2014年3月29日土曜日

ブラッドリー『論理学』19

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

 §19.私は魂のより低次の形式、あるいはなんらかの形式が単純な感覚の把持だけに制限されていると言おうとしているのではない。魂が与えられたものになにもつけ加えず観念化もしない受動的な容器だとしても、実際の心には更に進んだ段階があり、我々は常に感覚を通じて与えられたもの以上のものをもっている。いわば、印象というのは、観念的構築物によって補われ変更されており、それが過去の経験の結果をあらわしている。かくして、ある意味で、もっとも低次な動物でも判断し推論しているのであり、そうでなければ、彼らは行動を環境に調整しないに違いない。しかし、厳密な意味では、彼らは推論もできなければ判断もできない。というのも、彼らは観念と知覚された現実とを区別しないからである。

 実際の事物と知覚にあらわれるものとが同一ではないことは、我々がみな気づいているように、非常に遅れて知られることである。同じ時期ではないにしろ、同じように遅く知られるのは、観念と印象にはある種の差異があるということである。より原始的な心にとっては事物はあるかないかであり、事実であるかなにものでもないかである。事実は存在するかもしれないし、仮象であるかもしれない、それ自身ではないなにかの真実であり、それに属しているのかもしれない。また、幻影であるかもしれず、その内容がそれ自体にも他の実在にも属していないため、存在はしても間違っているかもしれない--これらの区別は初期の知性にとっては不可能である。非実在物は了解できるようななにものでもなく、間違いとは決して幻影ではない。それゆえ、こうした精神にとっては、観念は決してシンボルとなることはできない。それはそこに存在する事実である。

2014年3月28日金曜日

吉田健一とバルトのユートピア的な酔い――ノート10






 『鬣』第34号に掲載された。

 吉田健一の短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。

 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。

 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。

    それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。

 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。寅三は占領軍相手の仕事をしているが仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。

 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。

  寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。

敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。

それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。


 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。

 〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。

 トルストイ、ルソー、ベンヤミン、ボードレール、ブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子と道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ『戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。

    他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。

 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

2014年3月27日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』15

霧に舟牽く人はちんばか  野水

 ちんばは跛脚である。古解に、「石混じりの場所に落葉して、霧雨に濡れたところを滑りながら行く人を見て、ちんばひくかと笑うさまだ」というのはよくない。これはただ、柳葉が力なく落ちる秋の岸で、霧のなかに舟を牽く人の姿を見て、ちんばのように見えるという景色をいっただけの句である。足場が悪いとか、滑っているのを笑うといっているのは、舟を牽く人の様子をよく知らないで、この句の真を伝え、妙をなすところをわかっていないことからくる勝手ないいようである。

 人が陸の上にいて、舟を牽いて流れをさかのぼると、水の上の舟は岸に触れて前に進まなくなる。であるから、舟を牽く場合、舵を操って舟を牽く人の反対の方に進むようにしておく。そうすれば結合力の法則により、舟は岸にも触れず、川中にもでず、陸に沿ってまっすぐに進む。それゆえ、引き縄が短いと力がうまく相殺しないので、なるべく長くするのが習慣で、それゆえ中国ではこの縄のことを百丈と呼んでいる。そうであれば、舟を牽く者は長い綱の先を輪にして片方の肩にかけ、流れの力と舵の水を切る力との抵抗を受けながら進むので、身体がねじれたようにしていく、そのさまを舟から見ると、距離はあるし、牽く者は身を屈み曲がっているので、跛脚の人にも思えるのである。それを巧みに言いあらわしたのがこの句で、霧の一字に距離の程度も景色も見え、ちんばかの言葉に活動のさまも姿形も見える。それを霧に滑るなどというのは残念な理解で、行き届いた解釈ではない。前句の水のほとりの柳、この句の霧に行く舟、付け味は言わなくても明らかである。

2014年3月26日水曜日

蜘蛛と女性の幽霊————スピノザ



 『鬣』第34号に掲載された。

書簡は書いた人間の息づかい、固有の生活様式、外見だけではわからない癖や他人との距離の取り方などを窺わせてくれるところに魅力があるのだが、スピノザの書簡集にはいささかそうした魅力に欠けるところがある。

というのも、スピノザの手紙の宛先が個人であっても、その人物を代表とする同好の士に回覧されることが当然のこととして前提されていたからである。つまり、手紙とはいってもなかば公的なものであり、それゆえ話題がプライベートにわたる場合には、他人に見せるようなことはしません、とわざわざ断られている。

とはいえ、著作には見られないようなスピノザの人間性がまったくうかがい知れないというわけではない。たとえば、知性が見いだしたものと聖書とが齟齬するような場合、知性を取るのが哲学者だとするスピノザは、聖書の権威を振りまわすブレイエンベルフなる人物に対し、私はあなたを哲学者だと思っていたがそうではないらしい、従って私たちが啓発しあうことなどはないでしょうし、私の手紙はあなたになんの益にもならぬわけだから文通などやめましょう、ときわめて強い口調で書き送っている。

おそらくは、花田清輝の『復興期の精神』にあるスピノザについての文章が記憶に残っているせいか、スピノザといえば、驢馬を水槽と秣桶の間に置くと、自発的な選択のできない驢馬はどちらから手をつけていいものか立ち往生してしまい、最後には餓死にいたると説いた「ブリダンの驢馬」が思い起こされ、なにかこうした強い断言的な口調とスピノザとが結びつかないのだ。

もっとも、不可解なスピノザと言えば、哲学に専心していたスピノザには趣味らしき趣味もなく、ただひとつ蜘蛛を飼い戦わせることを楽しみにしていたというのだが、ものの本によると、それを見て涙を流すまで笑いころげたというエピソードがあって、どちらが勝つかといった興奮やある種残虐な本能の満足ならわかるが、笑いが発せられることにはなにか奇妙な経路を感じさせる。

なかば公的なものとはいっても、書簡には相手がいるというのが、著作とは大きく異なることであり、自分にはさして興味のないことでも、聞かれれば答えねばならないことにもなる。オランダのゴルクムで政治に関係していたフーゴー・ボクセルとの往復書簡はみな幽霊に関するもので、ボクセルが幽霊の存在を主張するのに対してスピノザが反駁する。幽霊は子を産むことがないので女性の幽霊は存在しないとするボクセルの説に対するスピノザの言葉はどこか蜘蛛の戦いを笑うのと同じ経路を感じさせる。

    実際もしそれが真に貴下の御意見でしたら、それは神を男性と見て女性とは見ない一般民衆の想像とよく似ていると思います。裸の幽霊を見た人々が目をその性部に向けなかったことを私は不思議とする者です。それは恐怖のためだったでしょうか、それともこの区別について何も知らないためだったでしょうか。(畠中尚志訳)

2014年3月25日火曜日

ブラッドリー『論理学』18

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

III.§18.我々は判断について予備的な考察をし、いくつかの誤った考え方を取り除こうと努めた。ここでは三番目の仕事として、この機能の発達について述べなければならない。既に明らかにしたように、判断は心的進化のあらゆる段階において姿を現わすわけではない。精神が比較的遅く得るもので、成長期にあらわれる。それを人間と動物知性の境界をなすものととることは恐らく誤りだろう。どちらにしろ、我々は軽率にも神学的、そして反神学的偏見の領域に踏み込むこととなろう(第三巻第一部第七章を見よ)。精神を諸段階を通じて進歩する単一の現象として扱い、異なる動物をまたいだり区切ったりすることでこの進歩を線引きするような議論は避けたほうがいい。かくして、判断は、ある段階においては存在せず、よりあとの段階において働いていることは確かである。どこにこの移行があるかについては問うことなく、こうした段階の対照を指摘するだけで満足することにしよう。この脱線が我々が既に与えてきた判断についての考察をより際だたせることになろう。というのも、判断は真と偽、そしてその相違が知られていないところでは不可能だからである。そして、この相違は、観念が観念として認められておらず、心に事実以外の何ものもないところでは知ることができないものである。

2014年3月24日月曜日

山なみを遠望する──加藤郁乎『俳の山なみ』


 「鬣」第33号に掲載された。

 もし色々な面でより余裕があったなら、そしてもっと大事なことだが、わたしの俳句に対する情熱がずっと強いものだったら、この本を俳書を集める手引きとすることだろう。三つの面でこの本は興味深く参考になった。

第一に、その小説や戯曲や批評にはいくらか親しんでいるものの、俳句についてはまったく知らなかった文学者の違った側面を教えられた。内田百閒や永井荷風の俳句は読んでいたが、岡本綺堂、巖谷小波、田中貢太郎、日夏耿之介の俳句をこの本ではじめて知り、そのすばらしさに眼を見張った。

  水神の山車魚河岸を出でにけり  岡本綺堂
  神田川南も北も祭かな
  昼もねて聞くや師走の風の音
  川々の橋々柳々かな       巖谷小波
  しんなりと女寝(いね)たり遠千鳥    田中貢太郎
  煙突は線香に似て霞みけり
  秋一夜壺のなかなる龍を琢(ウ)つ   日夏耿之介
  猫てらや雲間にかすむろくろ首

 第二に、かねてから名前を聞いており、気になっていた人物について手がかりを与えてくれている。ジッドやクローデルの翻訳家である山内義雄のエッセイではじめて知った岡野知十、内田百閒の俳句の先生である志田素琴、久保田万太郎や徳川夢声が参加した「いとう句会」の生みの親である内田誠、幸田露伴の文章にしばしばその名の見える沼波瓊音などがそれである。

  ゆく春や小袖にのこる酒のしみ  岡野知十
  すしの味殊に彼岸のあとやさき
  寺多き山谷あたりや片時雨
  二階から呼びかけられし日傘哉  志田素琴
  ふところに菓子の包みや路うらら 内田誠
  山吹やさす日静にまたくもる
  虫の音の駒形あたり小提灯    沼波瓊音
  蚊柱や緑雨の住んだ家を見る

 第三に、わたしにはまったく未知であった場への扉を開け、広大な俳句の世界を垣間見させてくれた。

  行年や夕日の中の神田川     増田龍雨
  坂一つ四谷はちかき月夜かな   小泉迂外
  春寒の言問橋を渡りけり     下島空谷
  猪(ちょ)牙(き)船(ぶね)の進水式や春の水     大野洒竹
  荷風黴び潤一郎黴び露伴黴び   池上浩山人
  横町に横町のあり秋の風     澁澤澁亭

