2013年8月29日木曜日

モイラ

『鬣』第6号に掲載された。


 



モイラ(運命の三女神)についてはほとんどのことが漠としている。アケンナ(必然)の女神の処女受胎によって生まれたとも、エレボス(幽冥界)が夜と交わって生んだとも伝えられる。それぞれの名をクロートー、ラケシス、アトロポスという。クロートーは「紡ぐひと」、ラケシスは「長さをはかるひと」、アトロポスは「避けることのできないひと」の意味である。クロートーが生命の糸を紡ぎ、ラケシスが物差しで長さを測り、アトロポスがはさみでそれを切る。だとすると、一番大きな力をもっているのは生をどこで完結させ、断ち切るかを決定するアトロポスだということになる。

ゼウスは自分の気に入った者を救うためにアトロポスの仕事を遮ることができるとも言われているが、つまり、より強力な神の介入によってアトロポスを動かすことができれば運命を変えることができるのである。

プラトンの伝えるところはそれとは少々異なる。糸を紡ぐのは紡錘であって、それによって様々な生涯の見本がつくられている。人間はあの世において、籤で定められた順番にしたがってどの生を選ぶのか自分で決断しなければならない。生涯はアトロポスによって切り取られるまでもなく、すでに決定されている。

三女神の役割は、クロートー、ラケシス、アトロボスと順々にその紡がれた生涯に触れることによって、その糸の出口と入口を決定すること、過去、現在、未来という変えることのできない方向性をその生に与えることなのである。そこでは生の長さが厳密に決められるようではない。しかし、決してほぐれも切れもしない糸に織り込まれている出来事は、多少の伸び縮みによってその生起の比率を変えるかもしれないが、出来事そのものを人間の力によって増減させることはできないだろう。

とはいえ、マルクス・アウレーリウスが言うように、個々人の運命というものがピラミッドのなかの四角い石が互いに嵌り合うように組み合わさって大きな運命を形づくっているのだとすれば、ある人間の各出来事の比率の変化はそれに関わる人間の比率を変化させ、この運動は小石を投げ込むことによって生じたわずかの波紋がすぐにその波立ちを平面へと拡散してしまうように容易に収まったりはせず、どこまでも変化を及ぼしていくはずである。確かに、各個人の比率の変化が互いを相殺することが多いかもしれないが、そんな心配は糞リアリズムというものである。


    ・・・・・・君は自分に起ることをよろこばなくてはならない。・・・・・・各人に個人的に起る事柄は、宇宙を支配する者の繁栄と完成と、それから実にその存続の原因となるからである。なぜならば君がたとえ少しでも(全体を構成する各)部分や原因相互の結合と連絡を断ち切ったとすれば、宇宙全体の完全性は損われてしまうであろう。                   マルクス・アウレーリス  神谷美恵子訳

2013年8月27日火曜日

アランと古今亭志ん生のあくび指南

『鬣』第5号に掲載された。 




わたしは、寄席育ちというには遙かに遠く、落語を聞くのはもっぱらCDとテレビやラジオである。それでも、『あくび指南』は、多分、幾度となく聞いていると思う。内容はおなじみであろうが、町内にできたあくび指南所なるところに、男がいやがる友達を連れてあくびを教わりにいく。だが、何回やっても一日船遊びをした後の倦み疲れたあくびというのができない。一緒にいる友達のほうが馬鹿馬鹿しくって退屈で、大あくびをしてしまう。それを見たあくびの師匠が、「あっ、お連れのほうが器用だよ」

手元にあるのは五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん、それに立川談志のものである。この三者三様の『あくび指南』では、志ん生と小さんのものが鮮やかな対照をなしている。

小さんが噺家にとって人物描写、情景描写がいかに大切かについて話すとき、その例にあげるのが『あくび指南』だったという。

「何しろ、あくびを教えるんだからね。さんざんいろんなことをやってきたあげくのことだから、酸いも甘いもかみわけた風格が、自然とにじみ出てくるような人物でなきゃァいけないン。そういう人物描写を心がけなきゃァ駄目なんだ。くっついてきた友達だって、どういう場所にいるのかきちんと描かなきゃァね。これが情景描写。習ってる奴の隣にいるような演り方をしてるのがあるが、これじゃァ駄目だな」と言ったという(川戸貞吉『落語大百科』による)。

実際、小さんが演じるあくびの師匠は、ゆったりとした悠揚迫らぬ口調で「酸いも甘いもかみわけた風格」がでているようでもある。そして、すくなくともわたしが目にし耳にするかぎり、大部分の噺家はそうした形で演じている。つまり、人物描写、情景描写がきちんとできているかどうかはともかく、あくびの師匠はいかにもあくびを教える師匠らしく、鷹揚な態度でゆったりと語り、なにかしらの「風格」をだそうとしているのである。

志ん生の『あくび指南』でまず目を引くのは、その異様な早さである。志ん生は小さんの約半分の時間でこの噺を演じきる。あくびの師匠にはなんの貫禄もなく、教える口調に至っては、ゆったりとしたものどころか、せかせかした、むしろぶっきらぼうと言っていいほどのものである。もう一つの大きな相違は、師匠の口立てに男がつっかえたり、つい日頃の乱暴な言葉づかいをしてしまうところにこの噺の笑いがあるが、志ん生の場合、それに加えて、師匠の早い口調に誘われるように、教わっている男はあらぬ横道に妄想を走らせてしまうのである。 師匠の教えはこうである。

  「さよう、まずところはてえと、首尾の松(蔵前橋のやや下流、柳橋寄りにあった松)あたりですかナ、(煙管を右手で斜めにかまえて)こういうような具合にしてなァ。船頭が向こうにいますからな──、        〝おい、船頭さん、舟を上手の方にやっておくれよ。これから堀ィ(山谷堀)上がって一杯やって、夜は吉原へでも行って、新造(遊女)でも買って遊ぼうか。舟もいいが、一日乗ってると・・・・・・、たいくつで、たいくつで・・・・・・、はァああァ・・・・・・(と、あくびをしながら)ならぬ〟」(『志ん生滑稽ばなし』)


一方、教えられる男の方は、


   おい、船頭さん、舟を上手の方へやっておくれ。これから堀へ上がって、一杯やって、夜は吉原へツウッーて行くてえと、女が待ってて、
   〝あら、ちっとも来ないじゃないか〟
   〝いそがしいから、来られねえンだ〟
   〝うそォつき、わきにいいのができたんだろう〟
   〝そんなことないよ〟
   〝そうだよ〟
   〝あたしがこれほど思っているのに、本当に、くやしいよッ〟
     って喰いつきやァがるから、
   〝痛えッ!〟


と、あくびにまでたどり着くことができない。

ところで、アランは、その『幸福論』の一項目であくびを怠惰なだらしなく流れだすものという印象から解放し、称揚している。


   犬が暖炉のそばであくびをしている。これは猟師たちに気がかりなことは明日にしなさいと言っているのだ。気取りもせずどんな礼儀もなしに、伸びをするあの生命力は、見ていてもすばらしいし、引き込まれ真似をしたくなる。周囲の人たちはみんな伸びをし、あくびをしたくなるはずだ。これが寝支度の開始となる。あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。 (神谷幹夫訳)


あくびは伝染するものだと言われる。だが、アランによれば、それ以前にその場に伝染し、蔓延しているものがあって、それが「事の重大性であり、緊張であり不安の色」である。あくびは、実は、そうした緊張や不安の治療薬として伝染するのである。疲労や退屈のしるしとして伝染するのではない。「あくびがうつるのは深刻な態度を放棄するからであり、何も気がかりがなくなったことを大げさに宣言するからのようだ。それは整列している人たちを解散させる合図のようなもので、だれもが待ち受けている合図なのだ。」

笑うことや泣くことも、脇目もふらずに自らの活動を続ける精神の注意を肉体の方に向ける力をもっている。しかし、笑うことや泣くことには「二つの思考、すなわち拘束しようとするものと解放しようとするものとの間の戦い」が避けがたい。笑うことや泣くことはより一層意識的であり、あくびと比較すると敷居の高いものなのである。あくびとは、人間がそれをするにしても「犬のあくび」と本質においてなんら変わりのないものであり、むしろすべての思考を捨て「生きることの気安さ」に積極的に赴き、「犬のあくび」をあくびすることである。

同じ姿勢で、何時間も集中してなにかをした後の伸びやあくびはなんとも言えぬ安逸感をもたらすとともに、精神に対する賦活剤でもある。集中することによって狭くなっていた視野が安逸のもたらす気楽さのなかで再び広くなり、休息を与えられることで精神は新たな力を得る。こうした意味で、アランのあくびは、退屈から生まれるものではなく安逸を生むものであり、精神と肉体の健康のバロメーターであると言えるだろう。

しかしながら、さして仕事をしているわけでもないのに強烈に襲ってくる睡魔や、なにをしようにもする気が起きない退屈の極みを体験したことのある者なら、仕事の後のすっきりしたあくびとは異なった種類のあくびがあることを知っているだろう。このあくびは安逸感をもたらすどころか、底なし沼にずぶずぶと沈みゆく身体が空気を求めてもがくのに似ていて、何回あくびをしようが空気は得られず、身体は更に泥のなかに沈んでいく。このあくびは「精神に暇を出す」ことでも、「健康の回復」でもない。アランが言うようなあくびの働きをまったく果たすことのない、「大変革」とは無縁な不活性なものなのである。

さて、『あくび指南』にも二つのあくびが登場する。師匠のあくびと、連れの男が二人のやり取りを見ていてもらすあくびである。連れの男のあくびがアランのあくびに通じるものであることは明らかだろう。


