2013年12月31日火曜日

その笑い――チャップリン『街の灯』



 「鬣」第24号に掲載された。


小生意気な映画観客の例にもれず、わたしはチャップリンを軽く見ていた。そしてまた、ご多分にもれず、喜劇とは、キートンはそれほどでもなかったが、マルクス兄弟やモンティ・パイソンのようなナンセンスで破壊的な笑いでなくては、と標榜していた。後にシーソーのように彼を上げ此を下げる愚を悟って、チャップリンはチャップリンだと思うようになったが、それでもそのチャップリンは初期の短篇や『独裁者』や『モダン・タイムス』のチャップリンで、『街の灯』や『ライムライト』の甘ったるくセンチメンタルなチャップリンは勘弁願いたかった。

ところが、最近この二本を見直してみると、甘美な音楽に引きずられてつい叙情的な気分に陥りがちなのだが、その内容は実に残酷で、初期の短篇となんら変わらないことに気づかされた。更に、チャップリンの不気味さ、薄気味の悪い手ざわりを味わわされることにもなった。

『街の灯』は、周知のように、花売りの盲目の少女を助けるためにチャップリン扮する「放浪紳士」が奔走する。金をつくり娘に手渡すことはできたが、無実の罪で牢屋に入れられてしまう。牢から出て、尾羽うち枯らし浮浪者そのものになった彼は手術して目が見えるようになった娘が開いた花屋の前を通りかかる。娘は彼が新聞売りの少年たちにちょっかいを出され、やり合っているのを見て
笑う。やがて彼は娘に気づく。娘は自分を助けてくれたのは大金持ちだと思っているので、浮浪者の彼を見てなにを気づくはずもない。浮浪者が持っている花の花瓣が散るのを見た娘は施しの金と一輪の薔薇を手に持って外に出る。彼は薔薇は受取るが、硬貨は受取ろうとしない。彼に近づいた娘はその腕を取り、手の真ん中に硬貨を置き握らせると優しくその手を包む。その手の感触から娘は彼であることを知る。

「あなたなの」「見えるようになったんだね」ここから映像は娘の肩越しに見えるチャップリンの顔だけになり、娘の顔は一切見えない。最初彼の顔は不安そうだが、やがて笑い顔に変わり、その顔が闇のなかにフェイド・アウトする。なんら将来の幸福を見通せるわけでもないなかでの、この満面の笑みは一体何を意味しているのだろうか。チャップリンの映画の中心にあるのは「世界からの分離を終わらせようとする願い」であり、スクリーンとは彼にとってこの分離をあらわす隠喩に他ならないと説く映画批評家のウィリアム・ロスマンは、「正体を明かすことによって、彼は彼女の夢になんら居場所がないという危険に直面するだけでなく、この視覚を得た実在の女性が彼の夢のなかでなんの居場所もないという同じくらい恐ろしい危険にも直面する」(「『街の灯』の結末」)と言っている。

つまり、まさしくこの映画を成り立たせていた幻想を打ち壊すことによって、ここでは生身のチャップリンがスクリーンを越えて我々に笑いかけているというわけである。しかし、その生身のチャップリンとは単純な「ヒューマニスト」などではなく、ヒトラーや殺人者を嬉々として演じる人物であり、その笑いは我々の共感を誘うものというよりは、人間の裂け目をさらけだしているかのように思われるのである。

2013年12月30日月曜日

パウエル=プレスバーガー『黒水仙』(1946年)



原作:ルーマー・ゴッデン 
脚本:パウエル=プレスバーガー
撮影:ジャック・カーディフ
音楽:ブライアン・イースデイル
出演:デボラ・カー、ジーン・シモンズ

 『赤い靴』は随分前にみて好きだったので、パウエル=プレスバーガーの『黒水仙』は名前だけは知っていた。ところが、その題名から、ノヴァーリスの『青い花』や泉鏡花の『黒百合』に似ているせいもあって、またビデオやDVDのジャケットが尼僧姿であることもあって、絶対の探求を目指すようなロマン主義的な映画かと思っていた。今回はじめて見て、とんでもない間違いであることがわかった。

 修道女たちが教育や医療の援助もふくめた布教のためにチベットの奥地に送られる。率いるのはデボラ・カーで、指導力も責任感もあるが、恋人があり、結婚寸前までいった過去もある。修道女のなかには問題児も含まれていて、反抗的で、戒律を破って男に会いにいく。ただそれだけではないのは、彼女がデボラ・カーの無意識の願望を映しだしていることにある。つまり、否定的な、黒いナルシスであるわけだ。

 反抗的な修道女は次第に狂気に陥っていき、デボラ・カーの修道女長が自分の恋愛を阻んでいると思い、彼女を殺そうとする。『青い花』や『黒百合』よりは、ドン・シーゲルの『白い肌の異常な夜』に近い映画だったのだ。

2013年12月29日日曜日

ブラッドリー『論理学』3

 ルドルフ・メッツの『イギリス哲学の百年』(1938年)によると、イギリス観念論でも珍しく、ブラッドリーはヘーゲルを通じてしかカントに触れなかったという。スピノザに親しんだことはある程度確からしい。ヘルバルトをヘーゲルに不可欠な解毒剤として推薦したという。シェリングにはある程度の親近感を抱き、ショーペンハウアーを好んだが、参照するようなことはほとんどなかった。

 §3.我々はよくこう言う、「これは実在ではない、単なる観念だ」と。そして、頭のなかにあり、私の精神のある状態である観念は、外部の対象と同じく確固とした事実だと答えもする。この答えは先の言葉とほとんど同じほどなじみ深いものであり、私の不満はつまるところそれがあまりにもおなじみになったことにある。いずれにせよ、我々は、英国で、心理学的姿勢のなかであまりに長く生活してきた。我々は、感覚や感情のように、観念が現象であることを当然のことと見なして軽視している。そして、これらの現象を心的事実と考えることで、(どれだけ成功するかは問わないにしても)観念と感覚とを区別しようとする。しかし、こうした意図において、我々は論理が観念を用いているそのありようをほとんど忘れてしまう。判断においては、いかなる事実もそれがまさしく意味するものではないし、そのありのままを意味することもできない、ということを見ようとしない。真や偽があるとき、我々が用いているのは意味作用であり存在ではないことを学ばない。我々は頭のなかにある事実を擁護するのではなく、その事実が表わすなにか別のものを擁護する。ある観念が心的実在として扱われるなら、それ自体現実の現象と捉えられるなら、それは真も偽もあらわしはしないだろう。判断において用いるとき、それは自身以外のものに赴かねばならない。もしそれが、自らの実在を強調するにもかかわらず、なんらかの存在について観念ではないなら、その中身は「単なる観念」でしかない。我々が意味を向ける実在との関係においてはなにものでもないなにかである。

2013年12月27日金曜日

ユートピアの横町――荻上直子『かもめ食堂』



 『鬣』第23号に掲載された。


わたしは食べることが好きだし、料理もするが、ひょんなきっかけで中近東かどこかの王様になったら、と幼稚な空想を巡らせることはあっても、料理人になることを想像したことはなかった。特定の相手のためにこしらえ、もちろん自分も一緒にそれを食べるという親密な行為が、誰とも知れぬ他人のためにつくる職業としての料理とうまく結びつくことがなかったのである。

それゆえ、荻上直子の映画『かもめ食堂』を見るまで、迂闊なことに客の来ない食堂というものがユートピア的状況をもたらすことに気づかなかった。西欧産のユートピアでは、島や城といった孤絶した空間において、現実の世界とは別の原理をもつもう一つの世界が形づくられる。それは社会改革の夢の投影であったり(例えばトマス・モア)、グロテスクなまでに自然の原理を徹底することで裏
返しになった社会を現前させる者(例えばサド)もいる。

いずれにせよ、それらは現にある社会に拮抗するために閉ざされた空間のなかで自律し完結した一体系を築き上げる。つまり、ユートピアは〈どこにもない場所〉であるかもしれないが、特定の時代、特定の社会によって生みだされたものである。中国の神仙譚などでは、山奥や洞窟のなかなどに仙境が広がっていて、現実社会の只中で現実社会に拮抗するというよりは、むしろ素朴な願望充足の夢に満ちている。仙術によって手に入るのは畢竟するところ、不老不死によって意味の比率が変質した現世的欲望の対象である。

『かもめ食堂』では、別の社会原理が語られるわけでも、とっておきの仙術が揮われるわけでもないが、ユートピア的状況をもたらすための隔離は慎重に行なわれている。ある女性(小林聡美)が
フィンランドで食堂を開いているのだが、どんな経緯でどんな考えをもって彼女がこの地にいるのかは語られることがない。また、市場や港や森などの場所も出てくるが、食堂のある通りとのつながり(距離や方向や道程)が示されることはないし、この通りがどんな通りなのか、つまり都会なのか田舎なのか、街中なのか街外れなのか最後までよくわからない。そしてなによりも、日本とはまったく異なる白茶けた太陽の光が食堂全体に満ちあふれ、おとぎ話のような空間をつくりあげている。

そこに小林聡美、もたいまさこ、片桐はいりという三人が、非性的な、かといって母性的というのでもない〈姉の力〉を発揮して、シナモンロールを焼き上げ、しっかりとした衣がついてほぼ正確な楕円形を維持しているカツレツを揚げ、その見事な手際と最後に巻かれるいかにもパリパリとした海苔に幻惑されるためでもあろうか、嘘のように均一でありながらも決して食欲を減退させることのないおにぎりを次々に並べていくことで空間がユートピアの実質で埋められていくのである。

2013年12月26日木曜日

黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)



原作:乾緑郎
脚本:黒沢清、田中幸子
撮影:芦澤明子
音楽:羽岡佳
出演:佐藤健、綾瀬はるか、中谷美紀

 センシングという技術が発達し、他人の意識のなかに入っていくことができる。一年前に自殺未遂を起こした結果、昏睡状態が続いている恋人の漫画家(綾瀬はるか)の意識のなかに佐藤健が入っていく。しかし、なかなかうまくコミュニケーションをとって、昏睡から目覚めさせることができない。

 彼女は首長竜の絵のことが気になっているらしい。子供のころ書いた絵だ。男は二人がともに幼いころ過ごした(男はリゾート開発のために移り住んだ父親に連れられてきたが、数年後にはまた引っ越してしまう)島に行って二人の秘密の場所だったところでスケッチブックを見つけるが、年月を経たせいか首長竜の姿は見る影もなくなっている。

 やがて、漫画家である彼女の意識に彼が入り込んでいたと思っていたのが、彼が漫画家で、事故のせいで昏睡している彼の意識に彼女が入り込んでいることが明らかになる。さらに、彼が昏睡から目覚めないのは、島にいたときのトラウマ的経験があったためだった。

 理に落ちたところがらしくない。首長竜がでてくるのもばかばかしさが足りない。ざらつくような、埋まらない視差にぎょっとするようなリアルさをだした黒澤映画は数多くあるのに、よりによってもっともリアルでないものにリアルという題をつけるとは。

2013年12月25日水曜日

近・現代の三句

 『鬣』第22号、創刊五周年特別号で、近・現代の三句を選ぶという企画で書いた。


1.神田川祭りの中をながれけり         久保田万太郎
2.古沼の浅き方より野となりて         三好長慶
3.干物ではさんまは鰺にかなわない       五代目古今亭志ん生


1.東京に住んだことはないし、神田祭にさえ一度も行ったことがないにもかかわらず、神田川でなければならないと感じるところがしごく妙である。適度に小さな川だというところがいいのだろう(隅田川では祭りが呑み込まれてしまう)。祭りのなかを祭りとは全く異なる原理をもった別の世界が流れる。神田川が主であることで、祭りの喧噪も色彩も吸い込まれ、モノクロームの銅版画のような風合いを帯びてくるのがしごく妙である。

2.『三好別記』に出ているそうだが、私が知ったのは花田清輝の『日本のルネッサンス人』において。永禄五年、飯盛城での連歌の会で、「すすきにまじる芦の一むら」に長慶がつけたのがこの句だという。「中世の暮れ方から近世の夜明けまでを生きた三好長慶は、右の一句によって、かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」と花田清輝は書いている。

3.これほど純度の高いくだらなさにこの句以外で出会ったことがないので選んだ。句を読んで噴きだしたのもこのときだけである。虚子の「痴呆的」と言われた句は、それでもある境地のようなものを感じさせるが、この句はくだらなさを一寸たりとも譲ろうとはしていない。他の句を見ると(すべてを読んだわけではないが)、これだけ高レベルのくだらなさに達していないので、或いは素人の無茶振りでたまたま師範代から一本取ったようなものなのかもしれないが(どれだけの審判がこれを一本と認めるかはまた難しい問題なのだが)、もし句というのが機会の詩であるなら、野球のあの一球、サッカーのあのシュート、ボクシングのあの一発が記憶に刻まれるように、記憶に残されていい句なのではないかと思う。

2013年12月24日火曜日

ブラッドリー『論理学』2

 おぼろげなのはその生涯ばかりではなく、読んだ本や影響関係についてもいえる。「絶対的観念論者」といわれ、イギリスにおいてヘーゲル哲学を極端な形にまでもっていったともいわれるが、ヘーゲルがその著作において言及されることはほとんどないし、文章からみれば、ドイツ観念論の晦渋さよりは、イギリス流の簡明さの方が顕著である。

§2.まず後の仕事から取りかかろう。判断は、厳密な意味においては、真と偽の知識のないところには存在しない。真と偽は我々の観念と現実との関係に基づいているので、観念なしに判断なるものはあり得ない。たぶん、こうしたことの多くは自明だろう。しかし、これから指摘しようとする点はそれほど自明ではない。我々は、観念を使用する前に判断できないだけでなく、厳密に言えば、観念を観念として用いるまで判断できない。我々はそれらが実在ではなく、単なる観念であり、自身以外の存在の記号であることに気づいていなければならない。観念はシンボルとなって始めて観念となり、シンボルを使用する前に我々は判断できない。

2013年12月23日月曜日

くだらなさについて――北野武『みんな~やってるか!』






 『鬣』第22号に掲載された。

〈くだらなさ〉を二つにわけよう。〈くだらなさA〉は、ごく一般的な用法、辞書によれば、「問題にするだけの内容や価値がない」ことであり、排除の身振りを伴っている。〈くだらなさB〉はむしろ積極的な受容によって特徴づけられる価値である。

いつ頃から〈くだらなさ〉が一つの価値として認められるようになったのか定かではないが、タモリやビートたけしといったコメディアンが一役買っていたのは間違いない。それは意味の隙間を縫って進む、ある意味高度なセンスが問われるナンセンスとは異なる。またナンセンスよりは距離的に近しいと思われるが、生の無意味さを暴露する不条理とも異なる。

確かに〈くだらないもの〉を見たとき、我々は生の馬鹿馬鹿しさを感じることがある。しかし、ある種の不条理もののように無意味さこそ生の本質なのだとほのめかされることはない。ところで、〈くだらなさA〉によって人が〈くだらない〉と言うとき、問題になるべき内容や価値が問われていないという意味であるならば、そこには暗黙のうちになんらかの問題が存在することが前提されていると言えよう。

一方〈くだらなさB〉とは、まさしくなんら問題など存在しないことを主張する。ところで、私は、所謂「軍団」とともに活動をするビートたけしには当初からコメディアンとしての、いやむしろ〈くだらなさB〉の伝え手としての魅力を感じなかった。合いの手を入れるだけでほとんどしゃべらないビートきよしや高田文夫と口数にすれば似たようなものだが、同等の仲間ではない「軍団」は明らかに彼らとは異なった意味を担っていた。つまり、いかにビートたけしが「軍団」と一緒に〈くだらないこと〉をしたとしても、私はなにがしかの「問題」をそこに感じとってしまったのである。

ところで、そんな「軍団」が俄然〈くだらなさB〉を獲得したのが北野武の映画においてであって、それは「殿」と「軍団」との固定した関係をフラットに還元するカメラや映画という集団的な制作の場の力でもあっただろう。しかし、それ以上に、とりわけ『みんな~やってるか!』を輝かせているのは、それまでの軍団との〈くだらなさ〉が実は〈くだらなさA〉の裏返しであり、問題にするべき内容や価値があっても敢てそれを問題にしないことによって〈くだらなさ〉を問題にすることだったのに対し、断固として問題が存在しないことを主張し続ける〈くだらなさB〉を発見した悦びであったはずであり、いかにそれが困難な発見であるかは、おそらく同じような方向を目指した『TAKESHIS’』が、ブニュエル風の、フェリーニ風の、リンチ風の「幻想的なイメージ」の集積に堕していることでもわかる。

2013年12月22日日曜日

マイケル・J・バセット『サイレントヒル:リベレーション』(2012年)



脚本:マイケル・J・バセット
撮影:マキシム・アレクサンドル
音楽:山岡晃、ジェフ・ダナ
出演:アデレイド・クレメンス、キット・ハリントン、キャリー=アン・モス、マルコム・マクドウェル

 サイレントヒルはあるカルト教団によって支配されており、父と娘はその追跡を逃れて各地を転々としている。しかし、父親が誘拐され、娘は彼を取り戻すためにサイレントヒルに向かう。

 教団によって火あぶりにされ、いまもその悪を及ぼし続けていると思われている女が実は娘の分身であり、善の部分を切り離して親のない子供に託したのだとされる。二人が対峙し、善の力が勝ったとき、灰に包まれた街はようやく本来の姿を取り戻すかに思えた。

 脇役のキャストが中々豪華で、ゲームにあるような移動するだけで喚起される恐怖や不安を煽るノイズやサイレンの音が効果的に使われていないのが不満といえば不満だが、マネキンの手脚でできた蜘蛛(押井守の『イノセンス』かなにかでみたような気もするが)、暗黒舞踏のような看護婦たちの動きなど面白い部分もある。