などとてもすべてはあげられない。惜しむらくは、読んでみたいと思っても、気軽に手に入れられる本がほとんどないことで、自らの余裕と熱意の足りなさに恥じ入りつつ、加藤氏の更なる開拓、紹介を待つことになる。
      

2014年3月23日日曜日

狆の名称

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○この頃の狆の名として見せてくれたのを見ると、
  壱まい黒  一まい白  白黒ぶち  目黒  鼻黒  赤ぶち 栗ぶち  かぶり  むじな毛  耳は大耳べつたりだれ  毛なが  毛づまり  当せい  上田すじ  こくすじ  治郞すじ  小田すじ  大島すじ

2014年3月22日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』14

 田中なる小万が柳落つるころ  荷兮

 伊勢国山田の近くの浮洲に小万の柳がある、とあり、小万柳は摂津国田中にある、昔から伊勢の浮洲と説いているのは杜撰であるといい、そうではない、淀川筋に田中という地名はない、などと古来の注釈家は言い争っている。強いて論じるまでもないことだが、俳諧は地名人名と膠でつけてできるものではなく、地名人名を手玉にとってするものである。田中は田の中であってもいいし、地名の田中でもよく、それは地名の田中が田の中からでき、山中は山の中から起きる名であるようなものである。小万は村里の遊女などによくある名であり、例えば関の小万のようなものである。

 この句は平明で、難しいところはない。古い解釈に、諺に柳に雪折れ無しというが、ことに大きな小万の柳も、秋になると重さに絶えかねることがあるので、前句の家の落ちぶれたのも驚くにはあたらないと洒落たのだというのは、解釈の親切が行き過ぎているといえる。前の数句は、険しい山々が重なり、谷を走る奔流がたぎるようなものであり、から家よりこの句にいたって、山がようやくなだらかになり水もまた緩やかになったようなものである。ただ寂しい秋の日に、田舎で戯れに名をつけられた柳のはらはら散るころと、あれた家が見えるあたりの時節景象をいったまでである。安らかで鋭くも重くもない句であるから、安らかに穏やかに解釈すべきである。

2014年3月21日金曜日

空気枕で二度寝二度さめ

 「鬣」第33号に掲載された。

水戸女柔らかい肌の鏡文字

頭山月がしとどに濡れそぼり

夏の午後脳の重さにたえかねて

ひかがみを小指でくじる恋の罪

二階からげてものを見る名残の日

夜の坂焼酎と水の親和性

山の駅カンナがたたむ真夏の陽

境川亡者が橋でたたら踏み

2014年3月20日木曜日

俄と茶番

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○俄と茶番とは似て非なるものである。俄は大坂より始まる。今曾我祭に役者のするのが俄である。ナンダ/\と問われて、思いつきのことを言う。茶番は江戸の劇場から起こる。楽屋の三階で、茶番にあたる役者が、色々の工夫思いつきで器物を出すのを茶番と言ったことから、いつからともなくいまのような戯れになった。独り狂言の身ぶりをして、その思いつきで時節に適した様々なものをだすのを茶番という。今専ら都下に盛んである。

2014年3月19日水曜日

ブラッドリー『論理学』17

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

 §17.我々はこうして前述の教義の間違いを見てきた。それらがもつ主要な真実を考えるのはより喜ばしい仕事である。(i)§13で我々が批判し始めた見解は、主語、述語、賓辞の誤りを避けている。その見解は、判断においては観念の数は主要な問題ではなく、問題の本質は観念にあるのではなく、それを越えたなにかにあるとしている。より細かな点について言うと、あらゆる判断に意志が含まれているというのも完全な間違いではない。発達の最初期においては、知性は実践的であり、独立して働くとはとても言えないことは真実である。また、自己意識の進化において、観念と現実との対立は、ここで論じることはしないが、ある程度までは意志作用の経験に依存しているのも確かなのである。これらの点において、いかに著者によってその多くが捨て去られたとはいえ、この理論には真実があり、我々はベイン教授に称讃を送るだろう。そして、判断においては感覚と結びついた観念連合があり、両方の要素が合体しているというのもまったく真実を欠いているとはとても言えない。というのも、(続く章で見る通り)あらゆる判断の主語は最終的には知覚にあらわれる実在だからである。また、判断と推論の発達における初期の段階では、観念的要素と感覚的あらわれとの再統合が続き、両者は区別されることなく一つの全体を形づくりもするのである。 
 (ii)二つめの誤りからも我々は重要な帰結を集めることができる。第一に、肯定された内容が常に複雑なものだというのは真実である。それがまったく単純な観念であることは決してあり得ず、常に諸要素間の関係や区別することのできる諸相を含んでいる。結局、判断には観念の多様性がなければならない。特に、(a)述語は主語を差し挟むためのクラスだというのは誤りであり、普遍を集合の形で考えるのは根本的な誤りであるが、述語が常に普遍的なものでなければならないというのは完全な真実である。というのも、あらゆる観念は、例外なく普遍的なものだからである。(b)肯定は主語を判断に帰することではなく、文法上の主語は述語が真として適用される実在だというのは間違っているが、あらゆる判断には主語が存在しなければならない。観念内容、切り離された属性は実体と結びつくことで再び実在となる。(c)等式の、各項の同一性の教義はある真実をつかんでいて、その真実は逆さまの明るみに出されていない真実だが、深く根本的な原理である。 
 逆さまになることで間違っているというのはこういうことである。判断の目的は、その意味の相違にもかかわらず、その外延をとる限りでは主語と述語との同一性を主張することである。しかし、正しい方向に向きを変えると次のようになる。判断の目的は、主語の同一性のもとに異なった属性の総合を主張することである。「=」と書くときにはいつも、相違が存在しなければならないが、我々はその項を区別することはできない(第五章参照)。判断が等式になったときに我々が言おうとしているのはまさしくこの相違なのである。「S=P」で、我々はSとPが同一であると言おうとしているのではない。我々が言おうとしているのは、それらが異なっており、SとPという異なった属性が一つの主語において結びついているということである。S-Pというのは一つの事実であり、主語であるSは単なるSではなく、S-Pでもある。等式の理論がある働きをし、単なるナンセンスに終わっていない理由は、実際には、それが間接的な方法で相違を語っているからである。「主語は同一である」ということが含み、伝えようとしているのは、属性が異なるという真実である。あとでより詳しい説明をしなければならないが、いまのところは簡単に同一性はあらゆる判断の根底になければならないと指摘しておこう。 
 しかし、どうしてそれが可能なのだろうか。Aは「Bに先行する」、「Cの左手にある」、「Dと等しい」などにおいて。これらの判断は二つの主語の等しさ、順序、位置などを述べていて、両者が同一だと言っていないのは確かである。説明してみねばなるまい。我々が見てきたように、あらゆる判断は観念内容を現実に帰することであり、この現実が内容の帰属する主語である。かくして、「AがBに先行する」においては、A-Bの全関係が述語であり、それが正しいということは、その関係を実在の世界の従属物として扱うことである。それは単なるA-Bを越えたなんらかの性質である。しかし、もしそうなら、従属物A-Bが指し示す現実がA-Bの主語であり、この相違の総合の根底には同一性がある。 
 単に同じであるという意味での同一性ではなく、多様性のなかでの同一という意味での同一性である。判断においては、単なる項としての区別の他に、時間においてもAとBは対立している。A-Bが主張されるときの主語は、そうした相違の支配下にあり、同一は保ちながら、それ自体において異なっている。この意味において、あらゆる判断は、相違のもとにある同一性か単一の主語の真実である多様性を主張する。この論議をより精妙なものにしていくことが形而上学の仕事であろう。我々は最終的には、どんな関係も包みこむことのできない存在のなかにあるなにか、存在の間にあるなにかがあるかどうか尋ねてみなければならないし、その要求をうまくまとめることは難しいかもしれない。しかし、我々は既に探求の限界にまできている。判断に含まれる真の主語については後の章でまた扱うことになろう。そこではいまはまだ曖昧さの残る点をより明確にできるよう願っている。

2014年3月18日火曜日

水割りのワインのもたらす「甘美なまでに特異な状態」――ノート9

 「鬣」第33号に掲載された。

 ロラン・バルトは、古代ギリシャ人が、一般的に大量の水で割ったワインしか飲まなかったこと(ワインは水の八分の一)、そして生のワインと水で割ったワインがもたらす陶酔は質を異にしており、水で割ったワインを飲むことは、「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった」と述べている。この「甘美なまでに特異な状態」とはいかなるものなのだろうか。

 プラトンの『饗宴』は、参加者がみな昨日の酒が残った二日酔いの状態であることを告白することにはじまり、恋の神であるエロースについて参加者がそれぞれ自身の「言論」を発表することが続く。なかには、有名な、アリストファネスの説、人間は本来二体が合わさった球形であったが(男女、男男、女女の三種類)、驕慢で神に逆らったためにゼウスによって二つに切断され、それ以来、人間は失われた半身を求めている、という言論が含まれている。そして、それぞれがエロースについての説を発表したあと、「たいへんな酔っばらい」であるアルキビアデスが乱入し、ソクラテスを賞讃することで『饗宴』は終わる。つまり、二日酔いからはじまり、酔っぱらいの闖入で終わるわけで、ほどよい酩酊とは無縁なのである。

 同じくプラトンの『法律』では、酒は若者の弱点をあらわにするので、彼らに注意を与えるに際し有効なテスト法である。だが、いずれにしろある言い伝え、「ディオニュソスは、継母ヘラによって魂の判断力を奪われ、そのためにその復讐をしようとして、バッコスの狂乱やありとあらゆる狂気の踊りをもたらしたのであり、酒もまた、その同じ目的のために贈られたものだ」(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)によれば酒とは狂気への道であるから、軍役に服している者はいついかなるときにも酒ではなく水を飲んで過ごさねばならない、国内にいる奴隷は、男も女も酒を飲んではならない。船長も裁判官も職務を遂行しているときには飲んではならない。重要な評議会に審議のために出席する者も飲んではならない。いかなる者も、身体の訓練や病気のためでなければ、昼間は決して飲んではならない。夜であっても、子供をもうけるつもりのあるときは飲んではならない、それ以外にも「正気を保ち正しい法律に従う人なら、酒を飲んでならない場合は、たくさんあげられるでしょう。」と述べ、更に「こうした原理に従えば、どんな国家も多くの葡萄園を必要とはしないでしょう。また、他の農産物やすべて日々の食料品が統制を受けますが、なかんずく酒は、あらゆるもののなかで、おそらく最も適量に、最も少なく生産されるでしょう。」といかに酒の力を封じ込めるかに力点が置かれている。