なにォいってんだよ、おめえたちは。え、二人でくだらねえこと言ってやがらァ、本当に。(中略)         ああ、あッ・・・・・・、何がたいくつだよ。え、やっててたいくつかよ、てめえは。さっきから待ってるオレの身にもなってみろ。こっとのほうがよっぽど、たいくつでたいくつで・・・・・・、はァ・・・・・・(大きなあくびをしながら)あーあー、ならねえ


男は「くだらねえ」とあくびをすることによって、この状況すべてを批判し、観客としての自らの立場を放り投げることで退屈から安逸に向かおうとする。この男は健全な批判的精神のもち主である。師匠は「お連れのほうが器用だよ」とほめるが、男がしたあくびは、舟遊びにも退屈を覚え、しかも、次の日もまた次の日も同じような変わりばえのない日が続くのだと漠然と思うでもなく感じている男のぐったりと沈降していくあくびとは関係がない。退屈に取り囲まれ押しつぶされるあくびではなく、退屈から脱するためのあくびだからである。

だが、もちろん、志ん生の『あくび指南』の魅力は連れの男の健全な反応にあるのではない。あくびなどにはまったく関わりがないにもかかわらずあくびの教えを受けている男と退屈に沈み込むようなあくびを教えようとする師匠との激しい戦いにある。

志ん生は、関東大震災の日、「まごまごしていると、東京じゅうの酒が、みんな地面に吸い込まれちまうんじゃァなかろうか」(『びんぼう自慢』)という心配でいても立ってもいられなくなって酒屋に駆け込む。酒屋の方ではお客などかまっていられない。「ゼニなんぞ、ようがすから、好きなだけ、呑んでください」というのを聞いて志ん生はその場で一升五合をあおり、割れてない一升瓶二、三本を「赤ん坊でも抱くように」かかえて家に戻る。また、酒が飲めるというので戦争中満州に行き、敗戦が決まりまわりが物騒になると、いっそ死んでしまおうとウオッカを六本飲んで自殺しようとする。まさに、この志ん生の、欲望が強烈なあまり妄想にまで流れ込むような強烈な性格を受け継いでいるのがあくびを教えて貰っている男である。

一方、あくびの師匠は、正宗白鳥が江戸時代の文学について皮肉混じりに言った「無気力の幸福の天国」の教えを伝える者だと言えるだろう。その世界は、また、落語がその半身をどっぷりと浸している世界でもある。かくして、志ん生の『あくび指南』は、志ん生と落語との両者一歩も引くことのない闘争の実況として聞くことができる。

2013年8月18日日曜日

ブリヤ=サヴァラン

 『鬣』第5号に掲載された。





 ある日、夢を見た。夢というより、異様な快感である。自分の細胞のひとつひとつに蟻が這うようなむずがゆい感じがする。そこからぞくぞくするおののきが芳醇たるワインの香りのように一時に湧きだしてくる。全身の皮膚の表面から骨の髄までこの快感から逃れることはなかった。

 だが、この夢は二重の裏切りのように思われる。第一に、睡眠中の感覚は、覚醒時に較べてずっと弱い効果しかもたらさないはずだから。覚醒時は神経組織全体で対象を捉える。睡眠時に働いているのは神経組織の一部だけである。いわば、覚醒中は神経組織全体が共鳴するが、睡眠中は脳の一部で反響が生じるに過ぎないはずなのである。身体全身に及ぶこの強烈は快感は夢にはふさわしくないように思われる。あるいは諸感覚を統合する魂のようなものを考えなければならないのだろうか。それならば快感を受けとったのは魂なのだと言える。

 第二に、この快感はどう考えても食べる快楽とは結びつかない。食卓の快楽には年齢、境遇、出身地、時機の相違は関係ない。どんな快楽とでも結びつくし、ほかの快楽が消えうせても最後まで我々を慰めてくれる。この世界の空間と時間をおよそ隙間なく埋めつくしている快楽であったはず。しかし、夢での快感には、味覚の記憶も、食卓での素晴らしい食事と機知に富んだ会話が残してくれる濃厚な時間の感覚もなかった。

 そもそも人間に関する大部分のことは口、胃、腸、肛門という食物を通じてひとつながりとなる器官のなかで説明できてしまう。どんなものを食べているか言ってくれたまえ、君の人となりを言いあててみせよう、というわけである。上からではなくて下からでも。胃の働き具合を言ってくれたまえ、君の好みの文学を言いあててみせよう。便通の規則正しい人は喜劇を、しまり屋は悲劇を、ゆるみがちな人は哀歌や牧歌を好むはず。

 人の好き嫌いなど所詮消化作用の違いに帰することができる。口から肛門までの器官のつながりが全細胞を沸き立たせる快感のなかに埋没していることは、この快感がなにか非人間的なものなのだと思わせるに足りる。だがしかし、よく考えてみると、この快感は我々に身近なもののようでもあった。身近ではあるが我々が決して経験したことのない感覚、つまり、<食べられる>ことである。


  ある一つの可食物質が口の中に入ると、その液体から気体までなにもかも没収されてしまってなにも残らない。
  まず唇がその逆行をさまたげる。歯が捕え噛み砕く。唾液がしみこむ。舌がひっくり返してこねまわす。吸飲運動がのどのほうに押していく。舌がすべりこませようと盛り上がる。途中で臭覚がちょいとそのにおいを嗅いだかと思うと、早くも胃の中におさまって次の変形を受け始める。これらの全過程をつうじて、この物質は一かけらも、一滴も、いや一原子といえどものがれられるものではない。人間の味覚能力にまるまるゆだねられるのである。(松島征訳)

2013年8月16日金曜日

プリニウスとオーウェルの象

 『鬣』第4号に掲載された。








 ローマ帝政期の軍人であり文人であったプリニウスと『一九八四年』の作者であるオーウェルに特に接点はない、だろうと思う。オーウェルがプリニウスを読んだかどうか、オーウェルのそれ程熱心な読者ではない私にはわからない。ただ、積極的に政治にコミットしたルポルタージュや小説や評論を書く一方、ウドハウスやハドリー・チェイスを評価したオーウェルのことだから、閑文字の王様のようなプリニウスを読んでも、あながち眉をひそめるようなことはなかっただろう。

 この二人を並べたのは、プリニウスの『博物誌』の象についての記述をなにということもなしに読んでいるときに、ゆくりなくも思い起こしたのがオーウェルの「象を撃つ」という短い文章だったからである。この二つの文章は鮮やかな対照をなしているように思えた。そして、プリニウスとオーウェルの象はもう一つの好対照への連想を誘いもする。

 プリニウスの『博物誌』八巻から十巻までが動物についての記述で、八巻が地上の動物、象はその冒頭、一章から十三章までを占める。八巻は全部で八十四章だから、数ある陸生動物に関する文章のおよそ六分の一でもって象が扱われていることになる。『博物誌』は観察と実験の書ではなく、むしろ、ギリシャ・ローマにおける博物学的知識と文章の集成であるから、動物界全体を見渡した上での象の位置づけというよりは、当時の人々が動物に向けた関心のこれだけ多くの割合を象が占めていたのだと考えるべきだろう。

 プリニウスの象については、澁澤龍彦が『私のプリニウス』のなかの一章を当てて書いている。『私のプリニウス』は、プリニウスを「あんなに嘘八百やでたらめを書きならべて、世道人心を迷わせてきた男」と評しながら、まさしくそんな男でなければ書けないなんの役にも立たない文章を楽しげに引用することに終始している本なのだが、象の項目もその例外ではなく、「象がおのれの皮膚の皺の間に虫を誘いこみ、虫が何匹もそこにたかったと見るや、急に皺をぎゅっとちぢめて、一挙に虫どもを圧殺してしまう」というような「ナンセンスすれすれ」の記事をもっぱら紹介している。それはともかく、意外に思えるのは、象が動物のうちでも頭が良く、感情においてもっとも人間に近い動物とされていることである。幸いなことに澁澤龍彦の訳文があるので、それを利用させてもらう。

    地上動物中で最大のものは象であり、それはまた感情において人間にもっとも近い動物である。実際、象は自国語を理解し、ひとのいうことをよく聞き、教えられた仕事をおぼえ、愛情や名誉を熱望するばかりか、人間にさえまれな美徳、正直、知恵、公平の美徳をそなえ、さらには星に対する崇拝、日月に対する崇敬の念をもそなえている。多くの著者たちの報告するところによれば、マウレタニアの山中では、新月のかがやく夜、象の群れがアミルスと呼ばれる河のふちに降りてきて、それぞれ自分たちのからだに水をふりかけて浄めの儀式を行い、かくして星に敬意を表すると、疲れた子どもを先頭に立ててふたたび彼らの森に帰ってゆくという。彼らはまた、他人の信仰をも理解している。すなわち海をわたるとき、象使いが象たちに、かならず国へ帰してやるからと誓って約束しなければ、彼らは船に乗りこもうとはしないそうだ。また象たちは苦痛に襲われると──あの巨大な図体でも病気になることはある──大地を彼らの祈りの証人にでもしようとするかのごとく、仰向けに寝て空へ向って草を投げるという。従順さについていうならば、彼らは王の前に膝まずき花冠をささげて礼拝する。インド人は、彼らがノトゥス(私生児)と呼ぶ小さな象を耕作のために使用する。
        
 この他にも、象の知性の例としては、ギリシャ語の文をおぼえて書いたことや、教えられたことを理解するのが遅く、罰として繰り返し叩かれていた象が、夜同じことを練習していたことなどが記されている。また、感情については、高名な文法学者アリストパネスの愛妾である花売りの娘に恋をした象がいたという。一言で言えば、間違いなくプリニウスの象はもっとも人間的な動物の一種なのである。

