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2015年2月1日日曜日

ブラッドリー『論理学』114

 §9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には我々の間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反対が見当違いであると主張しなければならない。どちらの場合でも、主語はある意味決定されている。この決定が(それがどこからくるにしても)主語に肯定的な性格を与えるのであり、それが否定の土壌となるのである。どんな主語も、呈示されたものを単にそれではないという力でもって追い払うことはできない。それゆえ、「これではない」は「他のなにかである」を意味しなければならず、それによって不在を否定の土壌とすることができる。何ものでもない何ものでもないものはなにかである、あるいはなにかである根拠などないことには我々皆が同意することだろう。

 こうした区別は我々がよって立つ原理には関係ないが、それらが重大な難点をもたらすことを私は認める。続く章のためにも、ここで我々の考えを明確にしておいたほうがいいだろう。(i)第一に、「対立」がある場合、主語が呈示される述語をはね返すのは、主語には述語が占めるだろう場所に相反する性質があり、それによって述語を排する。ある人間が青い眼をもっているなら、青という性質は茶色の性質とは両立不可能である。(ii)欠如では、二つの場合が可能である。第一に、(a)主語の概念内容のなかに、性質が収まるべき空所がある。目のない人間がいたとき、人間という概念内容には彼に目があったらそこにあるであろう場所が含まれている。この空虚は文字通りの空白とは言えない。瞼に覆われた眼窩や不自然なところのある外観を表象しなければならない。そして、概念内容そのものが目があることとは対照的なある性質を獲得し、それは無であるかもしれないが、それ自体肯定的な性格をもち、視覚という呈示をはね返す助けとなる。

2015年1月29日木曜日

ブラッドリー『論理学』113

 §8.「欠如」と「対立」との区別(シグヴァルト128頁以下)も、我々が述べたことの本質を変えはしない。欠如の判断においては、「赤」という述語は、主語となるものには赤がないことによって否定される。主語はまったく色のない暗黒かもしれない。しかし、「赤」が、主語が「緑」であるために否定されたのだとすると、排除し合う対立する性質が現前することになり、判断は現にある対立に基づいていることになる。この区別は、後に別の文脈で見ることになるが、最も本質的なものである(第六章、第三巻II.第三章§20参照)。しかし、いまの我々の問題には関係ない。どちらの場合にも、主語はある性質をもつものとされている。つけ加えられることでも削減されることでも個別の性格は破壊される。もしある物体が色がないために赤ではないなら、色をつけ加えることは我々がいま見ている物体を破壊することになろう。公平に言って、この述語が受け入れられれば、主語はもはやあるがままの主語ではなくなるだろう。もしそうなら、結局どちらの否定も矛盾する性質や性格から始まっていることとなろう。

2015年1月25日日曜日

ブラッドリー『論理学』112

 §7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればその性質が変わってしまう。Bが破壊してしまうこの性質によってAは自らを持しているのであり、呈示を退けるのである。別の言葉で言えば、性質xとBとは矛盾する。そして、Aにこの矛盾をもたらす性質があることをあらかじめ認めていなければ、Bを否定することはできない。

 しかし、否定判断においては、xは明らかにされていない。AのなにがBとの両立を不可能にするのか我々は言わない。尋ねられても、しばしばその隠れた障害を指摘し、見分けることができないこともある。ある場合には、どれだけ努力してもそれが不可能なこともある。Bが受け入れられれば、Aはその性格を失うが、それ以上のことはわからないのである。否定の土壌は言明されていないだけではなく、知られていない。