 こうしてプラトンは国家全体にそれぞれの職務、階級に則った節制の徳を与えようとしているのだが、こうした節制は単に欲望に対して否定的なものなのではなく、フーコーが言うように、快楽のひとつの術ともなり得る。というのも、節制の反対である不節制は、欲求を過度に貪ることであり、欲望にいかにも忠実であるように見えて、実は、行き過ぎている。たとえば、飢えや渇きが過度に満足させられれば、その欲望は死に、食べたり飲んだりすることの快楽の感覚は押し殺されるだろう(楽しく食べ続け、飲み続けていたことが、いつかある閾を越え、苦行に近しいものとなることは誰にでも経験があろう)。つまり、節制というのは、満足を常に控えめに抑えておくことによって、快楽を受ける余地を残しておけるよう身の備えをすることだ、ということになる。ソクラテスからプラトンへといたる快楽の教えはまさしくそのようなものだったのだろう。

    節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を《活用する》ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうるのだ。ソクラテスによれば、「ただ節制のみが、上述の欲求をわれわれをしてがまんせしめ、ただそれのみが記憶にとどめるに足る快楽を楽しませる」。しかもまさしくこのような仕方でソクラテス自身も、クセノフォンの言葉を信じると、日常生活で快楽を活用している。すなわち、「ソクラテスは食事の量を食事が楽しみである程度にとどめ、そのために、食卓に向かうと、いつでも食欲が調味料のかわりをしていた。酒は咽喉がかわかなければ飲まないから、どんな酒でもおいしかった」。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 田村俶訳)


 しかし、これもまたバルトのいう「甘美なまでに特異な状態」からは遠いだろう。いつでもおいしくものを食べ酒を飲めるように、腹具合や喉の状態を少々空腹や渇きをおぼえる程度に保っておくというのは、快楽を一元化することでもある。つまり、バルトの場合には、生のワインを徹底的に飲んで酔っぱらうという陶酔と、それとは質の異なる水割りのワインによる「より軽やかな」陶酔があったわけだが、このソクラテス=プラトン的な節制では、適度な空腹や渇きを癒す際の快楽だけしかないのである。

 プラトンから離れ、ギリシャの詩を見てみても、たっぷり飲み明かそうと訴える詩ばかりで、軽やかな特異な陶酔を描いた詩を見いだすことはなかなかできない。前三世紀初頭の詩人、アスクレーピアデースの詩を一編あげておこう。

  飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故この涙か、何を思ひ悩むのか。
   つれないキュプリスが捕虜(とりこ)にしたのは、お前ひとりではあるまい。
  また、お前のためのみに、意地悪い愛神(エロオス)が弓や矢を
   磨ぎすましたのではあるまい、何故生きながら灰にかう塗(まみ)れてゐるのか。
  飲み明かさうよ、さあバッコスの生(き)の飲料(のみしろ)を。夜明には指一ふし。
   それとも復た閨にさそふ、灯火(ともしび)の影を見るまで待たうといふか。
  飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうちに、
   可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等
      ではないか。
  (『ギリシア・ローマ叙情詩選』 呉茂一訳)

 「同じ禁欲を実践していた」(バルト)というオリエントの人々のなかから、(大分年代は下るが)オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をひもといてみても、酒に関する詩は数多くあるが、特異な陶酔は感じられない。二例だけあげておこう。

    76
    身の内に酒がなくては生きておれぬ、
    葡萄(ぶどう)酒(しゅ)なくては身の重さにも堪えられぬ。
  酒姫(サーキイ)がもう一杯(いっぱい)と差し出す瞬間の
    われは奴隷(どれい)だ、それが忘れられぬ。
 
    99
    おれは有と無の現象(あらわれ)を知った。
    またかぎりない変転の本質(もと)を知った。
    しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、
    酔いの彼方(かなた)にはそれ以上の境地があった。

といったふうで、少なくともわたしには大量に飲む姿勢をあらわしているように思える。

 更にいえば、酒と分かちがたく結びつくことになった葡萄の神であるディオニュソスは先に述べたように各地に狂乱を振りまいた神であった。そして、形象に止まり、彫刻や叙事詩に結実したギリシャ精神を「アポロン的」とし、非表象的で、人間の根源的な衝動の発露であり、叙事詩や音楽としてあらわれたギリシャ精神を「ディオニュソス的」と名づけたニーチェによって、酒はより決定的に、深い酩酊と結びつけられるようになったのではないだろうか。

   ディオニゾス的興奮は、自分達が内的に合致していると意識するところの、此の如き精霊群にとりまかれたる自分達自身を見ることの此芸術的能力を全群衆へ賦与し得るのである。悲劇合唱のこの作用は劇的根源現象である。自分自身の前に変形されたる自分自身を見るということ、そして今あだかも、人が実際ある別な体に、ある別な性格にはいっていたかのように行動するということは。このようなる作用は劇の発展の発端に立っている。ここにはその形象と融合しないで、むしろ画家の如く観照的な目で自分自身のそとを見るところの、あの史詩吟誦なぞとは異った何物かがある。ここには既に別な性格への没入による個性の放棄がある。そして固よりこのようなる現象は流行病的に出て来る。全群衆がかくの如く変形されて自らを感ずるのである。この故に酒神頌歌は本来はいかなる他の合唱歌とも異っている。月桂樹の枝を手にして、厳かにアポロの神殿へ練り行き乍ら、行列の歌をうたうところの処女達は、依然としてもとの儘の彼女等であり、彼女等の市民としての名前を保持している。酒神頌歌の合唱は、形を変えられた人人の合唱である。そして彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている。希臘人のあらゆる他の合唱的叙情詩は、アポロ的な個人的唱歌者の巨大なる増進にすぎない。しかるに酒神頌歌に於ては、自分達をお互いの間に変形されたものと見なすところの、無意識的な俳優の一共同体が私達の前に立っているのである。
  (『悲劇の出生』生田長江訳)


 こうした経験は、むしろ神秘的とも言えるものであって、飲酒による酩酊などとは質を異にしていると言うべきだろうか。確かにニーチェの描いているのは、神の祭祀に結びついた聖なる経験であり、世俗化されつくした現代の世界とは隔絶しているように思える。しかし、酒神こそいないものの、たとえば吉田健一の短編「酒宴」などはニーチェの呈示したのとさほど異なることのない経験を描いていないだろうか(同じような経験を描いた吉田健一の文章は、枚挙にいとまがないほどあるので、あくまで任意の一例である)。

 銀座の「よし田」で「円いと言ふ他ない感じの」中年男と飲み始めて別れ難くなる。東京駅の方の地下のなんの飾り気もない店で朝まで飲み、その足で男が酒の技師を務めている灘の工場まで見学しに行く。工場にはタンクが並んであり、大きな茶碗で利き酒をする。見学が終わると、神戸の「しる一」という料理屋の二階で宴会が始まる。やがて、なぜか、いま工場で見てきた四十石入りや七十石入りのタンクが献酬相手になっている。七石さんは胴の真ん中辺のふくらみ方から女であるらしい。いつの間にか場所は山の上の草原になっており、「自分」はタンクを取り巻いて神戸からその後ろの連山まで伸びる途方もなく大きな蛇になっている。

2014年3月17日月曜日

枕絵の肛門

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○枕絵に女の肛門を描かないのは西川裕信よりからのことだという、山岡明阿の話。

2014年3月16日日曜日

夢と月餅--『金瓶梅』



「鬣」第33号に掲載された。

中国には、邯鄲の夢や南柯の夢のように、短いうたた寝に一生の浮沈を経験するような寓話がある。そこで見られる夢は『金瓶梅』のようなものでもよかったかもしれない。

というのも、ひとつには、よく知られたように、『金瓶梅』は『水滸伝』のスピン・オフのような作品であり、『水滸伝』では西門慶と密通する潘金蓮が夫の武大を砒素で毒殺するものの、それを知った虎殺しで有名な弟の武松に両人とも血祭りにあげられるのだが、『金瓶梅』では両者はいったん逃れおおせ、百回に及ぶ『金瓶梅』という物語を生きるからである(もっとも二人とも終盤で死んでしまい、最後まで残ることはないのだが)。つまり、『金瓶梅』とは武松に殺される一瞬の間に、西門慶あるいは潘金蓮が見た夢と考えられないこともない。

もうひとつ、『金瓶梅』に夢幻的な性格を与えているのは、物語が巨大なモラトリアムに呑みこまれたかのように、一向に動きださないことからきている。岩波文庫では一冊に十回分、全十巻に及ぶが、物語が本格的に動きだすのは、第六巻、第五十九回、潘金蓮とともに六人の夫人のなかでもっとも寵愛の深かった李瓶児の子供が死んでからのことなのだ。

それまでに、西門慶は役人となり、賄賂をばらまくことで地位を上げ、力をつけていくのだが、その内実とは要するに、仲間たちと酒を飲みご馳走を食べ、六人の夫人ばかりでなく、人妻や芸者や女中などと媚薬や性具などを使いつつセックスを繰り返しているだけなのである。

しかし、こうしたいつまでも続くかのような宴が、この大長編の約六割を占めることで、それ以降の出来事がより意味深いものとなる。第六十二回では、子供の死から立ち直れないかのように李瓶児が死ぬ。西門慶はこれまでは見せなかった悲しみの感情をあらわすようになる。そのうち、同僚の夫人に情欲を燃やすことで、ようやくもとの西門慶が戻ってきたかに思われたのだが、それも燈火が消える前にひときわ大きく燃えあがるようなもので、泥酔して意識が混濁しているときに、潘金蓮に大量の媚薬を飲まされてから病の床につき、陰嚢がふくれあがって鮮血が流れ出し、亀頭に吹き出物ができて、黄色い液を後から後から流しながら死んでしまう(第七十九回)。潘金蓮は戻ってきた武松に両手で胸を引き裂かれて死に(第八十七回)、西門慶の家にいた者は櫛の歯が落ちていくように散り散りになり、多くは非業の死を遂げる。