 オーウェルの「象を撃つ」は、彼がイートン校を卒業の後、ビルマで警察官をしているときの経験を書いたものである。ある日、飼われていた象にさかりがつき、鎖を切って逃げ出した。象は街で暴れまわり、インド人一人と牝牛一頭を殺し、家を壊し、露天の果物をたいらげた。なんとかしてくれるよう呼び出されたオーウェルはライフルを手に象と対峙する。彼の背後には象が撃たれるのを見物しようとする二千にも上る群衆が集まっている。オーウェル自身は象を撃ちたくないのだが、群衆の手前撃たないわけにはいかないと感じる。このときオーウェルは「帝国主義の本質」を垣間見る思いがし、それがこのエッセイの大きな主題になっている。「わたしという白人は銃を手に、何の武器も持っていない原住民の群衆の前に立っていた。一見したところはいかにも劇の主役のようである。だが現実には、後についてきた黄色い顔の意のままに動かされている愚かなあやつり人形にすぎないのだった。この瞬間に、わたしは悟ったのだ。暴君と化したとき、白人は自分自身の自由を失うのだということを。うつろな、ただポーズをとるだけの人形に、類型的なただの旦那になってしまうのだということを。支配するためには一生を『原住民』を感心させることに捧げなくてはならず、したがっていざという時には、つねに『原住民』の期待にこたえなくてはならないのだ。仮面をかぶっているうちに、顔のほうがその仮面に合ってくるのだ。わたしはその象を撃たないわけにはいかなかった」(小野寺健訳、以下同じ)とオーウェルはその状況を分析する。だが、「象を撃つ」でもっとも印象的なのは、こうした考察以上に、弾丸を撃ち込まれて倒れた象が、なにか象以外の得体の知れないものに変貌することなのである。

     二度と立ち上がりそうもないことは明らかだったが、象はまだ死んではいなかった。山のような脇腹を苦しそうにふくらませながら、きわめて規則正しく、ガーガーと長い喘ぎ声をあげて呼吸していた。口を大きくあけている──わたしには洞窟のような薄桃色の喉の奥まで見えた。いつまで死ぬのを待っていても、その呼吸はいっこうに弱まらなかった。ついにわたしは残っていた二発を、心臓があるあたりと思われるところに向けて撃ちこんだ。赤いビロードのような濃い血がどっと溢れ出したが、それでも象は死ななかった。弾丸があたってもその体は小ゆるぎもせず、苦しそうな呼吸は一刻も休まずにつづいていた。たしかに死にかけてはいた。ゆっくりと、ひどい苦悶のうちに死につつはあったのだが、それはわたしからは遠い、これ以上は弾丸もまるで効かない世界での出来事だった。わたしはこの恐ろしい音を止めなくてはという気になった。巨大な動物が目の前で倒れたまま、動く力もなく死ぬ力もない姿を見ていながら、その命を絶ち切ってやることさえできないのは耐えがたい気がしたのだ。わたしは自分の小さいライフルを取ってこさせると、象の心臓と喉を目がけて、たてつづけに弾丸を浴びせた。だが、効果はまったくないようだった。苦しそうな喘ぎは時を刻むように規則正しくつづいていた。

 象の厚い皮の下から、弾丸さえ届かない、なにか手に負えない剥き出しの生命が姿をあらわす。ここで思い起こされるのは吉田健一のことである。吉田健一は皮が厚く、図体の大きな動物、恐竜、象、河馬などを好んだ。可愛い動物は食べても旨いというのが吉田健一の持論の一つで、さすがに象を食べたことはなかったようだが、「一体に旨い魚や鳥というのは飼って見たらさぞ可愛いだろうという気がして、これは例えば石川県金沢のごりがそうであり、獣の中では象や河馬が可愛いが、その両方とも非常に旨いそうである」(『私の食物誌』)と書かれている。

 それはともかく、殺すに殺せない、止めるに止められない象の発する「恐ろしい音」は、例えば、次のような文章を連想させる。

    人間以外の動物は純粋に時間とともにあると言へる。又時間が存在を貫いてゐて存在と時間の区別は形而上学の領域に属することであることを思ふならばこれは自分とともにあることでもあつてそれ故にさういふ動物が戦へば死ぬまで戦ひ、これは死期が近づいたのを知るのと違つて現に自分が戦つてゐるその時間のうちにゐるのであつてそれで傷いて倒れて死期が近づいたのを知る。それは小鳥が朝来て木の梢や家の屋根で鳴くのとその状態に就て変ることはなくてそこに共通の静かなものが時間である。(中略)ここで改めて言ふならば時間とともにあるといふのも多分に抽象的な表現であつてそのこと自体に間違ひがないことは我々が達するその状態から類推出来てもその状態に不断にあるといふのが実際にどういふ境地にその当事者を置くものかは不断にさうであることが望み難い我々には想像を越えるものがある。又それが栗鼠に限らず凡て自然の中で暮らしてゐる動物、又それに似て均衡が取れた条件で飼はれてゐる動物に就いて見られることであるのは断るまでもないことでその眼が語るものが我々に語り掛けて来るやうであつてそれを我々が理解しないのを意に介してもゐないといふ印象を受ける。(『覚書』)

 オーウェルの「恐ろしい音」と吉田健一の「静かなもの」は盾の両面であって、我々が飼い慣らされた動物とつきあったり、お互いの領分を侵すことなく動物を見ているときには動物とともに動き、動物のうちに身を潜めている「静かなもの」は、なにかのきっかけ、例えば数発の銃弾によって、我々の「想像を越え」た、「我々が理解しないのを意に介」さない「恐ろしい音」となって溢れ出すのである。

 プリニウスの象は、その習性や行動のあれこれが人間に近いということ以上に、ギリシャ・ローマの様々な記述が集まってできあがっていることにおいて、人間的であり、文明の産物である。広大な書物の世界を渉猟し、なんの役にも立たない挿話を生涯を通じて収集しつづけた澁澤龍彦はまさにプリニウスを語るにふさわしい人物だと言える。かくして、プリニウスとオーウェルの象は、珍奇な挿話の吹きだまりである澁澤龍彦と、常に「時間とともにある」という一歩間違えればグロテスクな相貌を見せる試みを続けた吉田健一を好対照をなすものとして引き出すのだが、象が皺に虫を誘いこみ、集まったと見るやぎゅっと皺を縮めて殺すといった無意味なエピソードを読むとき、なにか「恐ろしい音」に似たものを感じ、両者に通底するものがあるようにも思われるのである。

2013年8月15日木曜日

井伏鱒二『詩集』

 『鬣』第4号に掲載された。

 井伏鱒二の漢詩訳を真似してみたが、いかんせん普段から漢詩に慣れ親しんでいるわけでもないので、どこまで原詩の意味を保ちつつくだけているか、心もとない。






茱萸沜     王維

結実紅且緑     アカトミドリノ実ヲムスビ
復如花更開     花ノヒライタヨジヤナイカ
山中倘留客     モシモオマエガクルノナラ
置此茱萸杯     カクテルイツパイモツクロカナ


臨湖亭     王維

軽舸迎上客     フネハナイケドダイジナオキヤク
悠悠湖上来     エンガワアタリニユウユウスワル
当軒対樽酒     酒ノスウハイノミホセバ
四面芙蓉開     ナントマワリハ花ザカリ


送陸判官往琵琶峡     李白

水国秋風夜     夜ノカワベニアキカゼフケバ
殊非遠別時     ワカレテシマウニヤグワイガワルイ
長安如夢裏     サカバノヒビガ夢トナリ
何日是帰期     夢バカリデハイキルニツライ


秋浦歌其十二     李白

水如一疋練     カワノナガレハ絹ノミチ
此地即平天     天マデツヅクシロイミチ
耐可乗明月     アカルイ月ニノツカツテ
看花上酒船     花ヲミナガラノミタイモノダ


貴公子夜闌曲     李賀

裊裊沈水煙     クルリトアガル香ノケム
烏啼夜闌景     ヨフケノカラスガNevermore
曲沼芙蓉波     マガリクネツタ沼ニハス
腰囲白玉冷     腰ノシロタマヒヤツコイ


不睡     白居易

焔短寒缸尽     シンヤノテレビガオワツテミレバ
声長暁漏遅     トリハナカヌガ夜明ケガチカイ
年衰自無睡     ネムレナイノハトシノセイ
不是守三尸     ネムツテワルイワケジヤナイ


楽遊原     李商隠

向晩意不適     ヒグレノイラダチオサエルタメニ
駆車登古原     ハコネノオヤマニノボツテミルト
夕陽無限好     マツカナユウヒガココチハイイガ
只是近黄昏     タソガレドキガスグチカイ


天涯     李商隠

春日在天涯     ハルトハイエド天ノハテ
天涯日又斜     ヘリトハイエドヒハシズム
鶯啼如有涙     ウグイスナクネハシタタル涙
為湿最高花     タカネノ花ヲソボヌラス



        勧酒     干武陵
        勧君金屈巵     コノサカヅキヲ受ケテクレ
        満酌不須辞     ドウゾナミナミツガシテオクレ
        花発多風雨     ハナニアラシノタトヘモアルゾ
        人生足別離     「サヨナラ」ダケガ人生ダ

2013年8月13日火曜日

石川淳と村田了阿の季節

 『鬣』第3号に掲載された。


 「雅歌」は石川淳の昭和二十一年作の短編小説。特に筋らしい筋はなくて、過去の、そしてつい最近の女性との交渉や、そうした女性たちを遙かに見下ろして「惚れぬいた」プランク常数hのことなどが語られている。この語り手が、敗戦直後の諸事不便な時期ではあるが、「家よりも、娘よりも、見つかるものならばぜひ手にとつてみたいとおもふたつた一部の本」があって、それが村田了阿の『花鳥日記』である。「ただし、かならず了阿みづから筆をとつて書いた原本に限る」というから贅沢な要求である。

