2013年11月30日土曜日

ラフカディオ・ハーン『本とその傾向』



 東京大学での講義を学生が書き留めたものからできている。

 目次は次の通り。

編集したジョン・アースキンによる序。
I 克服しがたい困難
II 英国の詩における愛について
III 英国詩の理想的女性
IV 英国詩の最も短い形式についてのノート
V 日本を主題にしたいくつかの外国の詩
VI 英国文学における聖書
VII 「ハヴァマール」
VIII 人間を越えたもの
IX 新たな倫理
X 虫についてのいくつかの詩
XI 虫についてのいくつかのフランスの詩
XII 英国文学におけるフィンランド詩の影響についてのノート
XIII 中世の最も美しいロマンス
XIV 「イオニカ」
XV 古代ギリシャの断片

 「ハヴァマール」は『古エッダ』の歌謡。
 「イオニカ」はウィリアム・ジョンソン・コーリーが古代ギリシャ詩を模してつくった珍しい詩集。
 学生を前にした講義でありながら、虫に関する詩や北欧の詩、決して主流とはいえない傍流の詩人たちを紹介している。

 欧米と日本の文学のもっとも大きな相違は、欧米では恋愛がもっとも大きな主題になっているということからこの本ははじまる。『万葉集』以来、日本にも恋愛はいくらでもあると瞬間的に思うものの、確かに、永遠にまで高まる、宗教的なまでに人間性を超越していくような恋愛文学は存在しない。

 そう考えると、ともすれば日本では、フロイトやユングにおける女性から、フィルム・ノワールの「運命の女」にいたるまで、概念的に軽く考えすぎているような気もする。

2013年11月29日金曜日

アイスキュロス「ペルシア人」



 アイスキュロスの残っている劇のなかでももっとも早いもので、紀元前472年に上演された。自身が経験したサラミスの海戦に想を得たもので、神話的な物語ではなく、実際の同時代の歴史的出来事を題材とした珍しいギリシャ悲劇だとされる。

 ペルシア人の長老たちをあらわしていると思われるコロスがギリシャとの戦いのことを述べていると、王の母であるアトッサがあらわれ、不吉な夢を見たことを語る。案の定伝令が到着し、ペルシア軍が大敗したことを報告する。

 アトッサが、夫であり、前の王であったダレイオスの墓に赴くと、ダレイオスの亡霊があらわれ、戦いの敗因はクセルクセスの傲慢にあり、その傲慢さが神の怒りを招いたのだと語る。

 最後の尾羽うち枯らしたクセルクセスが登場するが、本人には敗北の原因はわかっていないようだ。

 いまなら、戦術のつたなさとか情報戦での失敗となるのだろうが、ヒュブリスをもちだすのが上品。

2013年11月28日木曜日

俳句の上手さについて――林桂『俳句・彼方への現在』書評



 『鬣』第15号に掲載された。

 『俳句・彼方への現在』を読んで興味深かったのは、しばしば俳句の上手さについて言及されていることだった。実は、私が俳句を読んでいて一番わかりにくいのがこの上手さということなのである。具体例は忘れてしまったが、久保田万太郎が宗匠の句会で、一語二語のほんの僅かな手直しで、句の様子が見違えるように変貌したのに目を見張る思いをしたことがあって、なるほど、確実に俳句の上手さというのは存在するのだと感じたものだったが、それが、ひょんな折りに、俳句雑誌やテレビで行なわれているような添削が目に留まりでもすると、どこがどう良くなっているのか私には見当もつかないようなことが少なくなく、かつて万太郎の句会に感じた俳句の上手さというものの存在が(具体例を忘れてしまっていることもあって)急に曖昧模糊としたものになっていくのである。

 俳句の上手さには、かつて、三島由紀夫が谷崎潤一郎にオマージュを捧げた際にもちだした、「質(カリテ)の問題」(「大谷崎」)が関係している。質とは「作品における仕上げのよさ」であり、作品の全体から言えば「二次的な問題」とされる。仕上げのよさにばかりこだわることはやや軽んじる意味も含めて職人的と呼ばれることもあろう。だが、もし、質が「文学の根本的な成立条件」であるなら、無駄な部分を取り除き、粗い表面にやすりをかけ、彫琢することに文学の本質的な部分があるなら、主題が第一にあり、仕上げが第二にくるという順位は無効になり、質は単なる技術的な問題ではなく、作家を絶対的な勝利に導く強力な武器となろう。質によって文学であることが保証されるなら、谷崎のように「質によってしか俗世間とつながらな」いことが可能となり、安んじて、女の背中に拡がる刺青であれ、ハンカチについた女の鼻汁であれ、女の足に踏みにじられる男の姿でさえ描くことができる。それをマニエリスムと言うことは簡単だが、マニエリスムと隣り合わせになっていないような上手さなど存在しないのである。更に、つけ加えておけば、俳句に上手さを導入することは、桑原武夫の「第二芸術論」に対する決然たる応答にもなっていると言えよう。というのも、畢竟するところ、「第二芸術論」の主張は、俳句には質の問題が存在しない、と言い変えられるからである。

 かくして、この本は主義主張に則った党派性からは遠く、いわゆる「伝統派」の俳人たちも多く取り上げられている。しかし、当然のことながら、「伝統派」が伝統によって洗練されてきた感受性を規範としているからといって上手さの近くにいるわけではないし、より「前衛的な」俳人が伝統に対してある主張を唱えているところで、上手さから遠ざけられるものでもない。 この間の事情は、例えば、二人の俳人の上手さに対する評価の違いに読み取ることができる。「坪内稔典『百年の家』」では評価は否定的である。

あるいは「上手さ」という点では、これまでの作品集では一番かもしれない。もちろん、それは私に言わせていただければ、氏の「片言性」の追求による成果ではなくて、それだけ氏の俳句の価値観が既存の俳句の価値観に近付いた結果である。坪内氏に限らず俳句の上手さとは、ある意味で、いつもそうした既存の価値観との取引であり、妥協でもあるという側面を持っているのである。