この感触は、おいしい月餅を食べたときのことを思わせる。餡はそれほど甘くなく、かちかちに冷やしたアイスクリームほどの歯ごたえがあって、それでも二噛み三噛みしているうちにみるみる溶けて
なくなり、胡桃やわけのわからぬ木の実の感触だけが残るような月餅で、夢のような宴が淡々と消えてしまっても、西門慶や潘金蓮の放蕩を支える生命力が確かな歯ごたえとなって残るのである。

2014年3月15日土曜日

ブラッドリー『論理学』16

 第一巻判断、第一章判断の一般的性質から。

 §16.(ii)ここで最初の誤りを終え、次の誤りのグループを考えることとしよう。それらは共通の欠点、判断においては一組の観念があるという誤った考えに苦しんでいる。我々はこの錯覚を§11で扱い、以下の章でも出会うことになるだろうから、ここでは簡単に触れるだけで十分だろう。一般に受け入れられている伝統的な主語、述語、繋辞は単なる迷信である。判断において肯定される観念的事柄は、疑いなく、内的な関係を有しており、ほとんどの場合(すべてではない)その事柄は主語と述語として配列される。しかし、その内容は、既に見たように、肯定でもそれ以外でも同一である。もし判断する代わりに質問したとしても、質問された事柄は判断される事柄とまったく同じである。それゆえ、この内的な関係がそれ自体で判断となることは不可能である。よくいって、判断の条件となるのがせいぜいだろう。繋辞が一組の観念を繋ぐものだとしても、それは判断とは関係がない。他方、もしそれが判断のしるしだとすれば、それは繋ぐ働きをしない。あるいは、それがつなぎ合わせることと判断することの両方だとすれば、判断とはいずれにしろ単なる繋ぎ役ではないこととなろう。これ以上この一般的な誤りに関しては述べない。それが誤った見解に及ぼす結果について指摘していくことにしよう。 
 (a)判断はあるクラスへの包摂やそこからの排除ではない。「AはBに等しい」、「BはCの右手にある」、あるいは「今日は月曜日の前の日だ」と言うとき、私は心の内に「Bと等しいもの」、「Cの右にあるもの」、「月曜日に先立つもの」についての集合記述をもっているのだと主張する教義はまったく事実に反している。それは、「これは我々の息子のジョンだ」、「これは私の一番いいコートだ」、「9=7+2」ということで、私は「我々の息子であるジョン」、「一番いいコート」、「7+2と等しいもの」について考えているのだと主張するのと同じ程不条理である。この見解が先入見を含まず、それ自体で事実の解釈であるとするなら、これほど議論されるようなことはなかったと思う。後にこの問題には戻らざるを得ないので(第六章)、ここではこのままにしておく。 
 (b)判断は主語への包摂やそこからの排除ではない。主語ということでここで私が言っているのは、観念内容のすべてが指し示す究極的な主語のことではなく、その内容のなかにある主語、別の言葉で言えば文法的な主語のことである。「AはBと同時である」、「CはDの東にある」、「EはFと等しい」というとき、ACEだけが主語で、残りが属性だと考えるのは不自然である。立場を入れ替えることも同じように自然なことであるし、多分より自然なのは、どちらもせずに代わりに「AとBは同時である」、「CとDは東と西にある」、「EとFは等しい」と言うことである。肯定されるのであれ否定されるのであれ、複雑な観念は、疑いなくほとんどの場合、主語とその属性となる性質が配されるが、少なからぬある種の例では二つ、あるいはそれ以上の主語がその間に存在する関係を属性とすることがある。私は沢山の主語を一つの主語として曲解できることは認めるが、曲解が認められるなら、探求というのは単に曲解間の争いになってしまうだろう。すべての主語を一緒にし、それぞれ独立した性質(各主語)の間の関係を属性として示すこと、あるいは、この関係を主語とし、残りのすべてを属性を示す述語とすることはさしたる技術を必要とはしない。かくして、「AはBと同時である」において、「ABの存在」を同時性の属性と呼ぶことも、「Bとの同時性」をAの属性と呼ぶことも容易である。結局の所我々に観察できるのは、存在に関する判断は、我々が考えているような間違いには容易には陥らないということである。「ここにはなにもない」というような否定的判断には容易なことでは説得されないだろう。しかし、これらの点については後で言及しなければならない(第二章、三章)。 
 (c)判断は、主語と述語が同一、または等しいことを主張するものではない。この間違った教義は、前に見た間違いの自然な帰結である。まず、判断においては二つの観念の間の関係があると仮定し、次に、それらの観念は外延において考えられねばならないと仮定するのである。しかし、どちらの仮定にも欠点がある。その帰結を考え、それが有益かどうかを問うのでなく、真実かどうかを問えば、我々は長くためらうようなことはないと思う。「あなたは私の前に立っている」、「AはCの北にある」、「BはDに続く」といったことで、我々が実際に意味しているのが等しさや同一性の関係なのだということは端的に信じがたい。曲解もここまでくると、一般の人々は自分の眼で見たものも信じられなくなるだろう。 
 作業仮説として使うと、ある制限内ではいかに有効なものであろうと(第二巻、第二部、第四章を見よ)、真実としては真面目な検証には耐えないだろう。より詳しく見てみよう。 
 (i)等しいと認められたものは、もちろんにおいても同一であり、それ以外ではあり得ない。私はこの言葉の無謀な使用についてあえて勇をふるって不満を述べなければならない。=という記号を性質の同一、あるいは個物としての同一性(その違いについては問わないことにする)に用いることには耳障りなところがあるのは間違いない。多分、なんの害もないだろうが、我々がそれを用いる際には誤用や混乱を防ぐためのなんらかの制限が必要である。そこで、等しさを正確な意味にとり、量の同一をあらわすものとしよう。しかし、もしそうなら、もし主語と述語が量的に等しいとされるだけなら、「黒人は人間である」というのは「すべての黒人=人間の一部」ということで、二つのものについて言われ意味されるのが数的な比較でしかないなら、2=12-10といったレベルのことに過ぎず、両者の間にまったく違いはなく、すぐに次に進めるだろう。少なくとも、ある種の判断が量の関係では表現できないことは確かであり、それができるのは非常に小さな範囲にしか過ぎないことも確かである。例は特に必要ない。「希望は死んだ」というのは、「希望と死物の断片には正確に同じ量の構成要素がある」とでもいうことを意味しているのだろうか。「判断とは等式ではない」と主張することで、両者を2で割っても同じ量にはならないという私の信念を表明してもいるのである。 
 =という記号は等しさを意味しているとは思えない。主語と述語の構成要素がにおいて同一であることを意味しているのではない。両者が同一であることを意味しているように思えるのである。それが主張する同一性とは量的なものではなく、絶対的なもののようである。「あらゆる黒人=人間の一部」において「=」は量的性質的双方の相違の排除をあらわしている。 
 (ii)同一性とは(a)類似ではない。それは限定的なものであれ非限定的なものであれ、部分的な性質の同一性にある関係ではない。「鉄=ある種の金属」は「ある種の金属は鉄に似ている」ということを意味することはできない。事実がそうした解釈を退けるばかりでなく、それでは理論が働かないのだろう。「似ている」、「類似」というのが実際に働いている語句なら、それは=の場合と同じように、理論が実際に言っていることを意味していない、あるいは実際になされていることをまったく知らないことの証拠となる。AがBに似ているからといって、一方の代わりに他方を使うことは、もちろん、正しいことではない。(第二巻参照) 
 (b)繰り返し言うが、同一性とは部分に限定されるもの、ある特殊な点、あるいは部分において性質が同じだということではない。というのも、この解釈によれば、同一の点がはっきりしない限り先には進めないことになるからである。そうなっては、等式理論は働かなくなってしまうだろう。 
 (c)両項は名前が異なっているだけであり、判断で重要なのはこの名前の相違だと仮定するのでなければ--この考え方については後に一瞥することにする(第六章)--我々は=という記号を<あらゆる>相違を排除する完全な同一を意味するものととらなければならない。しかし、もしそうなら、理論が首尾一貫したものであることを望むなら、すぐに修正を加えねばならない。「黒人=人間の一部」というのは、「人間の一部」が「=黒人」でないのは明らかであるから、真ではないことになろう。また、黒人が人類のある定まった部分と等しいというのも真ではない。定まった部分というのは普遍的な属性であって、黒人同様他の人間にも適用されるからである。もし「である」や「=」が「と同一である」ことをあらわすなら、「Aは1/3Bである」というのは「Aはある種のBである」と同じく間違っている。「ある種のB」とはAであるBに当てはまるばかりではない。他のB、Aではないものにも同じように当てはめることができる。それは「1/3B」でも同じことである。それはAと同一のものにも当てはまるが、Aではない2/3の部分にも同じように当てはめることができる。述語を量化しようとするのは中途半端な教義で、「=」が等しいことを意味するなら事実に反しているし、「=」が「である」に過ぎないなら馬鹿げており、「=」が「と同一である」をあらわすなら紛れもない誤りである。 
 一貫性を得るためには、我々は述語を量化するばかりでなく、それを性質づけなければならない。黒人である人間は、人間のある限られた集団でもすべての集団でもなく、確かな数をもっている。彼らは黒人である人間であり、それこそが述語となる。黒人=黒人-人間であり、鉄=鉄-金属である。述語はこうなると主語と同じようなものであり、その代わりを務めることもできる。この考えは大胆であり、その帰結は考慮に値する。しかし、その作用力ではなく真実を見るなら、この考えはまだ大胆さが足りず、最後の矛盾を取り除く勇気が要求される。 
 AがまさしくABと同じであり、ABがAとまったく同一であるなら、確かに驚くべき結果である。A=Aであるとき、一方の側にBをつけ加えても等しさはもとのままで真だということがありうるのだろうか。Bが0を意味しているのでないなら、それはなんらかの相違をもたらすはずだと考えるのが当然だろう。しかし、もし相違をもたらすなら、我々はもはやA=AB、そしてAB=Aということを信じることはできない。もし「鉄ー金属」が「鉄」と同一であるなら、どんな誤解によって両項に異なった言葉を書き留めることになったのだろうか。もし両者に相違があるのが確かなら、「=」を自分で否定していることになり、その言葉は誤りになる。しかし、もし相違がないなら、そのような形で、「鉄」と「鉄-金属」を対立させたことは間違っていたことになる。 
 ここには一つの問題があるだけである。もしAがABなら、ABであるAはAではなくABだということである。どちらの項もまったく同じであり、そのように言明されるのも当然である。黒人-人間は黒人-人間であり、鉄-金属は鉄-金属である。ジレンマについて考えよう。BはAの付加物であるかそうでないかである。もし付加物でないなら、それを加えるのは無駄なことである。それはどちらの側を選んでもなにも意味せず、どっちにしろ無意味であるから取り去るべきであり、そうするとA=Aとなる。しかし、Bが付加物なら、A=ABは真ではあり得ない。どちらの側にもBを加えねばならず、AB=ABとなる。簡単に言うと、Bは消え去らねばならないか、両側になければならないのである。 
 こうして我々は首尾一貫させたわけであるが、読者はこう問うかもしれない、この結論はまだ間違っているのか、と。私は片意地だとは思われたくないので、こう問い返したい、あなたはこれが真実だと思いますか、と。私はあなた方の答えを受け入れよう。もしあなた方が同一性に関する命題はすべて間違いだというなら、私はそれに反対はしない(第五章§1参照)、というのも私もまたなんらかの相違を主張しないような判断は存在しないと信じているからである。しかし、もしあなた方が真実だという方に荷担するなら、私は質問をしてみたい。真実であると主張しているからには何ごとかを主張しているはずだが、あなたはなにをいったい主張しているのだろうか。相違のないところには相違は存在せず、ABはABである限りABだということだろうか。ほとんどなにを意味したことにもならない。ABの存在が秘密裏に主張されているのだろうか。しかし、もしそうなら、素直に「ABが存在する」と言うべきで、ABの繰り返しにはまったく意味がない。我々がその存在を知っているのは、それを疑っているからではなく、その存在を知っているからだと私は思う。 
 それでは、AB=ABで我々はなにを主張しているのだろうか。主張すべき何ものももっていないに違いないと思われる。判断は中身を抜き取られ、最終的には消え去るのである。我々は前提から結論にまで速やかに移動し、最終的に我々に残されるものはなにもない。主語と述語の相違を取り除くことで、我々は判断というものすべてを取り除いてしまったのである。

