2014年1月31日金曜日

『あたま山』と喜劇――ノート4



 『鬣』第28号に掲載された。

 視点を変えて考えてみよう。芸の達成は、作品の発生と同等の現象だと考えてよいのだろうか。単なる言葉の連なりがどこかで詩や小説になり、或はどこかで笑いや涙を、つまりは感動を伴った余剰の意味を生みだす作品になる、そうした変化と芸の達成は同じものなのだろうか。大根役者の芝居が名優と同じ台詞を語っていながら、なんの感動ももたらさないように、内容としては同じでありながら、感動をもたらす作品と退屈でたまらぬ作品があり得る。外国文学の翻訳のことを考えればわかりやすいはずだ。Iを「僕」と訳すか、「俺」と訳すか、或は「私」と訳すか、いずれかによって感動の質は変わるだろう。例えば、レイモンド・チャンドラーのフリップ・マーロウが自分のことを「わて」と言ったなら、『長いお別れ』はよほど変な印象をもたらす作品へと変わるだろう。

 単なる言葉の羅列と文学との相違が、我々の住まう意味の網の目に関わっていることは確かである。日常的に、ルーチンに消費される意味とは異なる何らかの新たな意味の布置があらわれたときに、我々は作品の誕生を感じ取る。そうした布置の変化が最も明瞭なのが悲劇と喜劇である。


 身体的に言えば、横隔膜の震えが笑いであるように、意味の引き攣れが笑いを生みだすと言ってもいいかもしれない。数ある落語のなかでも最も奇天烈なものの一つに「あたま山」がある。けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。

 この噺のもとになったのは安永二年の『口拍子』にある次のような小咄である。

 神田にお玉が池といふ有り。誠はあたまの池なり。昔、この辺に住みける人の親父のあたまに池ができて、鮒や金魚が大ぶん住んで珍しいことゆへ、遠近より群衆をなして見に来る。息子、外聞かた/\気の毒なれば、見物の来ぬやうにしたいと思ふ折ふし「私は山の手から承り及んで、親父様のあたまの池を拝見に参りました」息子「遠方からせつかくお出なされましたが、親父様、世上の沙汰を気の毒に思はれまして、夜前、あたまの池へ身をなげられました」 (武藤禎夫編『江戸小咄辞典』)

 お玉が池というのは、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。

 『江戸小咄辞典』の「鑑賞」によれば、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。もっとも、この挿話は落語の「あたま山」や引用した小咄の類話としてあげられているもう一つの話の方により大きな割合で取り入れられている。

 そちらの話(同じく安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」)では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答えた。

 『口拍子』のものとは異なり、落語の「あたま山」と「梅の木」には木を引き抜いた跡に池ができるというくだりがあり、『徒然草』とのより近しい類縁性を示している。また、自分の頭の池に身を投げる方法も説かれている。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。

 川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、彦六の八代目林家正蔵(いまのこぶ平の正蔵ではなく、前の木久蔵である林家木久扇がよく真似をする方の正蔵)だけだったそうだ。そういえば、話自体にはなじみのある「あたま山」だが、落語として聞いた覚えがわたしにはない。それはともかく、正蔵も自分の頭に身を投げる方法について次のように説明していたという。

 「そうだねェ、お前わからなけりゃァ、絵解きをして聞かしてやるがね、あのねェ女の方が紐なんぞを縫ってることがあるだろう」
 「へえへえへえ」
 「最初縫うときにァ、針目を上にして、ね?チクチクチクチク、いま運針というがねェ、針をこう運んでるだろう」
 「へえへえへえ、へえ、そうですねェ」
 「縫い上がるとどうするィ?物差しをあてがって、ひとつこう、ひっくり返すだろう、な?そうすると、細紐がこう出来上がるねェ」
 「へえへえへえ」
 「あれとおんなしだァな」
 「どういうわけでおんなしですゥ?」
 「困ったねェ、お前わからないかい?――」
 「わかりませんねェ」
 「だからさァ、かりにね、頭の、池だねェ、頭に池があるとする」
 「へえへえへえ」
 「これをお前、人間がめくれめくれていきゃァみんな入っちまう」

 人間を裏返すという発想は「梅の木」と同じである。ちなみに、アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことが頭池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。しかし、この解釈はわたしには疑問だった。「あたま山」の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。


 悲劇よりいっそう定めがたいのが、喜劇というジャンルの定義であろう。アリストファネス、シェイクスピアから、ワイルド、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、モンティ・パイソン、森繁久彌の社長シリーズや『男はつらいよ』まで包含するような定義がいったい可能なのだろうか。

 アレンカ・ジュパンチッチは『仲間どうし』という喜劇論で、真の喜劇と偽物の喜劇とを区別している。ジュパンチッチには『リアルの倫理』というカントとラカンについての、またニーチェについての著作があり、おおよそカント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン、ジジェクといった思想圏内にいる人物である。その喜劇論の出発点はヘーゲルの喜劇論にある。

 ヘーゲルによれば、叙事詩、悲劇、喜劇は宗教と同じく、精神の偉大な達成である。というのも、いずれにおいても、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものが扱われているからである。叙事詩では、吟遊詩人たちによって神々や英雄たちの行為が物語られる。悲劇では、運命や死といった普遍的、絶対的なものが上演され、表現される。

 ジュパンチッチが言うには、ヘーゲルの喜劇論の特異な点は、ヘーゲルが、喜劇においても普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものとのつながりを手放さなかったことにある。ごく通俗的な喜劇観に従えば、喜劇こそは、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものからは抜け落ちてしまう日常の細部がそうした大問題に対して反旗を翻し、それらを切り崩して勝利を収めるものだということになろう。ところが、ヘーゲルは、ちょうど悲劇の演者が必然や運命という巨大な力のごく小さな一部であるように、喜劇における日常の具体的な細部は普遍、本質、絶対を切り崩す否定という絶対的な力が顕現したものであり、この否定こそが喜劇の生みだす普遍であり、本質であり、絶対だと言うのだ。

 喜劇は普遍の土台を切り崩すものではなく、普遍(自ら)の具体への反転である。それは普遍に対する異議申し立てではなく、普遍そのものの具体的な労働或は作業なのだ。或は、これを一言で言えば、喜劇とは作業中の普遍である。この普遍は活動している存在として表象(再現)されているのではなく、まさにいま働いている。(アレンカ・ジュパンチッチ『仲間どおし』)

 これだけでは具体的にどういうことが言われているのか定かではないが、真の喜劇と偽物の喜劇との区別の仕方を見ると、朧気な視界が徐々に晴れていくことになろう。

2014年1月30日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』7

日のちり/\に野に米を刈る     正平

 『鶯笠』には、日のちりちりは日のまさに入ろうとするところだという。前例をあげることはできないが、まさにそうであろう。米を刈るは、正しくは稲を刈るというべきだが、俗語をそのまま用いている。田といわないで野というのは少し異様だが、原ははるかな地、野は伸びた地のことなので、ひらけた場所を野というのも咎めるべきでもない。かつまた、田圃などで働くことを野良仕事をするとも言うので、とりわけて怪訝に思うこともない。また、必ずしも陸稲をつくる地だと拘泥する必要もない。前句を寒村の夕方近いころとみて、この句はつけられた。赤馬の句、米刈りの句、いずれも短句であるが、詩心が十分で、独立して闊歩できるものである。

 これで表六句は終わり、裏へ移る。季をいえば、発句は木枯しで冬、脇句は山茶花で同じく冬、第三句は有明で秋であり、前句の冬に秋の月をつけたのは異様のようでもあるが、秋の月、名月などではなく、ただ有明というだけなので、前句に対して支障はない。第四句は第三句を秋として同じ季節の露、第五句はすすきで同じく秋、第六句米刈りで秋である。季節のこと、以下は註しない。

2014年1月29日水曜日

波のなかの地層――メルヴィル『白鯨』



 『鬣』第28号に掲載された。

子供の頃の『白鯨』の知識はいったいどこから得たのだろうか。エイハブ船長が白鯨を追いかける話を楽しんだ覚えはあるのだが、それは活字によるものだったか、あるいは映像によるものであったか判然としない。

グレゴリー・ペックがエイハブで、ジョン・ヒューストンが監督した映画となると、さあ、おぼろげに幾つかの場面があらわれはするが、あまりにもおぼろげなので、それぞれ別の記憶に由来する船と鯨とグレゴリー・ペックの姿を一緒にして曖昧に当てはめているだけなのか、或いは、映画館ではないにしろ、眼にしたことのある記憶が時間とともに緩やかに輪郭をほつれさせていったのか、たとえいまこの時点でその映画を見たとしても、初見なのか再見なのかさえ判断がつきそうにない。

それはともかく、わたしが楽しんだのは冒険ものとしての『白鯨』であった。ところが、これほど実情とかけ離れている事例も少ないのだ。これが例えば、同じく子供の頃に楽しんだ『水滸伝』や『西遊記』であれば、子供向きに書き直されたものから原作に移ったとしても、確かに語句は数段難しくな
り、子供向けではないと削除された部分が加わることで数倍の分量にふくれあがりはするだろうが、基本的な部分、つまり胸躍らせて読んだ部分についてはなんら変わるところのない印象をもつことができよう。

一方、『白鯨』はと言えば、子供のときの印象に従って冒険を待ち望みながら読み進めていくと、つ
いに始まらぬ活劇の序として全巻を読み終わることになるだろう。いや、もちろん、最後の最後、エイハブが白鯨に立ち向かっていく数章があるのだが、それさえもエイハブと白鯨との戦いであるよりは白鯨に憑かれたエイハブの独白がその大半を占めるのである。

アメリカ本国でさえ、『白鯨』は長い間海洋冒険小説として扱われてきたというが、思うに、ほとんど読まれてさえいなかったことからくる誤解というものである。航海はずたずたに分断され、捕鯨船の
構造、捕鯨の方法、鯨の生態、そして何よりヨナ書から始まる鯨が登場する古今の文章が渉猟される。鯨は大いなる自然の力を体現したものであると同時に、或いはそれ以上に歴史の集積であり、考古学的遺物の詰まった地層であって、歴史は特定の場所と時間に縛られたものではなく、大海を遊弋する可動性をもつものとしてあらわれる。

・・・するどい刃物をふるって、胴体の脇の鰭のすこし後のところに穴をうがちはじめた。それを見るものは、彼はいま海上に穴蔵でも掘っているのかと思ったかも知れない。彼の刃がついに痩せた肋骨に達したときの光景は、イギリスの厚いローム層の土壌に埋もれたローマ時代のタイルや陶器を発掘しているさまもかくやと思わせた。(阿部知二訳)

2014年1月26日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』6

朝鮮のほそり芒の匂無き       杜國

 ほそり芒は細い芒か。ほそ芒はいまもある。朝鮮すすきというすすきがあるらしいが、詳しくは知らない。わが国に産するもので、朝鮮何々というものには、朝鮮ぎぼうし、朝鮮アサガオ、朝鮮松、朝鮮たばこ、朝鮮芝、朝鮮ざくろ、朝鮮あざみなどの名を聞くことはあるが、朝鮮すすきというのはこの句でしか知らず、ほかで聞いたことがない。浅学寡聞、古句の解釈などする資格がないことを恥じる。

 匂はにおいで、『遊仙窟』『萬葉集』などには艶の字をにほふと読んだ。『萬葉集』巻十、「妹が袖巻来の山の朝露ににほふ紅葉の散らまくもをし」、『源氏物語』夕霧巻、「あざやかに物きよげに若うさかりににほひちらしたまへり」などというのは、みな色艶、気品の意味である。この句の「匂無し」は、艶っぽい光がさほどなく、外に映え内にこもる美しさがないことをいっている。細い芒のさびしく物悲しげな感じを「匂無し」と切り取った。

 仙覚の『萬葉集』の抄に、「妙とは白きにつけて云ひ、にほひとは紅きにつけて云ふ詞なり」とあるのを引いて、赤馬にはにおいの移りがあって、たいへん感興深いと古註にあるのは行き過ぎた解釈である。「にほひ」というのは、馬の赤いのに縁を引いたわけではなく、ただ前句の頭の露をふるう赤馬を野飼いの荒馬とみて、秋気が満ちた広い牧場に、むらむらと芒の群生している様子を詠んだものである。馬はそのなかに立っている、思えばその景色は粛然とまた索漠とした秋のいい図である。

