『鬣』第11号に掲載された。
性器を剥き出しにした娼婦のエドワルダが、あたしは《神》だと宣言する。語り手が述べているように、マダム・エドワルダについて、彼女は神であると言うとき、皮肉と受け取ることは思い過ごしであろう。
バタイユはここで、すべてのできごとに意味を割り振り、できごとをあらかじめ与えられた意味から決して越え出ることのないものに制限する神に対して、意味を越え出て新たな意味を形づくるできごとそのものである神を提示している。
したがって、ここでの神の登場は、聖人伝に見られる神あるいは神慮のあらわれとはその意味合いをまったく異にする。それらの物語では、神の登場によってそれまでのすべてのできごとが、まさに神の登場を準備するものであったことが明らかになる。神のあらわれはあらゆるできごとをあるべき場所に送り返す最終的なできごとなのである。
だが、エドワルダという神は、全知全能という言葉であらわされるような、あるいは、豊饒多産であるような神とは程遠いところにいる。全知全能の神であるならば、できごとのことごとくに適切な意味を割り振ることができるだろう。また、豊饒多産な神であるならば、できごとを次々に生み出していきながら、中心点を持ち完了した世界とは異なった、中心点を持ちながら完了しないような世界のモデルを提示することができるかもしれない。
しかし、エドワルダという神は、意味を与えてくれるわけではないし、ある意味の変奏である新たなできごとを次々にもたらしてくれるのでもない。神が登場することの意味は、ひとえに娼婦であるエドワルダという神が男の前に現れる、そのできごと自体に集約される。できごとを宰領する神ではなく、既にある、確定した意味を超えたところに突き放すできごとそのものとしての神である。
エドワルダは一向に神らしきことをしないが、あらゆる意味を破産させる、腹の底からの、胃袋が裏返るまでの情欲がある。奥底からの情欲は隙間なく身体を満たしながら、開口部から身体の外部へ流れ出る。その充溢と消尽とが一致する瞬間こそ、情欲が人間を理解しがたい頑固な物へと変貌させる跳躍の一瞬であり、そのとき、エドワルダが自ら神だと言うならそれが皮肉などではないことをわれわれは認めざるを得ないし、生命のない場所に剥きだしに放り出されるひりひりした感覚を感じずにはおれない。
こうしておれは知ったのだ――身内の陶酔は完全に霧散し――「彼女」の言葉にいつわりはなかったのだ、「彼女」は「神」なのだ。彼女の存在は一個の石の理解しがたい単純性をそなえていた。大都会の真只中で、おれは夜の山中のような、生命のない孤独のなかにいるような思いだった。 (生田耕作訳)
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