2014年3月13日木曜日

金羅といいかけの句

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○俳諧の宗匠金羅は、いいかけの句を好んだので、巻中に秀逸ないいかけの句が多い。思いだして幾つか記す。
  お目にかゝるはおはつ徳兵衛  あはれ柳の下へうめわか
  姉女郎に顔も二丁目 夕べも一人きりしたん坂
  朝/\粥をくふや上人  猿寺の尻は赤城の組みやしき
  鍋島の尻は黒田の表門  組やしき通ぬけすべからす山
市川団十郎三升、市川八百蔵後家と密通の沙汰があったとき
  八百蔵が後家へさんじやうつかまつり
鬼娘の見世物があったとき
  きぬをめくりの鬼のみせ物
してやんしてどふしたという歌がはやったとき、
  かけおちをしてやんしたがどふしたへ

2014年3月12日水曜日

投句7

 『鬣』第32号に一部掲載された。

夏の空水を凝らすレンズ売り

夏牛のふぐりのごときのれんかな

小魚が一人双六龍となり

押絵師の塵を動かす声のさび

肉色の肉でくぼまる夢の壁

色里の楊貴妃の間の水時計

蚊遣火の風下で酌む寝杯

子狐と妲己の夢で共寝をし

2014年3月11日火曜日

ブラッドリー『論理学』15

 第一巻判断、第一章判断の一般的性質から。

 §15.長らく生気を失っていたが、頑強に場所を塞いでいた教義を反駁することから代わって、最新の誤り、判断と実践的な信念との混同について考えることにする。私はいかなる心的な活動がどれだけベイン教授の理論と整合性をもつのか、あるいは生理学的には筋肉の神経分布に存すると思われる心的活動性の本性について論ずることもできない。それに、(疑いなく私の無知によるものだが)ベイン教授の生理学は驚くべき曖昧さで私を悩ませているとつけ加えねばならない。もし彼の見解を受け入れるなら、どちらにしろ訂正されるに違いないイメージと意味との混同を見いだすだけではないかという疑いに目をつぶらねばならない。 
 我々は、判断は常に実践的なのか、という疑問は、意志がなんらかの形でそれに関わるものか、ということを意味しているのではないことを思い起こさねばならない。その場合、心的現象の発生はすべて意志のもとに生じると論じられることとなろう。この疑問が意味しているのは、判断の本質は、真や偽を生みだすことにあるのではなく--それがあらわす事物のなにものをも変えることがない--現実に存在するものに実際的な変化を生みだすことにある、ということである。より簡単に言うと、ある観念が真だと判断されるとき、それは判断が他の現象を動かし、その肯定なり否定はこの動き以外のなにものでもないことを意味している。この教義は、ある観念が真とされることは、同じ観念がそのように示唆されることとは大きく異なることを認める。そしてその本質的特質とは我々のふるまいにおける観念の効果にあって、それ以外に本質的特質などないと主張する。 
 先に進む前に論理的誤りがあることを指摘しておこう、というのも、この誤りがベイン教授を道に迷わせているからである。肯定された観念が行動の原因となり、信じられていない観念はふるまいに影響を与えないと仮定してみよう。こうした前提から、それゆえ判断は影響力のあるものなのだと結論することはできるだろうか。別の言葉で言えば、AがBに変わり、疑いようのない相違qがあって、qはAが変わった後でしか見いだせないとするなら、このことは、変化がqに存するという主張を正当なものとするだろうか。qはpの後に続くもので、pこそが実はAをBに変えたのだということも可能ではないだろうか。この論理的誤りを十分心にとめておこう。我々が調べようとしている主張とは、実践的な影響が我々に判断を引き起こす、あるいはなんらかの判断がそれに由来するというものではない。主張されているのは、判断はそれ以外のなにものでもないということである。 
 この間違った本質的特質に反対して、私は簡単に次のことを述べよう。(a)この本質的特質は事実には欠けているかもしれない。(b)これは他の事実と結びついているかもしれない。(c)事実は他の特徴を含んでおり、、それが真の本質的特質であり、間違ったものではないこともある。(d)間違った本質的特質が事実を排除する絶対的な性質をもっていることがある。 
 (a)もし、三角形の内角の和は二直角に等しい、といった抽象的な例で理論を検証するなら、それはすぐに崩壊する。観念によって及ぼされる実践的な影響を常に見いだすことは不可能である。「しかし、影響を及ぼしているかもしれない、あなた方はきっとそれに基づいて行動しているだろう」という答えが返ってくるかもしれない。こうした答えは「経験論」では通用するかもしれない。しかし、哀れな「超越論者」であれば、特権を不法に行使したとして責められることだろう。少なくとも、事実に対して特定の意図と可能性と単なる観念とを見てとることは許されない。そして、次のような疑問、つまり、影響は存在するのかしないのか、という問題を免れることはできない。もし存在しないなら、ベイン教授の理論が消え去るか、定義を変え、観念は潜勢力と結果を生みだす傾向によって富まされるときに判断になるのだと言うことになる。もしそれらが観念ではないなら、あるがままのものだと言われる。しかし、もしそれが最初の観念に伴う観念に過ぎないなら、我々の答えは簡単である。第一に、そうした影響が常に存在するというのは真実ではない。第二に、それが加えられたときに実践的な影響を及ぼさねばならないというのは真実ではない。 
 (b)第二に、観念は真実だとは決して認められないにもかかわらず、私に影響を及ぼすかもしれない。ある観念と結びついた感情や情動は、その観念が真とは認められず、誤りであることさえわかっているのに決断を妨げたり生みだしたりすることができる。私はアシナシトカゲが噛み、雄バチが刺すことはないと信じてはいても、尻込みしてそれに触れようとはしないかもしれない。幽霊など信じていないにもかかわらず墓地を避けるかもしれない。幻影は、幻影として認められれば意志決定に大きな力を及ぼしたり、常に同じ影響を与えたりはしない。しかし、信じていないにもかかわらず、影響を及ぼすことはあり得るのである。もしなにかを幻影なのだと判断したら、それを完全に無視することになろう、というのもそうした無視こそが判断であるから、と言わねばならないような見方は真実とはいえないだろう。 
 容易に例証できるような点にこれ以上とどまるのはやめよう。しかしながら、ついでに、真には思えないのに我々の行動に影響を及ぼす観念の種類を読者に思い起こしてもらおう。私が言っているのは経験的な観念、不満足を感じているときの満足された欲望の表象である。それらが我々を積極的な追求に駆りたてることは確かであり、それらが真であると判断されないことも同じように確かである。というのも、もしそれが真実なら、まさしくそのことによって、それは我々を動かすことに失敗するからである。 
 (c)しかし、すべての判断が実際に行動を引き起こすと仮定してみよう。このことは判断とはそうした行動以外のものではないことを示していないだろうか。きっとそうではない。我々はある示唆された観念が真実だと判断されたとき、我々に起ることを観察することができる。明らかにある活動性(どれほど記述することが困難であっても)が姿を現わし、まだ(偶然による以外は)世界や我々自身に変化をもたらすには至っていない。この真の本質的特質が証明されるなら、それで問題は解決するだろう。ここで再び、直接的な観察から離れて、間接的に議論することができる。肯定と否定は、真と偽の相違とともに、真の現象であり、そこには意志に対する観念の影響を免れるなにかが存在する。明日は雨が降るだろうという判断が、今日傘を買うことと同じなら、あるいは、長靴を履きなさい、というのが昨日は土砂降りだった、ということよりより真実に近い形式だというのはおかしなことである。子供がベリーを見て、これを食べて調子が悪くなったことがあると判断したとき、肯定という行為が行動を差し控えることにあり、それ以外のものではないことも奇妙に思われるだろう。 
 (d)実践的態度に判断の真性の特徴がないだけでなく、真の判断を欠いた性質を見いだすこともある。示唆された真実は程度の問題ではなく、観念を現実に当てはめる行動はそれを指し示すか示さないかである。多少の違いやある程度ということはあり得ない(第三章参照)。言葉を厳密にとれば、半分の真実とは真実ではなく、「多かれ少なかれ正しい」というのが実際に意味しているのは「それは制限つきで正しい」と言っているのか、「全体としては正しくないが、多少の部分は正しい」ということである。しかし、観念の実際的な影響には程度があり、それは判断がもっていない性質なのである。 
 こうした理由から、どれか一つだけでも十分なのだが、我々の眼前にある教義が失敗したことは明らかに思われる。この誤りの一つの原因は、我々が次に指摘しようとしている重要な区別を無視したことにあるように思える。判断は主として論理的なものであり、程度というものがない。観念内容と現実との関係は存在するかしないかでなければならない。他方、信念は主として心理学的なものであり、理論的であれ実践的であれ、程度が存在する。(a)知的信念や確信はある種の判断に対応する一般的なものである。AがBであることを信じるということが意味するのは、A-Bという観念が示唆されたとき、いつでもそれを肯定するということである。あるいは、その観念は私の心の大きな部分を占めており、持続的な習性や支配原理となっており、私の思考を支配し想像力を満たしているので、A-Bという主張は頻繁に繰り返され、様々な方向に知的枝分かれやつながりを生じている、ということである。しばしばあることだが、A-Bをそれほど信じられない場合には、それはより劣った影響力しかもたないことになる。A-Bが示唆されたとき、私はそれを辛うじて信じるか、ときには疑うこともある。これもよくあることだが、疑いに反対してためらいがちに主張し、一貫した態度をとり続けられないことがある。あるいは、まったく信じてはいないのだが、多かれ少なかれどちらの側にも根拠があると多かれ少なかれ納得はし、どちらか一方に心は傾いているのだが、一線を越えてそれを主張するまではできないこともある。(b)実際的な信念においては、こうした知的確信の程度の他に、程度に関わるもう一つの要素がある。知的内容の真実が程度に関わるだけでなく、それに加えてその私の意志への影響も程度に関わる。より強い、永続的な、あるいは一般的により支配的な欲望には答えるが、弱いつかのまの衝動には答えないことがある。存在の程度ばかりでなく、活動の程度もあり得るのである。こうした曖昧さが指摘され避けられない限り、混乱を明らかにするのは容易ではないと私は思う。ベイン教授の主な論理的誤りとは、「信念は行動を導きださねばならない」という(誤った)前提から、「信念とは行動を引き出すものである」という見当違いの結論を出したことにある。