 つけ加えていう。匂という字、古来からにほひと用いてきた。匂という字はなかった。それは韻は同じである韵という字の略を間違ったものである。いまでは韵を省略して匂としても間違いとはされない。韵にはにほひの意味がある。声韵というときは、発せられた音がみな声で、それ以外の響きが韵である。など、色沢というときは、実際にある彩りは色で、それ以外の光は沢であるようなものである。沢はにほひなので、艶をにほひと読み、韵もにほひであるからその略字である匀をにほいと読む。匀の筆書きが誤って訳のわからぬ匂の字が生じた。匂はにほひと改めるか、匀とするべきである。

2014年1月25日土曜日

投句2

 『鬣』第27号の投句欄に一部掲載された。

春うらら日光蕃椒五千本

去年今年幻燈辻馬車春の夜

子宮より役の行者の寄せ太鼓

花曇り給水塔の締め具合

猫娘暁の声宵のしな

春昼や指につきたる白い砂

北柱廊弾みこかする夜の猫

脱衣場で淑女のあとを少女追い

2014年1月24日金曜日

ブラッドリー『論理学』8

 ブラッドリーが扱った問題は大別して三つに分かれる。倫理学、論理学、形而上学である。著作もこの順序で著されている。倫理学に関する著作は、イギリスの観念論学派のうちでももっとも早い時期に刊行されたもののひとつである。


 §8.観念と事実との区別は重大だが、論理的な目的のために観念と感覚とを心理学的に区別することは大した問題ではないと言える。イメージや心理学的観念は論理学にとっては感覚的実在であるに過ぎない。感覚が捉える感覚対象に過ぎない。どちらも事実であるが、どちらにも意味はない。どちらもあらわれから切り取られたものではないし、あるつながりとして固定されたものでもない。心的出来事の流れにおける自分の場所、時間やあらわれとの関係に無関心でもない。別の場所、別の空のもと異なったときを過ごす存在に遣わされた属性ではない。その生は周囲の環境と分かちがたく絡みあっており、感覚される個々のものとともにあるので、その性格は一つの糸が断ち切られただけでも破壊されてしまう。その持続において移ろいやすく自ら崩れていくのと同じように、個物としては当てにならず、実在にしては人を迷わせ欺くものであるが、ある意味ある仕方でそれはその通りにある。それらは存在をもつ。思考ではなく与えられたものである。しかし、もし我々が観念を意味として使うなら、観念は与えられるものでもあらわれるものでもなくつかみ取られるものである。それは現にあるものとしては存在し得ない。時間や空間に場所を占める出来事でもあり得ない。それは頭のなかの事実でも頭の外の事実でもあり得ない。単に観念だけをとるなら、それは分離された従属物、切り離された寄生物、宿り主を捜す身体のない精神、具体的なものからの抽象、それ自体ではなにものでもない単なる可能性である。

2014年1月23日木曜日

八幡城太郎と俳誌「青芝」の人びと

 「鬣」第27号に掲載された。文学展示時評のいうコーナーである。2008年の原稿である。

 というわけで町田市民文学館に出かけた。会場は二階の一画、大きさは小学校の教室よりも狭いくらいで、見るだけなら数分で済んでしまう。展示は五つのブロックに別れている。

 1.八幡城太郎の俳句活動――「青芝」創刊以前 2.二つの原稿――島尾敏雄「噴水」と桂信子「月光抄」 3.「青芝」創刊と「青芝友の会」の人びと 4.版画家川上澄生と「青芝」 5.多摩の文学空間と「青芝」の活動。

 おそらく、自慢は2の二つの原稿なのだろう。島尾敏雄の原稿には「八幡城太郎氏に課題されて」と言葉が添えられている。島尾は城太郎と句会を行ったこともあるらしく、そのときの句に「榾火けぶり娘そっと眼をこする」があるという。「月光抄」の方は、桂信子が大坂空襲の折送った句稿を八幡城太郎が綴じ合わせてかわいらしい袖珍本に仕立ててあるものだ。

 八幡城太郎は、明治四十五年に相模原市青柳寺に生まれ、三十を過ぎた頃、寺を継いでいた兄の急逝を受けて、僧籍に入った。昭和二十八年に「青芝」を創刊し、昭和六十年に歿するまで三十年以上その刊行に携わってきた。当然のごとく、この展示会の中心は「青芝」というこの雑誌なのだが、いかなる深遠な理由によるものか、主催者は雑誌の中身をチラリとも見せてくれない。深窓のお嬢さんでさえ窓から顔くらい見せてくれるものなのだが。それゆえ、水野さんが挙げているようなそうそうたるメンバーが、どのような形でこの雑誌に参加しているのか、散文でなのか俳句でなのか、つまり「青芝」なる雑誌は単なる俳誌なのかそれとも「鬣」の先輩なのか肝心なところが一向にわからない。

 更に言えば、わたしは八幡城太郎という俳人の存在を知らなかった。無知を誹られるかもしれないが、展示会に来るのはわたしと同じようなレベルの人たちが多いに違いない。であれば、八幡城太郎がどんな句を書く人なのかくらいは最低限知りたくもなろう。しかし、これもまた、いかなる深遠な理由によるものか、城太郎の句は幾枚かの色紙や自筆を別として全然紹介されていないのである。せめて代表となる数十句くらいは主催者の責任で選んでおくくらいのことをしてくれれば後生が悪くないはずだ。

 文学館の一階は図書室になっており、城太郎の句集も置いてあったので何句かあげておく。

ほの明きしろきてのひら冬の雨
ふらここに抱きあげし子を天にやる
春めくや世々の手ずれの経机
おでん屋に醜聞たちし師走かな
煮凝や昼闌けてくる郵便夫
短日の橋のゆききを見下しぬ
わが酒徒らあをきさかなを食ひ荒す
春めくや石なげうてば石応ふ
白面にて無口無聊の花くもり
酉の市肩がさびしくなりにけり

 町田には古くから柿島屋という馬肉専門の店がある。十年くらい前に店舗が新しくなり、場所も移ったが、もとの店は駅前で確か九時頃から開店し、朝からお酒が飲めた。といって、デカダンな感じはなく、みな当然のような顔をして飲んでいたものだ。土曜の午後、ぽかぽかした陽気のなかを歩きまわり、やや疲労を覚えたときのお酒は格別なもので、ビールそして梅割りを、刺身、肉皿、馬肉メンチなどをつまみにして飲んでいると、展覧会を見てやや頑なになった心が緩やかにほどかれていくようだった。新しいメニューに珍味と称された「たてがみ」があり、さっそく頼んでみると、脂身を凍らせて薄く切ったもので、口に入れるとその熱でみるみる溶けていくのだが、要するに珍味で、
「たてがみ」もひらがなにすると締まらないものだな、と思った。

2014年1月22日水曜日

老子と象

 リルケの翻訳や江戸漢詩人の伝記によって知られる富士川英郎は、旧制の広島高等学校に入り、杉本直治郞先生に東洋史を学んだ。

 その講義のあるとき、杉本先生は、老子の話をされたことがあって、老子の名は耳(じ)、字はたん(耳に月の横棒が二つともでた漢字)、「たん」は耳たぶが大きく垂れさがっていることで、それは象と関係があるのではないか、つまり、老子は印度あたりからきた人物ではないかという「奇抜な説」もあることも紹介したという。(『酒前茶語』 小澤書店 1989年)

2014年1月21日火曜日

河上徹太郎と「型」――ノート3



 「鬣」第27号に掲載された。

 「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンやキートンやマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア、座頭市の勝新太郎、やくざ映画の高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。それらが
「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市の勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。

 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガード、ジェイムズ・スチュアート、クリント・イーストウッド、三船敏郎、高倉健、北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。

 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。

 ここまできてようやく「自然人と純粋人」から、「型」について述べられたもう一箇所の部分を引用することができる。

 通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。

 消防夫は河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのだ。それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。


 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫や正宗白鳥と河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、「羽左衛門の詩と変貌についての対話」の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。

フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。
ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。

 河上徹太郎論をするつもりはないが、「聖者の如く呟く」「不器用さ」が彼の作品の一貫したテーマだったと言える。忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎、中原中也、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。


 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけだ。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。

 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。もちろん、繰りかえしになるが、わたしは羽左衛門の舞台など見たことはなく(そういえば、もう十年ばかり前になるだろうか、NHKの名優たちの舞台といったような企画もので、羽左衛門の姿を映像で見たことがあるのを思い出した。演目は忘れたが、モノクロの固定カメラで、音声も聞き取りにくく、「これが河上徹太郎の言っている羽左衛門か」と思ったものの、特に凄味のようなものは伝わってこなかった)、河上徹太郎が取り出してみせた「可能性としての羽左衛門」について語っているわけである。


 「自然人と純粋人」からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。

 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。そう考えると、舞台の外にもあるとはいえ、「型」がどんどん消滅していることは明らかだ。投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいて
も、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきているように思える。

 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。確かに明治期のなってからの内村鑑三や河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。吉田松陰は儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある「本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。」という文を読めば明らかである。

2014年1月20日月曜日

幸田露伴『七部集評釈』5

  頭の露をふるふ赤馬     重五

 意味は明らかで解釈はいらない。逞しく太いもの運ぶ馬が、勢いよく頭を振る様子で、「露をふるふ」という言葉が生動して、情景が見えるようにである。運ぶのは芝か米か。

 『大鏡』によって、前句を都移しと見て、『萬葉集』第十九の「おほぎみは神にしませば赤駒の腹ばふ田居を都となしつ」とあるのをふまえて、白馬でも黒馬でも動かぬ証拠となるものを、赤馬の色を使ったのが面白いなどと註するのは浅薄だなどと論じるのは、かえってよくない。うがち過ぎだと言うべきである。

 同じ『萬葉集』の歌を踏まえてのものだというなら、第七の「武庫河の水尾を早み赤駒のあがくそゝぎに沾れにけるかも」を抜きだして解釈すべきで、武庫川は摂津にあり、そのほとりには名高い酒造りの場がある。またもがくそそぎに濡れたというのを踏まえて、頭の露をふるうと転じたというのも興がない。いずれにしろ「神にしませば」の歌を引用して、白馬でも黒馬でも動かぬ証拠となるというのは非常につたない。

 わが国には赤馬が少なくなく、『萬葉集』にも赤馬を呼んだ歌が少なくなく、証拠呼ばわりは片腹痛い。この句が武庫川の歌を踏まえたものかどうか、そこまで深入りして解釈しないでもいいが、もし大君の歌を踏まえたという位なら、前句も有明の主水と、物々しく仔細ありげに言っているので、武庫川の古歌を踏まえてつくったといった方が、灘の縁もあり、よく酒がかかったより解釈だと言える。実際、武庫の酒造りの地にはいまでも露をふるう赤馬の景色が見られる。

 また芝山が言うには、五畿内より西では、酒を飲むことを赤馬に乗るといい、よそにいくとき、酒店に入って飲むのを、酔いに乗じて道を進むことから、赤馬にのって行こうという、とのことだ。これも必要のない解釈である。白い酒を白馬といい、赤い酒を赤馬というのも方言にある。しかしそのためにここで赤馬といっているわけではない。黒馬では面白くなく、白馬でも面白くない、赤馬というのが自然で面白い。何度も読みあげて味わってみるがいい、実にすらりとしたいい句で、前句とのかかりも非常に巧妙である。

2014年1月19日日曜日

はかなさとノスタルジア――アーネスト・ダウスン



 『鬣』第27号に掲載された。

ダウスンを読みたいと思ったのは、一九一九年、ダウスンの詩文集がアーサー・シモンズの序とともに、イギリスのモダン・ライブラリーの一冊として出版された際に、オルダス・ハックスレーが書いた短い書評を読んだからだった。ハックスレーが描いてみせるダウスンの姿はいかにもチャーミングなように思われた。

彼はダウスンがマイナーな詩人であること、たった一つの感情、たった一つの調べしか歌わなかったこと、その結果ごく狭い範囲の完成に達したが、完成というのはどんなに小さなものであっても、詩人の生命を保証するものだと述べた上で、次のように書いた。「ダウスンはヴェルレーヌ流派のセンチメンタリストであり、英国におけるノスタルジアの使徒である。彼は悲しみを郷愁にまで洗練させた――自ら知ることのない家郷へ焦がれる病いである。それはノスタルジアに対するノスタルジアであり、確かな対象をもつ切望に対する切望である。彼が一風変わった服で飾り立てた美は、その人工的な装飾ではかなさを強調している。彼は、苦痛がある種の痛ましさまで、愛がちょっとした熱気になるまで、あらゆる感覚や感情を薄め蒸発させた。」と。

