2013年12月12日木曜日

酩酊の要諦――暮尾淳『ぽつぽつぽちら』書評



『鬣』第18号に掲載された。

                  
大田南畝によると、酒はのべつ幕なしにのんではならない、時と場所とを選ぶべきである。即ち、1.節供または祝儀のとき、2.珍客のあるとき、3.肴があるとき、4.月雪花の興があるとき、5.二日酔いをなんとかするとき。

『ぼつぼつぼちら』を読んで、ここに登場する「おれ」がなんの定見もなくしきりに酒をのんでいると考えるのは皮相な見方というものである。目的はただ一つ、酔うことにある。

ところで、「酒をのむ」と書くことが実際に酒をのむことと特に直接的な関係がないように、新宿の酒場で酒をのんで酔っぱらうことと言葉を酩酊させることにはなんの因果関係もないことは言い添えておくべきだろう。酒を手放せない作家が常にしらふの言葉を書き、一滴もアルコールを受けつけない者が言葉において酩酊することもあり得るのである。また、酔っぱらった人間が酔ってないと言い張り、酔ってない者が酔った振りをするように、酒がでてきても酩酊しない文章もあれば、酒のことなどなにも書かれていないのに酩酊している文章もある。

もちろん、ここでは暮尾淳氏の言葉が酩酊していると言いたいのである。では、この本で、酩酊は言葉になにをもたらすのだろうか。

第一に、実際のアルコールが血液の流れをよくするように、人間の流れが円滑になる。夢ともうつつともわからぬ女が「夜目にもしろい乳房」と「ハンカチ一枚みたいな腰」をあらわにして誘いかけるし(「春の夜の風」)、「突然あおく透きとおり/びしょびしょ雪が溶けだした/日本の空の曇天に/なつかしいサイレントムービーの/タイトルバックのように消えて行」く「ゼンタロウ」に出会うこともある(「同級生」)。

第二に、時間の流れが円滑になり、過去が現在と混じり合う。「どこにでも気さくに付いてくる/
死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめ」ることもあれば(「ヘール・ボップ彗星」)、「装甲車の残骸が晒されている/草むら」で「灯台草の/乳色の汁で戯れた」少女との指切りを、高層ビルのキャッシュコーナーで紙幣を数えているときに思い起こしもする(「灯台」)。

第三に、自然の流れが円滑になる。酩酊であるだけに、主として水の循環であり、暮尾氏の詩には頻繁に雨が降りしきっている。ここでの水は同じ場所に澱みたゆたい、人を包み込んで安息をもたらす羊水の働きをするのではなく、同じところに止まらず流れ去るかわりに幾度でもあらわれる。どこにいようと安全な定着などないし(「ガラスに額を押しつけて/筏のようなものを見ていたら/ゆ
らりゆらり/波に乗って部屋は進み出し/おれは軽いめまいを覚え」「白い虹」)、身体にたまった水は排出される(「水めし」)、なにより、酔いが停滞を許さないのであり、安息は酩酊の放棄でしかない。

雨のざわざわ降る夜に
雨降るスクリーン現れて
しょぼしょぼしょぼんと音がして
ざあっとトイレの水流れ             (「蕎麦焼酎を飲みながら」)

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