が引かれることにある。この引用は、ドストエフスキーの手法、それを方法論にしたジッド(「手の理論をば眼の理論にした」)への言及に続くものであり、唐突な印象さえ与える。

 かう考へて来ると、発生的には自然芸術である我が歌舞伎劇の、現代の我々に及ぼす感銘も容易に論結出来るのである。殊にドストエフスキーの中で最も二義的な時空の制約を帯びた『悪霊』の如き作品と、純粋な戯曲作法の論理の最も複雑した「忠臣蔵六段目」の如き舞台を比べて見給へ。前者が時間的に行つた「色」の理論が後者にあつては空間的に行はれてゐるのである。この舞台へ現れる途方もなく一徹な人々が私の頭の中で交錯諧調して、フランクの音楽の半音階的進展の如く、あらゆる人間世界を展開するのである。殊に俳優の型、その他歌舞伎特有の種々な形式は、人物が実在的なものでなく、却つて人間の要素であることを我々に示す。今や前掲の松王に注ぐ涙は、徳川時代には自然であるが現代では純粋である。こんなこじつけともいへる比較をするのも、只私は自然が如何にしてその儘純粋になるか、及び、純粋は如何に所謂「唯心的」なものではなくして唯物的なものかが感じて欲しいのである。

 ドストエフスキーの「色」の理論とは、自然あるがままの人間から抽象された型を色とし、それを三色刷りのように画面の必要な場所に塗ることによって、最終的に一幅の絵を完成させるドストエフスキー特有のリアリズムである。だが、それと「忠臣蔵」にどんな関係があるのだろうか。

 勘平が自分が義父を撃ち殺したと思い込み、同志たちにも責められて切腹した直後、それが誤解だとわかるのが忠臣蔵六段目である。勘平の住まいという閉ざされた場所で、仇討のために身を売ったおかるに対する感謝、義父を殺したのではないかという不安と恐れ、姑の疑い、同志たちの勘平に対する怒り、切腹にまで追い詰められていく心理の傾斜、誤解とわかったときの同志たちの驚き、切腹の苦しみのなかで仇討の連判状に加えられると知ったときの勘平の喜び、同志たちや姑の判断を誤ったことに対する自責の念などが空間のなかで交錯する。

 しかし、それは写実的に、あたかも実在の人物の感情の発露であるかのように演じられるから印象的なわけではない。そうしたリアリズム演劇ではなく、旧態依然に見える歌舞伎にドストエフスキーやジッドとの類縁性を見て取っているのがここでの河上徹太郎であり、掛け離れているかに思える彼らに共通するのは「型」への執着であり信頼である。

 「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンやキートンやマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア、座頭市の勝新太郎、やくざ映画の高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。それらが「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市の勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。

 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガード、ジェイムズ・スチュアート、クリント・イーストウッド、三船敏郎、高倉健、北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。

 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。

 ここまできてようやく「自然人と純粋人」から、「型」について述べられたもう一箇所の部分を引用することができる。

         通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。

 消防夫は「純粋人」としてあらわれるが、河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「純粋人」=「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのだ。

 それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。

 また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。

 例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。

 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。

 その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫や正宗白鳥と河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、『羽左衛門の詩と変貌についての対話』の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。

        フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。        ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。

 そういえば、「聖者の如く呟く」「不器用さ」が河上徹太郎の作品の一貫したテーマだったと言える。忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎、中原中也、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。

 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけだ。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。

 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。

 ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。

 その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。

 『自然人と純粋人』からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。

 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。

 消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。

 そう考えると、「型」がどんどん消滅していることは明らかだ。投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいても、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきた。

 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。

 というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。

 確かに明治期のなってからの内村鑑三や河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。

 吉田松陰は儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある「本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。」という文を読めば明らかである。

波の上も子(ね)の日の野辺ににたり舟ひかばやともに小松しめなは へつ〃東作


「子の日」は「子の日の松」の略で、新年の子の日に松を引いて遊ぶこと。子の日に舟を引くなら、松としめ縄もいっしょに引くことになる。

急がば回れ


・「急がば回れ」ということは、常に心がけておくべきことで、宗長は、
武士(もののふ)のやばせの船は早くともいそがば廻れ瀬田の長橋
と詠んだ。
「やばせ」(矢橋)は琵琶湖南東の港。「瀬田」は琵琶湖から流れる瀬田川の橋で、東海道、中山道と京都をつなぐ要衝の地であることからか。

2018年7月21日土曜日

風の追手入来る舟をまつかざりうらしろ〴〵と春の曙 川井物梁


前書き「船松飾」

風にのって走る舟の松飾りを、裏から春の曙が白々と浮かび上がらせている、というだけのことか。

ちんば

・河内に珍というものがあり、大和に場というものがいた。二人とも兵法が上手だったが、あるとき試合をして、両者とも足を落とし、死にかけたときに、外科的処置が得意だというものが来た。慌てていたので、それぞれの足を取り違えてつけてしまった。一人は足が長くなり、一人は短く、いまもそうした人を「ちんば」という。