ダウスンは一八六七年に生まれ、一九〇〇年に死んだ。晩年の数年は不幸が続いた。家業の衰えとともに父親が自殺(催眠剤を多量に服用しての死で、周囲の人たちは自殺と信じて疑わなかった)、翌年母親も自殺した。ワイルドが同性愛事件で逮捕され、デカダン派芸術家に対する風当たりが強くなる。当時は死病であった結核に冒されていることがわかる。食堂の十一歳の少女に恋をし、十五歳になるかならないかのうちにプロポーズするが断られ、後にその少女は仕立屋の若者と結婚する。

十数年にしかならないダウスンの文学者としての生涯において書かれた詩や小説は、千篇一律で、一言で言えば失われた過去に対する愛惜だと言えよう。デカダン派に属してはいたが、ボードレールを源とするフランスの詩人たちのように、奇抜な形象を用いることはなかった。それゆえ、デ
カダンスの百科全書とも言うべきマリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』にも群小詩人としてその他大勢のなかの一人として一度名前が挙げられているに過ぎない。

ワイルドのような正確な批評眼を持つ者のある意味「健康な」デカダンス、「失われていく時」をそのはかなさを歯牙にもかけないように組み伏していくプルーストの力強さはダウスンには無縁であって、古道具屋の香水瓶のように淡々とした香りがその詩文には漂っている。


いやくるほしき楽の音を、またいやつよき酒呼べど、
宴の果てて燈火の消えゆくときは、
シナラよ、あはれ、なが影のまたも落ち来て夜を領れば、
われは昔の恋ゆゑにここちなやみてうらぶれつ、
ただいろあかき唇を恋ふるこころぞつのるなれ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたる君なれば、
                あはれ、シナラよ。   
(矢野峰人訳)

2014年1月17日金曜日

ブラッドリー『論理学』7

 イギリス経験論に特徴的な個々物に対する優位に早くも叛旗が翻えされている。

 脚注には駄目押しのように「普遍的観念には心理学的難点が存在し、それは観念が抽象的になるにしたがってますます大きなものと感じられる。特殊な心像や感覚されるものの存在とその総体が諸問題を引き起こす。しかし、そうした問題はどちらにしろ論理的な重要性はないので、ここで考える必要はない。バークリーに従い、心的事実というのは、いかに堅固に意識のなかに持ちこまれようと、常に関係のない感覚的背景を含んでいるのだと私は思う。しかし、それは重大な問題ではないと繰り返さねばならない。普遍性の実在をある瞬間に存在する心的出来事を示すことで擁護しようとするのが原則的に間違っている。というのも、もし我々が論理において用いる普遍が私の心に一事実として存在するなら、とりあえず私はそれをその事実を示すものとして使うことはできないからである。いずれにせよ存在と外的な関係からの抽象がなされねばならず、その抽象がどの程度であるかは重要でも核心に触れる問題でもないように思える。」とある。

§7.観念のこうした二つの用法、シンボルとシンボル化されたもの、イメージとその意味は、もちろん、我々のすべてに知られたものである。しかし、私がこの明らかな区別にこだわる理由は、我々の思考の多くの部分において、このことが一貫して無視されているからである。我々がこう尋ねられたとする、「あらゆる単純観念は特殊なものであり、同一の観念について語るのだとしても、実際の観念は各瞬間において変化しており、我々が実際に行なっているのは同一のものについて語ることではなく、多くの似かよったものについて語ることであるとき、観念を普遍的であると考えるような愚か者がいるだろうか」と。そんな明らかな反論に我々が気づいていないと考えるような者がいようか、と答えたくなる。変化の只中において同一な観念について私が語るとき、絶えることのない流れのなかにある心的出来事について語っているのではなく、精神が固定し、いかなる意味でも時間内の出来事ではないある部分について語っている。我々は意味について語っているので、シンボルの系列について語っているのではなく、いわば、金について語っているので、その移ろい変化する特徴について語っているのではない。普遍的観念への信頼は、我々の頭のなかの事実としてでさえ抽象が存在するという確信を含むものではない。心的出来事は唯一のもので特殊であるが、その意味は存在から、揺れ動く他の内容から切り離されている。それは特殊なシンボルとの関係を失っている。それは従属的なもので、他のなにかを指し示しているが、それ自体はどんな特殊なものに対しても無関心である。

 「観念」の曖昧さは次のように示すことができる。定立一方において、いかなる観念もそれが意味するところのものではあり得ない。反定立他方、それが意味するところものでないような観念は存在しない。定立においては、観念は心的なイメージである。反定立においては、観念は論理的な意味作用である。最初の場合は全体を指す記号だが、第二の場合はシンボル化されたものでしかない。本書において私は観念を主に意味という用法で使うつもりである。



2014年1月16日木曜日

投句1

 『鬣』第26号の投句欄に一部が掲載された。

初雪や和歌三神の酒の席

冬の空武蔵野鉄塔五十番

六叉路は骨継ぐ子らの通いみち

雨もよい電信柱の右ひだり

街の灯や今月今宵はクリトリスの夜

曉のカリンの肌の死の迷路

黙阿弥忌本所南のからっ風

大ガラス回天の空を昇天す

2014年1月15日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』4

有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

 この第三の句、古註が様々で定説がない。主水は明石主水という酒屋だというのがそのひとつ。従うべきではない。『大鏡』に「明石主水は京都六條本願寺役人にて酒屋にあらず」とある。主水と呼ばれる人物がいたとしても、寺侍だったら、その主水とこの句とどんな関わりがあろうか。

 また、第二に、京都堀川姉小路誉田屋という酒屋に有明という名酒があり、その名に因んだという説がある。これも従うべきではない。有明という酒があったとしても、誉田屋と主水となんの関係があろうか。

 第三に、有明村というところに主水という酒屋があって、天子に酒を献上したことがあるという。これもまた従いがたい。どこの有明村で、いつの時代のことかおぼつかないことばかりである。

 第四に、本土は水係の官職で、酒茶などを奉ったことからそれに引っかけて興じて見せたという説もある。いよいよ従うべきではない。主水司は水氷などのことを司り、酒は造酒司がつくるものなのは延喜式に明らかである。「主水司」と「造酒司」とは別である。以上の諸説は適切に解釈しようとしてかえって穿鑿が過ぎ、牽強付会になっている。有明の主水という言葉にこだわって、強引に解釈しようとすると、一句の意味さえわからぬばかりか、前句との付け味にいたっては皆目見当がつかぬことになってしまう。

 先人の解釈では、曲齋のものが正しいものに近いだろうか。曲齋が言うには、有明の主水とは風雅な頭領を示すたとえであり、昔京に某の主水という宮中の頭領がいて、有明の歌が名高かったために世間の人はみな有明の主水と言ったという。また、前句の山茶花が散った笠も振らないで走り歩く人は誰だろうと見立てて、忙しいさまを付けたもので、普請場を覗いて、あの笠をかぶって走りまわる肝煎り大工はなんという風流人だ、普請奉行が名だたる有明の主水なので下回りのものまで花笠が来たと興ずる様子を描いているという。曲齋の言葉はおおよそ認められる。宮中の頭領や有明の歌で名高かったとはやや言い過ぎであるが、たとえだと喝破したのは眼光の暗くないことを示している。有明の主水は実際にたとえであり、俳言である。

 明石主水、有明村の主水、誉田屋の有明などというのは、みな実をもって虚を解こうとして失敗したものであり、陋劣で笑ってしまう。すべて元があることを一転し、応対し、それをもじり、逸らせてうまく諧謔を用いて新奇なものをだすことが俳諧のもとの意味であり、芭蕉の影響が大きくなってから滑稽俳諧のもとの意味が隠れてしまったが、「冬の日」のころは俳諧といえば諧謔滑稽なものと思っていて、文化文政以後の、俳諧が枯淡閑寂なもののように思われたのとは大いに異なっていた。

 守武の「青柳の眉かく岸のひたひかな」は『和漢朗詠集』の春の詩を打ちかすめることで誇り、宗鑑の「手をついて歌申上ぐる蛙かな」は『古今集』の序の一部を元にして興じ、梅盛の「落にきと人に語らん嵯峨の鮎」は、「をみなえし」の歌を水の中に流し、宗因の「有明の油ぞ残るほとゝぎす」は、月の影を枕のそばにもたらす。

 発句でもこうしたものがある、ましてや付け句は狂言妄想をほしいままにして、「とろゝやするらん天の逆鉾」と神器をすりこぎにし、「囚はれて石痳舐むる古狐」と越王勾践を妖獣と比較する。こうした具合であるから、句の表だけを見て解釈するだけでは、昔の俳諧の俳諧たるところを見落としてしまい、その裏にあるもの、つまり典拠を見てはじめてその作意も感興もわかり享受することができる。

 たとえば、宗因の「ながむとて花にもいたし首の骨」という句は、花を観賞して飽きないところもあり、春の長い日の暖かさに疲れた様子もあり、理想は理想としてありながら現実は現実でもある人というもののおかしな姿があらわれていて、大変面白い句だが、それだけではなく、『新古今集』の「眺むとて花にもいたくなれぬれば散る別こそかなしかりけれ」という西行の歌を一転、応対し、もじり逸らせて散る別れまでにはいたらないが、差しあたり首の骨が痛いと指摘するところに、執着と退屈との矛盾と滑稽を備えたうまみがある。

 このように言葉の端にあらわれる場合もあるが、まったくあらわれない場合もある。前にあげた古狐の句などは、どこにも越王のことはないが、ただ越王が恥を忍び身を屈し、志を隠して汚辱にまみれたことは『呉越春秋』その他で知られたことであり、それゆえに陰にそのことを踏まえて表向きはただ「囚われて」とした。こうしたことは今日からするとおかしく思われるが、俳諧ではよくあることで、特に芭蕉のころまでは多かった。これが俳諧であり、滑稽であり、たとえであり、怪しみおかしく思うことはない。

 酒屋のやを疑いのやと読むものもあって、間違いであることは論ずるまでもない。この句では有明の主水をただの呼び名とのみ解釈しては十分ではなく、このときこの人のあるところに有明の月がある。たとえば「夙起の何某」がでるときは早い朝であるように、有明の主水に酒屋をつくらせるときは、まさに有明の月の天に白くかかり、名前の通りさすがに有明の主水だと、明け方の冷たい風に感じるところがあるだろう。ひとの呼び名とだけ思って有明月を見落としては、一句は索然として味がなくなる。そうなるとこの巻の表六句は無月となる。後の俳諧の規則では第五句が月の定座であるが、環境の自然に任せてここに繰り上げたのである。

 一句については大かた語った。前句との関わりを言おう。前句は、誰かわからないが、笠をかぶって山茶花の樹のそばをせわしげにいく、その笠に花のとび散る。この句は、穢れを嫌う酒の神、松尾明神の神慮にもかなうような清らかで爽やかな地に、大きな造り酒屋を新たに建てようとして、勤勉で有名な人柄のいい主水にこれを承諾させると、明け方の天がすがすがしく有明の月が淡くまだ残っていて、粛然とした引き締まった一條の景色で、山茶花は広い普請婆の一隅、通路の傍らにあり、笠をかぶったひとは仕事に手間取ったのだろうか、朝露で重くなったさまが思われる。

2014年1月13日月曜日

思い出の西東三鬼句



 『鬣』第26号の特集「西東三鬼への扉」に応じて書いた。

水枕ガバリと寒い海がある

 わたしが読んだことのある西東三鬼の句集は『今日』一冊で、文学全集に収録されているのを読んだ。あとは同じく文学全集で、百句にも足りない選句を読んだだけである。全句数が二千七百を超えるというから、わたしが眼にしたのは二割にも満たないことになる。これでは「私の選ぶ三鬼の名句」や「私の三鬼秘蔵句」などあるべくもない。

 しかし、「思い出の三鬼句」ならないこともない。即ち最も人口に膾炙したこの句である。俳句を意識的に読みはじめて日の浅いわたしには、あのときあんな状態で読んでこんな感銘を受けた等々、句と結びついた記憶がほとんどないのだが、この句についてはそれがある。

 というのも、芭蕉や蕪村や子規の誰でも知っている句を別にすれば、この句はわたしがはじめておぼえた句だからである。時期は漠然と高校生の頃だったとしか言えないが、入手経路についてははっきりしている。俳句になど興味がなく、句集一冊読んだことのなかった当時のわたしが俳句関係の本や文章からこの句を知るはずはなかった。わたしがこの句を知ったのは澁澤龍彦の『偏愛的作家論』に収められた「吉岡実の断章」からだった。書誌を見ると、『偏愛的作家論』には同じ青土社で函入りの初版と函なしの増補版があり、わたしがもっていたのは「吉岡実の断章」を含む十編のエッセイが追加された増補版だった。当時熱中していた澁澤龍彦の著作のなかでも、この本は最も手にする機会が多かったように思う。久生十蘭や小栗虫太郎を読みはじめたのもこの本がきっかけだったし、石川淳についてのエッセイを読んで、石川淳への敬愛を仲立ちにして自分の好きな安部公房と澁澤龍彦という二人の作家が結びついたように感じられて嬉しがっていたのだから幸福な読書だった。

