2013年9月8日日曜日

浅薄と自覚

 『鬣』9号に掲載された。




ワイルドは『獄中記』で、ほとんど同じ言葉を三度繰り返す。

1.『獄中記』はレディングの獄中からアルフレッド・ダグラスに当てた長い手紙である。ダグラスは、我が儘で、気まぐれで、ワイルドの財産を湯水のように遊興に使い、意見をすれば怒りだし、絶交を言い渡すと縋りつかんばかりに謝るが、ほとぼりが冷めるやまた同じことをする。そもそもワイルドが同性愛の罪で投獄されたのも、ダグラスとその父親の確執のとばっちりを受けたことによるといっていいが、ダグラスは獄中のワイルドに会いに来ることもなければ手紙も寄こさない。憤懣やるかたないワイルドは、この手紙で君の顔が溶鉱炉の熱風でも受けたみたいに、恥ずかしさで真っ赤になるならいいだろう、と言う。なぜなら、「浅薄こそは至高の悪徳である。自覚されたことはすべて正しい」のであるから。

2.ダグラスのしたことは確かに酷いが、彼が単に『サロメ』の英訳者で男友達の一人であるのではなく、恋人であることを思うと、若い恋人に翻弄される初老の男というかなり陳腐な絵柄が浮き上がってくる。だがその陳腐さが招いたこと、社交界の寵児から獄中の二年へという経過はワイルドにとって決定的で、この考えてもみなかった経験を飲み下すことは、反省の意味もその言葉さえ知らないかに思えるダグラスへの訴えなどよりはよほど緊急を要することであったろう。牢獄での経験を、自己の血肉とし、愚痴も、恐怖も、嫌気もなしに認めることこそ自分がしなければならないことなのだ、とワイルドは書く。なぜなら、「最高の悪徳とは浅薄さである。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。

3.『獄中記』は、長短はあるが、三つの部分から成り立っている。ダグラスに対する非難あるいは痴話言、自分のこれまでの経歴を振り返っている部分、そして芸術家としてのキリストについての考察である。ここでキリストは、なによりもまず比類のない想像力の持ち主である。キリストは癩者や盲者の生活を、快楽のために生きる者のみじめさや富める者の貧しさを共感することができた。その生を共に生きることのできる強烈な想像力と共感の力こそがキリストの偉大さであり、それはまた芸術家にもっとも必要とされるものでもある。想像力とは架空のものを造型する能力などではなく、生を肯定する、生を自覚する能力である。罪を悔い改めることは必要である、それは自分の生を自覚することであるから。すべてを自覚に収斂せしめよ、なぜなら、「最高の悪徳は浅薄ということだ。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。

    キリストは、もし問われたら、こう答えただろう──その点はきっとそうだとわたしは思う──あの放蕩息子がひざまずいて泣いた瞬間かれは娼婦たち相手に財産を浪費し、それから豚を飼い、豚の食う豆莢まで渇望したことを、ほんとうにわが人生の美しい神聖な出来事とすることができたのだ、と。  (西村孝次訳)

2013年9月6日金曜日

ある種の性格の類型

 『鬣』8号に掲載された。





チェコスロバキアのスターリン主義者、ノボトニーについてこんなジョークがある。

大統領ノボトニーと兵士シュヴェイクの相違は?シュヴェイクは利口なのに馬鹿のふりをしている。

問題はそこにある。シュヴェイクは馬鹿なふりをした利口なのだろうか。シュヴェイクはチェコスロバキアの作家、ハシェクのつくりだした人物で、第一次世界大戦に従軍する。もちろん、優秀な兵士としての働きをするわけでもないし、一つの歯車として集団の効率を上げるのに役立つわけでもない。だが、確かに、だからといって馬鹿だとも言い切れないのは、単なる馬鹿ということではよっぽどそれらしい人物がシュヴェイクの兵隊仲間にいるからもある。