2015年1月22日木曜日

ブラッドリー『論理学』111

 §6.我々が後に(§16)非Bを独立した述語として用いるときにも更なる反対が起るだろう。しかし、ここではもう一つの誤りの基盤となっているものを明らかにせねばならない。否定は「繋辞にだけ影響を及ぼす」と言われる。最初にそれがなにを意味するのか尋ねる必要がある。それが言った通りのことなら、繋辞が欠けていることもあるので、これをすぐに退けることができる。肯定的に「狼だ」と言うときにも繋辞は存在しないし、否定的に「狼じゃない」と言うときにも繋辞はない。しかし、それが意味するのが、否定と肯定とがあるレベルにある判断の二つの種類だというなら、その発言を修正する必要がある。こうした二つの異なった種類の判断が存在することはまったく正しい。肯定判断は主語を性質づけ、否定判断は同じ性質を排することで主語を性質づける。かくして我々は二種類の肯定的関係を得る。しかし、それを同じレベルに置くとき、間違いが生じる。否定の条件として既に総合を仮定していなければならないというのが正しいだけでなく、加えてもう一つの反対意見がある。否定の真理というのは最終的にはある性質の肯定にあると見ることができる。それゆえ、肯定と否定は同じレベルに立つことはできないのである。「AはBではない」における真の事実とはAに属し、Bとは両立できない性質xである。否定の基礎にあるのは、実際には、(x)を排除するある性質の肯定である。それは、既に我々が見たように、単なる排除の性質(非B)の肯定ではない。

2015年1月18日日曜日

ブラッドリー『論理学』110

 §5.このことからそれに対応した間違いに移ることができる。肯定判断が否定において前提とされているというのが間違いなら、述語だけが影響を受けるのだから、否定そのものは一種の肯定であるとするのも同じように間違いであろう。後でこの教義にある真理を見ることになるが、ここで仮定されているような形では我々には受け入れることができない。ある種の性質をもつ事実によって排除を行なうことは特殊な表現を要求する過程である。そして、「AはBではない」を「Aは非Bである」に置き換えることで問題を単純化するように求められても、明らかな難点を見いだすだけである。Aが非Bを受け入れることを知るためには、AがBを排除することをあらかじめ学んでいなければならないのではないか。もしそうなら、我々は最初に否定することによって否定を肯定に還元し、それから否定していることを肯定することになる。この過程が適正であることは間違いないが、還元や単純化とはとても言えないだろう。

2015年1月15日木曜日

ブラッドリー『論理学』109

 §4.しかし、この真理の知覚は我々を誤りには導かないに違いない。我々は否定は存在する判断の否定だとは決して言わない。というのも、判断には信念が含まれているからである。我々が否定するものは一度は信じられていなければならない、ということではない。また、信念と不信とは両立しがたいものなので、否定判断は、その存在や消失によって否定そのものを取り除く要素に依存する形でつくられるのかもしれない。我々が否定するのは観念の実際の事実への指し示しではない。かく性質づけられた事実の観念であり、否定はそれを排除する。それが追い払うのは提案された総合であり、真の判断ではない。

2015年1月11日日曜日

ブラッドリー『論理学』108

 §3.それぞれの判断の根源に帰り、その初期の発達を考えてみれば、両者の違いは明らかになる。肯定の初歩的な基礎となるのは観念と知覚との合体である。しかし、否定は単に観念と知覚との非合体というのではない。単に実在を指し示すことのない観念や観察されない相違が現存しているというのではなく、最初の否定の基礎にあるのは指し示すことや同一化の失敗である。現前する事実を性質づけようとした観念が排除されることから否定は始まる。否定が始まるのは実在についての試みにおいてであり、性質づけへの困惑混じりの接近においてである。この試みの意識にはそこでなされる提案が含まれているだけでなく、提案の対象である主語となるものが含まれている。かくして、反省の階梯においては否定は単なる肯定よりも高い位置を占めるのである。ある意味より観念的であり、魂の発達においてより後期になって存在するようになる。

