2018年5月31日木曜日

8.消える魔球――スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968年)




 原作、アーサー・C・クラーク、脚本、スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク、撮影、ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット。出演、デヴィッド・ボウマン、フランク・ブール。

 20年、あるいは30年くらい前のことなので、記憶が正しいのかわからないのだが、映画監督の鈴木清順がまだテレビによく出ていたころ、歴史上の偉人を一人取り上げて、その生涯を紹介しながら、オマージュを捧げようという内容のテレビ番組があった。そのある回に取り上げられたのがアーサー・C・クラークであり、ゲストに鈴木清順が招かれていた。SF作家としてのクラークの先見性がたたえられているなかで、鈴木清順は、科学技術というのは所詮現実の延長なんですね、野球のピッチャーがストレートを投げようがカーブを投げようが、映画にとってはなんの関わりもないわけですよ、消える魔球でも投げてくれないかぎりはですね、その点クラークなんて人も映画とは縁のない人ですな、と番組上は賞賛されなければならない人物を終始ディスっていて面白かった。

 『2001年宇宙の旅』の成立史についてはまったく詳しくないが、町山智浩などが精力的に調べたところによれば、クラークが貢献した科学的な因果性やSFとしてのストーリー・ラインに当たるものは大幅に削られたようである。そんなことより大切なのは、宇宙船や無重力空間のなかで、人間はどんな動き方をするかといった科学的な考証に当たるものだったのだろう。

 およそ50年を経てみると、実に単純な構成で、食物連鎖の中程にいた人類の祖先である類人猿が、地球外生命体、あるいはその残存物である黒く直立する石版に触れることによって、武器の使用をおぼえる。その人間の祖先になるであろう猿が骨を宙に放り上げると、有名なジャンプ・ショットによって、当時は未来であった2001年の宇宙船が宇宙空間にあるさまがとらえられる。月にもまた異星人がいる証拠となる石版が見つかるというインターリュード的なエピソードが挟まり、有人木星探査機に舞台は変わり、月の石版から木星へ向けて非常に強い発信が行われていることが報告される。一方、船内ではそれとは別に、いまではすっかり定番となったテーマ、人工知能による人間への反乱が起こり、生存者は一人だけになっている。そして木星へ向かう視覚体験と、木星の衛星軌道上で遭遇した石版が引き起こしたヴィジョンとが混然となって我々を引きつける。

 動物だけが存在する自然、宇宙空間、月、あるいは木星周辺、そして石版によってもたらされるヴィジョンと日常世界から遊離した映像で一貫しているという点で、コッポラが制作した(監督はゴッドフリー・レジオ)『コヤニスカッティ』やヴェルナー・ヘルツォークの『蜃気楼』に似た映像詩ともいえるし、リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス、ハチャトリアン、リゲティの音楽がほとんど絶え間なく鳴り響いていることも、そうした印象を強めるのだが、『コヤニスカッティ』の音楽がフィリップ・グラスによるもので、よく言えば統一感を与え、悪くいえば単調なのに対し、原人の投げる骨から宇宙船へのジャンプ・ショットにヨハン・シュトラウスのワルツを添える転換、そして地球外生命にコンタクトするという恐ろしく単純な話を最後まで見事な映画として見せたのだから、キューブリックがクラークをさんざんディスった映画ともとれないわけでもない。

2018年5月28日月曜日

21.第四の女――ゲーテ『親和力』



 (私は新潮社の望月市恵訳を読んだのだが、新刊では出ていないのでこちらを。引用部分も望月訳です。)


 1809年、『ファウスト・第一部』の完成の後、ゲーテがおよそ60歳のころ、『親和力』が発表された。『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』に続く、畢生の大作『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の構想を練るなかで、そのなかに組み込む短篇小説のひとつとして構想されたが、内容はどんどん膨れ上がり、長編になった。

 エードアルトとシャルロッテは、富裕なブルジョアの夫婦で、田舎にある屋敷をより住みやすい場所にするために、地所の方々に手を加えている。二人が充実した生活を送るだけの富も仕事も十分にある。夫のエードアルトは、なかなか自分に合った仕事を得ることのできないでいる実地能力に優れた友人の大尉を招き、三人で生活することを提案するが、妻のシャルロッテは消極的である。というのも、エードアルトとシャルロッテは、若いころ互いに愛し合っていたが、富を得ようとする両家の思惑によって、仲を引き裂かれ、二人ともたまたま連れ合いが死んだことによって、最初の愛を成就することができたという経緯があるからである。シャルロッテは、二人の生活がどのように成熟し、どんな形をとるようになるのかにより心を惹かれていた。

 しかし、何事においても熱っぽく、夢中になると自分の意見を引っ込めることのできないエードアルトは、この思いつきから離れることができなくなっている。他方において、シャルロッテは、前夫との間に娘がおり、寄宿学校に入っているが、その同級生に、オティーリエというかつての親友の娘がおり、その娘が、要領がよく、派手で社交的な自分の子供とは異なり、集団生活に慣れることがないのを、親友の性格と重ね合わせてよく理解できるので、できれば引き取って自分が監督、教育して、立派な娘にしたいと考えている。そうしたひそかな思いをエードアルトに話したことから、大尉とオティーリエという二人を加えた四人の生活が始まる。

 題名ともなった『親和力』は、夫婦と大尉との三人の会話のなかで語られ、一見、アルカリと酸のように、正反対の性質をもちながら、互いに求めあい、影響し合って新しい物質を形成するものを指すようなのだが、正確にいえばそれは類縁性と呼ぶべきものである。シャルロッテは、自分のこれまでの経験によれば、永久に離れることがなく、固く結びあっていた二人が、たまたま第三者が入ることによって、離れてしまい、浮草のように根を下ろすことなく漂うこともあるのではないかと尋ねる。ところが男性二人は、化学の世界ではそこで第四者が用意されていて、そこにこそ神秘があるのだという。

 「そうなんですよ!」と大尉はいった。「そういう場合がもっとも重要で注目すべき場合であることはもちろんで、引きあうこと、類縁であること、離れあうこと、結びあうことが、いわばほんとうに交錯して考えられ、いままで二つずつ結びあっていた四者が、その結合を解いて、あたらしい結合をするのです。この放したり捕えたり、逃げたり追ったりするさまは、ほんとうになにかもっとふかい意味を持つように感じさせ、そういう自然物に意思とか選択とかいうものがあるかとも信じさせ、親和力という術語を用いても、少しもさしつかえないと考えられます」

 つまり、親和性というのは、強く結びついていたものが、いったんその結合を解き、新たな結びつきをしたときにはじめて作用したといえる、分離と再結合の二つの力を備えもっている。実際、この小説は、冒頭近くで述べられたこの大尉の言葉通りに進んでいく。シャルロッテと大尉、エードアルトとオティーリエがそれぞれ互いにひかれあう。堅実で思慮深いシャルロッテは、正確な判断を下し決断力のある大尉にひかれ、夢想的で情熱的なエードアルトは、引っ込み思案だが、芯の部分はしっかりとしたオティーリエにひかれる。

 だが、実のところ、こうした類縁性から離れて、親和性に踏み込むのはエードアルトだけなのである。彼はオティーリエに夢中になり、自分とシャルロッテのあいだに子供ができたことを知るや、半ば自暴自棄になって、死を覚悟して戦争に参加するが、戦場を生き延びれば、オティーリエへの思いに再び立ち戻る。この本は発表後、賞賛も多かった半面、不道徳だといって非難するものも多かったというが、もっともな話である。賞賛の意味でいうのだが、モラルなど全く感じられないからである。シャルロッテと大尉が決定的な行動に踏み込まないのは、二人が共通して持つリアリストとしての側面が、障害の大きさと多難な未来を予見させるからにすぎない。