 それはともかく。「吉岡実の断章」は、作家論作品論と無骨な真似こそしないが、詩人の風貌を鮮やかに写しとったまさしく澁澤龍彦の面目躍如とした三ページほどのごく短いエッセイである。そのなかで、澁澤宅で吉岡実、加藤郁乎の三人で酒を飲んでいたとき(もっとも、吉岡実は酒を飲まないそうだが)、この句をめぐって「オノマトペと比喩が通俗でだめだ」と徹底的に否定する澁澤と、三鬼を擁護する吉岡、加藤の間でいつ果てるともしれない議論の交わされたことが語られている。かくして、何度もこの本を手に取ることで、おぼえるつもりもない三鬼の句が自然に頭に刻みつけられたらしい。もっとも、久生十蘭や小栗虫太郎のように本を探して読んでみようという気にまではならなかった。というのも、澁澤龍彦の尻馬に乗るわけではないが、「寒い海」はいいとしても「ガバリ」という語感がくだけたというよりはいかにも通俗的で、それほど魅力を感じなかったからで、それゆえわたしは思い出こそあってもこの句を「推薦五句」には入れなかったのである。

推薦五句

1. 哭く女窓の寒潮縞をなし

2. 雨の中雲雀ぶるぶる昇天す     『今日』

3. 秋の航一尾の魚も現れず

4. 昼寝の国蠅取りリボンぶら下り   『今日』

5. 春を病み松の根つ子も見あきたり

2014年1月12日日曜日

白石晃士『カルト』(2013年)




脚本:白石晃司
撮影:平尾徹
音楽:配島邦明
出演:あびる優、岩佐真悠子、入来茉里、三浦涼介

 三人のタレントが、除霊の顛末を追跡するというドキュメンタリーに出演することになる。ここまではこれまでの白石作品と同様のフェイク・ドキュメンタリーなのだが、なかではもっともストレート・ホラーに近いように思える(少なくとも途中までは)。

 『呪怨』と『エクソシスト』が混じったような感じで、二人の祈祷師が少女の除霊に失敗したのち、どんな宗教との関わりのないチャラい男が霊能力者として登場してから、話が思いもしなかった方向に進んでいき、題名の意味が明らかになる。『オカルト』も変な映画だったが、『カルト』は終盤での展開が中々見事で、映像的にはもちろん大作と違いちゃちなところも目立つが、怪作というにふさわしい。

2014年1月11日土曜日

芸と型――ノート2



 『鬣』第26号に掲載された。

 また、正宗白鳥も羽左衛門には賞賛を惜しまない。三宅周太郎との「芸談義」という対談で、羽左衛門を次のように位置づけている。

 「左団次が出て、一時、昔風の歌舞伎は勢いが衰えていた。左団次が盛んな時は、歌舞伎は羽左衛門が閑却されたようだった。しかし、彼は昔のまゝでまっておったようだ。幸四郎ほども新を志していなかった。」

 左団次とは二代目市川左団次(明治13~昭和15)のこと。ヨーロッパに演劇研究の旅をしたあと、小山内薫と組んで自由劇場を創立し、イプセン、ゴーリキー、メーテルリンクなど海外の作品、日本では森鷗外、吉井勇、秋田雨雀などの作品を舞台にあげた。その一方、鶴屋南北を復活させ、岡本綺堂や真山青果らと新歌舞伎をつくりあげようとした。新劇と歌舞伎の垣根を越える革新的な演劇人だった。羽左衛門にはそうした改革の鋭さはなかった。

 「三木竹二さんによく聞いておったけれども、羽左衛門は、彦三郎は若いとき、竹三郎と云っていたところの、面影があるといっておりました。羽左は昔の江戸の世だったら非常に人気があった筈だ。羽左は、五代目よりもこせこせしたところがなかったし、ぼうっとしたところがあった。彦三郎の方が五代目以上の風格を持っておったそうだが、羽左は五代目に学びながら、却って、知らない彦三郎の趣きを出していたのじゃあるまいか。」

 彦三郎というのは、羽左衛門とほぼ同時期の六代目板東彦三郎(明治19~昭和13)ではなく、五代目板東彦三郎(天保3~明治10)である。五代目というのは五代目尾上菊五郎(弘化1~明治36)のこと。五代目菊五郎は五代目彦三郎の演出を継承するところが多かったという。つまり、羽左衛門は五代目菊五郎に学びながら、直接には知ることのない五代目彦三郎の芸を継承していたわけである。二人の意見では、羽左衛門の真面目は『近江源氏先陣館』の盛綱、『源平布引滝』の実盛など生締物(実在の人物を演じること。油で棒状に固めた生締という鬘を用いるところからこう呼ばれる)にあった。

 そして、白鳥は「実盛を見に行ったときは、年代からいっても、羽左衛門は実に歌舞伎の持つ魅力、歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力を与えていた。昔の役者のそれを彼は備えておった」と絶賛している。

 もっとも、正宗白鳥よりはやや年上で、歌舞伎役者に多く知り合いをもつ家に生まれ、二歳のときに始めて芝居を見物、十八歳からは劇評を、その後歌舞伎の脚本まで書くことになった岡本綺堂(白鳥は明治12年、綺堂は明治5年の生まれ)によれば、真の歌舞伎は羽左衛門の登場より遙か以前に滅びていた。五代目尾上菊五郎、九代目市川團十郎が相次いで死んだ明治三十六年がその時であった。「今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものは稍々一種の変体に属するかとも思はれる」(『明治の演劇』)と綺堂は書いている。



 岡本綺堂の「真の歌舞伎劇」とはどういったものを指すのだろうか。綺堂は菊五郎がその晩年(明治33年)勘平を演じたときのことを記している。『仮名手本忠臣蔵』四段目の裏として書かれた清元「落人」の道行の勘平である。五段目、六段目の勘平は数多く演じたが、道行の勘平はこのときがはじめてだった。楽屋の菊五郎は、「役者が五十七になつて、道行の勘平が初役といふのも可笑しいぢやありませんか。まあ、若い者の御手本に遣つて見せてゐるやうなもので、おそらく終り初物でせう」と言っていたという。そして、実際終り初物になったのだった。

今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせ
て、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。

 綺堂の言う菊五郎の「云ふに云はれない柔かみ」は、昔の役者がもっており、羽左衛門にいたって再びあらわれたと白鳥が言った「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」とさほど径庭はないように思われる。どちらの役者も、各役柄の型の完成の上に、独特な存在の風味をもたらしたと言える。恐らくそれは、いま我々がテレビなどで役者の私生活の一端を知り、それを舞台上の姿に安易に結びつけることで生じるその役者の「キャラクター」とは似て非なるものに違いない。岡本綺堂が「ふつくらした柔か味のある舞台」と言い、正宗白鳥が「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」と言ったことに注意しよう。そこでは、菊五郎や羽左衛門という個人ではなく、歌舞伎そのものが光り輝いていたのである。


 大して知識のない歌舞伎の、しかも一度も眼にしたことのない役者について語ることには、手袋をはめた手で靴の上から痒いところを掻くかのようなまどろっこしさを覚えないわけにはいかないが、それは致し方あるまい。一応生身の羽左衛門のことはこれまでにして河上徹太郎の「羽左衛門の死と変貌についての対話」に戻ることにしよう。

 ところで、この一篇を読むためには、羽左衛門がどんな役者であったか最小限の知識を仕入れておくとともに、この頃(昭和5年前後)、つまり初期の評論において、河上徹太郎がどんなことを問題にしていたかについても知っておく必要がある。

 この対話は、プラトンの対話篇を擬したというよりは、プラトンを擬したヴァレリーの対話篇を擬している。プラトンの対話篇にあるような日常会話から哲学的会話への緩やかな傾斜もないし、プラトンでしばしば登場するそれまでの議論を整理要約する人物もいない。対話というよりは、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラスの三人が共通の観念を精錬していく過程を辿ったものだと言える。それゆえ、この共通の観念をわかっていないと対話はいたずらに難解なものにとどまるだろう。

 ちなみに、河上徹太郎が恐らく生涯でただ一度アクロバティックなレトリックを駆使したこの「対話」を、吉田健一が河上の代表作の筆頭に挙げていることを申し添えておこう。「ここで語られてゐる運動といふものの性質、その運動が氷河の流れの形を取つて放つ光芒、又心理と物質の交錯としての持続の分析、又認識の果てに人間の精神を待つてゐる眩暈、或は要するにさうした事柄がこの文章で手で確められる感触を日本語によつて得てゐることはこれが日本語の歴史の上での事件であるとともにどこのものでもなくてどこのものでもある言葉の世界に対する寄与であることに就て疑ひの余地を残さない」(『交友録』)と吉田健一は書いている。

 「対話」と対になり、それを別方向からより散文的に表現しているのが同年に書かれた「自然人と純粋人」である。そこで特徴的なのは、河上徹太郎が後にも繰りかえし論じることになる西欧の作家たち、ドストエフスキー、ジッド、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどに並んで「忠臣蔵六段目」が引かれることにある。この引用は、ドストエフスキーの手法、それを方法論にしたジッド(「手の理論をば眼の理論にした」)への言及に続くものであり、唐突な印象さえ与える。

 かう考へて来ると、発生的には自然芸術である我が歌舞伎劇の、現代の我々に及ぼす感銘も容易に論結出来るのである。殊にドストエフスキーの中で最も二義的な時空の制約を帯びた『悪霊』の如き作品と、純粋な戯曲作法の論理の最も複雑した「忠臣蔵六段目」の如き舞台を比べて見給へ。前者が時間的に行つた「色」の理論が後者にあつては空間的に行はれてゐるのである。この舞台へ現れる途方もなく一徹な人々が私の頭の中で交錯諧調して、フランクの音楽の半音階的進展の如く、あらゆる人間世界を展開するのである。殊に俳優の型、その他歌舞伎特有の種々な形式は、人物が実在的なものでなく、却つて人間の要素であることを我々に示す。今や前掲の松王に注ぐ涙は、徳川時代には自然であるが現代では純粋である。こんなこじつけともいへる比較をするのも、只私は自然が如何にしてその儘純粋になるか、及び、純粋は如何に所謂「唯心的」なものではなくして唯物的なものかが感じて欲しいのである。

 ドストエフスキーの「色」の理論とは、自然あるがままの人間から抽象された型を色とし、それを三色刷りのように画面の必要な場所に塗ることによって、最終的に一幅の絵を完成させるドストエフスキー特有のリアリズムである。だが、それと「忠臣蔵」にどんな関係があるのだろうか。

 勘平が義父を撃ち殺したと思い込み、同志たちにも責められて切腹した直後、それが誤解だとわかるのが忠臣蔵六段目である。勘平の住まいという閉ざされた場所で、仇討のために身を売ったおかるに対する感謝、義父を殺したのではないかという不安と恐れ、姑の疑い、同志たちの勘平に対する怒り、切腹にまで追い詰められていく心理の傾斜、誤解とわかったときの同志たちの驚き、切腹の苦しみのなかで仇討の連判状に加えられると知ったときの喜び、同志たちや姑の判断を誤ったことに対する自責の念などが空間のなかで交錯する。しかし、それは写実的に、あたかも実在の人物の感情の発露であるかのように演じられるから印象的なわけではない。そうしたリアリズム演劇ではなく、旧態依然に見える歌舞伎にドストエフスキーやジッドとの類縁性を見て取っているのがここでの河上徹太郎であり、掛け離れているかに思える彼らに共通するのは「型」への執着であり信頼である。

2014年1月10日金曜日

幸田露伴『七部集評釈』3

誰そやとばしる笠の山茶花   野水

 連句を解釈するには、まずおおよそ一句の解釈をし、次に前句との関わりを考え、前後照らしあって微妙な情趣を醸しだすところを会得すべきである。脇句は発句より生じ、第三句は第二句より、第四第五句から揚句にいたるまで、みなそのように続くとみてはいけない。そうであれば、発句以外はみな奴婢であり枝葉であることになり、作者が心を込め血を注いだ効果もなく、叙景叙情という実質も失い、詩歌の真の精神がない不自由不自在の境涯に立ち、心にもない挨拶会釈を句形にしたに過ぎなくなる。かくも愚かな興のないことがあろうか。