2018年7月20日金曜日

海の景よいとや申す春駒の歯にまたたらぬわが芝の浦 浜辺黒人


     「此うた延宝三年のいせごよみに見えたり
   芝浦早春」まで前書き

「春駒」は若い馬と、年のはじめに馬の頭の作りものをもって、門付けして回った芸人をかけているのか。海の景色がよいと芸人はいうが、馬が食べるほどの草は繁っていない、との意味か。

赤みがかった餅

・餅の少し赤みがかったのをしんこう(深更)というのは、赤い小豆をうえのかぶせたのを「あかつき」というのに対した。

2018年7月19日木曜日

ひめはじめ暦家の説は何なりとすべて女の所作をいふなり 読人しらず

前書き「ひめはじめ」。

「ひめはじめ」は本来暦の用語で、正月二日の吉凶など日柄をいい、その他、甑(こしき)で蒸した強飯に対して、釜で柔らかく炊いた飯を「ひめいい」というが、その「ひめいい」を年始にはじめて食べる日、乗馬をはじめてする日、女性が洗濯、張り物などをはじめてする日など諸説ある。もっと俗っぽいと、女性をはじめて抱く日なのはご存じの通り。そんなことはすべて関係なく、女性の所作すべてが「ひめはじめ」だということ。

餅=かちん

・餅を「かちん」というのは、「かちん」色=かち色=濃い褐色の手ぬぐいで、髪を包んだ女房が禁中へ売りに来たことからいう。餅売りというと言葉が卑しくなる。いつものかちんが参ったと決めておくといい。

2018年7月18日水曜日

今朝ははやひらく扇の天地金ひかりもきよき年玉の春 臍穴主


前書き「年のはじめに」

「扇の天地金」とは、金の縁取りをした扇のこと。

随八百

・随八百(気ままなことをいろいろ並べ立てること)とどうしていうか。婿が舅のところに行き、慇懃に一礼すると、舅はこれまで苦しい生活をしてきたのだから、これからは随(気随に)のままに遊ばれるがよいといった。婿はそれを聞いて、仰天し、京に随を買いにのぼった。大声で、随を買うぞ、と叫んで回った。機転の利くものが行き会い、亀の子をこれが「いきずい」だと八百で売った。婿は喜んで持ち帰って、随を出してやろうと歩かせた。それから随八百という。

2018年7月17日火曜日

宗祇と宗長


・宗祇と宗長が連れ立ち、夕暮れの浜に出て散歩していると、漁師の網が藻を引き上げた。なんというものだと尋ねてみると、「め」とも「も」ともいうらしい。それはよい句になると宗祇は
  めともいふなりもともいふなり
とつくり、宗長に付けてみよといえば
  引連れて野飼(のがひ)のうしの帰るさに
牝牛は「うんめ」となき、雄牛は「うんも」となくからである。宗祇は感心してもう一句命じると、
  よむいろは教ふる指の下を見よ
ゆの下はめ、ひの下はもである。(「いろは」で「ゆび」の下の字は「め」と「も」だから。)

2018年7月16日月曜日

まづひらくいせの太輔がはつ暦(ごよみ)けふ九重も花のお江戸も から衣橘洲


前書き「年のはじめ百人一首によせて人々歌よみけるなかに」

百人一首の伊勢太輔(たゆう)の歌、
いにしへの 奈良の都の 八重櫻(やへざくら)けふ九重(ここのへ)に 匂(にほ)ひぬるかな
に基づく。

汚い


・むさくるしいものを汚いというのはなぜか。北は陰陽五行説によれば水の方角である。水がなければなにもきれいにならないから、北がない=汚いとなる。


2018年7月15日日曜日

東風(こち)吹かば今年も首をふる法師はりこのとらの春を迎へて へつ〃東作


前書き「寅のとし春のはじめに」。

東風は春に東方から吹いてくる風。法師は尺八で首を振る。

オゴ

・オゴ(お期)という海藻がある。刺身のつまにも使われる褐色のもの。食欲増進の効能があるという。武家の台所で、飯を配膳し、人に勧める役目のものを「おご」という。

2018年7月14日土曜日

くれ竹の世の人なみに松たて〃やぶれ障子を春はにけり 四方赤良


前書き「はるのはじめに」

くれ竹は呉から移植されたという竹。年の「暮れ」にもかけている。

柘榴風呂

・開け閉ての戸がなく、脱衣所と風呂場とのあいだに柘榴口という低い入り口があった風呂を柘榴風呂というのはなぜか。かがみいる、つまり、かがんで入ることと、鏡を鋳るときに柘榴の実を使ったことをかけた。

2018年7月13日金曜日

さほ姫のすそ吹き返しやはらかなけしきをそ〃と見する春風  貞徳


前書き「春たちける日よめる」

佐用姫は佐賀県唐津市厳木町にいた豪族の娘。

537年の10月、新羅が任那に侵攻したという知らせが入り、命を受け新羅に出征する大伴狭手彦と恋仲になったが、出征で別れる日、鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振って船を見送り、船を追って呼子までいき、加部島で七日七番泣きはらして石になってしまった。