2013年12月21日土曜日

小澤實 『万太郎の一句』書評



 『鬣』第21号に掲載された。

 巻末の小論で、「淡雪のつもるつもりや砂の上」という句をあげ、小澤實は次のように言う。

 「句を読みおろしている時には春雪振りしきる空間が現れる。純粋にただそれだけである。その空間には思想や生活の影は一切差さない。が、読み終えたとたん、その空間は消えてしまう。積もったはずの雪ももはや残ってはいない。あざやかで、はかないうつくしさを持っている。・・・・・・万太郎の句を読みながら、無内容の美ということをしばしば感じた。いくつかの句を観賞する際にも、その美を説くことにこころを砕いたつもりだ。万太郎俳句の魅力の中心がここにはある。」

 例えば、談林調の純粋な言葉遊びもあれば、虚子の無内容な句には、その当否はともあれ、ある「境地」が感じとられ、禅と比較されることもあった。つまり、無内容にも様々な種類がある。小澤實は、万太郎の句の無内容の内容を「はかないうつくしさ」に見ているが、私には強靱な造型空間にあると思える。この空間は「おもひでの町のだんだら日除かな」の観賞で「昼寝の夢に浮んだ幻影のような鮮やかさとはかなさ」と書かれ、「わたくしの死ぬときの月あかりかな」の所で「照明の当たった舞台の上の死のようでもある」と書かれた空間である。ただし「淡雪」や「おもひで」とともにこの空間がはかなく崩れ去っていかないところに万太郎の句の魅力があるように感じられるのである
(ひどく小さいが、形が崩れず、空間を支配する万太郎の字のことも思いかえしてみよう)。このことは固有名詞の使い方に端的にあらわれている。「初場所やむかし大砲萬右衛門」、「春麻布永坂布屋太兵衛かな」、「泣虫の杉村春子春の雪」等々がそれであって、私は大砲萬右衛門のことなどまったく知らないし、布屋太兵衛の蕎麦も食べたことはなく、杉村春子に特別な思い入れもないが、ちょうど歌舞伎で衣装や隈取りだけでその人物がどんな人物であるか示し、名優ともなればそれだけを中心に強固な空間が形づくられるように、固有名詞に本来結びつく記憶がなくとも、その字、音、語感に対する鋭い感覚によってある情感の充填された初春や春の空間が造型されているのである。

 実は私の万太郎に関する知識は、もっぱら万太郎が生前に出した全集によっていたため、今回晩年の俳句を読むことができたのは幸いだった。特に、始めて「一めんのきらめく露となりにけり」の句を知ったのだが、空間そのものの発するきらめきを捉えたかのようなこの句を「琳派の小品のような装飾的で不思議な世界が広がっている」と評し、「究極の一句であると評価したい」と述べる筆者には満腔の賛意を表したいのである。

2013年12月20日金曜日

ラッセ・ハルストレム『ヒプノティスト―催眠―』(2012年)



原作:ラーシュ・ケプレル
脚本:パオロ・ヴォシルカ
撮影:マティアス・モンテーロ
音楽:オスカル・フォーゲルストルム
出演:ミカエル・パーシュブラント、レナ・オリン、トビアス・ジリアクス

 ストックホルムの郊外で、一家が惨殺される。国家警察の刑事は、唯一の生存者である息子から話を聞き出すために、かつて催眠の実験でスキャンダルに巻きこまれた医師の協力を頼む。医師は催眠によって息子が犯人であることを知る。

 一方、医師の一家の病気の息子も何ものかによって誘拐される。無関係に思われた二つの事件が絡まり合っていくのだが、さほど説得力はない。

 アメリカなどでは『メンタリスト』のように、催眠術はショー化されているが、この映画で描かれる催眠術は、行為自体は手を握って話しかけるだけで、地味なものだし、とはいうものの催眠術を悪用したといって新聞記事にもなることにみられるように、魔術のようにでも思われているのだろうか、そのへんの催眠術の位置づけも明確になっている方がよかった。

2013年12月19日木曜日

無限の全体――ボルヘス「アレフ」



 『鬣』第21号に掲載された。

アレフを見るには暗闇と最適な角度が必要である。それゆえ、閉ざされた竪穴のような地下室で、二つの折りたたんだ薄い袋を枕に横たわらねばならない。

アレフの直径は二、三センチで、玉虫色に光り輝いている。そこには宇宙に存在するあらゆるものが包含されている。アレフの魅力は無限の全体性を眼に見られる形であらわにしたことにある。

極小の存在のうちにも無限が見いだされることについては、たとえば、パスカルによっても語られている。ダニには無数の宇宙が含まれており、当然ながらダニも含まれていて、そのダニにも無数の宇宙が含まれている、と無限に続く。

このことは、全能の神からすれば、人間の地位など取るに足らないことを示している。無限に続く系列の無限に小さい一点を占めているに過ぎないのであって、無数の宇宙からダニまでの一断片を取り出してみれば、生殺与奪権をある程度握っているだけ人間はダニに較べて相対的に大きな影響力をもっているが、無限の系列のなかでの人間とダニなど区別するにたるほどの相違ではない。

この無限は、確かにその始まりでダニという形を与えられてはいるのだが、ダニそのものにあるのではなく、最小のものに最大のものを見るという無限の繰り返しにおいて捉えられている。別の言い方をすれば、ここには、明らかに視覚的イメージから観念への飛躍がある。ダニのなかに無数の宇宙を認めることには、ダニをばらばらにするという経験可能な視覚的イメージと、無数の宇宙というそれを認識する立脚点が不可能な観念との間の断絶がある。

もし、究極的な顕微鏡が発明され、ダニの血液の粒子のなかに宇宙が実際に発見されたとしても、究極的な顕微鏡が実際に眼で見ることのできるこのものを全く異なった宇宙に変換するものである以上その働きは観念と同じであり、事情は変わらない。

アレフはそうした飛躍のない無限の全体を与えてくれる。そこに認められるのは、銀色に光る蜘蛛の巣であり、破壊された迷宮であり、三十年前に見たのと同じ敷石であり、手の華奢な骨の形であり、地面に斜めに落ちる羊歯の影といった具体的な事実であるから、それこそ無限に続けていくことができるのだが(そして、アレフを最初に発見した凡庸な詩人はそうした世界のすべてについての詩を計画している)、実際には、大量の要素によって多様性が均一性に変じてしまう手前で、蜘蛛の巣と迷宮と華奢な手の骨と羊歯の影とが同時の存在する無限の全体という特異な場をつくりだすことにボルヘスの短編の仕掛けがある。

それはともかく、中心的問題は、いぜんとして解決されていない。つまり、たとえ部分的にもせよ、無限の全体を列挙するという問題だ。この巨大な瞬間のなかに、わたしは楽しい行為、または残酷な行為を幾百万となく見た。そのすべてが、重なりあうわけでも、透けて見えるわけでもなく、同じ一点を占めているという事実ほど、わたしを驚かせたものはなかった。わたしの目が見たものは、同時的に存在していたのだ。わたしの記述したものが連続的に存在するかのように見えるのは、もともと言語というものがそういうものだからである。(土岐恒二訳)

2013年12月18日水曜日

ジョン・ラッセンホップ『悪魔のいけにえ レザ-フェイス一家の逆襲』(2013年)



脚本:アダム・マーカス、デブラ・サリヴァン、クリステン・エルムズ
撮影:アナスタス・ミコス
音楽:ジョン・フリッゼル
出演:アレクサンドリア・ダダリオ

 『悪魔のいけにえ』の正統なる続編とうたってあるだけあって、トビー・フーパー版で生き残った一人が警察に報告することからはじまる。ところが、警察よりも自警団の力の方が強くて、自重を促す警官を無視して、火を放ち、レザーフェイス一家のものを虐殺してしまう。

 女性がひとり生き残り、屋敷を守っているが、死亡し、ある若い女が相続をすることになる。実はリンチ的な殺戮のなかで、子供のできない男が乳飲み子を奪い去っていたのだ。自分の生まれのことなどまったく知らないが、相続の知らせを受けた女は自分の彼氏と友達のカップルを連れて屋敷を訪れる。

 だが、レザーフェイスは実はまだ生きていて、友人や彼氏が次々に殺されていく。ここの辺は特に工夫もないまま進むが、ひとひねりあるのは、レザーフェイス一家の一員であることを知った女性が、家族愛に目覚めたのか、レザーフェイス側に立って、いまでは主導者が町長になっているかつての自警団への復讐に手をかす展開になるところ。

 『悪魔のいけにえ』関連では凡庸な映画。残酷描写の工夫がまったくないし、復讐心で動くレザーフェイスなど魅力がまったくない。

2013年12月16日月曜日

ブラッドリー『論理学』1

 フランシス・ハーバート・ブラッドリーは1846年に生まれ、1924年に死んだ。その生涯についてはほとんど知られていない。波瀾万丈でその行跡がたどれないのではなく、平穏なたたずまいばかりがあって、その裏に葛藤を読み取るべきなのかどうか、よくわからないのだ。

 なにしろ半世紀以上もオックスフォード大学のフェロー(研究員と寮長やら相談役などが一緒になったものと考えればいいか)を勤めながら、一度も教壇に立ったことがなかった。


第一巻 判断
  第一章 判断の一般的性質
   
 §1.論理学を研究し始める前に、どこから始めるべきか知ることは不可能である。研究しおえた後にも、不確実性は残る。一般的な順序などないのであるから、判断から始めることに言い訳することもないだろう。中途から始めたという非難を受けるにしても、主題の中心に触れることくらいは望めよう。
 この章では、判断一般の問題を扱おう。(I)その語が使われるときの意味についていくつかの考察をする。(II)第二に、考え得る誤った見方を批判する。(III)最後に、その働きの発達についていくつかのことを述べる。 

 I.この種の本においては、配列は任意のものにならざるを得ない。我々が同時に主張する一般的学説は、その証明を後の章に譲る。もしそれが問題となる主要な現象をすべてにわたって覆うものであれば、他の観点と衝突しあうとしても、真の観点と思われよう。しかし、こうした理由から、とりあえず暫定的に提示するしかない。 
 判断は心理学と形而上学の双方において深刻な諸問題を提起する。他の心的現象との関係、魂-生の初歩的な段階からの複雑な発達、一方に我々の本性の知的な側面にある意志との密接な関係が、他方に主体と対象との差異、心的活動の存在をめぐる問題などが我々の進む道を示しているかもしれない。しかし、できるだけこうした問題を避けたところに我々の対象はあるだろう。我々がまず問いたくないのは、判断は他の心的状態とどんな関係にあるか、究極的な実在においてそれについてなにが言われねばならないか、である。我々はそれを、できる限り所与の心的働きとして捉えることにしたい。それがもたらす一般的な性格を発見し、更には我々がそれを使用する際のより特殊な意味に注意を向けることにしたい。

 こうした、ある意味ノンシャランな始め方は、哲学では珍しいものだといっていいだろう。アリストテレスからデカルトにいたるまで、確実な根拠を固めた上に、自らの学説を打ち立てることが一般的だからである。

2013年12月15日日曜日

お手本と蝶つがい――内田百閒の俳句



作品抄出 三十句

水ぬるむ杭を離るゝ芥かな      『百鬼園俳句帖』

うらゝかや藪の向うの草の山

麗らかや橋の上なる白き雲

袋戸棚に砂糖のにほふ日永哉

浮く虻や鞴の舌の不浄鳴り

捨て水に雲の去来や飛ぶ胡蝶

犬聲の人語に似たる暑さ哉

欠伸して鳴る頬骨や秋の風

五臓六腑繪解きの色や秋の風

饂飩屋の晝來る町や暮の秋

俯せり寢の此頃の癖を蚊帳の果

毛物飼へる夜怖れのあり枯野人

庭先を汽車行く家や釣り干菜

麗らかや長居の客の膝頭        『百鬼園俳句帖拾遺』

晝酒の早き醉なり秋の風

丘に住んで秋雲長き晝寢哉

コスモスに空高し山の手の露地

橋と橋の間の道の小春哉

獨り居の夢に尾もあり初枕

さみだれの田も川もなく降り包み

砂濱を大浪の走る夜の長き

春立つや犀の鼻角根太りて        『俳句全作品季題別総覧』

立春の大手まんぢゆう少し冷たき

ぞろ/\と楽隊通る日永かな

短夜の狐を化かす狐あり

大なまづ揚げて夜降りの雨となり

新堀の河童の床の魚骨哉

龜鳴くや夢は淋しき池のふち

龜鳴きて亭主は酒にどもりけり

がぶがぶと茶をのむ妻の夜寒哉



 内田百閒の生まれたのは岡山の大きな酒屋で、使用人のなかには俳句を好む者もいた。発句の会で選に入ると持ち寄った会費を取ることができたというから、賭博的な性格もあったらしい。

 俳句を作り始めたのは、本人の記憶しているところでは中学校のときで、「輪くぐりの用意に急ぐ湯浴みかな」という句がその頃のものだという。もっとも、本格的に取り組みだしたのは、第六高等学校に俳人でもある志田素琴が教師として赴任してきてからのことで、一度始めると徹底的にしないではすまされない百閒の性格をあらわすように(琴、鳥の飼育、猫、飛行機、列車、酒、食物などとの関わりを見ればわかるように)、一夜会という句会を、最後には友人と二人きりになって百回まで続けた。俳句だけが原因かどうかはわからないが、学年試験で成績を落とし、素琴先生から苦い顔をされたこともあった。それ以降、高校時代のように集中して句作に励むことはなかった。

 昭和九年の『百鬼園俳句帖』、十八年の『百鬼園俳句』編纂の際、「百閒先生が自ら選外とされた句、句集以後諸雑誌に発表された句、または書簡・真蹟などの遺珠をもひろく蒐集して」、判明している「百閒先生の俳句の全部」を収録した『俳句全作品季題別総覧』に収められたのが四百八十四句であるから、小説家としては少なくないとしても、八十年を超える生涯でコンスタントに俳句とつきあっていたとすると決して多いとも言えない句数である。

 少々意外に感じ、しかしながら、思い返してみるとさもありなんとも思われたのは百閒の俳句への取り組み方が窺える次のようなエピソードである。句集を出すことになったとき、百閒は高校時代の句をほとんど落選させていったが、「幼稚だけれども、捨てるに忍びない」ものがある。その一句に「湧き出づる様に水出ぬ海鼠切る」というのがあり、迷ったあげく「滾滾と水湧き出でぬ海鼠切る」と直した。すると、今度は「妙な事が心配に」なってくる。

かう云う古い、昔に作つた句は、その当時に、きつと何人かのお手本があつて、それを句作の指針にして、同じ題のものを、幾つも試たに違ひない。習作の当時を回想するに、先人の秀句を一つ真中において、その廻りを同じ様な興趣と句法に縛られたなり、ぐるぐると廻つてゐなかつたとは云はれない。その場合、一番ぴつたりした、適切な表現は真中においてある先人の句なので、その通りに云つてしまへば、最も簡単であるけれど、それは人の句であるから、さうは行かない。それで止むなく、舌足らずの、よちよちの、興趣も徹しない類句をいくつも作つて、その中で、ましな奴が覚え帖に残つてゐたものとすれば、今それから仮りに十年を経過してゐるとして、その間に私は当時
の句作上の行きさつや、縛られてゐた綱の事などみんな忘れてしまひ、ただ私の句の稚拙なところだけが、十年後の目に、はつきりとわかる。かう直せばいいと思つて、直した結果は、その昔、真中において、お手本にした句そのままになつてゐるのではないか。そのお手本だつた句も、勿論私は忘れてゐる。句は忘れて、さうして既に知つてゐるのである。だから今直した結果同じものが出来ても、自分にはそれが解らない。古い句を直すのは危険である。
        「海鼠」 (『無絃琴』所収)

 もちろん、俳句が今日ほど「自由な」ものでなかったことは考慮に入れねばならないが、小説のように「創作」するのでも、吟行で詠み捨てていくのでもなく、季語を決め、お手本を前にして、類句を沢山作りながらお手本に近づくことを心がけていたらしいかなり保守的な勉強法が見て取れる。実際、『冥土』や『旅順入城式』といった短編の「幻想」をその俳句に期待するとはぐらかされるだろう。しかも、百閒というと中年から老年にさしかかり、生活スタイルの定着した頃の印象が強いために、つい必要以上に昔の人だと思いがちであるが、俳句に写生以外のものを持ち込んだ、例えば、山口誓子や西東三鬼のような俳人と年代的には一回りも違わないのである。

 こうしたことを心に留めておくと、いわば自分のことは棚に上げて百閒が「文壇人の俳句」に厳しい評価を与えているのも驚くにはあたらない。師である漱石についてさえ、「俳人漱石をさう高く買つてゐない事は、明言し得る」と言いきっている。なぜ「文壇人の俳句」が「殆ど駄目」なのか。

画家の書が本当の書を見る目で見ると、いけないと云ふのと同じであつて、つまり画家は、既に審美眼が出来上がつてゐる。自分の審美眼に合ふ様に字を書く。だからその書は形の整つた、或は趣きを具へた、或は古拙に見える色色の特徴で、一部の人に愛好せられるが、しかし書の美は、その書格の中から生まれ出る可きものであつて、あらかじめ字の恰好なり効果の美を知つてゐる人の書いたものは、さう云ふ点でどこかしら本来の味を失つてゐる。つまりどう云ふ風に書けばどうなると云ふ判断の働く事がいけないのであつて、文壇人の俳句は正にその弊を具へてゐると私は思ふのである。俳句の上手下手は、句法なり措辞なりだけで定まる事のないのは勿論で、昔によく云つた境涯と云ふものに達してゐなければ作れるものではない。文壇人は文士であり、文士は言葉を扱ふ者であるから、俳句の作法を聞けば、自分の豊富な語彙を以て何とか尤もらしい句形を整へる事は出来るのであるが、その十七音が俳句になる前に既に作者の方に一つの標準があり批判があり、それに当て嵌めて俳句を捏造する、盛んになればなる程、さう云ふ第二義の句が人の目にふれ易いので、成る可くならば余り流行しない中に下火になる事を私は祈つてゐる。
     (「百鬼園俳談義」 『鬼苑横談』所収)