 脇句は発句があってその後にあり、第四句第五句より末句までみなそうなってはいるが、各句はみな前句の余韻や遺影でなく、それぞれ一個の面目風貌をもち、境地感情を有し、独立した歌となり詩となるべきである。

 たとえば、雲に包まれた仙山に松がそびえ立っている、それが発句だとすれば、時に白鶴が飛んできて鳴くこともある、これを脇句とするようなものである。松は松、白鶴は白鶴、発句は発句、脇句は脇句、それらが各自独立して触発しあえば、そこに自ずからいうにいわれぬ好風景、絶妙な情趣をあらわす。松があってそこに白鶴が来るといっても、白鶴は松が産した松の神や精のようなものではなく、朱の冠に縞のある厳然たる一個の白鶴である。発句があってその後に脇句があるといっても、脇句は自ずから厳然とした句であって、独立した歌であり詩である。第三句第四句から終句までみなそうである。そうであればこそ、連句もそれをする甲斐があり、読む甲斐もある。常に後句は前句の奴僕であれば、それをつくるのは卑しく、読む方は興趣がない。

 しかしながら、前句があって後句があるゆえに、後句は前句とまったく交渉がないということもあり得ず、まったく交渉がないなら連句である実質がなくなってしまう。それならば、独立して一句であるべきといい、また翻って響き合って連句であるべきだというのは、一をもって二を求め、矛盾ではないかとというものもあろう。そうではない。たとえば連環のようなものであり、玉と玉とはそれぞれ離れ、各々独立しているが、しかもそれらはつながって離れず、独立して共存するものであり、金環、白玉環、銅環、翡翠環、銀環、珊瑚環、牙環、梅壇環、大小痩肥、青黄赤白など様々な大きさや色のものが入りまじり、光彩を放っている。連句はそのようなものである。歌仙は三十六環、五十韵は五十環、百韵は百環となる。比喩は比喩であり、真実を伝えることができるものではないが、連句はおよそそうしたものである。これを理解せずに、後句を前句の奴婢のようなものと思い、前句五七五ならば後句これに添って一種の歌となると思い、前句七七であれば、後句がこれについてその句の全体が完全になると思う人もいる。こうしたことを心に抱いて連句を読み味わうときは、連句は極めて理解できないものとなる。

 貞徳守武のころの連句はまだそう解してもいいが、宗因西鶴くらいから大きく進み、芭蕉のときには、和歌の本に対して末をつけ、末に対して本をつけたことから起きた連歌の旧套を脱して、一句一句、詩歌の真の精神に触れて真面目を保とうとするようになっていたから、古いものに馴染んで新しいものを知らない者は、当時でも疑いをもって理解しがたいとした程である。そうであるから、「薄々と色を見せたるむら紅葉」という前句に、「御膳がよいと松風が吹く」とつけられたのを伊丹の鬼貫が聞いて困惑したという話さえ残っている。

 俳諧はもとはその字にあらわれているように、滑稽諧謔のみのものであったが、芭蕉にいたって里俗の言葉を使ってはいるものの真の歌となし、またその連歌も、もとは言葉の縁を引き、場景の流れに沿うのみのものだったが、芭蕉になると、決まり切った応酬の拘束を解き、照応の緊密を緩くし、自由の境地を広げ、真情の流露を可能にして、前後が互いに照らし合ってその間に趣を生ずればいいものだとした。この間の事情を知らない者が、芭蕉が俳諧連歌を詩歌の真の精神に触れるものとしたこと、また俳諧発句を詩歌の真の精神に触れるものとしたことを理解しないで、発句のみを論じて、連句を言及する必要もないと思うのは、連句をいつも貞徳守武のときのようにみて、芭蕉によってそれが甚だしく進歩したことに気づいていない。

 『七部集』のなかばは俳諧連歌であり、これらを顧みずに味わうのはほとんど意味がない。宗鑑のころは、「夢の中にもいたくこそあれ」という句に、「花にぬる胡蝶は雨にた〃かれて」と付け、それにまた「をしやおもしろ春の猿楽」などと付けて結構なものだとし、守武のころは、「のどかなる風ふくろうに山見えて」とあれば、「めもとすさまし月のこる影」と付け、それに「朝顔の花のしげくやしほるらん」などを付けて結構だとし、貞徳正章のころもまたおよそ同じようなものだった。

 だが、逸材の守武などのなかには、言葉の縁を引いて場景の流れに沿うものばかりのなかにも、一句で独立した句もあった。たとえば、「義朝殿に似たる秋風」という句は、「月見てや常磐の里へかゝるらん」という前句に付けたものだが、芭蕉の「義朝の心に似たり秋の風」の句よりは、簡潔で却って勝れているようだ。ただ世の中はまだ進まず、いわゆる栗の本衆の狂歌連のあとを追って、一時の興を追い求めることばかりなのに世間も飽き足らなくなって、檀林風の放恣で乱暴な句がはやったときに、芭蕉がおもむろに出て、詩歌の真の精神にもとづいて、大いなる進歩を成し遂げたのである。ゆえに芭蕉門の連句は、栗の本(伝統的な和歌を柿の本というのに対し、狂歌をこういう)の衆の系統の守武貞徳派の古俳諧連歌とは、趣きに同じようなところがあっても異なっていて、古風のべったりとつける付け方とは違っている。それを知らないで、どの部分で前後の句が付いているのだろうかと疑うようでは、蕉門の俳諧連歌は最後までわからない。蕉門の句の付け方は蕉門の目を開いて、諦観して味わうべきであり、古風の歯牙では噛み砕くことはできても、その味まではわからない。

 「とばしる」はたばしると同じ。「水の深うはあらねど人の歩むにつれてとばしりあげたる」と『枕草子』にもある。疑うに足りない。これを疑って、誰そやと、走る、と読むものがあるが強引である。山茶花は花がやや重く、はらはらと落ちるものである。木枯しに山茶花はどうなっているかをよく想像すれば、「とばしる」の語は自ずから理解される。老人などがつまずく様子をとばつくとも、とばとばとも言い、足早におぼつかない様子で歩くさまをとばとばするというので、走るかたちを言っていると解釈するものもあるが、人が歩いている姿をとばしるという例は聞いたことがなく、疑わしい見解である。また、「手折らずは何しに人の慕ふまし笠にさし行く山茶花の花」という歌に基づくと解釈するものもあるが、引き合いにだした歌も適切ではなく、いわでもがなのことである。一句の意味は自ずから明らかである。前句との付け味は、絵としてみれば、それもまた自ずから明らかで、一目瞭然のいい図である。前句は木枯しのなか行く人の心うちの情、後句はその人の笠を見たものの眼前の景である。「たそや」の一語は、無用のようだが趣がある。

2014年1月8日水曜日

性の煉獄――バクシーシ山下『セックス障害者たち』



 『鬣』第26号に掲載された。

前号堀込学氏の「宇能鴻一郎賛」を読んだときには、百年の知己を得た思いをした(大袈裟ですね、しかし)。それにしても、「アタシむっちり色白の高校教師なんです」といった独白体官能小説しか読んだことのない者には想像もできないだろうが、初期の(という意味は、「鯨神」で芥川賞を取ってから独白体の量産体制に入るまでのということだが)宇能鴻一郎は陰惨でグロテスクな物語ばかりを綴っていた。

独白体が一世を風靡したあとのいまから見ると、堀込氏が言うように、宇能鴻一郎は川上宗薫や富島健夫とともに官能小説家に分類されるが、この頃の小説はむしろ野坂昭如や沼正三に近いものだった。そこには「正常な」性愛など全くない。死体愛好、スカトロジー、近親相姦、フェティシズム、人肉嗜食などなど、いま手もとに本がないので具体的に辿れないのが残念だが、SMでも、団鬼六のようにぎりぎりの限界に踏みとどまることで情感を高めるよりは、安々と敷居を乗り越え破滅に向うものが多かったと記憶している。一言で言えば、実効性など念頭に置かない観念的な性が追求されていたのである。

『セックス障害者たち』はAV監督のバクシーシ山下が自作AVの撮影経緯を記したものである。ここでもまた、さすがに死体愛好こそないが、スカトロジー、SM、監禁、虐待など「異常な」性愛に事欠かない。脂肪除去手術で取った肉を食べる人肉嗜食さえある。しかし、それが野坂昭如や宇能鴻一郎と決定的に異なるのは、観念による転倒がないことにある。

彼らは「正常な」性愛を観念によって或は拡大縮小し、或は歪め、或は裏返しにした。そうして得た新たな枠組によって精神と肉体とのこれまで気づかれなかった緊張関係が浮き彫りにされた。観念的であることによって読む者、見る者に直接訴えかける力が減じるわけではない。そのことは、1960,70年代の映画や漫画を見たときに感じられることでもある。はじめて、また見直してみて、その暴力や性愛や葛藤の描き方にひりひりした感じを味わう人も多いに違いない。

確かに、いまの方が即物的な残酷描写は特殊効果や画像処理によってますます精緻なものになっている。だが、それは、例えば腕が切り落とされるときの、銃弾が身体を貫通するときのこうもあろうという痛みの感覚を仮想現実のなかで喚起させてくれることはあっても、腕が切り落とされることの、物質が身体を貫通することの意味を伝えてはくれない。バクシーシ山下の本が持つ奇妙な手ざわりは、同じように意味が全体にわたり欠落しているところにある。どれだけ「異常な」セックスが行われても、要するにただそれだけである。肉体は観念を身にまとうから肉体として存在する。そもそも観念の存在しないこの世界には肉体も存在しない。意味という衣をまといやすい性がここまで剥きだしになると、快楽も苦痛もない鈍いある感じだけが拡がり、或は煉獄とはこんな場所ではないかと思えてくる。

2014年1月7日火曜日

ブラッドリー『論理学』5

 記号について語られる。

§5.ここで脇道にそれることを許してもらわなければならない、必要がなければとばしてもらってかまわない。本書を通じて、重要な相違があるにもかかわらず、私は「シンボル」という語と「記号」という語を区別して使おうとはしなかった。確かにシンボルは常に記号だが、その語は非常に特殊な性格をもった記号に用いられる。シンボルとは対照的に、記号は恣意的なものである。もちろん、それは意味を欠いたものではあり得ないし、そうであればなにをあらわすこともできないだろう。しかし、それは内的に関わりのないもの、恣意的な偶然によって結びついたものをあらわすことができる。しかし、シンボルを狭い意味にとると、記号が自然な意味をもち、その内容がその対象と直接に結びついているときでさえ、自然記号がシンボルである必要はない。我々はシンボルという語を二次的な記号として限定することができる。例えば、ライオンは勇気のシンボルで、狐はずるがしこさのシンボルだが、狐の観念がずるがしこさを直接にあらわしていると言うことは不可能である。我々がしているのは、まず狐と呼ばれる動物を取り上げ、それを狐の一つの性質の記号として使っているのである。狐のイメージや表象が実物のある部分をもって別の狐を指すことになるように、意味もまたばらばらにされる。内容の一部分が精神によって固定され、別のもの、つまり、どこにでも見いだされる一般的な性質を指し示すことになる。知覚物自身、観念的に、つまり、その内容の一部分が把握されることで始めて利用できるのであるから、イメージや感覚知覚が最初にあるかどうかは関わりない。無意識のシンボリズムと反省的なシンボリズムの相違についてもまた、主要な原理には関わりがない。

 考えうる反論を未然に防ぐために以上のことを言っておくほうがいいと思った。しかし、私は記号とシンボルとをまったく区別なく使おうとしているので、この議論は私の論証にはほとんど関わりはない。

2014年1月6日月曜日

幸田文の『流れる』と芸――ノート1



 『鬣』第25号に掲載された。

 『流れる』(昭和三十年)は、幸田文のはじめての長編小説であり、父親である露伴を中心とした家族の題材から離れたのもほぼはじめてのことになる。昭和二十五年に「父の死後約三年、私はずらずらと文章を書いて過して来てしまいました。私が賢ければもつと前にやめていたのでしようが、鈍根のためいままで来てしまつたのです。元来私はものを書くのが好きでないので締切間際までほつておき、ギリギリになつた時に大いそぎで間に合わせ、私としてはいつもその出来が心配でしたが、出てみるとそれが何と一字一句練つたよい文章だとか、いろいろほめられたりするのです。やつつけ仕事ともいえるくらいの私の文章が人様からそんなにいわれると、私は顔から火が出るような恥かしさを感じました。自分として努力せずにやつたことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるものですし、努力しないで生きてゆくことは幸田の家としてもない生き方なのです」(「私は筆を断つ」)という他に例を見ないような理由によって断筆し、その翌年、柳橋の芸者置屋「藤さがみ」に住み込みの女中として働いたときの体験がもとになっている(もっとも腎臓炎になって二ヶ月ばかりで帰宅することになったのだが)。