10月に朝廷が報告を受けたとすると、次の年の春、出征したのだろう。

春が立つということと、狭手彦の旅立ちをかけている。


次の歌も同じ趣旨。

 さほ姫のわらひかけつ〃山のはをあらはす方に春や立つらん あけら菅江

「山笑う」という芽吹き始めた春の山の形容で、季語となっている言葉もかかっている。

嘘つき


・そらごと(ありもしないこと)を言うものを嘘つきというのはなぜか。ウソという鳥はスズメ目アトリ科の鳥だが、「弾琴鳥」ともいう。空の木の枝にとまり、左右の脚を交互に上げてヒーホーとなくさまが琴を弾いている様子に見えることから。

芸の顕現ーー幸田文『流れる』




 『流れる』(昭和三十年)は、幸田文のはじめての長編小説であり、父親である露伴を中心とした家族の題材から離れたのもほぼはじめてのことになる。

 昭和二十五年に「父の死後約三年、私はずらずらと文章を書いて過して来てしまいました。私が賢ければもつと前にやめていたのでしようが、鈍根のためいままで来てしまつたのです。元来私はものを書くのが好きでないので締切間際までほつておき、ギリギリになつた時に大いそぎで間に合わせ、私としてはいつもその出来が心配でしたが、出てみるとそれが何と一字一句練つたよい文章だとか、いろいろほめられたりするのです。やつつけ仕事ともいえるくらいの私の文章が人様からそんなにいわれると、私は顔から火が出るような恥かしさを感じました。自分として努力せずにやつたことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるものですし、努力しないで生きてゆくことは幸田の家としてもない生き方なのです」(「私は筆を断つ」)という他に例を見ないような理由によって断筆し、その翌年、柳橋の芸者置屋「藤さがみ」に住み込みの女中として働いたときの体験がもとになっている(もっとも腎臓炎になって二ヶ月ばかりで帰宅することになったのだが)。

 『流れる』は奇妙な小説である。特に内容が変わっているわけではない。梨花という中年の女性が置屋に女中として入り、やがてそこに住まう皆がばらばらに流れていくまでの傾きかけた芸者置屋での日常が綴られていく。奇妙なのはその遠近感の欠如にある。

 梨花、女主人、芸者たちそれぞれの感情のぶつかり合い、生き方や生活において譲れない一線をめぐっての意地の張り合いは非常に鮮やかである。昭和二十四年の「齢」という掌篇には中年女性の凄まじい啖呵の例が見られるし、父親について書いたものでも、露伴という別の生活原理を持った者との対決の記録であったことを思えば、そうした感情や意気地のやりとりは小説家としての幸田文がすでに自家薬籠中のものとしていたに違いない。

 だが、ほぼ芸者置屋から離れることなく進行するこの小説において、置屋がどのくらいの広さをもつものなのか、また、三人称の体裁を取ってはいるが、梨花が叙述の中心であり、彼女の見聞きすることによって小説は進んでいき、例えば女主人と芸者との会話を梨花がどこでどのように聞いているのか、同席しているのか、あるいは台所などで聞くともなしに聞いているのかなど空間的配置についてはっきりしない部分が多い。この遠近感のなさは、アカデミックな美術の教育を受けなかったルソーの絵を思わせるところがある。

 女主人は「演芸会」のために毎日清元の練習をしている。その会とは「みんなが力を協せて、わが土地のために〈よそ〉土地に負けない名舞台・名演技をしようといふのではなくて、たがひに意地の張りあひ〈ひぞりあひ〉をして、たとへ対手を殺しても自分だけはのしあがりたいといつた、凄まじい競りあひのやうな感じをもたされる」ものである。

 女中である梨花も当然主人の稽古を毎日のように聞き、その出来不出来に気持ちを奪われるようになっていくが、主人の声には「我慢ならないいやな調子」が感じられ、その感じはなかなか消え去ることはない。

         総浚へにあと幾日もないといふ朝だつた。けふだめなら所詮もうだめなやうな気がして聴いてゐた。味噌汁の大根を刻みながら、聴くと云ふよりもむしろ堪へてゐた。もつともいやなそこへ来かゝる。節はこちらももう諳んじてゐる。いやな声、〈へた〉を期待してゐるへんな感じだつた。それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた!と思つた。そしたら、ぐいと手応へがあつた。包丁が左の人差指と中指の第二関節の皮膚を削つてゐた。白い大根が紅く少し汚れてゐて、右手が左手を一しよう懸命きつく掴んでゐ、痛さだかなんだか涙腺はゆるんで生温かい。手錠をかけられたやうな、左右くつついた手を挙げ、割烹着の上膊で顔のはうを動かして眼をこすつた。日向で見る絹糸よりつやゝかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。これは湧く音楽ではない、浸み入る音である。大木の強さではなく、藤蔓の力をもつ声なのだ。人の心を撃つて一ツにする大きい溶けあひはなくて、疎通はあつても一人一人に立籠らせる節なのだ。すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれて不思議である。肌にぺと/\して来るいやらしさが脱けて、遠く清々しい。梨花の耳が通じたのではなくて、主人の技が吹つ切れたとおもふ。一ツこゝで吹つ切れたのだから、このひとの運は二ツ目三ツ目とよくならないものだらうか、そんな望みが湧いてくる嬉しさである。