 ここでは、上手さが既存の価値観に奉仕してしまう危険性が指摘されている。上手さは「一般的に上手いと考えられているもの」とは異なる。上手さが個々の言葉の仕上げのよさによって得られるのでなければ、「一般的に上手いと考えられる」凡庸な作品となってあらわれるだろう。上手さは、確かに、ある価値観に基づかざるを得ないが、その価値観の水位は先行する無数の上手さによってたえず高まっており、上手さとはその水面から頭一つ飛び出ることによってしか獲得されない。
 
 「摂津幸彦の『陸陸集』」では次のように書かれている。

・・・摂津の俳句に対する基本的なスタンスは今も同じように見える。つまり、俳句の現在性は、時代に対する違和感によって多かれ少なかれ、アナクロニズム性を持たざるを得ないが、摂津はむしろそれをも積極的に俳句の現在性として取り込んで俳句を書こうとしているように見えるからだ。だから、摂津の俳句の文体は従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なものである。そして、それゆえにこそ摂津作品を一読した後には、無自覚な結果としてのアナクロニズムの作品などからはことごとくその魅力を奪ってしまうような毒を含んでいるのである。

 「従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なもの」という一節が、俳句における上手さというものをよく言いあらわしている。アナクロニズム性を「積極的に俳句の現在性」に取り込むとは、俳句の個々の言葉をアナクロニズムでくくる「既存の価値観」に照らして見るのではなく、いまここ生まれでたものであるかのように言葉と直面することにある。その結果として、同文のなかで引用されている高柳重信が言うような、「ときおり俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべき」事態が生じうるのであり、もしそうした瞬間に立ち会えたとしたら、上手さというものが俳句の必要にして十分な条件なのだと確信をもって言い切れる時間が僅かなりとももてるかもしれない。

2013年11月27日水曜日

ジミー・サングスター『若妻・恐怖の体験学習』



1972年 イギリス ハマ―・プロ。
脚本:ジミー・サングスター、マイケル・サイソン
撮影:アーサー・グラント
音楽:ジョン・マッケイブ

 結婚したての女性が、義手の男に襲われるが、周囲のものは話を本当にしない。かつて神経症を患ったことがあるためかもしれない。

 そして夫とともにある小学校の近くの家で過ごすことになる。その小学校の校長(ピーター・カッシング)はまさしく義手の男だった。結局、夫と校長の妻の間に共謀があったことがわかるのだが、そして最後に二人とも死んでしまうのだが、この若妻のがなにをしたのか、若妻にされたこととして描かれているのが、本当にあったことなのか、若妻の妄想なのか、もしかしたらすべてが妄想だという余地まで残されている。

 内容的にはポランスキー的なニューロ・スリラーに属するのかと思うが、追い詰められる強迫的な感覚(襲われても性的な含意は感じられない)はさほどなくて、なんの映画かわからない宙づりのままで終わっていく妙な映画である。

2013年11月26日火曜日

欠けたところ--田中小実昌



 『鬣』第15号に掲載された。

マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。

同じ物体である月が季節によって三日月にもなれば満月にもなり、天気によって雲がかかることもあれば、雨に霞むこともある、また、時代や民族によって象徴的な価値が異なってくることもあろう、それと同じように、マルクス・アントニウスという人物の長所欠点をひっくるめた柄の大きさは、人間の心理についてあまりにも実際的な観点しかもっていなかったローマ人や情念についての心理学を発展させることのなかった中世では十分に理解されず、シェイクスピアによっていわばロマン主義的に描かれるまで全体として捉えられることがなかった。

つまり、判断する時代の視野の偏りがあるためにアントニウスは欠けたところのある人間として考えられてきた、というわけである。

ところで、大内先生にはなにか欠けたところがある、と『イザベラね』のぼくは言うが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われているのではない。欠けた皿は欠けた部分を接いでもとの形に戻すことができる。そうしたどこかで取り戻すことのできる欠損が大内先生にあるわけではない。

ぼくと一緒にストリップ小屋をまわる大内先生(元々は軽演劇の作・演出の先生だったためにそう
呼ばれているのだが)は、確かに非常に怠け者のようだが、昔からの仲間やストリッパーの亭主やヒモと較べてずっと怠惰だとは言えない。欠けているというのは、他人と比較して欠点が目立ったり多かったりすることではない。

実際、欠けているということでぼくが持ちだす具体的な事実とは、大内先生がいつもすぐ電話にでる、そのことだけなのである。ぼくの言葉は、人間にはなにか欠けたところがある、と言い換えることができる。理想的な人間像があって、それに達するまでにはまだ欠けたところがある、というのではなく、なにと特定することはできないが欠けたところがある、と言っても不正確で、欠けてないないかがあるのではなくて、ただ、欠けているだけ。

そして、げんに、ぼくは、よくしかたがないので、と言うけど、しかたがないってのは、なにかをしたかったが、しかたなく、ほかのことをしたとか、それをしなかったってことだけど、ぼくの場合は、なにかをしたかったが、しかたがなくではなくて、ただ、しかたがないだけのことだ。

2013年11月25日月曜日

コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』



 2005年刊行。コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)の原作。

 テキサスの荒野で狩りをしていた男が、銃撃戦があったとおぼしき場所に出くわす。そこで麻薬と札束の詰まったバッグを見つける。狩りの経験もあり、ヴェトナム戦争の帰還兵でもあり、クレバーでもある彼は、面倒を背負い込むことになるとわかってはいるが、自分の力で処理できると考えて、金を持ち去ってしまう。

 ところが、撃たれて死にかけていた男が水を欲しがっており、それが気になって、ちょっとした出来心というか、慈悲心というか、水をもって現場に戻ったことがきっかけになって、身元がわれ、シュガーという殺し屋に追われることになる。