2015年1月6日火曜日

ブラッドリー『論理学』107

 §2.後に見るように、否定を肯定に還元したり派生物としてみることはできないが、両者を同格と考えることは多分間違っているだろう。それは、以下に見るように(§7)単に否定が肯定を前提としているということではない。それは反省の異なったレベルにあるのである。肯定判断では我々は概念内容を直接に実在に帰することができる。ある観念、あるいは諸観念の総合をもち、それを現前にあらわれる事実の性質として示すというのが我々のしたいことだった。しかし、否定判断では、実在への概念内容の差し向けそのものが観念でなければならない。Xという事実とa-bという観念が与えらえたとき、すぐにa-bをXに帰することができる。しかし、単にXとa-bをもっている限り、Xについてa-bを否定することはできない。否定するためには、関係の肯定があらかじめ示唆されていなければならないからである。a-bによって性質づけられたXの観念をx(a-b)と書くことができるが、それはXがはね返す観念内容であり、我々が否定判断で否定するものである。

 肯定判断では真の主語は常に観念化されているのは間違いない。我々は現前にあらわれる全体から選択し、言及していない要素を意味する(第三巻I第六章§12)。ある木を指し「緑」と言うとき、その主語は同じ対象が「黄色」だという提案を退けるときと同じ程度に観念的だと主張されるかもしれない。しかし、それは重要な相違を無視している。実在の現前する統一のなかにある木は、同時にある性質を示唆するものとして受けとられる。私は常に決定を中断され、全体を観念として考え、まず最初にこの木は緑であるか、と尋ねた後でその木が緑の木だと決定するわけではない。しかし、「黄色」が否定される否定判断では、木と「黄色」との肯定的な関係がその関係の排除に先行していなければならない。判断は決して問題を先取りすることはできない。私は常にそうした反省の段階にいなければならず、時に肯定判断を否定することもある。

2015年1月1日木曜日

ブラッドリー『論理学』106

第三章 否定判断

 §1.前章の長い議論の後なので、我々になじみのある一般的性格をもつ判断のなかで手早く扱うことのできるものを取り上げよう。他の様々な判断と同様に、否定判断は知覚にあらわれる実在に依存している。結局、それはある観念内容を受け入れることを主語であるものが拒絶することにある。ある仕方で性質づけられ決定された実在というのが提案され、その提案を実際の実在に適用することを拒むのが否定判断固有の本質である。

2014年12月28日日曜日

ブラッドリー『論理学』105

 §81.そろそろ空間や時間における現象ではない個的なものに関する判断について考慮するのをやめる時期である(§41)。結局我々は仮言的でないような判断を手に入れることができたのだろうか。個的な実在に直接に属性を示すような判断が、本当に真にそうしたものだと言えるのだろうか。そこでは、諸要素の実際の存在を主張し、誤りではない陳述を見いだすことができたろうか。定言的に真であるものとは最終的には、「自己は実在である」あるいは「現象は魂の魂に対するあらわれを越えるものではない」といった判断に発見されるのだろうか。実際にもしそうなら奇妙なことに思われるだろうし、結局本当に奇妙なのは我々の心だということになろう。

 しかし、ここではこうした問題に答えることはできない。定言的に真であるものがどこにあるのか「ここにあるのか、あるいはどこにもないのか」を尋ねてから始めてそれには答えることができる。

2014年12月24日水曜日

ブラッドリー『論理学』104

 §80.しかし、我々がより低次の見方にとどまるなら、判断の真理を精査することに同意しないなら、個的な事実に関する主張をそのまま受け入れるつもりなら、その場合我々の結論は違ってくるだろう。抽象的判断はすべて仮言的となるだろうが、知覚に与えられたものを分析する判断はすべて定言的となろう。知覚を超えた時間や空間についての総合判断はその中間に位置することになろう。それらは普遍の強さについての推論を含み、その限りで仮言的な性格をもつに違いない。それらはまた厄介な仮定を含み、知覚と観念との概念内容の要素に同一性を認めねばならないだろう。この仮定が強力であれば、普遍は所与と関わりをもち、「もし」が「なぜなら」に変わり、総合判断は定言判断と呼ばれることになろう。この二つの判断のクラスは一方が個的な事実に関する、他方が抽象的あるいは性質に関する主張であることとなろう。後者が仮言的で前者が定言的である。