 森銑三の「了阿法師とその生活」によると、村田了阿は安永元年(1772年)、江戸浅草黒船町の煙管問屋、村田家の次男として生まれ、天保十四年(1843年)七十二歳で没した。了阿は法名で、本名は高風。幼い頃から学問を好み、身体も虚弱で、両親もあえて商人になることを強いなかった。寛政八年、二十五歳で剃髪し、下谷坂本の裏家に引きこもった。『一切教』を両三度熟読したという。交友も広く、狩屋棭齋、石川雅望、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦と多彩な顔ぶれを誇っている。

 著作は二十ほど残っているというが、『花鳥日記』は文化十二年、了阿四十四歳の年とその翌年の二年分が伝えられている。十二年のものは国書刊行会刊の『近世文藝叢書第十二巻』で、十三年は中央公論社の『新燕石十種第三巻』で読むことができる。内容は、その名の通り、ほとんど花と鳥、それに昆虫のことで占められており、しかも記述は簡潔を極める。二年分の日記が原稿用紙にして二十枚程度であろうか。鳥では、鶯、雉、時鳥、雁、鵯などの鳴き始めたことが記され、花では、梅、桃、桜、藤、山吹、朝顔、紫陽花などを見たことが書かれている。花、鳥、昆虫が中心であるから、自然、春から夏へかけた時期の記述の方が圧倒的に多く、しかも花なら梅と桜、鳥なら鶯が、季節の変わり目を鮮やかに知らせてくれるからかもっとも頻繁にこの日記を賑わすもので、つまり、夏までの間でも、旧暦に従っているから二月、三月がもっとも詳細であると言える。

 それでは、文化十三年二月の日記を引用する。

二月三日、きのふより南風いとあたゝかにて、ひえの鶯、声いと高し、所々の梅やゝ咲そむ、葛飾の梅、二三本さかり、其外やゝさきそめり、柳青みわたり、壮りおそきは、やゝきばめり、本所辺の椿もかれこれみゆ、
八日、世間の梅さかりなり、柳もやゝめばりて、きばみわたれり、されど、花さき出たるにはあらず、また、花さかぬ糸柳は、葉出て青みわたれり、下寺どほりの椿、やゝさきぬ、
十一日、かつしかの梅、新樹はさかりなり、古木は二山分さけり、此ほど、わが岨の椿咲そめたり、
十二日、朝、雉子二三声、始てなく、
十三日、かつしかの梅、古木もやゝさかりなり、此夕、月朗なり、幡随院の池にて田螺なく、
十五日、わが垣根の紅梅、白梅、わが岨の梅、峰の梅、さかり也、此夜、わがうらの田螺おり/\なく、
十七日、報春鳥両三度なく、此夜月朗也、田螺やゝなく、きのふけふ春雨しめやかにて、田螺ひるもなく、
十九日、わが峰の紅梅、ぶんご、諸所に咲匂ふ、岨の連翹さきいづ、椿やゝさかりなり、
廿二日、世間の柳花、さかりなり、地内平八が梅、やゝさき出、臥竜古木さかりなり、新樹はやゝうつろふ、さかりなるもあり、此ほど、世間のすゞ菜、花やゝさかり也、
廿三日、始て黄蝶を見る、
廿七日、朝、雉子なく、
廿八日、車坂上見明院の前、南より第二のさくら、ちらちらと咲そむ、我峰の緋桃、岨の連翹、やゝさく、我奥の杏花、既にさかんとす、世間の柳花、甚しく黄過ぎたり、清水堂の柳花は、実のさかりなり、御成道堀侯の柳、やゝ細葉を生ず、
廿九日、此程猶、世間の紅梅、ぶんご、青ぢくなど盛なるもおほし、我峰の椿さかりなり、

 「雅歌」の語り手は、この簡潔な記述が羅列されている日記のどこに魅了されたのだろうか。戦争中、空襲警報のサイレンが鳴って、一騒ぎあった後などに繰り返しのぞいてみたのがこの『花鳥日記』だったという。この日記の奇妙に人の気を引きつけて止まない力について次のように語られている。

 一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、草、木、虫などの消息がきはめて清潔にうつされてゐるほかには、このみじかい日記の中には他のなにもない。感想とか詠嘆とか歌とか句とか、よごれつぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたといふやうすで、立ちすがた、みごとである。ひとつ子ひとり通らず、ぶきみと見えるまでに人事を絶ち切つた、しかも抑揚のない、この静謐の世界は、そこにひとの気をしづもらせようとはしないで、かへつて心を波打たせる。もちろん、たとへば下谷浅草がいちめんの焼野原になつた日に、この日記の、御徒士町筋に林檎の花盛り云云とある條を見ることの、いつそうれしいやうな、じつは安つぽい感傷のたぐひを取立てていふのではない。また商売熱心の批評技術家が見当ちがへに食らひつくやうに、この日記をたねにして、さつそく筆者の在り方とか、生活の仕方とかを邪推しようなどといふ料簡はさつぱりおこらない。そのやうな気苦労からずつと遠くのはうにあつて、人間にものをいはせない仕掛の品物だといふところが、いらいらして奇妙である。

 「雅歌」という短編は、確かに話としては筋らしい筋がないが、語り手の精神遍歴の道程は鮮やかに示されている。語り手は精神の二つの極を往復する。一方の極には女性との恋愛、交渉など、「地上ののたのたあるき」であるしかないあまりに人間的な領域、自律的な運動をひたすらに続けるべき精神が細かなことに拘泥して動きを止めてしまう人間的な心情に押され気味の場がある。もう一方の極にあるのがプランク常数hで、ここには人間に関するものではそのうちで最も早く動くことのできる精神しか参加が許されてはいないような、精神が量子に見立てられ、目にもとまらぬ早さで非連続的に運動するような場がある。

 だが、このプランク常数hの場に行きっきりになることは、「下司の智慧の、常識のさかしら」や肉体がそれを許さないらしい。二つの極の間に「雅歌的季節」が発明される。「しかし、常識が遅蒔に顔を出しかけたときには、肉体のはうはとうに高熱をあげてわつと飛び出して行き、あちこちにぶつかつて発光しながら、おなじぶつかるならばやはり肌ざはりのわるくないやつがよささうだと、俗情はまだ抜けず、しぜん女人の肉体に接近していく傾向いちじるしく、生活も人生観もめちやくちやになつた代りに、今度は物理学からだいぶ遠走りしたところで、人間の生活には雅歌的季節があるとかんがへたはうが便利だといふことを体験上必至に発明してしまつた」とある。律法と予言に満ちた旧約聖書のなかに「編集のまちがへかと見られる」雅歌が収められ、「聖書ぜんたいにおもむきを添へ」るものとなっているように、男女の恋愛も精神の運動になにかしら資するところがあるに違いないと、いわば二つの極を折衷してみせるのである。

 これで納まってしまえば、話は単純で、通俗的といってもいい世間知を確認するだけのことになってしまうが、そうした安定した納まり具合を揺るがすのが村田了阿の『花鳥日記』なのである。この短い日記にプランク常数hの場が見いだされるというのではない。素早い精神の運動が見られるわけではないし、「鳥、草、木、虫などの消息」というのは精神が働く場としてはむしろ非常に限定され、閉ざされた場だと言うことができる。にもかかわらず、それが「心を波打たせる」のは、思いもよらぬところから「雅歌的季節」という一種の妥協的産物とは異なった季節があることを示されるためである。つまり、「雅歌的季節」と同じように、『花鳥日記』は一つの発明と見ることができる。プランク常数hまでとは言わないが、「単純で、便利で、早くて、いいにほひ」がするようである。では、『花鳥日記』の発明がなんなのかと言えば、それは「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」が当然であった日本の自然についての記述(歌、俳句、物語、随筆、日記等など)が様々あるなかで、それら人事を感じさせるものをまったく排除した場を造りあげたことにある。

 戦争中語り手を訪ねてきた「ある誠実な詩人」にこの日記の話をしたところ、その後その詩人はこう言ったという。「あの日記を自分でちよつとやつてみましたが、だめでした。たつたあれだけのことを書くのにも、ほかのことをいろいろ知つてゐないと、どうも書けないやうです」と。この困難は、了阿の造りあげた場というのがもともと人事の介入を許さないような峻厳な自然のなかにあるのではなく、まさに「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」がうずたかく集積された江戸文化の中心部にあることに由来するものと思われる。花なら梅と桜、鳥なら鶯であり、住んでいるところは下谷坂本、江戸の真ん中と言ってもいいところで、そこに集積されたすべてを知りながらそれを拒否することが必要だからであって、知識とそれを捨てることによってできあがる場の形成に村田了阿の精神の運動が働いている。

2013年8月12日月曜日

大手拓次

 『鬣』第3号に掲載された。

 大手拓次の詩には手のモチーフが頻出するが、その断片を組合わせてつくってみた。




白い宝玉の手に掘られた土のなかに柔らかい壁で区切られた部屋がある。扉は二つの青い手に抑えられているその青は深い海の青で、赤くふくらんだ大足が緋の衣笠を覆うぬるぬるした手にあたる。地面の手でぬかるみを探ると屈んだ足の傾斜があやしいよろめきを誘って身体は扉の手のなかへ巻きこまれ、手のひらの海に海の深い青にかなでられ押し出される。部屋にあるのはなまめいた手がもつサイネリアにイスピシア、誰のともしれないしろいやわらかな足をみがいているくさりにつながれたふたつの手。銀と黒との手の色は思いでにはにかむあしのうらをしずかにかいているようでもあるし、かすかにふるえる腱のふるえの伝わった手がほそいうめきをたてているようでもある。水をくぐる釣針の手がほのしろく部屋を照らし、柔らかな天井には春の日の女の手が滲みでていた。街のなかを花とふりそそぐ亡霊のようにあまたの手がむらがる寝台に横たわると、天井の春の日の女の手からは水草のようにつめたくしなやかな手の滴があをあをあをあをと降りかかる。あをあをの手が首に胸に腹に腿に踝に積もりもつれもつれる手の重なりが肌にしみこんで、水草のあをあをのみずからでた魚のようにぬれた手が肉を揉み筋をまさぐり宝玉の骨を磨き芳香の髄に沈むと、くさりとともにさらさらと鳴っているふたつの手がおびただしいあをの手に覆われ柔らかく沈み込む寝台に横たわっているわたしの、したたりに満ちた水草の手があまたむらがり覆っていない部分大理石の両手を、くさりとともにさらさらと鳴っているふたつの手がつかんでしろくつややかな大理石の手を組ませると、あたかも春の日の女の手に祈りを捧げているかのようなわたしの合掌の手のひらはくずれて水となり、柔らかい壁で区切られた部屋はしたたりぬれた水草の手でいっぱいになる。