 この殺し屋の造型が見事で、感情をまったくあらわすことはないし、金で買収されることもない。邦題では「血と暴力」とあるが(訳者である黒原敏行のあとがきによれば、原題の、No Country For Old Manはイェーツの『ビザンティウムへの船出』が出典だという)たしかに血と暴力はふんだんにあるのだが、暴力にありがちな衝動性はまったく欠けている。

 この独特な殺し屋の雰囲気は、引用符のない会話、極端に比喩の少ない直截的な文章の魅力とともに、結末近く、殺し屋を追う保安官と検事との会話にあらわれているだろう。

 あれはまあ幽霊みたいなもんだ。
 みたいなものなのか幽霊なのかどっちだね?
 いやあの男は本当にいるよ。いないのならいいと思うが。本当にいるんだ。
 検事はうなずいた。幽霊ならあんたも心配する必要がないんだがね。
 おれはそのとおりだと言ったが、その後それについて考えてみて思ったのはあの検事の問いに対しては、この世界である種のものに出食わしたとき、あるいはある種のものがいるという証拠に出食わしたときにこれは自分で立ち向かわないほうがいいと気づくことがあるが実際あれはそういうものの一つだったんだと思うという返事をすべきだったということだ。あれは頭の中にいるだけではなく本当にいるんだと答えたとき結局のところ自分が何を言ったのかおれにはよくわからない。

2013年11月24日日曜日

ピーター・サイクス『悪魔の性キャサリン』



 1976年。
原作:デニス・ホイートリー
脚本:クリストファー・ウィッキング、ジョン・ピーコック
撮影:デヴィッド・ワトキン
音楽:ポール・グラス

 ハマ—・フィルム。予告編を見ると、『ローズマリーの赤ちゃん』や『エクソシスト』に続こうとしたものらしい。

 異端の神父(クリストファー・リー)が育て上げた子供(ナスターシャ・キンスキー)を使って、悪魔を復活させようとする。母親は最初から神父の信奉者であったが、父親は良心のとがめから逃れられず、儀式の直前、悪魔額に詳しい作家(リチャード・ウィドマーク)に助けを求める。

 作家は異端に詳しい神父などの教えを請うて、少女を救いだすことに成功するのだが、悪と神との代理戦争の側面はあまりなくて、現場を見つけたあとは結界も簡単に破って少女を取り戻してしまう。

 豪華な出演陣ではあるが、特に見せ場はなく、生まれたての赤ん坊の造形がややグロテスクな程度。

 原作者のデニス・ホイートリーは懐かしい名前で、国書刊行会から刊行されていた選集はよく眼にしていた(主に古本屋で)。もしかしたら何冊か読んだかもしれないが、内容なまったくおぼえていない。

2013年11月23日土曜日

思い切りと度胸──夏目漱石



 「鬣第14号に掲載された。


実に久しぶりに『坊ちやん』を読み返した。辛気くさい後期の漱石作品とは異なり十分楽しく読むことができる。

それにしても、長い時間を隔てているというのに、どこかで会ったことのほかにはなにも思いだせない人物を前にしたときのような困惑とよそよそしさが感じられない。

思えば、それも当然のことかもしれない。新しい環境に入り、新しい人間関係のなかで生じるよそ者に対する反発(生徒たちのいたずら)、同僚の間での共感(山嵐)と反目(赤シャツやのだいこ)、淡い憧憬の対象である異性(マドンナ)といった設定は、学校を舞台にしたドラマのみならず、あらゆる場所で巧みにあるいは稚拙に繰り返されており、我々はものごころついてから先、『坊ちやん』の無数のヴァリエーションを読み、そして見聞きしているはずなのである。

それでも、『坊ちゃん』にはそうした数限りないヴァリエーションとは大きく異なる点が認められる。それは、主人公である坊ちゃん、つまり外部からやってきた闖入者が、騒動こそ巻きおこすものの、なんの解決も、環境の変化ももたらさないことで、それが凡百の類似品と『坊ちやん』とを分け隔てている。

ちょうど『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の神経質な怒りが、怒りの対象である人間にはなんの効力も発揮しないように、坊ちゃんの行動力は別に坊ちゃんに降りかかる問題を解決するわけではない。坊ちゃんを小馬鹿にした態度を示す生徒たちとの間にいつのまにか師弟愛のようなものが生じるわけでもないし、山嵐と一緒になってぽかぽか殴りつけたとしても、赤シャツが前非を悔いるわけでもないだろう。また、陰険なはかりごとがまかり通る学校の体制が変化するわけでもない。なにより、そうした改善の努力をするまでもなく、坊ちゃんは東京に帰ってしまうのである。

この間の事情を説明するのが、自分は思い切りはいいが度胸はない、という坊ちゃん自身の述懐である。彼によれば、いたずらをした証拠がないのをいいことに言い逃れをする生徒たちや許嫁のいるマドンナを横取りしようとする赤シャツには度胸がある。つまり、度胸とは結果を見越してそれをもとに自分から行動に踏み切ることであって、それゆえに下品である。

思い切りというのは友だちに言われた通り二階から飛び降りたり、ナイフで指を切りつけたりすることにある。つまり、外からのあるきっかけをもとに後先考えずに行動に突っ込んでいくことにある。どうやら坊ちゃんにとって、行動というのはすべからく着地点のわからない跳躍のようなものであるべきなのである。

であるから、生徒が恭順になったり、赤シャツが改心したりする面倒な結果があらわれる前にさっさと東京に戻ってしまうことは坊ちゃんの行動原理にかなっている。つまり、『坊ちやん』とは、思い切りもあるが度胸もそこそこ備えている山嵐、思い切りはないが度胸がある赤シャツ、思い切りも度胸もないうらなりといった人物のなかを、東京で跳躍に踏み切った度胸はないが思い切りはある坊ちゃんが飛びすぎてゆき、やがて再び東京に着地するという話である。

    おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。

                 

2013年11月22日金曜日

フィリップK・ディック『タイタンのゲーム・プレーヤー』



 タイタンとの戦いで地球は敗れた。地球人は特権階級と一般人とに分かたれ、長生きで死ぬことはないが、極端に低い出生率となっていた。特権階級に属するものたちは、モノポリーと人生ゲームとダウトを合わせたようなゲームで、実際の土地をやりとりしている。

 あるとき、ピーター・ガーデンは有名なゲーム・プレイヤーであるラックマンにお気に入りの土地を奪われてしまう。彼はゲームによって土地を取り戻そうとするが、ラックマンが殺されていることが発見される。しかもその時間、ピーター・ガーデン以下ゲーム仲間たちの記憶が消え去られている。

 やがてタイタン人の間にも内部抗争があることがわかり、地球人のなかにも彼らは紛れこみ、誰が敵だか味方だかわからないような状態のなかで、しかもタイタン人が予知能力やサイコキネスなどの超能力を使用できるという人間の圧倒的な不利のなかで地球とタイタンをかけたゲームが行われる。

 1963年の作品で、もっとも多産な時期のひとつであったから、上々の部分ともうちょっと構想を練ってくれたらという部分があるのも当然のことで、後半はよく言えば「センス・オブ・ワンダー」に満ちているが、発想にとどまっている部分もある。

2013年11月21日木曜日

フェデ・アルバレス『死霊のはらわた』







 2013年。
脚本:フェデ・アルバレス、ロド・サヤゲス
撮影:アーロン・モートン
音楽:ロケ・バニョス

 1981年のサム・ライミ版のリメイク。最近のリメイクのなかではよくできているほうだと思う。

 もとの映画にないちょっとしてひねりは、山小屋に夏休みで集まるというのではなく、薬物中毒の女性の薬を抜くために兄と友人たちが集まるというところにある。最初に悪魔に身体を乗っ取られるのは、その薬物中毒の女性で、言っていることが中毒からくる幻覚なのか、現実に起こっていることなのか、というあやふやさからはじまるが、それをさほど引っ張らないのもいいテンポである。

 サム・ライミのものを相当長いこと見ていないので、細かなところを忘れてしまったが、ブルース・キャンベルがいうことを聞かなくなった自分の腕を切り落とすのに結構長い時間をかけていたような気がする。その点、今回はどんどんのりうつられては殺されていくし、自分の切断にもさほど躊躇がない。

 当時、サム・ライミのを劇場に見に行って、ちょっときついなあ、出ようかなあ、と思ったのを思いだした。『エクソシスト』や『ゾンビ』など大好きだったが、それにしても血と内臓が多すぎだのである。結局、その一瞬を乗り越えると最後まで楽しく見られたが、ついでに唯一映画館から出てしまった映画のことも思いだした。福居シュウジンの『Pinocchio964』(1991年)で、映像的にはどうということはなかったが、音量があまりに大きくて我慢できなかったのだ。

2013年11月20日水曜日

団鬼六『米長邦雄の運と謎』





 いまでは何が楽しかったのかよくわからないが、子供の頃好きでよく将棋の棋譜を並べていた。当時は、中原誠がめきめきと頭角をあらわしていた頃だったが、大山十五世名人の棋譜を並べることがもっとも多かったように思う。子供心にも変な将棋で、金が敵陣近くまでいったかと思うとするすると自陣へ戻るのだった。

 並べたからといって強くなるわけではなく、手順は(中盤くらいまでは)すいすいと一人で進めることができるのだが、適当な対戦相手がないためもあって、たまに相手がいるととたんに弱さが露呈するのだった。

 そんなわけで勝負はまったくしなかったが、本はそれ以後も時々読むし(『羽生の頭脳』は内容はまったく理解できなかったが、文章がうまいのに舌を巻いた)、テレビやネットでの観戦は好きな方である。それゆえ、プロ棋士の顔はほとんど見知っていると思うが、大盤解説や将棋祭りを除くと、生で見たことがある棋士は二人しかいない。

 ひとりは米長邦雄で、新宿の喫茶店の入り口ですれ違った。二人目は先崎学八段で、神田のそば屋で見かけた。

 生で見たたった二人が師匠とその弟子なのだから、米長邦雄には縁が(一方的な)あるが、実はあまり好きな棋士ではない。矢倉戦のおもしろさがわからないこともあったが、人柄の怜悧な感じが何となくよいイメージをもてなかったのだ。

 団鬼六がこの本を書いたのは、米長邦雄が名人位を奪取したときだから、1993年である。団鬼六のエッセイに登場する人物は、根本敬の本に出てくる人物ほど振り切れていないが、どこか奇妙な味をもつ人間ばかりで、普通は避けてしまいそうなそんな人間たちをなぜか受けいれてしまう団鬼六の妙な人間性もあきらかになるような仕組みになっている。

 米長邦雄は、特定の神に限定されるわけではないが、女神の信奉者で、女神は謙虚と笑いを好み、卑を嫌うとのことである。神であるのと同じくらい女性としての要素が強いわけで、帰依すれば報われるという単純なことでもないらしい。どれだけ首尾一貫したものかはわからないし、あたら女神など信奉したばかりに、一期しか名人をとれなかったといえないこともない。

