2013年12月21日土曜日

小澤實 『万太郎の一句』書評



 『鬣』第21号に掲載された。

 巻末の小論で、「淡雪のつもるつもりや砂の上」という句をあげ、小澤實は次のように言う。

 「句を読みおろしている時には春雪振りしきる空間が現れる。純粋にただそれだけである。その空間には思想や生活の影は一切差さない。が、読み終えたとたん、その空間は消えてしまう。積もったはずの雪ももはや残ってはいない。あざやかで、はかないうつくしさを持っている。・・・・・・万太郎の句を読みながら、無内容の美ということをしばしば感じた。いくつかの句を観賞する際にも、その美を説くことにこころを砕いたつもりだ。万太郎俳句の魅力の中心がここにはある。」

 例えば、談林調の純粋な言葉遊びもあれば、虚子の無内容な句には、その当否はともあれ、ある「境地」が感じとられ、禅と比較されることもあった。つまり、無内容にも様々な種類がある。小澤實は、万太郎の句の無内容の内容を「はかないうつくしさ」に見ているが、私には強靱な造型空間にあると思える。この空間は「おもひでの町のだんだら日除かな」の観賞で「昼寝の夢に浮んだ幻影のような鮮やかさとはかなさ」と書かれ、「わたくしの死ぬときの月あかりかな」の所で「照明の当たった舞台の上の死のようでもある」と書かれた空間である。ただし「淡雪」や「おもひで」とともにこの空間がはかなく崩れ去っていかないところに万太郎の句の魅力があるように感じられるのである
(ひどく小さいが、形が崩れず、空間を支配する万太郎の字のことも思いかえしてみよう)。このことは固有名詞の使い方に端的にあらわれている。「初場所やむかし大砲萬右衛門」、「春麻布永坂布屋太兵衛かな」、「泣虫の杉村春子春の雪」等々がそれであって、私は大砲萬右衛門のことなどまったく知らないし、布屋太兵衛の蕎麦も食べたことはなく、杉村春子に特別な思い入れもないが、ちょうど歌舞伎で衣装や隈取りだけでその人物がどんな人物であるか示し、名優ともなればそれだけを中心に強固な空間が形づくられるように、固有名詞に本来結びつく記憶がなくとも、その字、音、語感に対する鋭い感覚によってある情感の充填された初春や春の空間が造型されているのである。

 実は私の万太郎に関する知識は、もっぱら万太郎が生前に出した全集によっていたため、今回晩年の俳句を読むことができたのは幸いだった。特に、始めて「一めんのきらめく露となりにけり」の句を知ったのだが、空間そのものの発するきらめきを捉えたかのようなこの句を「琳派の小品のような装飾的で不思議な世界が広がっている」と評し、「究極の一句であると評価したい」と述べる筆者には満腔の賛意を表したいのである。

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