2018年10月2日火曜日

はてなブログへ引っ越しました

諸事情ありまして、はてなブログに引っ越しました。

ブログ名はこれまでと変わらず「電気石板ノート」です。

部分的にはこのブログの記事も引っ越しましたが、割と最近のものに限られています。

このブログはそのままにしておきますが、さてどうなるものですやら。

おつきあいしてくださる方がいらっしゃるなら、はてなブログにご来訪ください。

これからもよろしくお願いします。

齋藤礎英

2018年8月24日金曜日

北野の神


・ある人北野にこもって本地の仏を祈ると
  かくらく(隠れていること)の泊瀬(はつせ)の寺の仏こそ北野の神とあらはれにけれ

2018年8月23日木曜日

打飯

・僧が米を持ち寄って食するのを打飯というのはなぜか。だとは出し合わせることから来る。八人の炉が話をだす(打)ことと火の字の分解(八人と読む)からである。

薄倖の女だてらの片小袖諸肌脱ぐと蛸の彫りもの



翻訳は私自身によるものなので、異なっているかもしれない。


 このよく知られた一節で、文学形式の諸効果と前快感が同一視されていることは、多分、一見思われるほどつまらないことではない。もしlustやUnlustが文学的結構の分析において我々をさほど遠くまで導いてくれないにしても、Vorlust前快感は快感における彩りであり、より有望なように思われる。前快感とは、実際、奇妙な概念であり、目標あるいは終結に向けて進んだり後退したりする修辞や、目的のために利用されもすれば自律的で逸脱や循環的な運動が可能でもある遊びの形式的領域(私は前快感はどうも前戯を含意するのではと思っている)を示唆する。前快感の構成部分を取り出し始めると我々が見いだすのはエロティックの全形式であり、多分それは文学を人間のある働きとして理解するための助けとして形式化を行うのに最も必要なものであるだろう。
ヘミングウェイの『日はまた昇る』の冒頭で、語り手とその友人たちが夜のパリを経巡るが、街と店と仕事場と住居のあいだに垣根が全くないことに心地よさと猛烈なノスタルジーを感じてしまった。きっと、かつては隅田川の周辺にもこんな街があったに違いない。

2018年8月22日水曜日

三池崇史『神様の言うとおり』/ベルイマン『この女たちのすべてを語らないために』/ナ・ホンジン『哭声ーコクソンー』








 『CUBE』や『SAW』以来だろうが、登場人物が気づかぬうちにこの世界とまったく別のルールが支配する別の世界に投げ込まれる、シチュエーション・ホラーというか、サスペンスはすっかり濫用が続き、もはやそのことによって作品の仕掛けとして目立つものではなく、創作物の背景としてあるに過ぎないので、それ自体で評価の基準になることはなくなってしまったが、まあ、私自身の趣味としてはそういう仕掛けは好きな方だし、最近でいうと、アニメの『血界戦線』や『刻刻』(たぶん最近というには遅れていそうだが)などは面白かったし、映画でいえば、三池崇史の『神様の言うとおり』(2014年)などは、各種レビューでは惨憺たる評価なのだが、普通の高校生が、ダルマ(置物によくあるダルマである)とだるまさんが転んだをする、体育館で巨大な招き猫(置物によくある招き猫である)の首に鈴を付ける、巨大な熊(これまた置物によくある)を相手に嘘をつかないことを命じられ、こけしたちと後ろの正面誰だ、をすることを強いられて、脱落した者たちが次々に死んでいく、といったばかばかしい設定なのだが、私はばかばかしいことが悪いと思ったことがないので、やや大げさなことをいえば、この世界であってもかく存在する根拠などありはしない。

 原作のことはまったく知らないので、最後に浮浪者のリリー・フランキーが神としてあらわれ、引きこもりでネットに浸りきっている大森南朋がドスを懐に世界を救う、と母親に言い捨てて出て行くのは続編があるのか、不評で立ち消えになったのか、ウィキペディアによれば、未完である第一部の途中までを映画化したものらしいから、唐突な始まりと平仄を合わせた唐突な終わりとしてみた方が、味わいがある。

 むしろ、ばかばかしさからの転落があるとすれば、それを説明しようとする愚鈍さにあるが、そうしたマイナスの評価も、一歩一歩執拗な関連づけを行い、数学的な世界や物理学的な世界があるように、ひとつの世界を制作するまでになると逆転することになるから、一概にそれ自体でどうこういえるものではないが、そもそもばかばかしさに足を踏み入れることができるのも特異な才能であり、日本映画でいえば、鈴木清純、北野武、園子温などの系譜に三池崇史も加えられるだろう。

 出鱈目ということで言えば、ここ最近、連続してイングマール・ベルイマンの映画を見ているが、未見であった『この女たちのすべてを語らないために』(1964年)(邦題も素晴らしい)の出鱈目さ加減も相当なもので、『夏の夜は三たび微笑む』(1955年)は男女の組み合わせが奇妙にねじれた結果、最終的に収まるべきところに収まるというシェイクスピア風の喜劇であったが、こちらは(ちなみにこの映画はベルイマン初のカラー映画なのだが)往年のハリウッドのスクリューコメディーの流れをくむもので、巨匠であるチェリストの葬儀がから始まり、四日前にさかのぼることから、『イヴの総て』のように巨匠の実像と虚像が交錯して描かれるのかと思えばさにあらず、なかば進行役として音楽批評家が伝記を書く目的で、屋敷に乗り込むのだが、屋敷では巨匠が正妻、愛人を含めた七人の女性たちとともに生活しており、拳銃をところ構わずぶっ放す女もいれば、同じ屋敷内で批評家とベットをともにする貞操観念のおかしな女もいる。

 批評家が忍び込んだ部屋で、煙草の火の不始末から無数の花火が屋敷全体を包み込むように華々しくあがり、字幕の画面が挿入され、この場面は特になにかを意味しているわけではない、と注釈まではいる。

 この映画の前作である『沈黙』あたりから、衣装、美術、風俗などについてベルイマンとフェリーニとの類似が目立って感じられるようになったが、この映画のように女性がわらわらと出てくるとなおさらフェリーニとの近さを思わずにはおれないのだが、同じく「女性映画」と呼ばれることはあっても、両者が決定的に異なるのは、フェリーニの映画が男性に対する「女の都」であるのに対し(それにはマルチェロ・マストロヤンニという監督が全幅の信頼を寄せられる名優の存在も大きい)、ベルイマンの場合、男性が存在しなくとも成立することにある。

 実際、この映画においても、巨匠は批評家がどんなに会おうとしても姿を見せず、最後の屋敷からのラジオ放送の場面になってようやく姿を見せるが、大きなマイクに隠れて顔は見えることなく、演奏の前に死んでしまう。フェリーニの女性が祝祭をもたらすとすれば、ベルイマンの女性は男性にとっては自身の存在が失われる喪の儀式が招き寄せられるといえるかもしれない。

 儀式といえば、ナ・ホンジンの『哭声ーコクソンー』(2016年)も妙な映画で、儀式による霊能力合戦のようなものが、思ってもいない地点に着地する。ある田舎町のはずれによそ者である日本人(国村隼)が住み着いたことから、奇怪な事件が起き始める。次々に死者が出るが、身内の犯罪のようでもあり、他人がかかわっているようにも思える。あるいは伝染病かとも思われ、だとすると、ロメロの『クレージーズ』のような、あるいはこれまでにも何回も試みられてきたような形を変えたゾンビものだとも思える。ところが、主人公である警官のクァク・ドウォンの娘の様子がおかしくなり、キリスト教の牧師はなんの役にも立たず、土俗的な祈祷師に祈祷を頼むこととなり、さらに第一の原因であるかに思えた日本人もまた悪霊的なものを追ってきた霊能力者らしいとなると、冒頭に、イエスの復活したあと、その姿が弟子たちに疑念を引き起こすという『ルカによる福音書』が引用されているのが意味深く感じられるのだが、だからといって一筋縄でいかないのは、そのことによってどう振る舞うべきか、あるいはべきだったかなんら直接的な示唆を与えてくれるわけでもなく、なにを信じるべきかすべてが宙づりのままに残されるからで、確実なのは娘を思いやる父親の愛情だけなのだが、周知のように、信仰は肉親の情愛を断ち切ることから始まる。