 いずれにしても、米長邦雄が団鬼六向きの妙な人物であることがわかる。

2013年11月19日火曜日

H・ベロック『悪い子のための獣の本』

 動物を題材にしたベロックの子供のための詩の本。挿絵がいっぱいあって、エドワード・リアのようにナンセンスに突き抜けることはないが、おもしろく読める。

 たとえば「象」という一篇は

ひとびとがこの獣を思い浮かべるときに
ますます不思議に思えてくるのは
背中にちっちゃなしっぽ
前にかくも大きな鼻がついていること。

2013年11月18日月曜日

ジョセフ・コシンスキー『オブリビオン』

2013年。
脚本:カール・ガイダシェク、マイケル・デブライン
撮影:クラウディア・ミランダ

 異星人との戦いにより、月が破壊され、世界は放射線に汚染され、大部分の人類は地球外に移住しているとされる。そうした荒廃した世界に残って男女一組(トム・クルーズとアンドレア・ランズブロー)が、記憶を消去され、無人機のメンテナンスやパトロールなどを続けていた。

 そうした任務に携わりながらも、トム・クルーズは断片的な記憶のがよみがえってくるのを感じていた。それは不快なものではなく、愛するものとともにあるという感覚を伴っている。あるとき、宇宙船が墜落し、そのなかには彼の記憶に出てくる女性が乗っていた。また、宇宙人だと思って敵対していたものが、実は地球人の生き残りであることがわかる。

 彼らの言葉と蘇った自分の記憶をつなぎ合わせてみると、地球を監視していた二人は実は宇宙飛行士であり、捕らえられたあげく、大量にクローンを作られ、他ならぬ自分たちが地球を破滅させたのだと知る。

 トム・クルーズは、結局、敵本体のなかに入り込み、自爆することで地球を救う。異星人が機械のようなものなのか、あるいはそれを操縦するものが別にいるのかどうかは最後まで明らかにならない。

 愛するものの記憶に悩まされるという点では『惑星ソラリス』のようでもあり、ディザスター後の世界を描いてもいるし、戦闘場面もないわけではない。つまりは欲張りすぎで、全体的にもっさりしている。

2013年11月17日日曜日

キム・ジウン『ラストスタンド』

2013年。
脚本:アンドリュー・クノアー
撮影:キム・ジヨン

 しばらく前に、シルベスタ・スタローンの『バレット』を見て、監督が久方ぶりのウォルター・ヒルで、しかもその内容が『ストリート・オブ・ファイヤー』(助けるのが元恋人ではなく、娘であり、最後には認め合った者同士のどつきあいで決着がつく)とほとんど同じだということで、いい気分だった。

 シュワルツェネッガーの最新作がどうかというと、『グッド・バッド・ウィアード』や『悪魔を見た』のキム・ジウンが監督で、イ・ビョンホンと組むと悪のりするという感があるだけにちょうどよく抑制がきいているようだ。

 若い麻薬王が移送の途中で脱走する。彼はまたレーサーの経験ももっており、巨大なコルベットを自ら運転して、メキシコへの脱出をはかる。仲間も大勢いるために、途中で阻止しようとするFBIの試みもすべて失敗する。メキシコ国境近くにある静かな町の保安官(シュワルツェネッガー)は実は元ロスの優秀な警察官であり、麻薬王の爆走を止めるべく立ち上がる。

 やれやれ、という感じのシュワルツェネッガーの表情がちょっとクリント・イーストウッドに似てきた。

2013年11月16日土曜日

ジョン・M・チュウ『G.I.ジョー バック2リベンジ』

2013年
監督:ジョン・M・チュウ
脚本:レット・リース、ポール・ワーニック
撮影:スティーヴン・ウィンドン

 変身可能の怪人たちが大統領に成り変わり、核保有国の核兵器をすべて破壊し、新兵器によって世界を支配しようとする。

 G.I.ジョーにくわしくなくて『アベンジャーズ』と全然設定が違うなあ、と思っていたら、キャプテン・アメリカと思い違いをしていた。

2013年11月15日金曜日

トーマス・オーウェン『青い蛇』

 絵画ではベルギー幻想派があるが、文学でも幻想派が存在するのだろうか。シュルレアリスムのように様々な芸術を包含する運動にまで高まっているのだろうか。いずれにしろ、ジャン・レーは読んだことがあるが、オーウェンははじめて読む。短編集で題だけをあげれば次の通り。

翡翠の心臓
甘美な戯れ
晩にはどこへ?
城館の一夜
青い蛇
モーテルの一行
ドナチエンヌとその運命
雌豚
ベルンカステルの墓地で
サンクト=ペテルブルグの貴婦人
エルナ 一九四〇年
黒い雌鶏
夜の悪女たち

アマンダ、いったいなぜ?
危機

 幻想文学といっても、男女の愛執の結末が怪異となってあらわれるといったものが多く、1980年に刊行されたらしいが、あまりに古典的で、ポオなどの方がかえって新しい。

 一番面白かったのは表題にもなっている「青い蛇」というショートショート程度の長さのものである。あるとき風景画と額縁のガラスのあいだに青い蛇がいるのを見つける。額のガラス越しにピストルで撃てばいいのでは、と父親に勧める。すると、父親はピストルを持ってきて、戸口から絵に向かって打ち始めるというだけの話である。

2013年11月14日木曜日

中島貞夫『実録外伝 大阪電撃作戦』

1976年
脚本:南原宏治
撮影:増田敏雄
音楽:津島利彰

昭和35年に起きた実際の抗争をモデルにしているという。全国組織を背景にした神戸の組が大阪に侵攻してくる。大阪はいくつかの組やチンピラ集団があるものの、共存してきていた。

 大阪側にいるのが松方弘樹、渡瀬恒彦、梅宮辰夫といった面々である。侵攻してくるのが大ボスである丹波哲郎を筆頭に、神戸の小林旭が陣頭指揮を執る。大阪のやくざたちも敵しがたいと思うのか、どんどん寝返って、松方弘樹と渡瀬恒彦の二人が最後まで屈しないが、大きな組織力に最後には潰されてしまう。