食べることしか頭にないバウロンや上官風を吹かせることだけのために生きているようなドゥプ少尉がそれで、どんな情況にあっても食べることや威張ることしか考えない彼らの頑迷さはごく自然に馬鹿と言うのに相応しい感じがする。

それでは、シュヴェイクは、常識や慣習に従うことができないために、そうした外皮の内側にある人間の本性についてより多くの真実を伝えてくれるようにも思える落語の与太郎の仲間なのだろうか。ところが、シュヴェイクには赤裸々な人間性がうかがわれることはない。むしろ、人間的な関心は、彼の全体から発散される光り輝くような「無関心さと無邪気さ」に跳ね返される。それ故に、人間性をあらわす利口にも馬鹿にも収まらない。

シュヴェイクはのべつ上官に怒られるが、反抗的なわけではない。彼の応答のパターンは決まっている。申しあげます、その通りであります、それについてはこういう話があります、と言って、問題になっていることと関係のあるようなないようなつかまえどころのない話をしはじめる。

ここで、ハシェクと同じ年に生まれ一年後に死んだもう一人の作家カフカを思い出してみよう。『兵士シュヴェイクの冒険』は思いのほかカフカの、例えば『審判』に近しい。シュヴェイクが軍隊に入るきっかけとなるのはなんの罪もないのに逮捕されたことにある。しかし彼は、「どこのだれそれが無実であろうがなかろうが、そんなことに気をとめる人なんぞどこにも、またいつの時代でも、いっこありませんよ」とさして気にしない。カフカの主人公は不条理な情況から抜け出そうと人間的な努力をするが、シュヴェイクはそれを無関心に受け入れる。といってそれを堪え忍ぶわけではなく、こちらも機械のように、とらえどころのないわけのわからない話を吐きだし続ける。

    それから鉄砲の弾丸を腹に受けるのも悪くないですな。でももっと乙なのは、大砲の弾丸をまともに受けて、足や腹がからだからばらばらになるのをわが目で見るときですね。なにしろ、だれかこの現象を説明して聞かしてくれる者がいないかと思っているうちに、死んで行くのだから、妙な気持ちでしょうな (栗栖継訳)

2013年9月5日木曜日

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』とその運命 2

『鬣』第七号に掲載された。






 フロイトが指摘する機知とユーモアの類似点は、どちらの快感も節約に由来することにある。機知は、言葉遊びや冗談のなかに社会的配慮から抑制している事柄を滑り込ませる。つまり、抑制が節約される。一方、ユーモアは感情が節約される。月曜日に絞首台に引かれていく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言う。我々は罪人がなんらかの感情、怒りや悲しみや絶望をあらわにすることを予想する。だが、罪人はどんな感情をあらわすこともなく平然とうそぶく。つまり、感情が節約される。これらのことは、より古典的な言葉で、緊張と緩和といってもいいだろう。抑制や感情によって緊張の高まるべきときにそれがはぐらかされ、緩和される。

 しかしながら、異なるところも大きい。なにより、機知は社会的なものであり、第三者や観客を必要とする。機知は社会的な慣習によって形成される抑制を相手にするからである。社会的慣習による抑制があるために直接的には口に出せないことを機知に託すのであるから、社会的に、それを聞く第三者に認められなければ機知の勝利はあり得ない。それゆえ、機知は、言っていいことと言ってはいけないことが厳密に定まってはいるものの、言ってはいけないことの言い方とその巧拙の基準も複雑に規定されているようなサロンや社交界、あるいは芸能の分野などで発達し洗練される。

 だが、ユーモアの方は、それを認める第三者が不可欠なわけではない。死刑囚のユーモアに勝利があるとすれば、それは彼の言うことを第三者が笑うことではなく、深刻な状況を前にして「今週も幸先がいいらしいぞ」と言うことそのことのうちにある。ここにユーモア特有の「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」があり、「自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示する」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)のである。

 フロイトは、機知、滑稽、ユーモアは、いずれも我々の失われた幼児期を取り戻そうとする試みのあらわれだとしている。

    その三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示しているという点で一致する。というのは、われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならないのである。
      (『機知-その無意識との関係-』)
   