水棲の累卵満ちる沢野辺に寄せては返す夜々の思念を




 『想起、反復、徹底操作』および『快感原則の彼岸』の議論を例証として、我々は、反復が想起の一種であり、そのつながりが不明瞭で失われている物語を再組織化する一つの方法であることを見る。もし反復が死の欲動、正しい終結を見出すことについて語るのならば、反復において演じられるのは、必然的に終わりに向かう欲動のベクトルだということになる。すなわち、一度正しいプロットを決定すれば、プロットは終結するのである。プロットそのものが徹底操作である。

小学校の6年間ピアノを習っていたのに、練習などいっこうにする気配もなく、バイエルさえ終えることができなかったし、一日四分音符分だけでも進めていけば、いつかは習得することができるはずだとベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜を買ってみたものの、思い立ったことすらすぐに忘れて、音楽の才能などないことはわかりきっているものの、音楽も厳密に言えば、音だけで成り立っているわけではなく、題もあれば、それによって引き起こされる情感もあるわけで、『南米のエリザベス・テイラー』まではまだ余裕をもって、ほおほおと傾聴していたのだが、こと「京マチ子の夜」にいたって、悔しくて悔しくて歯ぎしりしてしまった。なぜなら、当然自分が書いていても、というか、書くべきである表現のはずだから。



田楽


・豆腐を串に刺してあぶるのを田楽という。田楽は、下には白袴、その上に色あるものをうちかけ、サギ足で踊る姿(サギは一本足で立つことから)が特徴だが、豆腐の白に味噌を塗り立てるのは、その舞姿に似ているために田楽というか。夢庵(牡丹花宵柏)の歌に
  たか足を踏みそこなへる面目をはひにまぶせる冬の田楽

2018年8月21日火曜日

鵜と烏


・鵜のまねをするカラスが大水を飲むのはなぜか。
  水にいる道をばしらで山がらす鵜のまね学ぶ波の上かな

2018年8月19日日曜日

ナミとヨーコが三面鏡でマチコ巻き緋のスカーフに渦巻き模様




 始まりと終わりはトドロフの「叙述的変換」の好例であり、そこでは始まりと終わりが「同一であるが異なっている」という--それ自体隠喩的な--関係にある。しかしながらトドロフは変換の力動的な過程についてはほとんど言及していない。二つの相関する軸の間にあるのは、第二のより十分に意味づけられた隠喩を確立するために、第一の換喩としての隠喩の実現化--同時にかく得られた結果の仮定的、心理的実現化--をすることである。我々は非活動的で、「衰弱した」隠喩から出発し、換喩的な過程を通じて復元された差異によって隠喩を再活性化し、実行力のあるものにする。

舞台演出家のピーター・ブルックと文芸批評家のピーター・ブルックスをある時期混同していて、すっかりもとの面影はない神保町の北沢書店でどちらを買おうとしたのかかならずしもはっきりとしないのは、ピーター・ブルックが『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』という長い題の芝居の演出で有名であり、ついでにいえば、確かピーター・ブルックが『マハーバーラタ』を演出することが話題になっていたのもこの頃のことで、横浜ボードシアターの『マハーバーラタ』の上演などもあり、連携を感じたのだが、ボートシアターの方は船上での公演ということで、船酔いしそうで見送ってしまい、『マラー/サド』はずいぶんたってから見たが、期待したぶんさほど面白くなく、そのとき北沢書店でどちらを買おうとしたのかは思い出せない。

しっぽりとぬれる

・しっぽり(七歩)とぬれるとは何を意味するのか。釈迦誕生のとき、阿難陀龍王は湯を吐き、難陀龍王は水を吐いたので、この産湯にぬれながら、七歩歩いたことから来ている。浄土宗の無量寿経に、「従右脇生、現行七歩」とある。しとと濡れるのも七歩である。

2018年8月17日金曜日

シラクサのアルキメデスの荒磯を回り道する彼岸過ぎまで





 我々が『快感原則の彼岸』の読みから引き出すのは、中間物を迂回、遅れを課する強迫のもとに終結を目指す苦闘、テクストの引き伸ばされた空間におけるアラベスク模様として必然化するように始まり(エロス、緊張に至る興奮、叙述の欲望)に対して終わり(死、静止、叙述不可能性)を構造化する力動的なモデルである。このモデルは、我々が死ぬために生きているのだということ、それ故、プロットの意図は、終結が迂回を通じてのみ完遂されなければならないにしても終結を目指す方向づけに存することを示唆する。このことは、始まりと終わりとを結びつけながら、一方を他方に折り込むことを防ぐ欲動の働きを通じて、始まりと終わりとの間の必然的な距離を再確立し、維持する。この方向において、換喩と隠喩は互に助け合い、トドロフが叙述的変換を構成する際の「同一であるが異なっている」という要素に必然的な時間性を与える。この戯れの空間で決定的なのは、その最終的な緊張の解放をより効果的にするためのテクストのエネルギーを束ねる助けをする反復である。虚構のプロットにおいて、これらの拘束の働きは起源への回帰であり、抑圧されたものの回帰である反復のシステムであり、終わりに向かう運動と起源へ帰る運動とを複合し、前方へ進む時間のなかで意味を転倒させ、テクストのエネルギーのシステムの形成を助け、「人生」から「意味」を獲得する喜びに満ちた可能性(或は幻影)を与える。
ブルックスはフロイトの影響を受けた人だが、うーん、これはどうでしょう。死の欲動は物語に奉仕しない、物語を解体する力動的なモデルであるから、謎めいており、薄気味悪いと思えるのだが。
 もっとも手元に本がないので、無責任なことはいえないが。

うどんくらい(穀潰し)

・仕事が下手なものをうどんくらいというのは、異様にうどんの好きなものがあり、さすがに買ってまで食いたくもないので、さほど利口そうでもない坊主に向かい、そなた私の髪を剃ってくれぬか、頭を切ってしまったらうどんを食べさせてもらおう、なにごともなく剃られたら私が振る舞おうと言い合わせて、そりあがる手前でちょっと立ち、少々切られてやろうとしたらば、耳を一つ落とされてしまった。腹を立てることもなく喜んでうどんを食って済ませたのは、珍しいまでのたわけ者だった。

2018年8月16日木曜日

紅の死が褪せるまで劇化するまちこ巻きしたナミを引き連れ




 有機体は正当な仕方で死ぬために、正しい死を死ぬために生きなければならない。終わりに到達するためにはプロットのアラベスクを経なければならない。隠喩に到達するためには換喩をもたなければならない。
物語を全うしなければ正しい死を迎えられないと言ってしまうと、荷が重い。しかし、物語が最も豊かに語られたのが、小説においてであり、つまりは、十九世紀のヨーロッパということになれば、地理的、時代的に限定されたものとなり、この汎物語化とでもいう説は、物語が相当普遍的な現象であるにしても、疑わしくなる。

ヘチマの皮

・へちまの皮とも思わない(なんの役にも立たない、少しも意に介さない)は、紀の国(いまの和歌山県)の山のなかに、「大へち子へち」といって、峰が高く険しいつづら折りの伝い道があって、人馬の往来もたやすくない要害だった。このあたりで使われる馬は糠や藁どころか、大豆ほどの役にも立たず、実に骨ばかりだった。そこでこの辺の馬は皮を剥いでも、傷がつくばかりでなんの役にも立たないから、「へち馬の皮とも思わぬ」といった。

2018年8月15日水曜日

物語の始まりと終わり




 始まりと終わりはトドロフの「叙述的変換」の好例であり、そこでは始まりと終わりが「同一であるが異なっている」という--それ自体隠喩的な--関係にある。しかしながらトドロフは変換の力動的な過程についてはほとんど言及していない。二つの相関する軸の間にあるのは、第二のより十分に意味づけられた隠喩を確立するために、第一の換喩としての隠喩の実現化--同時にかく得られた結果の仮定的、心理的実現化--をすることである。我々は非活動的で、「衰弱した」隠喩から出発し、換喩的な過程を通じて復元された差異によって隠喩を再活性化し、実行力のあるものにする。
どんな状況であれ、なんらかの隠喩、別の言葉で言えば、なんらかの始まりである。物語とはそうした状況の活性化であり、終わりもまた同じような状況に過ぎないのだが、物語によって意味が充填されている。


