『鬣』第15号に掲載された。
『俳句・彼方への現在』を読んで興味深かったのは、しばしば俳句の上手さについて言及されていることだった。実は、私が俳句を読んでいて一番わかりにくいのがこの上手さということなのである。具体例は忘れてしまったが、久保田万太郎が宗匠の句会で、一語二語のほんの僅かな手直しで、句の様子が見違えるように変貌したのに目を見張る思いをしたことがあって、なるほど、確実に俳句の上手さというのは存在するのだと感じたものだったが、それが、ひょんな折りに、俳句雑誌やテレビで行なわれているような添削が目に留まりでもすると、どこがどう良くなっているのか私には見当もつかないようなことが少なくなく、かつて万太郎の句会に感じた俳句の上手さというものの存在が(具体例を忘れてしまっていることもあって)急に曖昧模糊としたものになっていくのである。
俳句の上手さには、かつて、三島由紀夫が谷崎潤一郎にオマージュを捧げた際にもちだした、「質(カリテ)の問題」(「大谷崎」)が関係している。質とは「作品における仕上げのよさ」であり、作品の全体から言えば「二次的な問題」とされる。仕上げのよさにばかりこだわることはやや軽んじる意味も含めて職人的と呼ばれることもあろう。だが、もし、質が「文学の根本的な成立条件」であるなら、無駄な部分を取り除き、粗い表面にやすりをかけ、彫琢することに文学の本質的な部分があるなら、主題が第一にあり、仕上げが第二にくるという順位は無効になり、質は単なる技術的な問題ではなく、作家を絶対的な勝利に導く強力な武器となろう。質によって文学であることが保証されるなら、谷崎のように「質によってしか俗世間とつながらな」いことが可能となり、安んじて、女の背中に拡がる刺青であれ、ハンカチについた女の鼻汁であれ、女の足に踏みにじられる男の姿でさえ描くことができる。それをマニエリスムと言うことは簡単だが、マニエリスムと隣り合わせになっていないような上手さなど存在しないのである。更に、つけ加えておけば、俳句に上手さを導入することは、桑原武夫の「第二芸術論」に対する決然たる応答にもなっていると言えよう。というのも、畢竟するところ、「第二芸術論」の主張は、俳句には質の問題が存在しない、と言い変えられるからである。
かくして、この本は主義主張に則った党派性からは遠く、いわゆる「伝統派」の俳人たちも多く取り上げられている。しかし、当然のことながら、「伝統派」が伝統によって洗練されてきた感受性を規範としているからといって上手さの近くにいるわけではないし、より「前衛的な」俳人が伝統に対してある主張を唱えているところで、上手さから遠ざけられるものでもない。 この間の事情は、例えば、二人の俳人の上手さに対する評価の違いに読み取ることができる。「坪内稔典『百年の家』」では評価は否定的である。
あるいは「上手さ」という点では、これまでの作品集では一番かもしれない。もちろん、それは私に言わせていただければ、氏の「片言性」の追求による成果ではなくて、それだけ氏の俳句の価値観が既存の俳句の価値観に近付いた結果である。坪内氏に限らず俳句の上手さとは、ある意味で、いつもそうした既存の価値観との取引であり、妥協でもあるという側面を持っているのである。
ここでは、上手さが既存の価値観に奉仕してしまう危険性が指摘されている。上手さは「一般的に上手いと考えられているもの」とは異なる。上手さが個々の言葉の仕上げのよさによって得られるのでなければ、「一般的に上手いと考えられる」凡庸な作品となってあらわれるだろう。上手さは、確かに、ある価値観に基づかざるを得ないが、その価値観の水位は先行する無数の上手さによってたえず高まっており、上手さとはその水面から頭一つ飛び出ることによってしか獲得されない。
「摂津幸彦の『陸陸集』」では次のように書かれている。
・・・摂津の俳句に対する基本的なスタンスは今も同じように見える。つまり、俳句の現在性は、時代に対する違和感によって多かれ少なかれ、アナクロニズム性を持たざるを得ないが、摂津はむしろそれをも積極的に俳句の現在性として取り込んで俳句を書こうとしているように見えるからだ。だから、摂津の俳句の文体は従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なものである。そして、それゆえにこそ摂津作品を一読した後には、無自覚な結果としてのアナクロニズムの作品などからはことごとくその魅力を奪ってしまうような毒を含んでいるのである。
「従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なもの」という一節が、俳句における上手さというものをよく言いあらわしている。アナクロニズム性を「積極的に俳句の現在性」に取り込むとは、俳句の個々の言葉をアナクロニズムでくくる「既存の価値観」に照らして見るのではなく、いまここ生まれでたものであるかのように言葉と直面することにある。その結果として、同文のなかで引用されている高柳重信が言うような、「ときおり俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべき」事態が生じうるのであり、もしそうした瞬間に立ち会えたとしたら、上手さというものが俳句の必要にして十分な条件なのだと確信をもって言い切れる時間が僅かなりとももてるかもしれない。
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