 『冥土』や『旅順入城式』の悪夢のような雰囲気を俳句に移しかえることも或いは可能であるかもしれないが、そうしたところで、小説家としての「審美眼」を俳句に当てはめているに過ぎない。つまり、百閒にとって、俳句というのは、琴や習字などと同じく「お稽古事」として始めるしかないものであり、お手本を何回もなぞることで、その形を完全に肉体化することができたときに始めて個性があらわれてくる類の実践である。我流の学習でどれだけ「個性」らしきものを出したとしても、それは俳句の「格」を損なう手癖でしかないのである。「文壇人の俳句」というのは、多くの場合、あまりにその小説と似ており、「小説的」であることと小説を通じてあらわになるべき「個性のしるし」がついていることで二重に俳句を裏切っている。こうした意味で、百閒の俳句がその小説に似ていないことは、百閒の俳句に対する考え方の必然的な帰結である。

 さて、「百鬼園俳談義」(文字通り、百閒の談話を筆記したものであるが)には、こうした意外に思われてもよく考えれば必然性のある厳格さとは対照的に、一見したところいかにも百閒らしいが、その意味するところを辿ると『冥土』の世界に誘い込まれたかのような落ち着かない気分にさせられる発言がある。冒頭、百閒は、人口に膾炙した四句、古池や蛙飛び込む水の音、荒海や佐渡に横たふ天の川、名月や畳の上の松の影、指南車を胡地に引去る霞かな、をあげて評釈している。「この古池を読んでゐると、少し可笑しくなつて来る」と始まった時点で、何か漠とした不穏な雰囲気が漂っている。

古池と云ふものが、考へ方によると、可笑しなものであつて、水際ははつきりしてゐない泥の崩れた様な所で、水面には、この俳句から考へると春の事であるから所所に水草が芽を出してゐるであらう。晴天なら晴れた空を映してゐる。古池の上に空が晴れてゐると云ふのも、想像の上で少し可笑しい。又曇つてゐて、雲が池の上にかぶさつてゐるとか、或は風が吹いて水面に波が立つてゐるとか、さう云ふ景色を此方で古池と云ふものにこだはつて思ひ浮かべて見ると、どうしても滑稽な感じが伴なふ。仮りにその池の辺りを歩いてゐるとしたら、さうしてさう云ふ事に想到するとしたら、人のゐない所で独笑ひが浮びさうに思はれる。その古池に蛙が飛び込んで、静寂を破る水音を立てた。それは幽玄の黙示であると云ふ風に、古来解説せられてゐるが、又さうでないとも云はないが、しかし一寸気を変へてその景色を味はふと、芭蕉と云ふ人も随分可笑しな事を云ふものだと考へられる。段段その考へにこだはると、心の中で古池の句を繰り返すだけで、可笑しくて堪らない。

 「荒海や」の句については、「壮大と云ふ感じは勿論受けるけれども、それも一寸気を変へて読み直すと、暗い荒海の上に天の川が光つてゐると云ふのは、滑稽な景色である」と言い、「名月や」の句については、「名月が松の向うから松の樹を照らし、松がその影を開け広げた座敷の畳に投げて、それを誰かが見て、この句に盛られた様な感興を抱いたとすると、笑はずにはゐられない」と言う。そして、最後には、「さう云ふ事を気にしてゐると、心に浮かぶ古来の名句が今まで気の附かなかつた様な可笑し味を誘ふのである」と述べる。

 もし古来の名句が、すべて「可笑し味」や「滑稽」さを湛えたものであり、いわゆる俳句的な「美意識」の伝統と呼ばれるものが、「滑稽」を生みだすための組み合わせを洗練させてきたものだとすれば、名句を手本にし、修練を重ねるとは、最も深く効果的な無意味さを身につけるための必須の手順であることになる。俳句が小説的な要素を斥けるべきなのは、洗練されてきた俳句の無意味が小説的意味によって汚染されてしまうからであり、我流の個性が俳句にとって百害あって一利もないのは、個々の特殊な気質や利害得失によって限定された無意味が底の割れた私的な無意味でしかないからである。

 『冥土』などの短編では、その多くで、丹念に積みかさねられた描写が、「水を浴びた様な気持ちがした」「怖ろしくなつて来た」などという一文をいわば蝶つがいとして、別の世界へと反転してしまう仕組みが見られる。言い方を変えれば、小説のような有意味性を基盤とする形式では、或いは、小説のような雑多な要素が混在する形式では、蝶つがいになるものがなければ、「水を浴びた様な気持ち」を引き起こす「怖ろしい」無意味を現出させることができない。一方、俳句のようにこの上なく切り詰められた純化された形式では、お手本を身体にたたき込み、意識することなく「可笑しな事を云ふ」訓練を積むことで、形式に密着にした生の無意味さをあらわにすることができる。しかしながら、実は、こうした考え方では、古来の名句を「滑稽」だと感じる百閒の意識が別世界へと裏返る蝶つがいの役割を果しているのであり、期せずして百閒の小説家としての眼が働いてしまっているのである。

2013年12月14日土曜日

ニコラス・ローグ『赤い影』(1973年)



原作:ダフネ・デュ・モーリア
脚本:アラン・スコット、クリス・ブライアント
撮影:アンソニー・B・リッチモンド
音楽:ピノ・ドナッジオ
出演:ドナルド・サザーランド、ジュリー・クリスティ

 ある夫婦が外で遊ばせていた小さな娘を事故で失ってしまう。目が届く範囲で遊んでいたのだが、池に落ちて溺れてしまったのだ。

 数ヶ月後、夫の仕事は教会の修復であることもあり、夫婦はイタリアのヴェネチアにいた。ヴェネチアでは連続殺人鬼が話題になっている。娘を失った痛みはまだ癒えず、妻は精神安定剤を服用している。その妻がある姉妹と知り合いになる。姉は盲目だが、霊感があるらしく、娘さんがあなた方と一緒にいますよ、と妻に語る。妻は興奮して夫に語るが、彼の方は幾分懐疑的である。

 そんななかもう一人の子供である息子が怪我をしたという知らせが入る。夫はすぐに仕事を中断するわけにも行かず、妻が先に出発することになる。残された夫は、ヴェネチアの街に、溺れたときと同じように赤いレインコートを着た娘の姿を認めたように思う。彼は赤い姿を追って街をさまようのだが・・・・・・

 シェイクスピアの、オフェーリアの、さらにいえばラファエロ前派の国の監督らしく、溺死のイメージが繰り返される。

 この映画、10年以上見ていなかったが、見たのは3,4度目である。『マリリンとアインシュタイン』以来新作を見ていないが、もう映画には携わっていないのだろうか。思えば、同じ頃熱心に見たアラン・タネールやエットーレ・スコラの新作も見ていない。

2013年12月13日金曜日

悪魔が映画をつくった――ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』



 「鬣」第20号に掲載された。


『エクソシスト』はホーム・ドラマの一変種だという説がある。素直で従順だった子供が、思春期を、或は精神的病いを境に態度や行動を一変させる。そうした決して珍しくないホーム・ドラマの題材に悪魔憑きというひねりを加えたのが『エクソシスト』だというわけである。

確かに、中心になるのは母(エレン・バースティン)と娘(リンダ・ブレア)の関係である(要するに、悪魔さえ取り除けば、『積木くずし』と似たような話になる)。悪魔払いの経験のある老神父(マックス・フォン・シドー)は若い神父(ジェイソン・ミラー)に、悪魔と会話を交わしてはいけないと忠告するが、それはベテランの精神分析医が新米の分析医に、治療においては患者から医者への愛情や敵意の転移を警戒し、患者とあまり深い感情的関わりをもたないよう注意するのと似ていよう。また、神父をある種の教育者と捉えるなら、教育によって「人間性」を(再)獲得する物語とも考えられる(要するに、悪魔さえ取り除けば、『奇跡の人』と似たような話になる)。

ところが、観点を変えて、ホーム・ドラマに悪魔というスパイスをきかせたのではなく、悪魔が我々に最も馴染みのある物語を際限なく生みだし続けるホーム・ドラマを侵略し、その領土を侵しているのだとしたらどうだろうか。公開当時から、かりにも神に抵抗しようという悪魔が、なぜよりによって一家庭の一少女に取り憑き、しかもその命を取り損なうことがあろうか、といった疑問が出されたものだが、悪魔にしてみれば一少女の命など問題ではなく、人間生活に強い根を張ったホーム・ドラマという枠組みに罅を入れる方が焦眉の急であったに違いない。

こうしたことを明らかに示しているのが『エクソシスト』の映像だと言える。『エクソシスト』(1973年)と四年後の『スター・ウォーズ』の公開によって、ハリウッド映画における特殊効果の役割は決定的なものとなった。『スター・ウォーズ』が描きだしたのは、宇宙空間での戦闘であり、人間とは異なった姿形をもつ異星人であり、人間の力には及ばない神の視点であって、特殊効果は神の創造を真似たのだった。

一方、『エクソシスト』の特殊効果が描くのは、三百六十度回転する少女の首、浮遊する身体、罅割れた顔、緑色の吐瀉物という、ごく身近にありながら経験したことのない組み合わせであり、「人間性」についての概念がなんらかの形で変容しないなら実現され得ない事柄であって、特殊効果という武器を得たこれ以降のホラーがますます「人間性」を蔑ろにしているのを見ると、『エクソシスト』で悪魔のしたことはまさしく悪魔の所業と言うに相応しい。

2013年12月12日木曜日

酩酊の要諦――暮尾淳『ぽつぽつぽちら』書評



『鬣』第18号に掲載された。

                  
大田南畝によると、酒はのべつ幕なしにのんではならない、時と場所とを選ぶべきである。即ち、1.節供または祝儀のとき、2.珍客のあるとき、3.肴があるとき、4.月雪花の興があるとき、5.二日酔いをなんとかするとき。

『ぼつぼつぼちら』を読んで、ここに登場する「おれ」がなんの定見もなくしきりに酒をのんでいると考えるのは皮相な見方というものである。目的はただ一つ、酔うことにある。

ところで、「酒をのむ」と書くことが実際に酒をのむことと特に直接的な関係がないように、新宿の酒場で酒をのんで酔っぱらうことと言葉を酩酊させることにはなんの因果関係もないことは言い添えておくべきだろう。酒を手放せない作家が常にしらふの言葉を書き、一滴もアルコールを受けつけない者が言葉において酩酊することもあり得るのである。また、酔っぱらった人間が酔ってないと言い張り、酔ってない者が酔った振りをするように、酒がでてきても酩酊しない文章もあれば、酒のことなどなにも書かれていないのに酩酊している文章もある。

もちろん、ここでは暮尾淳氏の言葉が酩酊していると言いたいのである。では、この本で、酩酊は言葉になにをもたらすのだろうか。

第一に、実際のアルコールが血液の流れをよくするように、人間の流れが円滑になる。夢ともうつつともわからぬ女が「夜目にもしろい乳房」と「ハンカチ一枚みたいな腰」をあらわにして誘いかけるし(「春の夜の風」)、「突然あおく透きとおり/びしょびしょ雪が溶けだした/日本の空の曇天に/なつかしいサイレントムービーの/タイトルバックのように消えて行」く「ゼンタロウ」に出会うこともある(「同級生」)。

第二に、時間の流れが円滑になり、過去が現在と混じり合う。「どこにでも気さくに付いてくる/
死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめ」ることもあれば(「ヘール・ボップ彗星」)、「装甲車の残骸が晒されている/草むら」で「灯台草の/乳色の汁で戯れた」少女との指切りを、高層ビルのキャッシュコーナーで紙幣を数えているときに思い起こしもする(「灯台」)。

第三に、自然の流れが円滑になる。酩酊であるだけに、主として水の循環であり、暮尾氏の詩には頻繁に雨が降りしきっている。ここでの水は同じ場所に澱みたゆたい、人を包み込んで安息をもたらす羊水の働きをするのではなく、同じところに止まらず流れ去るかわりに幾度でもあらわれる。どこにいようと安全な定着などないし(「ガラスに額を押しつけて/筏のようなものを見ていたら/ゆ
らりゆらり/波に乗って部屋は進み出し/おれは軽いめまいを覚え」「白い虹」)、身体にたまった水は排出される(「水めし」)、なにより、酔いが停滞を許さないのであり、安息は酩酊の放棄でしかない。

雨のざわざわ降る夜に
雨降るスクリーン現れて
しょぼしょぼしょぼんと音がして
ざあっとトイレの水流れ             (「蕎麦焼酎を飲みながら」)

2013年12月11日水曜日

移動と固定――スタンリー・キューブリック『シャイニング』



 『鬣』第19号に掲載された。

原作者のスティーヴン・キングが、スタンリー・キューブリックの撮った『シャイニング』について大いに不満を抱いていたことはよく知られている。余程腹に据えかねていたのか、二十年近くもたった後、TV用のドラマではあるが、自ら製作と脚本を担当し、いわば原作者のお墨付きを与えている。

もっとも、キングの不満は、原作者にありがちなひとりよがりとだけ言ってすまされるほど根拠の薄弱なものではない。キング版の『シャイニング』の魅力は、最良のキングが常にそうであるように、恐怖のクレッシェンドにある。雪によって交通が遮断された山奥のホテルに管理人として両親と幼い男の子が一冬を過ごすことになる。この閉ざされた環境において、怪奇現象と、それをますます鮮明に感じ取ってしまう子供の超能力、そして父親の狂気への傾斜が渾然一体となり、最終的な破滅に向けて、圧力鍋のなかのように徐々に圧が高まっていく。

ところが、キューブリック版の『シャイニング』でもっとも印象に残る場面がなにかといえば、エレベーターから溢れだす血の奔流であり、二人列んで正面を見つめる双子の女の子であり、赤で統一されたトイレに見られるような色彩設計であり、とりわけ、ステディカムによって撮影された廊下を進む三輪車(といってはちゃちなものを思い浮かべてしまうが、実際は小さなバギーのようなもの)に代表される移動撮影、つまりはキングのあずかり知らぬ部分なのである。

キューブリックは四十回、五十回とリテークするのも珍しくなかったというが、それは各場面ごとに最高の強度を求め、たかまりゆくサスペンスのことなどなんら考えていなかったことを示している。そもそもキングは、正常な状態と狂気とのコントラストを示すためにも、最初から異様な雰囲気を漂わ
せているジャック・ニコルソン(同じことは、始めからどことなく不安定な印象を与えるシェリー・デュバルにも言えるのだが)を外してジョン・ボイドにするよう頼んだらしい。

結局のところ、キューブリックが一読後非常な興奮をおぼえ、すぐに映画化権を獲得するよう秘書に命じたという『シャイニング』の感動は、描かれる個々の出来事の内容とそれによってもたらされる結果に寄せられたのではなく、何気ない描写の積みかさねや繰り返しが持続されることによって、それが別の意味に変わってしまうというキングの手法にこそあったのだと考えられる。そこで生じてくる意味を恐怖に接続しうるというのがキングの発見だったわけだが、他方、車窓から移りゆく風景を映すロードムービーの移動ではなく、同じ対象を捉えながら持続する移動撮影が、対象の固定では同じであってもクローズアップとはまた異なったある意味を生みだすというのがキューブリックの発見だったわけである。

All work and no play make Jack a dull boy...