2018年8月11日土曜日

鶯も声はるの日の長しゆすにほうほけ経をくり返し鳴く 紀定丸


前書き「鶯」

「声を張る」と「春の日」をかけ、「しゆす」は「修す」で仏道を修め習うことか。

麻と節

・朝、謡はうたわないこと、また、朝うたうのは貧乏の相とも言い伝えられている。みな誤りである。本当は麻をまくとき、謡をうたわないことと戒められている。なぜなら麻は節(ふし)を嫌うので。

2018年8月10日金曜日

けふはまた引手あまたの姫小松たれとねの日の春ののべ紙 あけら菅江

「姫小松」は、「子の日の松」で子の日の遊びに引く松。「子の日」は寝の日であり、「のべ紙」はちょっと高級な懐紙であるが、野辺にもかかっていて、エロチックな意味合いが見える。

こぶとりじいさん

・鬼にこぶをとられること。目の上に大きなこぶをもった禅坊主がいた。修行に出たが、ある山中に迷い込んで宿もない。古い辻堂に泊まった。夜もすでに二時くらいになっていた。多くの人が来る物音がして、かの堂に集まって酒宴をする。坊主は恐ろしく思いながらも、仕方がないので、浮かぬ顔で、円いしとねで尻を押さえながら踊った。明け方になり、天狗たちが帰ろうとするときいう、おまえは陽気でよいのみ相手になる、また必ずやってこい、口約束ばかりでは偽りになるといけない、質をとっておく方がいいだろう、と目の上のこぶをとっていった。坊主は宝を得たような心地がし、故郷に帰った。彼を見る人は感じ入り、親類たちはひたすら喜んだ。

2018年8月9日木曜日

子の日する野辺に小松の大臣は今も賢者のためしにぞ引く 四方赤良


前書き「子日」

正月はじめの子の日には、野に出て小松をや若葉を引いて千代を願う。「小松の大臣」は、平清盛の息子、平重盛のこと。

焼き米


・連歌師里村昌叱のところへ焼き米を三袋送ると、
   いち早きこめらうどものなす業(わざ)を奥歯に入れてかみふくろかな
また俳諧に
      まはる度にぞ米を見せける
   さしてなきとがする臼に縄つけて

2018年8月7日火曜日

はげ山もかすみそめぬる春の日にきんかあたまは猶そかゞやく 布留田造


歌合の中に霞

歌合わせで霞が出たが、春の山も覆う霞にも「きんかあたま」=金柑頭、金柑のように赤くはげ上がった頭は輝いている。

法性寺

・山城国(いまの京都)伏見の近くに法性寺というところがあった。どうしてこのあたりは寺の名で呼ばれるのか。老いた男に出会い、彼が言うには、むかしここには庄屋があった。焼き米がだい好きで、一日中かんでいたので、一日の終わりには噛みくたびれ、ほおに含んだまま寝ていた。ねずみがにおいを頼りに食い破り、大きな穴が開いた。その朝使用人たちが集まってくるなかに、傷などを扱うのに長けた男がいた。風邪をひいたら悪いだろうと、まずは障子をつくって傷の口に立てたので、ほうしょうじという。

2018年8月6日月曜日

神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態ーーロラン・バルトを中心に






 『彼自身によるロラン・バルト』のなかで、バルトはそれまでの自分の著作を四つの時期に分けている。

 社会的神話研究、記号学、テクスト性、道徳性とそれらはジャンル分けされ、社会的神話研究に結びつく名前としてあげられているのが、サルトル、マルクスと並んでブレヒトである。

 この時期、というのはつまり、1950年代、著作で言えば、『零度のエクリチュール』から『神話作用』が完成されている時期に、バルトは演劇にも深く関与しており、「テアトル・ポピュレール」誌を中心に七十篇ほどの劇評を書いている。当然、そこにはブレヒト演劇に対する熱烈な讃辞もあるのだが、後に当時のことを振り返って書いた文章「演劇についての証言」(野村正人訳『ロラン・バルト著作集6』 死後刊行された『演劇論集』の巻頭に収録された)では、まさしくこのブレヒトへの熱狂こそ、自分が演劇から遠ざける結果をもたらしたのだと述べている。

 ブレヒトの演劇をするには実はお金がかかるとバルトは言う。とうのは、ブレヒトが舞台に持ちこんでいるのは、単なる思想やそれを伝えるだけのテクニックではなく、文化そのものだからである。いわゆる、政治的な、社会リアリズム的な演劇は、ブルジョア的美学を捨て去ると称しながら、実は具体的な文化のない通俗的な形式をなぞっているだけではないか、そのときブレヒトがもたらす「気品=区別」とは「芝居がそのせいで光り輝くと同時に緊張感を持つような、明快で簡潔な『コード』である。」

 つまり、異化効果というのは、決してなにかを排除することではなく、弛緩した空気に緊張感をもたらすような線を引き直すためのコードなのだ。かくして、こうした自分が夢想に思い描いていたような演劇を前にしてしまうと、他の芝居が不完全なものに思われ、結果として演劇から遠ざかることになってしまった、とバルトは書いている。

 バルトがブレヒトに惹かれたもう一つの理由は、ブレヒトが思想だか主義のために快楽をないがしろにしないことにあっただろう。バルトは金さえあればハバナ葉巻を買い、ブレヒトも吸っていたからと正当化していたという。また、非常な大食漢で、社会学者エドガール・モランの妻で、バルトとは最も長いつきあいの友人の一人である、ヴィオレット・モランは彼の食べ方を「食卓では、彼は舌を出すトカゲのようでした。ある日、面識のない十人足らずの人に囲まれて、夕食をとっていたときなど、フォークで料理を自分の皿に取り、トカゲのように素早く、二度、三度、突き刺していました・・・・・・」(L,-J.カルヴェ『ロラン・バルト伝』花輪光訳)と語っている。




 ブレヒトは、バルトにいくつもの層において刺激を与えた唯一の人物であると言える。ジッドやプルーストはバルトが文学をめぐる観念を形成するのに大きな寄与をしたし、ソシュールの記号学も、デリダやラカンのテクスト性も理論上の影響をあたえたが、そうした理論を(しばしば浅薄だという非難を浴びながら)意味の線を引き直すための道具として使っては捨てていく身振りというのは、むしろ「理論」に奉じようとはしないブレヒトの「反ヒステリー的」な所作に近しいだろう。主義や理論を越えて、バルトとブレヒトには批評的身振り、生存の様態として近しいものがあり、バルトにとってブレヒトは演劇に限られることのない倣うべき先達だったのだ。

 ブレヒトがある種演劇の範型を提示してしまったがゆえに、ブレヒト以後滅多な芝居に満足できなくなり、1965年の「演劇についての証言」では、「いまではほとんど劇場に行かない」と書いているが、バルトは別にブレヒトとともに演劇にのめり込んだわけではなかった。実際、この小文の冒頭には「ずっとわたしは演劇が大好きだった」と書かれている。

 学生時代のバルトの成績は優秀であり、友人たちとともにフランスの最高学府高等師範学校に進むつもりでいた。しかし、1934年に結核が発病、それから約十年、つまり二十代のほぼ全体をサナトリウムと小康を得てパリに帰ることの繰り返しに過ごすことになってしまった。高等師範学校への進学もあきらめざるを得なかった。35年にいったんパリに戻り、古典文学士号を取るためにソルボンヌに登録し、そこでソルボンヌ古代演劇グループを創設する。彼らはアイスキュロスの『ペルシアの人々』を公演し、38年にはグループの仲間とともにギリシャに行く。しかし、41年には結核が再発し、42年から足かけ5年の間再びサナトリウムでの生活が始まるのである。

 サン=ティレールの学生サナトリウムであったから、文化的な活動は奨励されており、劇団もあったし、学生クラブの機関誌にして季刊誌である「エグジスタンス」もあって、この雑誌にはバルトも寄稿していた。アンドレ・ジッドについて、カミュの『異邦人』について、また古代演劇クラブとギリシャに行ったときの紀行などが発表された。

 さて、実はここまで書いてきたのは、その紀行文「ギリシャにて」の一節がはじめて読んで以来頭から離れなくなってしまったからである。この文章は断章形式になっており、『テクストの快楽』以後のバルトがもうそこにいることを示してもいる。私が忘れられなくなったのは「アクラコリア」と表題のついた一節の後半部分なのだが、どのみち短いし、前半部も面白いものだから一緒に引用しよう。




