2013年9月5日木曜日

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』とその運命 2

『鬣』第七号に掲載された。






 フロイトが指摘する機知とユーモアの類似点は、どちらの快感も節約に由来することにある。機知は、言葉遊びや冗談のなかに社会的配慮から抑制している事柄を滑り込ませる。つまり、抑制が節約される。一方、ユーモアは感情が節約される。月曜日に絞首台に引かれていく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言う。我々は罪人がなんらかの感情、怒りや悲しみや絶望をあらわにすることを予想する。だが、罪人はどんな感情をあらわすこともなく平然とうそぶく。つまり、感情が節約される。これらのことは、より古典的な言葉で、緊張と緩和といってもいいだろう。抑制や感情によって緊張の高まるべきときにそれがはぐらかされ、緩和される。

 しかしながら、異なるところも大きい。なにより、機知は社会的なものであり、第三者や観客を必要とする。機知は社会的な慣習によって形成される抑制を相手にするからである。社会的慣習による抑制があるために直接的には口に出せないことを機知に託すのであるから、社会的に、それを聞く第三者に認められなければ機知の勝利はあり得ない。それゆえ、機知は、言っていいことと言ってはいけないことが厳密に定まってはいるものの、言ってはいけないことの言い方とその巧拙の基準も複雑に規定されているようなサロンや社交界、あるいは芸能の分野などで発達し洗練される。

 だが、ユーモアの方は、それを認める第三者が不可欠なわけではない。死刑囚のユーモアに勝利があるとすれば、それは彼の言うことを第三者が笑うことではなく、深刻な状況を前にして「今週も幸先がいいらしいぞ」と言うことそのことのうちにある。ここにユーモア特有の「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」があり、「自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示する」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)のである。

 フロイトは、機知、滑稽、ユーモアは、いずれも我々の失われた幼児期を取り戻そうとする試みのあらわれだとしている。

    その三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示しているという点で一致する。というのは、われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならないのである。
      (『機知-その無意識との関係-』)
   
 だが、ユーモアと機知や滑稽と子供との関係は異なる。機知のある子供、滑稽な子供はしばしば見受けられる。フロイトの言う滑稽も機知もユーモアも必要としない、自足した「生活に幸福を感じえた子供の時代」とは、言葉を話すことも知らない幼児期にかろうじて見いだされるだけだろう。言葉と親などの身近な人物がいれば、つまり最小限の社会的なものがあれば、機知や滑稽は働き出す。確かに、子供に社交界での機知を求めることはできないが、どういうことを言えば周囲の大人が喜ぶかについては子供は十分に意識的である。子供の機知と大人の機知の相違は、そしてその幸福感の違いは、子供の機知は、彼、あるいは彼女が言ったからこそ笑い、賞賛するのだという無条件の肯定に支えられているのに対し、大人の機知はその内容やその人物の社会的地位や人格によって判断を経た上で受け入れられることにある。

 他方、ユーモラスな子供というのはほとんど見ることができない。言い換えれば、ユーモアというものが、あまりに子供の存在と密着しているので、ユーモアとして際立つことがない。ユーモア特有の「自我の不可侵性」とは子供のもつ全能感のことに他ならない。ユーモアというのは、存在に密着したものなので、機知のように、その時々の精神の閃きというよりは、生存の様式として捉えられるものなのである。

 機知が価値をずらすことによって世界をゲリラ的に攪乱していくとすれば、ユーモアはいま棲むこの世界の侵入を許さない独自のもう一つの、生存の様式、世界をつくろうとしている、と言ってもいいかもしれない。
 



 ディドロは新しい空間を創造したのだ、とクンデラが言うとき、その空間はユーモアのつくり出す「不可侵」な世界に近く、『運命論者ジャックとその主人』はユーモラスな人物や事件が描かれているためではなく、ユーモアをもって書かれた作品という意味でユーモア小説と言うことができるだろう。

    ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。
         (『ジャックとその主人』)
   