 シャルロッテと大尉がリアリストという共通の地盤に立ちながら、互いに補完的な性格をもっているのに対し、エードアルトとオティーリエの関係は謎めいている。エードアルトがロマンチストであることは確かだが、オティーリエとロマンチストのあいだには必ずしも対偶関係は成り立っていない。つまり、ロマンチストでなければエードアルトだとはいえないが、そして、シャルロッテと大尉とリアリストのあいだにもこの対偶関係は成立するのだが、オティーリエはこの対偶関係を壊し、四者関係を安定させることのない破滅的な項になっている。

 エードアルトが吹くフルートに合わせてオティーリエがピアノを演奏するエピソードがある。オティーリエはすでにシャルロッテが夫の伴奏をしているのを数回聞いており、シャルロッテが器用さと努力によって、あるときにはゆっくり、あるときには急いで調子を合わせているのを知っていた。しかし、オティーリエの対応の仕方は、シャルロッテとは全く異なっている。

オティーリエはこの二人がソナタを合わすのを数回きいた経験から、エードアルトがソナタのフルートの部分を吹奏する癖にのみ注意しながら練習したらしかった。彼女はエードアルトの癖をすっかり自分の癖に変えてしまったので、そこからいきいきとした渾然とした奏法めいたものが生れ、調子に忠実に奏されはしなかったが、大変快く美しくひびいた。作曲者も彼の作品がこのように愛らしく変形されたのを知って、むしろ喜びをおぼえたであろう。

 補完するのではなく、同一化するのであるから、畳みこむように終結に進む小説にみられるように、破滅へと向きだした運動はより加速され、それを支えとどめるものはいない。

2018年5月21日月曜日

20.寝台の舟――ロジェ・カイヨワ『幻想のさなかに』




 原書は1965年にフランスのガリマール社から刊行されている。

 翻訳の副題は「幻想絵画試論」で、その通り、絵画にあらわれた幻想が中心に扱われている。

 カイヨワはシュルレアリストたちとも近かった人物で、メキシコに飛び跳ねる豆があり、アンドレ・ブルトンがその驚異を楽しんでいたところ、豆を割って中を確かめるよう主張し、ブルトンの不興を買ったという有名なエピソードがある。飛び跳ねる豆はいまではテレビなどでも時々紹介されていて、蛾の一種が卵を産みつけるらしい。

 この本のなかで幻想は次のように定義されている。

 幻想とは、可能事が無限にあるから生じるのではなくて、可能性が、いかに膨大ではあっても最終的に限られていてこそ、はじめて存在しうるものである。数えつくせるものがなく、固定したものもないところでは、つまり、可能性に限界がなく、可能事が数えつくせないようなところでは、幻想そのものも存在できない。あらゆることがいつなりと起こりうるのであれば、何ものも驚異的ではなく、いかなる奇蹟といえども人を驚かすことができない。逆に、たとえば、未来は過去に影響を及ぼすことができないといったたぐいの、万古不易とみなされる秩序の中でこそ、この法則に背反する出来事が、我々の不安をかりたてずにはおかないのである。(翻訳書傍点)

 しごくまっとうな定義であって、対極にあるもの同士が合致するような「至高点」を求めることこそがシュルレアリスムの目的だと断じたブルトンとは対照的である。至高点とはいまだ到達しえぬ、あるいは到達可能であるかさえわからない仮構の超越的なものであり、そこに至る運動においては「日常的な不変恒常性」などは巨大な渦のなかに巻き込まれてしまい、「現実」の輪郭が崩れ去るような革命であるからだ。

 ブルトンの絵画についての著作が『魔術的芸術』と題され、現実を改変する力に力点が置かれ、『黒いユーモア選集』が文学において、自覚せぬままシュルレアストであった人物たちの系譜を掘り出しているように、絵画の歴史におけるシュルレアリストたちによるありうべきもう一つの絵画史を書こうとしているのに対し、カイヨワは、ちょうど別の著作で、自然界が生み出した「幻想的な」動物ともいうべき『蛸』について論じたように、正統的な絵画史を覆そうとしているわけではない。

 しかし、実は私にとってこの本を忘れがたいものにしているのは、これまで書いてきたこととはほとんど関係がなく、ある一枚の絵画のせいである。ルーアン美術館にあるというナンテ・エヴァリスト・ヴィタル・リュミネー(1821-1896年)という画家による『ジェミエージュの苦刑者たち』がそれである。

 「今日ではほとんど忘れられてしまった」というこの人物を、特に西欧絵画に詳しくない私が知ってようはずもなく、名前さえ憶えていられないほどなのだが、カイヨワによれば、「苦刑者」と訳されたenerveは通常の意味は「無気力な」「いらだった」であるが、まれな意味として「膝の腱を焼いて神経の働きを殺す刑を受けた」があるらしい。そして、この絵はそのまれな例を描いているのだが、刑そのものが描かれているわけではなく、日が暮れていこうとする夕方の黄色い光線のなかで、遠く岸を望む川の舟の上に、刑を受けたらしい身分の高そうな二人の男が横たわっているのだが、頭が埋まってしまいそうな大きな枕と水面まで届く掛物のせいで、大河のなかに寝台があるとしか思えず、奥にいる人物は目をつむっているが、手前には無気力ななすすべのない若者が、どこを見るともなく半ば埋まった頭を枕で支えながら首を起こしており、その空虚な顔つきが水面のさざ波と黄色い光との間でゆるゆると干渉しあい、かつて見たことのない複雑なひだを折り重ねて、ゆらゆらが伝わってくる。

2018年5月18日金曜日

19.鉱物化の手がかり――アーヴィング・バビット『ルソーとロマン主義』




 花田清輝の初期のエッセイを読むと、ときに、バビットという名前がでてくる。アーヴィング・バビットは一八六五年オハイオ州に生まれたアメリカの批評家、生涯の大半、ハーバード大学でフランス文学を講じ、一九三三年に死亡している。記憶が定かではないが、フレドリック・ジェイムソンのような批評家も、バビット流の人文学者といった具合に言及していたことがあったと思う。要は、古い時代の学者という文脈である。

 花田清輝がバビットの名を持ちだすときに、必ずと言っていいほど付いてくるのが、バビットの造語である「フラン・ヴィタール」という言葉である。フラン・ヴィタールは、ベルグソンの用語エラン・ヴィタールに対抗してつくられた用語で、エラン・ヴィタールが「生の活力」や「生命の躍進」などと訳され、生の遠心的に拡大し、飛躍する力をあらわすのに対し、フラン・ヴィタールは「生の統制」であり、生の求心的に収縮し、組織する力をあらわす。ベルグソンのように生の本来をもっぱら遠心的な拡大のうちに認めるべきではなく、むしろ、求心的な組織する力に認めるべきだというのがバビットの真意である。

 花田清輝の『胆大小心録』に収められた「エランとフラン」などはバビットとそのフラン・ヴィタールという考えを最も大きく取り上げた文章ということになろう。そこで花田清輝は、国家や社会を生物とのアナロジーにおいて捉える、或は生物そのものとして捉えるスペンサー、フロベニウス、シュペングラーといった思想家や歴史家がもつ生命観を批判している。彼らが国家と重ね合わせて見ている生命とは、つまりは拡大膨張する生命でしかなく、ある国家や文化が拡大膨張をやめたとすれば、そうした国家、文化は既に生命本来の力を枯渇させているのであり、後は衰弱し没落するしかないことになる。花田清輝はバビットのフラン・ヴィタールを、こうした、あまりに単純で、それでいて無批判に信じられ、拡がっているようでもある生命観に対する解毒剤と考えていたようである。