 レストラン〈アレキサンドロス大王〉では、古代ギリシャの伝統がいまでも生き続けているように思われる。アクロコリアつまり臓物料理を食べること。動物の内部でわなわな震え、赤く染まり(ついで緑色になる)すべてのもの。古代ギリシャ人は、複雑で退廃的なこの肉をおおいに好んだ。彼らはロースと肉を好まず、脳髄、肝臓、胎児、胸腺、乳房等、そういった柔らかく持ちのわるい肉を好んだが、それらの肉は腐りかけたとき食欲をそそってやまなかった。反対に、ワインについては精妙な慎みがあった。一般的に、大量の水で割ったワインしか飲まなかった(ワインはたったの八分の一まで)。酔うにはそれで充分すぎるほどだった。生のワインを飲むのは、徹底的に飲んで酔っぱらうと固く決意したときだけだった。巧妙な節制の証であるが、それは美徳によって培われたものではなく、陶酔、恍惚、情念を解き放ち、より軽やかに飛翔させるためだった。ほんのわずかにワインで得られる陶酔は、大量に飲んで得られる陶酔とはまったく質を異にする。あまり金をかけないで酔うことは、ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった。オリエントの人々――ギリシャ人に近いところではどこでも――は同じ禁欲を実践していた。それについては、ペルシャの詩人の詩が残されている。       (『ロラン・バルト著作集1』渡辺諒訳)

 「複雑で退廃的な」「柔らかく持ちのわるい肉」が、ローマ人のなかで好まれていたことはどこかで読んだおぼえはあるが、古代ギリシャ人にも好まれていたのだろうか。カルヴェの『ロラン・バルト伝』によれば、バルト自身は内臓よりは子牛のクリーム煮やソース類や生クリームなど、総じて「《なめらかなもの》」を好み、内臓を好む友人に向かって「君はギリシャの闘技者と同じようなものを食べるね」と言っていたという。しかし、いずれにしろ、こうした細かな食の好みについて言及するのはいかにもバルトらしい。

 たとえば、三島由紀夫の『アポロの杯』は、かねてからの「眷恋の地」におりたった酩酊感のなかで、美について思いめぐらすばかりで、なにを食べたかなどは一切触れられていない。ヘンリー・ミラーのギリシャ紀行『マルーシの巨像』は、たしかに頻繁に食べる記述はあるのだが、なにを食べたかや味の詮索などはなく、ミラーほど良くも悪くも排気量の極端に大きい人物にとって、食事など所詮エネルギーを取り入れるだけのものであり、そんな細かな個人的快楽は快楽のなかに入らず、友人との形而上学や小説や詩からセックスにいたる尽きることのない会話や、汎神論的に広がる性感覚、世界との一体感にいたってはじめて快楽の名に値するものとなるらしい。

 それはともかく、わたしを真に驚嘆させたのは、後半、大量の水で割ったワインが生のワインと「まったく質を異にする」陶酔をもたらし、それが「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く」という部分だった。

 たまたま岡本かの子の『生々流転』を読んでいると、商家の若旦那とそこの番頭が昼間から酒を飲む場面がでてくる。この番頭は親身あり情味ある女房をもらってしばらくは有頂天だったが、しばらくするとそのまとわりつく感じがいやになり三人子供もあったのに別れてしまったような男だが、若旦那との間に相当の応酬を重ねたのち、あるときがくるとぴたりと盃を伏せ、どんなに勧めてもそれ以上のもうとしなかった。若旦那の方は飲みだすとやめられないたちで、番頭の了見がわからないものだから、酒をどんなつもりで飲むんだとなじるように尋ねる。




 「判つてゐるぢやございませんか。酔ふためには違ひございませんが、ときには気附け薬になつたり、ときには滋養になつたり、だから飲むに時と処は選みませんが、よいだけ酔つて、これ以上、むだだと思つたらさつさと切上げます。あなたのお言葉ぢやござんせんが、以下は省いてしまひますな。そこは永年の修練です」

と番頭は答える。若旦那同様わたしも「君はまだ滅びない人種の酒呑みだよ」と感嘆するに否はないが、結局それは「むだだと思つたらさつさと切上げ」られ、そうした「修練」を積むにいたった番頭の人間性に対するある種の感嘆であって、大量の水で割ったワインが厳然たる文化であるのとはまるっきり話が違っている。

 古代ギリシャにワインを水で割る習慣があったことは確かで、アリストテレスは若者に刺激のより少ない水割りのワインを勧めている。しかし、それが生のワインとは質を異にする「特異な状態」をもたらすという確固たる認識が果たしてあったのだろうか。


 プラトンの『饗宴』は、題名からいかにも酒を呑みながらの歓談と考えてしまうのだが、実はそうではない。饗宴には手順が定められており、ご馳走を食べ終わると神に葡萄酒を捧げる灌奠などの儀式があり、神への讃歌が歌われ、それから酒ということになる。

 ところが、『饗宴』では、それらが一通りすんで酒というところで、出席者の一人であるパウサニアスが「さて、それでは諸君、どういう飲み方をすれば、いちばん楽な飲み方ができるだろうか。実際ぼくとしては、諸君にぶちまけたところ、きのう飲んだ酒でひどく気分が悪く、何か息抜きになるものが欲しいところだ。それに、大部分の諸君だって同様だろうと思う。なにぶん昨日も出席していた君らのことだからね。」(鈴木照雄訳)と提案すると、他の参加者も二日酔いであることを告白し、「まあ気の向くまま飲みたければ飲むといった調子でやろう」ということで、おそらくは酒なしで、エロースに関する考えが順に述べられていくのである。

 プラトンの『饗宴』は、参加者がみな昨日の酒が残った二日酔いの状態であることを告白することにはじまり、恋の神であるエロースについて参加者がそれぞれ自身の「言論」を発表することが続く。なかには、有名な、アリストファネスの説、人間は本来二体が合わさった球形であったが(男女、男男、女女の三種類)、驕慢で神に逆らったためにゼウスによって二つに切断され、それ以来、人間は失われた半身を求めている、という言論が含まれている。そして、それぞれがエロースについての説を発表したあと、「たいへんな酔っばらい」であるアルキビアデスが乱入し、ソクラテスを賞讃することで『饗宴』は終わる。つまり、二日酔いからはじまり、酔っぱらいの闖入で終わるわけで、ほどよい酩酊とは無縁なのである。


 同じくプラトンの『法律』では、酒は若者の弱点をあらわにするので、彼らに注意を与えるに際し有効なテスト法である。だが、いずれにしろある言い伝え、「ディオニュソスは、継母ヘラによって魂の判断力を奪われ、そのためにその復讐をしようとして、バッコスの狂乱やありとあらゆる狂気の踊りをもたらしたのであり、酒もまた、その同じ目的のために贈られたものだ」(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)によれば酒とは狂気への道であるから、軍役に服している者はいついかなるときにも酒ではなく水を飲んで過ごさねばならない、国内にいる奴隷は、男も女も酒を飲んではならない。

 船長も裁判官も職務を遂行しているときには飲んではならない。重要な評議会に審議のために出席する者も飲んではならない。いかなる者も、身体の訓練や病気のためでなければ、昼間は決して飲んではならない。夜であっても、子供をもうけるつもりのあるときは飲んではならない、それ以外にも「正気を保ち正しい法律に従う人なら、酒を飲んでならない場合は、たくさんあげられるでしょう。」と述べ、更に「こうした原理に従えば、どんな国家も多くの葡萄園を必要とはしないでしょう。また、他の農産物やすべて日々の食料品が統制を受けますが、なかんずく酒は、あらゆるもののなかで、おそらく最も適量に、最も少なく生産されるでしょう。」といかに酒の力を封じ込めるかに力点が置かれている。

こうしてプラトンは国家全体にそれぞれの職務、階級に則った節制の徳を与えようとしているのだが、こうした節制は単に欲望に対して否定的なものなのではなく、フーコーが言うように、快楽のひとつの術ともなり得る。というのも、節制の反対である不節制は、欲求を過度に貪ることであり、欲望にいかにも忠実であるように見えて、実は、行き過ぎている。


たとえば、飢えや渇きが過度に満足させられれば、その欲望は死に、食べたり飲んだりすることの快楽の感覚は押し殺されるだろう(楽しく食べ続け、飲み続けていたことが、いつかある閾を越え、苦行に近しいものとなることは誰にでも経験があろう)。つまり、節制というのは、満足を常に控えめに抑えておくことによって、快楽を受ける余地を残しておけるよう身の備えをすることだ、ということになる。ソクラテスからプラトンへといたる快楽の教えはまさしくそのようなものだったのだろう。

