「鬣」第24号に掲載された。
小生意気な映画観客の例にもれず、わたしはチャップリンを軽く見ていた。そしてまた、ご多分にもれず、喜劇とは、キートンはそれほどでもなかったが、マルクス兄弟やモンティ・パイソンのようなナンセンスで破壊的な笑いでなくては、と標榜していた。後にシーソーのように彼を上げ此を下げる愚を悟って、チャップリンはチャップリンだと思うようになったが、それでもそのチャップリンは初期の短篇や『独裁者』や『モダン・タイムス』のチャップリンで、『街の灯』や『ライムライト』の甘ったるくセンチメンタルなチャップリンは勘弁願いたかった。
ところが、最近この二本を見直してみると、甘美な音楽に引きずられてつい叙情的な気分に陥りがちなのだが、その内容は実に残酷で、初期の短篇となんら変わらないことに気づかされた。更に、チャップリンの不気味さ、薄気味の悪い手ざわりを味わわされることにもなった。
『街の灯』は、周知のように、花売りの盲目の少女を助けるためにチャップリン扮する「放浪紳士」が奔走する。金をつくり娘に手渡すことはできたが、無実の罪で牢屋に入れられてしまう。牢から出て、尾羽うち枯らし浮浪者そのものになった彼は手術して目が見えるようになった娘が開いた花屋の前を通りかかる。娘は彼が新聞売りの少年たちにちょっかいを出され、やり合っているのを見て
笑う。やがて彼は娘に気づく。娘は自分を助けてくれたのは大金持ちだと思っているので、浮浪者の彼を見てなにを気づくはずもない。浮浪者が持っている花の花瓣が散るのを見た娘は施しの金と一輪の薔薇を手に持って外に出る。彼は薔薇は受取るが、硬貨は受取ろうとしない。彼に近づいた娘はその腕を取り、手の真ん中に硬貨を置き握らせると優しくその手を包む。その手の感触から娘は彼であることを知る。
「あなたなの」「見えるようになったんだね」ここから映像は娘の肩越しに見えるチャップリンの顔だけになり、娘の顔は一切見えない。最初彼の顔は不安そうだが、やがて笑い顔に変わり、その顔が闇のなかにフェイド・アウトする。なんら将来の幸福を見通せるわけでもないなかでの、この満面の笑みは一体何を意味しているのだろうか。チャップリンの映画の中心にあるのは「世界からの分離を終わらせようとする願い」であり、スクリーンとは彼にとってこの分離をあらわす隠喩に他ならないと説く映画批評家のウィリアム・ロスマンは、「正体を明かすことによって、彼は彼女の夢になんら居場所がないという危険に直面するだけでなく、この視覚を得た実在の女性が彼の夢のなかでなんの居場所もないという同じくらい恐ろしい危険にも直面する」(「『街の灯』の結末」)と言っている。
つまり、まさしくこの映画を成り立たせていた幻想を打ち壊すことによって、ここでは生身のチャップリンがスクリーンを越えて我々に笑いかけているというわけである。しかし、その生身のチャップリンとは単純な「ヒューマニスト」などではなく、ヒトラーや殺人者を嬉々として演じる人物であり、その笑いは我々の共感を誘うものというよりは、人間の裂け目をさらけだしているかのように思われるのである。
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