2014年3月10日月曜日

ロラン・バルトと臓物料理とワイン――ノート8



 『鬣』第32号に掲載された。

 『彼自身によるロラン・バルト』のなかで、バルトはそれまでの自分の著作を四つの時期に分けている。社会的神話研究、記号学、テクスト性、道徳性とそれらはジャンル分けされ、社会的神話研究に結びつく名前としてあげられているのが、サルトル、マルクスと並んでブレヒトである。この時期、というのはつまり、1950年代、著作で言えば、『零度のエクリチュール』から『神話作用』が完成されている時期に、バルトは演劇にも深く関与しており、「テアトル・ポピュレール」誌を中心に七十篇ほどの劇評を書いている。当然、そこにはブレヒト演劇に対する熱烈な讃辞もあるのだが、後に当時のことを振り返って書いた文章「演劇についての証言」(野村正人訳『ロラン・バルト著作集6』 死後刊行された『演劇論集』の巻頭に収録された)では、まさしくこのブレヒトへの熱狂こそ、自分が演劇から遠ざける結果をもたらしたのだと述べている。

 ブレヒトの演劇をするには実はお金がかかるとバルトは言う。とうのは、ブレヒトが舞台に持ちこんでいるのは、単なる思想やそれを伝えるだけのテクニックではなく、文化そのものだからである。いわゆる、政治的な、社会リアリズム的な演劇は、ブルジョア的美学を捨て去ると称しながら、実は具体的な文化のない通俗的な形式をなぞっているだけではないか、そのときブレヒトがもたらす「気品=区別」とは「芝居がそのせいで光り輝くと同時に緊張感を持つような、明快で簡潔な『コード』である。」つまり、異化効果というのは、決してなにかを排除することではなく、弛緩した空気に緊張感をもたらすような線を引き直すためのコードなのだ。かくして、こうした自分が夢想に思い描いていたような演劇を前にしてしまうと、他の芝居が不完全なものに思われ、結果として演劇から遠ざかることになってしまった、とバルトは書いている。

 バルトがブレヒトに惹かれたもう一つの理由は、ブレヒトが思想だか主義のために快楽をないがしろにしないことにあっただろう。バルトは金さえあればハバナ葉巻を買い、ブレヒトも吸っていたからと正当化していたという。また、非常な大食漢で、社会学者エドガール・モランの妻で、バルトとは最も長いつきあいの友人の一人である、ヴィオレット・モランは彼の食べ方を「食卓では、彼は舌を出すトカゲのようでした。ある日、面識のない十人足らずの人に囲まれて、夕食をとっていたときなど、フォークで料理を自分の皿に取り、トカゲのように素早く、二度、三度、突き刺していました・・・・・・」(L,-J.カルヴェ『ロラン・バルト伝』花輪光訳)と語っている。

 ブレヒトは、バルトにいくつもの層において刺激を与えた唯一の人物であると言える。ジッドやプルーストはバルトが文学をめぐる観念を形成するのに大な寄与をしたし、ソシュールの記号学も、デリダやラカンのテクスト性も理論上の影響をあたえたが、そうした理論を(しばしば浅薄だという非難を浴びながら)意味の線を引き直すための道具として使っては捨てていく身振りというのは、むしろ「理論」に奉じようとはしないブレヒトの「反ヒステリー的」な所作に近しいだろう。主義や理論を越えて、バルトとブレヒトには批評的身振り、生存の様態として近しいものがあり、バルトにとってブレヒトは演劇に限られることのない倣うべき先達だったのだ。

 ブレヒトがある種演劇の範型を提示してしまったがゆえに、ブレヒト以後滅多な芝居に満足できなくなり、1965年の「演劇についての証言」では、「いまではほとんど劇場に行かない」と書いているが、バルトは別にブレヒトとともに演劇にのめり込んだわけではなかった。実際、この小文の冒頭には「ずっとわたしは演劇が大好きだった」と書かれている。

 学生時代のバルトの成績は優秀であり、友人たちとともにフランスの最高学府高等師範学校に進むつもりでいた。しかし、1934年に結核が発病、それから約十年、つまり二十代のほぼ全体をサナトリウムと小康を得てパリに帰ることの繰り返しに過ごすことになってしまった。高等師範学校への進学もあきらめざるを得なかった。35年にいったんパリに戻り、古典文学士号を取るためにソルボンヌに登録し、そこでソルボンヌ古代演劇グループを創設する。彼らはアイスキュロスの『ペルシアの人々』を公演し、38年にはグループの仲間とともにギリシャに行く。しかし、41年には結核が再発し、42年から足かけ5年の間再びサナトリウムでの生活が始まるのである。

 サン=ティレールの学生サナトリウムであったから、文化的な活動は奨励されており、劇団もあったし、学生クラブの機関誌にして季刊誌である「エグジスタンス」もあって、この雑誌にはバルトも寄稿していた。アンドレ・ジッドについて、カミュの『異邦人』について、また古代演劇クラブとギリシャに行ったときの紀行などが発表された。

 さて、実はここまで書いてきたのは、その紀行文「ギリシャにて」の一節がはじめて読んで以来頭から離れなくなってしまったからである。この文章は断章形式になっており、『テクストの快楽』以後のバルトがもうそこにいることを示してもいる。わたしが忘れられなくなったのは「アクラコリア」と表題のついた一節の後半部分なのだが、どのみち短いし、前半部も面白いものだから一緒に引用しよう。

 レストラン〈アレキサンドロス大王〉では、古代ギリシャの伝統がいまでも生き続けているように思われる。アクロコリアつまり臓物料理を食べること。動物の内部でわなわな震え、赤く染まり(ついで緑色になる)すべてのもの。古代ギリシャ人は、複雑で退廃的なこの肉をおおいに好んだ。彼らはロースと肉を好まず、脳髄、肝臓、胎児、胸腺、乳房等、そういった柔らかく持ちのわるい肉を好んだが、それらの肉は腐りかけたとき食欲をそそってやまなかった。反対に、ワインについては精妙な慎みがあった。一般的に、大量の水で割ったワインしか飲まなかった(ワインはたったの八分の一まで)。酔うにはそれで充分すぎるほどだった。生のワインを飲むのは、徹底的に飲んで酔っぱらうと固く決意したときだけだった。巧妙な節制の証であるが、それは美徳によって培われたものではなく、陶酔、恍惚、情念を解き放ち、より軽やかに飛翔させるためだった。ほんのわずかにワインで得られる陶酔は、大量に飲んで得られる陶酔とはまったく質を異にする。あまり金をかけないで酔うことは、ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった。オリエントの人々――ギリシャ人に近いところではどこでも――は同じ禁欲を実践していた。それについては、ペルシャの詩人の詩が残されている。
          (『ロラン・バルト著作集1』渡辺諒訳)

 「複雑で退廃的な」「柔らかく持ちのわるい肉」は、ローマ人のなかで好まれていたことは読んだおぼえはあるが、古代ギリシャ人にも好まれていたのだろうか。カルヴェの『ロラン・バルト伝』によれば、バルト自身は内臓よりは子牛のクリーム煮やソース類や生クリームなど、総じて「《なめらかなもの》」を好み、内臓を好む友人に向かって「君はギリシャの闘技者と同じようなものを食べるね」と言っていたという。しかし、いずれにしろ、こうした細かな食の好みについて言及するのはいかにもバルトらしい。

 たとえば、三島由紀夫の「アポロの杯」は、かねてからの「眷恋の地」におりたった酩酊感のなかで、美について思いめぐらすばかりで、なにを食べたかなどは一切触れられていない。ヘンリー・ミラーのギリシャ紀行『マルーシの巨像』は、たしかに頻繁に食べる記述はあるのだが、なにを食べたかや味の詮索などはなく、ミラーほど良くも悪くも排気量の極端に大きい人物にとって、食事など所詮エネルギーを取り入れるだけのものであり、そんな細かな個人的快楽は快楽のなかに入らず、友人との形而上学や小説や詩からセックスにいたる尽きることのない会話や、汎神論的に広がる性感覚、世界との一体感にいたってはじめて快楽の名に値するものとなるらしい。

 それはともかく、わたしを真に驚嘆させたのは、後半、大量の水で割ったワインが生のワインと「まったく質を異にする」陶酔をもたらし、それが「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く」という部分だった。