 だが、ユーモアと機知や滑稽と子供との関係は異なる。機知のある子供、滑稽な子供はしばしば見受けられる。フロイトの言う滑稽も機知もユーモアも必要としない、自足した「生活に幸福を感じえた子供の時代」とは、言葉を話すことも知らない幼児期にかろうじて見いだされるだけだろう。言葉と親などの身近な人物がいれば、つまり最小限の社会的なものがあれば、機知や滑稽は働き出す。確かに、子供に社交界での機知を求めることはできないが、どういうことを言えば周囲の大人が喜ぶかについては子供は十分に意識的である。子供の機知と大人の機知の相違は、そしてその幸福感の違いは、子供の機知は、彼、あるいは彼女が言ったからこそ笑い、賞賛するのだという無条件の肯定に支えられているのに対し、大人の機知はその内容やその人物の社会的地位や人格によって判断を経た上で受け入れられることにある。

 他方、ユーモラスな子供というのはほとんど見ることができない。言い換えれば、ユーモアというものが、あまりに子供の存在と密着しているので、ユーモアとして際立つことがない。ユーモア特有の「自我の不可侵性」とは子供のもつ全能感のことに他ならない。ユーモアというのは、存在に密着したものなので、機知のように、その時々の精神の閃きというよりは、生存の様式として捉えられるものなのである。

 機知が価値をずらすことによって世界をゲリラ的に攪乱していくとすれば、ユーモアはいま棲むこの世界の侵入を許さない独自のもう一つの、生存の様式、世界をつくろうとしている、と言ってもいいかもしれない。
 



 ディドロは新しい空間を創造したのだ、とクンデラが言うとき、その空間はユーモアのつくり出す「不可侵」な世界に近く、『運命論者ジャックとその主人』はユーモラスな人物や事件が描かれているためではなく、ユーモアをもって書かれた作品という意味でユーモア小説と言うことができるだろう。

    ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。
         (『ジャックとその主人』)
   
 クンデラはディドロの作品を劇化するにあたって、舞台装置の全くない空白の空間で劇が進行するようにしたが、この何もない空間は、なんでも受け入れられる、しかし何によっても壊されることのない空間である。この空間、あるいはディドロの世界にとって「不可侵」であるべきものとは、空間そのものではない。空間に関しては、通りすがりの誰かが入ろうが、読者が参加しようが、作者が姿を見せようが一向に差し支えない。また、どんな意想外の事件が起きようとも、この空間にはその意想外の出来事に背反するような背景がないから、それによって空間が壊れるようなことはない。

 ただ一つ、この空間が譲ることのできない「不可侵」なものとは、誰でも入ることができ、どんなことでも起きることが可能だという空間の空白である。なには入ってもいいがなには入ってはいけないというような排除と選別の原理を導入すること、空白を色づけするような行為だけは避けなければならないだろう。そして、この空間の性質は、ジャックが抱懐する運命論と正確に照応している。すべてを前世の因縁で説明するジャックに対して主人は言う。

     主人 しかし、お前の論法でゆくと、罪なんてものはなくなっちまい、罪を犯しても悔悟しないことになる。
     ジャック いま旦那さまのおっしゃってることは、一度ならずあっしの頭をくちゃくちゃにしました。しかしそうしたことがあったにもかかわらず、われにもあらず、たえずあっしの念頭にうかぶのは、隊長の「この世でわれわれの身に起こることは、いいことにしろ、わるいことにしろ、すべて前世の因縁だ」という言葉でした。旦那さま、あなたはこの因縁を消す何らかの手をご存じですか?あっしが自分でないことができますか?自分であって、自分とはちがったふうに振舞うことができますか?自分であって他人であることができますか?それに、あっしがこの世に生まれて以来、いま申しあげたことが真実でない瞬間が、いっときだってありましたか?すきなだけごたくをお並べなさいまし。旦那さまの理屈は、たぶん結構なものでしょう。しかしあっしのなかにか、あるいは前世にか、あっしが旦那さまの理屈はなってない理屈だと思うということが書きこまれてるんでさ。しようがないじゃありませんか?
     主人 おれはあることを考えているんだ。それは、お前の恩人は前世の因縁で決められていたからコキュになったのか、それとも、お前が恩人をコキュにするから、前世の因縁がそうなっていたのか、ということだ。
     ジャック その両方が並んで書いてあったんでしょうね。全部いっときに書かれたんです。それは少しずつひろげてみる大きな巻物みたいなものでして・・・・・・。

