新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである、とニーチェは言う。事実、聖書にはイエス・キリストが人々を笑わせたという記録もなければ、自ら笑ったという箇所も見あたらない。
であるから、ほんとうのユーモアをもっているのは、キリスト教だけなのだ、という椎名麟三の言葉を読むと驚かざるを得ないだろう。
キリスト教とユーモアとの結びつきということになると、チェスタトンの名が浮かぶ。しかし、チェスタトンのユーモアがカトリック的で、派手で、多幸症的だとすると、椎名麟三のユーモアはプロテスタント的で、質素で、禁欲的だと言える。チェスタトンにとっては世界のあらゆるものがでたらめで、驚異に満ちており、それゆえにユーモラスで、ユーモアとは神が創造したこの世界を肯定することにある。世界を肯定する哲学や文学は、たとえそれがキリスト教となんの関わりもないものであっても、この創造された世界の驚異を享受するという点において、キリスト教的に読みかえることができる。
つまり、チェスタトンによれば、人間はキリスト教的な存在として生まれてくるのであり、幼児期には誰もがもっていたでたらめでユーモラスな世界に驚嘆する能力を徐々に失うことによってキリスト教的でなくなっていくに過ぎないのである。
一方、椎名麟三によれば、人間とは、成長によって、あらゆる人間的努力を無意味なものとする死を認識することで初めてユーモアというものを視野に入れる。しかもそのユーモアたるやイエス・キリストにしか可能でないような聖性に満ちたものである。
というのも、人間においてユーモアは常に滑稽と苦悩とに分裂する。笑いを誘う滑稽さとは、無意味さを客観的に見やることで、その無意味さとは多かれ少なかれ、究極的な無意味をもたらす死に通じている。こうした滑稽さは、主観的には多かれ少なかれ意味のある苦悩をもたらすこととなろう。
ユーモアとは、死に通じる滑稽の無意味さと生につきものの苦悩に満ちた意味との対立を解消できるようなイエス・キリストや聖霊にのみ可能な超越的地点だということになる。このように捉えられたユーモアは、いかんせん具体的な例が示されないために、細部に止まるユーモアの大半の魅力が失われているように私には思える。ただ、その論の進め方や言葉の端々が幾分滑稽のおかしみを誘うことはあって、たとえば、椎名麟三によるとキリスト教は絶望する人間に次のように答えるという、
君もそうなのか、ぼくもそうなんだ。三十億の人類を片端から殺してしまうだけでなく、人類というものを歴史のはじめから抹殺してやりたいくらいなんだ
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