ローランド・ジョフィ『ミッション』(1986年)を見る。予備知識をまったく持たないで見たので、冒頭の流れから、デ・ニーロが宣教師なのか(ジェズイット派だから、十八世紀くらいの話なのだろうと見当をつけ)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『グッドフェローズ』とマフィアものを続けてみていたので、なんかあまり似合わないな、と思いながら見ていたら、奴隷商人として颯爽と登場し、おおこれはヘルツォークの『コブラ・ヴェルデ』のような映画なのかと期待をしたら、ヘルツォークのような妙な監督がそういるはずもなく、愛人を寝取られたデ・ニーロが実の弟を殺してしまい、罪の意識から宣教使に転身し、南米の奥地に住む住人たちをポルトガルの侵略から守ろうとする映画に転身してしまった。弟を殺してしまったことに罪の意識をおぼえるのを疑うものではないが、それをきっかけに回心する、というのはちょっと邪なものを感じる。実際そうした人物がいたときに、というより映画として邪というか、ジャングルのなかに教会を建てることもまた帝国主義に荷担しているという批判がなさ過ぎる。
ブレヒトの『母』を久しぶりに再読。ゴーリキーの作品がもとになっているが、ブレヒトにとっては母というのは特異な位置を占めている。もともと政治には無関心で、息子が面倒なことに関わるのをいやがっており、息子の政治活動に特に影響を受けたようでもないのだが、ほんの少し背中を押されたほどのきっかけによって、みるみるラディカルになっていく姿は、愛情によってすべてを包みこみ、すべてを消化してしまう母性の力とは対照的に、肺腑をどこまでも切り分けて、なんのために働いているのか突き詰めないではいられないような批判的な力において際だっている。
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