『鬣』第13号に掲載された。
片町や夏ゆくころの撥の音
和菓子、駄菓子。のうぜんかづらの花の店
すすき枯れし斜面草地やひるの月
ふるさとは風に吹かるるわらべ唄。
ヒル花火あなたこなたにヒバリ鳴く
手のひらにたたみこむほどにや余呉の秋
伊藤信吉の句には、歳時記を開かなければわからないような俳句独特の用語も、観念的な言葉も、イメージの突然の飛躍もなく、一言で言えば、大げさな身ぶりを一切見せないつつましい相貌を保っている。更に、友人たちに贈った句や旅先でできたとおぼしき句が多いことをつけ加えると、日常の細部を切り取った日々の覚え書きのような句が自然と連想されるだろう。だが、実際には、どれだけ「自注」に詳細な状況が書き込まれていようと、句はそうした具体的な細部をきれいに洗い流している。「彼岸花」や「木瓜の花」といったくり返し取り上げられる植物にしても、句の前面ににゅっと姿をあらわすというよりは、風景のなかに分かちがたく溶けこんでいる。月や花火は、むしろ昼にある方が好ましい。夜の月や花火は、夜空を背景に強烈な自己主張をし、まわりのものを背景として従えてしまうからでもあるが、それだけではない。夜の月や花火があまりに時機に合っているためもあるだろう。昼の月や花火は時機を外れたものであり、時間的な遠近法を混乱させ、現在をいつかどこかで経験したかもしれない過去、郷愁に満ち、どこか寂しく、取り戻すことのできない、時機を逸してしまった過去に結びつける。伊藤信吉の句は、一貫して、細かな現実によってかき乱されない、こうした追憶のなかの風景を描きだしていると言える。
雪催い灯の色かなしおしゃれ町
おしゃれ町灯の色しめて夏逝きぬ
地下鉄に秋おとずれし灯の並び
日最中を黒洋傘や街の中
人波は人波のまま師走町
「演歌俳句」と自らの俳句を名づけたのも、現実をある色調に染めあげ、「手のひらにたたみ」こめるような風景に変換するものとして俳句を捉えていたからだろう。「おしゃれ町」というのが原宿のことを指すのだと、句だけを読んで誰が一体感じ取れるだろう。雑踏も喧噪も拭い去られ、むしろ原なかで宿場の灯が仄かににじんでいるような雰囲気がある。師走の人混みにしても、「人波」と「師走町」に大きくくくられることで、せわしなさや人いきれが発する物理的な圧力が抜き取られ、道を風が渡っていくような具合に変容される。そして、こうした変換作業が、ステレオタイプなイメージで捉えられがちな都市に対して思いがけぬ異化効果を上げている。
粉雪降る北戀う日暮れ粉雪降る
こんにゃくの土色村の秋の色
聴け聴け聴けセミ鳴くセミ鳴く権太坂
春立つや日々のろのろののろま唄
唐辛子赤し木枯らし人枯らし
『全句集』で目立つのは、同じ言葉や音のくり返しである。多分、それは現代俳句の実験性とは無縁であって、くり返し自体を楽しむ稚気はもちろんあるだろうが、「演歌俳句」の面目躍如たる部分でもある。分析的に対象を扱うタイプの俳句ではないし、例えば比喩を使い、また、意想外なものとものとを併置することで、隠されていた、あるいは新たな詩的意味を浮かび上がらせる俳句でもないので、対象に対して言葉足らずなのではないかという不安や、俳句の短さを恐れる必要など伊藤信吉はまったく感じていなかったに違いない。情調さえそこにあるなら、ためらうことなく同じ言葉をくり返せばいいし、そうすれば情調が高まりこそすれ、もろく壊れてしまうことはないだろう。つまり、伊藤信吉の句は、実験性という堅苦しい印象こそないが、俳句という極端に短い形式のなかで、演歌のリフレインを実現することのできた希有な例だと言うことができる。
ボケの花寝ボケルとぼける煤ボケル
冬至の湯湯気まぼろしの思いのみ
物忘れ生涯かけての置き忘れ
『全句集』には、数こそ少ないが印象的な述懐の句がある。一見すると、老境に至った現在の自分のありようを述べているようでもあるが、意外にしたたかで戦闘的なポレミックと考えることができる。郷愁の源である追憶の風景が、演歌の情調がある限り、いまここにある思いがまぼろしであろうが、日常的なあれこれを物忘れしようがたいした問題ではない。というのも、いまここにあるものがまぼろしとして消え、忘れ去られることでますますあらわなものとなるのが、追憶の風景でもあり演歌の情調でもある叙情の核であって、この核を剥きだしにするには生涯かけてどれだけ物忘れし、置き忘れしようが多すぎることはないのである。
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