2013年12月10日火曜日

不釣り合いな友人――スティーブンソン



「鬣」第18号に掲載された。

ジキルとハイド、善と悪とを体現する二つの人格がひとりの人間のなかで戦うのだが、この戦いはナポレオンとウェリントンが戦ったワーテルローのように、原則としてどちらの陣営に荷担することもない中立な土地において行われたわけではなかった。ジキルの身体こそが主戦場であり、ジキルは最初からハンデを負っていたわけである。

そもそも、ジキル自ら述懐しているような善と悪との戦いが行われたかどうか、非常に疑わしい。通りすがりの老人を殴り殺したり、様々な秘密の悪徳に耽っているらしいハイドはとりあえず悪としておいてもいい。しかし、ジキルの方はと言えば、善というよりはヴィクトリア朝の偽善的小心さをもっているに過ぎない。

善と悪とが拮抗しているなら、ジキルは、二つの人格を分離し、ハイドのもとで良心の咎めなく快楽をむさぼることを可能にする実験にかくも容易に飛びつくことはなかっただろう。ジキルは分離を「白昼夢として耽溺」し、実現した暁には「人生は一切の苦悩から解放されるだろう」と思っていたのである。

ジキルはハイドのすることに関心をもち、ときにはハイドの快楽の計画や手助けをし、「共に享楽にふけった」りもするのだが、ハイドはジキルにまったく無関心だった。つまり、善と悪という抽象的な原理の衝突というよりは、ジキルと彼が理性ではわかっていてもどうしても離れることのできない人物、カリスマ的な魅力を放ち、自分の暗い欲望を肯定してくれる不釣り合いな友人であるハイドとの諍いであり、そうであればこそ一つの身体に具体的に二つの人格があることの現実性が際だってくる。


およそ二百年前のジョン・ロックは、当時の哲学者たちが言うように肉体と霊魂とが別々のものなら、カストルが眠っていて意識のないときにその霊魂がポルクス宿り、ポルクスが寝ているときにはカストルに宿ることも可能だろう、と夢想した。つまり、二つの身体に一つの霊魂があるわけである。だが、この霊魂はカストルのときの幸不幸とポルクスのときの幸不幸とどう折り合いをつけるのだろうか。結局、身体のない霊魂は何でも映しだすことができるが、蓄えておくことのできない鏡のようなものだとロックは言って、半端な(あるいは過剰な)霊魂をこの上なく物質的なもので喩えてみせた。一方、一つの身体に二つの霊魂で、ロックを裏返したスティーブンソンは、半端な(あるいは過剰な)身体をむしろ霊魂に似た移ろいやすい幻影に喩えたのである。

我々の霊魂を包んでいる肉体は、一見頑丈そうに見えるが、じつは震えおののく幻影、霧のようにうつろいやすい存在にすぎないことを、これまでの誰よりも深く見抜いたのである。薬品の作用には、あたかも風が天幕を吹きまくるように、肉体というこの外被をふるい落とす力があることを私は知った。(海保真夫訳)

2013年12月8日日曜日

ユーモアと滑稽――椎名麟三




新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである、とニーチェは言う。事実、聖書にはイエス・キリストが人々を笑わせたという記録もなければ、自ら笑ったという箇所も見あたらない。

であるから、ほんとうのユーモアをもっているのは、キリスト教だけなのだ、という椎名麟三の言葉を読むと驚かざるを得ないだろう。

キリスト教とユーモアとの結びつきということになると、チェスタトンの名が浮かぶ。しかし、チェスタトンのユーモアがカトリック的で、派手で、多幸症的だとすると、椎名麟三のユーモアはプロテスタント的で、質素で、禁欲的だと言える。チェスタトンにとっては世界のあらゆるものがでたらめで、驚異に満ちており、それゆえにユーモラスで、ユーモアとは神が創造したこの世界を肯定することにある。世界を肯定する哲学や文学は、たとえそれがキリスト教となんの関わりもないものであっても、この創造された世界の驚異を享受するという点において、キリスト教的に読みかえることができる。

つまり、チェスタトンによれば、人間はキリスト教的な存在として生まれてくるのであり、幼児期には誰もがもっていたでたらめでユーモラスな世界に驚嘆する能力を徐々に失うことによってキリスト教的でなくなっていくに過ぎないのである。

一方、椎名麟三によれば、人間とは、成長によって、あらゆる人間的努力を無意味なものとする死を認識することで初めてユーモアというものを視野に入れる。しかもそのユーモアたるやイエス・キリストにしか可能でないような聖性に満ちたものである。

というのも、人間においてユーモアは常に滑稽と苦悩とに分裂する。笑いを誘う滑稽さとは、無意味さを客観的に見やることで、その無意味さとは多かれ少なかれ、究極的な無意味をもたらす死に通じている。こうした滑稽さは、主観的には多かれ少なかれ意味のある苦悩をもたらすこととなろう。

ユーモアとは、死に通じる滑稽の無意味さと生につきものの苦悩に満ちた意味との対立を解消できるようなイエス・キリストや聖霊にのみ可能な超越的地点だということになる。このように捉えられたユーモアは、いかんせん具体的な例が示されないために、細部に止まるユーモアの大半の魅力が失われているように私には思える。ただ、その論の進め方や言葉の端々が幾分滑稽のおかしみを誘うことはあって、たとえば、椎名麟三によるとキリスト教は絶望する人間に次のように答えるという、

君もそうなのか、ぼくもそうなんだ。三十億の人類を片端から殺してしまうだけでなく、人類というものを歴史のはじめから抹殺してやりたいくらいなんだ

2013年12月7日土曜日

ドン・デリーロ『コズモポリス』




 金融界で成功した若い社長の一日を描く。朝、この社長は護衛の者たちに数ブロック先の床屋に行くように命じる。リムジンで向かうのだが、折しも大統領がニューヨークを訪れており、人と車があふれかえって、ほとんど動かないような状態にある。

 リムジンには最新の装備があり、オフィス同然である。ほとんど動かない車には次々に社員があらわれ、知的な雑談を交わしていく。社長は毎日健康診断を受けており、直腸触診で前立腺が非対称だといわれたことになにか特別な意味があると感じている。

 また、少し前に家柄のいい大金持ちの令嬢と結婚をしているが、生活は別であるらしく、ニューヨークの狭い街のなかで擦れ違うたびごとにセックスを迫るのだが、食事をしては別れてしまう。街では大きなデモがあり、暴動にまで発展する。

 社長は莫大な金額の円を買い込んでおり(映画ではウォンになっている)、目算が狂って破産が身近に迫っている。もちろん本人にもそのことはわかっているが、何ごとにも現実感を感じられないようだ。死に関してもそうで、気まぐれのように護衛の者を銃で撃ち殺してしまう。

 クローネンバーグの映画では、「プルースト流」と本人によって形容されたリムジンの、外界の遮断が非常にうまく表現されている。最後、この社長は元社員によって襲撃されるのだが(その結果は小説と映画では微妙に異なる)、銃を突きつけられることによる死の危険がこの男に「リアル」なものとして届いているかはわからない。そうした曖昧さは映画の方がうまく表現されているように思える。

2013年12月6日金曜日

ソポクレス『アイアース』



 トロイア戦争の末期、アキレスの鎧はオデュッセウスに贈られることになり、アイアースは自分が軽視され、屈辱を与えられたと感じ、ギリシャ軍の司令官たちを皆殺しにすることを決意する。

 女神であるアテーナーは、牛や羊などの家畜をギリシャの司令官であるという幻覚を与え、アイアースは家畜類を殺してそれらを自陣に持ち帰る。やがて幻覚から覚めたアイアースは、自分がしたことによってギリシャの戦士たちに嘲笑されると信じて、苦しみのあげく自陣を出て行ってしまう。

 アイアースの異母兄弟であるテウクロスは、ギリシャ陣で、アイアースは一日のあいだ自陣を離れてはならないこと、離れてしまうと死が待ち受けていることを聞く。そこで急いで使者を送るが、すでにアイアースは自陣を離れており、ヘクトールにもらった剣の柄を土中に埋め、突き出た刃に身を投げて自害していた。

 アガメムノンなどのギリシャの司令官たちは自分たちに害を及ぼそうとした行為のことを考え、アイアースを葬ることなくそのままに放置しておくように命ずる。

 だが、そこにオデュッセウスがあらわれ、敵であってもその高貴な死には敬意が払われるのであるから、アイアースにもその身分にかなった適正な葬儀がなされレルべきだとみなを説得する。

 適切に葬られることの必要性というのは(ラカンなどは、身体的及び象徴的に、人間は二度死ぬ、といったが)日本や中国にはあまり見られないようだ。

2013年12月5日木曜日

ナチョ・セルダ『Genesis』『Aftermath』


 ナチョ・セルダはスペインの映画監督。どちらも30分くらいの短編。どちらにも一切台詞はない。

 『Genesis』は創世とでもいえばいいか。家族を撮ったホーム・ムービーからはじまる。おそらくは事故にあったためか、妻は死んでしまったのだろう。男は妻の像をつくりあげる。すると像から血が流はじめる。男が自分の命を捧げると、妻が蘇る。

 『Aftermath』は余波、後遺症、草などの二番刈りを意味する。死体安置所の解剖医が、同僚たちが帰ったあとで、死体愛好にふける。グロテスクな内容ではあるが、少なくとも『ギニー・ピッグ』のように扇情的に描かれているわけではないので、あまり嫌悪感を催すことはない。

2013年12月3日火曜日

言った言葉が・・・・・・--三木のり平



 「鬣」第16号に掲載された。

実は、三木のり平にそれほど関心をもつことはなかった。伊東四朗や三宅裕司の口から敬愛の情をもって語られるのを耳にしたことはあるし、別役実の芝居に出演しているのを中継で見たこともある。それ以外では、森繁久彌や小林桂樹などと共演していた社長シリーズでの姿を微かに思いだす程度だが、本人に言わせると社長シリーズなど、糞だよ、ウンコ、作品なんてもんじゃないよ、ということであり、それは作品としての評価というだけではなく、映画というものが、本来、役者の芝居の流れを好き勝手に切り刻み、好き勝手に貼り合わせる監督のものであり、役者が自信をもって自分の作品だと言えるのは舞台のみであるという考えに基づいている。

思えば、三木のり平に対する私の印象の薄さは、彼が心血を注いだ東京の喜劇について鮮明なイメージを結べないことからきているようにも思われる。物語などは方便でしかないギャグの陳列場で
ある吉本新喜劇とは異なるしっかりした結構をもち、人情と涙と笑いが一緒くたになった松竹新喜劇よりも遙かにドライであるらしい芝居の姿が文章による証言だけでは朧気たらざるを得なかった。

ところで、ここに、<言った言葉が・・・・・・>という遊びがある。撮影所の長い待ち時間ではやった一種の謎々で、映画の題名をあてる。例えば、東北の寒村、飢饉があって、男は出稼ぎ、娘は身売り、年寄りしか残っていない。息も凍るような寒い朝、特に貧しい一軒の家から老婆が出てくる、一羽だけ残った鶏の世話をするためである。餌をあげようとすると、なにを思ったか鶏はお婆さんの肩に飛び乗る。こらっ、と手で払うと、鶏はすぐに下りたが、フンがお婆さんの肩についた。そのとき、その老婆が言った言葉が・・・・・・というのが問題で、答えは、あっ、バッチイ鶏でえ、つまりアパッチ砦。

この、寒村の貧困を眼前に髣髴させる非常に高度な話術と、それに正確に反比例するかのような非常にくだらない回答に東京の喜劇の姿が見て取れるように思える。確かに、東北も寒村も貧困も老婆も答えには全く関係がないし、アパッチ砦を、あっ、バッチイ鶏でえと変換するのもでたらめだが、その途端に鶏のいる状況として紡ぎだされる情景は緊密で間然するところがない。

つまり、あっ、バッチイ鶏でえというばかばかしい駄洒落が高度な話術によって作り上げられる虚構の世界の入口でもあれば出口でもあり、世界のすべてがこのくだらなさによって支えられているからナンセンスであると同時に、一点で支えることができる、ぼろぼろと崩れ去ることのない引き締まった全体を形成する必要があるから芸が問題になるのであって、一見ナンセンスという点では似たように思えても、場受けのよさを第一義とし、センスのよさを競う現在主流のナンセンスとは根本的に種類が違う。

 人を笑わせるにはね、いわゆる芸のボキャブラリーというか、いわゆる「乞食袋」と言いますけど、いろんな笑いのネタがふだんから詰まっていないといけない。これが自慢していいくらい、僕にはあるつもりだよ。漫才のネタ、落語のネタ。都々逸から民謡、踊りから狂言、新作から古典から、それを全部乞食袋のなかに入れておいた。・・・
 ただし、ひとつだけ言っておくと、芸っていうのは、試しちゃいけない。計算もない。客が笑ってくれるか試してみようなんていうのはプロじゃないよ。一発必中のネタをいつも用意しておいてこそ、人を笑わせるプロなんだ。

2013年12月1日日曜日

アレキサンダー・ギャロウェイ『インターフェイス・エフェクト』



序:調停役の一つとしてのコンピューター
1.働くことのできないインターフェイス
2.ソフトウェアとイデオロギー
3.表象不可能なものはあるのか?
4.不誠実な情報科学
後記:我々は金を収穫する農民である

 メディア論。といってもマクルーハンのように新たなメディアの特性を探る楽天的な側面はなく、偏向したイデオロギーと骨がらみになったメディアを批判する。

 現代思想のジャーゴンが駆使されているのでやや読みにくいが、個別の箇所で興味深いところもある。

 たとえば、写真やワイズマンの『ショア―』などの映画を引き合いにだして、ホロコーストや災害は表象不可能だと言われるが、そもそも我々は写真や映画などを見て、嬉しさなり悲しさなり、なんらかの情動を感じなければならないのだろうか。表象不可能というときに、暗黙のうちに写真や映画が前提とされているとき、写真や映画などはひとを動かすものだという要請まで入り込んでしまっているというわけだ。

 アメリカのテレビ・シリーズ『24』を論じて、そこでは人間の身体は情報の流れを阻害するものとしてしか描かれない(ジャック・バウワーによる容疑者の拷問が次々に行われるが、そこで得ようとされているものは要するに情報である)など面白い部分も多かった。

2013年11月30日土曜日

ラフカディオ・ハーン『本とその傾向』



 東京大学での講義を学生が書き留めたものからできている。

 目次は次の通り。

編集したジョン・アースキンによる序。
I 克服しがたい困難
II 英国の詩における愛について
III 英国詩の理想的女性
IV 英国詩の最も短い形式についてのノート
V 日本を主題にしたいくつかの外国の詩
VI 英国文学における聖書
VII 「ハヴァマール」
VIII 人間を越えたもの
IX 新たな倫理
X 虫についてのいくつかの詩
XI 虫についてのいくつかのフランスの詩
XII 英国文学におけるフィンランド詩の影響についてのノート
XIII 中世の最も美しいロマンス
XIV 「イオニカ」
XV 古代ギリシャの断片

 「ハヴァマール」は『古エッダ』の歌謡。
 「イオニカ」はウィリアム・ジョンソン・コーリーが古代ギリシャ詩を模してつくった珍しい詩集。
 学生を前にした講義でありながら、虫に関する詩や北欧の詩、決して主流とはいえない傍流の詩人たちを紹介している。

 欧米と日本の文学のもっとも大きな相違は、欧米では恋愛がもっとも大きな主題になっているということからこの本ははじまる。『万葉集』以来、日本にも恋愛はいくらでもあると瞬間的に思うものの、確かに、永遠にまで高まる、宗教的なまでに人間性を超越していくような恋愛文学は存在しない。

 そう考えると、ともすれば日本では、フロイトやユングにおける女性から、フィルム・ノワールの「運命の女」にいたるまで、概念的に軽く考えすぎているような気もする。

2013年11月29日金曜日

アイスキュロス「ペルシア人」



 アイスキュロスの残っている劇のなかでももっとも早いもので、紀元前472年に上演された。自身が経験したサラミスの海戦に想を得たもので、神話的な物語ではなく、実際の同時代の歴史的出来事を題材とした珍しいギリシャ悲劇だとされる。

 ペルシア人の長老たちをあらわしていると思われるコロスがギリシャとの戦いのことを述べていると、王の母であるアトッサがあらわれ、不吉な夢を見たことを語る。案の定伝令が到着し、ペルシア軍が大敗したことを報告する。

 アトッサが、夫であり、前の王であったダレイオスの墓に赴くと、ダレイオスの亡霊があらわれ、戦いの敗因はクセルクセスの傲慢にあり、その傲慢さが神の怒りを招いたのだと語る。

 最後の尾羽うち枯らしたクセルクセスが登場するが、本人には敗北の原因はわかっていないようだ。

 いまなら、戦術のつたなさとか情報戦での失敗となるのだろうが、ヒュブリスをもちだすのが上品。

2013年11月28日木曜日

俳句の上手さについて――林桂『俳句・彼方への現在』書評



 『鬣』第15号に掲載された。

 『俳句・彼方への現在』を読んで興味深かったのは、しばしば俳句の上手さについて言及されていることだった。実は、私が俳句を読んでいて一番わかりにくいのがこの上手さということなのである。具体例は忘れてしまったが、久保田万太郎が宗匠の句会で、一語二語のほんの僅かな手直しで、句の様子が見違えるように変貌したのに目を見張る思いをしたことがあって、なるほど、確実に俳句の上手さというのは存在するのだと感じたものだったが、それが、ひょんな折りに、俳句雑誌やテレビで行なわれているような添削が目に留まりでもすると、どこがどう良くなっているのか私には見当もつかないようなことが少なくなく、かつて万太郎の句会に感じた俳句の上手さというものの存在が(具体例を忘れてしまっていることもあって)急に曖昧模糊としたものになっていくのである。

 俳句の上手さには、かつて、三島由紀夫が谷崎潤一郎にオマージュを捧げた際にもちだした、「質(カリテ)の問題」(「大谷崎」)が関係している。質とは「作品における仕上げのよさ」であり、作品の全体から言えば「二次的な問題」とされる。仕上げのよさにばかりこだわることはやや軽んじる意味も含めて職人的と呼ばれることもあろう。だが、もし、質が「文学の根本的な成立条件」であるなら、無駄な部分を取り除き、粗い表面にやすりをかけ、彫琢することに文学の本質的な部分があるなら、主題が第一にあり、仕上げが第二にくるという順位は無効になり、質は単なる技術的な問題ではなく、作家を絶対的な勝利に導く強力な武器となろう。質によって文学であることが保証されるなら、谷崎のように「質によってしか俗世間とつながらな」いことが可能となり、安んじて、女の背中に拡がる刺青であれ、ハンカチについた女の鼻汁であれ、女の足に踏みにじられる男の姿でさえ描くことができる。それをマニエリスムと言うことは簡単だが、マニエリスムと隣り合わせになっていないような上手さなど存在しないのである。更に、つけ加えておけば、俳句に上手さを導入することは、桑原武夫の「第二芸術論」に対する決然たる応答にもなっていると言えよう。というのも、畢竟するところ、「第二芸術論」の主張は、俳句には質の問題が存在しない、と言い変えられるからである。

 かくして、この本は主義主張に則った党派性からは遠く、いわゆる「伝統派」の俳人たちも多く取り上げられている。しかし、当然のことながら、「伝統派」が伝統によって洗練されてきた感受性を規範としているからといって上手さの近くにいるわけではないし、より「前衛的な」俳人が伝統に対してある主張を唱えているところで、上手さから遠ざけられるものでもない。 この間の事情は、例えば、二人の俳人の上手さに対する評価の違いに読み取ることができる。「坪内稔典『百年の家』」では評価は否定的である。

あるいは「上手さ」という点では、これまでの作品集では一番かもしれない。もちろん、それは私に言わせていただければ、氏の「片言性」の追求による成果ではなくて、それだけ氏の俳句の価値観が既存の俳句の価値観に近付いた結果である。坪内氏に限らず俳句の上手さとは、ある意味で、いつもそうした既存の価値観との取引であり、妥協でもあるという側面を持っているのである。

 ここでは、上手さが既存の価値観に奉仕してしまう危険性が指摘されている。上手さは「一般的に上手いと考えられているもの」とは異なる。上手さが個々の言葉の仕上げのよさによって得られるのでなければ、「一般的に上手いと考えられる」凡庸な作品となってあらわれるだろう。上手さは、確かに、ある価値観に基づかざるを得ないが、その価値観の水位は先行する無数の上手さによってたえず高まっており、上手さとはその水面から頭一つ飛び出ることによってしか獲得されない。
 