         思うに、バビットが、わざわざ、フラン・ヴィタールといったような言葉を持ち出したのも、ベルグソンのエラン・ヴィタールを、文字通り、生命の衝動として受け取ったかれが、ベルグソンに反対して、そういう衝動的なものよりも、いっそう、われわれの生活にとって根源的なものであるとかれの考える、拘束し、統制し、組織していくものの存在を、大いに強調する必要があると感じたためであろう。         もっとも、バビットのベルグソン批判が、すこぶる俗流的なものであったことは、『ルソーとロマン主義』の中で、かれが、直感を二つの種類に分け、エラン・ヴィタールを下理性的直感に、フラン・ヴィタールを超理性的直感に結びつけていることによっても明らかである。本来の意味におけるベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールが、直ちに超理性的直感に結びつくものであることはいうまでもない。しかし、ベルグソン批判としては的をはずれているにせよ、生命に、遠心的に、膨張し、拡大し、飛躍していこうとするエラン・ヴィタールのはたらきと、求心的に、収縮し、集中し、固定していこうとするフラン・ヴィタールのはたらきとを認め、本能・感情・欲望・衝動等を前者の――習慣・理知・計画・規律等を後者のあらわれとしてとらえ、人間の生命を人間以外の動物の生命から区別するものは、フラン・ヴィタールであって、エラン・ヴィタールではないと主張するバビットの説には、確かに、近代人の生命感の盲点を、するどく突いているようなところがある。   (「エランとフラン」)

 それでは、『ルソーとロマン主義』(一九一九年)で、バビットが二つの直感について論じている一節を引用してみよう。

         十八世紀に完成された諸形式に関する限り、ロマン主義的な拡張主義者が異議を申し立てるのも正当な根拠がある。しかし、この時期の合理主義や人工的な作法が満足すべきものではないにしても、分析的知性や作法一般について攻撃を加え続けるのであれば、それはまったく不当なものである。反対に、個人の特異性が強調される時代、伝統が断たれ、より想像的、直接的なものが求められる時代には、特異性を増加させる力は決してそれほど必要ではないことを認めるべきだろう。想像的であり直接的であるにも様々な方法があり、分析は、抽象的な体系を打ち立てるのにも必要だが、経験から得られた実際のデータを判断し、賢明で幸福でありたいと願うならどうしたらいいかを決定するのにも必要なのである。過去との連絡が断たれ、個人主義的なこうした時代にこそソフィストたちが言葉をたくみに操りだすが、そうした手妻から身を守る唯一の方法は揺るぎのない分析の力を借りてソフィストたちの使う言葉を定義することである。ベルグソンは、フランスには二つの主要な哲学のタイプ、一つはデカルトまで溯れる合理主義的なタイプ、もう一つはパスカルにまで溯れる直観的なタイプがあり、自分は直観主義者である限りにおいてはパスカルの系統にあると我々に信じさせようとする。恐るべき詭弁がこの単純な主張には潜んでおり、この詭弁は、もし正されないなら、文明を破滅させるのに十分なものである。唯一の治療法は直観という言葉を定義することであり、そこから派生する下合理的直観と超合理的直観とを実際に即して区別する必要がある。分析し定義してみれば、下合理的直観は生の衝動(エラン・ヴィタール)と結びついていることが見い出され、超合理的直観は生の衝動を超えた生の統制の力(フラン・ヴィタール)に結びついていることがわかろう。更に、この統制とは、人が、夢ではない現実の世界の共通の中心に引き寄せられるときに行使されなければならないのは明らかなことだろう。従って、分析する人間が物事を、断絶のうち、死んだ、精神を欠いたものと見なければならないというのは真実とは程遠く、個人主義の時代においては、人は分析においてのみ真の統一への道を得るのであり、想像力の役割もまたこの統一を達成することにある。
 科学的分析にも堪能であったベルグソン批判とすれば乱暴すぎるが、「文明の破滅」を持ち出すほどであるから、よほど俗流ベルグソン主義が目立っていたのだろう。バビットの教養の広さは、専門であるフランス文学はもちろん、ギリシャ・ローマの古典から英米文学、仏教や儒教にまで及んでいる。しかし、文明論者としての主義は一貫しており、人間にとって必要なのは、遠心的膨張的なロマン主義ではなく、求心的統制的な力であり、文学について言えば、古典や伝統に規範を求めるべきだということにある。

 しかし、古典や伝統はおろか、言葉さえ有効に働かなくなっているところでは、文明の衝突といった文明論で話が落ち着くことはない。文明の是非が問題になっているからだ。俗流エラン・ヴィタールもあれば、俗流フラン・ヴィタールもある。フラン・ヴィタールに頼るとするなら、自らを鉱物化し、からからに乾燥させて、来るべき雨期を待つことにある。
 

2018年5月14日月曜日

18.非情物語――上田秋成『雨月物語』




 安永5年(1776年)の刊行。白峯、菊花の約、浅茅が宿、夢應の鯉魚、仏法僧、吉備津の釜、蛇性の淫、青頭巾、貧富論の9篇からなる。読本といわれるものの代表のひとつである。

 なかで私は「夢應の鯉魚」と「貧富論」が好みである。「夢應の鯉魚」は、鯉の絵で名高い僧が、生と死のあいだの昏睡のなかで、魚と化して、水のなかを自由に泳ぎまわるだけの話で、地名を巧みに織り込んだ遊弋の文章を楽しむしかない。

 「貧富論」は、物語的な興趣は『雨月物語』のなかでは一番少ないかもしれないが、金銭を論じて興味深い。

 蒲生氏郷の家臣に岡佐内という武士がいた。この男、普通の武士とは異なり、倹約を旨とし、武士のたしなみとされている茶道、香道には目もかけず、月や花を愛でるわけでもなく、小判を部屋中に敷き詰めることだけを楽しみにしていた。しかし、ただの吝嗇ではないらしい。家来のなかに金貨一枚隠し持っているものがあることを聞きつけると、近くに呼び寄せて「どんな財宝も乱世には瓦礫に等しい、名刀があったところで、千人の敵に立ち向かえるわけではない、金はそれらとは異なり、誰に対しても等しく力をもつ、したがって、武士たるもの、みだりに扱うことなく、蓄えておかねばならない」と言い、蓄えに合うだけの身分を与えてやろうと、十両の金とともに武士に取り立てた。一種の哲学をもっているのだ。

 その夜、佐内の枕元に人の来る気配がするので、起き直ってみると、小さな翁が座っている。狐狸の類かと問いただすと、黄金の精霊だという。金を卑しいものとし、その徳を軽んじる風潮に怒りを覚えているらしい。佐内もその意見には全く賛成だが、常々疑問に感じていることもあるので、問いかけてみる。

 金持ちには貧しい者に施すこともなく、富んでいるうえに残忍なものも多く、また、貧しい者には、愚かでもなく、一日中働いているのに一向に生活が楽にならないものも多い。仏教では前世の報いといわれ、儒教では天命とされるが、仏教に従えば、現生での陰徳善行が、来世の報いとなることを頼りに生きることもできようが、儒教に従えば、そうした救いもないことになる、その理不尽をどう考えればいいのか。

