十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて活躍したブラッドリーというイギリスの哲学者が、記憶の方向について面白いことを考えている。
記憶の方向というだけでは意味がわかりにくいが、つまり、我々がなにかを思い返すとき、なぜ過去から現在(仮に前方に向けて、と言っておこう)という方向で思い返し、現在から過去へ(仮に後方に向けてと言っておく)ではないか、ということである。
例えば、夜、今日一日のことを思い返すとき、我々は目覚めたときから今までの時間を辿り、その反対ではない。ごく当然のこととしてそうしているが、ちょっと考えるとこのことはそれほど自明なことではない。
実際、我々が時間の流れというようなことを考えるとき、未来がやってきて過去として貯えられていく、というように思う。時間の流れを川の流れのようなものだとしよう。そのとき、未来としてイメージされるのは水が流れてくる方向、上流であって、背後に流れ去っていくのが過去となる。だが、このイメージに基づけば、時間は後方に向けて流れていることになるわけである。
いや、流れだけを考えるとすれば、方向も消え去ってしまうだろう。川が上流から下流に流れていくことがわかるのは、水泡が流れ、必ずしも透明ではない水流の方向が見て取れるからで、言い換えれば、流れそのものではない流れに付帯するあれこれのものによって我々は方向を知る。いっさいそうしたもののない状況では時間の方向さえ考えることができない。
では、我々はなぜ時の流れに方向があると感じるのか。それは、我々が川の流れで知覚する水泡や水流にあたるもの、我々に関わる出来事があるからである。それでは、なぜ、過去を想起するときには前方に向けて思い返し、にもかかわらず時間は未来から過去へ、後方に向けて流れているように思われるのだろうか。
ブラッドリーの解答は、言われてみると拍子抜けがするほどあっけないものである。つまり、時の流れに流されながらも流れにのみ込まれて運び去られはしない自己があるためだということである。流れにのみ込まれてしまえば、出来事はあるが出来事の推移はなくなり、流れがあってもなくても同じことになってしまうだろう。我々は流されているから時と共に進み、新たな経験に出会う。前方に向けて想起するのは、出来事が我々の進む方向と同じ方向に向けて推移するため、我々が流されていくことをもとに出来事が推移する方向を理解しているためである。時間が後ろ向きに流れているように思われるのは、少なくとも出来事と同じ速さで変化することはない自己があって、その自己が出来事が通り過ぎていくのだと感じるためである、ということになる。
確かに、こう考えれば問題は一応解決されている。しかしながら、すべてが流れと出来事と自己との相対的な関係に基づいていて、確固とした根拠の上に立つものではないことに気づくとき、何とも曖昧な気分に誘われる。そして、この問題が扱われている短いエッセイを読み返して、何気なく書かれた冒頭に近い一節を読むと、曖昧な気分は更に方向を見失っていくように思われる。即ち、
私自身について言えば、そうした一般的な傾向があるという事実はもちろん受け入れるが、例外がないと確信しているわけではない。私は後方に向けて想起することが不可能であるとは信じていないし、時には現実に起きているのではないかと疑ってさえいる。
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