 「摂津幸彦の『陸陸集』」では次のように書かれている。

・・・摂津の俳句に対する基本的なスタンスは今も同じように見える。つまり、俳句の現在性は、時代に対する違和感によって多かれ少なかれ、アナクロニズム性を持たざるを得ないが、摂津はむしろそれをも積極的に俳句の現在性として取り込んで俳句を書こうとしているように見えるからだ。だから、摂津の俳句の文体は従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なものである。そして、それゆえにこそ摂津作品を一読した後には、無自覚な結果としてのアナクロニズムの作品などからはことごとくその魅力を奪ってしまうような毒を含んでいるのである。

 「従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なもの」という一節が、俳句における上手さというものをよく言いあらわしている。アナクロニズム性を「積極的に俳句の現在性」に取り込むとは、俳句の個々の言葉をアナクロニズムでくくる「既存の価値観」に照らして見るのではなく、いまここ生まれでたものであるかのように言葉と直面することにある。その結果として、同文のなかで引用されている高柳重信が言うような、「ときおり俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべき」事態が生じうるのであり、もしそうした瞬間に立ち会えたとしたら、上手さというものが俳句の必要にして十分な条件なのだと確信をもって言い切れる時間が僅かなりとももてるかもしれない。

2013年11月27日水曜日

ジミー・サングスター『若妻・恐怖の体験学習』



1972年 イギリス ハマ―・プロ。
脚本:ジミー・サングスター、マイケル・サイソン
撮影:アーサー・グラント
音楽:ジョン・マッケイブ

 結婚したての女性が、義手の男に襲われるが、周囲のものは話を本当にしない。かつて神経症を患ったことがあるためかもしれない。

 そして夫とともにある小学校の近くの家で過ごすことになる。その小学校の校長(ピーター・カッシング)はまさしく義手の男だった。結局、夫と校長の妻の間に共謀があったことがわかるのだが、そして最後に二人とも死んでしまうのだが、この若妻のがなにをしたのか、若妻にされたこととして描かれているのが、本当にあったことなのか、若妻の妄想なのか、もしかしたらすべてが妄想だという余地まで残されている。

 内容的にはポランスキー的なニューロ・スリラーに属するのかと思うが、追い詰められる強迫的な感覚(襲われても性的な含意は感じられない)はさほどなくて、なんの映画かわからない宙づりのままで終わっていく妙な映画である。

2013年11月26日火曜日

欠けたところ--田中小実昌



 『鬣』第15号に掲載された。

マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。

同じ物体である月が季節によって三日月にもなれば満月にもなり、天気によって雲がかかることもあれば、雨に霞むこともある、また、時代や民族によって象徴的な価値が異なってくることもあろう、それと同じように、マルクス・アントニウスという人物の長所欠点をひっくるめた柄の大きさは、人間の心理についてあまりにも実際的な観点しかもっていなかったローマ人や情念についての心理学を発展させることのなかった中世では十分に理解されず、シェイクスピアによっていわばロマン主義的に描かれるまで全体として捉えられることがなかった。

つまり、判断する時代の視野の偏りがあるためにアントニウスは欠けたところのある人間として考えられてきた、というわけである。

ところで、大内先生にはなにか欠けたところがある、と『イザベラね』のぼくは言うが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われているのではない。欠けた皿は欠けた部分を接いでもとの形に戻すことができる。そうしたどこかで取り戻すことのできる欠損が大内先生にあるわけではない。

ぼくと一緒にストリップ小屋をまわる大内先生(元々は軽演劇の作・演出の先生だったためにそう
呼ばれているのだが)は、確かに非常に怠け者のようだが、昔からの仲間やストリッパーの亭主やヒモと較べてずっと怠惰だとは言えない。欠けているというのは、他人と比較して欠点が目立ったり多かったりすることではない。

実際、欠けているということでぼくが持ちだす具体的な事実とは、大内先生がいつもすぐ電話にでる、そのことだけなのである。ぼくの言葉は、人間にはなにか欠けたところがある、と言い換えることができる。理想的な人間像があって、それに達するまでにはまだ欠けたところがある、というのではなく、なにと特定することはできないが欠けたところがある、と言っても不正確で、欠けてないないかがあるのではなくて、ただ、欠けているだけ。

そして、げんに、ぼくは、よくしかたがないので、と言うけど、しかたがないってのは、なにかをしたかったが、しかたなく、ほかのことをしたとか、それをしなかったってことだけど、ぼくの場合は、なにかをしたかったが、しかたがなくではなくて、ただ、しかたがないだけのことだ。

2013年11月25日月曜日

コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』



 2005年刊行。コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)の原作。

 テキサスの荒野で狩りをしていた男が、銃撃戦があったとおぼしき場所に出くわす。そこで麻薬と札束の詰まったバッグを見つける。狩りの経験もあり、ヴェトナム戦争の帰還兵でもあり、クレバーでもある彼は、面倒を背負い込むことになるとわかってはいるが、自分の力で処理できると考えて、金を持ち去ってしまう。

 ところが、撃たれて死にかけていた男が水を欲しがっており、それが気になって、ちょっとした出来心というか、慈悲心というか、水をもって現場に戻ったことがきっかけになって、身元がわれ、シュガーという殺し屋に追われることになる。

 この殺し屋の造型が見事で、感情をまったくあらわすことはないし、金で買収されることもない。邦題では「血と暴力」とあるが(訳者である黒原敏行のあとがきによれば、原題の、No Country For Old Manはイェーツの『ビザンティウムへの船出』が出典だという)たしかに血と暴力はふんだんにあるのだが、暴力にありがちな衝動性はまったく欠けている。

 この独特な殺し屋の雰囲気は、引用符のない会話、極端に比喩の少ない直截的な文章の魅力とともに、結末近く、殺し屋を追う保安官と検事との会話にあらわれているだろう。

 あれはまあ幽霊みたいなもんだ。
 みたいなものなのか幽霊なのかどっちだね?
 いやあの男は本当にいるよ。いないのならいいと思うが。本当にいるんだ。
 検事はうなずいた。幽霊ならあんたも心配する必要がないんだがね。
 おれはそのとおりだと言ったが、その後それについて考えてみて思ったのはあの検事の問いに対しては、この世界である種のものに出食わしたとき、あるいはある種のものがいるという証拠に出食わしたときにこれは自分で立ち向かわないほうがいいと気づくことがあるが実際あれはそういうものの一つだったんだと思うという返事をすべきだったということだ。あれは頭の中にいるだけではなく本当にいるんだと答えたとき結局のところ自分が何を言ったのかおれにはよくわからない。

2013年11月24日日曜日

ピーター・サイクス『悪魔の性キャサリン』



 1976年。
原作:デニス・ホイートリー
脚本:クリストファー・ウィッキング、ジョン・ピーコック
撮影:デヴィッド・ワトキン
音楽:ポール・グラス

 ハマ—・フィルム。予告編を見ると、『ローズマリーの赤ちゃん』や『エクソシスト』に続こうとしたものらしい。

 異端の神父(クリストファー・リー)が育て上げた子供(ナスターシャ・キンスキー)を使って、悪魔を復活させようとする。母親は最初から神父の信奉者であったが、父親は良心のとがめから逃れられず、儀式の直前、悪魔額に詳しい作家(リチャード・ウィドマーク)に助けを求める。

 作家は異端に詳しい神父などの教えを請うて、少女を救いだすことに成功するのだが、悪と神との代理戦争の側面はあまりなくて、現場を見つけたあとは結界も簡単に破って少女を取り戻してしまう。

 豪華な出演陣ではあるが、特に見せ場はなく、生まれたての赤ん坊の造形がややグロテスクな程度。

 原作者のデニス・ホイートリーは懐かしい名前で、国書刊行会から刊行されていた選集はよく眼にしていた(主に古本屋で)。もしかしたら何冊か読んだかもしれないが、内容なまったくおぼえていない。

2013年11月23日土曜日

思い切りと度胸──夏目漱石



 「鬣第14号に掲載された。


実に久しぶりに『坊ちやん』を読み返した。辛気くさい後期の漱石作品とは異なり十分楽しく読むことができる。

それにしても、長い時間を隔てているというのに、どこかで会ったことのほかにはなにも思いだせない人物を前にしたときのような困惑とよそよそしさが感じられない。

思えば、それも当然のことかもしれない。新しい環境に入り、新しい人間関係のなかで生じるよそ者に対する反発(生徒たちのいたずら)、同僚の間での共感(山嵐)と反目(赤シャツやのだいこ)、淡い憧憬の対象である異性(マドンナ)といった設定は、学校を舞台にしたドラマのみならず、あらゆる場所で巧みにあるいは稚拙に繰り返されており、我々はものごころついてから先、『坊ちやん』の無数のヴァリエーションを読み、そして見聞きしているはずなのである。

それでも、『坊ちゃん』にはそうした数限りないヴァリエーションとは大きく異なる点が認められる。それは、主人公である坊ちゃん、つまり外部からやってきた闖入者が、騒動こそ巻きおこすものの、なんの解決も、環境の変化ももたらさないことで、それが凡百の類似品と『坊ちやん』とを分け隔てている。

ちょうど『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の神経質な怒りが、怒りの対象である人間にはなんの効力も発揮しないように、坊ちゃんの行動力は別に坊ちゃんに降りかかる問題を解決するわけではない。坊ちゃんを小馬鹿にした態度を示す生徒たちとの間にいつのまにか師弟愛のようなものが生じるわけでもないし、山嵐と一緒になってぽかぽか殴りつけたとしても、赤シャツが前非を悔いるわけでもないだろう。また、陰険なはかりごとがまかり通る学校の体制が変化するわけでもない。なにより、そうした改善の努力をするまでもなく、坊ちゃんは東京に帰ってしまうのである。

この間の事情を説明するのが、自分は思い切りはいいが度胸はない、という坊ちゃん自身の述懐である。彼によれば、いたずらをした証拠がないのをいいことに言い逃れをする生徒たちや許嫁のいるマドンナを横取りしようとする赤シャツには度胸がある。つまり、度胸とは結果を見越してそれをもとに自分から行動に踏み切ることであって、それゆえに下品である。

思い切りというのは友だちに言われた通り二階から飛び降りたり、ナイフで指を切りつけたりすることにある。つまり、外からのあるきっかけをもとに後先考えずに行動に突っ込んでいくことにある。どうやら坊ちゃんにとって、行動というのはすべからく着地点のわからない跳躍のようなものであるべきなのである。

であるから、生徒が恭順になったり、赤シャツが改心したりする面倒な結果があらわれる前にさっさと東京に戻ってしまうことは坊ちゃんの行動原理にかなっている。つまり、『坊ちやん』とは、思い切りもあるが度胸もそこそこ備えている山嵐、思い切りはないが度胸がある赤シャツ、思い切りも度胸もないうらなりといった人物のなかを、東京で跳躍に踏み切った度胸はないが思い切りはある坊ちゃんが飛びすぎてゆき、やがて再び東京に着地するという話である。

    おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。

                 

2013年11月22日金曜日

フィリップK・ディック『タイタンのゲーム・プレーヤー』



 タイタンとの戦いで地球は敗れた。地球人は特権階級と一般人とに分かたれ、長生きで死ぬことはないが、極端に低い出生率となっていた。特権階級に属するものたちは、モノポリーと人生ゲームとダウトを合わせたようなゲームで、実際の土地をやりとりしている。

 あるとき、ピーター・ガーデンは有名なゲーム・プレイヤーであるラックマンにお気に入りの土地を奪われてしまう。彼はゲームによって土地を取り戻そうとするが、ラックマンが殺されていることが発見される。しかもその時間、ピーター・ガーデン以下ゲーム仲間たちの記憶が消え去られている。

 やがてタイタン人の間にも内部抗争があることがわかり、地球人のなかにも彼らは紛れこみ、誰が敵だか味方だかわからないような状態のなかで、しかもタイタン人が予知能力やサイコキネスなどの超能力を使用できるという人間の圧倒的な不利のなかで地球とタイタンをかけたゲームが行われる。

 1963年の作品で、もっとも多産な時期のひとつであったから、上々の部分ともうちょっと構想を練ってくれたらという部分があるのも当然のことで、後半はよく言えば「センス・オブ・ワンダー」に満ちているが、発想にとどまっている部分もある。

2013年11月21日木曜日

フェデ・アルバレス『死霊のはらわた』







 2013年。
脚本:フェデ・アルバレス、ロド・サヤゲス
撮影:アーロン・モートン
音楽:ロケ・バニョス

 1981年のサム・ライミ版のリメイク。最近のリメイクのなかではよくできているほうだと思う。

 もとの映画にないちょっとしてひねりは、山小屋に夏休みで集まるというのではなく、薬物中毒の女性の薬を抜くために兄と友人たちが集まるというところにある。最初に悪魔に身体を乗っ取られるのは、その薬物中毒の女性で、言っていることが中毒からくる幻覚なのか、現実に起こっていることなのか、というあやふやさからはじまるが、それをさほど引っ張らないのもいいテンポである。

 サム・ライミのものを相当長いこと見ていないので、細かなところを忘れてしまったが、ブルース・キャンベルがいうことを聞かなくなった自分の腕を切り落とすのに結構長い時間をかけていたような気がする。その点、今回はどんどんのりうつられては殺されていくし、自分の切断にもさほど躊躇がない。

 当時、サム・ライミのを劇場に見に行って、ちょっときついなあ、出ようかなあ、と思ったのを思いだした。『エクソシスト』や『ゾンビ』など大好きだったが、それにしても血と内臓が多すぎだのである。結局、その一瞬を乗り越えると最後まで楽しく見られたが、ついでに唯一映画館から出てしまった映画のことも思いだした。福居シュウジンの『Pinocchio964』(1991年)で、映像的にはどうということはなかったが、音量があまりに大きくて我慢できなかったのだ。

2013年11月20日水曜日

団鬼六『米長邦雄の運と謎』





 いまでは何が楽しかったのかよくわからないが、子供の頃好きでよく将棋の棋譜を並べていた。当時は、中原誠がめきめきと頭角をあらわしていた頃だったが、大山十五世名人の棋譜を並べることがもっとも多かったように思う。子供心にも変な将棋で、金が敵陣近くまでいったかと思うとするすると自陣へ戻るのだった。

 並べたからといって強くなるわけではなく、手順は(中盤くらいまでは)すいすいと一人で進めることができるのだが、適当な対戦相手がないためもあって、たまに相手がいるととたんに弱さが露呈するのだった。

 そんなわけで勝負はまったくしなかったが、本はそれ以後も時々読むし(『羽生の頭脳』は内容はまったく理解できなかったが、文章がうまいのに舌を巻いた)、テレビやネットでの観戦は好きな方である。それゆえ、プロ棋士の顔はほとんど見知っていると思うが、大盤解説や将棋祭りを除くと、生で見たことがある棋士は二人しかいない。

 ひとりは米長邦雄で、新宿の喫茶店の入り口ですれ違った。二人目は先崎学八段で、神田のそば屋で見かけた。

 生で見たたった二人が師匠とその弟子なのだから、米長邦雄には縁が(一方的な)あるが、実はあまり好きな棋士ではない。矢倉戦のおもしろさがわからないこともあったが、人柄の怜悧な感じが何となくよいイメージをもてなかったのだ。

 団鬼六がこの本を書いたのは、米長邦雄が名人位を奪取したときだから、1993年である。団鬼六のエッセイに登場する人物は、根本敬の本に出てくる人物ほど振り切れていないが、どこか奇妙な味をもつ人間ばかりで、普通は避けてしまいそうなそんな人間たちをなぜか受けいれてしまう団鬼六の妙な人間性もあきらかになるような仕組みになっている。

 米長邦雄は、特定の神に限定されるわけではないが、女神の信奉者で、女神は謙虚と笑いを好み、卑を嫌うとのことである。神であるのと同じくらい女性としての要素が強いわけで、帰依すれば報われるという単純なことでもないらしい。どれだけ首尾一貫したものかはわからないし、あたら女神など信奉したばかりに、一期しか名人をとれなかったといえないこともない。

 いずれにしても、米長邦雄が団鬼六向きの妙な人物であることがわかる。

2013年11月19日火曜日

H・ベロック『悪い子のための獣の本』

 動物を題材にしたベロックの子供のための詩の本。挿絵がいっぱいあって、エドワード・リアのようにナンセンスに突き抜けることはないが、おもしろく読める。

 たとえば「象」という一篇は

ひとびとがこの獣を思い浮かべるときに
ますます不思議に思えてくるのは
背中にちっちゃなしっぽ
前にかくも大きな鼻がついていること。

2013年11月18日月曜日

ジョセフ・コシンスキー『オブリビオン』

2013年。
脚本:カール・ガイダシェク、マイケル・デブライン
撮影:クラウディア・ミランダ

 異星人との戦いにより、月が破壊され、世界は放射線に汚染され、大部分の人類は地球外に移住しているとされる。そうした荒廃した世界に残って男女一組(トム・クルーズとアンドレア・ランズブロー)が、記憶を消去され、無人機のメンテナンスやパトロールなどを続けていた。

 そうした任務に携わりながらも、トム・クルーズは断片的な記憶のがよみがえってくるのを感じていた。それは不快なものではなく、愛するものとともにあるという感覚を伴っている。あるとき、宇宙船が墜落し、そのなかには彼の記憶に出てくる女性が乗っていた。また、宇宙人だと思って敵対していたものが、実は地球人の生き残りであることがわかる。

 彼らの言葉と蘇った自分の記憶をつなぎ合わせてみると、地球を監視していた二人は実は宇宙飛行士であり、捕らえられたあげく、大量にクローンを作られ、他ならぬ自分たちが地球を破滅させたのだと知る。

 トム・クルーズは、結局、敵本体のなかに入り込み、自爆することで地球を救う。異星人が機械のようなものなのか、あるいはそれを操縦するものが別にいるのかどうかは最後まで明らかにならない。