 やくざ映画は俳優によってまたその地位によってほぼその役どころまで決まっているので(丹波哲郎がそれほどみっともない役をすることはないし、田中邦衛や川谷拓三がヒロイックな役を演じることもない)、誰が出演するかによってその面白さが想定できてしまうが、この映画は菅原文太こそでないが、それ以外はほぼオールスターキャストで、ついでにいえば、松方弘樹と渡瀬恒彦が盃とは関係のない友情をいだきあうのはやくざ映画には珍しい。

2013年11月13日水曜日

黒沢清『復讐 運命の訪問者』

1997年。
 脚本:高橋洋
 撮影:柴主高秀

 脚本が高橋洋なのに少しびっくり。

 ある男(哀川翔)が幼いころ、両親、姉を皆殺しにされる。本人は押し入れに隠れていて、仲間に見つかるのだが、見逃してもらう。

 数十年の後、その男の子は刑事になっている。あるとき、ヤク中を逮捕しようとして、その男は自殺してしまうのだが、指紋がすべて消されている。やがて、彼が殺人者グループの一員であることがわかった。捜査していくうちにその暗殺者の首領が自分の家族を殺した者であることもわかる。妻も殺された刑事は、復讐のために辞職し、彼らのアジトに乗り込んでいく。

 乾いた銃声やあっけない死など、この頃から始まったかもしれない。実際にはまったく経験していないことを「リアル」と感じるのは、リアルというものがいわゆる「リアリスティック」であるというよりは、新たな意味の創出に関わっているためだろう。

2013年11月12日火曜日

イアン・バンクス『蜂工場』(集英社文庫)

 スコットランドの小さな島に父親と息子が住んでいる。息子は股間が犬に食いちぎられ、そのためかどうか、学校にも行かず、小動物を面白半分に殺す日々が続いている。

 そんなある日、精神病院に入院していた兄が脱走し、帰ってくると連絡があった。裏表紙のリードには「ニューホラーの旗手」とあるが、特に異常な現象が起きるわけではなく、叙述的ニューロ・ホラーといえばいえるという程度。

 表表紙には「結末は、誰にも話さないでください」とあるが、さすがに1984年の作品であり、同じような趣向の小説や映画を幾度となく経験しているので、衝撃力はない。解説ではクライヴ・バーガーなどと比較されているが、文章の表現力は数段優れていると思うので、別の作品も機会があれば読みたいところ。

2013年11月11日月曜日

フィリップ・K・ディックの『逆まわりの世界』

 ホバート位相といわれる現象によって、死者が蘇り、どんどん若くなり、やがては子宮に戻り、性交によって男性の精子に回帰する世界になっている。蘇った死者を墓から救出することをなりわいとしている主人公は、ユーディ教という巨大な宗教組織を創出した教祖を掘り起こした。

 この教祖を得るための、ユーディ教を世俗化したいまの主導者とローマ教会と図書館との三つどもえの戦いに巻き込まれる。図書館は情報を次々に抹消していく消去局と組んで、なぜか強大な権力を握っており、教祖は彼らによって最後には再び死に追いやられてしまう。

 ユーディ教については、神が万物の根源にあり、死も時間も幻影に過ぎず、悪とは神から遠ざかっていることから生じる不完全性からくるに過ぎない、ということだが、それを具体的に提示するイメージに乏しく、世界の変容よりはアクション的な要素が強く、そうした世界観が背景にとどまっている。そうした意味で、ディックにしてはそれほどできはよくない。

2013年11月10日日曜日

演歌と置き忘れ——伊藤信吉『たそがれのうた』(風の花冠文庫)書評

 『鬣』第13号に掲載された。

片町や夏ゆくころの撥の音
和菓子、駄菓子。のうぜんかづらの花の店
すすき枯れし斜面草地やひるの月
ふるさとは風に吹かるるわらべ唄。
ヒル花火あなたこなたにヒバリ鳴く
手のひらにたたみこむほどにや余呉の秋

 伊藤信吉の句には、歳時記を開かなければわからないような俳句独特の用語も、観念的な言葉も、イメージの突然の飛躍もなく、一言で言えば、大げさな身ぶりを一切見せないつつましい相貌を保っている。更に、友人たちに贈った句や旅先でできたとおぼしき句が多いことをつけ加えると、日常の細部を切り取った日々の覚え書きのような句が自然と連想されるだろう。だが、実際には、どれだけ「自注」に詳細な状況が書き込まれていようと、句はそうした具体的な細部をきれいに洗い流している。「彼岸花」や「木瓜の花」といったくり返し取り上げられる植物にしても、句の前面ににゅっと姿をあらわすというよりは、風景のなかに分かちがたく溶けこんでいる。月や花火は、むしろ昼にある方が好ましい。夜の月や花火は、夜空を背景に強烈な自己主張をし、まわりのものを背景として従えてしまうからでもあるが、それだけではない。夜の月や花火があまりに時機に合っているためもあるだろう。昼の月や花火は時機を外れたものであり、時間的な遠近法を混乱させ、現在をいつかどこかで経験したかもしれない過去、郷愁に満ち、どこか寂しく、取り戻すことのできない、時機を逸してしまった過去に結びつける。伊藤信吉の句は、一貫して、細かな現実によってかき乱されない、こうした追憶のなかの風景を描きだしていると言える。

雪催い灯の色かなしおしゃれ町
おしゃれ町灯の色しめて夏逝きぬ
地下鉄に秋おとずれし灯の並び
日最中を黒洋傘や街の中
人波は人波のまま師走町

 「演歌俳句」と自らの俳句を名づけたのも、現実をある色調に染めあげ、「手のひらにたたみ」こめるような風景に変換するものとして俳句を捉えていたからだろう。「おしゃれ町」というのが原宿のことを指すのだと、句だけを読んで誰が一体感じ取れるだろう。雑踏も喧噪も拭い去られ、むしろ原なかで宿場の灯が仄かににじんでいるような雰囲気がある。師走の人混みにしても、「人波」と「師走町」に大きくくくられることで、せわしなさや人いきれが発する物理的な圧力が抜き取られ、道を風が渡っていくような具合に変容される。そして、こうした変換作業が、ステレオタイプなイメージで捉えられがちな都市に対して思いがけぬ異化効果を上げている。