 ジャックの運命論とは、いいことであれ悪いことであれ無差別に受け入れることのできる空間の枠組みであり巻物でしかないのである。実際、この運命論によってジャックの行動や感情が変化するわけではない。なにごとも運命で決まっていると考えるから、喜びも悲しみもないかといえばそんなことはない。なにをするにしても結果は決まっているのだから、行動が投げやりになるかといえば、そういうこともない。「彼は不幸を予防しようと努めた。彼は慎重さにたいして最大の軽侮の念を抱いていたが、慎重だった。(・・・)要するに、善人で、率直で、誠実で、勇敢で、主人思いで、忠実で、きわめて頑固で、さらにそれに輪をかけたおしゃべり」であるジャックの性格を運命論が変えることはない。

 ジャックの運命論が受け入れることのできない唯一のことは、「そうあらざるをえなかったんだ、だって前世からそうきまってるんだから」と上機嫌にすべてを受け入れることのできる自身の運命論の枠組み自体を否定されること、その一点につきる。

 しかしながら、このことは、逆に言えば、その一点においてディドロの小説やジャックの運命論が支えられていることを意味する。そして、十八世紀のフランスに生きたディドロの「幸福な無為」(クンデラ)、空白な空間をただ一点で支えることのできる力、現実世界が侵入することのできない自己というものは失われているようなのである。そのことは、同じようにほとんど背景のない空白の空間を舞台にするベケットの戯曲やブランショの小説がディドロのように揺るぎない空間を保持しえていないことにも見て取れる。彼らの戯曲や小説ではその空間が常に崩壊の予感にさらされているかのように思える。「ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つということは、それが、強迫的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編みだしたあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境などをも含んでいるあの系列に属するものであるということを意味する」(「ユーモア」)とフロイトは言うが、ユーモアは既に空白の空間を支えきることができず、他の「諸方法」の影響が空間全体に瀰漫しているかのようなのである。

2013年9月3日火曜日

記憶の方向

 『鬣』7号に掲載された。



 十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて活躍したブラッドリーというイギリスの哲学者が、記憶の方向について面白いことを考えている。

 記憶の方向というだけでは意味がわかりにくいが、つまり、我々がなにかを思い返すとき、なぜ過去から現在(仮に前方に向けて、と言っておこう)という方向で思い返し、現在から過去へ(仮に後方に向けてと言っておく)ではないか、ということである。

 例えば、夜、今日一日のことを思い返すとき、我々は目覚めたときから今までの時間を辿り、その反対ではない。ごく当然のこととしてそうしているが、ちょっと考えるとこのことはそれほど自明なことではない。

 実際、我々が時間の流れというようなことを考えるとき、未来がやってきて過去として貯えられていく、というように思う。時間の流れを川の流れのようなものだとしよう。そのとき、未来としてイメージされるのは水が流れてくる方向、上流であって、背後に流れ去っていくのが過去となる。だが、このイメージに基づけば、時間は後方に向けて流れていることになるわけである。

 いや、流れだけを考えるとすれば、方向も消え去ってしまうだろう。川が上流から下流に流れていくことがわかるのは、水泡が流れ、必ずしも透明ではない水流の方向が見て取れるからで、言い換えれば、流れそのものではない流れに付帯するあれこれのものによって我々は方向を知る。いっさいそうしたもののない状況では時間の方向さえ考えることができない。

