ワイルドは『獄中記』で、ほとんど同じ言葉を三度繰り返す。
1.『獄中記』はレディングの獄中からアルフレッド・ダグラスに当てた長い手紙である。ダグラスは、我が儘で、気まぐれで、ワイルドの財産を湯水のように遊興に使い、意見をすれば怒りだし、絶交を言い渡すと縋りつかんばかりに謝るが、ほとぼりが冷めるやまた同じことをする。そもそもワイルドが同性愛の罪で投獄されたのも、ダグラスとその父親の確執のとばっちりを受けたことによるといっていいが、ダグラスは獄中のワイルドに会いに来ることもなければ手紙も寄こさない。憤懣やるかたないワイルドは、この手紙で君の顔が溶鉱炉の熱風でも受けたみたいに、恥ずかしさで真っ赤になるならいいだろう、と言う。なぜなら、「浅薄こそは至高の悪徳である。自覚されたことはすべて正しい」のであるから。
2.ダグラスのしたことは確かに酷いが、彼が単に『サロメ』の英訳者で男友達の一人であるのではなく、恋人であることを思うと、若い恋人に翻弄される初老の男というかなり陳腐な絵柄が浮き上がってくる。だがその陳腐さが招いたこと、社交界の寵児から獄中の二年へという経過はワイルドにとって決定的で、この考えてもみなかった経験を飲み下すことは、反省の意味もその言葉さえ知らないかに思えるダグラスへの訴えなどよりはよほど緊急を要することであったろう。牢獄での経験を、自己の血肉とし、愚痴も、恐怖も、嫌気もなしに認めることこそ自分がしなければならないことなのだ、とワイルドは書く。なぜなら、「最高の悪徳とは浅薄さである。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。
3.『獄中記』は、長短はあるが、三つの部分から成り立っている。ダグラスに対する非難あるいは痴話言、自分のこれまでの経歴を振り返っている部分、そして芸術家としてのキリストについての考察である。ここでキリストは、なによりもまず比類のない想像力の持ち主である。キリストは癩者や盲者の生活を、快楽のために生きる者のみじめさや富める者の貧しさを共感することができた。その生を共に生きることのできる強烈な想像力と共感の力こそがキリストの偉大さであり、それはまた芸術家にもっとも必要とされるものでもある。想像力とは架空のものを造型する能力などではなく、生を肯定する、生を自覚する能力である。罪を悔い改めることは必要である、それは自分の生を自覚することであるから。すべてを自覚に収斂せしめよ、なぜなら、「最高の悪徳は浅薄ということだ。自覚されたものはすべて正しい」のであるから。
キリストは、もし問われたら、こう答えただろう──その点はきっとそうだとわたしは思う──あの放蕩息子がひざまずいて泣いた瞬間かれは娼婦たち相手に財産を浪費し、それから豚を飼い、豚の食う豆莢まで渇望したことを、ほんとうにわが人生の美しい神聖な出来事とすることができたのだ、と。 (西村孝次訳)
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