 愛するものの記憶に悩まされるという点では『惑星ソラリス』のようでもあり、ディザスター後の世界を描いてもいるし、戦闘場面もないわけではない。つまりは欲張りすぎで、全体的にもっさりしている。

2013年11月17日日曜日

キム・ジウン『ラストスタンド』

2013年。
脚本:アンドリュー・クノアー
撮影:キム・ジヨン

 しばらく前に、シルベスタ・スタローンの『バレット』を見て、監督が久方ぶりのウォルター・ヒルで、しかもその内容が『ストリート・オブ・ファイヤー』(助けるのが元恋人ではなく、娘であり、最後には認め合った者同士のどつきあいで決着がつく)とほとんど同じだということで、いい気分だった。

 シュワルツェネッガーの最新作がどうかというと、『グッド・バッド・ウィアード』や『悪魔を見た』のキム・ジウンが監督で、イ・ビョンホンと組むと悪のりするという感があるだけにちょうどよく抑制がきいているようだ。

 若い麻薬王が移送の途中で脱走する。彼はまたレーサーの経験ももっており、巨大なコルベットを自ら運転して、メキシコへの脱出をはかる。仲間も大勢いるために、途中で阻止しようとするFBIの試みもすべて失敗する。メキシコ国境近くにある静かな町の保安官(シュワルツェネッガー)は実は元ロスの優秀な警察官であり、麻薬王の爆走を止めるべく立ち上がる。

 やれやれ、という感じのシュワルツェネッガーの表情がちょっとクリント・イーストウッドに似てきた。

2013年11月16日土曜日

ジョン・M・チュウ『G.I.ジョー バック2リベンジ』

2013年
監督:ジョン・M・チュウ
脚本:レット・リース、ポール・ワーニック
撮影:スティーヴン・ウィンドン

 変身可能の怪人たちが大統領に成り変わり、核保有国の核兵器をすべて破壊し、新兵器によって世界を支配しようとする。

 G.I.ジョーにくわしくなくて『アベンジャーズ』と全然設定が違うなあ、と思っていたら、キャプテン・アメリカと思い違いをしていた。

2013年11月15日金曜日

トーマス・オーウェン『青い蛇』

 絵画ではベルギー幻想派があるが、文学でも幻想派が存在するのだろうか。シュルレアリスムのように様々な芸術を包含する運動にまで高まっているのだろうか。いずれにしろ、ジャン・レーは読んだことがあるが、オーウェンははじめて読む。短編集で題だけをあげれば次の通り。

翡翠の心臓
甘美な戯れ
晩にはどこへ?
城館の一夜
青い蛇
モーテルの一行
ドナチエンヌとその運命
雌豚
ベルンカステルの墓地で
サンクト=ペテルブルグの貴婦人
エルナ 一九四〇年
黒い雌鶏
夜の悪女たち

アマンダ、いったいなぜ?
危機

 幻想文学といっても、男女の愛執の結末が怪異となってあらわれるといったものが多く、1980年に刊行されたらしいが、あまりに古典的で、ポオなどの方がかえって新しい。

 一番面白かったのは表題にもなっている「青い蛇」というショートショート程度の長さのものである。あるとき風景画と額縁のガラスのあいだに青い蛇がいるのを見つける。額のガラス越しにピストルで撃てばいいのでは、と父親に勧める。すると、父親はピストルを持ってきて、戸口から絵に向かって打ち始めるというだけの話である。

2013年11月14日木曜日

中島貞夫『実録外伝 大阪電撃作戦』

1976年
脚本:南原宏治
撮影:増田敏雄
音楽:津島利彰

昭和35年に起きた実際の抗争をモデルにしているという。全国組織を背景にした神戸の組が大阪に侵攻してくる。大阪はいくつかの組やチンピラ集団があるものの、共存してきていた。

 大阪側にいるのが松方弘樹、渡瀬恒彦、梅宮辰夫といった面々である。侵攻してくるのが大ボスである丹波哲郎を筆頭に、神戸の小林旭が陣頭指揮を執る。大阪のやくざたちも敵しがたいと思うのか、どんどん寝返って、松方弘樹と渡瀬恒彦の二人が最後まで屈しないが、大きな組織力に最後には潰されてしまう。

 やくざ映画は俳優によってまたその地位によってほぼその役どころまで決まっているので(丹波哲郎がそれほどみっともない役をすることはないし、田中邦衛や川谷拓三がヒロイックな役を演じることもない)、誰が出演するかによってその面白さが想定できてしまうが、この映画は菅原文太こそでないが、それ以外はほぼオールスターキャストで、ついでにいえば、松方弘樹と渡瀬恒彦が盃とは関係のない友情をいだきあうのはやくざ映画には珍しい。

2013年11月13日水曜日

黒沢清『復讐 運命の訪問者』

1997年。
 脚本:高橋洋
 撮影:柴主高秀

 脚本が高橋洋なのに少しびっくり。

 ある男(哀川翔)が幼いころ、両親、姉を皆殺しにされる。本人は押し入れに隠れていて、仲間に見つかるのだが、見逃してもらう。

 数十年の後、その男の子は刑事になっている。あるとき、ヤク中を逮捕しようとして、その男は自殺してしまうのだが、指紋がすべて消されている。やがて、彼が殺人者グループの一員であることがわかった。捜査していくうちにその暗殺者の首領が自分の家族を殺した者であることもわかる。妻も殺された刑事は、復讐のために辞職し、彼らのアジトに乗り込んでいく。

 乾いた銃声やあっけない死など、この頃から始まったかもしれない。実際にはまったく経験していないことを「リアル」と感じるのは、リアルというものがいわゆる「リアリスティック」であるというよりは、新たな意味の創出に関わっているためだろう。

2013年11月12日火曜日

イアン・バンクス『蜂工場』(集英社文庫)

 スコットランドの小さな島に父親と息子が住んでいる。息子は股間が犬に食いちぎられ、そのためかどうか、学校にも行かず、小動物を面白半分に殺す日々が続いている。

 そんなある日、精神病院に入院していた兄が脱走し、帰ってくると連絡があった。裏表紙のリードには「ニューホラーの旗手」とあるが、特に異常な現象が起きるわけではなく、叙述的ニューロ・ホラーといえばいえるという程度。

 表表紙には「結末は、誰にも話さないでください」とあるが、さすがに1984年の作品であり、同じような趣向の小説や映画を幾度となく経験しているので、衝撃力はない。解説ではクライヴ・バーガーなどと比較されているが、文章の表現力は数段優れていると思うので、別の作品も機会があれば読みたいところ。

2013年11月11日月曜日

フィリップ・K・ディックの『逆まわりの世界』

 ホバート位相といわれる現象によって、死者が蘇り、どんどん若くなり、やがては子宮に戻り、性交によって男性の精子に回帰する世界になっている。蘇った死者を墓から救出することをなりわいとしている主人公は、ユーディ教という巨大な宗教組織を創出した教祖を掘り起こした。

 この教祖を得るための、ユーディ教を世俗化したいまの主導者とローマ教会と図書館との三つどもえの戦いに巻き込まれる。図書館は情報を次々に抹消していく消去局と組んで、なぜか強大な権力を握っており、教祖は彼らによって最後には再び死に追いやられてしまう。

 ユーディ教については、神が万物の根源にあり、死も時間も幻影に過ぎず、悪とは神から遠ざかっていることから生じる不完全性からくるに過ぎない、ということだが、それを具体的に提示するイメージに乏しく、世界の変容よりはアクション的な要素が強く、そうした世界観が背景にとどまっている。そうした意味で、ディックにしてはそれほどできはよくない。

2013年11月10日日曜日

演歌と置き忘れ——伊藤信吉『たそがれのうた』(風の花冠文庫)書評

 『鬣』第13号に掲載された。

片町や夏ゆくころの撥の音
和菓子、駄菓子。のうぜんかづらの花の店
すすき枯れし斜面草地やひるの月
ふるさとは風に吹かるるわらべ唄。
ヒル花火あなたこなたにヒバリ鳴く
手のひらにたたみこむほどにや余呉の秋

 伊藤信吉の句には、歳時記を開かなければわからないような俳句独特の用語も、観念的な言葉も、イメージの突然の飛躍もなく、一言で言えば、大げさな身ぶりを一切見せないつつましい相貌を保っている。更に、友人たちに贈った句や旅先でできたとおぼしき句が多いことをつけ加えると、日常の細部を切り取った日々の覚え書きのような句が自然と連想されるだろう。だが、実際には、どれだけ「自注」に詳細な状況が書き込まれていようと、句はそうした具体的な細部をきれいに洗い流している。「彼岸花」や「木瓜の花」といったくり返し取り上げられる植物にしても、句の前面ににゅっと姿をあらわすというよりは、風景のなかに分かちがたく溶けこんでいる。月や花火は、むしろ昼にある方が好ましい。夜の月や花火は、夜空を背景に強烈な自己主張をし、まわりのものを背景として従えてしまうからでもあるが、それだけではない。夜の月や花火があまりに時機に合っているためもあるだろう。昼の月や花火は時機を外れたものであり、時間的な遠近法を混乱させ、現在をいつかどこかで経験したかもしれない過去、郷愁に満ち、どこか寂しく、取り戻すことのできない、時機を逸してしまった過去に結びつける。伊藤信吉の句は、一貫して、細かな現実によってかき乱されない、こうした追憶のなかの風景を描きだしていると言える。

雪催い灯の色かなしおしゃれ町
おしゃれ町灯の色しめて夏逝きぬ
地下鉄に秋おとずれし灯の並び
日最中を黒洋傘や街の中
人波は人波のまま師走町

 「演歌俳句」と自らの俳句を名づけたのも、現実をある色調に染めあげ、「手のひらにたたみ」こめるような風景に変換するものとして俳句を捉えていたからだろう。「おしゃれ町」というのが原宿のことを指すのだと、句だけを読んで誰が一体感じ取れるだろう。雑踏も喧噪も拭い去られ、むしろ原なかで宿場の灯が仄かににじんでいるような雰囲気がある。師走の人混みにしても、「人波」と「師走町」に大きくくくられることで、せわしなさや人いきれが発する物理的な圧力が抜き取られ、道を風が渡っていくような具合に変容される。そして、こうした変換作業が、ステレオタイプなイメージで捉えられがちな都市に対して思いがけぬ異化効果を上げている。

粉雪降る北戀う日暮れ粉雪降る
こんにゃくの土色村の秋の色
聴け聴け聴けセミ鳴くセミ鳴く権太坂
春立つや日々のろのろののろま唄
唐辛子赤し木枯らし人枯らし

 『全句集』で目立つのは、同じ言葉や音のくり返しである。多分、それは現代俳句の実験性とは無縁であって、くり返し自体を楽しむ稚気はもちろんあるだろうが、「演歌俳句」の面目躍如たる部分でもある。分析的に対象を扱うタイプの俳句ではないし、例えば比喩を使い、また、意想外なものとものとを併置することで、隠されていた、あるいは新たな詩的意味を浮かび上がらせる俳句でもないので、対象に対して言葉足らずなのではないかという不安や、俳句の短さを恐れる必要など伊藤信吉はまったく感じていなかったに違いない。情調さえそこにあるなら、ためらうことなく同じ言葉をくり返せばいいし、そうすれば情調が高まりこそすれ、もろく壊れてしまうことはないだろう。つまり、伊藤信吉の句は、実験性という堅苦しい印象こそないが、俳句という極端に短い形式のなかで、演歌のリフレインを実現することのできた希有な例だと言うことができる。

ボケの花寝ボケルとぼける煤ボケル
冬至の湯湯気まぼろしの思いのみ
物忘れ生涯かけての置き忘れ

 『全句集』には、数こそ少ないが印象的な述懐の句がある。一見すると、老境に至った現在の自分のありようを述べているようでもあるが、意外にしたたかで戦闘的なポレミックと考えることができる。郷愁の源である追憶の風景が、演歌の情調がある限り、いまここにある思いがまぼろしであろうが、日常的なあれこれを物忘れしようがたいした問題ではない。というのも、いまここにあるものがまぼろしとして消え、忘れ去られることでますますあらわなものとなるのが、追憶の風景でもあり演歌の情調でもある叙情の核であって、この核を剥きだしにするには生涯かけてどれだけ物忘れし、置き忘れしようが多すぎることはないのである。

2013年11月9日土曜日

ロバート・シェクリイの「ウオッチバード」

 1953年の短編。殺人の発生を防ぐために、科学者たちがウオッチバードという機械を発明する。要するに機械仕掛けの鳥で、殺人を犯すときにあらわれる微細な化学変化を感知して、スタンガンのようにショックを与えて、殺人を未然に防ぐ。

 最初は良好な結果があらわれていたが、このロボットが学習する機能を与えられていることから問題は拡大し、とんでもない方向に逸脱していく。殺人とは有機体が有機体を殺すことである、そう解釈されたとき、もちろん狩猟も漁業も農業も許されなくなる。機械もまた電源を切ることが許されなくなる(車やラジオを見ればわかるように、静かになり、暖かさを失い、死んだと同じような状態になるから)。食物の連鎖が大きく崩れ、餓死する人間が急増する。

 大統領によって、この機械を停止するよう命令されるが、なにを置いても「殺人」を阻止することを優先することがプログラムされているこの鳥は、おとなしく停止に従うわけがない。最初からこの計画に懐疑的だった主人公(だが、はっきりと問題を言葉にすることはできなかった)は、技師に命じて、鳥たちを捕獲し、破壊する機械仕掛けの鷲を製作する。

 鳥たちはみるみる捕獲され、今度こそ問題は解決するかに思われるのだが、殺すことを防ぐためにつくられた鳥がもたらした結果を思うと、殺すためにつくられた鷲がこれからどうなるか憂鬱な気分になるのだった・・・・・・

 デュ・モーリアの原作はほぼ同じ時期なので、影響関係はないだろうが、ヒッチコックの『鳥』(1963年)を連想させる。鳥を極端に怖がる者があるが、M・ポングラチュ、J・ザントナーの『夢占い事典』(河出文庫)によると、鳥は両性的象徴(スワンベルグの絵が思いだされる)で、死をあらわすこともあるという。

2013年11月8日金曜日

ゾンビ――ジョージ・A・ロメロ

ロメロのリビング・デッド三部作のなかで、『ゾンビ』独特の魅力は、その端的な邦題にあらわされているように、ゾンビがいきいきと縦横に動きまわっている点にあるだろう。

一作目の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、皮肉で教訓的な結末(最も理性的に振舞い、ドラマの唯一の生存者である黒人男性が、ゾンビに間違われて警官に射殺される)に見られる通り、パニック映画の一変種と考えていい。船の転覆やビルの炎上のように、人間の隠された性質を炙りだす危機的状況としてゾンビはある。

三作目の『死霊のえじき』では、ゾンビは地下施設の研究対象で、最後のカタストロフが訪れるまでは檻のなかの動物に等しい。ドラマの中心になるのは研究者と強権的な軍人との争いや、ゾンビを飼い慣らす可能性である。なにより、どちらの映画も主要な舞台が、さほど広くない一軒家と地下施設という密閉された空間で、外部から迫りくる危機に比例するようになかにいる人間の葛藤の激しさが増す仕掛けになっている。

確かに、『ゾンビ』でも四人の男女が郊外のショッピングセンターに立てこもるのだが、駐車場も含めたその空間は広大で、野生のゾンビが思うさま動きまわれる。動きは緩やかだが、確実に人間に近づいてくる無数のゾンビの蹌踉と徘徊する姿、この緩やかさと確実さがこの映画に絶えることなく鳴り響いている。それに対抗する動きがないわけではない。軍隊並みの武器を装備した暴走族たちは車やオートバイの速さで緩やかさをかいくぐり、ゾンビを攪乱することによって確実さを削り取ろうとするが、小さな渦が波に呑みこまれるように、緩やかさと確実さに沈んでいく。

暴走族の来る前、限られた数のゾンビを掃討して外との出入り口を塞ぎ、自由になったショッピングセンターで無為な時間を過ごす三人(既に一人は死んでいる)、食料品から銃や宝石までなんでもある場所でなにもすることがないこの上なく純粋に近い無為にいる三人の時間だけが、その緩やかな日々の移ろいとどこにも出口がないという確実さにおいて外にいるゾンビたちと危うく美しい均衡を保つことができた。

ゾンビと人間との関係は、エリアス・カネッティの群衆の分析を思い起こさせる。我々には未知のもの、身に危険が及びそうなものを遠ざけておこうとする接触恐怖があり、それが権力の、つまり他人をある決められた距離に配そうとする行為の源にある。この接触恐怖が恍惚や陶酔に転化するのが群衆である。

『ゾンビ』にあるのもこの種の転化で、緩やかであるはずのゾンビの動きは、取り囲まれた人間にとってはいつの間にか逃れることのできない素早さをもち、身の毛のよだつゾンビの輪が徐々に自分に向けて狭まり触れられ歯を立てられることは確実さが得体の知れない未知の官能、自堕落な自己放棄に転化する瞬間なのである。

彼らはどんなところでも歩きまわるだろう。
                            ジョージ・A・ロメロ

2013年11月7日木曜日

狂歌──女性たち

『鬣』第12号に掲載された。

               

この口はどうしてそんなに大きいの首までつかれる赤ずきんの湯

暗黒の深夜の蔭の闇だまり鏡に映るアリスの左手

あずまやに千鳥格子の掛け布団むくむく動くアリスの宮夫妻

姫りんご身ぐるみ剥いで差しだすは西方浄土のアフリカのイヴ

瓜売りが瓜売り歩く瓜市場瓜子姫には多すぎる種

深川砂村隠亡堀戸板返しのうらおもてお岩の顔が目減りする夜

旅ゆけば駿河の路は春がすみ男を上げるお蝶の茶柱

ぬばたまの首長姫の黒髪に行燈油を惜しみつつつけ

名月や千日前の啖呵売語るに落ちたシェヘラザード

白い空雪のなかでの姫はじめいばらの門にふと立ちどまる

この恨みまさかはらさでおくものか瀧夜叉姫には奉加帳のあて

竹婦人すきま風吹く首かしげ若竹のトリ芝浜の夢

黄昏の紫煙に煙るダンス場ナオミが踊る人間の床

陥穽の振り子の下の早がわり着たり脱いだり忙しないマハ

真昼間にくちなわ色の綱を引く朝顔婦人と夕顔婦人


     夫狂歌には師もなく伝もなく、流義もなくへちまもなし。瓢箪から駒がいさめば、花かつみを菖蒲にかへ、吸ものゝもみぢをかざして、しはすの闇の鉄炮汁、恋の煮こゞり雑物のしち草にいたるまで、いづれか人のことの葉ならざる。されどきのふけふのいままいりなど、たはれたる名のみをひねくり、すりものゝぼかしの青くさき分際にては、此趣をしることかたかるべし。 
                     大田南畝