2014年12月20日土曜日

ブラッドリー『論理学』103

 §79.そろそろいままでの苦難に満ちた探求で得た結果をまとめるときである。もし我々がある主張の究極的な真理を考えるなら、我々の見る限り、ありのままの定言判断は完全に消え去ってしまう。個的と普遍的、定言的と仮言的の区別は破られてしまう。すべての判断は定言的であり、実在を肯定し、そこにある性質の存在を主張する。また、すべては仮言的であり、そのうちのどれ一つとして実在の存在にその要素を帰することができない。すべては個的であり、総合の基盤を形づくるこの性質を支える実在そのものが個体であるからである。またすべては普遍的であり、主張される総合は個的なあらわれを提供しつつそれを越えている。それらはすべて抽象的であり、文脈を無視し、複雑な感覚の状況を取り除き、性質を実体化している。だがまた、すべては具体的であり、そこには、現前における感覚的財にあらわれる個的な実在に関する真以外にはなにもないからである。

2014年12月16日火曜日

ブラッドリー『論理学』102

 §78.科学の実践は我々の長きにわたる分析がもたらした結果を認めている。科学で一度真であったものは永久に真である。科学の対象は瞬間瞬間の知覚が我々にもたらす複雑な感覚される現象を記録することにはない。これやあの要素が与えられたときにはなにかが生じるという普遍的に妥当なことを言うために、概念内容のつながりを得ようとするのである。そうした抽象的な要素を完全な形で発見し、高次のものから低次のものへと配列するよう努めるのである。前に使用した用語を使うなら、科学の目的とは「これ性」を一掃し、所与を抽象的な性質の観念的総合として再建することにある。その始めから、科学は観念化の過程である。そして、実験は、遙か昔にヘーゲルが語ったように、事実を一般的な真理に昇華させるがゆえに観念化の道具なのである。

 一般的な生活でも科学でも同様に、判断は最初は新鮮な事例に適用される。それは始めから普遍的な真理である。もしそれが本当に個別的なもので、それが生じた事例に完全に限定されるなら、使用が不可能で、なかった方がよかったことになろう。個別の判断でしかないものなど実際には存在しないのであり、もし存在しても、まったく価値がないであろう(第六章と第二巻参照)。

2014年12月11日木曜日

ブラッドリー『論理学』101

 §77.しかし、それはまだ非常に低い位置にいる。知覚に関するあらゆる判断がある意味普遍的であり、そうでないなら、それを推論の基礎として使用することはけっしてできない。陳述は個別の事例を越え、「これ」、「ここ」、「いま」とは関わりなく真である性質の関係を含んでいる。もしその観念内容をこの実在に帰するなら、それが単称的であることは間違いないが、もしそれを観念内容の内部における総合を主張しているととるなら、知覚を超えている。というのも、同じ条件であれば、いかなる場所でも同じ結果が得られるだろうからである。総合は、ここやいまにおいてではなく、普遍的に真なのである。

 だが、この真理は、性質の関連が事物に浸透したものであるために、最も基本的なものである。)概念内容は無限の関係に満ちており、我々の陳述が仮定する最初の曖昧な形では、一方において総合とは関わりのない要素を考えに入れることになり、他方ではそれを構成するのに必要なものを取り逃がしてしまうこともある。例えば我々は「このものは腐っている」と言う。しかし、それはこのものであるために腐っているのではない。実在の関連はもっとずっと抽象的である。また、そこにあるだけの他からの影響を受けないなにかのために腐っているのでもない。一方では我々は不必要な細部をつけ加え、他方では本質的な要因を取り逃がしている。ある場合には、我々は「実在とはこうしたものであり、abcが与えられたとき、dがそれに続くだろう」と言うが、実際のつながりはa-dでしかないのである。また別の場合には、aがbと必然的なつながりをもっておらず、総合の真の形はa(c)-bであるのに、「この関連はa-bである」と言う。科学的な正確さの基準から言うと、最初の形は常に間違いであるに相違ない。それは少なく言い過ぎているか、多く言い過ぎているか、あるいはその両方である。上の段階に登るには無関係なものを取り除き、本質的なものを当てることでそれを修正しなければならない。