 翁が答えるには、まず、そもそも、仏教でそんな風に解釈するのは間違っている。仏に従えば、現生の身分や富貴など忌むべきものでこそあれ、尊重されるものではない、前世の報いなどといっている時点で、似非仏教にほかならない。

 さて、貧富と善悪が必ずしも一致しないのは、金は元来物であり、人間のように情のあるものではない。非情の物であるから、神でも仏でも儒教的な天でもない。したがって、人間の善悪を判断し、それを糺すいわれもまたない。善に報い、悪を罰するのは天、神、仏の仕事であり、我々金は物と同じく低きに流れるにすぎない。治水に優れたものがいるように、金を蓄えるのに優れたものもいよう。それゆえ、古来から、聖人や賢人たちは、機会があれば利益を求め、なければあえて求めず、きっかけがないとなれば、隠者として生活した。

 「われもと神にあらず、仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糺し、それに従ふべきいはれなし。」という黄金の精霊の、いっそ爽快な断言には、物神的な要素と金とを完全に切り離すことにより、経済の謎を解き明かしてくれるわけではないが、金銭を地形や気候のように背景化し、一息つかせてくれる。
 

2018年5月12日土曜日

7.軌跡の人――ナ・ホンジン『チェイサー』(2008年)




 脚本、ナ・ホンジン、イ・シンホ、ホン・ウェンチャン。撮影、イ・ソンジェ。音楽、キム・ジュンソク、チェ・ヨンラク。出演、キム・ヨンソク、ハ・ジョンウ。

 実際の起こった事件を題材にしているらしいが、事実と虚構の境目がどのあたりにあるのか、その辺はまったく詳しくないので、わからない。途中で実にやりきれない展開があるので、現実にはどうだったのか関心がないことはないが、創作と現実の事件との関係でいつも感じることだが、本当であったところで、そのこと自体に心を動かされるわけではないし、心を動かされないのだとすると、特に知るまでもないわけで、それはともかく…

 まず惹かれたのはロケーションである。それほど大きくはないが、急勾配の道が四方から通っている山があり、それを取り巻くように街が広がっていて、山にはびっしりと住宅が立ち並んでいる。武蔵野育ちの私には目にしたことがない風景である。強いて言えば、渋谷が、一応坂があって、神泉のほうに抜ければ住宅地だということで、富士山と高野山ほどには似ているが、ボン・ジュノの『殺人の追憶』でも印象的だったが、韓国の街はいったん脇道に入り込むと、迷路でも描いているかのように複雑に入り組んでおり、そのことを考慮に入れると、キリマンジェロと丹沢ほどの相似になってしまう。

 デリヘルの雇われ店長を演じるキム・ヨンソクが魅力的である。猟奇事件もさることながら、この映画はキム・ヨンソクの変化を見るための映画である。店の子が連続して二人行方知れずとなり、店長の彼は手付金を持って女が逃げたのだと思い、「見つけ出して、ぶっ殺してやる」と罵って、風邪で寝込んでいる娘を無理やり呼び出して、店員不足に当てるような、人遣いの荒い、さほど商売熱心でもない冴えない中年なのだが、ふとしたことから、行方が知れなくなった二人にかかってきた電話の番号が同じであることに気づく。てっきり組織的な人身売買かと思い、電話の主を捕まえるのだが、その男は組織などよりもよほど質の悪い男だった。

 やる気のない男が、異変を感じ取ってから徐々に真剣になっていき、ついには頭も体もフル稼働になる様子が、急勾配の坂での全力疾走による追跡に始まり、ついには走りっぱなしになって、あくまでアクションとしてとらえられるのは、彼が元警官であり、どうやら終盤に至って会話で明らかになるところからすると、上司の尻拭いのためにやめさせられたらしいのだが、その彼が自らの推理に基づき、捜査する仕方が、元同僚たちとは、その対象においても、方法においても、まったく異なった軌跡を描くためである。人が本気になるときをとてもよくあらわしている。

2018年5月10日木曜日

17.過激な中庸――吉田健一『交遊録』



 1974年新潮社から刊行された。雑誌『ユリイカ』に昭和四十七年七月号から翌年の六月号まで十二回にわたって連載された。

 取り上げられているのは、目次そのままに書き出せば、牧野伸顕、G・ロウェス・ディツキンソン、F・L・ルカス、河上徹太郎、中村光夫、横光利一、福原麟太郎、石川淳、ドナルド・キイン、木暮保五郎、若い人達、吉田茂。

 牧野伸顕は大久保利通の息子で、吉田茂の義父であるから、吉田健一には母方の祖父に当たる。

 G・ロウェス・ディツキンソンは、イギリスに留学したときの、カレッジのフェローで、あえて日本流にいえば、大学の寮長にでも当たるが、オックスフォードやケンブリッジという名門大学の場合、カレッジを中心に大学の運営がなされており、フェローは自由に研究に没頭できる名誉職的な意味合いをもつことも多かった。

 木暮保五郎は日本酒の菊正宗を醸造していた人物。

 F・L・ルーカスは、ケンブリッジの学生であったときの吉田健一が最も親炙した先生である。新潮社の『世界文学小辞典』に短い記述がある。

        (一八九四- )イギリスの批評家。ケンブリッジ大学で教鞭をとる一方、「ブルームズベリ・グループ」の一員として批評活動を続けた。精妙な鑑賞眼と優雅な文体を駆使しながら、イギリス文学をはじめ近代ヨーロッパ文学に深い造詣を示し、『良識を求めて』(五八)、『生きる芸術』(五九)など多数の作品を書いている。特に十八世紀文学にすばらしい共鳴をみせ、また近代劇に関する仕事を発表している。

 死亡年は明らかでないが、吉田健一が『交遊録』でその思い出を書いたときには既にこの世にいなかった。ちなみに、この文章は吉田健一についてのモノグラフを書き、親交のあった篠田一士によるもので、吉田健一が招き寄せた事項と言えるかもしれない。ルーカスについての最もまとまった文章は、多分、『交遊録』の一編で、この二人の、先生と生徒との具体的なつき合いがどのようなものであったかについて語られている。

 それによれば、二週間ごとに論文の題が出され、次の二週間のあいだにそれを提出し、二人きりで、先生の論評を聞いて、それについて話し合うことが繰り返されたという。 二週間毎に本を読み、論文を書かねばならないのであるから、それだけで学校のことすべてがすむわけがないことを思えばかなり厳しいものだったはずで、実際、おそろしく勉強させられましたね、と吉田健一本人が福原麟太郎に語っている。

 ルーカスの文学的立場については、二つのことが指摘できる。一つには、ケンブリッジでルーカスが担当していたのはイギリス文学だが、それをギリシャ・ローマの古典からヨーロッパ文学に渡る広範な背景のもとに捉えていたことである。「ルカスと話をしてゐると英国の文学を発見する一方ヨオロツパの文学に眼を開かれる具合になつた。カトゥルルスの名前を最初に聞いたのもルカスからだつた。サツフォの名前は知つてゐてもこれが自分が愛する女と卓子越しに向き合ふ男は神々よりも幸福であると言ひ、恋人がない美少女を何故か取り入れの時に枝に残された林檎に喩へ、又女の愛を得る為に自分と戦友になつて戦へとアフロディテに呼び掛けた詩人であることを知つたのはルカスに教へられてだつた。ロンサアル、ダンテ、レオパルディ、ボオドレエル、又プルウスト、ドヌを読む気を起こしたのもルカスに何度も会つてゐるうちにだつた。」こうした文章を読むと、古典を含めたヨーロッパ文学を血肉とした、教養ということがまだその意味を保っていた時代の人物を想像することができる。