2013年11月6日水曜日

理解しがたい単純性──バタイユ




 『鬣』第11号に掲載された。


性器を剥き出しにした娼婦のエドワルダが、あたしは《神》だと宣言する。語り手が述べているように、マダム・エドワルダについて、彼女は神であると言うとき、皮肉と受け取ることは思い過ごしであろう。

バタイユはここで、すべてのできごとに意味を割り振り、できごとをあらかじめ与えられた意味から決して越え出ることのないものに制限する神に対して、意味を越え出て新たな意味を形づくるできごとそのものである神を提示している。

したがって、ここでの神の登場は、聖人伝に見られる神あるいは神慮のあらわれとはその意味合いをまったく異にする。それらの物語では、神の登場によってそれまでのすべてのできごとが、まさに神の登場を準備するものであったことが明らかになる。神のあらわれはあらゆるできごとをあるべき場所に送り返す最終的なできごとなのである。

だが、エドワルダという神は、全知全能という言葉であらわされるような、あるいは、豊饒多産であるような神とは程遠いところにいる。全知全能の神であるならば、できごとのことごとくに適切な意味を割り振ることができるだろう。また、豊饒多産な神であるならば、できごとを次々に生み出していきながら、中心点を持ち完了した世界とは異なった、中心点を持ちながら完了しないような世界のモデルを提示することができるかもしれない。

しかし、エドワルダという神は、意味を与えてくれるわけではないし、ある意味の変奏である新たなできごとを次々にもたらしてくれるのでもない。神が登場することの意味は、ひとえに娼婦であるエドワルダという神が男の前に現れる、そのできごと自体に集約される。できごとを宰領する神ではなく、既にある、確定した意味を超えたところに突き放すできごとそのものとしての神である。

エドワルダは一向に神らしきことをしないが、あらゆる意味を破産させる、腹の底からの、胃袋が裏返るまでの情欲がある。奥底からの情欲は隙間なく身体を満たしながら、開口部から身体の外部へ流れ出る。その充溢と消尽とが一致する瞬間こそ、情欲が人間を理解しがたい頑固な物へと変貌させる跳躍の一瞬であり、そのとき、エドワルダが自ら神だと言うならそれが皮肉などではないことをわれわれは認めざるを得ないし、生命のない場所に剥きだしに放り出されるひりひりした感覚を感じずにはおれない。
 
    こうしておれは知ったのだ――身内の陶酔は完全に霧散し――「彼女」の言葉にいつわりはなかったのだ、「彼女」は「神」なのだ。彼女の存在は一個の石の理解しがたい単純性をそなえていた。大都会の真只中で、おれは夜の山中のような、生命のない孤独のなかにいるような思いだった。        (生田耕作訳)

2013年10月11日金曜日

彫刻と二種類の動き――リルケ

『鬣』10号に掲載された。





人間をかたどった彫刻の目的が、そのモデルに似ることにあるなら、彫刻は常に現実に敗れ続けるしかないだろう。絵画のように、三次元のものを二次元に変換する手順を経ないだけに、彫刻はある人物のプロポーションを完全に写し取ることができるが、その完全さが物と生命との差を一層残酷に浮かび上がらせる。

だが、ケネス・クラークが指摘するように、既に古代ギリシャの裸体像のときから、問題はモデルの肉体を正確に写し取ることではなく、ある理念を表現すること、その理念にもとづいて肉体を再構成することにあった。

人間の身体についての理想的な美の規範が形成されるが、それは身体全域における各部分の比例であって、例えば女性の裸体像の場合、二つの乳房の間の距離と、低い位置の乳房から臍、臍から腿の付け根までの距離が同じであるべきだとされた。こうした比例の美をまざまざとあらわすためには姿勢が大切であり、ギリシャの彫刻は皆堂々と誇らかに立っている。

リルケの描くロダンはギリシャ以来の彫刻概念を徹底的に破壊する。ロダンの最大の発見は面である。面とは、つまり、身体を覆うどこまででも分割できる無数の表面で、そのどの面においても内からと外からの無数の力が交錯している。したがって、どれかの面が他の面に比較してより重要なわけではない。ギリシャの彫刻でのように、理想的な比率に奉仕するそれ自体では重要でない面などは存在しないし、身体全体を統御する理念などはないから理想美をあらわにする適切な姿勢があるのでもない。

では、この彫刻はなにを目指すのか。リルケは二つの動きを区別する。一つは終わりのない、平衡に落ち着くことのない、物の限界を越えようとする動きである。我々の日常を占めているのはこの種の動きであるが、彫刻にとって本質的なものではない。

もう一つは、必ずもとの場所に還り、平衡を取り戻し、自分だけに専念する動きで、不動のうちに立っている彫刻がロダンが行ったような探求を経たものであるならそのうちに蔵しているはずのものである。この動きはそのどれをもおろそかにするべきではない無数にある面の無限に多様な力をひと鑿ごとに物に封じ込めていくことによって得るしかない。彫刻家が芸術家というよりはむしろ職人の相貌をおびるのは、全体のためにいまなにをするかが決定されるのではなく、個々の面において闘い続けねばならないからである。そして、個々の面だけがあって、身体という全体がない彫刻は人体を彫りつけながらも人間に似ないなにか不可思議な生命の塊を産み出すかもしれない。

    誰もまだ美を作った者はありません。ひとはただ、時として私たちのもとにとどまろうとするのに対して、したしい、もしくは崇高な境遇──神壇、果実、また焔を──を作り得るだけなのです。(高安国世訳)

2013年9月8日日曜日

浅薄と自覚

 『鬣』9号に掲載された。




ワイルドは『獄中記』で、ほとんど同じ言葉を三度繰り返す。

1.『獄中記』はレディングの獄中からアルフレッド・ダグラスに当てた長い手紙である。ダグラスは、我が儘で、気まぐれで、ワイルドの財産を湯水のように遊興に使い、意見をすれば怒りだし、絶交を言い渡すと縋りつかんばかりに謝るが、ほとぼりが冷めるやまた同じことをする。そもそもワイルドが同性愛の罪で投獄されたのも、ダグラスとその父親の確執のとばっちりを受けたことによるといっていいが、ダグラスは獄中のワイルドに会いに来ることもなければ手紙も寄こさない。憤懣やるかたないワイルドは、この手紙で君の顔が溶鉱炉の熱風でも受けたみたいに、恥ずかしさで真っ赤になるならいいだろう、と言う。なぜなら、「浅薄こそは至高の悪徳である。自覚されたことはすべて正しい」のであるから。

2.ダグラスのしたことは確かに酷いが、彼が単に『サロメ』の英訳者で男友達の一人であるのではなく、恋人であることを思うと、若い恋人に翻弄される初老の男というかなり陳腐な絵柄が浮き上がってくる。だがその陳腐さが招いたこと、社交界の寵児から獄中の二年へという経過はワイルドにとって決定的で、この考えてもみなかった経験を飲み下すことは、反省の意味もその言葉さえ知らないかに思えるダグラスへの訴えなどよりはよほど緊急を要することであったろう。牢獄での経験を、自己の血肉とし、愚痴も、恐怖も、嫌気もなしに認めることこそ自分がしなければならないことなのだ、とワイルドは書く。なぜなら、「最高の悪徳とは浅薄さである。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。

3.『獄中記』は、長短はあるが、三つの部分から成り立っている。ダグラスに対する非難あるいは痴話言、自分のこれまでの経歴を振り返っている部分、そして芸術家としてのキリストについての考察である。ここでキリストは、なによりもまず比類のない想像力の持ち主である。キリストは癩者や盲者の生活を、快楽のために生きる者のみじめさや富める者の貧しさを共感することができた。その生を共に生きることのできる強烈な想像力と共感の力こそがキリストの偉大さであり、それはまた芸術家にもっとも必要とされるものでもある。想像力とは架空のものを造型する能力などではなく、生を肯定する、生を自覚する能力である。罪を悔い改めることは必要である、それは自分の生を自覚することであるから。すべてを自覚に収斂せしめよ、なぜなら、「最高の悪徳は浅薄ということだ。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。

    キリストは、もし問われたら、こう答えただろう──その点はきっとそうだとわたしは思う──あの放蕩息子がひざまずいて泣いた瞬間かれは娼婦たち相手に財産を浪費し、それから豚を飼い、豚の食う豆莢まで渇望したことを、ほんとうにわが人生の美しい神聖な出来事とすることができたのだ、と。  (西村孝次訳)

2013年9月6日金曜日

ある種の性格の類型

 『鬣』8号に掲載された。





チェコスロバキアのスターリン主義者、ノボトニーについてこんなジョークがある。

大統領ノボトニーと兵士シュヴェイクの相違は?シュヴェイクは利口なのに馬鹿のふりをしている。

問題はそこにある。シュヴェイクは馬鹿なふりをした利口なのだろうか。シュヴェイクはチェコスロバキアの作家、ハシェクのつくりだした人物で、第一次世界大戦に従軍する。もちろん、優秀な兵士としての働きをするわけでもないし、一つの歯車として集団の効率を上げるのに役立つわけでもない。だが、確かに、だからといって馬鹿だとも言い切れないのは、単なる馬鹿ということではよっぽどそれらしい人物がシュヴェイクの兵隊仲間にいるからもある。

食べることしか頭にないバウロンや上官風を吹かせることだけのために生きているようなドゥプ少尉がそれで、どんな情況にあっても食べることや威張ることしか考えない彼らの頑迷さはごく自然に馬鹿と言うのに相応しい感じがする。

それでは、シュヴェイクは、常識や慣習に従うことができないために、そうした外皮の内側にある人間の本性についてより多くの真実を伝えてくれるようにも思える落語の与太郎の仲間なのだろうか。ところが、シュヴェイクには赤裸々な人間性がうかがわれることはない。むしろ、人間的な関心は、彼の全体から発散される光り輝くような「無関心さと無邪気さ」に跳ね返される。それ故に、人間性をあらわす利口にも馬鹿にも収まらない。

シュヴェイクはのべつ上官に怒られるが、反抗的なわけではない。彼の応答のパターンは決まっている。申しあげます、その通りであります、それについてはこういう話があります、と言って、問題になっていることと関係のあるようなないようなつかまえどころのない話をしはじめる。

ここで、ハシェクと同じ年に生まれ一年後に死んだもう一人の作家カフカを思い出してみよう。『兵士シュヴェイクの冒険』は思いのほかカフカの、例えば『審判』に近しい。シュヴェイクが軍隊に入るきっかけとなるのはなんの罪もないのに逮捕されたことにある。しかし彼は、「どこのだれそれが無実であろうがなかろうが、そんなことに気をとめる人なんぞどこにも、またいつの時代でも、いっこありませんよ」とさして気にしない。カフカの主人公は不条理な情況から抜け出そうと人間的な努力をするが、シュヴェイクはそれを無関心に受け入れる。といってそれを堪え忍ぶわけではなく、こちらも機械のように、とらえどころのないわけのわからない話を吐きだし続ける。

    それから鉄砲の弾丸を腹に受けるのも悪くないですな。でももっと乙なのは、大砲の弾丸をまともに受けて、足や腹がからだからばらばらになるのをわが目で見るときですね。なにしろ、だれかこの現象を説明して聞かしてくれる者がいないかと思っているうちに、死んで行くのだから、妙な気持ちでしょうな (栗栖継訳)

2013年9月5日木曜日

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』とその運命 2

『鬣』第七号に掲載された。






 フロイトが指摘する機知とユーモアの類似点は、どちらの快感も節約に由来することにある。機知は、言葉遊びや冗談のなかに社会的配慮から抑制している事柄を滑り込ませる。つまり、抑制が節約される。一方、ユーモアは感情が節約される。月曜日に絞首台に引かれていく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言う。我々は罪人がなんらかの感情、怒りや悲しみや絶望をあらわにすることを予想する。だが、罪人はどんな感情をあらわすこともなく平然とうそぶく。つまり、感情が節約される。これらのことは、より古典的な言葉で、緊張と緩和といってもいいだろう。抑制や感情によって緊張の高まるべきときにそれがはぐらかされ、緩和される。

 しかしながら、異なるところも大きい。なにより、機知は社会的なものであり、第三者や観客を必要とする。機知は社会的な慣習によって形成される抑制を相手にするからである。社会的慣習による抑制があるために直接的には口に出せないことを機知に託すのであるから、社会的に、それを聞く第三者に認められなければ機知の勝利はあり得ない。それゆえ、機知は、言っていいことと言ってはいけないことが厳密に定まってはいるものの、言ってはいけないことの言い方とその巧拙の基準も複雑に規定されているようなサロンや社交界、あるいは芸能の分野などで発達し洗練される。

 だが、ユーモアの方は、それを認める第三者が不可欠なわけではない。死刑囚のユーモアに勝利があるとすれば、それは彼の言うことを第三者が笑うことではなく、深刻な状況を前にして「今週も幸先がいいらしいぞ」と言うことそのことのうちにある。ここにユーモア特有の「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」があり、「自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示する」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)のである。

 フロイトは、機知、滑稽、ユーモアは、いずれも我々の失われた幼児期を取り戻そうとする試みのあらわれだとしている。

    その三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示しているという点で一致する。というのは、われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならないのである。
      (『機知-その無意識との関係-』)
   
 だが、ユーモアと機知や滑稽と子供との関係は異なる。機知のある子供、滑稽な子供はしばしば見受けられる。フロイトの言う滑稽も機知もユーモアも必要としない、自足した「生活に幸福を感じえた子供の時代」とは、言葉を話すことも知らない幼児期にかろうじて見いだされるだけだろう。言葉と親などの身近な人物がいれば、つまり最小限の社会的なものがあれば、機知や滑稽は働き出す。確かに、子供に社交界での機知を求めることはできないが、どういうことを言えば周囲の大人が喜ぶかについては子供は十分に意識的である。子供の機知と大人の機知の相違は、そしてその幸福感の違いは、子供の機知は、彼、あるいは彼女が言ったからこそ笑い、賞賛するのだという無条件の肯定に支えられているのに対し、大人の機知はその内容やその人物の社会的地位や人格によって判断を経た上で受け入れられることにある。

 他方、ユーモラスな子供というのはほとんど見ることができない。言い換えれば、ユーモアというものが、あまりに子供の存在と密着しているので、ユーモアとして際立つことがない。ユーモア特有の「自我の不可侵性」とは子供のもつ全能感のことに他ならない。ユーモアというのは、存在に密着したものなので、機知のように、その時々の精神の閃きというよりは、生存の様式として捉えられるものなのである。

 機知が価値をずらすことによって世界をゲリラ的に攪乱していくとすれば、ユーモアはいま棲むこの世界の侵入を許さない独自のもう一つの、生存の様式、世界をつくろうとしている、と言ってもいいかもしれない。
 



 ディドロは新しい空間を創造したのだ、とクンデラが言うとき、その空間はユーモアのつくり出す「不可侵」な世界に近く、『運命論者ジャックとその主人』はユーモラスな人物や事件が描かれているためではなく、ユーモアをもって書かれた作品という意味でユーモア小説と言うことができるだろう。

    ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。
         (『ジャックとその主人』)
   
 クンデラはディドロの作品を劇化するにあたって、舞台装置の全くない空白の空間で劇が進行するようにしたが、この何もない空間は、なんでも受け入れられる、しかし何によっても壊されることのない空間である。この空間、あるいはディドロの世界にとって「不可侵」であるべきものとは、空間そのものではない。空間に関しては、通りすがりの誰かが入ろうが、読者が参加しようが、作者が姿を見せようが一向に差し支えない。また、どんな意想外の事件が起きようとも、この空間にはその意想外の出来事に背反するような背景がないから、それによって空間が壊れるようなことはない。

 ただ一つ、この空間が譲ることのできない「不可侵」なものとは、誰でも入ることができ、どんなことでも起きることが可能だという空間の空白である。なには入ってもいいがなには入ってはいけないというような排除と選別の原理を導入すること、空白を色づけするような行為だけは避けなければならないだろう。そして、この空間の性質は、ジャックが抱懐する運命論と正確に照応している。すべてを前世の因縁で説明するジャックに対して主人は言う。

     主人 しかし、お前の論法でゆくと、罪なんてものはなくなっちまい、罪を犯しても悔悟しないことになる。
     ジャック いま旦那さまのおっしゃってることは、一度ならずあっしの頭をくちゃくちゃにしました。しかしそうしたことがあったにもかかわらず、われにもあらず、たえずあっしの念頭にうかぶのは、隊長の「この世でわれわれの身に起こることは、いいことにしろ、わるいことにしろ、すべて前世の因縁だ」という言葉でした。旦那さま、あなたはこの因縁を消す何らかの手をご存じですか?あっしが自分でないことができますか?自分であって、自分とはちがったふうに振舞うことができますか?自分であって他人であることができますか?それに、あっしがこの世に生まれて以来、いま申しあげたことが真実でない瞬間が、いっときだってありましたか?すきなだけごたくをお並べなさいまし。旦那さまの理屈は、たぶん結構なものでしょう。しかしあっしのなかにか、あるいは前世にか、あっしが旦那さまの理屈はなってない理屈だと思うということが書きこまれてるんでさ。しようがないじゃありませんか?
     主人 おれはあることを考えているんだ。それは、お前の恩人は前世の因縁で決められていたからコキュになったのか、それとも、お前が恩人をコキュにするから、前世の因縁がそうなっていたのか、ということだ。
     ジャック その両方が並んで書いてあったんでしょうね。全部いっときに書かれたんです。それは少しずつひろげてみる大きな巻物みたいなものでして・・・・・・。