2014年12月7日日曜日

ブラッドリー『論理学』100

 §76.単称判断の唯一の希望は完全な断念にある。仮言的であっても、抽象的判断は自身よりも真であることを認めねばならない。判断のクラスの最も低い位置で満足しなければならない。その要素で実在を性質づけることをやめ、一般的な形容のつながりを認めることだけに専念し、個別の存在からは離れなければならない。「ここに狼がいる」や「この木は緑だ」で「狼」や「緑の木」が実在する事実であることを意味するのではなく、狼とその状況にある諸要素との、「緑」と「木」との一般的な関係を主張しなければならない。それを個別的な事実に関するいかなる参照もなしに、抽象的な意味において行なわなければならない。その低次の基本的な形においてそれは科学的法則に向かうが、その元々の主張は完全にあきらめ、真理への階段に足をかけるのである。

2014年12月3日水曜日

ブラッドリー『論理学』99

 §75.その主張を和らげ、仮言判断に対する優越をあきらめ、自ら条件的でしかないことを認めようとしない限り希望は残されていない。しかし、彼は前途に待ち受けている降格をまだ知っていない。そこで次のように、「自分が定言的でないのは確かである。私の概念内容は条件づけられており、『なぜなら』が私の手のなかで『もし』のまわりを回っている。しかし、少なくとも、私は抽象的な仮言よりはすぐれている。というのも、それは要素が実在であるとさえ認められておらず、系列の残りの条件に従っているのに対し、少なくとも私の概念内容は事実であると認められているからである。つまり、少なくとも私は存在を主張できるし、私の立場を維持するのである」と言うかもしれない。

 しかし、この主張は錯覚である、というのも、もし個的な判断がこのようにして仮言的になるなら、その概念内容についていかなる存在も断言されないからである。もしそれがなされるなら自己矛盾であるが、このことを説明してみよう。

 定言判断の概念内容a-bは実在の存在に直接に帰せられた。抽象的普遍的判断a-bはaにもbにも、またその実在との関係にも帰せられない。それはある性質xに帰せられるだけである。問題は、定言的なa-bが仮言的なものに変わったとき、a-bはある条件下にいるにもかかわらずまだ存在を要求できるのだろうか、あるいは、存在を無視した普遍的なa-bにならなければならないのだろうか。後の場合であれば、単に「aが与えられたときb」ということになる。しかし、前者の場合だと、「別のなにかが与えられたとき、a-bが存在する」ということになる。この主張の錯覚はさほどの間違いには思われないが、自滅的であることを示してみたい。

 ドロビッシュ(『論理学』§56)は、ヘルバルト(Ⅰ.106)に従い「Pが存在する」という判断を「なにかがどこかに存在するとき、Pが存在する」と翻訳する。私はこの翻訳が不正確だと考える。というのも、暗黙のうちになにかが存在することを仮定し、それゆえ実際にはいまだ定言的だからである。もし我々がこの翻訳を感覚の事実に適用するなら、そこで実際に仮定されているのは他の現象の完全な系列であり、翻訳は「もし他のすべてのものが存在するなら、Pが存在する」とならなければならない。しかし、この主張は自滅的であり、既に見たように(§70)「他のすべてのもの」が実在する事実であることは決してあり得ない。それゆえ、存在の仮言的な主張は存在できない条件に依存していることとなる。ところで、誤った仮定の結論が間違いでなければならないというのは真ではない。しかし、不可能な基盤が存在の唯一の条件だとされたとき、遠回しにではあるが存在が否定されていることは確かに真である。前に見たように、個的な判断は定言的だと捉えられたときには誤りだった。そしていま、仮言的に捉えた場合、肯定ではなく否定が、あるいは少なくとも否定の方が真だと示唆されるのを見た。

