声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。
発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。
自分が視覚的な人間なのか聴覚的な人間なのか、よくわからない。もともと人間関係については記憶力に欠けたところがあって、大学時代の同級生さえあまりおぼえていないのだが、場所にまつわる記憶は鮮明で、夏をよく過ごした街などは歩く速度で端から端まで追体験できる気がする。こうした記憶はもちろん、視覚的なものだといえるだろう。
しかし、親しい友人や亡くなった人物のことを思い返すと、顔はぼやけ、むしろ声だけがよみがってくる。もともと、子供のころにテレビがないほどの旧世代ではないが、ラジオで育ったことは確かで、特にTBSの『一慶・美雄の夜はともだち』は大好きで、なかでも渥美清のローマンス劇場、夜のミステリーは印象的で、夜のミステリーはいまではほとんど放送されなくなってしまったラジオ・ドラマで、『世にも奇妙な物語』やそのもともとをいえばアメリカの『トワイライト・ゾーン』に連なるような、推理もののミステリーではない、後に「奇妙な味」といわれることになるようなもので、鈴木清順なども原作者として名を連ねていた。
『オールナイト・ニッポン』の黄金期にはもちろん夢中になったが、情けないことに大体が寝落ちしてしまい、最後まで聴いたのは数えるほどしかない。
フロイトの超自我は、自我に対して道徳や倫理を要求し、しかもそれは一般的な道徳観と必ずしも一致するとは限らない。そしてまた自我に対する支配力を楽しみはじめる。ヒッチコックの『サイコ』などはその典型的な例であろう。
だが、私自身には超自我が声と重なるという実感はさほどない。命令することもされることも嫌いだし、怒鳴り声や、そもそも大声自体が好きではなく、幸運なことに強圧的な声と命令とが重なることがなかったこともあるかもしれない。入院したときに幻覚をみたことがあるが、幻聴はいまだに経験したことがない。
0 件のコメント:
コメントを投稿