 では、我々はなぜ時の流れに方向があると感じるのか。それは、我々が川の流れで知覚する水泡や水流にあたるもの、我々に関わる出来事があるからである。それでは、なぜ、過去を想起するときには前方に向けて思い返し、にもかかわらず時間は未来から過去へ、後方に向けて流れているように思われるのだろうか。

 ブラッドリーの解答は、言われてみると拍子抜けがするほどあっけないものである。つまり、時の流れに流されながらも流れにのみ込まれて運び去られはしない自己があるためだということである。流れにのみ込まれてしまえば、出来事はあるが出来事の推移はなくなり、流れがあってもなくても同じことになってしまうだろう。我々は流されているから時と共に進み、新たな経験に出会う。前方に向けて想起するのは、出来事が我々の進む方向と同じ方向に向けて推移するため、我々が流されていくことをもとに出来事が推移する方向を理解しているためである。時間が後ろ向きに流れているように思われるのは、少なくとも出来事と同じ速さで変化することはない自己があって、その自己が出来事が通り過ぎていくのだと感じるためである、ということになる。

 確かに、こう考えれば問題は一応解決されている。しかしながら、すべてが流れと出来事と自己との相対的な関係に基づいていて、確固とした根拠の上に立つものではないことに気づくとき、何とも曖昧な気分に誘われる。そして、この問題が扱われている短いエッセイを読み返して、何気なく書かれた冒頭に近い一節を読むと、曖昧な気分は更に方向を見失っていくように思われる。即ち、

    私自身について言えば、そうした一般的な傾向があるという事実はもちろん受け入れるが、例外がないと確信しているわけではない。私は後方に向けて想起することが不可能であるとは信じていないし、時には現実に起きているのではないかと疑ってさえいる。

2013年9月2日月曜日

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』とその運命 1










 『運命論者ジャックとその主人』は、一七七八年から一七八〇年にかけて『文学通信』に連載された。実際に書かれたのはそれよりも前で、はっきりした日付はわからないが、一七七三年、ディドロが六十歳の頃、ロシアにエカテリーナ二世を表敬訪問していたときに完成したというのが通説になっている。だが、ディドロの生前、この小説が刊行されることはなかった。『運命論者ジャックとその主人』ばかりでなく、ディドロが書いた小説の他の代表的な作品、『修道女』、『ラモーの甥』も生前には刊行されていない。

 現在でも小説家ディドロに対する冷遇は変わっていないと言えるかもしれない。『百科全書』編集者としてのディドロ、『盲人書簡』や『ダランベールの夢』の哲学者としてのディドロはともかく、『俳優に関する逆説』の演劇理論家としてのディドロ、展覧界評などにみられる美術批評家のディドロと比較しても、小説家としてのディドロが多く語られているようではない。そして、それらのディドロの小説のなかでも『運命論者ジャックとその主人』は「構成がない」あるいは「散漫」だということで低い評価に甘んじていた。このことは、ディドロが『運命論者ジャックとその主人』を書くにあたって大きな影響を受けたローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』が正統な文学史からは鬼っ子めいた扱いを受けてきたことと即応している。とはいえ、『トリストラム・シャンディ』のほうは二十世紀後半以降、実験的なメタフィクションが多く産出されるにしたがって、十八世紀と二十世紀をつなぐ重要な作品として文学史的に評価されている。一方、『運命論者ジャックとその主人』はいまだにディドロの全著作からも、文学史からも傍流の作品として扱われているのである。

 ところで、ディドロにおいてはなによりも小説家ディドロを、その小説においてはなによりも『運命論者ジャックとその主人』をもっとも実りあるものとして称讃している現代作家がミラン・クンデラである。

    劇作家としてのディドロは無視しうる存在であるし、ぎりぎり、この偉大な百科全書派の試論群を知らなくても、哲学史はなんとか把握出来る。しかし、『運命論者ジャック』を無視すれば、小説の歴史は理解不能にして不完全なものになると主張せざるをえない。この小説が、もっぱらディドロの作品の一つとして扱われ、小説の歴史全体のなかで研究されていないのは不運なことだ。この作品の真価は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥールケ』といった著作と比較することによって初めて認識できるものなのだ。
     (一つの変奏曲への序文 『ジャックとその主人』     近藤真理訳)
   