 「すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれ」たというのが面白い言い方で、生な生理に密着した表現が芸という形式を見いだしたと言い換えることができよう。

2018年7月11日水曜日

殺人の追憶ーートマス・ド・クインシー『藝術の一分野として見た殺人』




 一八一一年十二月七日の真夜中近く、ロンドン東部のラドクリフ・ハイウェイで靴下店を営むマーの家で殺人事件があった。殺されたのは二十四歳のマー、同じく二十四歳の妻、生後三ヶ月の幼児、若い徒弟の四人である。女中のメアリーは夜食用の牡蠣を買いに行っており留守だった。いずれも、鈍器で撲られ昏倒させられたあと、喉を切り裂かれていた。

 十二日後の十二月十九日の夜、ラドクリフ・ハイウェイから少し離れた酒場で、その主人である五十六歳のウィリアムソン、六十歳のその妻、五十代の家政婦の三人が同じ手口で殺された。同じ家に住んでいた若い職人は窓から逃れ、人々が駆けつけたため、九歳の孫娘も殺されずにすんだ。

 マー家に残されていた凶器の船大工用の槌には、JPのイニシャルが記されており、ノルウェー人の船大工、ジョン・ピーターセンが帰国する際に下宿に残していったものだとわかった。同じ下宿から見つかった血のついたフレンチ・ナイフ、証言にあった靴の特徴(きゅっきゅっと鳴る)などからこの下宿屋に住むウィリアムズが逮捕された。彼は監獄のなかで首を吊って自殺する。

 連続殺人の表現が珍しくない今日からすれば、七人の犠牲者というのはそれほどのこととも思えないが、切り裂きジャックがあらわれるまでおよそ八十年先だつこの事件はイギリス中に大きな反響を巻き起こした。権力者や貴族たちによる権謀術策の一環としての殺人や、権力と富を存分に使った快楽のための殺人は古代から枚挙にいとまがないが、一般市民が単独で行ない、しかも動機も目的もよくわからないことがこの事件を非常に斬新なものとしたのだろう。もっとも、PD・ジェイムズ&TA・クリッチリー『ラトクリフ街道の殺人』(国書刊行会)には、犯人とされたウィリアムズにかけられた嫌疑が予断と偏見に満ちたものであったことが立証されているという(私は未読)。

 この事件が犯罪史のみならず、文学史においても記憶されているのは、トマス・ド・クインシーが大きく取り上げたためである。「『マクベス』劇中の門口のノックについて」(一八二三年)ではこう言われている。

        遂に、一八一二年のことだが、ウィリアムズ氏がラトクリフ・ハイウェイの舞台にデビューして、あの余人の及ばぬ殺人劇を演じ、不滅の名声を贏得たのである。この殺人場面について、序でながら言っておかねばならぬが、これが一つの点で悪い効果をもたらした。即ち、殺し場の通人の趣味を甚だむつかしくして、以後この筋の演技のいずれにも満足させぬようにして了ったのだ。彼の深紅色に比べると、他のすべての殺人は蒼ざめて見える。さる識者がかつて私に愚痴をこぼしたものだ、「あの時以降トント駄目になったな、語るに足るものは何一つない」と。だがこれは間違っている。なにしろ、すべての人が偉大な芸術家であり、ウィリアムズ氏の天才を具えているのを期待するのは理にかなわぬから。 小池銈訳
 更に一層詳細にこの事件が描きだされたのは『藝術の一分野として見た殺人』の補遺においてである。このエッセイは三つの部分に分かれ、「第一論攷」は一八二七年、「第二論攷」は一八三九年、補遺は一八五四年、つまり、事件から四十三年後に書かれた。ちょうど「イマーヌエル・カントの最後の日々」が、まるで見てきたかのようにカントの臨終の有り様を描きだし「想像の伝記」の先駆的作品になったように、この補遺は現場に居合わせたかのように殺人の様子を描きだしている。

 ポオが探偵の視点から事件を解釈するという仕掛けによって探偵小説を創始したように、ド・クインシーは殺人者や被害者の視点に立つクライム・ノベルの先駆けだと言えるかもしれない。もっとも、ド・クインシー特有のユーモアやペダントリーがふんだんに鏤められているために、著者とは独立した登場人物をそこに認められるかというといささかおぼつかなくはあるが。

 この補遺には相当数の事実についての間違いがある。四十年以上も前の事件であること、印刷物の媒体しかなく、簡単に情報を参照できなかった時代であったこともあろう。事件が起きた年、被害者たちの年齢などは記憶の間違い、記憶の摩滅が大いにありそうである。先の引用でも事件の起きた年を一八一二年としているが、実際は一八一一年である。被害者たちの年齢はほぼ全てが誤っており、第二の事件で殺されたウィリアムソンに至っては、56歳であるのに70歳以上とされている。

 より根本的な間違いは、マルゴ・アン・サリヴァンが『殺人と芸術:トマス・ド・クインシーとラトクリフ・ハイウェイ殺人事件』(一九八七年)でまとめているところによると、次の六つである。