節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を《活用する》ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうるのだ。ソクラテスによれば、「ただ節制のみが、上述の欲求をわれわれをしてがまんせしめ、ただそれのみが記憶にとどめるに足る快楽を楽しませる」。しかもまさしくこのような仕方でソクラテス自身も、クセノフォンの言葉を信じると、日常生活で快楽を活用している。すなわち、「ソクラテスは食事の量を食事が楽しみである程度にとどめ、そのために、食卓に向かうと、いつでも食欲が調味料のかわりをしていた。酒は咽喉がかわかなければ飲まないから、どんな酒でもおいしかった」。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 田村俶訳)

 しかし、これもまたバルトのいう「甘美なまでに特異な状態」からは遠いだろう。いつでもおいしくものを食べ酒を飲めるように、腹具合や喉の状態を少々空腹や渇きをおぼえる程度に保っておくというのは、快楽を一元化することでもある。

 つまり、バルトの場合には、生のワインを徹底的に飲んで酔っぱらうという陶酔と、それとは質の異なる水割りのワインによる「より軽やかな」陶酔があったわけだが、このソクラテス=プラトン的な節制では、適度な空腹や渇きを癒す際の快楽だけしかないのである。

プラトンから離れ、ギリシャの詩を見てみても、たっぷり飲み明かそうと訴える詩ばかりで、軽やかな特異な陶酔を描いた詩を見いだすことはなかなかできない。前三世紀初頭の詩人、アスクレーピアデースの詩を一編あげておこう。


飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故この涙か、何を思ひ悩むのか。
 つれないキュプリスが捕虜にしたのは、お前ひとりではあるまい。
また、お前のためのみに、意地悪い愛神が弓や矢を
 磨ぎすましたのではあるまい、何故生きながら灰にかう塗れてゐるのか。
飲み明かさうよ、さあバッコスの生の飲料を。夜明には指一ふし。
 それとも復た閨にさそふ、灯火の影を見るまで待たうといふか。
飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうち
に、
 可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等
ではないか。
  (『ギリシア・ローマ叙情詩選』 呉茂一訳)

 「同じ禁欲を実践していた」(バルト)というオリエントの人々のなかから、(大分年代は下るが)オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をひもといてみても、酒に関する詩は数多くあるが、特異な陶酔は感じられない。二例だけあげておこう。


      76身の内に酒がなくては生きておれぬ、葡萄酒なくては身の重さにも堪えられぬ。酒姫がもう一杯と差し出す瞬間のわれは奴隷だ、それが忘れられぬ。      99おれは有と無の現象を知った。またかぎりない変転の本質を知った。しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、酔いの彼方にはそれ以上の境地があった。

といったふうで、少なくともわたしには大量に飲む姿勢をあらわしているように思える。


更にいえば、酒と分かちがたく結びつくことになった葡萄の神であるディオニュソスは先に述べたように各地に狂乱を振りまいた神であった。そして、形象に止まり、彫刻や叙事詩に結実したギリシャ精神を「アポロン的」とし、非表象的で、人間の根源的な衝動の発露であり、叙事詩や音楽としてあらわれたギリシャ精神を「ディオニュソス的」と名づけたニーチェによって、酒はより決定的に、深い酩酊と結びつけられるようになったのではないだろうか。

 ディオニゾス的興奮は、自分達が内的に合致していると意識するところの、此の如き精霊群にとりまかれたる自分達自身を見ることの此芸術的能力を全群衆へ賦与し得るのである。悲劇合唱のこの作用は劇的根源現象である。自分自身の前に変形されたる自分自身を見るということ、そして今あだかも、人が実際ある別な体に、ある別な性格にはいっていたかのように行動するということは。このようなる作用は劇の発展の発端に立っている。ここにはその形象と融合しないで、むしろ画家の如く観照的な目で自分自身のそとを見るところの、あの史詩吟誦なぞとは異った何物かがある。ここには既に別な性格への没入による個性の放棄がある。そして固よりこのようなる現象は流行病的に出て来る。全群衆がかくの如く変形されて自らを感ずるのである。この故に酒神頌歌は本来はいかなる他の合唱歌とも異っている。月桂樹の枝を手にして、厳かにアポロの神殿へ練り行き乍ら、行列の歌をうたうところの処女達は、依然としてもとの儘の彼女等であり、彼女等の市民としての名前を保持している。酒神頌歌の合唱は、形を変えられた人人の合唱である。そして彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている。希臘人のあらゆる他の合唱的叙情詩は、アポロ的な個人的唱歌者の巨大なる増進にすぎない。しかるに酒神頌歌に於ては、自分達をお互いの間に変形されたものと見なすところの、無意識的な俳優の一共同体が私達の前に立っているのである。
(『悲劇の出生』生田長江訳)

 こうした経験は、むしろ神秘的とも言えるものであって、飲酒による酩酊などとは質を異にしていると言うべきだろうか。確かにニーチェの描いているのは、神の祭祀に結びついた聖なる経験であり、世俗化されつくした現代の世界とは隔絶しているように思える。しかし、酒神こそいないものの、たとえば吉田健一の短編「酒宴」などはニーチェの呈示したのとさほど異なることのない経験を描いていないだろうか(同じような経験を描いた吉田健一の文章は、枚挙にいとまがない)。


 銀座の「よし田」で「円いと言ふ他ない感じの」中年男と飲み始めて別れ難くなる。東京駅の方の地下のなんの飾り気もない店で朝まで飲み、その足で男が酒の技師を務めている灘の工場まで見学しに行く。工場にはタンクが並んであり、大きな茶碗で利き酒をする。見学が終わると、神戸の「しる一」という料理屋の二階で宴会が始まる。やがて、なぜか、いま工場で見てきた四十石入りや七十石入りのタンクが献酬相手になっている。七石さんは胴の真ん中辺のふくらみ方から女であるらしい。いつの間にか場所は山の上の草原になっており、「自分」はタンクを取り巻いて神戸からその後ろの連山まで伸びる途方もなく大きな蛇になっている。


 短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。


 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。

 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。

それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。

 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。

 ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。

 寅三は占領軍相手の仕事をしているが、仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。

 吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。

 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。

 寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。

敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。

それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。

たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。

 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。


「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)

「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。

〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。

 トルストイ、ルソー、ベンヤミン、ボードレール、ブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子と道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ『戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。

他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。

 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

さみせんのあいにほういの一声はいづくの誰を呼子とり追 石部金吉


前書き「鳥追」

鳥追いは、田畑を鳥から守る正月の行事として、または門付け芸として芸人によって行われた。

風の子



・わらべは風の子と言われるのはなぜか。ふうふ(夫婦)のあいだにできるから。

2018年8月5日日曜日

萬歳がうたふことばも真砂にてつきぬや君がとくわかの浦 浦辺干網


前書き「海辺萬歳」

「とくわか」は徳若で「常若」が転化したもの。いつまでも若く、という祝い言葉。めでたさは浜の砂のようにつきない。

糠味噌


・禁中の上﨟たちは「ささぢん」=糠味噌のことを「待ちかね」というが、もてあつかうこと、「こぬか」ということから来るか。

2018年8月3日金曜日

イングマール・ベルイマンの『第七の封印』/クローネンバーグ『イグジステンズ』/キャスリン・ビグロー『ゼロ・ダーク・サーティー』






 学生のとき以来、見たいと思っていた映画をようやく見ることができた。イングマール・ベルイマンの『第七の封印』(1956年)である。

 ベルイマンは『ペルソナ』『沈黙』『叫びとささやき』などは学生のときに見ている。確かこの三本立てだったはずで、連続してみたものだから一本ごとの記憶はあやふやである。あるいは途中で寝てしまったのかもしれない。ベルイマンの映画は名画座で周期的に上映されていたので、これほど長い期間見られないことがあろうとは思ってもみなかった。

 名画座にも二種類あって、封切り後しばらくたった映画を上映する二番館(しかしそのときには二本立てになっている)と、封切館では上演しないような映画を見せるより本格的な名座座があった。

 名画座はその街の文化の結節点であった。その意味では新宿から池袋が東京文化の脊椎に当たるものであり、原宿、表参道、渋谷、六本木などは、文化果つるところだった。確かに、渋谷にはパルコやユーロスペースがあり、六本木にはアール・ヴィヴァンがあったが、所詮は文化的後進地が文化的だと思いこんで、過剰に走りすぎたものでしかなかった。特にユーロスペースの大学の視聴覚室のような見にくさには怖気を振るったもので、よほどみたい映画が上映されない限り見に行くことはなかったし、なにを見たのかもすっかり忘れてしまった。

