ロメロのリビング・デッド三部作のなかで、『ゾンビ』独特の魅力は、その端的な邦題にあらわされているように、ゾンビがいきいきと縦横に動きまわっている点にあるだろう。
一作目の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、皮肉で教訓的な結末(最も理性的に振舞い、ドラマの唯一の生存者である黒人男性が、ゾンビに間違われて警官に射殺される)に見られる通り、パニック映画の一変種と考えていい。船の転覆やビルの炎上のように、人間の隠された性質を炙りだす危機的状況としてゾンビはある。
三作目の『死霊のえじき』では、ゾンビは地下施設の研究対象で、最後のカタストロフが訪れるまでは檻のなかの動物に等しい。ドラマの中心になるのは研究者と強権的な軍人との争いや、ゾンビを飼い慣らす可能性である。なにより、どちらの映画も主要な舞台が、さほど広くない一軒家と地下施設という密閉された空間で、外部から迫りくる危機に比例するようになかにいる人間の葛藤の激しさが増す仕掛けになっている。
確かに、『ゾンビ』でも四人の男女が郊外のショッピングセンターに立てこもるのだが、駐車場も含めたその空間は広大で、野生のゾンビが思うさま動きまわれる。動きは緩やかだが、確実に人間に近づいてくる無数のゾンビの蹌踉と徘徊する姿、この緩やかさと確実さがこの映画に絶えることなく鳴り響いている。それに対抗する動きがないわけではない。軍隊並みの武器を装備した暴走族たちは車やオートバイの速さで緩やかさをかいくぐり、ゾンビを攪乱することによって確実さを削り取ろうとするが、小さな渦が波に呑みこまれるように、緩やかさと確実さに沈んでいく。
暴走族の来る前、限られた数のゾンビを掃討して外との出入り口を塞ぎ、自由になったショッピングセンターで無為な時間を過ごす三人(既に一人は死んでいる)、食料品から銃や宝石までなんでもある場所でなにもすることがないこの上なく純粋に近い無為にいる三人の時間だけが、その緩やかな日々の移ろいとどこにも出口がないという確実さにおいて外にいるゾンビたちと危うく美しい均衡を保つことができた。
ゾンビと人間との関係は、エリアス・カネッティの群衆の分析を思い起こさせる。我々には未知のもの、身に危険が及びそうなものを遠ざけておこうとする接触恐怖があり、それが権力の、つまり他人をある決められた距離に配そうとする行為の源にある。この接触恐怖が恍惚や陶酔に転化するのが群衆である。
『ゾンビ』にあるのもこの種の転化で、緩やかであるはずのゾンビの動きは、取り囲まれた人間にとってはいつの間にか逃れることのできない素早さをもち、身の毛のよだつゾンビの輪が徐々に自分に向けて狭まり触れられ歯を立てられることは確実さが得体の知れない未知の官能、自堕落な自己放棄に転化する瞬間なのである。
彼らはどんなところでも歩きまわるだろう。
ジョージ・A・ロメロ
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