 二つ目には、当時イギリスを席巻し、後にニュー・クリティシズムとして結実することになるエリオット、F・R・リーヴィス、I・A・リチャーズなどの批評に敵対する立場にあったことである。吉田健一によれば、エリオットの『荒野』がでたときに、それを認めなかったのはルーカス一人だけだったのではないかという。「ルカスがこの一派の欺瞞、見方によつては自己欺瞞に苛立たずにゐるにはその古典文学の知識が正確であり過ぎた」というのは吉田健一の言である。

 これらの点については、吉田健一とルーカスとは共通するが、ロマン主義に対する姿勢はやや異なっている。吉田健一自身は、バロック的とでもいえるようなうねうねと続く文章を書いていたが、ロマン主義については概して冷淡だった。コールリッジ、ワーズワース、ド・クインシーなどはほとんど言及されることはなかった。

 『ロマン主義理想の衰亡』(1936年)でルーカスは、「ロマン主義の文学で繰り返される特性とはなんだろうか」と問う。そして、「人里離れた場所、荒涼の地の物寂しい喜び、沈黙と超自然、冬と物憂さ、吸血鬼の恋に人目を忍ぶ逢引き、情熱の花に美しきものの死、ラドクリフの恐怖にサディスティックな残酷さ、幻滅、死、狂気、聖杯と辺境での戦い、不可能なるものへの愛」と列挙してみせる。しかし、ルーカスがロマン主義において本質的なものだとみなすのは、こうしたテーマや舞台の特異性ではない。「ロマン主義文学は生についての夢であり、社会や現実に拘束された衝動に栄養と満足を与える」点においてはあらゆる芸術と共通するが、いささか度が過ぎてしまった。ルーカスにとって、理想の文学とは、古典主義とリアリズムとロマン主義を結んでできた三角形のなかにあるようなものだった。

 ロマン主義は、理性を極端にまで強調した十八世に対する反動としては、むしろ健康的なものであったが、情念による陶酔が理性による洗練を侵食することによって病的になってしまった。「この鎖は多くの生命を破滅させたが、世界をどれだけ豊かなものにしたかわからない。」とはルーカスの言葉。

 こうした評価は、ロマン主義を古典主義の成熟にまで至らない未熟なものとするヴァレリーやそれに倣ったかのような吉田健一と最も食い違うところだろう。吉田健一のロマン主義に対する評価は全面的な否定である。「この文学で人間の悲みや苦みを取り上げることに重点が置かれてゐるとか、さうした題材の暗い影がそれまでになかつた新鮮な効果を収めてゐるとかいふことよりも浪漫主義の文学と言へば寧ろその特徴はどこかぼやけたものがあつてそれが余韻嫋々といふ種類のことと性質が違ひ、それを書いてゐるものの注意力の不足がそれを読むものの同じく注意力の不足で黙認されてゐることにある。又浪漫主義の文学で好んで対象に選ばれた事柄も確かにそれを手伝つてゐて悲みや苦み、或は喜びであつても、さういふものは小説風に一々その理由を述べ立てるのでなければただのさういふ名称である意味での観念になり、観念をさうして観念的に扱つた結果は単にそこに何となくさういふものがある気がするだけのことに終り、浪漫主義の文学の場合はこの脱落が当時の人間が観念を宛てがわれることに馴れ、その観念の中には真顔で受け入れることになつてゐるものが幾つもあつたことで補はれた。」と『ヨオロツパの世紀末』では書かれている。

 ロマン主義を不健康なものと見なす吉田健一は、ボードレール以降の世紀末デカダンスを、病的な時代に抵抗するためにあえて退廃的なテーマを取り上げられずにはおれなかったのだと、病気の病気は健康とでもいうような苦しい論じ方をしているが、バランスをとることに文学の理想を見るルーカスはより明瞭である。

 批評ができる唯一の<一般的な>判断とは、「これはいい」(なにに対していいのか)とか「これは美しい」(誰にとって美しいのか)といったことではなく、「これは真であり、あれはそうではない」とか「これは健全であるようだが、あれは病んでいる」といったことだと思う。ボードレールのような作家を追放するのは大いに遺憾なことだろうが、プラトンなら躊躇いなくそうするだろう。ボードレールを読まないのは大きな損失である。しかし、彼のような作家は病んで<いる>(多くの天才たちはそうではない)のだということを無視したり、そうした作家たちばかりを読んで、病的であるよりは健康であることが、不健全よりは健全なほうが幾許かの利点があることを忘れるのは道理にかなったことではないように思われる。現代の多くの批評に対する私の不満とはこうしたことを忘れてしまうことにある。つまり、ある作家が「興味深い」存在で、見掛け倒しであっても、口のなかにいままでにない味を残してくれるなら、彼が卑劣であろうが残忍であろうが、卑屈であろうが馬鹿であろうが、まったく気にしないという態度である。我々の時代は、未熟なままに死んでいったボードレールの卵で満ちている。彼らの殆んどがもうたくさんと思えるのはこのことによる。

 ボードレールは嫌いではないし、総じて新し物好きの私ではあるが、この点については、吉田健一よりも過激な中庸を求めるルーカスの方に惹かれる。

2018年5月9日水曜日

16.船幽霊と女人変性――伴蒿蹊『閑田耕筆』




 『近世畸人伝』で有名な伴蒿蹊は閑田子とも号し、本書の題名はそれによる。広く見聞したことを書き留めた。寛政年間の刊行。

・狐狸化け物の類は、陰のもので、曇りの陰地にあらわれる。讃岐の金毘羅から、厳島に船で渡ろうとしたときも霧の立ち込めた日で、烏帽子のようなものが浮かんで船と行き違った。それは鱶であり、烏帽子のようなものは尾の先があらわれたので、怪異でもなんでもないが、そのすぐ後に、東北の方向から、十三、四の子供の声がして「ほいほい」とこちらを呼んでいるようである。船人は「よいは、そこにおれ」と答える。別の船から声がかかったのかと思えばそうではない。鳥の声が人の声に聞こえたのかとも思ったが、それなら船人が答えるまでもない。船幽霊だと知れた。夜には火の光が見え、船がこぎ寄せられ、柄杓を乞うこともあるらしい。そうしたときは底のないものを与える。もし底のあるものを与えると、海水をこちらの船に汲み入れて、最後には沈めてしまうという。

・上野の国(後の群馬県)の侍の家に、秘蔵の皿が二十枚あり、割るものがあれば、一命をもって償うのだと言い伝えられていた。あるとき、下女がその一枚を割ってしまった。家のものが慌てふためいていると、裏に住む米屋が聞きつけて、「我が家に、秘薬があって、それを使えば、陶器のつなぎ目もわからなくなる」というので、呼び寄せてみると、二十枚の皿をじっくりと見るふりをして、もっていた杵で、すべて粉々にしてしまった。なにを考えているのだと皆があきれていると、笑って、「一枚割っても、二十枚割っても一命をとられるのならば、みな私が割ったのだと主人に伝えるがいい。この皿は陶器なので、すべて時期が来れば割れてしまうだろう、二十人の命を自分一人で引き受けよう」と少しも動揺しないで主人の帰りを待っていた。仔細を聞いた主人はその勇気と判断力に感じ入り、城主に進言してその男を侍に取り立てるようはかった。