 『流れる』は奇妙な小説である。特に内容が変わっているわけではない。梨花という中年の女性が置屋に女中として入り、やがてそこに住まう皆がばらばらに流れていくまでの傾きかけた芸者置屋での日常が綴られていく。奇妙なのはその遠近感の欠如にある。梨花、女主人、芸者たちそれぞれの感情のぶつかり合い、生き方や生活において譲れない一線をめぐっての意地の張り合いは非常に鮮やかである。昭和二十四年の「齢」という掌篇には中年女性の凄まじい啖呵の例が見られるし、父親について書いたものでも、露伴という別の生活原理を持った者との対決の記録であったことを思えば、そうした感情や意気地のやりとりは小説家としての幸田文がすでに自家薬籠中のものとしていたに違いない。だが、ほぼ芸者置屋から離れることなく進行するこの小説において、置
屋がどのくらいの広さをもつものなのか、また、三人称の体裁を取ってはいるが、梨花が叙述の中心であり、彼女の見聞きすることによって小説は進んでいくのだが、例えば女主人と芸者との会話を梨花がどこでどのように聞いているのか、同席しているのか、あるいは台所などで聞くともなしに聞いているのかなど空間的配置についてはっきりしない部分が多い。この遠近感のなさは、アカデミックな美術の教育を受けなかったルソーの絵を思わせるところがある。


 女主人は「演芸会」のために毎日清元の練習をしている。その会とは「みんなが力を協せて、わが土地のために〈よそ〉土地に負けない名舞台・名演技をしようといふのではなくて、たがひに意地の張りあひ〈ひぞりあひ〉をして、たとへ対手を殺しても自分だけはのしあがりたいといつた、凄まじい競りあひのやうな感じをもたされる」ものである。女中である梨花も当然主人の稽古を毎日のように聞き、その出来不出来に気持ちを奪われるようになっていくが、主人の声の「我慢ならないいやな調子」はなかなか消え去ることはない。

 総浚へにあと幾日もないといふ朝だつた。けふだめなら所詮もうだめなやうな気がして聴いてゐた。味噌汁の大根を刻みながら、聴くと云ふよりもむしろ堪へてゐた。もつともいやなそこへ来かゝる。節はこちらももう諳んじてゐる。いやな声、〈へた〉を期待してゐるへんな感じだつた。それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた!と思つた。そしたら、ぐいと手応へがあつた。包丁が左の人差指と中指の第二関節の皮膚を削つてゐた。白い大根が紅く少し汚れてゐて、右手が左手を一しよう懸命きつく掴んでゐ、痛さだかなんだか涙腺はゆるんで生温かい。手錠をかけられたやうな、左右くつついた手を挙げ、割烹着の上膊で顔のはうを動かして眼をこすつた。日向で見る絹糸よりつやゝかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。これは湧く音楽ではない、浸み入る音である。大木の強さではなく、藤蔓の力をもつ声なのだ。人の心を撃つて一ツにする大きい溶けあひはなくて、疎通はあつても一人一人に立籠らせる節なのだ。すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれて不思議である。肌にぺと/\して来るいやらしさが脱けて、遠く清々しい。梨花の耳が通じたのではなくて、主人の技が吹つ切れたとおもふ。一ツこゝで吹つ切れたのだから、このひとの運は二ツ目三ツ目とよくならないものだらうか、そんな望みが湧いてくる嬉しさである。

 「すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれ」たというのが面白い言い方で、生な生理に密着した表現が芸という形式を見いだしたと言い換えることができよう。だが、同じ人間が同じ声を出しているというのに、昨日と今日、「我慢ならないいやな調子」と「遠く清々しい」声はどこにその違いがあるのだろうか。


 谷崎潤一郎の『芸談』(昭和8年)も同じことを異なった例えで述べていると言えるかもしれない。

劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。

 珠でなくとも、革製品でも、木製の家具でもある程度長い間使用した者にはわかることだが、色艶は徐々についていくものではない。ある期間磨くなり、常用するなり、手入れをするなりして、気がついたときには色艶がでている。まさしく色艶の出た瞬間というのは捉えがたいもので、常にまだ艶が足りないか、もう既に艶が出ているかである。梨花が立ち合った女主人の芸の開眼にしても、開眼しつつある瞬間を聴いたわけではない。昨日にはいまだないものが、今日は既にそこにあったのである。

 しかし、「珠を磨く」という例えでは、単調な繰りかえしだけが艶を生じさせるという印象をもたざるを得ない。実際、多くの芸談ではいままさに艶の出る瞬間のことは括弧に入れられ、厳しい稽古のことだけが語られる。谷崎潤一郎も述べているが、昔の稽古というのは幼児虐待と紙一重で、団十郎(十一代目)の師匠(養父)は、実家の人に向い「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐたら素晴らしい役者になるでせう」と言って、仕込みの途中で死んでしまうならそれも仕方がないという覚悟を示したという。そうした稽古の継続の結果僥倖として色艶を出せた者が名優と呼ばれるわけである。


 この神秘的な暈に包まれた芸の本質を解析しようとする試みがなかったわけではない。例えば河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』(昭和5年)などはそうした試みの一つと言えるだろう。もっともこの一篇はプラトンの対話編を擬したもので、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラス三名による非常に抽象的な対話によって成り立っており、実在の羽左衛門とどう関わっているかについては判然としない。

 十五代目市村羽左衛門は明治七年に生まれ、昭和二十年に死んでいる。若い頃はその不器用さから「棒鱈役者」と呼ばれたというし、二枚目役が中心で芸域はそれほど広くなかったというから、なんでもこなす器用なタイプの役者ではなかったのだろう。折口信夫はその『市村羽左衛門論』(昭和22年)で、「書き進んでから、つく/″\恥を覚える。よくも知らぬが、中村加鴈治郎を中にして、前後にゐた優人たちのことなら、或は努力すれば書けるかも知れない。全く市村羽左衛門に到つては、私の観賞範囲を超えた芸格を持つた役者だつたのだ、とつく/″\思ふ。其に、此人の芸は直截明瞭な点が、すべての彼の良質を整頓する土台となつてゐたので、そこには一つは、その愛好者の情熱を牽く所があるのだ。だから彼の芸格が、私に呑みこめぬといふ訣ではない。根本からしても、彼の芸の持つ地方性が、私の観賞の他地方的な部分にどうしても這入つて来ないかと考へた」とその観賞の難しさを述懐している。歌舞伎についての教養のない私には、羽左衛門の東京生れの「地方性」なるものと芸域の狭さを、例えば久保田万太郎の小説や桂文楽の落語と置き換えてみれば理解しやすくなるのだが、それがどれ程の妥当性をもつかはわからない。少なくとも、折口信夫によれば、万太郎や文楽がそれぞれの分野において新たな声を産みだしたように、羽左衛門の新しさもその声にあった。

思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作る《アクセント》――その〈せりふ〉の抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。



2014年1月5日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』2

          笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊〃の嵐にもめたり、わびつくしたるわび人、我さへあはれに覚えける。昔狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て申侍る

狂句 木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉

 これは前書きのある句である。前書は端書とも詞書ともいう。詩に序や引があるようなものである。前書きのある句は、前書きがなくては面白くない句というわけではないが、前書きがあるからこそその句の成った時、所、意などが明らかとなり、感情の因、縁、性、ありようが確かになるものゆえ、前書きと離ればなれにはしないものである。であればこそ、前書きには冗長な言葉などを述べないものである。それなのに、作者に背いて、仏兮湖中の『一葉集』で、この前書きを省いたのはよくない、従うべきではない。前書きの言葉は平明で解釈も必要ない。ただ、わびは、侘しい有様で志を得ず、粛条として物さびしいことをいう。『新古今集』第十五巻、藤原定家の歌に、「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露」、というのがある。思い合わされて面白い。

 「昔狂歌の才子」というのは、句中の竹斎である。医業では生活できずに京都を出て流浪する。睨之助を従者にして諸国を漂白するところどころで、狂歌を詠んで自ら慰める。『竹斎物語』三巻、もとより戯作ではあるが、烏丸光廣の作と伝えられ、文章歌に愛すべき所がある。その情調は、だいたい『伊勢物語』の業平東下りを模して、貧しく鈍感な凡庸な医師の笑われるべきかつ哀れむべき行動を描いて、滑稽で田舎ぶりの歌も載っている。後の十返舎一九の『膝栗毛』は、この『竹斎物語』を換骨奪胎して、ますます卑俗にしたものである。

 竹斎は尾張で、「扁鵲も耆婆も及ばぬ竹斎を知らぬ病家はおろかなりけり」、と吟じ、熱田ではふろ吹の歌がある。芭蕉はいま尾張にある。漂白の寒々しい灯に冷たい夢を照らされる夜、荒れ野に立ちのぼる烟りにやせ細った馬を駆る夕べ、風雨に身をさらして霜露に袂を濡らす千里のさすらいの果て、そこで境界が相似て、風骨もまたやや近い竹斎を思い起こす所以があろう。彼は狂歌、自分は狂句、忽然と木枯しの章を得た。

 木枯の句の頭に「狂句」の二字が冠されている。狂句の二字も句に入れて、「芭蕉野分してたらひに雨をきく夜哉」、「櫓声浪を拍つて膓凍る夜や涙」、「牡丹蕊深く分け出つる蜂の別れ哉」、などの句のように、一気に読み続けて、字余りと思う人もいないではない。だが、それは誤りである。

 狂句と木枯はどうしてもつながらない。狂句の一語はむしろ前書きの詞に続くもので、ふと思いついて申し上げる狂句と理解すべきで、その狂句が木枯の章なので、はじめに狂句とあるまでのことで、深い意味があるとも思えない。

 「冬の日」一部の目当ての二字であり、狂句の二字は読まなくともよいなどというのは人を惑わす説だという、信濃の何丸の説は煩わしいだけである。句は、「木からしの身は竹斎に似たる哉」で、「狂句木からしの身は竹斎に似たる哉」では、不格好で芭蕉の句らしくもない。寛文延宝のころには芭蕉も異体の句をつくったが、その頃だとしてもこんなに拙い続けようをした句はないし、ましてこれは貞享元年の句で、ようやく一家の体をなそうというときであれば、「狂句木からし」などというはずがない。

 もっとも『甲子吟行』のなかにもこの句はあって、「名古屋に入る道の程諷吟す」として、「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」とあり、また同紀行中の句には、「手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜」などという字余りの句もあるが、それらをよりどころとして「狂句」の二字を句中の辞とするにはあたらない。また『甲子吟行』のもとの本は、信濃松本から奈良へ、その後江戸へ渡って、当時は伊勢の御師某の手に珍蔵されたが、それにもやはり「狂句木からし」と書き続けてあると、何丸は執着し、また「冬の日」第五巻の句に、「水干を秀句の聖わかやかに」とあり、揚句に「山茶花にほふ笠の木からし」とあるのも、狂句に対して秀句、「誰そやとはしる笠の山茶花」とある脇苦と発句とを受けとめているなどと主張もしているが、それらもすべていらぬ所に力を入れている。

 『甲子吟行』のもとの本に「狂句」とそれ以下が書き続けてあるとしても、それは「狂句」と句上に記しているに過ぎない。芭蕉が狂句と思い狂句と書きつけたことになんの意外があろう。第五巻の揚句などに、巻首の発句脇苦を承けたとしても、それもまたなんの不思議があろう。結局のところ、狂句の二字を句のなかに入れて何回となく読み、味わってみるがいい、句中の辞かどうかは自ずから明らかである。

 さてまた、狂句の二字は句中の辞ではないとしても、狂句と断っているのはどういうわけか。竹斎は古人であり、詞書きにも狂歌の才子とあり、それと我が身を引き比べるのは過当であるから、狂句と断った、謙遜の意だとする者があるが面白くない。芭蕉は傲慢な人間ではないが、そうした理由のない謙遜をするものでもない。特に竹斎は雖知苦斎(とちくさい)ではなく、雖知苦斎ならば名医道三のことだから、似ているといってはいささかはばかられるが、そうだとしても心遣いが過ぎるというものだろう。まして竹斎は物語のなかの人で、実績があったわけではなく、実体のない作り物になんで謙遜する必要があろう。竹斎は初めの名は道斎で、暗に雖知苦斎道三の高名を借りて、響きが似ている凡庸な医者を物語り作者が点出しただけである。なんで芭蕉が竹斎にへりくだる必要があろうか。この旧解は、はなはだ陋劣で従うに足りない。

