『鬣』第23号に掲載された。
わたしは食べることが好きだし、料理もするが、ひょんなきっかけで中近東かどこかの王様になったら、と幼稚な空想を巡らせることはあっても、料理人になることを想像したことはなかった。特定の相手のためにこしらえ、もちろん自分も一緒にそれを食べるという親密な行為が、誰とも知れぬ他人のためにつくる職業としての料理とうまく結びつくことがなかったのである。
それゆえ、荻上直子の映画『かもめ食堂』を見るまで、迂闊なことに客の来ない食堂というものがユートピア的状況をもたらすことに気づかなかった。西欧産のユートピアでは、島や城といった孤絶した空間において、現実の世界とは別の原理をもつもう一つの世界が形づくられる。それは社会改革の夢の投影であったり(例えばトマス・モア)、グロテスクなまでに自然の原理を徹底することで裏
返しになった社会を現前させる者(例えばサド)もいる。
いずれにせよ、それらは現にある社会に拮抗するために閉ざされた空間のなかで自律し完結した一体系を築き上げる。つまり、ユートピアは〈どこにもない場所〉であるかもしれないが、特定の時代、特定の社会によって生みだされたものである。中国の神仙譚などでは、山奥や洞窟のなかなどに仙境が広がっていて、現実社会の只中で現実社会に拮抗するというよりは、むしろ素朴な願望充足の夢に満ちている。仙術によって手に入るのは畢竟するところ、不老不死によって意味の比率が変質した現世的欲望の対象である。
『かもめ食堂』では、別の社会原理が語られるわけでも、とっておきの仙術が揮われるわけでもないが、ユートピア的状況をもたらすための隔離は慎重に行なわれている。ある女性(小林聡美)が
フィンランドで食堂を開いているのだが、どんな経緯でどんな考えをもって彼女がこの地にいるのかは語られることがない。また、市場や港や森などの場所も出てくるが、食堂のある通りとのつながり(距離や方向や道程)が示されることはないし、この通りがどんな通りなのか、つまり都会なのか田舎なのか、街中なのか街外れなのか最後までよくわからない。そしてなによりも、日本とはまったく異なる白茶けた太陽の光が食堂全体に満ちあふれ、おとぎ話のような空間をつくりあげている。
そこに小林聡美、もたいまさこ、片桐はいりという三人が、非性的な、かといって母性的というのでもない〈姉の力〉を発揮して、シナモンロールを焼き上げ、しっかりとした衣がついてほぼ正確な楕円形を維持しているカツレツを揚げ、その見事な手際と最後に巻かれるいかにもパリパリとした海苔に幻惑されるためでもあろうか、嘘のように均一でありながらも決して食欲を減退させることのないおにぎりを次々に並べていくことで空間がユートピアの実質で埋められていくのである。
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