 クンデラにとってディドロの『運命論者ジャックとその主人』は、『トリストラム・シャンディ』とともにいわゆる外部にある「現実」をいかに本当らしく描くかという十九世紀を覆った写実主義的、自然主義的文学、そしてそれこそを正統的な文学だとする通念によって摘みとられた、小説のまったく異なった可能性の一つの方向を示唆するものなのである。つまり、カフカが「夢と現実との融合」を成功することによって小説に夢の呼びかけを取り戻し、ムジールとブロッホが「人間の存在を解明し、小説として最高度の知的綜合たらしめることのできるあらゆる方法」を動員できるようにするために思考の呼びかけを、アラゴンやフエンテスがプルースト的な個人の記憶から時間を解き放し「小説の空間のなかにさまざまの歴史的時間を導入」することによって時間の呼びかけを発見したように、ディドロとスターンは小説における遊びを発見したのである。

     <遊びの呼びかけ>--ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とドニ・ディドロの『運命論者ジャック』は、現在のところ私には、十八世紀のもっとも偉大な二つの小説作品、壮大な遊びとして構想された二つの小説のように思われます。この二つの作品は、空前絶後の、軽妙さの二大頂点です。これ以後の小説は、ほんとうらしさの要請やら、写実主義的背景やら、厳密な年代学やらで自分を縛ってしまいました。この二大傑作に含まれていたさまざまの可能性は捨て去られてしまいましたが、この二つの傑作は、今日、私たちが知っているものとは別の小説の展開(そうです、ヨーロッパの小説のもうひとつの歴史を想像してみることもできるのです)を作り出すことができたのです。
         (『小説の精神』)
   
 クンデラは一九六八年、ソ連軍侵攻後のプラハで、著作が全面的に発禁となり、収入を得る道を失う。そんななかある演出家の勧めがきっかけで『運命論者ジャックとその主人』の脚色、本人の言葉で言えば、ディドロへのオマージュでありディドロをもとにした変奏曲に着手する(本来その演出家がもちかけた企画はドストエフスキーの『白痴』を脚色することだった!)。周知のように、クンデラは自ら未熟、失敗だと思う文章については「作品」として認めず、出版も許さない。『ジャックとその主人』は戯曲としてはクンデラが唯一自分の「作品」として承認したものなのである。




 『運命論者ジャックとその主人』はいくつもの対話から成り立っている。その柱となるのはジャックと主人の対話で、この小説の内容は、ジャックが主人に語り始めた自分の恋の話(「主人 それじゃおまえは恋をしたことがあるんだな?/ジャック 恋をしたことがあるかですって!/主人 それも鉄砲の一発でさ。/ジャック 一発で。/主人 そんな話はかつてしたことがなかったぞ。/ジャック しなかったでしょうな。/主人 なぜだ?/ジャック そりゃ、これより早くでも、これよりあとでもありえなかったからでしょう。/主人 その恋の話を承る時機到来ってわけか?/ジャック 分るもんですか?/主人 いつでも、まったくことのはずみで、始まるんだな・・・・・・。」)が、度重なる逸脱、妨害によって遂に語り終えられることがない、ということにつきる。「ことのはずみで」始まった話らしく、逸脱と妨害もまたいかにもことのはずみであって、話しているうちに別の話に入り込んでしまう、別の人間が割り込んで別の話を始める、話を中断せずにおれない事件が起こる、それに作者の気まぐれ(「読者諸君、ごらんのとおり、いま話は佳境に入っているが、ぼくはジャックを主人から引き離して、彼ら両人をそれぞれ、私の気に向いたいろんな偶発事件にめぐり合うことにして、ジャックの恋物語を諸君に一年でも、二年でも、三年でも待たせることができる。」)まで加わる。

