『鬣』第15号に掲載された。
マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。
マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。
同じ物体である月が季節によって三日月にもなれば満月にもなり、天気によって雲がかかることもあれば、雨に霞むこともある、また、時代や民族によって象徴的な価値が異なってくることもあろう、それと同じように、マルクス・アントニウスという人物の長所欠点をひっくるめた柄の大きさは、人間の心理についてあまりにも実際的な観点しかもっていなかったローマ人や情念についての心理学を発展させることのなかった中世では十分に理解されず、シェイクスピアによっていわばロマン主義的に描かれるまで全体として捉えられることがなかった。
つまり、判断する時代の視野の偏りがあるためにアントニウスは欠けたところのある人間として考えられてきた、というわけである。
ところで、大内先生にはなにか欠けたところがある、と『イザベラね』のぼくは言うが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われているのではない。欠けた皿は欠けた部分を接いでもとの形に戻すことができる。そうしたどこかで取り戻すことのできる欠損が大内先生にあるわけではない。
ぼくと一緒にストリップ小屋をまわる大内先生(元々は軽演劇の作・演出の先生だったためにそう
呼ばれているのだが)は、確かに非常に怠け者のようだが、昔からの仲間やストリッパーの亭主やヒモと較べてずっと怠惰だとは言えない。欠けているというのは、他人と比較して欠点が目立ったり多かったりすることではない。
実際、欠けているということでぼくが持ちだす具体的な事実とは、大内先生がいつもすぐ電話にでる、そのことだけなのである。ぼくの言葉は、人間にはなにか欠けたところがある、と言い換えることができる。理想的な人間像があって、それに達するまでにはまだ欠けたところがある、というのではなく、なにと特定することはできないが欠けたところがある、と言っても不正確で、欠けてないないかがあるのではなくて、ただ、欠けているだけ。
そして、げんに、ぼくは、よくしかたがないので、と言うけど、しかたがないってのは、なにかをしたかったが、しかたなく、ほかのことをしたとか、それをしなかったってことだけど、ぼくの場合は、なにかをしたかったが、しかたがなくではなくて、ただ、しかたがないだけのことだ。
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