 ジャックの運命論とは、いいことであれ悪いことであれ無差別に受け入れることのできる空間の枠組みであり巻物でしかないのである。実際、この運命論によってジャックの行動や感情が変化するわけではない。なにごとも運命で決まっていると考えるから、喜びも悲しみもないかといえばそんなことはない。なにをするにしても結果は決まっているのだから、行動が投げやりになるかといえば、そういうこともない。「彼は不幸を予防しようと努めた。彼は慎重さにたいして最大の軽侮の念を抱いていたが、慎重だった。(・・・)要するに、善人で、率直で、誠実で、勇敢で、主人思いで、忠実で、きわめて頑固で、さらにそれに輪をかけたおしゃべり」であるジャックの性格を運命論が変えることはない。

 ジャックの運命論が受け入れることのできない唯一のことは、「そうあらざるをえなかったんだ、だって前世からそうきまってるんだから」と上機嫌にすべてを受け入れることのできる自身の運命論の枠組み自体を否定されること、その一点につきる。

 しかしながら、このことは、逆に言えば、その一点においてディドロの小説やジャックの運命論が支えられていることを意味する。そして、十八世紀のフランスに生きたディドロの「幸福な無為」(クンデラ)、空白な空間をただ一点で支えることのできる力、現実世界が侵入することのできない自己というものは失われているようなのである。そのことは、同じようにほとんど背景のない空白の空間を舞台にするベケットの戯曲やブランショの小説がディドロのように揺るぎない空間を保持しえていないことにも見て取れる。彼らの戯曲や小説ではその空間が常に崩壊の予感にさらされているかのように思える。「ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つということは、それが、強迫的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編みだしたあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境などをも含んでいるあの系列に属するものであるということを意味する」(「ユーモア」)とフロイトは言うが、ユーモアは既に空白の空間を支えきることができず、他の「諸方法」の影響が空間全体に瀰漫しているかのようなのである。

2013年9月3日火曜日

記憶の方向

 『鬣』7号に掲載された。



 十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて活躍したブラッドリーというイギリスの哲学者が、記憶の方向について面白いことを考えている。

 記憶の方向というだけでは意味がわかりにくいが、つまり、我々がなにかを思い返すとき、なぜ過去から現在(仮に前方に向けて、と言っておこう)という方向で思い返し、現在から過去へ(仮に後方に向けてと言っておく)ではないか、ということである。

 例えば、夜、今日一日のことを思い返すとき、我々は目覚めたときから今までの時間を辿り、その反対ではない。ごく当然のこととしてそうしているが、ちょっと考えるとこのことはそれほど自明なことではない。

 実際、我々が時間の流れというようなことを考えるとき、未来がやってきて過去として貯えられていく、というように思う。時間の流れを川の流れのようなものだとしよう。そのとき、未来としてイメージされるのは水が流れてくる方向、上流であって、背後に流れ去っていくのが過去となる。だが、このイメージに基づけば、時間は後方に向けて流れていることになるわけである。

 いや、流れだけを考えるとすれば、方向も消え去ってしまうだろう。川が上流から下流に流れていくことがわかるのは、水泡が流れ、必ずしも透明ではない水流の方向が見て取れるからで、言い換えれば、流れそのものではない流れに付帯するあれこれのものによって我々は方向を知る。いっさいそうしたもののない状況では時間の方向さえ考えることができない。

 では、我々はなぜ時の流れに方向があると感じるのか。それは、我々が川の流れで知覚する水泡や水流にあたるもの、我々に関わる出来事があるからである。それでは、なぜ、過去を想起するときには前方に向けて思い返し、にもかかわらず時間は未来から過去へ、後方に向けて流れているように思われるのだろうか。

 ブラッドリーの解答は、言われてみると拍子抜けがするほどあっけないものである。つまり、時の流れに流されながらも流れにのみ込まれて運び去られはしない自己があるためだということである。流れにのみ込まれてしまえば、出来事はあるが出来事の推移はなくなり、流れがあってもなくても同じことになってしまうだろう。我々は流されているから時と共に進み、新たな経験に出会う。前方に向けて想起するのは、出来事が我々の進む方向と同じ方向に向けて推移するため、我々が流されていくことをもとに出来事が推移する方向を理解しているためである。時間が後ろ向きに流れているように思われるのは、少なくとも出来事と同じ速さで変化することはない自己があって、その自己が出来事が通り過ぎていくのだと感じるためである、ということになる。

 確かに、こう考えれば問題は一応解決されている。しかしながら、すべてが流れと出来事と自己との相対的な関係に基づいていて、確固とした根拠の上に立つものではないことに気づくとき、何とも曖昧な気分に誘われる。そして、この問題が扱われている短いエッセイを読み返して、何気なく書かれた冒頭に近い一節を読むと、曖昧な気分は更に方向を見失っていくように思われる。即ち、

    私自身について言えば、そうした一般的な傾向があるという事実はもちろん受け入れるが、例外がないと確信しているわけではない。私は後方に向けて想起することが不可能であるとは信じていないし、時には現実に起きているのではないかと疑ってさえいる。

2013年9月2日月曜日

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』とその運命 1










 『運命論者ジャックとその主人』は、一七七八年から一七八〇年にかけて『文学通信』に連載された。実際に書かれたのはそれよりも前で、はっきりした日付はわからないが、一七七三年、ディドロが六十歳の頃、ロシアにエカテリーナ二世を表敬訪問していたときに完成したというのが通説になっている。だが、ディドロの生前、この小説が刊行されることはなかった。『運命論者ジャックとその主人』ばかりでなく、ディドロが書いた小説の他の代表的な作品、『修道女』、『ラモーの甥』も生前には刊行されていない。

 現在でも小説家ディドロに対する冷遇は変わっていないと言えるかもしれない。『百科全書』編集者としてのディドロ、『盲人書簡』や『ダランベールの夢』の哲学者としてのディドロはともかく、『俳優に関する逆説』の演劇理論家としてのディドロ、展覧界評などにみられる美術批評家のディドロと比較しても、小説家としてのディドロが多く語られているようではない。そして、それらのディドロの小説のなかでも『運命論者ジャックとその主人』は「構成がない」あるいは「散漫」だということで低い評価に甘んじていた。このことは、ディドロが『運命論者ジャックとその主人』を書くにあたって大きな影響を受けたローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』が正統な文学史からは鬼っ子めいた扱いを受けてきたことと即応している。とはいえ、『トリストラム・シャンディ』のほうは二十世紀後半以降、実験的なメタフィクションが多く産出されるにしたがって、十八世紀と二十世紀をつなぐ重要な作品として文学史的に評価されている。一方、『運命論者ジャックとその主人』はいまだにディドロの全著作からも、文学史からも傍流の作品として扱われているのである。

 ところで、ディドロにおいてはなによりも小説家ディドロを、その小説においてはなによりも『運命論者ジャックとその主人』をもっとも実りあるものとして称讃している現代作家がミラン・クンデラである。

    劇作家としてのディドロは無視しうる存在であるし、ぎりぎり、この偉大な百科全書派の試論群を知らなくても、哲学史はなんとか把握出来る。しかし、『運命論者ジャック』を無視すれば、小説の歴史は理解不能にして不完全なものになると主張せざるをえない。この小説が、もっぱらディドロの作品の一つとして扱われ、小説の歴史全体のなかで研究されていないのは不運なことだ。この作品の真価は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥールケ』といった著作と比較することによって初めて認識できるものなのだ。
     (一つの変奏曲への序文 『ジャックとその主人』     近藤真理訳)
   
 クンデラにとってディドロの『運命論者ジャックとその主人』は、『トリストラム・シャンディ』とともにいわゆる外部にある「現実」をいかに本当らしく描くかという十九世紀を覆った写実主義的、自然主義的文学、そしてそれこそを正統的な文学だとする通念によって摘みとられた、小説のまったく異なった可能性の一つの方向を示唆するものなのである。つまり、カフカが「夢と現実との融合」を成功することによって小説に夢の呼びかけを取り戻し、ムジールとブロッホが「人間の存在を解明し、小説として最高度の知的綜合たらしめることのできるあらゆる方法」を動員できるようにするために思考の呼びかけを、アラゴンやフエンテスがプルースト的な個人の記憶から時間を解き放し「小説の空間のなかにさまざまの歴史的時間を導入」することによって時間の呼びかけを発見したように、ディドロとスターンは小説における遊びを発見したのである。

     <遊びの呼びかけ>--ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とドニ・ディドロの『運命論者ジャック』は、現在のところ私には、十八世紀のもっとも偉大な二つの小説作品、壮大な遊びとして構想された二つの小説のように思われます。この二つの作品は、空前絶後の、軽妙さの二大頂点です。これ以後の小説は、ほんとうらしさの要請やら、写実主義的背景やら、厳密な年代学やらで自分を縛ってしまいました。この二大傑作に含まれていたさまざまの可能性は捨て去られてしまいましたが、この二つの傑作は、今日、私たちが知っているものとは別の小説の展開(そうです、ヨーロッパの小説のもうひとつの歴史を想像してみることもできるのです)を作り出すことができたのです。
         (『小説の精神』)
   
 クンデラは一九六八年、ソ連軍侵攻後のプラハで、著作が全面的に発禁となり、収入を得る道を失う。そんななかある演出家の勧めがきっかけで『運命論者ジャックとその主人』の脚色、本人の言葉で言えば、ディドロへのオマージュでありディドロをもとにした変奏曲に着手する(本来その演出家がもちかけた企画はドストエフスキーの『白痴』を脚色することだった!)。周知のように、クンデラは自ら未熟、失敗だと思う文章については「作品」として認めず、出版も許さない。『ジャックとその主人』は戯曲としてはクンデラが唯一自分の「作品」として承認したものなのである。




 『運命論者ジャックとその主人』はいくつもの対話から成り立っている。その柱となるのはジャックと主人の対話で、この小説の内容は、ジャックが主人に語り始めた自分の恋の話(「主人 それじゃおまえは恋をしたことがあるんだな?/ジャック 恋をしたことがあるかですって!/主人 それも鉄砲の一発でさ。/ジャック 一発で。/主人 そんな話はかつてしたことがなかったぞ。/ジャック しなかったでしょうな。/主人 なぜだ?/ジャック そりゃ、これより早くでも、これよりあとでもありえなかったからでしょう。/主人 その恋の話を承る時機到来ってわけか?/ジャック 分るもんですか?/主人 いつでも、まったくことのはずみで、始まるんだな・・・・・・。」)が、度重なる逸脱、妨害によって遂に語り終えられることがない、ということにつきる。「ことのはずみで」始まった話らしく、逸脱と妨害もまたいかにもことのはずみであって、話しているうちに別の話に入り込んでしまう、別の人間が割り込んで別の話を始める、話を中断せずにおれない事件が起こる、それに作者の気まぐれ(「読者諸君、ごらんのとおり、いま話は佳境に入っているが、ぼくはジャックを主人から引き離して、彼ら両人をそれぞれ、私の気に向いたいろんな偶発事件にめぐり合うことにして、ジャックの恋物語を諸君に一年でも、二年でも、三年でも待たせることができる。」)まで加わる。

 さまざまな形式の文章も、また、ノンシャランに混在している。三人称の地の文、戯曲風の対話、作者の意見、作者と読者との対話。こうした自由さ、悪く言えば統一感のなさは、「散漫」だなどと批評家に言われるまでもなく、著者自身自覚的であって、作中に登場する読者に「あなたの『ジャック』は、いろんな事実、あるものは本当の、あるものは思いついた事実の無味乾燥な狂想曲で、文章は優雅でなく、事実は何の秩序もなく配列されています」と言わせている。

 だが、こうした特徴、つまり、物語の中に物語が入れ子状に入っていたり、起承転結のしっかりした構成をもっていないというようなことは、そうした特徴において際だっているものの、ディドロがこの小説を書いたフランス十八世紀とは場所も時代も異なるところで生まれた作品と、単純に似ていると比較することはできない。

 例えば、『運命論者ジャックとその主人』では、ジャックの恋の話の間に様々な話が繰り返し挿入されるが、『千夜一夜物語』のようではない。シャーラザードの語る物語の登場人物が物語を語り始め、そこに登場するまた別の人物がまた違う物語を語り始め、更にその登場人物が、という眩暈を引き起こすような重層的な入れ子構造、物語の迷宮に入り込むような感覚はディドロの小説にはない。また、ディドロの小説では「事実は何の秩序もなく配列」されているとはいっても、それは、間歇的に自分の作品に新たなものを書き加え、しかもその完結が少しも完結らしくない川端康成のようではない。かつて三島由紀夫は、川端康成の作品という一見「美麗な錦」には人間的概念にはまったく通じないような「暗黒の穴」が方々に開いていると言った(「川端康成氏再説」)。ディドロは小説の慣習を大胆に打ち壊し、ときには従来の価値の転倒を行なうかもしれないが、それによって人間的価値には無縁な暗黒がのぞくようなことはないのである。

 これら西欧とは異なったところで生み出された作品とディドロの『運命論者ジャックとその主人』が異なるのは、この小説がどれだけ自由な遊びに満ちあふれているにしても、あくまで遊びを宰領している作者の位置が揺るがないところである。

 確かに『千夜一夜物語』のシャーラザードは「千一夜」のすべての物語を語る者ではあるが、その作品内の立場においては、物語ることを止めるやいなや殺されてしまう脆弱な存在である。更に、残忍な王が求めているのはシャーラザードその人ではなく、彼女が語る物語であることからも理解されるように、彼女の一人の人間としての固有性は物語のなかに完全に埋没してしまっている。シャーラザードは、千一夜の物語を終え、王の愛を得ると同時に物語から解放される瞬間までは、王と物語とに二重に拘束された存在にとどまるのである。だが、『運命論者ジャックとその主人』に登場する作者は、他のどんな登場人物によっても、語られる物語によっても傷つけられることはない。作者はすべての登場人物を自由に操る力をもっている(「ジャックをあっちこっちの島に出帆させてもよい。主人をそこへ連れて行ってもいい。両人を同じ船に乗せてフランスに連れ帰ることに、何の差障りがあろう?根も葉もない話を作るのは、なんてやさしいんだ!しかし両人ともありがたがらぬ一夜を過ごしただけで無事に事はすみ、諸君もまたこの一夜だけで無罪放免だ。」)。

 また、同じような理由によって、ジャックが抱懐する運命論を裏切るように、前後の脈絡のはっきりしない不意の出来事が主従二人を見舞うのだが、その出来事の繋ぎ目からのぞくのは人間の価値や概念の届かない暗黒の穴であるよりは、ある人間の軽やかな精神の戯れなのである。ここには同じ十八世紀の作家であるサドのような、世界をすべて説明しつくしてしまおうとする理性の凶暴なまでの行使はないが、遊びに特有の、規則(たとえそれが自分でつくったものであるにしても)とその遵守に必要な理性の監視が常に働いているのである。

2013年8月29日木曜日

モイラ

『鬣』第6号に掲載された。


 



モイラ(運命の三女神)についてはほとんどのことが漠としている。アケンナ(必然)の女神の処女受胎によって生まれたとも、エレボス(幽冥界)が夜と交わって生んだとも伝えられる。それぞれの名をクロートー、ラケシス、アトロポスという。クロートーは「紡ぐひと」、ラケシスは「長さをはかるひと」、アトロポスは「避けることのできないひと」の意味である。クロートーが生命の糸を紡ぎ、ラケシスが物差しで長さを測り、アトロポスがはさみでそれを切る。だとすると、一番大きな力をもっているのは生をどこで完結させ、断ち切るかを決定するアトロポスだということになる。

ゼウスは自分の気に入った者を救うためにアトロポスの仕事を遮ることができるとも言われているが、つまり、より強力な神の介入によってアトロポスを動かすことができれば運命を変えることができるのである。

プラトンの伝えるところはそれとは少々異なる。糸を紡ぐのは紡錘であって、それによって様々な生涯の見本がつくられている。人間はあの世において、籤で定められた順番にしたがってどの生を選ぶのか自分で決断しなければならない。生涯はアトロポスによって切り取られるまでもなく、すでに決定されている。

三女神の役割は、クロートー、ラケシス、アトロボスと順々にその紡がれた生涯に触れることによって、その糸の出口と入口を決定すること、過去、現在、未来という変えることのできない方向性をその生に与えることなのである。そこでは生の長さが厳密に決められるようではない。しかし、決してほぐれも切れもしない糸に織り込まれている出来事は、多少の伸び縮みによってその生起の比率を変えるかもしれないが、出来事そのものを人間の力によって増減させることはできないだろう。

とはいえ、マルクス・アウレーリウスが言うように、個々人の運命というものがピラミッドのなかの四角い石が互いに嵌り合うように組み合わさって大きな運命を形づくっているのだとすれば、ある人間の各出来事の比率の変化はそれに関わる人間の比率を変化させ、この運動は小石を投げ込むことによって生じたわずかの波紋がすぐにその波立ちを平面へと拡散してしまうように容易に収まったりはせず、どこまでも変化を及ぼしていくはずである。確かに、各個人の比率の変化が互いを相殺することが多いかもしれないが、そんな心配は糞リアリズムというものである。


    ・・・・・・君は自分に起ることをよろこばなくてはならない。・・・・・・各人に個人的に起る事柄は、宇宙を支配する者の繁栄と完成と、それから実にその存続の原因となるからである。なぜならば君がたとえ少しでも(全体を構成する各)部分や原因相互の結合と連絡を断ち切ったとすれば、宇宙全体の完全性は損われてしまうであろう。                   マルクス・アウレーリス  神谷美恵子訳