たとえば、『闇のなかの黒い馬』のなかの一篇、「神の白い顔」には次のような一節がある。
眼を開ければつねに眼前にあるところの日頃見慣れたさまざまな存在のかたちではなく、まぎれもない存在そのものを、いわば誰からも忘れられた無気味な薄暗い無人の小部屋でも覗くように、たとえ一瞬の数千分の一の僅かな時間にせよ、背後から窺い眺めたいとひそかに思いつづけていたのであった。
いかにも埴谷雄高風の文章だが、西欧の形而上学者にとって存在はあくまで存在であり、存在と無のことは考えたとしても、存在の背後に回るなど思いもよらないことだろう。そして概念規定をしたとしても、存在の背後にはやはり存在があるだけなのだ。
戦後文学の代表者のように考えられているが、『死霊』や短編を読んでいると、埴谷雄高は存在や闇をテーマとしたマイナー・ポエットと考えるといちばんふさわしい。もちろん、マイナー・ポエットといっても貶下的な意味はなく、ハックスリーがかつて詩人のダウスンについていったように、守備範囲こそ狭いが、純度は高いという意味である。
また、金魚、蛇、尺取り虫といったような小動物に対する言及も特徴的である。ジュネのように退化した存在と同化することによって、忘我的な陶酔を得るというのではなく、といってカフカのようにこの上なく無意味なわけでもなく、小動物の意識に夢想が広がっていくのがまた埴谷雄行的で、その存在と密着した意識のあり方を通して、幾度でも存在という主題を経巡る。
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