・『後漢書』には男が女に変化したという記事がある。わが国でも、慶長のころ、ある老僧が弟子を連れて、さる場所に宿をとった。その弟子、夜に腹痛が激しくなり、朝には男根が没入して女陰となった。老僧は仕方なく、その弟子を宿に託して去っていったが、次第に顔かたち、身体も女のようになり、ついには宿の妻となって、子も産んだという。

・亀が経を読むと古くから言い伝えられているが、私自身まさしく聞いたことがある。実に拍子の取り方がよく、しっかりと鉦をたたくように、はじめは雨だれのテンポが次第に急になり、俗に攻め念仏といわれるもののようである。

2018年5月8日火曜日

15.死の活人画――ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』




 1936年8月の『エスクワィア』誌に発表された。

 1933年から34年にかけて行われたアフリカ旅行をもとにして書かれた自伝的要素の強い短篇だといわれている。

 1936年ころのヘミングウェイは、『武器よさらば』の成功から、それをしのぐような作品を書くことができず、結婚生活は二度破綻し、金持ちとアフリカやヨーロッパを旅し、酒浸りの日々を送るという自堕落な生活をしていた。

 アメリカには、マチスモの野蛮さと見まがわれやすいが決定的に異なる男性像の系譜がある。たとえば、ジョン・ホークスやジョン・フォードがつくりだしたジョン・ウェインがそうである。その猫のような独特な歩き方は、男性性とは無縁な中性の魅力を伝えている。あるいは、クリント・イーストウッド。最初の監督作が『恐怖のメロディ』という自ら演じるラジオ・ジョッキーが、女性ファンにストーカーされ、どんどん追いつめられるということに端的にあらわれているように、ほとんど全作品にわたって、暴力に耐え、ある場合には、性を超えた名前のない天使的な存在になる。

 ヘミングウェイも闘牛を好み、狩猟を趣味とし、世界各国の戦場に赴くところなどは、戯画的といえるまでにマッチョな行動に生を費やしたが、その短篇を読むと、題材こそ異なれ、ほとんど、死と裏腹にある不安、迫ってくる死を感じることによって研ぎ澄まされていく生の鋭敏な感覚のことしか描いていないことに驚きを感じる。別の短篇の題名を借りれば、彼の短篇は「死者の博物誌」だといえるが、博物誌が特徴と差異による分類を中心にしたものだとすると、むしろ死によって脅かされる生を描くことによって、「メメント・モリ」(死を忘れるな)という強迫観念に取りつかれた者の冷静な自己分析の集成だといったほうがいい。

 『キリマンジャロの雪』は、狩猟でアフリカに来た男が、とげに刺された小さな傷のせいで壊疽を起こし、身動きもできなくなり、助けの飛行機を待ちながら、金持ちで好き勝手な生活ができるという理由で結婚したものの特に愛情は感じていない妻と、実りのない会話をしながら、なにをするにも物憂い圧倒的な疲れという姿で迫ってくる死を意識しながら、断片的な過去の記憶をよみがえらせる。冒険の最中に負傷する、あるいは革命運動のさなかに銃弾に倒れるならまだしも、とげに刺されることが原因の無意味な病床のなかで、死は「いやな臭いのする空虚さ」として近づいてくる。実際に、ホラー映画さながらに、死が近づいてくるのが描かれる場面さえある。

 しかし、ペシミスティックともいえない奥深さが、ヘミングウェイにはあって、『キリマンジャロの雪』という物語そのものには全くかかわりのない題名にもあらわれており、その意味はエピグラフで説明されている。

キリマンジャロは、高さ一万九七一〇フィートの、雪におおわれた山で、アフリカ大陸の最高峰といわれている。西側の頂はマサイ語で"Ngaje,Ngai"(神の家)と呼ばれている。この西側の頂上に近く、ひからびて凍りついた一頭の豹の死体が横たわっている。こんな高いところまで豹が何を求めてやってきたのか、誰も説明したものはいない。

この上なく空虚で、干からびたものかもしれないが、その死体は「神の家」と隣り合わせにあり、無意味に思える華やかな生活が果たしてどこに通じているかわからないという、無根拠と敬虔さがヘミングウェイの死を単調さから救い、「博物誌」足りうるものとしている。


2018年5月7日月曜日

14.はかなさの集会――日夏耿之介編集『奢㶚都』


 大正14年2月1日発行が創刊号。前身の『東邦藝術』から数えると第三号。約二年続いた。

 雑誌名のサバトについては、巻頭に掲載されたGenitivsという人物の「悪魔饗宴考」に描かれている。

 サバトはヘブライ語の安息に由来する。キリスト紀要に反抗する者たちがひそかに会合して行った。

 秘薬の製法として普通に行われたのは、幼児を生きながら煮て、熱湯の表面に浮んだ膏を掬い取って、それをさらに煮詰めて、芹、トリカブト、白楊、煤を練り合わせてつくる。あるいは、むかご、にんじん、石菖、蛇イチゴ、蝙蝠の血、ヒヨドリジョウゴ、油を加える処方もある。

 この秘薬を肌一面に塗り付け、呪文を唱え、杖、箒などにまたがると飛ぶことができる。

 四月号は大正14年4月1日発行。龍胆寺旻「冬眠賦」という詩から一連引用する。( )内はルビ、漢字を略字、あるいは仮名に変えた部分がある。以下同じ。

ああ 暝(くら)い燈花(ほかげ)失せた旗亭(さかば)の牌玻璃には溌浪(おみな)等が余喘(いき) 蜘巣型(くものすがた)に凍りつきこの夜半の中有寥として支那上代陰陽(おんみやう)五行之説は希臘四大の哲理と喰ひ違ひ錬金の炉は火種(ほだね)尽きはて水銀(みづがね)は曲頸瓶(れとると)に寒々と凝結する

 六月号は大正14年六月1日発行。萱雨亭「花時計」は五句の俳句

永き日や林寧(リンネ)が苑(には)の花時計卯の花や逢魔が時の俄雨

 九月号、岩佐東一郎「パステル画」四つの短詩から一つ。

陽炎

何時私は雲母の眼鏡をかけたのか?

何時風景はマリアの円光を貰つたのか?

誰がアルコホル、ランプへ火を点けたのか?

 新年号、大正15年1月1日発行。岩佐東一郎「恋の心」という短い詩五篇から一篇、

恋の心

恋の心はピントが狂つた写真器(カメラ)

ありありと愛する女(ひと)の面影を写してはをき乍ら

 二月号、大正15年2月1日発行。佐藤春夫の「詩論」という詩、「萩原朔太郎に与ふ」という副題がついている。

夢を見たら譫言を言ひませう退屈したら欠伸をしませう自棄になつたら吐鳴りませう

しかしだ、萩原朔太郎君古心を得たら古語をかたりませう然うではないか、萩原朔太郎君

 『月に吠える』以来、朔太郎の詩が下り坂だということが、同人たちの共通認識であったらしい。

 四月号、大正15年4月1日発行。炉辺子が竹中郁を新人として推奨している。

 これは、堀口大学氏自身の詩としによつて紹介せられたアポリネエル以降の仏蘭西近代詩と堀口氏の訳文体とによつて啓発され発達してきた詩人だと云へばその詩風を知ることができるであらう。