 クンデラはディドロの作品を劇化するにあたって、舞台装置の全くない空白の空間で劇が進行するようにしたが、この何もない空間は、なんでも受け入れられる、しかし何によっても壊されることのない空間である。この空間、あるいはディドロの世界にとって「不可侵」であるべきものとは、空間そのものではない。空間に関しては、通りすがりの誰かが入ろうが、読者が参加しようが、作者が姿を見せようが一向に差し支えない。また、どんな意想外の事件が起きようとも、この空間にはその意想外の出来事に背反するような背景がないから、それによって空間が壊れるようなことはない。

 ただ一つ、この空間が譲ることのできない「不可侵」なものとは、誰でも入ることができ、どんなことでも起きることが可能だという空間の空白である。なには入ってもいいがなには入ってはいけないというような排除と選別の原理を導入すること、空白を色づけするような行為だけは避けなければならないだろう。そして、この空間の性質は、ジャックが抱懐する運命論と正確に照応している。すべてを前世の因縁で説明するジャックに対して主人は言う。

     主人 しかし、お前の論法でゆくと、罪なんてものはなくなっちまい、罪を犯しても悔悟しないことになる。
     ジャック いま旦那さまのおっしゃってることは、一度ならずあっしの頭をくちゃくちゃにしました。しかしそうしたことがあったにもかかわらず、われにもあらず、たえずあっしの念頭にうかぶのは、隊長の「この世でわれわれの身に起こることは、いいことにしろ、わるいことにしろ、すべて前世の因縁だ」という言葉でした。旦那さま、あなたはこの因縁を消す何らかの手をご存じですか?あっしが自分でないことができますか?自分であって、自分とはちがったふうに振舞うことができますか?自分であって他人であることができますか?それに、あっしがこの世に生まれて以来、いま申しあげたことが真実でない瞬間が、いっときだってありましたか?すきなだけごたくをお並べなさいまし。旦那さまの理屈は、たぶん結構なものでしょう。しかしあっしのなかにか、あるいは前世にか、あっしが旦那さまの理屈はなってない理屈だと思うということが書きこまれてるんでさ。しようがないじゃありませんか?
     主人 おれはあることを考えているんだ。それは、お前の恩人は前世の因縁で決められていたからコキュになったのか、それとも、お前が恩人をコキュにするから、前世の因縁がそうなっていたのか、ということだ。
     ジャック その両方が並んで書いてあったんでしょうね。全部いっときに書かれたんです。それは少しずつひろげてみる大きな巻物みたいなものでして・・・・・・。

 ジャックの運命論とは、いいことであれ悪いことであれ無差別に受け入れることのできる空間の枠組みであり巻物でしかないのである。実際、この運命論によってジャックの行動や感情が変化するわけではない。なにごとも運命で決まっていると考えるから、喜びも悲しみもないかといえばそんなことはない。なにをするにしても結果は決まっているのだから、行動が投げやりになるかといえば、そういうこともない。「彼は不幸を予防しようと努めた。彼は慎重さにたいして最大の軽侮の念を抱いていたが、慎重だった。(・・・)要するに、善人で、率直で、誠実で、勇敢で、主人思いで、忠実で、きわめて頑固で、さらにそれに輪をかけたおしゃべり」であるジャックの性格を運命論が変えることはない。

 ジャックの運命論が受け入れることのできない唯一のことは、「そうあらざるをえなかったんだ、だって前世からそうきまってるんだから」と上機嫌にすべてを受け入れることのできる自身の運命論の枠組み自体を否定されること、その一点につきる。

 しかしながら、このことは、逆に言えば、その一点においてディドロの小説やジャックの運命論が支えられていることを意味する。そして、十八世紀のフランスに生きたディドロの「幸福な無為」(クンデラ)、空白な空間をただ一点で支えることのできる力、現実世界が侵入することのできない自己というものは失われているようなのである。そのことは、同じようにほとんど背景のない空白の空間を舞台にするベケットの戯曲やブランショの小説がディドロのように揺るぎない空間を保持しえていないことにも見て取れる。彼らの戯曲や小説ではその空間が常に崩壊の予感にさらされているかのように思える。「ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つということは、それが、強迫的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編みだしたあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境などをも含んでいるあの系列に属するものであるということを意味する」(「ユーモア」)とフロイトは言うが、ユーモアは既に空白の空間を支えきることができず、他の「諸方法」の影響が空間全体に瀰漫しているかのようなのである。

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