粉雪降る北戀う日暮れ粉雪降る
こんにゃくの土色村の秋の色
聴け聴け聴けセミ鳴くセミ鳴く権太坂
春立つや日々のろのろののろま唄
唐辛子赤し木枯らし人枯らし

 『全句集』で目立つのは、同じ言葉や音のくり返しである。多分、それは現代俳句の実験性とは無縁であって、くり返し自体を楽しむ稚気はもちろんあるだろうが、「演歌俳句」の面目躍如たる部分でもある。分析的に対象を扱うタイプの俳句ではないし、例えば比喩を使い、また、意想外なものとものとを併置することで、隠されていた、あるいは新たな詩的意味を浮かび上がらせる俳句でもないので、対象に対して言葉足らずなのではないかという不安や、俳句の短さを恐れる必要など伊藤信吉はまったく感じていなかったに違いない。情調さえそこにあるなら、ためらうことなく同じ言葉をくり返せばいいし、そうすれば情調が高まりこそすれ、もろく壊れてしまうことはないだろう。つまり、伊藤信吉の句は、実験性という堅苦しい印象こそないが、俳句という極端に短い形式のなかで、演歌のリフレインを実現することのできた希有な例だと言うことができる。

ボケの花寝ボケルとぼける煤ボケル
冬至の湯湯気まぼろしの思いのみ
物忘れ生涯かけての置き忘れ

 『全句集』には、数こそ少ないが印象的な述懐の句がある。一見すると、老境に至った現在の自分のありようを述べているようでもあるが、意外にしたたかで戦闘的なポレミックと考えることができる。郷愁の源である追憶の風景が、演歌の情調がある限り、いまここにある思いがまぼろしであろうが、日常的なあれこれを物忘れしようがたいした問題ではない。というのも、いまここにあるものがまぼろしとして消え、忘れ去られることでますますあらわなものとなるのが、追憶の風景でもあり演歌の情調でもある叙情の核であって、この核を剥きだしにするには生涯かけてどれだけ物忘れし、置き忘れしようが多すぎることはないのである。

2013年11月9日土曜日

ロバート・シェクリイの「ウオッチバード」

 1953年の短編。殺人の発生を防ぐために、科学者たちがウオッチバードという機械を発明する。要するに機械仕掛けの鳥で、殺人を犯すときにあらわれる微細な化学変化を感知して、スタンガンのようにショックを与えて、殺人を未然に防ぐ。

 最初は良好な結果があらわれていたが、このロボットが学習する機能を与えられていることから問題は拡大し、とんでもない方向に逸脱していく。殺人とは有機体が有機体を殺すことである、そう解釈されたとき、もちろん狩猟も漁業も農業も許されなくなる。機械もまた電源を切ることが許されなくなる(車やラジオを見ればわかるように、静かになり、暖かさを失い、死んだと同じような状態になるから)。食物の連鎖が大きく崩れ、餓死する人間が急増する。

 大統領によって、この機械を停止するよう命令されるが、なにを置いても「殺人」を阻止することを優先することがプログラムされているこの鳥は、おとなしく停止に従うわけがない。最初からこの計画に懐疑的だった主人公(だが、はっきりと問題を言葉にすることはできなかった)は、技師に命じて、鳥たちを捕獲し、破壊する機械仕掛けの鷲を製作する。

 鳥たちはみるみる捕獲され、今度こそ問題は解決するかに思われるのだが、殺すことを防ぐためにつくられた鳥がもたらした結果を思うと、殺すためにつくられた鷲がこれからどうなるか憂鬱な気分になるのだった・・・・・・

 デュ・モーリアの原作はほぼ同じ時期なので、影響関係はないだろうが、ヒッチコックの『鳥』(1963年)を連想させる。鳥を極端に怖がる者があるが、M・ポングラチュ、J・ザントナーの『夢占い事典』(河出文庫)によると、鳥は両性的象徴(スワンベルグの絵が思いだされる)で、死をあらわすこともあるという。

2013年11月8日金曜日

ゾンビ――ジョージ・A・ロメロ

ロメロのリビング・デッド三部作のなかで、『ゾンビ』独特の魅力は、その端的な邦題にあらわされているように、ゾンビがいきいきと縦横に動きまわっている点にあるだろう。

一作目の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、皮肉で教訓的な結末(最も理性的に振舞い、ドラマの唯一の生存者である黒人男性が、ゾンビに間違われて警官に射殺される)に見られる通り、パニック映画の一変種と考えていい。船の転覆やビルの炎上のように、人間の隠された性質を炙りだす危機的状況としてゾンビはある。

三作目の『死霊のえじき』では、ゾンビは地下施設の研究対象で、最後のカタストロフが訪れるまでは檻のなかの動物に等しい。ドラマの中心になるのは研究者と強権的な軍人との争いや、ゾンビを飼い慣らす可能性である。なにより、どちらの映画も主要な舞台が、さほど広くない一軒家と地下施設という密閉された空間で、外部から迫りくる危機に比例するようになかにいる人間の葛藤の激しさが増す仕掛けになっている。

確かに、『ゾンビ』でも四人の男女が郊外のショッピングセンターに立てこもるのだが、駐車場も含めたその空間は広大で、野生のゾンビが思うさま動きまわれる。動きは緩やかだが、確実に人間に近づいてくる無数のゾンビの蹌踉と徘徊する姿、この緩やかさと確実さがこの映画に絶えることなく鳴り響いている。それに対抗する動きがないわけではない。軍隊並みの武器を装備した暴走族たちは車やオートバイの速さで緩やかさをかいくぐり、ゾンビを攪乱することによって確実さを削り取ろうとするが、小さな渦が波に呑みこまれるように、緩やかさと確実さに沈んでいく。