 芭蕉が狂句と書いたのは、はかない物語の竹斎などといっても、俳諧にも実体があるわけではない、との感をいだいたのだろう。連句の裏以下はもちろん、一句としても人名を含むものは芭蕉の句にはほとんどなく、西行、荘子、墨子、義朝など出所の明らかなものばかりである。

 寛文延宝天和のころは、芭蕉もまだ一家の詩眼を持つにいたらず、世の流行に従って「まつはるや藤三郎がよしの山」などの句もつくったが、『甲子吟行』のころになると、自らの詩眼も定まり、俳諧の自在を自分から妨げることはしないが、かといって戯れだけの意匠を一句として世に示すことは好まなくなった。木枯の句、その精神は感慨のなかに洒脱さがあって、もとより戯れだけの句ではないが、竹斎ははかない物語の人物、いまでいう弥次郎や喜多八のことで、浮かれた部分があるから、詞書きにも狂歌の才子と断り、『甲子吟行』にも狂句と冠したまでである。後の人間がどうこういう程深い意味があるわけではない。

 そもそも、狂句であろうが、狂句ではないが謙遜したためであろうが、その章に狂句と題したる例がないから、章中の一つの言葉だという説も出たのだが、それは『竹斎物語』にのみ心をとられて、『杜少陵集』に眼をとめたいための誤りである。芭蕉が尊崇した杜甫は、永泰元年に蜀を去って嘉州戒州へ旅をする途中、真率奔放である四兄に会って、喜んで詩を賦して贈ったが、それを「狂歌行」と題した。杜甫がすでに「狂歌行」と題しているのだから、芭蕉が狂句と題してもなにも異とするところはない。

 「似たる哉」のかなは詠嘆の哉であることは間違いない。な捨ての哉で、似たるかと疑っており、発句が疑っているために、脇句もまた「誰そや」と疑っている、俗に言う疑いの哉だというのは何丸の解釈である。従うべきではない。一句の風情、疑っていてはどこに味があろう。発句が疑っているから脇句も疑うというのも間違いだ。そうであれば、脇句は発句の奴碑で終わってしまう。連句は中心となる柱ににわかで琴を貼り付けて弾ずるようなものではない。

(ちなみに、安東次男は、正反対に、狂句と句は不可分だとしている。この旅において芭蕉は「連衆なくしては成立たぬ俳諧師の心をつかんだ」のであり、「狂句」とは「名古屋という土地柄に来ればおのずと風狂の句を作りたくなって」と読むべきであり、狂句と句とを切り離している露伴を「見当外れ」だと言っている。)

2014年1月4日土曜日

もう一篇の幻詩――ロジェ・カイヨワ『詩法』



 『鬣』第25号に掲載された。

川又千秋の『幻詩狩り』というSFでは、フー・メイなる若者が創造した「時の黄金」という詩を読んでアンドレ・ブルトン、デュシャン、アルトー以下名だたるシュールレアリストたちが死んでいく。この詩はそれを読んだ者を三次元の世界から四次元の世界へ拉致し去る力があるらしく、正確には死なせたとは言えないのかもしれない。なぜ詩を読むことで日常的な時間から引きずりだされてしまうのか、なにかもっともらしい説明を聞きたいところなのだが、その点については「超能力」ということで片づけられる。

あえて忖度するなら、時間は我々の先入見に過ぎず、その詩は我々をそうしたフィルターのない生な時間に直面させるのだということにでもなろうか。もちろん、そうした異様な力をもった詩を作中に再現することは不可能であり、冒頭の部分が引用されるに止まる。「光の影の陰。光の奥の底。光の彼岸。光の裏面を巡りて、ここに至る時。時は黄金。黄金こそ時に似たり」とあり、確かに、時の創造としての詩という観念には「痙攣的な美」、様々な対立物が合流する「至高点」を目指し、錬金術的でもあれば、聖杯探求的要素のあったシュールレアリスムの詩が適っているだろう。

ロジェ・カイヨワは一時期シュールレアリストの一員であったが、後に離脱した。ブルトンとの考え方の相違を示す有名なエピソードとして、メキシコの飛び跳ねる豆(中に蛾の幼虫が入っている)を前にしてカイヨワがそれを割ってなかを確かめてみようと主張したことがある。ブルトンは驚異を台無しにすると言ってその主張に不愉快を示したのだった。カイヨワは様々な著作で、ブルトンその人ではないにしても、結果的にシュールレアリスムが産みだすことになった亜流たちによる放恣なイメージやだらしのない「自動筆記」を厳しく非難している。

短い二十三の主張(詩法)とその注釈からなる『詩法』もまた、霊感や奇矯なイメージや曖昧さや錯乱を排除しようとしており、そうした意味では保守的である。なかでもその「12」において、古典主
義の詩を称揚する部分は、その反時代的な姿勢が最も鮮やかにあらわれている。あらわれてはいるのだが、そして、通念とは異なり、ラシーヌよりはむしろコルネイユがふさわしいとしてその例が幾つかあげられるのだが、そうした詩についてのカイヨワの記述は、それらの例によって納得するにはあまりにユートピア的であり、仮に『幻詩狩り』で「時の黄金」について述べられた言葉だとしたらその幻詩がより説得力をもっただろうにと思われるほどなのである。すなわち、

 一見すると散文に近いのだが実は散文とはまったく違うような、イメージのない、またはほとんどイメージだとはわからないものしかない、詩がある。その表現は、何の飾りもなく、すっかり衣装をぬぎすてており、平凡とさえ言えるような性質を持ち、まっ先に浮んできた文章をそのまま書いたように見えるのである。しかし、そうではないことが次第にわかってくる。見かけの平凡さは、少しずつ異様な能力をあらわしてくる。ひめられた配置の巧みさは、作品の質を低い次元に落としたままではおかない。最もありふれた言葉によってひきおこされた響きは、行を追うごとに、無限の反響を魂の内部にめざめさせるのだ。それはとりたてて神秘的ではない、いやもし神秘的であるとすれば、それがゆるぎのない、人の心をやわらげ、読む者がうけいれざるを得ない反響だ、という点によってのみ、神秘的なのである。(佐藤東洋麿訳)

2014年1月3日金曜日

ブラッドリー『論理学』4

従って、真に影響を受けた哲学者はいなかったようである。ルドルフ・メッツの言葉はブラッドリーの著作の魅力をよく伝えている。

 彼は逆説を好み、常識外のことが好きで、対立するもののなかを動き回り、矛盾のなかにいることを楽しんだが、高く舞い上がることなく滅多に確固とした地上から足を離すことなく、ソフィストと懐疑主義者とドグマティストと神秘家が共存していた。

 そして彼はヒュームの名を引き合いにだしている。


 §4.論理学的目的に関しては、観念はシンボルであり、シンボル以外のなにものでもない。これ以上進む前に、新味のない恐れはあるが、シンボルがなにかについて述べてみなければならない。

 あらゆるものにおいて、我々は二つの側面を区別できる。(i)存在と(ii)内容である。別の言葉で言えば、我々はそれがあるということとそれがなにであるかを知覚する。しかし、シンボルには、第三の側面、その意味作用、それが意味するところのものがある。それに含まれる形而上学的問題には関わらないので、最初の二つの側面を考える必要はない。ある事実が存在するとき、それがなにものかに違いないことに我々は同意する。それが他の諸事実と異なった、区別しうる性格をもっていないなら、それは実在ではない。そして、それがある通りにつくりあげるものを内容と呼ぶ。例としてごく普通のどんな知覚でも取り上げることができる。それが含む複雑な性質と関係がその内容、あるいはそれであるものをつくりあげる。それを認めていることは、また、加えて、それがあるということも認めている。あらゆる種類の事実は存在と内容の二つの側面を有していなければならないということで、それ以上のことをここで言うつもりはない。

 しかし、第三の側面を有するような事実が存在する。それらは意味を有している。記号によって、意味のあるどんな種類の事実をも我々は理解する。意味は本来的な内容の部分であるのか、ある拡張によって発見されつけ加えられたものかもしれない。それに違いはない。なにか別のものを意味できるものをとれば、それは記号である。本来の存在と内容の他に第三の側面をもっている。かくして、あらゆる花は存在し、性質をもっているが、すべてが意味をもっているわけではない。あるものはなにも意味せず、他のものはその種類の一般的な代表であり、我々に希望や愛を思い起こさせるようなものもある。しかし、花そのものが意味するものであることは決してできない。

 シンボルはなにかを意味する事実で、そのことで、失うことと得ること、おとしめられることと高められること双方があると言える。シンボルとして使用されることで、個別的で、自律的な存在であることをやめる。この薔薇か、私を忘れないでという花言葉のどちらかが選ばれるというのは主要な問題点ではない。その意味があるために我々はそれを与えたり、とったりする。花が滅び去った遙かに後でその意味の真偽が証明されるかもしれない。言葉は話されたとたんに消え、特殊な音の単なる振動は我々の精神になにも残さない。その存在は会話と意味作用のなかに失われる。紙とインクは唯一無比のもので、はっきりした諸性質をもっている。それは世界にあるどんなものとも完全に一致することはない。しかし、読書において、我々は紙やインクを理解するのではなく、それらがあらわしているものを理解する。そして、意味に関する限り、個別的な存在は関係がない。シンボルとして受けとられる事実は、単なる事実であることをやめる。それはもはやそれ自身を目的として存在するとは言えず、その個別性は普遍的な意味のなかに失われる。もはや自律的なものではなく、他に従属的なものとなる。しかし、この変化はすべてを失うことではない。その性質がより広い意味に溶け込むことによって、自身を越え他のものを意味するようになる。これまでは入ることができなかった世界に入る許可と影響力を得るのである。紙とインクが人間を裏切り、吐息が世界を揺るがすこともありうる。

 簡単に要約しよう。記号は意味をもつ事実であり、意味は精神によって切り取られ、固定された内容(本源的なものか獲得されたもの)から成り立っていて、記号の存在とは別のものとして考えられる。

ブラッドリー『論理学』6

 記号と観念の関係。

§6.我々は、結局、観念なしに記号は存在しないと言うことができるかもしれないが、私がここで主張したいと思っているのは、少なくとも論理学に関する限り、あらゆる観念は記号だということである。観念のそれぞれが心的な事実として存在し、特殊な性質と関係をもっていることを我々は知っている。私の心のなかの出来事として特殊性がある。それは確かな個物で唯一無比であって、他のあらゆるものと異なっているばかりでなく、次の瞬間の自身とも異なっている。この性格は、存在と内容という二つの側面に限ったときにも有していなければならない。しかし、まさしくこの性格を有する限りにおいて、そのゆえに、論理学には観念が全くないことになる。観念は意味のために存在し始めることではじめて観念になる。そして、意味とは、繰り返しになるが、内容の一部分で、残りの内容や存在を無視して用いられる。私は馬の「観念」をもち、それは私の瞬間的な状態を形づくる感覚、情動、感情の集積と関係をもちながら存在する心的な事実である。把握しにくいかもしれないが独特の特徴があり、現前していると仮定せざるを得ない。疑いなく、それは他のなにものとも、それ自身とも同じではない唯一無比のものであり、過ぎゆく瞬間の世界において唯一のものである。しかし、論理学と真と偽の問題に関する限り、事態はまったく異なる。「観念」は、すべて意味に従属しているがゆえに普遍的なものとなる。馬に認められる属性間の関わりは唯一ある馬-イメージの内容の一部であり、この心的出来事の断片的な部分のみが論理学において我々が知り、関心を払うものである。これを使用し、あとは残滓として、我々には関わりがなく重要でないものとして扱う。「観念」は、もしそれが心的な状態だとしても、論理学においてはシンボルである。存在や非本質的な内容はすべて切り捨てられるので、観念は意味であると言ったほうがいい。心的なイメージという意味における観念は、意味という意味における観念の記号である。

2014年1月2日木曜日

殺人と藝術――ド・クインシー



 『鬣』第24号に掲載された。


 一八一一年十二月七日の真夜中近く、ロンドン東部のラドクリフ・ハイウェイで靴下店を営むマーの家で殺人事件があった。殺されたのは二十四歳のマー、同じく二十四歳の妻、生後三ヶ月の幼児、若い徒弟の四人である。女中のメアリーは夜食用の牡蠣を買いに行っており留守だった。いずれも、鈍器で撲られ昏倒させられたあと、喉を切り裂かれていた。