 結局、ベルイマンは、その後、『ある結婚の風景』を名画座で見て、『ファニーとアレクサンドル』を岩波ホールで見たと思うが、それ以前の作品を見る機会がまったくなかった。

 それに、『第七の封印』を見たいと思っていたのは、澁澤龍彦がその唯一の映画論集である『スクリーンの夢魔』のなかで、熱を込めて賞賛していたからで、しばらく澁澤龍彦と関わっていくうちに、少なくとも映画に関する限り、それほど自分と趣味が重なることがないことはわかってきたので、さほど熱心に追いかけることがなくなった。ただ内容はまったく知らないながらも、『スクリーンの夢魔』にも載っていた、死神とチェスをするマックス・フォン・シドーの姿はよくおぼえていた。

 その姿が印象に残っていたので、特に根拠はないが、ロメールの『モード家の一夜』のように、神学論争とはいわないまでも、神や信仰についてのおしゃべり、あるいは信仰の懐疑をめぐる話し合いで成り立っているのかと思っていた。ところが、案に相違して、十字軍の戦いから故郷に帰ろうとする者たちの、ある種のロードムービーなのだった。

 ペストが流行している中世の世界で、マックス・フォン・シドーが演じる主人公は、仮面をかぶった死神に対して、チェスを挑むくらいであるから、戯れる程度の距離がとれると思っている。ところがいざ故郷に帰り着いてみると、死神には人間と戯れてそれで済まそうとする気などは毛頭なかった。黙示録からとられた『第七の封印』という題名は、やや大げさで、悪魔とトランプの勝負をするポオの『オムレット伯爵』(だったっけ)のように何気ない題の方がいいし、ついでにいえば、ファルスであればよかった。

 同じく、長い間見たかった映画を見たが、こちらは初見ではなく、封切りでもビデオでも見たが、それ以降見ることができなかったもので、デヴィッド・クローネンバーグの『イグジステンズ』(1999年)である。主演のジェニファー・ジェイソン・リーが大好きでもあるし、夢と虚構と現実という大好きなテーマを扱ったものでもあるからだ。




 ジェニファー・ジェイソン・リーは、最近、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』に出ていて、さすがにあの映画の姿は女性として魅力的というには、ためらわれるものがあって、怪演といった方がいいが、なにしろ好きだったのは、1994年アラン・ルドルフの『ミセス・パーカー/ジャズ・エイジの華』のドロシー・パーカー役の彼女で、ドロシー・パーカーは雑誌『ニューヨーカー』の初期を支えた人物の一人で、早川書房の『ニューヨーカー傑作選』にも短編がいくつか収録されているはずだ。

 アラン・ルドルフのこの映画もソフト化がされていないので、是非もう一回見てみたい一本である。アラン・ルドルフは、ロバート・アルトマンの門下生で、『ミセス・パーカー』もアルトマンが制作をしているが、ジェニファー・ジェイソン・リーといえば、アルトマンの『ショート・カッツ』もさることながら、『カンザス・シティ』(1996年)も大好きで、この映画は後のアルトマン映画『プレタポルテ』や『バレエ・カンパニー』でそれぞれファッション・ショーとバレエが物語の添えものではなく、テーマそのものとしてじっくりと描かれるのと同じように、ただの映画音楽としてではなく、テーマの大きな要素としてジャズが組み入れられ、最後はジャム・セッションで大いに盛り上がることになり、ジェイソン・リーの最後の行為が際立つことになるのだが、なにしろこの映画も長いこと見ていない。

 『イグジステンズ』は、小さな、村の集会所のようなところで、ジェニファー演ずるゲームの開発者が新しいゲームの発表をすることから始まる。集団で参加するゲームで、それ自体は現在では当たり前になっているが、なんといってもクローネンバーグらしさがあふれ出ているのは、ゲーム機そのもののあり方であり、VRがヘッドセットによる視覚を中心とした表層的な知覚の変容にとどまっているのに対し、この映画ではゲーム機は脊椎に開けた穴に差し込むようになっている。

 性的な意味合いもあからさまで、脊椎の穴につばでぬらされたジャックが挿入される。また、ゲーム機はピンク色でグニャグニャしており、材質は大人のおもちゃそのものであり、ただしなにに使うのか(ゲーム機なんだけどね)、どう使うのかはわからない(こちらはゲーム機としてもわからない)。

 ゲームのなかは奇形の突然変異種があふれ、歯が弾として使われる拳銃や粘膜に覆われたグロテスクな食物が食べられており、メディアによる世界の変容という一貫したテーマが『ヴィデオドローム』以後、久しぶりにフルモードで展開されていて楽しい。物語はいまでは珍しいものではないが、ループ的な展開をし、ゲーム内ゲームを暗示し、いつまでも現実に戻ることのない虚構内虚構を指し示すが、実際に「現実」として残るのがいまある明確な輪郭を保ったものであるのか、粘膜まみれのねばねばしたものなのかわからなくなる。

 見たい映画といえば、キャスリン・ビグローの『ストレンジ・デイズ』もまた、見直したい映画の一本で、記憶においては、面白かったように思うのだが、内容もなにひとつおぼえていないので、是非確認したい。かわりといってはなんだが、『ゼロ・ダーク・サーティー』(2012年)を見直す。


 二度目か三度目だが、中東の戦争を舞台にしたものだと、どうしてもある身構え、先入観をもってみることになり、それはあからさまであるかどうかはともかく、この戦争を正当化するものになってはいないか、ということにあり、最初に見たときにはそうした臭みをどことなく感じないではなかったのだが、改めてみると、この映画はビン・ラディンを殺す映画というよりは、ビン・ラディンという実像が空無化し、その戦いのなかで、すり減っていき、希薄な存在になっていくCIAの女性捜査官の話で、素っ気なくテロップで処理されているが、主人公がアフガニスタンに関わるようになってから十年以上の年月が流れ、日常生活に戻れるのかはなはだ疑問である。ある意味、ゲームから戻れなくなるものについての映画であり、そうした意味では3本の映画は共通している。     

萬歳にほめたてられてはづかしき草のいほりの柱数かな もとのもくあみ


前書き「草庵むすぎけるとし萬歳のことぶきけるを聞きて」

萬歳は本来新年の言祝ぎだったが、褒められるほどの広さの草庵でもなくて。

痩せ法師と酢

・痩せ法師が酢を好むとは、八瀬の寺は昔から禁酒である。僧のなかには酒を好み、我慢できないものもいた。常にとっくりをもっていた。問われることがあると、「酢にて候」と答える。毎日のようにこの問答を繰り返しているうちに、やせの法師は酒のみだということわざができた。

2018年8月1日水曜日

はごの子のひとこにふたこ見わたせばよめ御にいつかならん娘子 四方赤良


前書き「小むすめのはねつくを見て」

はごの子、「ひとこにふたこ」、よめ御、娘子と羽子板の種がとんとん移る言葉とつく羽の面白さをかけたもの。

よしにせよ


・ものを無用というかわりに「よしにせよ」というのは、
   あし垣も戸ざしもよしやするがなる清見が関は三保の松原
この歌から心得るべきである。三保の松原の興のある景色を眺めれば、関に向かうには及ばない、ということから清見が関は「よしにせよ」というのである。

2018年7月31日火曜日

さかさまにうてばのぼれどすむ空にたまりもあへず落つるこきの子 細井翁


前書き「みづから画ける羽子のこのうへに」

羽子板でうつのはムクロジの核に羽をつけたもので、「きの子」は木の子で、羽はついているが、空にとどまることはできないということか。

こぼれさいわい

・「こぼれさいはひ」とはなにをいうか。むかし女の子が三人一つ枕で寝ていた。姉が自分の上に富士山が転がり落ちた夢を見たというので、人をやって夢判断をさせた。それは富んだ男が旦那になる吉夢だと祝うので、次の娘はあれほど大きい富士の山が姉一人の身だけで収まるわけはない、両方に寝ていたものにも落ちたことだろうと喜んでいたら、果たして三人ともめでたく富貴の男を得た。そこからこの言葉はできた。