 わたしはこれらの指と指とのもつれる香に、わすれられたる、またいまだ来らざる幽霊の足あとをみいだすのである。

2013年8月11日日曜日

花田清輝とバビットのフラン・ヴィタール

 『鬣』第2号に掲載された。




 花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』、『さちゅりこん』、『胆大小心録』などといった著作を読むと、時に、バビットという名前を認めることができる。アーヴィング・バビットは一八六五年オハイオ州に生まれたアメリカの批評家、生涯の大半、ハーバード大学でフランス文学を講じ、一九三三年に死亡している。

 花田清輝がバビットの名を持ちだすときに、必ずと言っていいほど付いてくるのが、バビットの造語である「フラン・ヴィタール」という言葉である。フラン・ヴィタールは、ベルグソンの用語エラン・ヴィタールに対抗してつくられた用語で、エラン・ヴィタールが「生の活力」や「生命の躍進」などと訳され、生の遠心的に拡大し、飛躍する力をあらわすのに対し、フラン・ヴィタールは「生の統制」であり、生の求心的に収縮し、組織する力をあらわす。エラン・ヴィタールの対抗概念ということから、フラン・ヴィタールを、なにか、生にとって破滅的な力、例えば、フロイトの死の衝動のようなものと考えるのは間違いである。ベルグソンのように生の本来をもっぱら遠心的な拡大のうちに認めるべきではなく、むしろ、求心的な組織する力に認めるべきだというのがバビットの真意である。

 花田清輝が、バビットを正面切って論じることはなかったが、『胆大小心録』に収められた「エランとフラン」などはバビットとそのフラン・ヴィタールという考えを最も大きく取り上げた文章ということになろう。そこで花田清輝は、国家や社会を生物とのアナロジーにおいて捉える、或は生物そのものとして捉えるスペンサー、フロベニウス、シュペングラーといった思想家や歴史家がもつ生命観を批判している。

 彼らが国家と重ね合わせて見ている生命とは、つまりは拡大膨張する生命でしかなく、ある国家や文化が拡大膨張をやめたとすれば、そうした国家、文化は既に生命本来の力を枯渇させているのであり、後は衰弱し没落するしかないことになる。花田清輝はバビットのフラン・ヴィタールを、こうした、あまりに単純で、それでいて無批判に信じられ、拡がっているようでもある生命観に対する解毒剤と考えていたようである。

 思うに、バビットが、わざわざ、フラン・ヴィタールといったような言葉を持ち出したのも、ベルグソンのエラン・ヴィタールを、文字通り、生命の衝動として受け取ったかれが、ベルグソンに反対して、そういう衝動的なものよりも、いっそう、われわれの生活にとって根源的なものであるとかれの考える、拘束し、統制し、組織していくものの存在を、大いに強調する必要があると感じたためであろう。
  もっとも、バビットのベルグソン批判が、すこぶる俗流的なものであったことは、『ルソーとロマン主義』の中で、かれが、直感を二つの種類に分け、エラン・ヴィタールを下理性的直感に、フラン・ヴィタールを超理性的直感に結びつけていることによっても明らかである。本来の意味におけるベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールが、直ちに超理性的直感に結びつくものであることはいうまでもない。しかし、ベルグソン批判としては的をはずれているにせよ、生命に、遠心的に、膨張し、拡大し、飛躍していこうとするエラン・ヴィタールのはたらきと、求心的に、収縮し、集中し、固定していこうとするフラン・ヴィタールのはたらきとを認め、本能・感情・欲望・衝動等を前者の――習慣・理知・計画・規律等を後者のあらわれとしてとらえ、人間の生命を人間以外の動物の生命から区別するものは、フラン・ヴィタールであって、エラン・ヴィタールではないと主張するバビットの説には、確かに、近代人の生命感の盲点を、するどく突いているようなところがある。   (「エランとフラン」)

 それでは、『ルソーとロマン主義』(一九一九年)で、バビットが二つの直
感について論じている一節を引用してみよう。

 「適度な釣り合いなど我々には場違いなものだと認めよう」とニーチェは言う、「我々が真に欲するのは無限であり、測ることのできないものである」と。人間の本性を求める者が適正な均衡をいかにして失ったかを見ることは容易い。美徳というものの九割近くに関わる自己抑制を自ら進んで犠牲にしていることによる。超人はその力への意志のために抑制の徳などは顧みないので、均衡を取り戻すことは到底ありそうもない。超人がするのは、彼が他者
や自分自身に認めた過剰なるものからその正反対の過剰に激しく揺れ動くだけのことであり、どちらにしてもそれは文明の倫理的な基盤に対する差し迫った危機である。過去において、模倣の、参照の対象となった原型や範型は、欲望を抑制し、均衡を与えるものであったのだが、ニーチェが言うように、無限への熱望を満足させないという理由だけではなく、既に見てきたように、統一や直接性への熱望も満足させないという理由のために、どんなタイプのロマン主義的拡張論者にも無視されている。十八世紀に完成された諸形式に関する限り、ロマン主義的な拡張主義者が異議を申し立てるのも正当な根拠がある。しかし、この時期の合理主義や人工的な作法が満足すべきものではないにしても、分析的知性や作法一般について攻撃を加え続けるのであれば、それはまったく不当なものである。反対に、個人の特異性が強調される時代、伝統が断たれ、より想像的、直接的なものが求められる時代には、特異性を増加させる力は決してそれほど必要ではないことを認めるべきだろう。想像的であり直接的であるにも様々な方法があり、分析は、抽象的な体系を打ち立てるのにも必要だが、経験から得られた実際のデータを判断し、賢明で幸福でありたいと願うならどうしたらいいかを決定するのにも必要なのである。過去との連絡が断たれ、個人主義的なこうした時代にこそソフィストたちが言葉をたくみに操りだすが、そうした手妻から身を守る唯一の方法は揺るぎのない分析の力を借りてソフィストたちの使う言葉を定義することである。ベルグソンは、フランスには二つの主要な哲学のタイプ、一つはデカルトまで溯れる合理主義的なタイプ、もう一つはパスカルにまで溯れる直観的なタイプがあり、自分は直観主義者である限りにおいてはパスカルの系統にあると我々に信じさせようとする。恐るべき詭弁がこの単純な主張には潜んでおり、この詭弁は、もし正されないなら、文明を破滅させるのに十分なものである。唯一の治療法は直観という言葉を定義することであり、そこから派生する下合理的直観と超合理的直観とを実際に即して区別する必要がある。分析し定義してみれば、下合理的直観は生の衝動(エラン・ヴィタール)と結びついていることが見い出され、超合理的直観は生の衝動を超えた生の統制の力(フラン・ヴィタール)に結びついていることがわかろう。更に、この統制とは、人が、夢ではない現実の世界の共通の中心に引き寄せられるときに行使されなければならないのは明らかなことだろう。従って、分析する人間が物事を、断絶のうち、死んだ、精神を欠いたものと見なければならないというのは真実とは程遠く、個人主義の時代においては、人は分析においてのみ真の統一への道を得るのであり、想像力の役割もまたこの統一を達成することにある。人は分析によって(ある時代の単なる慣習に過ぎないものとは異なる限りでの)衝動を制するのに役だつ典型的な人間の経験の中心を見い出すが、それは想像力の助けを借りて始めて理解することのできるものなのである。別の言い方をすれば、普通一般の自己というものがある現実とは、固定された絶対的なものではなく、幻影のベールを通してしか垣間見ることのできないものであり、幻影と分かつことのできないものだということである。この洞察は、理性による決まりきった手順によっては結局公式化することはできない。知的な観点を超越するこの洞察は、それ故、外に無限に広がる欲望とはまったく異なった意味においてではあるが、無限であるように思われるのである。

 このように、少なくともベルグソンによれば創造性に結びつくはずのエラン・ヴィタールが下合理的直感、つまり合理性以前の衝動的な直感に分類されてしまっては、もはや、批判対象であるはずのベルグソンはどこかに消え失せ、後にはフラン・ヴィタールを主張するバビットの姿だけが残ることになる。確かに、その著作を読んだだけでもバビットの教養の広さは十分に想像することができる。専門であるフランス文学はもちろん、ギリシャ・ローマの古典から英米文学、仏教や儒教にまでその知識は及んでいる。しかし、実のところ、なにについて論じようと、ベルグソンという名前がルソーになろうがワーズワースになろうが、バビットの主張はただ一つ、人間にとって必要なのは、遠心的膨張的なロマン主義ではなく、求心的統制的な力であり、文学について言えば、古典や伝統に規範を求めるべきだということなのである。どんな作家も思想家も、バビットにとっては傍証の役割しか果たしていない。ある作家との出会いによって思いがけなくも自説が変容してしまうような瞬間はバビットにはない。知識が遠心的に拡がれば拡がるほどバビットの主張は求心的に収縮し、まさしく自らの思想を体現していると言える。それ故、恣に拡がろうとするロマン主義の解毒剤としては有効かもしれないが、バビットを読むことには同じ円をぐるぐる廻るような退屈さを伴うことを否定できない。