 十二日後の十二月十九日の夜、ラドクリフ・ハイウェイから少し離れた酒場で、その主人である五十六歳のウィリアムソン、六十歳のその妻、五十代の家政婦の三人が同じ手口で殺された。同じ家に住んでいた若い職人は窓から逃れ、人々が駆けつけたため、九歳の孫娘も殺されずにすんだ。

 マー家に残されていた凶器の船大工用の槌には、J・Pのイニシャルが記されており、ノルウェー人の船大工、ジョン・ピーターセンが帰国する際に下宿に残していったものだとわかった。同じ下宿から見つかった血のついたフレンチ・ナイフ、証言にあった靴の特徴(きゅっきゅっと鳴る)などからこの下宿屋に住むウィリアムズが逮捕された。彼は監獄のなかで首を吊って自殺する。

 連続殺人が珍しくない今日からすれば、七人の犠牲者というのはそれほどのこととも思えないが、切り裂きジャックがあらわれるまでおよそ八十年先だつこの事件はイギリス中に大きな反響を巻き起こした。権力者や貴族たちによる権謀術策の一環としての殺人や、権力と富を存分に使った快楽のための殺人は古代から枚挙にいとまがないが、一般市民が単独で行ない、しかも動機も目的もよくわからないことがこの事件を非常に斬新なものとしたのだろう。もっとも、P・D・ジェイムズ&T・A・クリッチリー『ラトクリフ街道の殺人』(国書刊行会)には、犯人とされたウィリアムズにかけられた嫌疑が予断と偏見に満ちたものであったことが立証されているという(わたしは未読)。

 この事件が犯罪史のみならず、文学史においても記憶されているのは、トマス・ド・クインシーが大きく取り上げたためである。「『マクベス』劇中の門口のノックについて」(一八二三年)ではこう言われている。

遂に、一八一二年のことだが、ウィリアムズ氏がラトクリフ・ハイウェイの舞台にデビューして、あの余人の及ばぬ殺人劇を演じ、不滅の名声を贏得たのである。この殺人場面について、序でながら言っておかねばならぬが、これが一つの点で悪い効果をもたらした。即ち、殺し場の通人の趣味を甚だむつかしくして、以後この筋の演技のいずれにも満足させぬようにして了ったのだ。彼の深紅色に比べると、他のすべての殺人は蒼ざめて見える。さる識者がかつて私に愚痴をこぼしたものだ、「あの時以降トント駄目になったな、語るに足るものは何一つない」と。だがこれは間違っている。なにしろ、すべての人が偉大な芸術家であり、ウィリアムズ氏の天才を具えているのを期待するのは理にかなわぬから。 小池銈訳

 更に一層詳細にこの事件が描きだされたのは「藝術の一分野として見た殺人」の補遺においてである。このエッセイは三つの部分に分かれ、「第一論攷」は一八二七年、「第二論攷」は一八三九年、補遺は一八五四年、つまり、事件から四十三年後に書かれた。ちょうど「イマーヌエル・カントの最後の日々」が、まるで見てきたかのようにカントの臨終の有り様を描きだし「想像の伝記」の先駆的作品になったように、この補遺は現場に居合わせたかのように殺人の様子を描きだしている。ポオが探偵の視点から事件を解釈するという仕掛けによって探偵小説を創始したように、ド・クインシーは殺人者や被害者の視点に立つクライム・ノベルの先駆けだと言えるかもしれない。もっとも、ド
・クインシー特有のユーモアやペダントリーがふんだんに鏤められているために、著者とは独立した登場人物をそこに認められるかというといささかおぼつかなくはあるが。

 この補遺には相当数の事実についての間違いがある。四十年以上も前の事件であること、印刷物の媒体しかなく、簡単に情報を参照できなかった時代であったこともあろう。事件が起きた年、被害者たちの年齢などは記憶の間違い、記憶の摩滅が大いにありそうである。先の引用でも事件の起きた年を一八一二年としているが、実際は一八一一年である。被害者たちの年齢はほぼ全てが誤っており、第二の事件で殺されたウィリアムソンに至っては、56歳であるのに70歳以上とされている。

 より根本的な間違いは、マルゴ・アン・サリヴァンが『殺人と芸術:トマス・ド・クインシーとラトクリフ・ハイウェイ殺人事件』(一九八七年)でまとめているところによると、次の六つである。(1)第一の事件で女中のメアリーが買物に出た際、通りの反対側に街灯の光に照らしだされたウィリアムズの
姿を認めたことになっているが、実際にはそんな事実はなかった。(2)ウィリアムズは、第二の事件で犠牲になったウィリアムソンの店の常連であり、友人と言える近しい間柄だった。ド・クインシーの文章では「知り合い〈であった〉といえないわけでもあるまい」として、事件当夜足繁く店にあらわれたと報告されている「幽鬼のように蒼白な男」をウィリアムズだとしている。実際にウィリアムソンも殺される前不審な人物を見かけたと言っていたらしいが、それがウィリアムズだとしたら当然ウィリアムソンにはわかったはずである。(3)ウィリアムズは「絹で贅沢な裏打ちのなされた」上着を着て殺人を犯したとされているが、それは刑務所官が記した逮捕された後のウィリアムズの服装とは合っているが、殺人者を目撃した人間の証言とは合っていない。(4)凶器となった槌の出所が判明し、それによってウィリアムズが逮捕されたとされているが、実際にはそれ以前に、多数の容疑者の一人として逮捕されていた。(5)ウィリアムズの死後、捜査によってその下宿から血のついたポケットとフレンチ・ナイフが見つかったが、それらは別々に、異なった日に発見された。ところが、ド・クインシーでは「胴着のポケットの裏地には、件のフレンチ・ナイフが血糊で貼りついていた」と一緒にされている。(6)遺体を調べた外科医は、喉を切り裂いたのはナイフではなく、剃刀だと結論したが、ド・クインシーでは逆に「喉を掻き切るのに使われたのは剃刀ではなく、それとはまったく別の形をした器具であった」としてある。

 いずれの修正も、「彼の立ち居ふるまいが品の良い物柔らかさという点で際立っていたことは、彼の性格の全般にわたる狡猾さ、ならびに粗野を嫌う洗練された態度とも、調和するものであった」というド・クインシーによるウィリアムズ像に寄与するものだろうが、一体ド・クインシーはこのウィリアム像のどこにその「天才」を認めたのだろうか。「藝術の一分野として見た殺人」とは、道徳的問題を括弧に入れて、殺人を美的に扱うことである。しかし、ド・クインシーは、一見、猟奇的趣味と自我崇拝とが混然とした世紀末デカダンス趣味(マリオ・プラーツが『肉体と死と悪魔』で縦横に論じつくしたような)を先取りし、悪魔や吸血鬼といった超自然的な色合いをそこにつけ加えなかったわけではないにしろ(「いついかなるときも、彼の顔は、血の気のない蒼白さを保っているのだった。」「あの男の血管をめぐって流れているのは、・・・緑色の樹液みたいなものだったのでしょう。」)、そうした特徴はそれに見合っただけの結果をもたらすわけではない。つまり、ここでの「藝術性」とは、非凡な能力をもった個人が洗練された趣味をもって見事な殺人を遂行することにあるのではない。

見事な殺人の構成のためには、ただ単に、殺す阿呆と殺される阿呆、ナイフ、財布、暗い小路などといった道具立て以上のなにかが必要だということを、人びとは理解するようになってきています。紳士諸賢、意匠、配置、光線と陰翳、詩情、情緒といったものがいまや、そうした性格の試みには不可欠となっているように思われるのです。(中略)詩の分野におけるアイスキュロスやミルトンのように、また絵画の分野におけるミケランジェロのように、ウィリアムズ氏は、自らの藝術を途方もない崇光さの域にまでいたらしめたのです。(「藝術の一分野として見た殺人」鈴木聡訳)

 しかし、ミルトンやミケランジェロとは異なり、ウィリアムズは自らの「藝術」をその手で支配したわけではなかった。どちらの事件でも一家全員を皆殺しにすることに失敗し、生存者とウィリアムズとは近い距離にまで接近する。即ち、第一の事件では、買物から帰ってきたメアリーが扉一枚を隔てて殺人者に対する。「扉の一方の側には、孤独な殺人者である彼が立ち、別の側には、メアリーが立っている。」第二の事件では、同居していた職人が三階から殺人現場の一階にまで様子を見に下りてくる。「この状況は、かつて記録されたいかなるものをもしのぐ、慄然とするようなものであった。くしゃみや咳、いやそれどころか息使いひとつだけでも、この青年は、命の助かる可能性も、必死にもがく余裕も与えられず、屍体と化すことになるだろう。」この二例はいずれも『マクベス』で、マクベスがダンカン王を殺害したあと、マクベスとその夫人に聞こえるノックの音と同じ効果をあげる。

・・・二人とも悪魔の姿にふさわしい、かくて悪魔の世界が忽然と出現する。だがこのことをどうやって伝え、どうして肌身に感じさせるか。新しい世界が登場できるように、この世が暫く退場せねばならない。殺人者たち、そして殺人行為は、孤立させねばならない。一方、日常生活の世界も突然停止し、眠り込み、失神し、怯えた休戦状態に追い込まれたと感じられる、時間は抹殺され、外界の物との関係は断続されねばならぬ。かくて総べては自発的に、この世の情熱の深い休止と中断の中に引籠もらねばならない。このようになってこそ、さて兇行が行われ、暗黒の所業が完成すると、闇の世界は天空の浮雲模様の如く過ぎ去り、門口のノックの音が聞こえる。これは反動の始ったこと、人間的なるものが悪魔的なものの上に捲返し、生の鼓動が再び打ち始めることを耳に知らせるのである。われわれの生きている世界が再び座を占めることは、しばしその世界を中断していたあの畏るべき間狂言を先ず身に沁みて感じさせるのである。(「『マクベス』劇中の門口のノックについて」)

 殺人の被害者は恐怖に満たされており、そこにはすべての生物に共通な自己保存本能しかない。恐怖に満たされた被害者と「激情――嫉妬、野望、復讐、憎悪――の大嵐が荒狂っている」殺人者によって閉じられた世界に亀裂が入る特権的瞬間を経験できるのは殺人者だけであり、それを二度も生じさせたが故にウィリアムズは「天才」的である。つまり、完璧な計画と趣味を自由に操れる個人としての才能が藝術となるのではなく、犯罪としては失敗である偶然の要素を招き入れ、二つの世界を接触させることで始めて殺人は藝術的たり得る。ド・クインシーにとって始めから犯人の意図や目的などはなんら問題ではなく(ウィリアムズについてもそうした点は何も触れられていない)、閉ざされた世界の流動化にもっぱら目が注がれていた。殺人をこうした流動化の一種として考えると、偶然をあたかも必然であるかのように招き寄せたウィリアムズの天才は、必然をあたかも偶然であるかのように配置したシェイクスピアの天才と交錯するのであり、必然といい偶然といっても、ある世界でこそ安定していても、他の世界と接触するや容易に反転し流動化することをド・クインシーは言っているかのようである。

2014年1月1日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』1

 幸田露伴の『七部集評釈』をいまの言葉に訳してみる。読みやすいように段落も増やしておく。

評釈冬の日


 「冬の日」は尾張五歌仙という。尾張で芭蕉、荷兮などがものした俳諧連歌の歌仙五巻と追加でなっているからそういう。題が「冬の日」であるのは、俳諧がみな冬の季をもってはじまり、当然冬にあたっているからである。冬の日の次に世に出た春の日は、「春めくや人さま/”\の伊勢まゐり」、という荷兮の冒頭の句にちなんでいることは明らかである。冬の日の題になんの疑いがあろう。

 ところが、第五の巻の、「霜月や鶴のつく/\ならび居て」、という荷兮の発句に芭蕉がつけた脇句の、「冬の朝日のあはれなりけり」、から名づけたという者もある。思い過ごしの考えである。また、この集第一の巻の発句、「木枯らしの身は竹斎に似たるかな」、というところから、昔狂歌を好んだ竹斎に思いを及ぼし、かつ、頭に「狂句」の二字を冠し、句の前書きにも、「狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て」、とあることなどから、「宮柱ふろ吹たべて酒飲めば冬の日ながら熱田なりけり」、という古狂歌にちなんで、「冬の日」と名づけたと説く者もある。

 この集は熱田でできあがり、かつまた、俳諧に遊ぶ人たちがしたことであるから、あるいはそういうこともあるかもしれない。しかし、ただ安らかに冬の日の景物を詠ずる句で各巻がはじまることから、「冬の日」と名づけたと理解していいだろう。