2013年12月15日日曜日

お手本と蝶つがい――内田百閒の俳句



作品抄出 三十句

水ぬるむ杭を離るゝ芥かな      『百鬼園俳句帖』

うらゝかや藪の向うの草の山

麗らかや橋の上なる白き雲

袋戸棚に砂糖のにほふ日永哉

浮く虻や鞴の舌の不浄鳴り

捨て水に雲の去来や飛ぶ胡蝶

犬聲の人語に似たる暑さ哉

欠伸して鳴る頬骨や秋の風

五臓六腑繪解きの色や秋の風

饂飩屋の晝來る町や暮の秋

俯せり寢の此頃の癖を蚊帳の果

毛物飼へる夜怖れのあり枯野人

庭先を汽車行く家や釣り干菜

麗らかや長居の客の膝頭        『百鬼園俳句帖拾遺』

晝酒の早き醉なり秋の風

丘に住んで秋雲長き晝寢哉

コスモスに空高し山の手の露地

橋と橋の間の道の小春哉

獨り居の夢に尾もあり初枕

さみだれの田も川もなく降り包み

砂濱を大浪の走る夜の長き

春立つや犀の鼻角根太りて        『俳句全作品季題別総覧』

立春の大手まんぢゆう少し冷たき

ぞろ/\と楽隊通る日永かな

短夜の狐を化かす狐あり

大なまづ揚げて夜降りの雨となり

新堀の河童の床の魚骨哉

龜鳴くや夢は淋しき池のふち

龜鳴きて亭主は酒にどもりけり

がぶがぶと茶をのむ妻の夜寒哉



 内田百閒の生まれたのは岡山の大きな酒屋で、使用人のなかには俳句を好む者もいた。発句の会で選に入ると持ち寄った会費を取ることができたというから、賭博的な性格もあったらしい。

 俳句を作り始めたのは、本人の記憶しているところでは中学校のときで、「輪くぐりの用意に急ぐ湯浴みかな」という句がその頃のものだという。もっとも、本格的に取り組みだしたのは、第六高等学校に俳人でもある志田素琴が教師として赴任してきてからのことで、一度始めると徹底的にしないではすまされない百閒の性格をあらわすように(琴、鳥の飼育、猫、飛行機、列車、酒、食物などとの関わりを見ればわかるように)、一夜会という句会を、最後には友人と二人きりになって百回まで続けた。俳句だけが原因かどうかはわからないが、学年試験で成績を落とし、素琴先生から苦い顔をされたこともあった。それ以降、高校時代のように集中して句作に励むことはなかった。

 昭和九年の『百鬼園俳句帖』、十八年の『百鬼園俳句』編纂の際、「百閒先生が自ら選外とされた句、句集以後諸雑誌に発表された句、または書簡・真蹟などの遺珠をもひろく蒐集して」、判明している「百閒先生の俳句の全部」を収録した『俳句全作品季題別総覧』に収められたのが四百八十四句であるから、小説家としては少なくないとしても、八十年を超える生涯でコンスタントに俳句とつきあっていたとすると決して多いとも言えない句数である。

 少々意外に感じ、しかしながら、思い返してみるとさもありなんとも思われたのは百閒の俳句への取り組み方が窺える次のようなエピソードである。句集を出すことになったとき、百閒は高校時代の句をほとんど落選させていったが、「幼稚だけれども、捨てるに忍びない」ものがある。その一句に「湧き出づる様に水出ぬ海鼠切る」というのがあり、迷ったあげく「滾滾と水湧き出でぬ海鼠切る」と直した。すると、今度は「妙な事が心配に」なってくる。