 六月号、大正15年6月1日発行。堀口大学がヴェルれエヌの詩を二篇訳している。

傀儡

スカラムウシとポリシネラわるだくみして月かげに姿くろぐろ身振する。

時に来かかるお医者さまボロニア生まれのろくさと薬草(くすり)つみとはおもて向き。

さてその娘尻がるが楡の木かげに身をよせて肌もあらはないろ狂ひ。

あだし男は西班牙生れ海賊かせぎも誰(た)がためにやあさ、月が鳴いたかほととぎず。

 七月号、大正15年7月1日発行。三村清三郎「竹清浪語」からエピソードを一つ。

 東坡が友人の呂微仲を訪問したところ、眠っていたらしくなかなか出てこない。やっと座敷で会うと、そこには石菖の盆栽があり、蓑亀が飼ってあった。緑毛亀ともいい、めでたく珍しいものである。東坡は亀を指して、昔もっと珍しい六眼亀というのがあった。唐の荘宗帝のときにその亀を献上したものがあった。天使がご覧になると、亀は首を引っ込めて寝ている。役人たちが気をもんでいると、一人の伶人が、お騒ぎなさるな、亀がなにか言っております、どうも目が六つあると目を覚ますにも人の三倍かかると申しているようです。

 秋季特別号、大正15年11月1日発行。岩佐東一郎の詩から。


秋雨にぬれそぼちながらこの夕ぐれさめざめと泣いてゐるのは誰か

お前なのかああ お前なのか私の魂よもつとこつちへお寄り

ここへ来ておくれそしてもつと泣いておくれお前の嘆きを聞いたのは私ひとりだ

ことによつたら秋雨が聞くかも知れないけれど雨は降るのに忙しいのだ

 三月号、昭和2年3月1日発行。

 関東大震災の直後といっていい時期から始まっているのに、震災を直接的に言及することもなければ、連想させるような創作もないのはさすがに高踏的である。この号が最終号であったが、編集後記も普段通りで、特に中断、終了する様子は見られない。散文も載っているが、特に言及しなかったのは、雰囲気だけを重視して、同人たちが模範としていたポオのように、しっかりとした骨組みがないからである。もちろん、各冊7~80ページだという制限のあることが大きい。どうしても長編はおろか、中編程度でも掲載が難しい。ちなみにホフマンの中編が連載として掲載されている。

 ライト・ヴァース的なものを多く引用したのは、私の好みもあるが、短詩が多く、短詩にはライトなものが多いので自然なことでもある。

 日夏耿之介は、巻末の短いエッセイに登場するだけで、本格的な詩や評論、あるいは英文学者として登場することはないが、散文家として異彩を放っている。それがはかないマイナーポエットの存在たちを束ねている。


2018年5月4日金曜日

6.断片と不連続のホラー――ミヒャエル・ハネケ『セブンス・コンチネント』(1989年)




 撮影、トニー・ペシュケ、出演、ピルギット・ドル、ディータ・ベルナー、脚本はハネケが兼ねる。ハネケのデビュー作。

 ハネケはそれほど好きな監督ではない。ただ出来事を映しだすだけで、その意味や解釈を提供しようとは思わない、とインタビューなどでは自分の中立性をくどいほど繰り返すのだが、より根本的な、どうしてその出来事を選ばなければならなかったのか、という問いには答えようとしない。趣味だからしょうがないとなれば、仕方のないものは仕様がないから、尊重するし、まんざらその趣味は私の趣味に合わないものでもない。しかし、あたかも世界を中立的に描いているといわれると抵抗を感じざるを得ないのだ。

 ミヒャエル・ハネケの映画で始めてみたのは『隠された記憶』(2005年)だった。個人の家の私的な領域にずかずかと入り込むビデオが送られてくる、という出だしがデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(1997年)と同じであったため、不可思議な展開の連続するリンチに比較して、物足りなく感じた。曖昧な結末も、いわゆる観客に自由な解釈をゆだねる「開かれた作品」を目指す作者の手つきがあらわだと思った。その程度の感想で、次にこの映画を見られたのは幸運だった。屈指のホラー映画である。

 この映画は洗車の場面から始まるが、並々ならぬ緊迫感がある。それはこの映画に一貫して続くことだが、常に部分しか映されないことにある。ナンバープレート、タイヤなどの部分は克明にあらわれるが、車全体が、また車に乗っている人物がはっきりと示されることはない。主な登場人物は、夫婦と娘の三人だが、どの人物に関しても、なにかをしているときの姿が全体としてあらわれることはない。特に顔は周到に避けられていて、さらにはその行動が行われている状況も省かれている。例えば、娘が学校にいる場面がいくつかあるが、娘の上半身だけがあって、教室全体がとらえられることはないし、おそらく体育の時間では、跳び箱にカメラが据えられていて、娘がいつ跳んでいるのかもよくわからない。

 特別な事件が起きるわけではないが、全体が欠けているという欠如感によって、緊張は持続する。さらにこの映画は三部に分かれており、年が変わるごとに次のパートに進むのだが、特にそこに三部に分ける必然性はない。三部に分けるまでもなく、ほとんどひっきりなしになにも映っていない真黒の画面が挿入される。

 理由はわからないが、なにかが起き始めるのは、三部を過ぎたころからで、夫は会社を辞め、貯金をすべておろし、銀行の行員に、よろしければ理由を教えてもらえますかと尋ねられ、オーストラリアに引っ越すのでね、と答える。『セブンス・コンチネント』、つまり、第七の大陸とはオーストラリアのことで、題名もそれに由来するらしいが、一家にとってオーストラリアがなにを意味しているのかはわからない。冒頭の洗車場の脇にはオーストラリアのポスターが貼ってあり、わずかにセピア色がかった幻想的なオーストラリアの海岸の風景が全編を通じて三度ほど挿入される。

 そして妻は食材を大量に買い込む。いまほどハネケの作風が一般的に知られる前に見たので、ラストの20分くらいは実に衝撃的だったが、すでに『ファニーゲーム』も『白いリボン』も見たという人には、これだけでもすでに先が見えたといわれるかもしれない。しかもこれは実際に起こった事件をもとにしたものらしく、相当オーストリアでは話題になったらしいから、事件そのものをご存知の方もいるかもしれない。いずれにしろ、ハネケがこの事件をよく知っている観客に向けて、よりよくその事件が鋭く突き刺さるために、全体の代わりに断片を、連続の代わりに非連続を、という技法をマニエリスムに至るまで徹底的に適用したのがこの映画で、世界観や映画の意味などといった小難しいこと以前に、ホラー映画として楽しめる、とまでいうには後味が悪いのだが…

2018年5月3日木曜日

13.異人館――日夏耿之介編集『東邦藝術』創刊号、十二月号


大正13年8月1日発行。
『奢㶚都』の前身。二号出てすぐに『奢灞都』に変わった。「世紀末文芸の牙城」(復刻した牧神社の言葉)というよりは、『ニューヨーカー』のようなしゃれた雑誌に思える。
埋め草的な、S・O・S「じやん・ぼだんの流れを汲む者」から。

 日本人の品質が低下し出したのは、儒教と仏教の渡来以来である。

 同じく茶煙亭主人「漸俎」

 何と小利口と小馬鹿の多いことだ。大利口はとに角、大馬鹿のをらぬ国は、文明のない証拠である。

 正岡蓉「なまけものから生れる歌」は短歌五首。一首あげると

淫らなる春の真昼の異人館 異人のごとくなまけぬるかな

この号で一番好き。

大正13年12月5日発行。
埋め草的、茶煙亭主人「夢語」から。

 蜥蜴の美しさは蟻を食はうとする時の姿勢にある。曲線が惨忍と注意とを表象する美しさだ。

2018年5月2日水曜日

12.江戸をのぞき見――馬文耕『武野俗談』




 私が読んだ本では、著者名は馬文耕となっているが、通称であるらしく、各種事典では馬場文耕になっている。江戸中期の講釈師で、生年は京保3年(1718年)、宝暦になって、美濃国(岐阜県)で起きた大規模な百姓一揆が、幕府の評定所まで巻き込み、老中、若年寄の失脚にまで及んだが、それを風刺した文章を発表した結果、幕府を批判したかどで、宝暦8年(1759年)打ち首、獄門となった。下級の幕吏でもあったというが、はっきりしたことはわからない。