2014年11月29日土曜日

ブラッドリー『論理学』98

 §74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一のものではないのである。現前とは我々と実際の実在との接合である。存在する事実として感覚知覚の要素を受け入れることはある種の接触ではあるが、唯一の接触法ではない。

 仮言的判断には、実在は与えられているという意味がある。というのも、我々は諸要素の関わりのうちに現前を感じ、実在にその性質を帰するからである。現前から我々は要素を取り上げ、それを事実として受けとるわけではないにもかかわらず、仮言的判断は最終的には直接の現前に依存しなければならない。実在の財物を保持できるのはその総合だけで(§50)、その総合の基盤となる知覚において我々は実在と直接に接する。この接触が分析判断の支えとなるものより直接的であるかどうか問おうとは思わない。しかし、いずれにしろ、より真であるとは言うことができる。真理とは究極的な実在において真であるものだからである。超感覚的な究極的性質について主張できることは多くないが、いずれにせよ、その主張は間違っていないように思える。他方、感覚の分析判断について定言的に主張されることは真ではない。それが主張する概念内容は我々の知る限り実在ではない。この意味において、個的な判断に希望は残されていない。

2014年11月25日火曜日

ブラッドリー『論理学』97

 §73.「それは反省の産物に過ぎない。我々にあらわれる通りのものを事実ととって満足すれば、それを感じたままにしておけば、我々は失望することはない。過去からの宙に浮いた糸によって支えられることもないし、幻影的要素の途絶えることのない関係の消え去りゆく網の目のうちに滅ぶこともない。感覚にあらわれる実在はそれ以上のものではないのである。それは自律しており、個的で完全、絶対的にして定言的である」と言われるかもしれない。ここではこの発言を論駁しようとは思わない。我々は所与が知的な改変なしに与えられたのか、我々に観察し見ることのできるものは我々が既に干渉したものではないのかについて答えるよう求められているわけではない。ここでそうした問題を取り上げる理由はない。また我々は有能な形而上学者よろしく、理性に心酔し、感情を軽侮しているのでもない。失意の感情が感覚の真理に対する反抗の先頭に立つと論じることにためらいを感じるものでもない。ずるがしこい頭に最初のいぶかりの声を上げるのは悩ましい心だった。

 お望みなら、我々が感じる通りの実在が真なのだと言ってもいい。しかし、もしそうなら、すべての判断は間違いであり、あなたの単称判断は眠りにつくだろう。我々のいまの目的ではあなたの主張を認めてもいいが、それが我々への異議として申し立てられているなら、質問を返したい。それがどうしたというのか。そう言っているのは誰なのか。こうした非難をできるほど誰が反省という罪から自由であると自負しているのか。言ったことの結果を考えないような人間は確かにいる。拙劣な分析と独りよがりの形而上学が詰まった本を書く作家もいる。「経験」に情熱を燃やす思想家が自分の一面的な理論に自負をもち、感覚される事実への忠誠心がそれを未消化な反省の結果と区別できなくしていることもある。

 現在我々に仮定され、形而上学が論じるだろうことは、現象とは最終的に我々が考えざるを得ないものであり、我々の思考の最後の結果は真であるか、そこで我々がすべての真を手に入れるかということである。実在にとって確かな根拠となるのは反省の始まりではなく終りである。我々の心はそれ以上のことを決することはできない。実在についての我々の思考は、分析判断のレベルにとどまっている限り批判に耐えられないだろう。我々が信じずにおれないのは、後の、よりよい反省の結果、少なくともこの判断は真でないことが確証されることにある。現象の系列の全体や部分を実在の性質と主張することは間違った主張である。

2014年11月21日金曜日

ブラッドリー『論理学』96

 §72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あまりに微妙な雰囲気のなかに溶け込んでしまうので、無視すべきではある。しかし、私はこの区別を撤回したくはない。これは思考のあるレベルにおいては適正である。論理的探求の通常の目的にとっては、総合的および分析的な個々の判断は定言的であり、ある意味普遍的判断に対立すると捉えた方が便利であろう。