 さまざまな形式の文章も、また、ノンシャランに混在している。三人称の地の文、戯曲風の対話、作者の意見、作者と読者との対話。こうした自由さ、悪く言えば統一感のなさは、「散漫」だなどと批評家に言われるまでもなく、著者自身自覚的であって、作中に登場する読者に「あなたの『ジャック』は、いろんな事実、あるものは本当の、あるものは思いついた事実の無味乾燥な狂想曲で、文章は優雅でなく、事実は何の秩序もなく配列されています」と言わせている。

 だが、こうした特徴、つまり、物語の中に物語が入れ子状に入っていたり、起承転結のしっかりした構成をもっていないというようなことは、そうした特徴において際だっているものの、ディドロがこの小説を書いたフランス十八世紀とは場所も時代も異なるところで生まれた作品と、単純に似ていると比較することはできない。

 例えば、『運命論者ジャックとその主人』では、ジャックの恋の話の間に様々な話が繰り返し挿入されるが、『千夜一夜物語』のようではない。シャーラザードの語る物語の登場人物が物語を語り始め、そこに登場するまた別の人物がまた違う物語を語り始め、更にその登場人物が、という眩暈を引き起こすような重層的な入れ子構造、物語の迷宮に入り込むような感覚はディドロの小説にはない。また、ディドロの小説では「事実は何の秩序もなく配列」されているとはいっても、それは、間歇的に自分の作品に新たなものを書き加え、しかもその完結が少しも完結らしくない川端康成のようではない。かつて三島由紀夫は、川端康成の作品という一見「美麗な錦」には人間的概念にはまったく通じないような「暗黒の穴」が方々に開いていると言った(「川端康成氏再説」)。ディドロは小説の慣習を大胆に打ち壊し、ときには従来の価値の転倒を行なうかもしれないが、それによって人間的価値には無縁な暗黒がのぞくようなことはないのである。

 これら西欧とは異なったところで生み出された作品とディドロの『運命論者ジャックとその主人』が異なるのは、この小説がどれだけ自由な遊びに満ちあふれているにしても、あくまで遊びを宰領している作者の位置が揺るがないところである。

 確かに『千夜一夜物語』のシャーラザードは「千一夜」のすべての物語を語る者ではあるが、その作品内の立場においては、物語ることを止めるやいなや殺されてしまう脆弱な存在である。更に、残忍な王が求めているのはシャーラザードその人ではなく、彼女が語る物語であることからも理解されるように、彼女の一人の人間としての固有性は物語のなかに完全に埋没してしまっている。シャーラザードは、千一夜の物語を終え、王の愛を得ると同時に物語から解放される瞬間までは、王と物語とに二重に拘束された存在にとどまるのである。だが、『運命論者ジャックとその主人』に登場する作者は、他のどんな登場人物によっても、語られる物語によっても傷つけられることはない。作者はすべての登場人物を自由に操る力をもっている(「ジャックをあっちこっちの島に出帆させてもよい。主人をそこへ連れて行ってもいい。両人を同じ船に乗せてフランスに連れ帰ることに、何の差障りがあろう?根も葉もない話を作るのは、なんてやさしいんだ!しかし両人ともありがたがらぬ一夜を過ごしただけで無事に事はすみ、諸君もまたこの一夜だけで無罪放免だ。」)。

 また、同じような理由によって、ジャックが抱懐する運命論を裏切るように、前後の脈絡のはっきりしない不意の出来事が主従二人を見舞うのだが、その出来事の繋ぎ目からのぞくのは人間の価値や概念の届かない暗黒の穴であるよりは、ある人間の軽やかな精神の戯れなのである。ここには同じ十八世紀の作家であるサドのような、世界をすべて説明しつくしてしまおうとする理性の凶暴なまでの行使はないが、遊びに特有の、規則(たとえそれが自分でつくったものであるにしても)とその遵守に必要な理性の監視が常に働いているのである。