2018年7月30日月曜日

喜劇のために










 芸の達成は、作品の発生と同等の現象だと考えてよいのだろうか。単なる言葉の連なりがどこかで詩や小説になり、或はどこかで笑いや涙を、つまりは感動を伴った余剰の意味を生みだす作品になる、そうした変化と芸の達成は同じものなのだろうか。大根役者の芝居が名優と同じ台詞を語っていながら、なんの感動ももたらさないように、内容としては同じでありながら、感動をもたらす作品と退屈でたまらぬ作品があり得る。外国文学の翻訳のことを考えればわかりやすいはずだ。Iを「僕」と訳すか、「俺」と訳すか、或は「私」と訳すか、いずれかによって感動の質は変わるだろう。例えば、レイモンド・チャンドラーのフリップ・マーロウが自分のことを「わて」と言ったなら、『長いお別れ』はよほど変な印象をもたらす作品へと変わるだろう。

 単なる言葉の羅列と文学との相違が、我々の住まう意味の網の目に関わっていることは確かである。日常的に、ルーチンに消費される意味とは異なる何らかの新たな意味の布置があらわれたときに、我々は作品の誕生を感じ取る。そうした布置の変化が最も明瞭なのが悲劇と喜劇である。

 身体的に言えば、横隔膜の震えが笑いであるように、意味の引き攣れが笑いを生みだすと言ってもいいかもしれない。数ある落語のなかでも最も奇天烈なものの一つに「あたま山」がある。

 けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。

 この噺のもとになったのは安永二年の『口拍子』にある次のような小咄である。

         神田にお玉が池といふ有り。誠はあたまの池なり。昔、この辺に住みける人の親父のあたまに池ができて、鮒や金魚が大ぶん住んで珍しいことゆへ、遠近より群衆をなして見に来る。息子、外聞かた/\気の毒なれば、見物の来ぬやうにしたいと思ふ折ふし「私は山の手から承り及んで、親父様のあたまの池を拝見に参りました」息子「遠方からせつかくお出なされましたが、親父様、世上の沙汰を気の毒に思はれまして、夜前、あたまの池へ身をなげられました」 (武藤禎夫編『江戸小咄辞典』)

 お玉が池というのは、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。

 つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。

 『江戸小咄辞典』の「鑑賞」によれば、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。

 良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。

 もっとも、この挿話は落語の「あたま山」や引用した小咄の類話としてあげられているもう一つの話の方により大きな割合で取り入れられている。

 そちらの話(同じく安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」)では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答えた。

 『口拍子』のものとは異なり、落語の「あたま山」と「梅の木」には木を引き抜いた跡に池ができるというくだりがあり、『徒然草』とのより近しい類縁性を示している。また、自分の頭の池に身を投げる方法も説かれている。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。

 川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、彦六の八代目林家正蔵(いまのこぶ平の正蔵ではなく、前の木久蔵である林家木久扇がよく真似をする方の正蔵)だけだったそうだ。

 そういえば、話自体にはなじみのある「あたま山」だが、落語として聞いた覚えがわたしにはない。それはともかく、正蔵も自分の頭に身を投げる方法について次のように説明していたという。

 「そうだねェ、お前わからなけりゃァ、絵解きをして聞かしてやるがね、あのねェ女の方が紐なんぞを縫ってることがあるだろう」 「へえへえへえ」 「最初縫うときにァ、針目を上にして、ね?チクチクチクチク、いま運針というがねェ、針をこう運んでるだろう」 「へえへえへえ、へえ、そうですねェ」 「縫い上がるとどうするィ?物差しをあてがって、ひとつこう、ひっくり返すだろう、な?そうすると、細紐がこう出来上がるねェ」 「へえへえへえ」 「あれとおんなしだァな」 「どういうわけでおんなしですゥ?」 「困ったねェ、お前わからないかい?――」 「わかりませんねェ」 「だからさァ、かりにね、頭の、池だねェ、頭に池があるとする」 「へえへえへえ」 「これをお前、人間がめくれめくれていきゃァみんな入っちまう」

 人間を裏返すという発想は「梅の木」と同じである。ちなみに、アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことが頭池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。

 しかし、この解釈はわたしには疑問だった。「あたま山」の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。

 喜劇というジャンルの定義は定めがたい。アリストファネス、シェイクスピアから、ワイルド、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、モンティ・パイソン、森繁久彌の社長シリーズや『男はつらいよ』まで包含するような定義がいったい可能なのだろうか。

 アレンカ・ジュパンチッチは『仲間どうし』という喜劇論で、真の喜劇と偽物の喜劇とを区別している。ジュパンチッチには『リアルの倫理』というカントとラカンについての、またニーチェについての著作があり、おおよそカント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン、ジジェクといった思想圏内にいる人物である。その喜劇論の出発点はヘーゲルの喜劇論にある。

 ヘーゲルによれば、叙事詩、悲劇、喜劇は宗教と同じく、精神の偉大な達成である。というのも、いずれにおいても、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものが扱われているからである。叙事詩では、吟遊詩人たちによって神々や英雄たちの行為が物語られる。悲劇では、運命や死といった普遍的、絶対的なものが上演され、表現される。

 ジュパンチッチが言うには、ヘーゲルの喜劇論の特異な点は、ヘーゲルが、喜劇においても普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものとのつながりを手放さなかったことにある。

 ごく通俗的な喜劇観に従えば、喜劇こそは、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものからは抜け落ちてしまう日常の細部がそうした大問題に対して反旗を翻し、それらを切り崩して勝利を収めるものだということになろう。ところが、ヘーゲルは、ちょうど悲劇の演者が必然や運命という巨大な力のごく小さな一部であるように、喜劇における日常の具体的な細部は普遍、本質、絶対を切り崩す否定という絶対的な力が顕現したものであり、この否定こそが喜劇の生みだす普遍であり、本質であり、絶対だと言うのだ。

         喜劇は普遍の土台を切り崩すものではなく、普遍(自ら)の具体への反転である。それは普遍に対する異議申し立てではなく、普遍そのものの具体的な労働或は作業なのだ。或は、これを一言で言えば、喜劇とは作業中の普遍である。この普遍は活動している存在として表象(再現)されているのではなく、まさにいま働いている。(アレンカ・ジュパンチッチ『仲間どおし』)

 これだけでは具体的にどういうことが言われているのか定かではないが、真の喜劇と偽物の喜劇との区別の仕方を見ると、朧気な視界が徐々に晴れていくことになろう。

 アレンカ・ジュパンチッチが言う偽りの喜劇とは、おかしみをすべて「人間の弱さ」に回収するものである。例えば、王様、貴族、裁判官、宗教家など象徴的な権威をもつ者たちが愚かしい姿をさらす。彼らは我々と同じように、いびきをかき、おならをし、足を滑らせて転び、欲望に負ける。喜劇にはよくあるシチュエーションである。

 偽りの喜劇は、このシチュエーションをどれだけ偉そうに振る舞い、地位や権威のある人物であっても、所詮は我々と同じ人間なのだ、と説明しようとする。それは、いかにも現実暴露的で、反権力的なラディカルな姿勢に見える。普遍的なもの、象徴的なものを具体性、人間すべてが従わねばならない物理的法則に引きずり下ろしているようだ。

 しかし、この具体性なるものは、普遍性対具体性という非常に抽象的な図式のなかでの具体性でしかない。王様など権威者の愚かさは普遍的な人間性に回収された上で笑われ、彼らの権威は無傷のままに残り、尊敬の対象であり続ける。つまり、いかに権威のある者でも我々と同じ人間に過ぎないという見方は、同じ人間であるのにどうして王様や貴族は象徴的な権威を身につけるにいたるかという反対の方向性を隠蔽してしまう。

 では、真の喜劇とはなんであろうか。

        我が儘な貴族についての真の喜劇は、実質的に次のような型に従うべきである。自分が真に、本来的に貴族だと信じている貴族が、まさしくその信念において普通の愚かな人間だということだ。別の言葉で言えば、貴族に関する真の喜劇は、この概念の普遍的な側面そのものが人間性、肉体、主体を生みだすという具合に処理されるべきである。ここでは、身体は魂の欠かすことのできない基盤ではない。それぞれの内にある確固たる信念こそが魂を可能な限り肉体的なものとする地点なのだ。人間的弱さという水たまりのなかに幾度となく落ちる貴族の具体的な身体は、単にぬかるみに横たわる経験的な身体ではなく、より以上に、貴族である自分、自らの「貴族性」への信頼である。この「貴族性」が普遍そのものの精髄として喜劇によって生みだされる真の喜劇の対象である。(『仲間はいり』)