 したがって、バビットが本当に面白くなるのは、そしてフラン・ヴィタールという用語が生動しはじめるのは花田清輝の文章においてである。例えば、『アヴァンギャルド芸術』のなかの一篇「ユーモレスク」はピランデルロを論じた文章だが、バビットにおいては固定化された教義であったフラン・ヴィタールが見事にアクロバティックな運動を見せてくれる。

[ピランデルロのような]グロテスコ派にとっては、エラン・ヴィタールとフラン・ヴィタールとの相克それ自体が、かれらの唯一の生の現実であり、そうして、それらの二つの生の対立は、判断中止におけるごとく、均衡状態において静止するようなことはなく、相手を倒すか、みずからが倒れるかどこまでも闘争しつづけているからである。本能、感情、欲望、衝動の奔流が、これに対抗しようとする理知や信念や良心や決意を、一挙に呑みつくそうとして殺到する。そこで、それらのものの相克の結果、社会的には、法律、習慣、伝統、因習、道徳、等々が、エラン・ヴィタールの激流をふせぐための、フラン・ヴィタールの堤防として、次第につくりあげられてゆくのだが――しかし、転形期においては、この堤防が、相当、脆弱になり、方々破損していることはたしかであり、或る日、突然、それが、ガラガラと崩れ去り、逆巻く波のなかに姿を消してゆくようなことが、しばしば、おこる。さきにも述べたように「仮面」が「顔」から落ちるとはこのことだが、グロテスコ派の作品においては、こういう悲劇的な光景が、徹頭徹尾、知的に、喜劇的観点からとらえられており、それらの作品は、わたしたちの肉体派の浪漫的な作品におけるがごとく、決してエラン・ヴィタールの勝利の賛美におわることなく、逆にフラン・ヴィタールの敗北を描くことによって――おのれの知性の限界をすれすれのところまでたどり、辛辣な自己批判を試みることによって、そういうきびしい試練に堪えることのできる、たくましい作家の知性の存在を証明し、かえって、フラン・ヴィタールの勝利を描いているようにさえみえる。つまるところ、かれらは、つねに、浪漫的現実にたいしては、古典主義者として――古典的現実にたいしては、浪漫主義者として立ち向い、浪漫的なものと古典的なものとの対立を、対立のまま、統一することによってガルガンフモールのみなぎっている、独自のバロック世界を形成するのである。

 花田清輝にとっては、エラン・ヴィタールもフラン・ヴィタールも生の躍動の一側面であり、生や文章の跳躍台でこそあれ、到達点ではない。

2013年8月5日月曜日

デヴィッド・ヒューム

 『鬣』第2号に掲載された。





 アラン・ラムゼイが描いたヒュームの肖像は、どこか軽く靄がかかったようで、肉づきのよい顔の輪郭が周辺に滲みを見せているようなのは、あるいは、ヒュームの哲学が因果関係をばらばらに、つまり、ビリヤード台を転がる玉が別の玉にぶつかりそれを動かしたとしても、ぶつかった玉がぶつけられた玉の運動の原因であるとは言えず、我々が見るのはある玉が別の玉に近づきそれに触れ別の玉が運動するということだけであり、例えば、その他無数に考えられる仮定、ぶつかった途端に玉が消え去るとか天高く跳ね上がるといった仮定より学校で習うような物理法則が確からしく思えるのはただそうした物理法則に従っている物体の動きをより多く経験しているからであって、しかし、たとえどれほど繰り返し飽きるほどその法則を経験しようと、いまだかつて経験したことのないことがかつて経験したことに類似するという命題が決して証明されない以上、因果関係にはただ接近・継起以外の関係はなく、更にその上、事物は我々が知覚する印象の集まりで実体などなく、人間は思いもよらぬ速さで次々に継起する知覚の束なのだとすれば、揺るぎがないものと思われた世界は解像度の低い写真に見て取れるような孤立した点の集合で、ただより凝集度の高い人間や事物がより凝集度の低い空間にいることとなって、積まれた本に左ひじをついたヒュームの姿に軽く靄がかかり輪郭のたがを外れ細かな砂となって四辺に散っていくのも異とするに足りないが、それでもヒュームがヒュームの姿を維持しているのは、だだっぴろくて、平べったくて、おまけに口が大きくて、どう見ても低能児の顔としか思えない、とその友人に書かれた顔が、哲学的理知的に言えばばらばらである世界を関連づけ点を糸にし織り上げていく途轍もない力を人間の情念に認め、人間同士を結びつける力を共感に認めて、理知は情緒の奴隷であり、かつただ奴隷であるべきである、と書いたレースの袖口からのぞく柔らかそうな子供のような手とともに、砂の点を糸にし織り上げ織り重ねてヒュームを形づくっていったためで、そのヒュームは既に二十代にして完成している哲学上の代表作『人性論』にこそ、自らを社会に合一することができずにあらゆる人間的交際から追い立てられて独り全く棄てられ侘しく暮らす怪物と空想しているものの、生涯を通じてその人柄温厚であり快活であって、死を目前にしてもそれは変わらず、死が近づいてくるのがわかりますが不安や後悔はありません、では心からの愛情と敬意を込めてさようなら、と友人に手紙で別れを告げた。


 哲学者たちが心的活動を説明するため使用してきた在来の体系に共通な短所は、彼等が極めて細微精緻な思惟を、即ち、単なる動物の能力を凌駕するのみならず我が人類の幼児や普通人の能力を凌駕するほど細微精緻な思惟を、仮定することである。しかし、かような仮定にも拘らず、動物・幼児・普通人は、最も完熟した天稟と知性とを持つ人と同じ情感及び感情を感じることができるのである。

2013年8月3日土曜日

吉田健一とルーカスのロマン主義

『鬣』創刊号に掲載される。好きな人物の読書を読書するというコンセプトだった。
ちなみに吉田健一のベスト3は1.『時間』2.『金沢』3.『怪奇な話』というところか。







 F・L・ルーカスの名前は、もしかすると、ケンブリッジの学生であったときの吉田健一の先生として記憶にとどめられていることがあるかもしれない。だが、その吉田健一が、「Frank Laurence Lucasの名前も日本では知られてゐない」と書いた状況は現在でもさほど変ってはいないだろう。平凡社、小学館の百科事典にこの名前はなく、新潮社の『世界文学小辞典』に短い記述がある。


 (一八九四- )イギリスの批評家。ケンブリッジ大学で教鞭をとる一方、「ブルームズベリ・グループ」の一員として批評活動を続けた。精妙な鑑賞眼と優雅な文体を駆使しながら、イギリス文学をはじめ近代ヨーロッパ文学に深い造詣を示し、『良識を求めて』(五八)、『生きる芸術』(五九)など多数の作品を書いている。特に十八世紀文学にすばらしい共鳴をみせ、また近代劇に関する仕事を発表している。


 死亡年は明らかでないが、吉田健一が『交遊録』でその思い出を書いたときには既にこの世にいなかった。ちなみに、この文章は吉田健一についてのモノグラフを書き、親交のあった篠田一士によるもので、吉田健一が招き寄せた事項と言えるかもしれない。ルーカスについての最もまとまった文章は、多分、『交遊録』の一編で、この二人の、先生と生徒との具体的なつき合いがどのようなものであったかについて語られている。


   ルカスは講義は誰と誰のに行くといいとか読んで参考になる本とかキングズで英国の文学を専攻するに就いての指示を与へた。そして講義や本の選択は結局はこつちの自由だつたが、その他に毎週の何曜日だつたかに定期的にそこに集ること、二週間毎に論文の題を出されて二週間以内にそれを書いて提出し、その論評を個別的にルカスから聞くことといふやうな具体的なことが決められた。(・・・)少くとも二週間に一度は二人切りで顔を合せて色々と率直な意見を相手と交換することになるのであるからかういふ大学では誰が自分の先生(ケンブリツヂならばsupervisor)で誰が自分の弟子と修辞の上だけでなしに言ふことが出来て事実それが普通の言ひ方になつてゐる。


 二週間毎に本を読み、論文を書かねばならないのであるから、それだけで学校のことすべてがすむわけがないことを思えばかなり厳しいものだったはずで、実際、おそろしく勉強させられましたね、と吉田健一本人が福原麟太郎に語ったそうである。

 ルーカスの文学的立場については、二つのことが指摘できる。一つには、ケンブリッジでルーカスが担当していたのはイギリス文学だが、それをギリシャ・ローマの古典からヨーロッパ文学に渡る広範な背景のもとに捉えていたことである。「ルカスと話をしてゐると英国の文学を発見する一方ヨオロツパの文学に眼を開かれる具合になつた。カトゥルルスの名前を最初に聞いたのもルカスからだつた。サツフォの名前は知つてゐてもこれが自分が愛する女と卓子越しに向き合ふ男は神々よりも幸福であると言ひ、恋人がない美少女を何故か取り入れの時に枝に残された林檎に喩へ、又女の愛を得る為に自分と戦友になつて戦へとアフロディテに呼び掛けた詩人であることを知つたのはルカスに教へられてだつた。ロンサアル、ダンテ、レオパルディ、ボオドレエル、又プルウスト、ドヌを読む気を起こしたのもルカスに何度も会つてゐるうちにだつた。」こうした文章を読むと、古典を含めたヨーロッパ文学を血肉とした、教養ということがまだその意味を保っていた時代の人物を想像することができる。

