§3.我々はよくこう言う、「これは実在ではない、単なる観念だ」と。そして、頭のなかにあり、私の精神のある状態である観念は、外部の対象と同じく確固とした事実だと答えもする。この答えは先の言葉とほとんど同じほどなじみ深いものであり、私の不満はつまるところそれがあまりにもおなじみになったことにある。いずれにせよ、我々は、英国で、心理学的姿勢のなかであまりに長く生活してきた。我々は、感覚や感情のように、観念が現象であることを当然のことと見なして軽視している。そして、これらの現象を心的事実と考えることで、(どれだけ成功するかは問わないにしても)観念と感覚とを区別しようとする。しかし、こうした意図において、我々は論理が観念を用いているそのありようをほとんど忘れてしまう。判断においては、いかなる事実もそれがまさしく意味するものではないし、そのありのままを意味することもできない、ということを見ようとしない。真や偽があるとき、我々が用いているのは意味作用であり存在ではないことを学ばない。我々は頭のなかにある事実を擁護するのではなく、その事実が表わすなにか別のものを擁護する。ある観念が心的実在として扱われるなら、それ自体現実の現象と捉えられるなら、それは真も偽もあらわしはしないだろう。判断において用いるとき、それは自身以外のものに赴かねばならない。もしそれが、自らの実在を強調するにもかかわらず、なんらかの存在について観念ではないなら、その中身は「単なる観念」でしかない。我々が意味を向ける実在との関係においてはなにものでもないなにかである。
2013年12月29日日曜日
ブラッドリー『論理学』3
ルドルフ・メッツの『イギリス哲学の百年』(1938年)によると、イギリス観念論でも珍しく、ブラッドリーはヘーゲルを通じてしかカントに触れなかったという。スピノザに親しんだことはある程度確からしい。ヘルバルトをヘーゲルに不可欠な解毒剤として推薦したという。シェリングにはある程度の親近感を抱き、ショーペンハウアーを好んだが、参照するようなことはほとんどなかった。
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