ブライアン・デネヒーが好き、見事な腹。
2.テリー・ジョーンズ『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』(1983年)
食べ過ぎで腹が破裂する。
3.ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』(1973年)
リーガンの腹にHELP MEという文字が浮かび上がる。
はるのはじめに
くれ竹の世の人なみに松たてゝやぶれ障子を春は来にけり
放屁百首歌の中に款冬
七へ八へへをこき井手の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ
述懐
いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は
洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。(アドルノ『美の理論』大久保健治訳)
文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。
眼を開ければつねに眼前にあるところの日頃見慣れたさまざまな存在のかたちではなく、まぎれもない存在そのものを、いわば誰からも忘れられた無気味な薄暗い無人の小部屋でも覗くように、たとえ一瞬の数千分の一の僅かな時間にせよ、背後から窺い眺めたいとひそかに思いつづけていたのであった。
四月の第二回に“蜘蛛かご”をやった柳家小ゑんには舌を巻いた。小さんの弟子である。小さんという学校もいいが、素質がよくって素晴らしい才能がある。本人に歳を聞いたら「いつも二十三といってんですがね」という、ほんとうは二十だそうだ。ほんとの歳をいうと馬鹿にされるから嘘をつくという。十六で小さんに弟子入りをした日に、小三治という名をくれといった。小さんの前名の、真打の名である。小さんもこれにはちょっとどぎもを抜かれたそうだが、そんなふてぶてしいところがある。
麗子の微かなすげみをみせた唇から毒々しい言葉が吐き出される時、曖昧な窪みをただよわせた頬のあたりには濃いなまめきが滲んだ。 夏彦の肌が縮んだ。その鮫立ちの一つ一つに麗子の吐く濃い息吹がふきつけられているようであった。 「夏彦さん」 たぐり寄せるように麗子の手が夏彦の肩にのびた。 「夏彦さん、あなた、私をお母さんに勝たせてくれる?私をもう一度女にしてくれる?私、あなたのなかのお父さんにもう一度逢いたいのよ」 夏彦はふるえていた。肌の粟立ちが頬までのぼって来て、口の中で歯がかちかち触れた。 「寒い!」 と彼は言って、麗子の絹漉し豆腐のように軟らかい手を払いのけた。しかし手は彼の力ない拒絶をおしのけて、まるでところてんのようにするすると滑り落ちながら、彼の肩に胸にまつわりついて来た。『小町変相』
声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。
発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。
私の作品は多面-即興である――最初の音は展開していくものであるとともに既にしてクライマックスである。私は点から点に移動することはない。なぜなら各点は既に出発することのうちに含まれているからだ。
陸橋を渡つて行かう陸橋の下にあるのは自然ではない、もつれ合う複数の軌道である。
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで(「蝶を夢む」ー陸橋−」)