 二つ目には、当時イギリスを席巻し、後にニュー・クリティシズムとして結実することになるエリオット、F・R・リーヴィス、I・A・リチャーズなどの批評に敵対する立場にあったことである。吉田健一によれば、エリオットの『荒野』がでたときに、それを認めなかったのはルーカス一人だけだったのではないかという。「ルカスがこの一派の欺瞞、見方によつては自己欺瞞に苛立たずにゐるにはその古典文学の知識が正確であり過ぎた」というのは吉田健一の言である。

 さて、このルーカスの『ロマン主義理想の衰亡』(1936年)を吉田健一の文章と並べて読んでみたいと思う。とはいえ、比較研究をしたり、影響の及ぶところを探ろうという心積もりはない。吉田健一が読んだルーカスを知ることで、ルーカスを読んだ吉田健一が瞥見されればいいし、ラフォルグやヴァレリーやプルーストを読む吉田健一とは、当然のことながら、吉田健一の一面に過ぎず、エリオット・ポールの探偵小説を幾度も懐かしく思い出し、矢田捜雲の『江戸から東京へ』を愛読した吉田健一もいれば、ルーカスを読む吉田健一もあるのだということが確認できればいいのである。もっとも、影響ということについてつけ加えれば、「ルカスには詩人、或は文士と学者の両方の面があつてその学会に対する寄与にも拘らず詩人や文士の仕事により多くの価値を認めてゐたやうだつた。実はその頃までまだこつちは学者になるか文士になるかどつちとも決め兼ねる気がすることがあつて文士の方を結局選んだのに就てはルカスの影響が大きかつたことに今になつて思ひ当る」というような文章があって、ルーカスが、いま我々が読むことのできる吉田健一を生み出すのに寄与した一人だとは言えよう。

 「ロマン主義の文学で繰り返される特性とはなんだろうか」とルーカスは問う。そして、「人里離れた場所、荒涼の地の物寂しい喜び、沈黙と超自然、冬と物憂さ、吸血鬼の恋に人目を忍ぶ逢引き、情熱の花に美しきものの死、ラドクリフの恐怖にサディスティックな残酷さ、幻滅、死、狂気、聖杯と辺境での戦い、不可能なるものへの愛」と列挙してみせる。しかし、ルーカスがロマン主義において本質的なものだとみなすのは、こうしたテーマや舞台の特異性ではない。


  文明人はその内部で衝突する様々な力によってあちらこちらに引っ張られており、生の困難さとはひとえにそれらの力を調和させることにある。第一に、動物でもある人間の本能的な衝動がある。第二に、両親に始まる他の人間の影響があり、それが彼のうちに行動についてのある種の理想、してはいけないことについての良心を形成し、第二の本性にまでなる。人間はあるものを好いたり嫌ったりするだけではない。それらを好いたり嫌ったりする自分自身を好いたり嫌ったりするのである。第三に、知性は、人が「現実」と呼ぶものの影絵芝居をつくりだす。メレディスはこの三つを血(或はドラゴンや蛇)、霊魂、頭脳で象徴化した。フロイトは「イド」、「超自我」、「現実原則」に引き裂かれた不運な「自我」をより明瞭に描いている。もはや、問題は「世界、肉体、悪魔」から、世界、肉体、理想に移っている。
本能的、動物的な「イド」は我々の意識の届かないところで働き、我々の乗る馬が勝手に牧草のほうへ向かうように、欲望の対象に向かう。しかし、牧草は辿りつくことができない場所、禁じられた場所に生えているのかもしれない。「いけっこない」と現実原則は叫ぶ。「そんなことをしてはだめだ」と超自我は囁く。そして、乗り手である哀れな自我は、死にもの狂いに手綱を引くのである。
当然、自我はこうした三つの力に翻弄される生を困難なものと思う。事態を単純化するために自我は目隠しに頼る。馬に使うのではなく、乗り手に、自分自身に用いるのである。それは、なかなか解消できそうにない衝動や葛藤に対して眼を閉ざすことになる。衝動や葛藤は「抑圧される」。しかし、それらはエトナ火山の下敷きになって苦痛にのたうち続けるエンケラドスのように、無意識のうちで身もだえしているのである。         これが最近研究されている重要なこと、我々の心のなかで我々の知らぬうちに働くきわめて重大な過程である。フロイトの体系の多くはまったくのたわごとかもしれない。懐疑的であってもなんの害もなさそうである。だが、事態はまったく逆である。実際、次のように言えることこそが最も重要なのである。すなわち、「ものごとは事実そうであるかのように働いている、つまり、無意識の「イド」と部分的に無意識の「自我」と「超自我」が存在するかのように働いてる。」事実、人間に関する理論においては、このかのようにをしっかりと保持することが重要である。それがあって初めて理論はきわめて有用であることが証明され、我々をたぶらかすこともなくなる。理論とは支えになる松葉杖ではあるが、王のもつ笏でもなければ、魔法使いの杖でもないのである。
ともかく、我々の表面的な意識生活の下では、ある多大なものが働いているかのように思える。そして、眠っているとき、様々な観念や衝動が浮かび上がるのを押しとどめている検閲官、看守であるカロンやケルベロスは警戒を緩めているかのようである。そこで、囚われものであった観念や衝動は上部の世界、我々の夢に忍び込み、再訪することができるのである。だが、その時でさえ、それらは偽装してこの束の間の解放を楽しむのではあるが。(・・・)
思うに、人間の生きる生き方、そして人間のつくりだす芸術というものは、その人間の現実感覚と理想についての感覚、意識と良心をどれだけ厳格で抑圧的なものにするか、或は緩やかで余裕のあるものにするかに大いに左右される。時代が異なることによってこのことははなはだしく異なり、同じ時代でも個人によって異なる。人格の前意識的な、衝動的な側面をある者は(D.H.ロレンスのように)愛し、ある者は(チェスタフィールド伯のように)憎みさえする。我々のうちには誰にでもこの暗い湖があり、そこから意識的、理性的な部分が徐々に姿を現わすのである。そこから、わけのわからないものが、夜に、孤独の瞬間にまぎれておもてに踊りでる。まるで、もっと奇怪なものがこの隠された深みに住まっているかのようなのである。ある者はこの神秘的な湖の岸を夢見ることを愛す。釣りをしたり潜ったりしようとする者もいる。実験室や仕事部屋やダンスホールの下に塗りこめ、閉じ込めようと努める者もある。
芸術においては、こうした相違はことに重要なものであって、というのも、芸術的な創造や夢には多くの共通するところがあるようだからである。中世の詩人は夢を舞台に詩をつくる習慣があった。スティーブンソンは夢に出た人物に恩恵を蒙ったと述べている。外見上は感情がないかに見えるクラッグでさえベッドで作品を書いており、スコット嬢に「結構な部分が」夢から得られていると語ったそうである。阿片は『クビライ汗』、『阿片吸引者の告白』、クラッブの『ユスタス・グレイ氏』を生み出している。素面でないと創作しないという者でも、良い考えの訪れというのがどれほど神秘的であり気まぐれであるか、どれだけ容易く逃げ去ってしまうか知っている。だからサミュエル・バトラーは「勢いをつける」ためにもノートをとる必要があると考えていた。芸術家のうちでも最も慎重で意識的な古典主義者ポープでさえ、凍りつくような夜、思いがけず訪れた考えを紙に書きとめておくために、再三再四写字生を呼び寄せたという。より古典的なドライデンにまでさかのぼっても、無意識の働きの予兆が見て取れる。『恋がたき』の献辞に言う。「この価値のない贈り物はあなたのためにつくられたのですが、一つの戯曲としてまとまるまでは、暗闇のなかに散らかされた混乱した考えの集まりに過ぎませんでした。最初に夢のなかの像のようなぼんやりした思いつきであったものが、光に向かうことによって明瞭になり、やがて判断力によって取捨選択されることになったのです。」ロウス教授はコールリッジに見られる同様の心的過程を『桃源郷への道』のなかで魅力的に分析している。コールリッジが読書や経験から得た観念は記憶の貯水池に沈み、その暗闇のなかで未知の魚とつがうことで奇妙な雑種が生まれ、それがいつの日か光に跳ね上がるところを捕まえられ、新たな生命に震えるそのものが老水夫の海洋やクビライ汗の聖なる流れに移されることになるというのである。このように考えると、古典主義、ロマン主義、リアリズムの相違とは主に程度の違いであると思われる。無意識から流れ出るものに対する現実原則や超自我と言われるものの抑制や検閲の程度によるのだと。リアリズムの作家は現実感覚のために他のすべてを犠牲にしようとする。古典主義者は、「良識」の名のもとにある種の非現実性を断固求める一方、「よき趣味」の名のもとに他の部分では慎重である。彼の衝動や想像は洗練された上流階級によって形成された社会的理想にその多くを支配されている。


 そして、「ロマン主義文学は生についての夢であり、社会や現実に拘束された衝動に栄養と満足を与える」とロマン主義の定義が下される。 古典主義やロマン主義というときに問題になるのは、それが時期が特定される歴史的なものであるのか、それともいつの時代にも認めることのできる常数なのかということである。「程度の違い」という言葉は、いかにもルーカスが古典主義やロマン主義を常数として捉えているように感じさせるが、この「程度の違い」は、特定の歴史的時期、十九世紀ヨーロッパのロマン主義の隆盛とその後のリアリズム小説の発達を経た後、はじめて見て取れるものであることを忘れてはならない。ルーカスもそのことには意識的で、十八世紀の古典主義に対する反動にロマン主義の歴史的意味を与え評価している。