暴走族の来る前、限られた数のゾンビを掃討して外との出入り口を塞ぎ、自由になったショッピングセンターで無為な時間を過ごす三人(既に一人は死んでいる)、食料品から銃や宝石までなんでもある場所でなにもすることがないこの上なく純粋に近い無為にいる三人の時間だけが、その緩やかな日々の移ろいとどこにも出口がないという確実さにおいて外にいるゾンビたちと危うく美しい均衡を保つことができた。

ゾンビと人間との関係は、エリアス・カネッティの群衆の分析を思い起こさせる。我々には未知のもの、身に危険が及びそうなものを遠ざけておこうとする接触恐怖があり、それが権力の、つまり他人をある決められた距離に配そうとする行為の源にある。この接触恐怖が恍惚や陶酔に転化するのが群衆である。

『ゾンビ』にあるのもこの種の転化で、緩やかであるはずのゾンビの動きは、取り囲まれた人間にとってはいつの間にか逃れることのできない素早さをもち、身の毛のよだつゾンビの輪が徐々に自分に向けて狭まり触れられ歯を立てられることは確実さが得体の知れない未知の官能、自堕落な自己放棄に転化する瞬間なのである。

彼らはどんなところでも歩きまわるだろう。
                            ジョージ・A・ロメロ

2013年11月7日木曜日

狂歌──女性たち

『鬣』第12号に掲載された。

               

この口はどうしてそんなに大きいの首までつかれる赤ずきんの湯

暗黒の深夜の蔭の闇だまり鏡に映るアリスの左手

あずまやに千鳥格子の掛け布団むくむく動くアリスの宮夫妻

姫りんご身ぐるみ剥いで差しだすは西方浄土のアフリカのイヴ

瓜売りが瓜売り歩く瓜市場瓜子姫には多すぎる種

深川砂村隠亡堀戸板返しのうらおもてお岩の顔が目減りする夜

旅ゆけば駿河の路は春がすみ男を上げるお蝶の茶柱

ぬばたまの首長姫の黒髪に行燈油を惜しみつつつけ

名月や千日前の啖呵売語るに落ちたシェヘラザード

白い空雪のなかでの姫はじめいばらの門にふと立ちどまる

この恨みまさかはらさでおくものか瀧夜叉姫には奉加帳のあて

竹婦人すきま風吹く首かしげ若竹のトリ芝浜の夢

黄昏の紫煙に煙るダンス場ナオミが踊る人間の床

陥穽の振り子の下の早がわり着たり脱いだり忙しないマハ

真昼間にくちなわ色の綱を引く朝顔婦人と夕顔婦人


     夫狂歌には師もなく伝もなく、流義もなくへちまもなし。瓢箪から駒がいさめば、花かつみを菖蒲にかへ、吸ものゝもみぢをかざして、しはすの闇の鉄炮汁、恋の煮こゞり雑物のしち草にいたるまで、いづれか人のことの葉ならざる。されどきのふけふのいままいりなど、たはれたる名のみをひねくり、すりものゝぼかしの青くさき分際にては、此趣をしることかたかるべし。 
                     大田南畝

2013年11月6日水曜日

理解しがたい単純性──バタイユ




 『鬣』第11号に掲載された。


性器を剥き出しにした娼婦のエドワルダが、あたしは《神》だと宣言する。語り手が述べているように、マダム・エドワルダについて、彼女は神であると言うとき、皮肉と受け取ることは思い過ごしであろう。

バタイユはここで、すべてのできごとに意味を割り振り、できごとをあらかじめ与えられた意味から決して越え出ることのないものに制限する神に対して、意味を越え出て新たな意味を形づくるできごとそのものである神を提示している。

したがって、ここでの神の登場は、聖人伝に見られる神あるいは神慮のあらわれとはその意味合いをまったく異にする。それらの物語では、神の登場によってそれまでのすべてのできごとが、まさに神の登場を準備するものであったことが明らかになる。神のあらわれはあらゆるできごとをあるべき場所に送り返す最終的なできごとなのである。

だが、エドワルダという神は、全知全能という言葉であらわされるような、あるいは、豊饒多産であるような神とは程遠いところにいる。全知全能の神であるならば、できごとのことごとくに適切な意味を割り振ることができるだろう。また、豊饒多産な神であるならば、できごとを次々に生み出していきながら、中心点を持ち完了した世界とは異なった、中心点を持ちながら完了しないような世界のモデルを提示することができるかもしれない。

しかし、エドワルダという神は、意味を与えてくれるわけではないし、ある意味の変奏である新たなできごとを次々にもたらしてくれるのでもない。神が登場することの意味は、ひとえに娼婦であるエドワルダという神が男の前に現れる、そのできごと自体に集約される。できごとを宰領する神ではなく、既にある、確定した意味を超えたところに突き放すできごとそのものとしての神である。

エドワルダは一向に神らしきことをしないが、あらゆる意味を破産させる、腹の底からの、胃袋が裏返るまでの情欲がある。奥底からの情欲は隙間なく身体を満たしながら、開口部から身体の外部へ流れ出る。その充溢と消尽とが一致する瞬間こそ、情欲が人間を理解しがたい頑固な物へと変貌させる跳躍の一瞬であり、そのとき、エドワルダが自ら神だと言うならそれが皮肉などではないことをわれわれは認めざるを得ないし、生命のない場所に剥きだしに放り出されるひりひりした感覚を感じずにはおれない。
 
    こうしておれは知ったのだ――身内の陶酔は完全に霧散し――「彼女」の言葉にいつわりはなかったのだ、「彼女」は「神」なのだ。彼女の存在は一個の石の理解しがたい単純性をそなえていた。大都会の真只中で、おれは夜の山中のような、生命のない孤独のなかにいるような思いだった。        (生田耕作訳)