 (1)第一の事件で女中のメアリーが買物に出た際、通りの反対側に街灯の光に照らしだされたウィリアムズの姿を認めたことになっているが、実際にはそんな事実はなかった。

 (2)ウィリアムズは、第二の事件で犠牲になったウィリアムソンの店の常連であり、友人と言える近しい間柄だった。ド・クインシーの文章では「知り合い〈であった〉といえないわけでもあるまい」として、事件当夜足繁く店にあらわれたと報告されている「幽鬼のように蒼白な男」をウィリアムズだとしている。実際にウィリアムソンも殺される前、不審な人物を見かけたと言っていたらしいが、それがウィリアムズだとしたら当然ウィリアムソンにはわかったはずである。

 (3)ウィリアムズは「絹で贅沢な裏打ちのなされた」上着を着て殺人を犯したとされているが、それは刑務所官が記した逮捕された後のウィリアムズの服装とは合っているが、殺人者を目撃した人間の証言とは合っていない。

 (4)凶器となった槌の出所が判明し、それによってウィリアムズが逮捕されたとされているが、実際にはそれ以前に、多数の容疑者の一人として逮捕されていた。

 (5)ウィリアムズの死後、捜査によってその下宿から血のついたポケットとフレンチ・ナイフが見つかったが、それらは別々に、異なった日に発見された。ところが、ド・クインシーでは「胴着のポケットの裏地には、件のフレンチ・ナイフが血糊で貼りついていた」と一緒にされている。

 (6)遺体を調べた外科医は、喉を切り裂いたのはナイフではなく、剃刀だと結論したが、ド・クインシーでは逆に「喉を掻き切るのに使われたのは剃刀ではなく、それとはまったく別の形をした器具であった」としてある。

 いずれの修正も、「彼の立ち居ふるまいが品の良い物柔らかさという点で際立っていたことは、彼の性格の全般にわたる狡猾さ、ならびに粗野を嫌う洗練された態度とも、調和するものであった」というド・クインシーによるウィリアムズ像に寄与するものだろうが、一体ド・クインシーはこのウィリアム像のどこにその「天才」を認めたのだろうか。

 『藝術の一分野として見た殺人』とは、道徳的問題を括弧に入れて、殺人を美的に扱うことである。しかし、ド・クインシーは、一見、猟奇的趣味と自我崇拝とが混然とした世紀末デカダンス趣味(マリオ・プラーツが『肉体と死と悪魔』で縦横に論じつくしたような)を先取りし、悪魔や吸血鬼といった超自然的な色合いをそこにつけ加えなかったわけではないにしろ(「いついかなるときも、彼の顔は、血の気のない蒼白さを保っているのだった。」「あの男の血管をめぐって流れているのは、・・・緑色の樹液みたいなものだったのでしょう。」)、そうした特徴はそれに見合っただけの結果をもたらすわけではない。つまり、ここでの「藝術性」とは、非凡な能力をもった個人が洗練された趣味をもって見事な殺人を遂行することにあるのではない。

        見事な殺人の構成のためには、ただ単に、殺す阿呆と殺される阿呆、ナイフ、財布、暗い小路などといった道具立て以上のなにかが必要だということを、人びとは理解するようになってきています。紳士諸賢、意匠、配置、光線と陰翳、詩情、情緒といったものがいまや、そうした性格の試みには不可欠となっているように思われるのです。(中略)詩の分野におけるアイスキュロスやミルトンのように、また絵画の分野におけるミケランジェロのように、ウィリアムズ氏は、自らの藝術を途方もない崇光さの域にまでいたらしめたのです。(「藝術の一分野として見た殺人」鈴木聡訳)


 しかし、ミルトンやミケランジェロとは異なり、ウィリアムズは自らの「藝術」をその手で支配したわけではなかった。どちらの事件でも一家全員を皆殺しにすることに失敗し、生存者とウィリアムズとは近い距離にまで接近する。

 即ち、第一の事件では、買物から帰ってきたメアリーが扉一枚を隔てて殺人者に対する。「扉の一方の側には、孤独な殺人者である彼が立ち、別の側には、メアリーが立っている。」

 第二の事件では、同居していた職人が三階から殺人現場の一階にまで様子を見に下りてくる。「この状況は、かつて記録されたいかなるものをもしのぐ、慄然とするようなものであった。くしゃみや咳、いやそれどころか息使いひとつだけでも、この青年は、命の助かる可能性も、必死にもがく余裕も与えられず、屍体と化すことになるだろう。」この二例はいずれも『マクベス』で、マクベスがダンカン王を殺害したあと、マクベスとその夫人に聞こえるノックの音と同じ効果をあげる。

