1.神田川祭りの中をながれけり 久保田万太郎
2.古沼の浅き方より野となりて 三好長慶
3.干物ではさんまは鰺にかなわない 五代目古今亭志ん生
1.東京に住んだことはないし、神田祭にさえ一度も行ったことがないにもかかわらず、神田川でなければならないと感じるところがしごく妙である。適度に小さな川だというところがいいのだろう(隅田川では祭りが呑み込まれてしまう)。祭りのなかを祭りとは全く異なる原理をもった別の世界が流れる。神田川が主であることで、祭りの喧噪も色彩も吸い込まれ、モノクロームの銅版画のような風合いを帯びてくるのがしごく妙である。
2.『三好別記』に出ているそうだが、私が知ったのは花田清輝の『日本のルネッサンス人』において。永禄五年、飯盛城での連歌の会で、「すすきにまじる芦の一むら」に長慶がつけたのがこの句だという。「中世の暮れ方から近世の夜明けまでを生きた三好長慶は、右の一句によって、かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」と花田清輝は書いている。
3.これほど純度の高いくだらなさにこの句以外で出会ったことがないので選んだ。句を読んで噴きだしたのもこのときだけである。虚子の「痴呆的」と言われた句は、それでもある境地のようなものを感じさせるが、この句はくだらなさを一寸たりとも譲ろうとはしていない。他の句を見ると(すべてを読んだわけではないが)、これだけ高レベルのくだらなさに達していないので、或いは素人の無茶振りでたまたま師範代から一本取ったようなものなのかもしれないが(どれだけの審判がこれを一本と認めるかはまた難しい問題なのだが)、もし句というのが機会の詩であるなら、野球のあの一球、サッカーのあのシュート、ボクシングのあの一発が記憶に刻まれるように、記憶に残されていい句なのではないかと思う。
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