  [ロマン主義という]酒の強さはまちまちだが、一杯のワインが知性や観察力を活気づけることもあれば、飲みすぎが駄目にすることもある。酒は「ドライで軽いなのが最高だ」と言われる。だが、ドライ過ぎるのは、生にとっては、少なくとも想像力によってはよろしくないだろう。十八世紀はドライの具合を極端なものにしてしまった。ロマン主義の反動は健康的なものだった。だが、殆んどの反動がそうであるように、行き過ぎた結果、今度は不健康なものになったのである。ロマン主義の作家は「喜びの果実」を味わい、ますます雄弁に、言葉づかいやイメージの音楽性についてはより魔術的に、感情や想像力の自由さが生み出す強さの点ではより印象的で、情念だけが創造をすることができるのだという雰囲気にあった。魔法の手引きであることができた。だが、陶酔が増すとともに、偉大な作家のもつ平衡、世慣れた人間のもつ知性と洗練がどんどん失われていった。作家である自分自身や自分の影ではない性格を観察したり描いたりするのに必要な、落ち着いた共感の力も失われて、ロマン主義のこの肥大化した自我は働き蟻をうようよと従えた女王蟻のように膨れ上がって、つまりは多産だがグロテスクなのである。良きにつけ悪しきにつけ、これがロマン主義の徴候で、このディオニソスの夢は鎖につながれた魂を解放してくれたが、あまりにも遠くまでいった者には新たな鎖が既に重たいものになっている。この鎖は多くの生命を破滅させたが、世界をどれだけ豊かなものにしたかわからない。


 こうした評価は、ロマン主義を古典主義の成熟にまで至らない未熟なものとするヴァレリーやそれに倣ったかのような吉田健一と最も食い違うところだろう。吉田健一のロマン主義に対する評価は全面的な否定である。「この文学で人間の悲みや苦みを取り上げることに重点が置かれてゐるとか、さうした題材の暗い影がそれまでになかつた新鮮な効果を収めてゐるとかいふことよりも浪漫主義の文学と言へば寧ろその特徴はどこかぼやけたものがあつてそれが余韻嫋々といふ種類のことと性質が違ひ、それを書いてゐるものの注意力の不足がそれを読むものの同じく注意力の不足で黙認されてゐることにある。又浪漫主義の文学で好んで対象に選ばれた事柄も確かにそれを手伝つてゐて悲みや苦み、或は喜びであつても、さういふものは小説風に一々その理由を述べ立てるのでなければただのさういふ名称である意味での観念になり、観念をさうして観念的に扱つた結果は単にそこに何となくさういふものがある気がするだけのことに終り、浪漫主義の文学の場合はこの脱落が当時の人間が観念を宛てがわれることに馴れ、その観念の中には真顔で受け入れることになつてゐるものが幾つもあつたことで補はれた。」と『ヨオロツパの世紀末』では書いている。 もっとも、ルーカスにとっては、ロマン主義もリアリズムも、それらが古典主義とともに文学の全体を例示する三角形を形づくり、古典主義でも、ましてやロマン主義でもリアリズムでもない「文学」を際立たせることをもってその使命を終えるようである。


     生も文学も果てのない綱渡りである。バランスこそが肝要。「古典主義かロマン主義か」という問いに対する答えは勿論「両方」である。ヘリックやミルトンが「野生の礼儀」や「奔放な用心深さ、軽薄にして狡猾」といった逆説的な表現で詩の素晴らしさを讃えたときに理解していたのはそのことである。(・・・)古典主義、ロマン主義、リアリズムは三つの極点で、三角形の頂点にあたり、魔法の円はそのなかにある。その円のなかにホメロスにアイスキュロス、ヴェルギリウスにタキトゥス、チョーサーにロンサール、そしてシェイクスピアがいる。より角に近いところにラシーヌ、ユーゴー、イプセンがいて、円の外側には十七世紀の英雄的に過ぎる悲劇、十八世紀の古典的に過ぎる悲劇、十九世紀、二十世紀のリアリズムに過ぎる小説がある。         実際、ルーカスにとっての理想の文学のありか、古典主義とロマン主義とリアリズムの点を結んだ三角形のなかにある魔法の円には一人の古典主義者、一人のロマン主義者、一人のリアリズム小説家もいないのである。このどの極点にも傾かないバランス、正常についての感覚こそルーカスから学んだ最も貴重なことだったと吉田健一は書いている。


 正常であるといふことがルカスから受け取つた最も貴重なものであることが漸くこの頃になつて解つた。別にさういふ話をルカスがした訳ではなくて正常を英語で何と言ふのか現在でも知らない。併しルカスの本の選択にもそれに対する批評にもさういふ人間の精神の病的であることを斥けた働きが感じられてそれは本の世界全体に光が及んで行く感じだつた。我々の精神が病んでゐなければ特定の主義が読書の楽みまで左右するといふことがないからである。例へばもし所謂、文学なるものに少しでも意味があるならばそれは本を読む楽みから出発して常にこれに即し、そこに結局は戻つて行くのでなければならない。


 最後に、エピローグの最後の部分を訳しておこう。


    ロマン主義の復興以来、夥しい数の創造的価値のある作品が生み出された。批評もずっと感受性の鋭いものになった。だが、十八世紀の批評家たちがしばしば賞賛に値するものを書き、そうでない場合も、少なくとも実に明快なナンセンスを書いたのに対し、コールリッジ、ユーゴー、カーライル、ラスキン、スインバーンといったロマン主義の批評家たちは、すぐれた才能をもちながらも、もっとずっと読者をうんざりさせる高遠曖昧としたナンセンスに陥りがちである。この星見る者たちはあまりにたわいなく井戸に落ち、しかもその底にはめったに真実は見い出されないのである。
今日、文学に関わる多数の者にとって、ロマン主義はいまだ最上の地位にある。少数派にとってもロマン主義の底流や、酩酊度の高い支流がすっかり排除されているというには程遠いので、というのも、「古典派」の振りをしながらロマン主義を嘲笑し、少なくすまされるところで多くを積み重ねるのは公正でないと言うのがいまの批評の流行だからである。「現代の文学にとってまず大事なのは現代的であるということだ」といまの批評家は書く。不運なことに、現代というのは、しばしば最新であることと同じである。ペイターは、さほどの説得力はないが、すべての芸術は音楽を熱望すると考えたが、いまは、ジャーナリズムを熱望している。我々はそういう方向に進んでいる。
こうしたことは、単に趣味の問題に思われるかもしれない。そうなら、私の主張していることは、議論しても無駄なことである。批評ができる唯一の一般的な判断とは、「これはいい」(なにに対していいのか)とか「これは美しい」(誰にとって美しいのか)といったことではなく、「これは真であり、あれはそうではない」とか「これは健全であるようだが、あれは病んでいる」といったことだと思う。ボードレールのような作家を追放するのは大いに遺憾なことだろうが、プラトンなら躊躇いなくそうするだろう。ボードレールを読まないのは大きな損失である。しかし、彼のような作家は病んでいる(多くの天才たちはそうではない)のだということを無視したり、そうした作家たちばかりを読んで、病的であるよりは健康であることが、不健全よりは健全なほうが幾許かの利点があることを忘れるのは道理にかなったことではないように思われる。現代の多くの批評に対する私の不満とはこうしたことを忘れてしまうことにある。つまり、ある作家が「興味深い」存在で、見掛け倒しであっても、口のなかにいままでにない味を残してくれるなら、彼が卑劣であろうが残忍であろうが、卑屈であろうが馬鹿であろうが、まったく気にしないという態度である。我々の時代は、未熟なままに死んでいったボードレールの卵で満ちている。彼らの殆んどがもうたくさんと思えるのはこのことによる。
批評の理論においても、一般的な真理を見い出そうとする者は、結局のところ、自らの価値、自らの見地を、自分自身に、自分自身のために語ることに終わる。ケンブリッジから戦争に赴いた二十二年の私の限られた経験を振り返って検証してみても、この確信は強まるばかりである。戦場において、砲弾の音と叫び声とが頭上を飛びかう穴のなかで、全滅を待つだけかのように座っているとき、支えになってくれたのは、神秘家や宗教家や小説家ではなく、ホメロスやモリスやハウスマンといった詩人たちだった。肘掛け椅子に座っているときなら大いに賞賛したいものでも、こうした状況での検証にどれだけの現代文学が耐えられるかは疑わしいところである。これが唯一の検証方法というのではないが、厳格なものではある。そしてもし現代ヨーロッパの愚劣さが新たな大洪水を招きよせるとしても、慰めが見い出されるのはギリシャのロマン主義的古典主義、アイスランドとハーディのロマン主義的リアリズム、十八世紀フランスの愉快なリアリズム的古典主義ということになろう。彼らといえど間違っていることはあるかもしれないが、彼らほど物事の真実に近づいた者を私は知らないのである。
こうした考えは多くの者に訴えることはないかもしれないが、少数の関心は引くかもしれない。批評家の職業上の賞賛よりも普通の読者の手紙のほうがずっと価値があることを人はいつの日か学ぶものである。それはともかく、私が長いこと、多分いつも、批評の最後の頁に書くつもりでいたことがある(少なくとも、この考えだけは是としてくれる者もあろう)。生は短い、そして私には、創造する心は、それがどんなに不完全なものでも、批評する心よりも好ましいとますます思われてきた。批評も楽しく興味深いが、創造はより幸福で、より生き生きしている。とにかく、私は生と文学についての私の考えを語ってきた。それが真実ならさしあたりこれで十分だろうし、真実でないなら多くを語りすぎたことになる。


 ここには、ほとんど正常さを逸するまでに正常にこだわる吉田健一の顔色なからしめる正常さがあり、すべてが異常な十九世紀という時代において、風俗壊乱の非難を受ける詩を書いたのはまさに正常だったからこそだと、吉田健一によってやや苦しげに擁護されたボードレールを、それでもやはり病的だと指摘し、追放まで示唆しているところなど、まさにルーカスの面目躍如たるものがある。