        ・・・二人とも悪魔の姿にふさわしい、かくて悪魔の世界が忽然と出現する。だがこのことをどうやって伝え、どうして肌身に感じさせるか。新しい世界が登場できるように、この世が暫く退場せねばならない。殺人者たち、そして殺人行為は、孤立させねばならない。一方、日常生活の世界も突然停止し、眠り込み、失神し、怯えた休戦状態に追い込まれたと感じられる、時間は抹殺され、外界の物との関係は断続されねばならぬ。かくて総べては自発的に、この世の情熱の深い休止と中断の中に引籠もらねばならない。このようになってこそ、さて兇行が行われ、暗黒の所業が完成すると、闇の世界は天空の浮雲模様の如く過ぎ去り、門口のノックの音が聞こえる。これは反動の始ったこと、人間的なるものが悪魔的なものの上に捲返し、生の鼓動が再び打ち始めることを耳に知らせるのである。われわれの生きている世界が再び座を占めることは、しばしその世界を中断していたあの畏るべき間狂言を先ず身に沁みて感じさせるのである。(「『マクベス』劇中の門口のノックについて」)


 殺人の被害者は恐怖に満たされており、そこにはすべての生物に共通な自己保存本能しかない。恐怖に満たされた被害者と「激情――嫉妬、野望、復讐、憎悪――の大嵐が荒狂っている」殺人者によって閉じられた世界に亀裂が入る特権的瞬間を経験できるのは殺人者だけであり、それを二度も生じさせたが故にウィリアムズは「天才」的である。つまり、完璧な計画と趣味を自由に操れる個人としての才能が藝術となるのではなく、犯罪としては失敗である偶然の要素を招き入れ、二つの世界を接触させることで始めて殺人は藝術的たり得る。

 ド・クインシーにとって始めから犯人の意図や目的などはなんら問題ではなく(ウィリアムズについてもそうした点は何も触れられていない)、閉ざされた世界の流動化にもっぱら目が注がれていた。殺人をこうした流動化の一種として考えると、偶然をあたかも必然であるかのように招き寄せたウィリアムズの天才は、必然をあたかも偶然であるかのように配置したシェイクスピアの天才と交錯するのであり、必然といい偶然といっても、ある世界でこそ安定していても、他の世界と接触するや容易に反転し流動化することをド・クインシーは言っているかのようである。

2018年7月10日火曜日

運命の分岐――ディドロ『運命論者ジャック』








 『運命論者ジャックとその主人』は、一七七八年から一七八〇年にかけて『文学通信』に連載された。実際に書かれたのはそれよりも前で、はっきりした日付はわからないが、一七七三年、ディドロが六十歳の頃、ロシアにエカテリーナ二世を表敬訪問していたときに完成したというのが通説になっている。だが、ディドロの生前、この小説が刊行されることはなかった。『運命論者ジャックとその主人』ばかりでなく、ディドロが書いた小説の他の代表的な作品、『修道女』、『ラモーの甥』も生前には刊行されていない。

 現在でも小説家ディドロに対する冷遇は変わっていないと言えるかもしれない。『百科全書』編集者としてのディドロ、『盲人書簡』や『ダランベールの夢』の哲学者としてのディドロはともかく、『俳優に関する逆説』の演劇理論家としてのディドロ、展覧界評などにみられる美術批評家のディドロと比較しても、小説家としてのディドロが多く語られているようではないのである。そして、それらのディドロの小説のなかでも『運命論者ジャックとその主人』は「構成がない」あるいは「散漫」だということで低い評価に甘んじていた。このことは、ディドロが『運命論者ジャックとその主人』を書くにあたって大きな影響を受けたローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』が正統な文学史からは鬼っ子めいた扱いを受けてきたことと即応している。とはいえ、『トリストラム・シャンディ』のほうは二十世紀後半以降、実験的なメタフィクションが多く産出されるにしたがって、十八世紀と二十世紀をつなぐ重要な作品として文学史的に評価されている。一方、『運命論者ジャックとその主人』はいまだにディドロの全著作からも、文学史からも傍流の作品として扱われているのである。

 ところで、ディドロにおいてはなによりも小説家ディドロを、その小説においてはなによりも『運命論者ジャックとその主人』をもっとも実りあるものとして称讃している現代作家がミラン・クンデラである。

劇作家としてのディドロは無視しうる存在であるし、ぎりぎり、この偉大な百科全書派の試論群を知らなくても、哲学史はなんとか把握出来る。しかし、『運命論者ジャック』を無視すれば、小説の歴史は理解不能にして不完全なものになると主張せざるをえない。この小説が、もっぱらディドロの作品の一つとして扱われ、小説の歴史全体のなかで研究されていないのは不運なことだ。この作品の真価は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥールケ』といった著作と比較することによって初めて認識できるものなのだ。 (一つの変奏曲への序文 『ジャックとその主人』  近藤真理訳)

 クンデラにとってディドロの『運命論者ジャックとその主人』は、『トリストラム・シャンディ』とともにいわゆる外部にある「現実」をいかに本当らしく描くかという十九世紀を覆った写実主義的、自然主義的文学、そしてそれこそを正統的な文学だとする通念によって摘みとられた、小説のまったく異なった可能性の一つの方向を示唆するものなのである。つまり、カフカが「夢と現実との融合」を成功することによって小説に夢の呼びかけを取り戻し、ムジールとブロッホが「人間の存在を解明し、小説として最高度の知的綜合たらしめることのできるあらゆる方法」を動員できるようにするために思考の呼びかけを、アラゴンやフエンテスがプルースト的な個人の記憶から時間を解き放し「小説の空間のなかにさまざまの歴史的時間を導入」することによって時間の呼びかけを発見したように、ディドロとスターンは小説における遊びを発見したのである。

