2013年12月23日月曜日

くだらなさについて――北野武『みんな~やってるか!』






 『鬣』第22号に掲載された。

〈くだらなさ〉を二つにわけよう。〈くだらなさA〉は、ごく一般的な用法、辞書によれば、「問題にするだけの内容や価値がない」ことであり、排除の身振りを伴っている。〈くだらなさB〉はむしろ積極的な受容によって特徴づけられる価値である。

いつ頃から〈くだらなさ〉が一つの価値として認められるようになったのか定かではないが、タモリやビートたけしといったコメディアンが一役買っていたのは間違いない。それは意味の隙間を縫って進む、ある意味高度なセンスが問われるナンセンスとは異なる。またナンセンスよりは距離的に近しいと思われるが、生の無意味さを暴露する不条理とも異なる。

確かに〈くだらないもの〉を見たとき、我々は生の馬鹿馬鹿しさを感じることがある。しかし、ある種の不条理もののように無意味さこそ生の本質なのだとほのめかされることはない。ところで、〈くだらなさA〉によって人が〈くだらない〉と言うとき、問題になるべき内容や価値が問われていないという意味であるならば、そこには暗黙のうちになんらかの問題が存在することが前提されていると言えよう。

一方〈くだらなさB〉とは、まさしくなんら問題など存在しないことを主張する。ところで、私は、所謂「軍団」とともに活動をするビートたけしには当初からコメディアンとしての、いやむしろ〈くだらなさB〉の伝え手としての魅力を感じなかった。合いの手を入れるだけでほとんどしゃべらないビートきよしや高田文夫と口数にすれば似たようなものだが、同等の仲間ではない「軍団」は明らかに彼らとは異なった意味を担っていた。つまり、いかにビートたけしが「軍団」と一緒に〈くだらないこと〉をしたとしても、私はなにがしかの「問題」をそこに感じとってしまったのである。

ところで、そんな「軍団」が俄然〈くだらなさB〉を獲得したのが北野武の映画においてであって、それは「殿」と「軍団」との固定した関係をフラットに還元するカメラや映画という集団的な制作の場の力でもあっただろう。しかし、それ以上に、とりわけ『みんな~やってるか!』を輝かせているのは、それまでの軍団との〈くだらなさ〉が実は〈くだらなさA〉の裏返しであり、問題にするべき内容や価値があっても敢てそれを問題にしないことによって〈くだらなさ〉を問題にすることだったのに対し、断固として問題が存在しないことを主張し続ける〈くだらなさB〉を発見した悦びであったはずであり、いかにそれが困難な発見であるかは、おそらく同じような方向を目指した『TAKESHIS’』が、ブニュエル風の、フェリーニ風の、リンチ風の「幻想的なイメージ」の集積に堕していることでもわかる。

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