 たまたま岡本かの子の『生々流転』を読んでいると、商家の若旦那とそこの番頭が昼間から酒を飲む場面がでてくる。この番頭は親身あり情味ある女房をもらってしばらくは有頂天だったが、しばらくするとそのまとわりつく感じがいやになり三人子供もあったのに別れてしまったような男だが、若旦那との間に相当の応酬を重ねたのち、あるときがくるとぴたりと盃を伏せ、どんなに勧めてもそれ以上のもうとしなかった。若旦那の方は飲みだすとやめられないたちで、番頭の了見がわからないものだから、酒をどんなつもりで飲むんだとなじるように尋ねる。

 「判つてゐるぢやございませんか。酔ふためには違ひございませんが、ときには気附け薬になつたり、ときには滋養になつたり、だから飲むに時と処は選みませんが、よいだけ酔つて、これ以上、むだだと思つたらさつさと切上げます。あなたのお言葉ぢやござんせんが、以下は省いてしまひますな。そこは永年の修練です」

と番頭は答える。若旦那同様わたしも「君はまだ滅びない人種の酒呑みだよ」と感嘆するに否はないが、結局それは「むだだと思つたらさつさと切上げ」られ、そうした「修練」を積むにいたった番頭の人間性に対するある種の感嘆であって、大量の水で割ったワインが厳然たる文化であるのとはまるっきり話が違っている。古代ギリシャにワインを水で割る習慣があったことは確かで、アリストテレスは若者に刺激のより少ない水割りのワインを勧めている。しかし、それが生のワインとは質を異にする「特異な状態」をもたらすという確固たる認識が果たしてあったのだろうか。

 プラトンの『饗宴』は、題名からいかにも酒を呑みながらの歓談と考えてしまうのだが、実はそうではない。饗宴には手順が定められており、ご馳走を食べ終わると神に葡萄酒を捧げる灌奠などの儀式があり、神への讃歌が歌われ、それから酒ということになる。ところが、『饗宴』では、それらが一通りすんで酒というところで、出席者の一人であるパウサニアスが「さて、それでは諸君、どういう飲み方をすれば、いちばん楽な飲み方ができるだろうか。実際ぼくとしては、諸君にぶちまけたところ、きのう飲んだ酒でひどく気分が悪く、何か息抜きになるものが欲しいところだ。それに、大部分の諸君だって同様だろうと思う。なにぶん昨日も出席していた君らのことだからね。」(鈴木照雄訳)と提案すると、他の参加者も二日酔いであることを告白し、「まあ気の向くまま飲みたければ飲むといった調子でやろう」ということで、おそらくは酒なしで、エロースに関する考えが順に述べられていくのである。

2014年3月9日日曜日

地口と語呂

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○地口が変じて語呂になる。語呂とは、言葉の続きによって言ってもいないことが言ったように聞えること。例えば、
  九月朔日いのちはおしゝ (河豚は食いたし、命は惜しし)
  市川団蔵よびにはこねへか (うちから誰ぞ呼びにはこねへか)
ある年、浅草正直蕎麦の亭で語呂万句があった。そのときの宗匠の句、語路万たま子だった。のろまのたまごということである。この頃の佳句として、人が語るのを聞くと
  いなかざむらひ茶みせにあぐら (しなざやむまひ三線まくら)
  ぶざな客には芸者がこまる (芝の浦には名所がござる)

2014年3月8日土曜日

存在の強さ――幸田文『木』


                        
『鬣』第32号に掲載された。

幸田文は新潟の海岸でテトラポットを始めて見たとき、なにか惹きつけられるものがあって、そのままずっと見ていたいと思ったそうだ。その後も時折思い返し、関連のある事柄から連想されることもあれば、まったく関係のないときにふっと浮かぶこともあった。それからも新しいもので心を動かされたことはあったし、感心することもあったが、テトラポットのようにいきいきと心によみがえってくることはなかった。理由がよくわからないので、幸田文はそれを「へんなテトラ」という枠に入れておいた。

ところが、あるときその理由がわかったような気がした。ちり紙交換に出す新聞紙を紐にかけて出しておいたところ、普段は無口なちり紙交換屋さんが、新聞が汚くなっていなこと、折り目を交互に重ねてあること、紐がしっかりと固くかけられていることが、自分がトラックに積む上でとても都合がよく、手間が省けるのでお礼に二つ余分に紙を置いていく、と言って、古新聞の束が整然と積まれたトラックが遠ざかるのを見て、次々に連想がたぐり寄せられたのである。

第一に浮かんだのが嫁ぎ先の酒問屋で見慣れた酒樽のことだった。倉には薦被りの四斗樽を縦横高さそれぞれいくつと、順々に積み重ねていくのである。次に浮かんだのが杉形(すぎなり)で、杉の形に倣うように、下部を広く頂部を尖らせるように整えることで、霊前の盛菓子、神前のお供え、来客へ出す菓子、料理の盛りつけ、薪炭俵の積み方など、杉形にするよう口やかましく言われたという。かくして、これまでの自分の生活に深い関わりのあった積むこととの関わりにおいて、テトラポットがかくも印象深いものとして間々心に浮かび上がってくるというのだ。

だが、本人自身「新潟のテトラの記憶も、なぜなのかわからない。交換屋にほめられての連想も妙なものだ。」と言うように、積まれたものが様々あるなかで、なぜよりによってテトラポットが何回も繰り返し思い返されるのかははっきりしない。

だが、『木』全体を読んでみると、幸田文がテトラポットの重量感、巨大なマッスに惹かれているのだということがわかる。縄文杉を始めて目の前にし、そのこぶだらけの姿、赤褐色のなかに灰白色の筋がうねる皮肌を「おどろおどろしくて不快」だとしながらも、しばらくするとその圧倒的な重量を「剛健」「実力のたのもしさ」として受け入れてしまう。また、山梨県にある神代桜でもやはり眼がいくのはこぶだらけの「おどろおどろと」した根元の姿であり、「こわくなる」と言いながらもそうしたいびつさから視線を外すことができないのである。

実際、植物に関するエッセイでありながら、これほど審美的な鑑賞から遠い文章は他に存在しないだろう。もしある木が美しかったとしても、それは外観の美的形象によるのではなく、その存在の強さとでも言える迫りくる力を感じられた場合に限る。結局のところ、幸田文はこの力に生涯惹かれ続けた人であって、その点では父露伴も崩れも同じなのである。

2014年3月5日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』13

あるしは貧にたえしから家     杜國

 「たえし」は絶えしであり、「たへし」は堪へしである。貞亨元禄のころは仮名遣いも厳格ではなかったので、たえしでもたへしでも、文字に堪とも絶ともないなら、堪とも絶とも決めがたい。だから、絶えしの意味にとるものと、堪えしの意味にとるものと旧来の解釈は二つに分かれて、各々に理屈があり、後の人も自分の心が赴くところに従って取捨している。

 絶えしとする方は、『大和物語』の芦刈の面影をみる。煩わしいが、全文をあげないと意味が通じにくいのであげておこう。物語がいうには、津の国の難波のわたりに住んでいたものがあった。知り合って長い男女は地位の低いものではなかったが、生活が苦しくなって、家も壊れ、使う人もより豊かな方へいってしまって、二人だけで住んでいたが、さすがに自分たちの身分もあるので、雇われも使われもしないで、貧しいままに歎いて、このように貧しくてはどうにもならないと二人で言い合った。男は、このようなことではどうにもならないからどこへでも行ったらよい、といい、女も、男を捨ててどこへ行くところがありましょうと答えたが、男は、自分はどうにでもして生きていけるが、女の身では若いのに可哀想だから、京に上って宮仕えをしなさい、うまい具合にいったら自分を訪ねてくれればいいし、自分もきっと尋ねていくからと泣きながら約束して、人をたどって女は京に行った。さしあたりどこへ行く当てもないので、そのままそこにいて、優しく思いやっていた。前に萩すすきが多いところがあった。風が吹いたときなど、津の国のことを思って、どうしているだろうと悲しく次のように歌を詠んだ。

  ひとりしていかにせましとわびつればそよとは前の萩ぞこたふる、とひとりつぶやいた。女は方々を歩いて、ある高貴な方に宮仕えすることになり、服装を整えて、面倒なこともなく、顔かたちも非常に清らかになった。 しかし、津の国のことを片時も忘れず、しみじみとおもいやった。人に手紙を預けてみたが、そういう人は聞かないと頼りのないことしか言わない。仲のいい人もいなかったので、手がかりを得る手段もなく、心配ではあるがどうしたものだろうと思いやっていた。そうこうしているうちに宮仕えしているところの北の方が亡くなり、いろいろな人の召使いをしているうちに、ある人を思うようになった。思い立って妻となった。不満もなくめでたく暮していたが、人知れず思いつづけていることがあった。どのようにしているのだろう、悪いことでもあったのだろうか、うまくいっているのだろうか、自分がいるところも知らないだろう、人をやって尋ねさせてみたいが、夫が聞けば不快でもあるだろうと、念じつつあるときに、なお気がかりに思っていたので、夫には、津の国の趣のあるところなので、難波でお祓いしてきたいというと、それはいいことだ、自分も一緒に行こうという。それには及びません、自分一人で行きましょうと、旅だった。難波でお祓いをして帰ろうとするときに、このあたりで見たいものがあるからと、左へ右へと車をやらせて、家があったあたりを見てみると、家もなく、人もなく、どこに行ってしまったのだろうと悲しく思った。こうしてわざわざきてみたが、言うことを聞いてくれる従者もなく、尋ねさせる方法もないと、悲しくなって車をたてて眺めると、供の人たちはもう日が暮れますから早くしましょうと促すが、もうちょっとと言っていると、蘆をにない、乞食のような男が車の前を横切った。その顔を見ると夫に似ている。本人とはいいきれないほどのみすぼらしい様子だが、夫に似ている。よく見てみたいと思って、あの蘆をもった男を呼びなさい、蘆を買おうと従者に言わせた。無駄なものを買うものだと思ったが、主の言うことなので、呼びよせて買わせた。車の近くまで来させなさい、見てみましょう、などと言ってその男をよく見てみると、やはりそうであった。気の毒に、そんなものを商って生活しているとは、といって泣いたが、供の者は多分世のなかに数あることを気の毒がっているのだと思っていた。そして、この男に何か食べさせなさい、蘆の値を十分とらせなさいと言うので、なんの縁もないものになんでそんなに与えるのか、と言われたので、強制してまでも言いにくくて、どのように助ければいいだろうと思う間に、車の簾の隙間が空き、男が見ると妻に似ている。奇妙なことだと気を鎮めてみると顔も声も妻のものである。そう思うと、自分の姿のみすぼらしいのを感じ、恥ずかしくなって蘆も捨てて逃げていった。しばらく、と言わせたが、人の家に逃げ入って、竈の陰にかがんでいた。車ではあの男を捜してくるよう言われたので、供の者たちが手分けをして探し求めた。ある人が、そこの家にいると言ったので、その男にこのように言いつけられているので、なにも隠れることはない、ものを下さろうというのだと言われて、硯を頼んで文を書いた。それに、