かう云う古い、昔に作つた句は、その当時に、きつと何人かのお手本があつて、それを句作の指針にして、同じ題のものを、幾つも試たに違ひない。習作の当時を回想するに、先人の秀句を一つ真中において、その廻りを同じ様な興趣と句法に縛られたなり、ぐるぐると廻つてゐなかつたとは云はれない。その場合、一番ぴつたりした、適切な表現は真中においてある先人の句なので、その通りに云つてしまへば、最も簡単であるけれど、それは人の句であるから、さうは行かない。それで止むなく、舌足らずの、よちよちの、興趣も徹しない類句をいくつも作つて、その中で、ましな奴が覚え帖に残つてゐたものとすれば、今それから仮りに十年を経過してゐるとして、その間に私は当時
の句作上の行きさつや、縛られてゐた綱の事などみんな忘れてしまひ、ただ私の句の稚拙なところだけが、十年後の目に、はつきりとわかる。かう直せばいいと思つて、直した結果は、その昔、真中において、お手本にした句そのままになつてゐるのではないか。そのお手本だつた句も、勿論私は忘れてゐる。句は忘れて、さうして既に知つてゐるのである。だから今直した結果同じものが出来ても、自分にはそれが解らない。古い句を直すのは危険である。
        「海鼠」 (『無絃琴』所収)

 もちろん、俳句が今日ほど「自由な」ものでなかったことは考慮に入れねばならないが、小説のように「創作」するのでも、吟行で詠み捨てていくのでもなく、季語を決め、お手本を前にして、類句を沢山作りながらお手本に近づくことを心がけていたらしいかなり保守的な勉強法が見て取れる。実際、『冥土』や『旅順入城式』といった短編の「幻想」をその俳句に期待するとはぐらかされるだろう。しかも、百閒というと中年から老年にさしかかり、生活スタイルの定着した頃の印象が強いために、つい必要以上に昔の人だと思いがちであるが、俳句に写生以外のものを持ち込んだ、例えば、山口誓子や西東三鬼のような俳人と年代的には一回りも違わないのである。

 こうしたことを心に留めておくと、いわば自分のことは棚に上げて百閒が「文壇人の俳句」に厳しい評価を与えているのも驚くにはあたらない。師である漱石についてさえ、「俳人漱石をさう高く買つてゐない事は、明言し得る」と言いきっている。なぜ「文壇人の俳句」が「殆ど駄目」なのか。

画家の書が本当の書を見る目で見ると、いけないと云ふのと同じであつて、つまり画家は、既に審美眼が出来上がつてゐる。自分の審美眼に合ふ様に字を書く。だからその書は形の整つた、或は趣きを具へた、或は古拙に見える色色の特徴で、一部の人に愛好せられるが、しかし書の美は、その書格の中から生まれ出る可きものであつて、あらかじめ字の恰好なり効果の美を知つてゐる人の書いたものは、さう云ふ点でどこかしら本来の味を失つてゐる。つまりどう云ふ風に書けばどうなると云ふ判断の働く事がいけないのであつて、文壇人の俳句は正にその弊を具へてゐると私は思ふのである。俳句の上手下手は、句法なり措辞なりだけで定まる事のないのは勿論で、昔によく云つた境涯と云ふものに達してゐなければ作れるものではない。文壇人は文士であり、文士は言葉を扱ふ者であるから、俳句の作法を聞けば、自分の豊富な語彙を以て何とか尤もらしい句形を整へる事は出来るのであるが、その十七音が俳句になる前に既に作者の方に一つの標準があり批判があり、それに当て嵌めて俳句を捏造する、盛んになればなる程、さう云ふ第二義の句が人の目にふれ易いので、成る可くならば余り流行しない中に下火になる事を私は祈つてゐる。
     (「百鬼園俳談義」 『鬼苑横談』所収)

 『冥土』や『旅順入城式』の悪夢のような雰囲気を俳句に移しかえることも或いは可能であるかもしれないが、そうしたところで、小説家としての「審美眼」を俳句に当てはめているに過ぎない。つまり、百閒にとって、俳句というのは、琴や習字などと同じく「お稽古事」として始めるしかないものであり、お手本を何回もなぞることで、その形を完全に肉体化することができたときに始めて個性があらわれてくる類の実践である。我流の学習でどれだけ「個性」らしきものを出したとしても、それは俳句の「格」を損なう手癖でしかないのである。「文壇人の俳句」というのは、多くの場合、あまりにその小説と似ており、「小説的」であることと小説を通じてあらわになるべき「個性のしるし」がついていることで二重に俳句を裏切っている。こうした意味で、百閒の俳句がその小説に似ていないことは、百閒の俳句に対する考え方の必然的な帰結である。