 『武野俗談』は1756年に発表された。江戸時代の随筆は、ちょっとした記事でも、儒教的な教えに結びつけているものが多いが、そうした教訓衆がないのが魅力的である。扱われているのも、職人、芸人、やくざの親分、遊女などが多く、風通しがいい。いくつかあげよう。

 ・阪本順治の映画『王手』は、プロだろうが真剣師だろうが、とにかく将棋が強くなりたい男の話で、普通の将棋盤より2,3倍大きく、駒も通常は二人合わせて40枚だが、一人4,50枚の駒がびっしりと並べられていて、何日間にも及ぶ死闘を繰り広げるという場面があったと思うが、朝鮮から将軍家に贈られたものに秦の七国将棋というのがあったという。秦の七人の武将が駒になっていて、盤の大きさは三間四方というから、5メートル半ほどあって、七人で指すのだという。床几に腰を掛け、杖のような棒をもって指す。田安家の御書院番戸田内蔵助の妹、おくらというものが一番うまく、江戸に匹敵する者はいなかったという。そこで、彼女を借り受けて、稽古するものもあった。

 ・新和泉町(現在の人形町のあたり)の家主で、手習いの師範をしていた勝間龍水という人物がいた。金に恬淡で貧しい暮らしをしている。百軒余りの大きな長屋を所有しており、その便所の掃除をするものは、肥料を得る代わりに年八料払うことになっていた。ところが、流水が家主になってからは、どうしていったん出した糞尿の代金をわが身の生計とする道理があろうと、断ってしまった。

 手習いで書き損じた紙屑がおびただしくあったので、母親や妻が、紙屑屋を呼んで、売ろうとしたところ、大いにしかりつけ、くずで捨てるものを金にして汁の具にでもするというなら、紙屑を生活の足しにするということで、それ以上卑しいことはない、そんなことをするくらいなら、紙屑をそのまま汁の具にして出すがいいといった。

 春のころ、母と妻が寺参りで、留守の折があった。そこへ初鰹を売る魚屋が通りかかったが、一文もない。とりあえず家を見渡したところ、母親が信心する仏壇に光り輝く仏具があった。それらを残らず質屋に売り払って、鰹を買い、近所の俳諧仲間を招いて、大いに振舞った。

 ・浅草、御蔵前の曉雨といえば、渡世人のなかで知らぬ者はいない。いつも曉雨が言っていたのは、歌舞伎などの芸にしろ実際にしろ、男伊達というのは、尻へ手をかけ、端折して赤ふんどしを人に見せるようではまだなっておらず、尻へなど手をやらず、ゆるりとしたままたちまち悪者をぶちのめすのが本当なのだそうだ。

2018年5月1日火曜日

5.魔術的脚本――プレストン・スタージェス『偉大なるマッギンティ』(1940年)




 撮影、ウィリアム・C・ミラー、音楽、フレデリック・フォランダー。脚本は監督であるスタージェスが兼ねている。

 スタージェスはもともとは脚本家だったが、必ずしも自分の脚本の映画化には満足できず、パラマウントに脚本料は1ドルでいいから、監督もさせてくれと交渉したのがこの映画だという。

 自分の脚本には相応の自信があったようだが、自信にふさわしく非常にトリッキーな内容である。場所はどこか南国のようだがはっきりしない。事業に失敗し、莫大な借金を負った男が、バーで酔っ払って、ピストルで自殺しようとする。寸前で食い止めたバーテンが、カウンターに連れて行き、一杯飲んで帰れよ、付添っていたホステスが、彼、事業に失敗して大変らしいのよ、まあ先のことはわからないからな、俺だって昔は知事だったし、と話は見るからにしがないバーテンに移る。それ以後、中ほどと最後に自殺しかけた男とホステスは一回ずつ登場するが、本筋の話とはなんの関係もなくなってしまうのである。例えば、バーテンの話が教訓や慰めとなり、自殺を思いとどまらせる類のものであるわけでもなく、せいぜい毒気を抜かれてしまう程度のものなのだ。当然話の中心だと思われた男は、自殺未遂までしたのに、放置されたまま終わるというトリッキーさである。

 バーテンダー(ブライアン・ドンレヴィ)は、昔、選挙のとき、一人で複数票を投票することで小金を稼いでいた。あまりにも手際よく多くの票を集めるので、ボス(エイキム・タミロフ)と呼ばれている人物に会うことになる。ボスはマフィアの類ではないが、汚い仕事もこなす政界を裏から操る人間らしい。ボスは自分に向って対等に、遠慮会釈のないことをずけずけという彼が思いのほか気に入ったらしく、雇うことになる。

 男は恬淡で、これといった野心もない男で、政治的垢のついていない市長が必要になったとき、白羽の矢が立ち、見事当選し、公共施設にどんどん投資することで巨額の金を生み出し、やがて知事選に出る。ところで、知事選においては女性票を取り込むことが大切なため、結婚したほうがいいといわれた彼は、何しろあまり自分の欲求というものがない男だから、事務所の秘書に、結婚しなきゃいけないと話をしたときに、それでは私ではどうでしょう、まあいいかと結婚するが、予想外だったのは、彼女は前の夫との間に十歳に満たないくらいの二人の子供がいたことである。いずれにしろ、彼は形式上の結婚だと思っているから、同じベットに寝ることもしなかったが、知事に当選し、そこはそれ、ベットをともにするようになり、子供たちへの愛情もわいてきた。

 そして、妻と子供たちのために正しいことをしようとし、ボスに向い、もういうことは聞かないと言い放ち、拳銃で撃たれるが、特にケガすることもなく、ボスは殺人未遂で捕まってしまう。ところが、彼のほうも、市長時代の不正が明らかとなり、ボスと隣り合わせの牢屋に放り込まれる。ボスは仲間も多く、牢屋などすぐに脱獄してしまうが、なぜかそのなかには彼もいて、雷の鳴る雨のなか公衆電話で、残してきた金の隠し場所を妻に伝える姿がある。近くには車があり、早くしないとおいていくぞと怒鳴るボスの姿がある。

 バーテンダーの過去の話が終わり、自殺未遂の男もホステスも真面目に聞いてやしない。そろそろ帰りなさいよ、とホステスは破産した男を連れていく。レジスターの音がするとポーカーかなにかをしていたらしい男たちのなかの一人が立ち上がり、てめえ、またくすねやがったなとバーテンダーに殴りかかる。殴りかかったのはほかならぬボスで、二人が殴り合っている、というかじゃれ合っているところでエンド・タイトルが出るのだが、そこで、第二の、より大きなトリッキーな要素、この映画はバディ映画だったのだということがわかってのけぞってしまった。同じように監督と脚本を兼ねるといっても、ワイルダーやウディ・アレン程度の脚本ならウェルメイドですまされようが、ここまでくるとこうでもいうしかない、二度いうのもはしたないので、題名にお戻りください。