 しかし、論理学の諸原理に更に踏み込み、判断のクラスがそれぞれどのように関連しているかを考えざるを得なくなったとき、上述のような疑問を掲げないとしたら、我々が間違っているのは確かである。我々が区別の基盤をもっていると知っただけでは十分ではない。それが真の基盤であるか尋ねなければならない。それは区別する地点以上のものではないか。それはまた事実ではないのか。概念内容を照らしだす現前の光は、我々がそれを写し取ったときにもその真実性を保証するのだろうか。現前する現象、現象の系列は実際の実在であろうか。そして、いずれの問いの答えも否定的であることを我々は見てきた。感覚に与えられたものを判断においてとらえることができたとしても、我々は失望するだろう。それは自律的ではなく、それゆえ非実在であり、実在はそれを現象の無限の過程において越え、それと共に消え去ってしまう。(言うならば)知覚においてあらわれる実在は、現象でも現象の系列でもない。

2014年11月17日月曜日

ブラッドリー『論理学』95

 §71.かくして、分析判断はすべて虚偽であるか条件づけられている。「条件づけられているというのは疑わしい言葉だ。結局のところ、それは仮言とは同じではない。事物は仮定によって条件づけられもするし、事実によって条件づけられもする。ここには『もし』と『なぜなら』の間の相違がある。ある発言が別の発言の真実の結果真であるなら、両者は共に定言的である」と言われるかもしれない。この区別の重要性は私も認めるし、それについては後で考えなければならない(第七章§10)。しかし、いまの議論との関わりではそれを否定する。

 この異議は次のような主張に基づいている。「現象の系列において、すべての要素がそれぞれ残りの自分以外の要素と関係しているにしても、判断は定言的であることができる。自分以外の要素は、判断に組み込むことはできず、結局それがなんであるか知ることができないし、思考のなかにあらわすことはできないが、にもかかわらずそれは事実である。そうであるなら、発言は真である。というのも、それは「もし」ではなく「なぜなら」に基づいており、それはまだ知られていないにしろ、実在であるからである。分析判断の相対性、形容詞的で依存的な性格を認めたとしても、何とかなり、定言的なままだろう。」

 しかし、この主張を認めることは不可能である。決して実現化されない「なぜなら」、心にあらわすことのできない事実について反対するつもりはない。私の異議はより致命的である。いまの場合、一つもなぜならなど存在しないし、事実も存在しないのである。

 我々は鎖によってしっかりと固定され、安全が保たれているか知りたいと願う。我々がすべきことはなんであろうか。しばしば言われるのは、「我々を固定するこの環はしっかりしている、次の環にしっかりとつながっているし、それも次の環と固く結びついているように見える。ある程度の距離から向こうは見ることができないが、我々の知る限りしっかりと結びついている」ということではないだろうか。実際的な人間ならばまず「鎖の最後の環はどこにあるだろうか。それがしっかり固定されていることを確認してから環のつながりを確かめよう」と言うだろう。しかし、鎖というのは新しい環にいくごとに更に新しい環につながっている。そして、どれだけ遡ってみても、すべてがそれに依存しているような最終的な環に近づくわけではない。現象の系列は相互に関係しあっており、それだけで絶対的なものとなることは決してあり得ない。その存在は自身を越えたものと関係しており、そうでなければ存在することをやめてしまうだろう。最終的な事実、最後の環は単に我々の知ることのできない事物というのではなく、実在ではあり得ない事実である。我々の鎖はその本性上、支えをもつことができない。その本質は、最終的には固定を排する。我々はそれが宙に支えもなくかかっていることを恐れるどころか、そうあらねばならないことを知るのである。終端に支えがないのであれば、残りにも支えはない。それゆえ、我々の条件づけられた真理は、単に条件なのである。それは公然と事実ではないものに依存し、定言的に真なのではない。自律したものではなく、仮定から生じている。あるいは、恐らくは更に悪い結果、何ものにも支えがなく、すべてが一緒に崩壊するという運命を待っているかもしれないのである。