 つまり、道徳的、倫理的規範とも成るべき存在が喜劇のなかで笑われるとき、そこで笑われているのは我々と同じ次元にまで引きずり下ろされた「人間」ではなく、人間が体現する道徳的、倫理的規範である。人間の弱さは物理法則に従わねばならぬことにではなく、道徳的倫理的規範にあらわれる。喜劇の観客は、理想となるべき存在(王、貴族などの権威者)が権威をもつことにおいて愚かなのを見て、理想との同一化と脱同一化のあいだをさまようことになる。

 ジュパンチッチのこうした議論は、チャップリンの『独裁者』やマルクス兄弟の『我輩はカモである』などを思い浮かべれば容易に理解されるだろう。独裁者は一人の人間として滑稽なのではない。一介の街の床屋が入れ替わりうるような、グルーチョのナンセンスな言葉が戦争へと通じるような独裁者という権威、役割、地位そのものが滑稽なものとして笑われているのだ。

 チャップリン、キートン、ロイド、ロスコー・アーバックルなどのサイレント映画を見れば、警官は警官である、金持ちは金持ちである、店の主人は店の主人である信念のもとに肉体化されている。その一方、人は投げられて宙を行き交い、殴られてはバネ仕掛けのように起き上がり、ハンマーに打ち据えられ銃で撃たれても動き続ける非人間的な物理的耐性を備えている。つまり、人間は所詮人間でしかない、というのが喜劇が教えてくれる知恵だという見解とは反対に、喜劇の人物は常に人間性から逸脱しようとするのだ。こうした、人間性と非人間性、普遍と個、抽象と具体が衝突して、しかもその衝突がどちらか一方に解消されないところに真の喜劇がある。

 真の喜劇がはらむこうした内在的矛盾を、ジュパンチッチはメビウスの輪に例えている。巨大なメビウスの輪に立っていると想定しよう。我々はいま立っている場所とは別次元の裏面があると思っており、実際にどの場所に立とうが裏面は存在する。人間性の裏に非人間性が、普遍の裏に個が、抽象の裏に具体があるかのように。だが、ずっと歩いていけば、最初にいた場所のまさしく裏面にたどり着くはずだ。同じように、人間性がいつの間にか非人間性に、普遍が個に、抽象が具体へ、そしてその逆の方向へと運動を続けるのが喜劇の魅力である。

 使われている言葉、対象となる作品こそまったく違うが、ジュパンチッチの喜劇論は幸田露伴の笑いについての説に近いところがある。

 明治三十年代の露伴は、明治二十年代のように矢継ぎ早に小説を発表することがなくなり、むしろ小説から徐々に遠ざかりつつあった。露伴最後の長編小説『天うつ波』は、日露戦争という国家の一大事のなか、「比較的に脂粉の気甚だ多き文字」を書き連ねることへの忸怩たる思い、兄の郡司成忠がロシア軍の捕虜になる事件、及びそれに関連した様々な風聞(郡司の生活の拠点であった占守島の人々が虐殺されたという噂もあり、郡司自身の生死も当初は不明だった)などいくつかの理由により中断し、結局その後完成することがなかった。

 『一国の首都』のような都市論や随筆など小説以外の文章が多くなり、尾崎紅葉とともに紅露と称された小説家の露伴が終わり、明治四十年代以降から始まる『頼朝』『平将門』『蒲生氏郷』といった史伝、『努力論』『修省論』などといった修養書を書くにいたる露伴が準備されていた時期だと言える。

 この時期を特徴づける要素の一つは、笑いへの関心である。『春の山』(明治三十三年)、『笑話』(明治三十八年)などで小咄を収集する一方、明治三十六年には『狂言全集』を校訂している。もともと露伴の短編には、「新学士」のように流麗な語り口で軽く落とすコント風のものから、「毒朱唇」のような哲学的諷刺、ほぼ落語の台本とも言える「貧乏」、江戸戯作の伝統を受けた「艶魔伝」にいたるまで、笑いの要素に欠けるわけではない。

 しかし、『吾輩は猫である』の夏目漱石の笑いを機知の産物とし、齋藤緑雨のパロディや文体模写を相手の肺腑を抉るアイロニーだとすると、露伴の笑いはだいぶん様相が異なり、ユーモアが主調になっていると言えようか。

 フロイトによれば、機知や滑稽とは異なる「なにかしら堂々としたところ、なにかしら魂を昂揚させるようなところ」がユーモアにはある。それは「明らかに自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹ということから発している。この場合、自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)と言っている。

 実際、露伴の文章は、漱石や緑雨のように、思いもかけなかったもの同士を結びつけるパンチ・ラインで反射的痙攣的な直接的笑いを引き起こしはしない。むしろ高揚した堂々とした気分にさせるものだ。それは漱石にも緑雨にも感じられないことである。

 狂言全集を校訂し、笑い話を熱心に集めていたころの露伴の笑いについての考えは、明治三十六年に東京帝国大学でなされた講演を原稿にした「滑稽談」という文章にあらわされている。

 そこで露伴は『竹取物語』にまでさかのぼり、日本の滑稽の歴史を一望している。『竹取物語』に続くものとして、狂言、『鴉鷺合戦物語』、江戸時代に入り『醒酔笑』、西鶴の『名残の友』、『鹿の子餅』、『軽口御前男』といった笑い話集があり、黄表紙、落語、川柳、狂歌へと続く。

 だが、このように、日本の笑いの歴史をたどった露伴がたどり着いた結論は、「併し我が邦の滑稽の文学はまだどうも立派なものを有つて居らぬのです。日本の滑稽作者に誰を推したら好いのですか、誰も無いではありませんか」というしごく厳しいものとなる。なぜなら、駄洒落や地口や謎をもっぱらとしており、江戸文芸に明らかなように、表面的な戯れに終始しているからである。

 それでは、「立派なる滑稽の文学」とはなんだろうか。ここで、露伴特有の、機知ともアイロニーとも異なる笑いの性格が明らかになる。

         立派な涙は何であるかと云ふと、詰り感情の深い渓の美しい水です。立派な怒と云ふのは何であるかといふと、道義の念の燃え上る壮(さかん)な熱ではありませんか。さて立派な笑と云ふのはさう云ふ熱でも水でもない、さう云ふものの好い調和を得たところに咲く優麗美妙な一つの或美しい華ではありますまいか。即ち解脱の光景ではありますまいか。今日までの日本の人の間には火の働きも水の働きも弱かつたので、為に解脱の光景も立派でなかつたのではありますまいか。今後の人は中々昔の人とは違ふ、泣ッ面も怒り面も大分激しくなつてまゐらねばなりませぬ。であれば随つて笑も今までとは違つて大きな光景を現はし来らなければならぬです。それ等の事から考へますると、明治になつて既に三十何年になりますが、今までは滑稽の文学が出てまゐらないのも寧ろ当然のことであり、又幸福と云つても宜い位であるとおもひます。何故ならば若し明治以来の火や水が少い僅かな火や水であつたならば、もう疾(と)うに相調和して仕舞つて、美しい光景たる滑稽のものが出来て現はれて居る筈である。けれども未だに何等の滑稽の作も現はれて居らぬ所を見ると、是から先になつて出て来るのではないかも思ひまする。明治はまだ若いのです。まだ泣いて居るのです、怒つて居るのです。笑の文学が出るほど熟して居ないのです、是から先に段々出て来るのです。

 「好い調和」といった一見静的な言葉にだまされてはいけない。この調和は、人間のあるがままの姿に自ずとあらわれるようなものではない。「感情の深い渓」と「道義の念の燃え上る壮んな熱」が、つまりは感情という身体的で個的なものと道義の念という普遍的で公的なものとが衝突する場なのである。悲しみや怒りが大きなものであればあるほど、その衝突によって生まれる笑いはより高らかに響き渡ることとなろう。

 「解脱」という言葉は通俗的な宗教解釈によってすっかり手垢にまみれたものになってしまっているが、そもそも、人間性が非人間性に、個が普遍に、抽象が具体に通じるようなメビウスの輪に立つことを意味しているのではないだろうか。そしてそうした反転を、狂気に陥らずに、メビウスの輪のようにある意味簡単で安定した空間として捉えること、「自我の不可侵性の貫徹」をあくまで成し遂げているところに露伴の笑いの特徴がある。