2013年12月16日月曜日

ブラッドリー『論理学』1

 フランシス・ハーバート・ブラッドリーは1846年に生まれ、1924年に死んだ。その生涯についてはほとんど知られていない。波瀾万丈でその行跡がたどれないのではなく、平穏なたたずまいばかりがあって、その裏に葛藤を読み取るべきなのかどうか、よくわからないのだ。

 なにしろ半世紀以上もオックスフォード大学のフェロー(研究員と寮長やら相談役などが一緒になったものと考えればいいか)を勤めながら、一度も教壇に立ったことがなかった。


第一巻 判断
  第一章 判断の一般的性質
   
 §1.論理学を研究し始める前に、どこから始めるべきか知ることは不可能である。研究しおえた後にも、不確実性は残る。一般的な順序などないのであるから、判断から始めることに言い訳することもないだろう。中途から始めたという非難を受けるにしても、主題の中心に触れることくらいは望めよう。
 この章では、判断一般の問題を扱おう。(I)その語が使われるときの意味についていくつかの考察をする。(II)第二に、考え得る誤った見方を批判する。(III)最後に、その働きの発達についていくつかのことを述べる。 

 I.この種の本においては、配列は任意のものにならざるを得ない。我々が同時に主張する一般的学説は、その証明を後の章に譲る。もしそれが問題となる主要な現象をすべてにわたって覆うものであれば、他の観点と衝突しあうとしても、真の観点と思われよう。しかし、こうした理由から、とりあえず暫定的に提示するしかない。 
 判断は心理学と形而上学の双方において深刻な諸問題を提起する。他の心的現象との関係、魂-生の初歩的な段階からの複雑な発達、一方に我々の本性の知的な側面にある意志との密接な関係が、他方に主体と対象との差異、心的活動の存在をめぐる問題などが我々の進む道を示しているかもしれない。しかし、できるだけこうした問題を避けたところに我々の対象はあるだろう。我々がまず問いたくないのは、判断は他の心的状態とどんな関係にあるか、究極的な実在においてそれについてなにが言われねばならないか、である。我々はそれを、できる限り所与の心的働きとして捉えることにしたい。それがもたらす一般的な性格を発見し、更には我々がそれを使用する際のより特殊な意味に注意を向けることにしたい。

 こうした、ある意味ノンシャランな始め方は、哲学では珍しいものだといっていいだろう。アリストテレスからデカルトにいたるまで、確実な根拠を固めた上に、自らの学説を打ち立てることが一般的だからである。

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