 <遊びの呼びかけ>--ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とドニ・ディドロの『運命論者ジャック』は、現在のところ私には、十八世紀のもっとも偉大な二つの小説作品、壮大な遊びとして構想された二つの小説のように思われます。この二つの作品は、空前絶後の、軽妙さの二大頂点です。これ以後の小説は、ほんとうらしさの要請やら、写実主義的背景やら、厳密な年代学やらで自分を縛ってしまいました。この二大傑作に含まれていたさまざまの可能性は捨て去られてしまいましたが、この二つの傑作は、今日、私たちが知っているものとは別の小説の展開(そうです、ヨーロッパの小説のもうひとつの歴史を想像してみることもできるのです)を作り出すことができたのです。     (『小説の精神』)

 クンデラは一九六八年、ソ連軍侵攻後のプラハで、著作が全面的に発禁となり、収入を得る道を失う。そんななかある演出家の勧めがきっかけで『運命論者ジャックとその主人』の脚色、本人の言葉で言えば、ディドロへのオマージュでありディドロをもとにした変奏曲に着手する(本来その演出家がもちかけた企画はドストエフスキーの『白痴』を脚色することだった!)。周知のように、クンデラは自ら未熟、失敗だと思う文章については「作品」として認めず、出版も許さない。『ジャックとその主人』は戯曲としてはクンデラが唯一自分の「作品」として承認したものなのである。
                        
 『運命論者ジャックとその主人』はいくつもの対話から成り立っている。その柱となるのはジャックと主人の対話で、この小説の内容は、ジャックが主人に語り始めた自分の恋の話

(「主人 それじゃおまえは恋をしたことがあるんだな?
ジャック 恋をしたことがあるかですって!
主人 それも鉄砲の一発でさ。
ジャック 一発で。
主人 そんな話はかつてしたことがなかったぞ。
ジャック しなかったでしょうな。
主人 なぜだ?
ジャック そりゃ、これより早くでも、これよりあとでもありえなかったからでしょう。
主人 その恋の話を承る時機到来ってわけか?
ジャック 分るもんですか?
主人 いつでも、まったくことのはずみで、始まるんだな・・・・・・。」)

が、度重なる逸脱、妨害によって遂に語り終えられることがない、ということにつきる。「ことのはずみで」始まった話らしく、逸脱と妨害もまたいかにもことのはずみであって、話しているうちに別の話に入り込んでしまう、別の人間が割り込んで別の話を始める、話を中断せずにおれない事件が起こる、それに作者の気まぐれ(「読者諸君、ごらんのとおり、いま話は佳境に入っているが、ぼくはジャックを主人から引き離して、彼ら両人をそれぞれ、私の気に向いたいろんな偶発事件にめぐり合うことにして、ジャックの恋物語を諸君に一年でも、二年でも、三年でも待たせることができる。」)まで加わる。

 さまざまな形式の文章も、また、ノンシャランに混在している。三人称の地の文、戯曲風の対話、作者の意見、作者と読者との対話。こうした自由さ、悪く言えば統一感のなさは、「散漫」だなどと批評家に言われるまでもなく、著者自身自覚的であって、作中に登場する読者に「あなたの『ジャック』は、いろんな事実、あるものは本当の、あるものは思いついた事実の無味乾燥な狂想曲で、文章は優雅でなく、事実は何の秩序もなく配列されています」と言わせている。

 だが、こうした特徴、つまり、物語の中に物語が入れ子状に入っていたり、起承転結のしっかりした構成をもっていないというようなことは、そうした特徴において際だっているものの、ディドロがこの小説を書いたフランス十八世紀とは場所も時代も異なるところで生まれた作品と、単純に似ていると比較することはできない。

 例えば、『運命論者ジャックとその主人』では、ジャックの恋の話の間に様々な話が繰り返し挿入されるが、『千夜一夜物語』のようではない。シャーラザードの語る物語の登場人物が物語を語り始め、そこに登場するまた別の人物がまた違う物語を語り始め、更にその登場人物が、という眩暈を引き起こすような重層的な入れ子構造、物語の迷宮に入り込むような感覚はディドロの小説にはない。

 また、ディドロの小説では「事実は何の秩序もなく配列」されているとはいっても、それは、間歇的に自分の作品に新たなものを書き加え、しかもその完結が少しも完結らしくない川端康成のようではない。かつて三島由紀夫は、川端康成の作品という一見「美麗な錦」には人間的概念にはまったく通じないような「暗黒の穴」が方々に開いていると言った(「川端康成氏再説」)。ディドロは小説の慣習を大胆に打ち壊し、ときには従来の価値の転倒を行なうかもしれないが、それによって人間的価値には無縁な暗黒がのぞくようなことはないのである。

 これら西欧とは異なったところで生み出された作品とディドロの『運命論者ジャックとその主人』が異なるのは、この小説がどれだけ自由な遊びに満ちあふれているにしても、あくまで遊びを宰領している作者の位置が揺るがないところである。