  君無くてあしかりけりと思ふにもいとゞ難波の浦ぞ住みうき、と書いて封をし、これを車の方に差しあげて下さいというので、怪訝に思って持って帰って差しあげた。開いてみると、愛しいものであるはずなのに、よよと泣いた。さてなんと返事をしたものか。車で着ていた衣を脱ぎ、包んで手紙などと一緒に渡させた。それから帰り、後のことはどうなったかわからない。

  あしからじとてこそ人の別れけめなにか難波の浦はすみうき。

 この句を芦刈の面影を借りたものとすると、物語に貧しい男の家の様子などがあるはずだが、物語の文には、なにかれと言いつくろいながら車を走らせ、家のあったあたりを見ると、家もなく、人もなく、どこに行ったものかと悲しく思った、とあり、家だけが残って人は既にいないとはなっていない。一句の評釈は本文に書いてあることと異なる。ただし、俳諧であれば、必ずしも本文と合致する必要なはなく、桂馬筋に故事を引用することも少なくないので、とりあえず可能だとしても、どうしても前句と付くところがないのをどうしたらいいだろうか。「影法の暁寒く火を焚きて」というのは「あしからじ」の歌を詠んだ女であろうか、それともその従者か、どうにも付くところがなくて、前句にもこの句にも芦刈の古い物語との関係が非常に薄く、強いて『大和物語』を引いて解釈しようとすると、却って困難で支障があるとわかる。「絶えし」が本当だとしても、『大和物語』を引くまでもない。

 また、「堪へし」とする方の解釈は、浮世を軽く見て、貧乏がどうしたというのか、というように恬淡で物事を気にしない人物、例えばみすぼらしい家に薬罐をかけて楽しんだ粟田口の善輔、また貧乏が人を苦しめるのではなく、人が貧乏に苦しむのだと詠じた髙遊外のような人の、ただ四方に壁が建つだけの家にいるのを、妙な人だと道行く人の噂し通りすぎるのだという。この解釈は一応よく思える。前句との係も、ものがない家のすべてがあらわで、がらんとしたなかで暁に火を焚くさまが、明瞭で、境涯につけたものとしてよく思える。だが、「貧に堪へし」という言葉遣いは、悪いところはないが、この頃には希な使い方である。また、四つの壁がたっただけの家を「から家」と言って言えないことはないが、一般的にはから家というのも希な言葉である。普通の言葉遣いからすると、から家は空家になった家、つまり住む者のない家である。貧にたえしは使われることが多いが、貧に堪へしはあまり使われることのない言葉である。まして、たえしとあり、から家とあることを考えると、絶えと堪への仮名遣いの論はあるが、主人は貧に絶えしから家、と見たほうが素直な見方だろう。

 仮名遣いはそのまま規矩とはみなし難く、時代によって大きな差異がある。今日用いられている正しい仮名遣いは、正しいことに疑いはないが、実際には復古仮名遣いというべきで、古学が発達して後に世に用いられるようになったもので、貞享元禄の頃は、まだ定家仮名遣いが用いられていた。であるから、たへでも、たえでも仮名の一字から句意を論じようとするなら、まず当時どんな仮名遣いが用いられていたか、復古仮名遣いか、定家仮名遣いか、あるいは何の注意も特に払われていない仮名遣いか、それらのことを察してある程度の結論を出してからでなければ意味がない。貞享の頃は復古仮名遣いはまだ広く用いられておらず、和歌などではなお鎌倉以来の誤りの多い仮名遣いを用いていた。まして俳諧では、貞享よりおよそ百年ほど後の安永の頃でも、牛家が『小かヾみ」に載せた仮名遣いを見てみると、薫るはかほる、尾はお、桶はおけ、小桶は小をけ、男はおとこ、小男は小をとことなっている不思議な規則を疑わないで用いていたほどなので、「冬の日」の初版にたへしとあっても、たえしとあっても、それだけで堪へ絶えのどちらかを厳密に論じることはできない。であるから、堪へしとしての解釈はひとまず面白いものだが、むしろ言葉遣いの普通に使われる方に従って、「あるじは貧に絶えしから家」と解するのが穏当だろう。

 とはいえ、『大和物語』を引いて解釈するのは行き過ぎで、それでは解釈も成り立たないといったほうが近い。『伊勢物語』ほどは人気のない『大和物語』よりは、より手近にある謡曲の『蘆刈』を引いて解釈すべきである。謡曲の『蘆刈』は『大和物語』からできたことは明らかだが、謡曲と物語ではいささか異なる。謡曲では、日下左衛門というものが難波にいて、その妻は郡の人に仕えて乳母となっていたが、旧里に帰って夫を家に訪ねてみると、貧しさの結果いまはないという、蘆を売るものを見て、左衛門であったので、妻は喜び、夫は恥じ入ったが、昔の愛情が復活して相伴って都へ上ることになる。物語より謡曲の方が当時の耳目に親しいものであって、特に句の情趣によくあっているので、『蘆刈』の面影をもって解釈すべきである。主人は貧に絶えしから家は、謡曲中の、「もとはここにいらしたが、貧しさ(御無力)のあまりいまはここにはいないなってしまった」とあるのにあたる。御無力は貧しいということ。なまじ物語を引いたために食い違うところもでてくるが、謡曲によれば大変素直に解釈される。

 さて一句の解釈はこれでいうことない。前句との係りはどうかというと、これも『蘆刈』のうちにあるから、どうということはない。曲中、夫婦がむかい合って、妻の言葉「かくは思へどもしは又、人の心はしら露のおきわかれにしきぬ/”\の、つまや重ねしなには人」と言ったのに対し、夫の言葉「蘆火たく屋は煤垂れておのがつまぎぬそれならで、又誰にかは馴衣」とあるこの曲の眼目、感情の最高潮に達するところがある。前句、「影法の暁寒く」が、「髪はやす」より「偽りの」「消えぬ卒塔婆」と段々に盛りあがって、陰惨悽愴の極にいたるここに及んで、句の言葉の表面はなお哀しいが、意味の底ではやや和らいだ境涯へ転じて、『蘆刈』の面影を付けたのは非常にいい。『大和物語』には前句に係ることは特にないので、曲齋は絶えしではなく堪へしとして、物語の面影はないと断じたが、それはたまたま謡曲の『蘆刈』に気づかないことからくる失策である。謡曲が貞亨元禄のころの人に親しいものだったのは、明治大正に長唄が人々に親しかった以上のことであり、なんで耳に遠く心に疎いことがあろうか。「蘆火たく屋は煤垂れて」という曲中の語が耳に遠くもなく、心に疎くもないなら、「影法の暁寒く」の前句に「あるじは貧に絶えしから家」の句をつけた情、一聞一吟すれば明らかで、疑うところも迷うこともない。「蘆火たく屋」という言葉は、『萬葉集』巻十一、「難波人あし火焚く屋のすし垂れどおのが妻こそとこめづらしき」に基づき、『拾遺集』に「あし火焚く屋は煤垂れど」と少し改められた方に依ったもので、謡曲の夫婦再会のときに引用したのはもっとも巧妙なところだといえる。さて、この句及び前句との係りはこれで明白である。つまり、前句を『蘆刈』の面影としてつけたのである。芭蕉は、「『草庵にしばらく居ては打破り』、『命うれしき撰集の沙汰』おもかげの句はこのように、前句を西行能因の境涯とみて付け、直接西行と付けるのは不器用であり、ただおもかげで付けるべきである。」と。おもかげの付けを知り、謡曲と当時の人の親しさを知っていれば、この句を解釈するのになんの疑いがあろうか。

2014年3月4日火曜日

投句6

 「鬣」第31号に一部が掲載された。

初夏の夢ちぎりこんにゃく煮きるまで

紅閨や用途の知れぬ銀の梃子

湯豆腐の真昼のごとき月あかり

灰の日時計 叙情詩集のアナグラム

弁天のたけのこ色の腿の波

春あらしメランコリイの吹きさらし

残酷な月 世界に花が降りつもり

天が許し給うすべて なんば走りのまわり道

2014年3月3日月曜日

ブラッドリー『論理学』14

第一巻判断、第一章判断の一般的性質の続き。

§14.しかし、定義とは「活き活きとした観念が現にある印象と連合すること」だと言われており、活き活きということはなんの関わりもないのか、と尋ねられるだろう。みじんも関係がない、と私は答える。真であれ偽であれそれはまったく関わりがない。活きのよさは我々が述べてきた反論をなにひとつ取り除くものではない。好きなだけ活き活きしたものをとったとしても、それは単なるあらわれであり、判断は存在しない。観念の活きのよさは判断でないばかりでなく、その条件でさえない。真だと判断された観念はそう判断されなかった観念より強いものでなければならないという教義は、現実の現象との直面に耐えられないだろう。観念の強さを感覚に引けをとらないまでに強めることはできるが、そこに判断は存在しない。混ざりもののない事実が自身で声高に語っているので、この点について論じることはしないが、一つ例を挙げよう。我々はかつて同居していた人物のイメージをその人物が死んでからももつことがある。そうしたイメージは、ほとんどの場合微かなものであるが、その強さと独特な感じが我々の見ていない部屋の片隅に実際にあるように感じられて悩まされることもある。異常な状態では、そうしたイメージは幻覚となり、眼前に実際の知覚対象としてあらわれることがあるのはよく知られている。しかし、教育を受けた人間ならそれを幻影だと認め、弱く普通のイメージが我々の心にしか存在しないと判断されるように、外にある実在だとは判断しないだろう。だが、現在の印象と連合した活き活きとした観念、それをここで得ないとするなら、それはどこにあるのだろう。