 さて、「百鬼園俳談義」(文字通り、百閒の談話を筆記したものであるが)には、こうした意外に思われてもよく考えれば必然性のある厳格さとは対照的に、一見したところいかにも百閒らしいが、その意味するところを辿ると『冥土』の世界に誘い込まれたかのような落ち着かない気分にさせられる発言がある。冒頭、百閒は、人口に膾炙した四句、古池や蛙飛び込む水の音、荒海や佐渡に横たふ天の川、名月や畳の上の松の影、指南車を胡地に引去る霞かな、をあげて評釈している。「この古池を読んでゐると、少し可笑しくなつて来る」と始まった時点で、何か漠とした不穏な雰囲気が漂っている。

古池と云ふものが、考へ方によると、可笑しなものであつて、水際ははつきりしてゐない泥の崩れた様な所で、水面には、この俳句から考へると春の事であるから所所に水草が芽を出してゐるであらう。晴天なら晴れた空を映してゐる。古池の上に空が晴れてゐると云ふのも、想像の上で少し可笑しい。又曇つてゐて、雲が池の上にかぶさつてゐるとか、或は風が吹いて水面に波が立つてゐるとか、さう云ふ景色を此方で古池と云ふものにこだはつて思ひ浮かべて見ると、どうしても滑稽な感じが伴なふ。仮りにその池の辺りを歩いてゐるとしたら、さうしてさう云ふ事に想到するとしたら、人のゐない所で独笑ひが浮びさうに思はれる。その古池に蛙が飛び込んで、静寂を破る水音を立てた。それは幽玄の黙示であると云ふ風に、古来解説せられてゐるが、又さうでないとも云はないが、しかし一寸気を変へてその景色を味はふと、芭蕉と云ふ人も随分可笑しな事を云ふものだと考へられる。段段その考へにこだはると、心の中で古池の句を繰り返すだけで、可笑しくて堪らない。

 「荒海や」の句については、「壮大と云ふ感じは勿論受けるけれども、それも一寸気を変へて読み直すと、暗い荒海の上に天の川が光つてゐると云ふのは、滑稽な景色である」と言い、「名月や」の句については、「名月が松の向うから松の樹を照らし、松がその影を開け広げた座敷の畳に投げて、それを誰かが見て、この句に盛られた様な感興を抱いたとすると、笑はずにはゐられない」と言う。そして、最後には、「さう云ふ事を気にしてゐると、心に浮かぶ古来の名句が今まで気の附かなかつた様な可笑し味を誘ふのである」と述べる。

 もし古来の名句が、すべて「可笑し味」や「滑稽」さを湛えたものであり、いわゆる俳句的な「美意識」の伝統と呼ばれるものが、「滑稽」を生みだすための組み合わせを洗練させてきたものだとすれば、名句を手本にし、修練を重ねるとは、最も深く効果的な無意味さを身につけるための必須の手順であることになる。俳句が小説的な要素を斥けるべきなのは、洗練されてきた俳句の無意味が小説的意味によって汚染されてしまうからであり、我流の個性が俳句にとって百害あって一利もないのは、個々の特殊な気質や利害得失によって限定された無意味が底の割れた私的な無意味でしかないからである。

 『冥土』などの短編では、その多くで、丹念に積みかさねられた描写が、「水を浴びた様な気持ちがした」「怖ろしくなつて来た」などという一文をいわば蝶つがいとして、別の世界へと反転してしまう仕組みが見られる。言い方を変えれば、小説のような有意味性を基盤とする形式では、或いは、小説のような雑多な要素が混在する形式では、蝶つがいになるものがなければ、「水を浴びた様な気持ち」を引き起こす「怖ろしい」無意味を現出させることができない。一方、俳句のようにこの上なく切り詰められた純化された形式では、お手本を身体にたたき込み、意識することなく「可笑しな事を云ふ」訓練を積むことで、形式に密着にした生の無意味さをあらわにすることができる。しかしながら、実は、こうした考え方では、古来の名句を「滑稽」だと感じる百閒の意識が別世界へと裏返る蝶つがいの役割を果しているのであり、期せずして百閒の小説家としての眼が働いてしまっているのである。

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