 確かに『千夜一夜物語』のシャーラザードは「千一夜」のすべての物語を語る者ではあるが、その作品内の立場においては、物語ることを止めるやいなや殺されてしまう脆弱な存在である。更に、残忍な王が求めているのはシャーラザードその人ではなく、彼女が語る物語であることからも理解されるように、彼女の一人の人間としての固有性は物語のなかに完全に埋没してしまっている。シャーラザードは、千一夜の物語を終え、王の愛を得ると同時に物語から解放される瞬間までは、王と物語とに二重に拘束された存在にとどまるのである。

 だが、『運命論者ジャックとその主人』に登場する作者は、他のどんな登場人物によっても、語られる物語によっても傷つけられることはない。作者はすべての登場人物を自由に操る力をもっている(「ジャックをあっちこっちの島に出帆させてもよい。主人をそこへ連れて行ってもいい。両人を同じ船に乗せてフランスに連れ帰ることに、何の差障りがあろう?根も葉もない話を作るのは、なんてやさしいんだ!しかし両人ともありがたがらぬ一夜を過ごしただけで無事に事はすみ、諸君もまたこの一夜だけで無罪放免だ。」)。

 また、同じような理由によって、ジャックが抱懐する運命論を裏切るように、前後の脈絡のはっきりしない不意の出来事が主従二人を見舞うのだが、その出来事の繋ぎ目からのぞくのは人間の価値や概念の届かない暗黒の穴であるよりは、ある人間の軽やかな精神の戯れなのである。ここには同じ十八世紀の作家であるサドのような、世界をすべて説明しつくしてしまおうとする理性の凶暴なまでの行使はないが、遊びに特有の、規則(たとえそれが自分でつくったものであるにしても)とその遵守に必要な理性の監視が常に働いているのである。

2018年7月9日月曜日

テキストの真理ーー安岡章太郎「私小説の不可能性」



 私小説という言葉もいまではほとんど使われなくなってしまったが、もともと貧乏くさいのがいやで、ほぼ読まないで済ましてきた。

 一時期、柄谷行人や蓮実重彦が、私小説を日本独自の実験小説だと評価していて、そんなものかと読んではみたがやっぱり面白くなかった。

 安岡章太郎のことも私小説の作家と思ったことはなくて、そういえば蓮実重彦の『「私小説」を読む』では、志賀直哉、藤枝静男と並んで、安岡章太郎が論じられていたと思うが、志賀直哉や藤枝静男も特に私小説の作家と思ったことないなあ、と思って、いったい貧乏くさいと誰のことを思っていたのかと不安になってきたのだが、まあ、別に本気で不安になったわけではない。

 安岡章太郎が1963年4月号の『群像』に「私小説の不可能性」というエッセイを書いていて、題名は異様に物々しいが、私小説と私小説家がいかなるものであるかを描いている。

要するに私小説とは、空想力にとぼしい作家が、題材を私生活のなかにとり、社会との烈しい対決もなしに、自分一個の感情のおもむくままに体験から編み出した人生観やら、感想やらをのべたてたものだといえば、それですみそうである。銭湯に昼間からやってきて、十九円のフロ銭で一時間も二時間もネバリ、若い学生などで組しやすそうなのがいると、そばへよって何となく世間話などしはじめ、やがて自分の家のグチなどクドクド話しはじめる、そんなあまり金まわりのよくない御隠居さん、これが私小説家の原型である。
ひじょうに魅力的だが、問題は小説家など嘘つきばかりで額面通りに受け取れないことだ。

2018年7月8日日曜日

ウナギーー安岡章太郎「ジングルベル」



 あまり食に興味がある方ではなく、満腹になればいい程度のものなのだが、好きな食べ物は、と聞かれたらウナギだと答えると思う。

 もっともおそらく十年以上ウナギは食べていない。近くにおいしそうなところはないし、高いし、スーパーで売っているのは、蒸し直してみたところで、たかがしれていると思うと、食べる気が失せてしまうので、多少余分なお金を持って、おいしいとされているところを目指して出かけることはないのだから、やはり食にはそれほど執着がないのだろう。

 多少大げさに言えば、イデアとしてのウナギを大事にしているので、現実のウナギの方は家来に任せているのだ。

 同じように、野菜のなかでおそらくタケノコが一番好きなのだが、おいしくないタケノコを食べるのがいやで、ここ何年も口にしていない。

 安岡章太郎の「ジングルベル」はクリスマスの日に恋人、あるいは女友達の光子から呼び出された徹夜マージャンあけの「僕」が、安岡章太郎の小説ではありがちの、特に根拠もない思い込みにとらわれてしまい、彼女と会う前に何かを食べなきゃと思い、ウナギを食べるならナメクジを食べる方がましだとさえ思っているのに、なぜだかうな丼を頼んでしまうのである。

赤黒く焼けた膚をつつくと、ずるりと滑って脂ぎったネズミ色の皮が剥がれ、白いぶよぶよした肉があらわれる。いつもならここで、ひるむところだ。しかし僕はひと思いにパクリと口にほうりこんだ。歯にさわると気のせいか、キュッとあの断末魔の鳴き声みたいな音がする。

 いかにもまずそうなのに感心する。